飲み会がしたい2

飲み会がした~い。

と、ちょうど1年ぐらい前にも書いた気がします。

……気がする、どころじゃないです。記録をさかのぼってみれば、1年前にちゃっかり書いてます。「飲み会がしたい」と。

そしてこうも書いてます。仕事の愚痴とか、家庭の話とか、趣味の話とか、

そういう話はしたくないんだ、と。

話たくないし、聞きたくない。そもそもそんなに興味がない。

そもそも、数千円の会費払って、日程調整して、わざわざ電車に乗って出かけて、わざわざ顔を突き合わせて、する話が仕事の愚痴とか、アニメの話とか……。

そんなの電話でいいじゃん!

近況報告? 知らん。他人の近況なんぞちっとも興味がない。逆に、自分の近況を語るのも、僕自身が一番興味がない。

なんなら今、友達とオンラインで通話して、アニメのとか特撮とかの話をしながらこの文章を書いています。やっぱり音声だけで十分じゃないか。その方がリーズナブルだし。

せっかく顔を突き合わせるんだったら、僕はもっと熱い話がしたい。いま何に挑戦してるのか、いま何に熱くなっているのか、そんな話がしたい。飲み会が終わって、帰りの電車で一人になってもまだ熱さが残る、「よーし、あいつには負けないぞ!」と火がついて、帰ったらすぐに作業に入る、そんな飲み会がしたいのです。

飲み会といえば、最近は大人数での飲み会はもう断るようになってきました。多くても10人くらいまで。居酒屋でテーブル二つぐらいまで。それ以上の大人数での飲み会はもう、最初から断るようにしています。

大人数の飲み会って思い返してみても、あんまり楽しいと思ったことないな、と思って。

もっとああすりゃよかった、こうすりゃよかった、あっちのテーブルの方がよかったな、この話題には入っていけないな……。

帰りの電車で反省点しか出てこないんだもの。いったい何しに行ったんだか。

そんで出てくる話題はというと、仕事の愚痴だったり、家庭の愚痴だったり、アニメの話だったり、近況報告だったり……。

ほんと、何しに行ったんだか。

だったらもういっそのこと、最初からいかなくてもいいんじゃないか。「ひょっとしたら楽しくなるかも」ぐらいのレベルだったらもう、最初からいかなくていいんじゃないか。

だいたい、大人数になると往々にして、あまり話したことない人だったり、下手したら初対面の先輩後輩がいたりするものです。

そういう人たちとお酒の席で打ち解けるほどの話術も、盛り上がる鉄板ネタも、こちとら別に持っていないわけですよ。

だからこの先は、自分が楽しめる飲み会かそうでないか、しっかり見極めてから参加しようと思うのです。

あ、でもお花見とかはいちおう声だけはかけてほしい(めんどくせぇな)

冬がはじまるよ♪

今年は「冬がはじまるよ♪」がラジオで流れる前に、冬がはじまっちゃってる気がしますね。

まったくもって、無作法な冬ですよ。入場曲を流さずにいきなり入場してくるなんて。

そういえば、今年の夏、あいつも無作法でしたねぇ。

ラジオで「若者のすべて」が流れてるのに、ずっと居座ってるんだもの。

9月ぐらいにあっちの番組でもこっちの番組でも「若者のすべて」が流れて、一日に二度も聞くなんてこともあったのに、

まだ居座ってやがる。

まあ、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた♪」だから、ピークが去っただけで夏が終わったとは言ってないんですけど。

でも、あの曲はどこのラジオDJも「夏ももう終わりだなぁ」と思った時に流す曲です。そして、リスナーも「夏ももう終わりだなぁ」と思いながらしみじみと聞くんです。

だから夏よ、とっとと家に帰れ! 下校のチャイムはもう鳴ってるだろ!

「街灯の明かりがまたひとつついて帰りを急ぐよ♪」って歌ってるんだから、夏も急いで帰りなさい!

無作法といえば、秋も無作法です。今年は秋をあまり感じなかった。まったく、秋の定番のあの曲がラジオで流れてるというのに……。

……秋の定番のあの曲?

