限界を知らないと先に進めない

いよいよ明日、三回目の文学フリマです。

楽しみ、と言うよりも緊張と不安の方がまさってるんですよ。

……ほんとに売れるの?

三回目だけど、やっぱりまだまだ不安です。これ、慣れる人いるん?

毎回毎回、テストを受けに行くような感覚ですね。これまでの成果が試されている気分。

今回はかなり時間に余裕をもって、作品作りはもちろん、それを売るための準備もこれまで進めてきました。

でも、その努力が報われなかったら?

特に今回は不安が大きくて、なぜなら、前回の倍の部数を販売するつもりなんです。

すでに、文学フリマの半月ほど前には刷り上がっています。もう逃げられないぞ。ああ、胃液を吐きそう。

まあ、これまでの部数が少なすぎたんですけどね。コロナ禍なんだし、そんなに客は来ないでしょ、と少なめに刷っていたら、瞬く間に売り切れてちゃったので、今回、もっと部数を増やそうと思い立ったんですよ。

なにせ、前回の文学フリマ東京は、2時間で売り切れてちゃったのですから(イベント自体は5時間)。短い文学フリマだったなぁ。ほんとにコロナ禍だったのか?

これは、いくら何でも部数設定が弱気すぎた、というわけで、今回は倍の部数を刷ったのですよ。

ただ、「倍の部数」と決心するまでにもまたいろいろありまして。

「1.6倍」にするか「2倍」にするかで、一週間ぐらい悩みました。

結果、売れ残るのを覚悟で、「2倍」にすると決断。果たして、どうなることやら。

まだ、自分の限界が見えないんですよ。いったい何部売れるのか、という限界が。

「限界は超えるためにある!」

「いや、限界は超えないためにある!」

「限界まで足掻いてみる!」

ヒーローものだったりアニメだったりで、いろんな「限界」の話が出てきます。

そんななか今の僕の心境は

「限界を知らないと、先に進めないじゃないか」

自分の限界がどこにあるのかを把握していなかったら、その先に進みようがないんですよ。

そうです。私、限界の先に進む気、満々です。

限界が見えてるからこそ、その先に進もうと努力する。逆に言うと、限界がわからない状態では、努力できないんですよ。

限界よりもその先へと進むために、まずは自分の限界がどこにあるかを知りたいんです。

だから、「売るための準備」「努力」と書いたけど、それが本当の意味での「努力」になるのは、限界が見えて、その先に進もうとするとき。

……まあ、そもそも「努力」って言葉はあまり好きじゃないんだけど。「オレ、やってますぜ感」が鼻につく。誰に? 僕自身に。

だいたい、いざ当日になって、ブースを設営したら、もうほとんどやることはない。座ってるだけ。努力もへったくれもないのです。過剰な売り込みは逆効果だと思うし。

というわけで、明日はいよいよ文学フリマです。ここにきて、もうやることはなにのないのに、焦りだけを感じています。

でも、まだまだまだまだ止まんないよ。鼓動がまだだって鳴りやまない!

政治に興味があるヤツがえらいのか?

選挙が終わりました。衆議院選挙の話です。

選挙期間中、あちらこちらで「選挙に行こう!」「投票しよう!」と、もううるさいったりゃありゃしない。

どうしてこうもしつこくしつこく言うんですかね。

だって、人ってしつこく言われるほど、反発したくなるものじゃないですか。

「勉強しなさい!」「うっせーな! 今やろうとしてたのに、やる気なくなったんだけど!」という、アレですよ。

人はしつこく言われれば言われるほど、反発したくなるものなんですよ。でないと、「うっせぇわ」なんて曲、流行ったりしません。

なかには「投票しろ!」などと言う、もはや脅迫じゃないかという物言いのポスターもありました。そういう高圧的な言い方をしたら、むしろ足が遠のくのではないかと、なんで考えない?

しつこく言いすぎると逆効果。じゃあ、どうしたら投票率が上がるのか。

……行きたくないものはムリしていかなくていいんじゃないかな。この国には「自由」があるんだから。

そもそもの話、他人を自分の思い通りに動かそう、という発想自体が、ちょっとズレてると思います。たとえそこに、選挙とか投票とか政治のような大義名分があったとしてもね。

選挙期間中、これまたよく聞いた言葉が「政治に関心を持とう」。

……政治に関心を持つ奴がそんなに偉いのか。

政治に関心あるやつがやってることって、右も左も口汚い罵りあいと貶めあいばっかりじゃないですか。「#国会中継」みたいなツイッターなんて、ほんとに子供に見せられるようなものじゃない。

はっきり言って、人として、「下品」なんですよ。どんなに立派なことを言っていても、その言い方や振る舞いは、「下品」なんです。

人は話の内容よりも、その話し方や立ち振る舞いに品があるかどうかを重視するんです。

たとえば、街頭演説している男がいて、とても立派な主張をしていたとしましょう。

でも、その男が全裸でパンツすら履かずに演説をしていたとしたら? 演説の内容がどんなに立派なものだったとしても、誰一人耳を傾ける者はいないはず。なぜなら、「下品」だからです。

若者に政治に関心を持ってもらいたかったら、政治に憧れを持ってもらえばいいんです。憧れの力は強いです。ヒーローに憧れて変身ポーズをまねし、サッカー選手に憧れてサッカー部に入り、ロックスターに憧れて歌い方やファッションをまねする。いくつになっても、人は憧れで動きます。

ところが、「政治に関心ある大人」に若者は憧れない。なぜなら、彼らは「下品」だからです。

「下品」なヤツには憧れないし、「下品」なヤツとは関わりたくない。人として、当然の発想です。

そして、「下品」なヤツが、「下品」なくせに「俺は政治に関心があるから偉いんだ」と言わんばかりに「投票しろ!」などと言う。

人間が見えていないんだなぁ。「人間とは何か」がわかっていない。

しつこく言い続けたら、人間はどう思うか。

高圧的な言い方をされたら、人間はどう動くか。

罵りあいを見せられたら、人間はどう動くか。

「下品」な人間が、周りからどう見えているか。

だから僕は、「政治に関心を持て」とは言いません。「人間に関心を持て」と言う。「人間とは何ぞや」と問い続けろ、と言う。

人間に関心を持つとはどういうことか。もちろん、生の人間と触れ合うのが一番いいけど、優れた文学や、歌の歌詞、芸術、歴史や文化に触れることでも人間は学べます。他人が苦手な人でも、自分の内面と向き合う、と言う学び方もあります。

政治に関心を持つ前に、まずは人間に関心を持とう。むしろ、人間に関心がないのに、何を勘違いしたのか偉そうに政治に関心を持つヤツ、これが一番めんどくさいんです。

販売ブースのあれこれ

今月末には「文学フリマ東京」があります。3回目の参加ですね。

文学フリマが近づくと、毎回毎回「販売ブース、どうしようかなー」ということを考えてます。

どこのブースも、その世界観にあったブースを設営していて、やっぱりそういうところで負けちゃだめなんです。「こだわったブース」と「手を抜いたブース」だと、やっぱり「こだわったブース」の方が目に留まりやすいんですね。

というわけで、凝りに凝ったブースってやつを考えてみるわけなんですが、ここで一つ問題が。

どんなに凝りに凝った、おしゃれなブースを設計したところで、持ち運ぶことができなかったら意味ないんですよ。

すぐに設営できて、すぐにバラすことができないといけない。僕の場合は電車で移動するので、カバンひとつで持ち運びできないといけない。

となると、素材も、仕組みも、「トランクひとつだけで飛び回る」ということが大前提になるんです。

重い素材、軽くてもかさばる素材は、持ち運びに不便なのでNG。

それでいて、棚とかを作るときは、それなりの強度がないとだめ。おまけに、持ち運びするためにはバラバラにしないといけない。つまり、ばらせる構造じゃないとだめ。

そんな都合のいい素材はないかと、ある時はホームセンターをうろうろ。またある時は合羽橋をうろうろ。さらにある時はカッパのコスプレで街をうろうろ。いや、カッパのコスプレはしてないな。

せっせとZINEだけ作っていればいい、というわけじゃないのです。

いや、せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にも手を抜きたくはない。

たとえば、ステージに立って歌う、となると、「衣装はどーでもいい」とはならないでしょう。「演出もセットも、なんでもいい」というわけにはいかないでしょう。「歌さえ上手けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはいかないのです。

たとえば、飲食店をやる、となると、「内装はこだわらなくていい」とはならないでしょう。洋食屋ならヨーロッパっぽく、お寿司屋だったら純和風に、ハンバーガー屋はアメリカンに、喫茶店はアンティークに、内装や雑貨や音楽で世界観を表現する。これ、どこもやっていること。「メシさえ旨けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはやっぱりいかんのです。

それと全く同じです。

せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にもこだわりたい。いや、販売ブースまでを含めて、僕の一つの作品なんです。

むしろ、世のライターだ作家だと言われる人たちが、原稿だけ書いて、その販売は完全に本屋まかせ、ということの方が、僕には不可解です。

さらに言えば、出版社ですら販売は書店まかせ、というのが僕には不可解なのです。

製作から販売まで全部やる。大変だけど、正直めんどくさいけど、楽しいです。

夢の結実点はどこだ?

電車の中で映像の広告が見れるようになったのはいつからでしったっけ? 僕が学生の頃にはまだなかったように思うから、ここ数年のような気もしますけど、いつしかすっかり当たり前のものになってました。

電車に乗りながら、ぼんやりとCMを見てたんです。どうやら、大手の予備校のCMみたいです。

そのCMは、虫が好きな女の子が主人公で、「女の子なのに虫が好きなんて変なのー!」とからかわれがらも、家族の励ましもあって、好きなものを好きなまま、成長していきます。イイハナシダナー。

やがて女の子は大人になって虫の研究者となり、なんか顕微鏡を見てたら大発見したらしく、「なにかの生物学賞」を日本人で初めて受賞するのです(あ、この話はCMの話で、フィクションです)。いやぁ、「なにかを好きだ」ということの原動力は素晴らしい! イイハナシダ……。

……「好き」の結実点は、「成功」や「栄光」でいいの?

……なにかを「好き」って気持ちは、そういった形で報われないといけないの?

じゃあ、虫が好きだけど研究者にはならずにこれといった大発見もせずに、でも週末にはカブトムシを探して森に向かうような大人は、好きなもので成功したわけじゃないから、報われてないのか?

そもそも、「好き」が報われるって何だ?

「努力」なら、そりゃ、報われてなんぼですよ。「負けちゃったけど惜しかったね」でいいやと思って努力する人はいないわけです。報われてなんぼです。

でも、「好き」はまた違うでしょう?  報われたくて努力する人はいるけど、報われたくて好きになったわけじゃないじゃん。

じゃあ、「好き」の結実点ってどこだろうと思ったら、それって「好きであり続けること」なんじゃないか、と思うんです。

好きで好きで始めたことでも、ずっとやり続けてたら、どこかでちょっとキライになってしまうタイミングってものがあります。

好きでやってるんだけど、努力しても結果が伴わず、報われなかったとき……。

それでもやっぱり好きでいられるか?

だって、「好きだったものが、キライになる」ってこんな悲しいことはないでしょう? それを好きだった日々を自分で否定しなくちゃいけないなんて。

だからやっぱり、「好き」の結実点は「今も好き」「ずっと好き」「たとえ報われなくても、好き」なんです。

ドリカムも歌ってるでしょ。「報われなくても、結ばれなくても、あなたはたった一人の運命の人 あああ~♪」と。

だから、あのCMのオチは、「決して思い通りの人生じゃないけど、ふと道端で虫を見かけて、やっぱり虫が好きで、ついつい微笑んじゃう」とか、そんな感じがいいと思うのです。

……ただね、これ、残念なことに、残念なことに?予備校のCMなんですよ。「みんな、大学行こうぜ!」って言わなければいけないんです。

まかり間違っても、「虫が好きすぎて、大学を中退して、虫取り網片手にアフリカへと向かう」みたいなオチであっちゃならないんです。クライアントが許しません。クライアントが報われません。

……CMって、難しい!