そんなのあったっけ?

童謡とかだとちらほらありそうだけど、ラジオじゃ流れないしなぁ。

そう考えると、秋って無作法の前に不憫なやつなんです。

秋が始まるときにはその期待感よりも「夏の終わり~♪」と名残惜しそうに歌われ、

秋が終わるときは惜しまれるどころか「冬がはじまるよ♪」と楽しそうに歌われる。

バンプには「冬が寒くて本当によかった♪」なんて言われる始末。秋は中途半端な気温で悪かったな。

毎年こんな感じなので、とうとう秋がへそを曲げて今年は来なかったのかもしれません。

ふだんはろくに期待もしてないくせに、いざ秋が短いと「今年の秋、短くない?」「このまま夏と冬だけなのかな。やだなぁ」と、人間ってやつは勝手です。

秋だって楽しいじゃないか。オクトーバーフェスとか、ハロウィンとか、秋のイベントですよ。

そもそも、こういうイベントは元々は収穫祭でしょ? 実りの秋。楽しい秋。世のミュージシャンはもっと秋の歌を歌うべきですよ。

たとえば、「飲める飲める飲めるぞー、酒が飲めるぞー♪」と毎月何かしらのイベントで酒を飲む唄「日本全国酒飲み音頭」で11月はどう盛り上げられているかというと……。

「11月はなんでもないけど、酒が飲めるぞ~♪」

……もうやめようか、この話。

引き算、掛け算、割り算

久々に、四角大輔さんの話をラジオで聞いていたんです。

芸術家の日比野克彦さんとの対談だったんですけど、大輔さんの方がゲストという立場で自己紹介みたいなところから話していく感じ。「ミニマリズムとは何ぞや」いたいな感じで。

そういった話を聞きながらふと思ったのが、「僕の生き方って、『足し算』ではないかもなぁ」ということでした。

人生のステップアップに合わせて、欲しいものを手に入れて、必要なものを買って、という生き方ではないなぁ、性に合わないなぁ、と。

むしろ、どんどん荷物が少なくなってる感じがします。そういう意味では、僕もミニマリストに近いのかもしれません。いろんなものを「いらねぇや」と捨ててます。

たとえば、飲み会に行ったとき、腕時計の話になったんです。

どんな腕時計をしてるのか、いくらしたのか、奮発したよー、そんな話。

でも、僕はその話題に全く入れなかったんです。

なぜなら、そもそも僕、腕時計してないんです。いらねぇや、って。

時計が目に入るところにあると、時間を常に意識してせかせかしちゃうので、思い切っていらねぇや、って腕時計するのやめたんです。

最近は、スマホカバー使うの、やめました。重くて邪魔だし、いらねぇや、って。

スマホ落としたらどうするんだって? 落とさなきゃいいんじゃないかな。

そうやって振り返ってみると、僕は自分の生き方において、足し算よりも引き算の方を大事にしてるんじゃないかな。欲しいものを足していくよりも、いらないものを引いていく。

とはいえ、僕も仙人じゃないので、何もかも捨てて山奥で裸一貫で霞を食って生きていきたいわけではありません。

ゼロになるまで引き算してるわけじゃなくて、好きなことややりたいことはちゃんと残しておいて、引き算で生まれた時間で好きなことをする。

つまり、今度はかけ算をしているわけなんです。好きなこと、やりたいことに使う時間を、何倍にも増やしていく。

たとえば、SNSを見る時間とか、ゲームする時間とか、誰かの悪口を言う時間とか、そういうのはどんどん引き算していって、空いた時間をモノづくりに当てる。やりたいことに対して、もともとの何倍もの時間を当てられる。

だからと言って、好きなことばかりしているわけにもいかない。働かなきゃいけないし、畑も耕さないといけない。「出来上がったZINEを印刷・製本する」という、おもしろくもなんともない作業もしなければならない。

だから、1日のうちで何にどのくらい時間を使うかを、きちんと割り振る。これはわり算です。

こんなふうに考えていくと、なるほど、僕の生き方は、引き算・掛け算・割り算で成り立っているんだなぁ。あれもこれもと足し算していくんじゃなくて、いらないものを引き算して、やりたいことを掛け算して、時間を割り算していく。

そして最後に、ホントに必要なものを、最後に足し算すればいいのかな、と。

この前は6000円のちっちゃい台車を買いました。イベントの時の運搬に必要だったんで。軽くて使いやすいんですよ。腕時計の話はできないけど、ちっちゃい台車の話なら大歓迎ですよ。

時間の流れが早い?

一般的に、年を重ねるごとに1年の感覚がどんどん短く感じるようになる、って言いますよね。もう6月、もう8月、もう10月、すぐクリスマスが来て、大みそか、お正月。そんなバカな。だってついこの間もお正月だったじゃん! このまえ初詣行ったばかりなのに、って。

僕も御多分に漏れずそのように感じていまして、そのうち人生なんてあっという間なんて焦りを感じていたんです。

……ですが。

この前、吉祥寺に行った時のこと。

町を歩きながら、そういえば去年の今ごろ、初めて吉祥寺を訪れたんだよなぁ、と思い出します。その時は吉祥寺に新しくできたZINEのお店の見学に行っていて、あれからそこが主催するイベントにも何回か出展させてもらって……。

え、これ、ぜんぶ1年以内の話?

体感では1年半ぐらいかと思ってたのに。

ほかのことを思い出してみても、「あれからまだ1年たってないの?」なんて驚くこともちらほら。

まあつまり、「1年前って何やってたっけ?」と振り返ってみると、1年ってちゃんと長いんだなぁ、ということに気づいたんです。

すなわち、短く感じていたのは「1年の長さ」じゃなくて、「ルーティンの感覚」の方だったんですよ。

毎年同じように年末が来て、大みそかになって、お正月になって、というルーティン、これが短く感じるようになっていたんです。

「もう8月!? いやだ~! 早い~!」というのもおんなじで、1月、つまり「お正月」というルーティーンを基準に考えちゃうから、時間の流れが速いように感じちゃう。

ということは、基準となる1月にルーティーンのようにお正月を過ごすのをやめて、毎年何か違うことをすれば1年を短く感じることがなくなる、のかもしれません。

時間の流れと言うと、1日の長さも早く感じる日もあれば長く感じる日もあります。

この前、日中は働いて、夕方になって飲み会に行って、二次会にも参加して、酔った友人の介抱をして、ようやく帰路につこうという時にふと思ったのです。「ふう、ようやく一日が終わる。長い一日だった」と。

あれもこれもと詰め込んだ一日を送ったら、いつもよりも長く感じた。

ということは、予定をいっぱい詰め込んだ方が、1日が長く感じるんじゃないか。

つまり、生き急いでいるように生きる方が、実は一日が長く感じる!

なんてこった! あれもこれもと予定を分刻みに詰め込んで、生き急いでいるように見えるような人が、実は人生をゆったりと楽しんでいたなんて!

バズらない、突き刺され

先日、とあるイベントに出店した時のお話。

その日は10時間っていう長丁場だったんですよ。

会場は吉祥寺のパルコの地下一階。お客さんも文学フリマの時とは少し違う客層。あまり民俗学に興味なさそう。

つまり、アウェーなんです。

とはいえ、このイベントに参加するのは3回目なのでアウェーなのは百も承知だし、アウェーだけどそれなりに売れることもわかってるんです。

それでもやっぱり苦戦しました。さっぱり売れない、売れても1,2冊、そんな時間が後半は続きました。

今日はダメだなぁ、まあいい、アウェーでも学ぶことはあるさ、と半ばあきらめていた最後の1時間。そう、10時間の最後の1時間。いきなりこんなお客さんが現れたんです。

「ここに置いてあるのぜんぶ買うといくらになりますか?」

全部!?

その時は「民俗学は好きですか?」シリーズのうち、vol.5を除いた8種類がブースに並んでたんです。

「3200円です……」と答える僕。

「じゃあ、ぜんぶお願いします」

とお客さん。

ホントに全部っすか!? 今言ったとおり、3000円しますよ!?

MJじゃん! マイケル・ジャクソンの買い方じゃん!