感覚でとらえる民俗学

ここ最近は、「日本の民俗の世界を、感覚でとらえることはできないか」なんてことを考えています。

どこの学問もそうだと思うけど、日本民俗学は学問だから、知識と論理をもとに語られるんですね。知識をもとにして論理的に考察を進める。結論には根拠が必要で、そのためには知識が必要で、根拠となる知識は、多ければ多い方がいい。

だけど、僕は学者ではなく、物書きなのです。あんまりそういった「知識と理論」に偏り過ぎるのもどうなんだろう、なんて考えるのです。ちょっと堅くないかな、って。

もっと感覚的なとらえ方をしたっていいんじゃないかしら。「これ、おもしろい」「美しい」「ワクワクする」「なんか怖い」、そういった、感覚的なものを中心にして文を書きたい。

いわば「それってあなたの感想ですよね?」ってやつですね。

……感想で悪いか!

でも、僕が作っているZINE「民俗学は好きですか?」は論文でも教科書でもなく、「読み物」です。「正しい」よりも「おもしろい」を重視して作っているわけです。

それに、昔の人たちは身の回りの世界を、知識や理屈ではなく、もっと感覚的にとらえていたはずなのです。「この神社にはこんな祭神がいて、こんな歴史があって」なんて堅苦しいことは考えずに、「なんかここ、めっちゃ神々しい!」という感覚で拝んでいたはず。

そんなことを考えながら、この前、某刑場跡を訪れました。

場所を具体的に書かないのは、僕がそこに対していい印象を持っていないからです。

駅を降りたってから、「その場所」に近づくにつれて、なんだか空気がひずんでいるような感覚を覚えました。

空気がひずんでいて、なんだか一刻も早くそこを離れたい、そんな気持ち。歩くだけで、なんだかげっそりと疲れる、不思議な感覚。そこに住んでいる人からすれば、すごい失礼な話。

……たしかに僕は、「日本の民俗の世界を、知識や理屈ではなく、感覚でとらえたい」とは言いました。

……「霊感が欲しい」とは言ってない!

まあ、これはいわゆる「霊感」とは違うと思うけど。

なぜなら、うちの地元にも「処刑場跡」はあるんだけど、そこへ行っても特に何も感じないからです。

地元の処刑場跡って場所は今はすっかりおしゃれな街なのです。

霊感がついたのならば、地元の処刑場跡を自転車で通るたびに、霊に憑りつかれて眩暈だ吐き気だに襲われてないと、おかしい。

つまり、これは霊感なんてたいそうなものではなく、ただ街になんとなく漂う当時の「雰囲気」をオーバーに感じてしまってるだけなのでしょう。

でも、これこそ「感覚でつかむ民俗世界」ってヤツなのでは?

昔の人たちは知識や理屈ではなく、「この辺、なんか不気味な場所だなぁ」と何となく感じて、処刑場だの墓場だのを作ったはず。

僕もそんな風に、民俗の世界を感覚でとらえていきたい。

でも、そうやって感覚でとらえた世界を、ほかの人にも伝わるように表現するためには、それこそ知識や理屈が必要なのです。

やっぱり、ちゃんと勉強しないとなぁ。

ZINE創刊2周年!

ZINE「民俗学は好きですか?」を創刊して2周年を迎えました。

創刊したのは2019年の10月。ちょうど仮面ライダーゼロワンが始まったばかりの頃です。

あの頃は、数か月後にあんなことになるなんて思っても見なかった……。

……お仕事五番勝負があんなにつまらないなんて。

……ゼロワンは後半に入って面白くなったから、もう許してやれよ。

2019年の10月に創刊したということは、半年ほどでコロナ禍に突入したということになります。

その影響はZINEの中にも表れてまして、Vol.3の中にすでに「ケガレとウイルス」という記事を書いてます。文の中に新型コロナの話も出てくるんだけど、去年の2月ごろに書いたので、まだ「海外の出来事」として扱ってます。いやぁ、なつかしい。

つづくvol.4は特集記事として「大都会の民俗学」を書きました。これなんてまさに、コロナ禍で都市が疲弊しているのを受けての企画。vol.4には「異界としての『夜の街』」という記事もあります。これもまた、小池都知事が「夜の街」を名指しした、というところから始まった企画。

vol.5になると、あの「アマビエ」の関する記事が出てきます。「甘エビ」ではありません。「アマビエ」です。

正確に言うと、「アマビエ」のもととなった妖怪、「アマビコ」の話をしています。

そのvol.5の編集後記では「コロナのせいで製作スケジュールが狂いまくりだよ、まったく」とぼやいています。

コロナはZINEの内容にも大きく影響を与えているのですが、コロナの影響が一番大きかったのは、「即売イベントに出店できない!」という点。

何せ、イベントの数そのものが大幅に減ってしまったのですから。

もともと、即売イベントを中心に活動して、ネットにはあまり重点を置かないつもりだったけど、路線変更を余儀なくされます。

なんだか、手錠をしたままハードル走をやらされてる気分です。走りづらいったらありゃしない。

ただ、それでも、走れないことはないんです。

長らくできてないコミケと違い、文学フリマの方は東京での開催がなんとかできているし、オンラインでのイベントもあります。

もちろん、イベントの方でも感染対策はしてるし、僕個人としても無人販売などの形で対策をやってます。

こういった状況でも、何とかイベントは開催されているし、お客さんは来るし、ちゃんと売れてる。

これはちょっとした自信です。

コロナ禍でもなんとか販売できてるんだから、この先、日本がどうなろうが、自分がどうなろうが、地球がどうなろうが、何とか続けられるんじゃないか。

という自信。

……まだまだまだまだ止まんないよ。

図書館を作りたい

図書館を作りたいなぁ、と思ってから半年くらいたっただろうか。

進捗状況はどうだというと、残念ながらたいして進んでない。

図書館の「館」、つまり建物もないんだけれど、なによりも圧倒的に「図書」、つまり本が足りない。

いくら立派な建物を用意したところで、本がなければそこは図書館とは呼べないのだ。そこに「図書」がなければ、「館」は空虚な箱なのさ。

図書館の構成要素で何よりも重要なのは本なのである。

じゃあその本を集めればいいじゃないか、という話なのだけれど、「これぞ!」という本もそうそうない。

基本的に僕はケチなので、「なんでもいいから片っ端から買ってくる」ということはできない。どうしても財布のひもが緩まないのだ。

そんな僕でも、古本屋で「これは掘り出し物だ!」と思った本を見つけると、財布のひもも緩む。

この前も、「悪魔がつくった世界史」だなんて物騒な本を買ってしまった。本棚を見ると呪術の本とか錬金術の本とかオカルト本とかクトゥルフ神話とか、なんだか不吉そうな本が一角を占めている。