3000円もあったら、ここからだったら特急で長野まで行けるよ?

3000円もあったら、ちょっとした飲み会に出席できるよ?

3000円もあったら、上手くやりくりすれば映画2本ぐらい見れるよ?

その貴重な3000円を私のために使うというのか?

こうして、最後の最後にして在庫は一気にはけたんです。

そして、思うんですよ。

僕が目指すべきものはこういうことなんじゃないか、と。

「より多くの人に」とか「ひとりでも多くの人に」みたいな作り方・売り方じゃなくて、「ひとりの人に深く突き刺さるものを作って、売る」なんじゃないかって。

「民俗学エンタメZINE」なんて銘打ってる時点で、興味ある人しか買ってくれないわけですよ。いきなり間口を狭めているわけですよ。マニアックなわけですよ。だったら、「より多くの人に」じゃなくて「たった一人に突き刺さる」を目指すべきでしょう。

今の世の中、やれ「フォロワー数何万人」とか、「チャンネル登録者数何万人」とか、人数の多さばかり取りざたされて、この「たった一人突き刺さるものが作れたか」は評価されにくいんじゃないでしょうか。

たしかに、「1万人の人が見たくなる動画」を作るのは大変です。

でも、「誰か1人が1万回見たくなる動画」を作るのはもっと大変。

さらに言えば、家族や友達など好みをよく知ってる特定の人に向けたものではなく、「見ず知らずの誰か1人が1万回見たくなる動画」なんて、もっと大変!

だけど数字の上ではどっちも同じ「1万回再生」です。

さらに言えば、「なんとなく見た人が1万人いたよ再生」とか、「熱心に見た人が100人いたよ再生」とか、見た人がどれだけの熱の入れようかを測る術はないわけで。

何でもかんでも数字で表せる時代だからこそ、数字では表せない価値ってものにもっと注目してモノづくりをしていきたいと思う今日この頃です。

「バズらない、深く突き刺され」をこれからのテーマにやっていこうかしら。

ちなみに、そのイベントは「吉祥寺ZINEフェスティバル」というのですが、明日もあってまた出店します。

畑は遠くなりにけり

畑を借りて二月ほどです。農園からもらったテキストとにらめっこしながら、野菜を育ててます。わからないことは農園のアドバイザーに聞いたり、ネットで調べたり……。

大人がテキストを見ないと野菜ひとつ育てられないって、それってどうなんですかね……?

だってしょうがないじゃないか。野菜作りなんて習ったことないんだから。

そう、「野菜作りなんて習ったことがない」んですよ。

小学生の時、ナスやプチトマトを育てたことはあるんですけど、2年生の時にやったっきりなので、もちろんほとんど覚えてません。

そもそも、義務教育で「技術」も「家庭科」も「音楽」も習うのに、「農業」という教科がないなんて、おかしくないですか?

もちろん、音楽を学ぶことも大事です。NO MUSIC NO LIFE。音楽なくして人生なし。

でもそれ言ったら、NO FARM NO LIFEじゃないですか。農業なくして生命なし。

学校の部活でも、演芸部とか農業部とか、あるところにはあるんだろうけど、少なくとも僕が通った学校にはなかったですよ。

ウチの中学はやたらとデカい校庭のほかに、体育館があって、球技コートがあって、武道場まであったんですよ。一個ぐらい潰して畑にしてもかまわないと思うんですけどねぇ。「プロサッカー選手がいない国」よりも、「プロ農家がいない国」の方がヤバいんだから。

それでいて、「日本の食料自給率が低い」ってぼやいてるんですよ。

だってしょうがないじゃないか。学校で農業を教わってないんだから。縁遠い職業が選択肢に入るわけないじゃないか。畑は遠くなりにけり。

畑だけじゃなくて、海もなんだかどんどん都会から遠ざかってる気がします。

浦安の方に行くと、埋め立てられて海岸線が何キロも遠くなってる上に、海岸沿いは工場だディズニーランドだで全然海にたどり着けない。「浦安物語」を読むと、あの時代はもっと海が身近に感じるんだけどなぁ。