こういう本だとするりと財布のひもが緩むんだけどなぁ。

そして、ふと思う。

図書館を作るには、まんべんなくいろんなジャンルの本をそろえねばならない、と最初は思ってたんだけど、必ずしもそうじゃないかもしれない。

むしろ、ジャンルに偏りのある図書館があったっていいんじゃないか。

思えば、まんべんなくいろんな本が読みたいんだったら、公立の図書館に行けばいいのだ。

そうではない、マニアックな蔵書の方が、私設図書館としては面白いかもしれない。

この前、アートコレクターの人が書いた本を読んだのだけれど、どうやら「集める」というのもまた一つの創造的な行為らしい。

コレクターは、自分で何かを生み出すわけじゃない。他人がつくったものをせっせと集めてるだけだ。

集めてるだけなんだけど、その集め方にもその人のクセというものが現れて、それもまた一つのアート足りえるのだ。

たとえば、何かのテーマに沿って作られたプレイリストなんかがそうだろう。楽曲自体は人のものだし、自分で演奏してるわけじゃないんだけれど、その集め方にマニアックなこだわりがあったりすると、プレイリストもまた一つの作品となるのだ。

というわけで、まんべんなくいろんなジャンルの本を集めることはあきらめて、僕の個性がにじみ出たコレクションを作ろう、ということになった。

きっと、歴史・民俗関連と、おばけ・オカルト関連のジャンルに大きく偏った図書館ができるだろう。でも、「おばけの本の図書館」とか面白いじゃないかと、ちょっとワクワクしている。

大人に憧れない

どうにも、僕には大人に対する憧れというものがないようだ。

たとえば、子供には禁じられているけど、大人には許されるものがある。お酒とか、車とか、煙草とか。

大人になった今にして思うと、そういったものに全く憧れがない。子供のころからそうだし、大人になってからもそうだ。

車を欲しいと思ったこともなければ、免許を取りたい、運転してみたいと思ったことすらない。

「大人になったらお酒を飲んでみたい」とか、「一度は煙草を吸ってみたい」とか、そんなこと、子供のころから一度も思ったことがない。

だって、子供の頃って、そんなものなくても楽しかったじゃない。

車なんてなくても、自転車でどこへでも行けたし、お酒もたばこもなくても、コーラとポテチがあれば、それだけでテンション爆アガリ。

そこにどうして、「大人になったらあれをやってみたい」をプラスするのかが、僕にはよくわからない。

僕は「大人になったらあれをやってみたい」よりも、「子供の頃に楽しかったことを、大人になっても続けたい」という想いの方が強いみたいだ。「子供の頃にやってたこと」で十分満足だから、「大人になったらあれをやりたい」というのが、ない。

たとえば、26歳の時に地球一周をしたけれど、「大人になったら地球一周をしたい」なんて思ったことは、一度もない。

むしろ、子供のころからワンピースが大好きで、地球一周の船旅は明らかにその延長である。

今は民俗学のZINEをせっせと作っているけれど、子供のころから妖怪マニアだったから、やっぱりその延長線上でしかない。

「大人になったらZINEを作りたいなぁ」なんて、思ったことない。そもそも、ZINEなんて単語、30歳になって初めて知った。

今まで夢中でやって来たことや、いま夢中でやってること、どれもこれも、子供のころからの遊びの延長線ばっかりだ。

たぶん僕は、「子供の頃の遊びを、大人になっても恥ずかしげもなくするには、どうすればいいか」にアタマを使っているのだろう。

さて、「大人になったらこれがしたいなぁ」というのは全くなかったんだけど、25歳くらいから「こんなおじさんになりたいなぁ」とは考えるようになった。

ちなみに、ここで言うおじさんとは40歳以上を想定している。

というのも、「こんなおじさんになりたいなぁ」とは具体的には「このおじさんみたいになりたいなぁ」という、要は「憧れの人」がいる形で、そのおじさんたちが軒並み40歳以上だからである。

そして、「こんなおじさんになりたい」とは、生き方の問題である。「あのおじさんみたいな生き方、いいなぁ」と憧れるわけだ。

でも、そうやって僕が憧れるおじさんたちは、やっぱり「おじさんなのに子供みたいに遊んでる人」ばっかりな気もする。

はたして人は、どこまで子供っぽく生きられるのだろうね。

小説「あしたてんきになぁれ」 第33話「柿の実、のち月」

「城」を1日だけ追い出されることになったたまき。泊まるところを探して街をさまよいあるいった挙句、たどり着いたのはミチの家だった。だけど、ミチの家にはお姉さんがおらず、たまきはミチと二人っきりで夜を過ごすことに。その行く末はラブロマンス化、それとも……。あしなれ第33話、スタート!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第32話「風吹けば、住所録」


ここは志保が通う施設のシェアハウス。女性専用で、定員は6人。現在は4人の女性がここで暮らしている。

『城』が使えない間、志保は一晩ここに泊めてもらうことになっている。施設には「自宅で家族と暮らしている」という設定にしているので、「今夜だけ家族がいない」と言えば、あっさりと宿泊許可が下りた。

その日の夕飯は、ちょっとしたパーティになった。志保ともう一人、普段ここにはいない人間が泊まりに来たからだ。

「カンザキさん、洗い物、手伝おっか?」

志保がキッチンで洗い物をしていると、もう一人の珍客、トクラが声をかけてきた。

「いえ、もうあとちょっとなんで」

普段は実家に住んでいるはずのトクラがここにいるのも、志保と全く同じ「今夜一晩、家族が家にいない」が理由だった。

トクラがそういった時、志保はどこか「ウソくさい」と思ってしまった。だが、よくよく考えれば、ウソくさいのは志保の方ではないか。人は自分が言われたくないことを、他人に投げかけてしまうという。