民俗学を少しかじって思うのは、都市生活ってめっちゃ「不自然」なことをやってるんじゃないか、ということです。都市のマンションで暮らしたり、独り暮らししたり、電車に乗って通勤通学したり。歴史的にはたかだか数十年ぐらいしかやってない生活スタイルのはずなのに、なんかそれが常識みたいな感じになっちゃってる。

でも、「近所に畑がない」「ふつうに生活してると、土にも植物にも触らない」「仕事場に歩いていけない」、これってよくよく考えると、不自然なことなんですよ。

不自然だからよくない、東京は野原に帰れ! とは言わないけど、不自然なことはやっぱり不自然で、それを常識みたいな顔して生きてるのも、やっぱり不自然なことなんじゃないでしょうかね。

畑を借りました

畑を借りたんですよ。

2畳ほどの小さな区画を、月6500円で借りてます。

うちの近所にはいくつかこういう貸農園がありまして、いろいろ比較してたんですけど、地元だとここが一番安いです。

どうして安いのかと言うとその理由はカンタンで、

どの駅からも遠いんですよ。

3つある「最寄駅」、どの駅から歩いても30分以上かかるんですよ。バスを待っても30分に一本。

ただ、ウチからは自転車で10分ちょっとで行けちゃう。

これはいい場所を見つけたぞ。

もう少し探す範囲を広げればもっと安いところもあるけど、そこだと交通費やらお昼ごはんやらが通うたびにかかって、結局お金がかかっちゃう。

今度借りた畑なら、自転車でも歩きでも行けるから交通費はかからないし、うちでで昼ご飯を済ませてからでも十分作業できる。おまけに指導員の人までいるので、基本は自分の自由にやりつつも、不安なところは相談できる。この前は肥料の撒き方を教わりました。

そもそも、地元に貸農園がいくつかあって、比較して選べるって時点で恵まれてるなぁ、と思います。

都心だとたぶんこうはいかない。貸農園どころか、畑そのものがないんだから。

ウチの地元は首都圏のベッドタウンとしてかなりの人口を抱えてるけど、少し郊外へ行けば農地がたくさんあるんです。

とくに、畑に行く途中で大きな道路を二つ横切るんですけど、二つ目を横切ると景色は一気に畑だらけになって、心も自然と農作業ムードに切り替わるんですね。

おまけに、家から畑まで行く道中にコンビニもスーパーもあって、郵便局まであるので、なにかと便利。

あろうことか農園の目の前はホームセンターなんです。もはや、便利オブ便利。欲しいものは全部ここで買えちゃう。

まあ、いまのところは、農園の備品で間に合ってるんですが。

そんなこんなで、いまはスナップエンドウくんとイチゴちゃんを育ててます。

畑に行くのは週に一度。2畳ですから。

葉っぱの状態をチェックして、余分なつるが伸びてきたらちょん切って、雑草が生えてきたらひっこ抜いて、土が乾いてきたら水を撒いて。害虫に悩まされて。アリが這い回り、蜘蛛が顔をのぞかせる。空を見上げれば白い雲があり。

農園からもらったテキストとにらめっこしながらやってます。

どうも僕は、「次の作業工程がある」というのが楽しくてたまらないみたいです。これはZINE作りも一緒です。

子供のころから畑仕事をやってみたいなぁ、って気持ちはどこかにあって、今日まで潰えることがなかった、そういうことです。

正直な話、欲しいのは野菜や果物よりも、それを育てる技術の方なんです。「農地さえあれば、何とか生きていけるよ」と言えるくらいの。お稽古事を始めた、と考えれば、月6500円は安いものです。

「数年後に畑を処分したい。タダでいいから引き取ってくれ」という都合のいい方がいらっしゃいましたら、是非ともご連絡を。

「買い替える」なんて考えない

どうも僕は「やめる理由が見つかるまで延々と続ける性格」のみたいです。

たとえば、中学生の時に初めて携帯電話を買ってもう20年近くになるんですけど、

これまで持った携帯電話の台数は、3台。つまり、機種変は2回だけ。

今のスマートフォンが使い始めて3年だから、その前の2台は平均して7,8年使った計算になります。

どうしてそんなに機種変しないのかと言うと、「壊れなかったから」「使えたから」、つまり、「機種変しなきゃいけない明確な理由がなかったから」

逆に、じゃあなんで機種変したのか。1回目の時はなんで機種変したのかもう覚えてないけど、2回目はつい3年前なのではっきりと覚えてます。ガラケーの通話機能が使えなくなったからです。電話なのに電話できないのはさすがにマズいと思って変えたんです。