ふと、志保の携帯電話が鳴った。確認すると、相手は「公衆電話」と表示されている。

普段なら公衆電話からだなんていぶかしむ志保だが、たまきからの電話だとすぐにわかった。たまきは携帯電話を持っていないし、泊まる場所が見つかったら電話するという約束だったのだ。

洗い物はまだ途中だったが、志保は水道を止め、濡れた手をササっと拭くと、流し場を離れて電話を出た。

「もしもし?」

相手はすぐにしゃべらない。聞こえてくるのはそばを通る車の音と、やけに強い風の音。そして、かぼそい息遣い。それだけで志保は誰だかすぐわかった。

「たまきちゃん?」

「あ、あの……」

声と、しゃべり出しからして、間違いなくたまき本人だ。

「志保さん……こんばんは……」

一緒に暮らしていて、さっきも会ったはずなのに、律儀なあいさつから入るところが、いかにもたまきである。

志保は何も言わず、たまきがしゃべり出すのを待った。要件はわかっている。泊まる場所が見つかったか、どうしても見つからないかの、どっちかだ。すくなくとも、緊急事態ではない。以前、本当に緊急事態に電話をくれた時は、もっと慌てていた。

「泊まる場所が……決まりました……」

「そう、よかった。どこ?」

「……ミチ君の家です」

「……え?」

これは、緊急事態だ。

「ミチ君の家って……ミチ君って、ご家族と一緒なんだっけ?」

「お姉さんがいるんですけど……きょうはいなくて……」

「え、じゃあ、ミチ君とたまきちゃんの二人きり……?」

「はい……」

たまきは、志保の不安を察したらしい。

「あ、でも、たぶん大丈夫なの……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保はあたりを気にせずに大声を出した。大声を出してから、口の横に手を当てて、声を潜める。

「いい、たまきちゃん? ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「……知ってます」

「ダメダメ! 危ないって!」

「でも……」

受話器の向こうから再び、風の音が聞こえた。

「風も強いですし……」

言っている意味がよくわからない。風が強いからなんだというのだ。

「たまきちゃん、やっぱり、こっち来なよ。遠慮なんてしなくていいから!」

シェアハウスは実はもう定員オーバーなのだが、今の志保の頭からはもうそのことがすっぽ抜けている。いや、覚えていたとしても、トクラを追い出せばいい話だ。

「いえ……大丈夫……だと思います」

たまきは自信なさげに言った。

「それじゃ……」

「ちょっと待って、たま……」

電話が切れた。

志保は折り返し電話をかけようとしたが、相手が公衆電話ではどうにもならない。

今からミチの家に行って、たまきを引っ張り出そうとも思ったが、残念ながら志保はミチの家を知らない。

「どうしたの、カンザキさん? なんかトラブ……」

トクラの問いかけも耳に入っていないのか、志保はどこかへと電話をかけ始めた。

「……残り、やっとくか」

トクラは流しの方を見て、そうつぶやいた。

 

志保が電話をかけた相手は、亜美だった。

亜美が電話に出る。受話器の向こうはなにやら騒がしく、どうやら、どこかの店にいるらしい。

「はいはーい。どした? シェアハウス、ガス爆発で吹っ飛んだとか?」

「冗談言ってる場合じゃないよ、亜美ちゃん! たいへんだよ! たまきちゃんが、……たまきちゃんが!」

 

たまきは公衆電話の受話器を下ろした。

スナック「そのあと」の隣の隣にあるタバコ屋に、公衆電話が置かれていた。たまきはそれを使って志保に電話したのだ。

たまきが泊まることになって、ミチは

「片づけるから! 5分! 5分だけ外にいて!」

とたまきを部屋の外に出した。たまきも志保に電話をする約束だったので、公衆電話を探して志保に連絡を取ったわけだ。

案の定、志保は驚いていた。そりゃそうだろう。たまき本人だって、こうなってしまったことに内心驚いているのだから。

やっぱり、志保のいるシェアハウスに泊めてもらった方が、志保も安心するだろうし、なにより一番安全なんじゃないか。受話器を置いた直後のたまきはそんなことも考えたが、直後に、行く手を阻む壁のように強烈な風が吹いた。

たまきは軽く身震いすると、スナック『そのあと』の脇にある階段を上って、ミチの部屋へと向かった。

スナックの2階はアパートになっている。屋内に廊下があって、木製のドアが三つ並んでいる。階段から見て一番手前がミチのお姉ちゃんの部屋。真ん中のポスターが貼っていあるのがミチの部屋だ。一番奥の部屋は、空き部屋になっているらしい。

たまきが廊下でぼんやりと待っていると、ドアを開けてミチが顔を出した。

「片づけ、終わったよ。どうぞ~」

「……お邪魔します」

部屋に入って、靴を脱いで、部屋の中を見て、それから、たまきは立ち尽くした。

万年床の布団は丸めて壁際に追いやられている。床の上に散らばっていた衣服も、丸めて壁際へ。テーブルの上に目をやると、卓上カレンダーは、水着のお姉さんの部分が伏せておかれていた。食べ終わった容器はゴミ袋に入っているが、問題はそのゴミ袋がそのままテーブルの上に乗っている点だ。

この男は、これを「片づけ」と呼ぶのか。そもそも、これは5分もかかる作業なのだろうか。

たまきはテーブルの脇に、ちょこんと正座した。ミチも少し離れたところに腰を下ろす。

そのまま、会話もなく3分が過ぎた。

「……夕飯、どうしよっか?」

ミチがたまきの方を見ることなく言う。

「そうだ!」

そう言ってミチが、たまきの方を見た。

「せっかくだから、夕飯、たまきちゃんが作ってよ」

「え? 私が……ですか……」

たまきもミチの方を見る。

「私、料理できませんけど……」

「え? そうなの? 女の子なのに?」

ミチの言い方に、たまきはなんだかカチンときた。

「……女の子は料理できないといけないんですか?」

「え? いや、いけないってわけじゃないけど、でも、女の子だったら……」

「でも、料理が好きとか嫌いとか、できるとかできないとか、そんなの、人それぞれじゃないですか。男の人は料理得意な人も苦手な人もそれぞれいますよね。だったら、女の人にも得意な人と苦手な人がいるのは、当たり前ですよね。なのに、女の子だから料理できて当たり前みたいに言うの、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「お、おっしゃる通りで……」