そういえば、小学校の頃は1年生の時に買ってもらったスーパーマリオの筆箱をずっと使ってました。理由はもちろん「まだ使えたから」。

そしてなんと、そもそも今この文章を書くのに使ってるテーブル、これが小学校に入るときに買ってもらった学習机なのです。なんと、もう四半世紀使っているということに、今気づきました。

今使ってるベッドは中学校に入るときに買ってもらったやつだから、これまた20年以上同じベッドで寝起きしていることになります。

どちらも、いまだに立派に原形をとどめてます。買い替えるための明確な理由がないから、買い替えない。それだけ。

趣味はラジオを聴くこと。ラジオを受信できるウォークマンをスピーカーにつないで聞いてます。まさに今も、ラジオを聞きながら書いてます。

10年前に買ったウォークマンなので、あちこち壊れ始めていて、実は移動しながら使うと接触が悪くなって音楽がよく聞こえません。

動かすとまずいんだけど、ずっとテーブルの上に置いていればちゃんと使える、ということでウォークマンなんだけどウォークすることなく使ってます。

いつ買い替えるんだと聞かれればもちろん、「完全に音が出なくなった時」。

新機種が出たとか、新商品が出たとか言われても、「へぇ~」と聞き流してます。

こうやって振り返ってみると、そういえばそもそも買う時に「いつか買い替える」ということを前提にしていないなぁ。

ボールペンや消しゴムのような明らかな消耗品は、さすがにそのうち買い替えるだろうと思って買うのだけれど、そうでなければまず「買い替える」という発想がそもそもない。

とはいえ、別に一生使い倒してやろう、という覚悟があるわけでもない。

本当にただただ、「買い替える」という発想がないだけなのです。

スマホを捨てよ、海に潜ろう

ゼンカイのあらすじ

ゼンリョクゼンカイでスマートフォンを忘れたノックさん。気づいた時には時すでに遅し。電車はドンブラコと最寄り駅から離れていく。しかし、スマートフォンがないことで、日常のちょっとした考える時間、すなわちシンキングダイムの重要性に気づくのだった!

「考えること」の大切さを繰り返し説いてきた哲学者で文筆家の池田晶子さんは生前、テレビもネットもやらなかったそうです。インターネットで世界中がつながっても、ガラクタのような情報が増えるだけだ、と。たしかにそうかもしれないですね。

それよりも、思索の世界に入り込めば何時間でも楽しめる。だから彼女にはテレビもネットも必要なかったのだとか。

なーんとなくわかる気がしますね。彼女の場合「自分とは何か」「善悪とは何か」「宇宙はなぜ存在するのか」なんて哲学的なテーマをいくつも持っていて、それについて考えることでいくらでも時間を費やせた。いわば、頭の中に膨大な「思索の海」を抱えていて、どこまでもどこまでも潜っていけた。

問題はこの「思索の海」は日ごろから「考えること」をしていかないと、水が溜まっていかないということ。

ふだんから考えることをしないで、テレビやスマートフォンばっかり覗いていると、水が全然たまりません。プールぐらいの浅さのところを潜って、すぐに底をついておしまいです。

そんなんだから急に「おうち時間」なんて言われると何していいかわからなくなるわけです。

意識的にオフラインの時間を作って、何か考えてみたり、逆に無心になって何も考えなかったり、そういう時間が必要なんです。四六時中スマートフォン片手に、社会情勢やらトレンドやらの最新情報をチェックしてる人が賢くて偉い、なんてことはないんですよ。むしろ、「思索の海」に水が溜まってないのにバカスカ情報だけ取り入れてる人の方がバカなのかもしれないですよ? 水槽に水が全然ないのに魚を放流しまくってるようなものですから。