ミチはバツの悪そうに、たまきから視線を外した。

 

志保からことの顛末を聞いた亜美は、大笑いした。

「マジかよ。やるなぁ、あいつ」

「笑い事じゃないよ亜美ちゃん! ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「いや、知ってるって、それくらい」

「もしなにかあったら……」

「そんなの、のこのことオトコの部屋に泊まりに行った、あいつが悪いんじゃん。いや、あいつもしかして、すっとぼけた顔してそういうの狙っていったのかもしれないぞ」

こいつに電話したのが間違いだった、と志保はため息をつく。

「だいたいさ、おまえはたまきに対して、カホゴなんだよ」

「そんなつもりは……」

ない、と言い切れないところに、志保は歯がゆさを感じる。

「あのたまきが、一人で泊まるところ見つけてきたんだぞ。それも、オトコの部屋を。その努力と勇気を誉めてやれよ」

「でも……、たまきちゃんは女の子で……」

「だからそれ、知ってるって」

そういって亜美は笑った。

 

結局、ミチが夕飯を作ることになり、ミチは近くのスーパーへと買い物に向かった。

「女の子が泊まりに来た」というイベントに心舞い上がっていたミチだったが、さっきの発言でたまきの機嫌を損ねてしまったらしく、今は心がささくれ立っている。

ふと、ミチはむかし施設にいた頃に飼っていた黒猫の「クロ」のことを思い出していた。ミチの姉いわく、たまきはその雰囲気がどことなくクロに似ているらしく、たまきに出会ってから、姉はクロの思い出話をよくするようになった。

クロは十年ほど前、ミチがまだ小学生だったころに、ミチと姉が暮らす施設に迷い込んできた。子供が集まる場所に動物が紛れ込むと、一躍大スターになる。子供たちはその黒猫をかわいがり、誰がつけたか「クロ」などと言うひねりのない名前で呼ぶようになり、えさにお菓子をあげるようになった。施設としても動物との触れ合いは情操教育によいということで、いくつかのマナーを守るという条件の下、えさやりをを許可した。

クロは正確には飼い猫ではない。どこからともなく施設の中に入ってきて、子供たちと遊び、えさを食べ、またどこかへと消えていく。施設の中で寝ていたこともあったが、あくまでも野良猫である。だけど、ミチをはじめ子供たちにとっては「飼っている」という認識だった。

二年ほど、クロは施設の「飼い猫」だったが、いつの間にかいなくなってしまった。施設に現れる頻度が減り、とうとう姿を見せなくなったのだ。ミチの姉は、ネコは死ぬ前に姿を消すんだ、と言っていた。

クロは猫のクセに「にゃあ」と鳴かないネコだった。もちろん、「コケコッコー」と奇抜な鳴き声をしていたわけではない。にゃあどころかうんともすんとも言わない、ただただ黙っている猫だった。

どうも、ミチはこのクロに嫌われていたらしい。ミチが呼んでもクロはそっぽを向いて動かなかったし、頭をなでるとイヤそうに尻尾をばたばたとふった。

ミチには嫌われる理由が思い当たらないのだが、姉によるとミチは猫の扱いが雑なのだという。

「あんたのクロの持ち方は、ゴジラの人形持つ時と、持ち方がいっしょなのよ」

そんなことない、とミチは反論したけど、中学生だったミチの姉は「本質的にいっしょなのだよ」と、当時のミチにはまだ難しいことを言ったのだった。いや、今でもその意味はまだよくわかっていない。

一度だけ、クロがミチのそばに寄ってきたことがある。

ミチが風邪をひいて、一人で部屋に残って寝ている時だった。

半開きになった部屋のドアから、クロが入ってきたのだ。

そのままミチの寝ているベッドにねこねこと歩みより、ベッドに飛び乗ってミチのすぐわきに来ると、丸まって居眠りを始めた。

ふだん、クロの方からミチに近寄ることなんてなかったので、珍しいこともあるもんだとミチは思った。

ミチは手を伸ばし、クロの背中を、そっと撫でた。

その時、クロは珍しく、クロにしては本当に珍しく、みゃあと鳴いた。

そのまま、2時間ほど、クロはベッドの上にいた。しばらくしてミチは眠りこけ、目覚めた時にはもうクロはいなかった。

次にクロを見た時、ミチが呼び掛けても、相変わらずクロはそっぽを向くだけだった。

 

たまきは一人、ミチの部屋にぽつんと佇んでいた。窓が風でガタガタと揺れる音だけが聞こえる。

たまきは一人ため息をついたが、それも窓のガタガタにかき消された。

ミチの言う「女の子だから料理できるはず」は納得いかないけど、だからと言って、泊めてもらうのに料理を何も手伝わない、というのはまずいかもしれない。買い物だって、ミチと一緒に行って、荷物ぐらい持つべきだったんじゃないか。

そんなことを考えていたら、いつの間にか結構な時間がたっていた。さすがにたまきも少しヒマになり、ミチの本棚に目をやる。

そんなに大きくない本棚の半分以上がCDだったが、マンガもいくつか入っていた。いわゆる少年漫画というやつだ。

たまきは少年漫画を読んだことがなかった。マンガの内容には興味がないけど、絵のタッチには興味がある。女の子向けの漫画と男の子向けの漫画では、やっぱり絵のタッチが違う。男の子向けの漫画ではどういう描き方をするのか、それが気になって、たまきは本棚から無造作に一冊取り出した。