だいたい、ネットでデマに踊らされてる人ってのは、むしろ普段からスマートフォンをいじくって色んな情報を見てるはず、の人ですから。知識や情報量の多さが人を賢くするわけではないんです。

まあ、テレビやスマートフォンに比べると、読書やラジオはそういうオフライン時間にオススメかもしれません。映像がない分、想像力を働かせる必要があるから、知識や情報を吸収しつつ、ちゃんと考える時間も取れる。

テレビが普及し始めた時に「一億総白痴」なんて言われて、そんなことあるまいと思ってたけど、イヤあんがい、少しずつそうなっていたのかもしれませんね。

スマホを忘れただけなのに

スマートフォンを忘れて家を出てしまった。気づいた時にはもう遅い。駅の改札をくぐってしまったうえ、駐輪場に自転車を入れてしまったから、いまから出すと100円かかってしまう。

仕方ないので、そのまま電車に乗った。夜まで帰れない予定だし、今日はこちらから電話だのLINEだので連絡を取る用事があるのだけれど、いまから取りに帰るとお金も時間もかかるのだから、仕方ない。

それに、令和になった今でも、駅前を中心に意外と公衆電話は残っている。問題ない。

しかしこうやってスマートフォンを手放してみると、その分、スマートフォンをのぞき込む人の姿が目に付く。歩きスマホだったり、スマートフォンで音楽を聴いてたりで、こちらに気づかずにぶつかりそうな人もいる。2台同時に操る猛者まで見た。

それに引き換え、こちとらちょっとのスキマ時間にSNSを見ることもできない。いや、普段からあまりスマートフォンを触らないようにしているのだけど、それでも日ごろけっこう触ってしまっていたんだなぁ、と気づく。

いったい、僕たちは一日にどれほどの時間をあのうっすい板切れごときに費やしているというのだ。ほんの10年前まで存在もしなかったくせに。

スマートフォンに触れないとなると、暇な時間は「考えること」しかできない。作りかけの新作の原稿を考えたり、前に読んだ漫画の内容を思い出したり、保留にしていたことを考え出してみたり……。

けっこう楽しいじゃないか。人間は考えるアシなのである。考えることは楽しいのだ。

もしかして、人類はスマートフォンによって、こうした日常のちょっとした「考える時間」を奪われているんじゃないのか。

ネット検索ができないから、気になったことはずっと気になっている。

グーグルマップが見れないから、自分で道を思い出すしかない。

天気予報が見れないから、空模様から予測するしかない。

ところがスマートフォンがあると、こういう「ちょっとした考える時間」がどんどん奪われていく。

よくない。これはよくない。特に、大人になると、ほかにいろいろ考えなければいけないことが出てきて、ただでさえ「自由に考えられるちょっとした時間」が減っていくというのに、残った時間までも板切れごときに吸い上げられるなんて、時間のピンハネじゃないか。

最近、回転ずしやでの迷惑行為が世間を騒がしていて、「こんなことして動画をネットに挙げれば炎上するって、ちょっと考えればわかるでしょ?」と思うけど、もしかしたら今の子供たちはその「ちょっと考える」ための時間を、大人が作ったスマートフォンに奪われているんじゃないか。大人が子供たちから時間を吸い上げておいて、『よく考えろ』もないもんだ。

そんなことを考えながら、お昼ごはんを買おうとファミリーマートに入る。

するとなんと、レジの上にモニターがあって、そこで映像が延々と流れされていたのだ。

レジを並んでいる十数秒間を退屈しないように、なんだろうけど、冗談じゃない。「レジを並んでいる十数秒間にちょっと考える時間」まで奪うつもりなのか!

実際、映像が流れて、音まで出ていると、どうしても思考を止めてそっちを見てしまう。よくない。これは実によくない。

これからどんどんデバイスが発達してどんどん便利になると、そのぶん、どんどん「ちょっとした時間」が奪われていくんだろうなぁ。

人間は考えるアシだ。だったら、考えなかったら、ただのアシじゃないか。これを俗に「悪しきこと」というのです。