マンガを取り出した時、たまきは、棚の奥にもう一冊本があるのに気付いた。正確には本ではなく、何かのケースだった。

何よりもたまきの目を引いたのは、そこに全裸の女性の写真がプリントされていたことだった。

まさか……これが……ウワサに聞く……。

たまきは無意識のうちに、ほとんど無意識のうちに、そのケースに手を伸ばして、取り出してしまった。

一糸まとわぬ女性の姿が大きく映し出されたパッケージがあらわとなる。

裏面をひっくり返すと、たまきにとっては筆舌しがたいハレンチな写真が、一面に所狭しと並べられている。パッケージを持つたまきの左手は、硬直した。

何か音がしたので、本棚の方を見ると、たまきがパッケージを抜き取ったスペースに、別のケースが倒れかけて、顔を出していた。

まさか、とたまきは、マンガを数冊ごっそり取り出した。

案の定、マンガのあったスペースの奥には、ハレンチなパッケージがいくつか隠されていた。そして、同時に悟る。ミチが部屋を片付けるのになぜあれほどの時間がかかっていたのか、を。

見なきゃよかった、という後悔しながらも、たまきは数個のパッケージに一気に取り出した。たぶん、臭い靴下のにおいをあえてかぎたくなった時と同じ心境だろう。

どれもこれも、女性が大きく映し出されていた。学校の制服らしきものを着ている人もいれば、水着の女性、中には何も身にまとっていない女性も多い。たまきはもう、裏面をひっくり返したりはしなかった。

パッケージに書かれた言葉のいくつかは、たまきの乏しいエロ語彙力でも十分にハレンチだとわかるものばかりだった。中には、犯罪行為なんじゃないかと思えるようなことも書いてある。

そして、あることにたまきは気づいてしまった。

女性たちの多くは、比較的地味だ、ということに。

おとなしそうな女子高生だったり、控えめな服装をしていたり。

たまきの頭の中に、いつか聞いた言葉がよみがえり、まるでいま耳元でささやかれているかのように聞こえてくる。それはいつぞやのミチの、地味な女の子は彼にとって恋愛対象ではなくエッチの対象だという言葉だった。壊すだの穢すだの、ひどいことも言っていた気がする。

そして、ミチに言わせればたまきは地味な女の子だという。いや、ミチでなくてもたまきの周りの人はみんなそう思っているはずだ。

それにかぶさるように聞こえてきたのは、ついさっきの志保の言葉だった。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

それに対してたまきは「知ってます」と答えたのだが、どうやら事実を知っていることと、その根本を理解していることは別の話だったらしい。

パッケージを手に取り硬直してしまったたまき。そこに、ドアの外から足音が聞こえてきた。誰か来た、というか、ミチが帰ってきたのだ。

慌ててもとの場所にしまおうと、パッケージをいくつかまとめて持ったたまきだったが、硬直した手はうまく動いてくれず、パッケージが床に散らばってしまった。

そのタイミングで、ドアが開き、ミチが顔を出す。

「ただいま。カレーにしようかと……」

と言いかけてミチが見たのは、なんとも気まずそうに硬直するたまき、と、その周りに散らばる、イケナイビデオの数々。

「うわああああ!」

ミチは買い物袋を放り投げ、靴も脱がずに部屋に上がり込むと、散らばったイケナイビデオをものすごいスピードで回収し、一気に本棚へと突っ込んだ。続いて、床に置かれたマンガを無造作に本棚に突っ込む。

「あ、あの……ごめんなさい……。マンガを読みたかっただけだったんですけど……」

顔を赤らめ、申し訳なさそうにするたまき。何か悪いことをしたわけではないはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「い、いや、こっちこそ、ゴメン……」

ミチも思わずたまきから視線を逸らす。ミチの部屋にどんなビデオがあろうがミチの勝手のはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「あ、あの……私……その……」

と言うと、たまきは声のボリュームをキュッと絞って、付け足した。

「ミチ君の、その……そういう期待にはたぶん、その、こたえられないと思うので……」

「わ、わかった。もう期待しないから……」

その言葉に、やや間を開けてから、たまきが反応した。

「……もう?」

たまきがミチを見る目には左目に疑念の色、右目に軽蔑の色が浮かんでいた。

二人の間を沈黙が流れる、と書きたいところだが、風が窓を激しくたたく音だけが部屋に響いている。

 

ミチが買ってきたのは、レトルトのカレーとパックのごはんだった。ミチは鍋でお湯を沸かして、カレーのパックを放り込む。たまきはごはんパックのふたをちょっと開けて、古い電子レンジに突っ込み、言われたとおりにボタンを押す。これで、少しは手伝ったことになるのだろうか。

ご飯を食べ終えると、もう夜の九時を過ぎていた。ミチはテレビをつけた。テレビではなにかのバラエティをやっている。

「あ、この芸人、オレ好きだなぁ。ネタが面白いんよ」

「……そうですか」

「たまきちゃんって、ふだんどんなテレビ見るのさ」

「……あんまり」

「じゃあさ、ふだん家で何してるの?」

「……まあ」

ミチは、チャンネルを変えた。そして、ちらりとたまきの様子を見る。

ミチの隣に間隔をあけて座ったまんま、たまきほとんど動かない。いつにもまして無表情でのたまきはなんだかお地蔵様みたいで、一周回って悟りの境地に達しているようにも見えた。

だが、たまき本人は決して悟りの境地などではない。むしろ逆だ。まさに、「借りてきたネコ」と言ったところか。

血中の酸素濃度が明らかに不足し、口をぎゅっと結んで鼻から何度も空気を吸い込む。

ミチが何か言ってくるので、返事をしようと口を開けると、肺と心臓が空気を吸え吸えと命令してくる。それを押し殺して返事をしようとすると、結局「まあ」みたいな返事になってしまう。

今までだって何度もミチと一緒に話しているのに、今この時に限って、何を話していいのかさっぱりわからないのだ。

きっと、さっきヘンなビデオを見てしまったからだ。あんなの見てしまったから、ヘンに意識してしまうのだ。今までは「性別が違う」ということをあまり意識しないようにしていたのに、さっきのビデオのせいで意識に蓋をするのが難しくなってしまったのだ、たぶん。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

志保のあまりにわかりきった言葉が、何度も耳元で繰り返される。

たまきはこの街に来るまで、父親と先生以外の男性とは、ほとんどまともに会話したことがなかった。男子というのは、何が楽しいのかボール遊びに夢中になったり、何がうれしいのか足が速くなる靴を欲しがったりして、たまきみたいに教室の隅でじっとしてる子をバカにする、サルみたいな連中なのだ。高い木によじ登って、木の下にいるたまきに柿の実をぶつけて、痛そうにするたまきを見てけらけら笑ってる。さらに彼らは女子のことをいやらしい目で見て、隙あらばそれこそカニのように貪り食おうとしている。

そんな連中とどう会話すればいいというのだろう。カニみたいに身を固くして、食べられないようにするしかないじゃないか。

だからたまきは、男性の前では妙に緊張してしまうのだ。

たまきには、志保がカレシの話を楽しそうにしたり、亜美が何人もの男と関係を持つのが、やっぱり理解できない。相手はたまきたちとは体の造りも思考回路も違う、まったく別種の生き物なのだ。モンスターなのだ。エイリアンなのだ。サルなのだ。そんなのと一緒にいて、何が楽しいのだろう。緊張と困惑で息苦しいだけじゃないか。あまつさえ、結婚する人なんていうのはもう、頭がおかしいんじゃないだろうか。男子と一緒に暮らしたりなんかしたら、緊張で息が上がって、死んでしまう。

ところが生き物というのは不思議なもので、急激に環境が変わると、本人も知らないうちに、何とかそれに適応しようとする。たまきの場合は、家出して、亜美と一緒に暮らし始めたことがきっかけだった。亜美は「城」に平気で男子を連れてくる。それも、一人や二人ではない。おまけにたまきを、クラブだイベントだと、男子がいっぱいいるところに連れまわす。挙句の果てには、初めて会ったミチといきなり二人きりの状態にする。

こんな環境でいちいち男子の前で緊張していたら、高血圧で死んでしまう。いかに死にたがりのたまきでも、その死に方はさすがに嫌だったらしく、無意識のうちに、相手を「男子だ」と意識することをやめていた。「無意識のうちに、意識しない」とは変な日本語だけど。

具体的には、物理的にも、精神的にも、ある程度距離をとった。たとえばそう、柿の実がとんでこないくらいに。

そうしていつのまにか、ミチがサルであることを忘れてしまっていたのかもしれない。だから今夜、うっかりここにきてしまったのだ。距離をとって接することに慣れてしまい、いつの間にか危機意識が薄れてしまったのだ。

ミチの部屋にあったいやらしいビデオは、ミチもサル山のサルであることをたまきに思い出させ、それと同時に危機意識と恐怖心と緊張を呼び起こすには十分だったのだ。

そんなたまきにとって、ミチの部屋にいて、ミチと会話するというのはなんだか、ルールを知らないのに将棋をやらされているみたいな気分だ。どうやったら勝てるのかも、どうやったら負けてしまうのかも何も知らないのに、駒を手に取って、相手の反応を見ながら一手一手指さなければいけない。指し手を間違えたら、柿の実をぶつけられるかもしれない。

「あ、俺、この映画好きだなぁ」

ミチの言葉でたまきはテレビの画面を注視する。

しばらく見続けて、たまきにもかろうじて映像の内容を認識できた。たまきが生まれたくらいの頃の映画で、たしか船が沈む映画だ。世俗に疎いたまきでも、タイトルを見ればわかるぐらい有名な映画だ。

とはいえ、番組は映画そのものを流しているわけではなく、「名作映画特集」みたいな感じで、「船が沈む映画」の簡単なあらすじを紹介している。

「えっと……どういう映画なんですか?」

たまきの方から話しかけたのはたぶん、この日初めてかもしれない。

「どういう映画って……船が沈む映画だよ」

そんなの見ればわかる、という言葉を、たまきはぐっと飲みこんだ。そもそも、見ればわかるようなことを聞いたのはたまきの方だ。

「それでさ、船の中で、男と女が……出会うんよ」

「……はあ」

「で、恋に落ちるんよ」

「……はあ」

「でも、船沈んじゃうんよ」

そこでミチはたまきの方を見た。

「悲しいだろ?」

今の説明では、全米どころか、ネコ一匹泣かないだろう。

「今のを聞いても、別に悲しくは……」

「ええ~、この映画で世界中の人が泣いたんだよ? 『全米が泣いた』ってやつよ? それで悲しくないって、たまきちゃん、意外と薄情だねぇ」

この男は「自分の説明が悪かった」とは思わないのだろうか。

「深く愛し合う男女が、船が沈んじゃったせいで引き裂かれちゃうんだよ? 悲しくない?」

さっきよりはましな説明になったけど、やっぱりネコ一匹泣きそうにない。

「その……女の人と男の人は……、船に乗ってから出会うんですよね」

たまきは、テレビで流れる映画のあらすじを必死に目で追いかけながら、尋ねた。

「そうそう」

「でも、その船、すぐ沈んじゃうんですよね」

「そうそうそう」

「なのに、深く愛し合ってたんですか?」

たまきはそういってから、ずいぶんこっぱずかしいことを言ってしまったと、ちょっと後悔した。

ミチの返事はない。その沈黙に耐えられなくて、たまきは言葉をつづけた。

「だってだって、出会ってすぐ恋に落ちて、深く愛し合うって、相手のことなんにも知らないじゃないですか。そんなのおかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきなんて、亜美と志保を「友達」と思えるまでに3か月ぐらいかかったというのに、数日で恋に落ちて深く愛し合うだなんて、にわかには信じられない。

たまきはミチの方をちらりと見た。

ミチはあきれたように笑っていた。

「わかってないなぁ、たまきちゃん」

柿の実がとんできた。シブ柿だ。

「恋愛ってさ、そういうもんじゃないんだよ」

ミチから放り投げられたシブ柿は、たまきの頭をとらえ、脳を揺らした。

「……そういうものじゃないとは?」

「だからさあ、そういうもんじゃないんだよ」

「ですから、そういうもんとはどういう……」

「どう、って言われても困るけど」

けっきょくこの男も説明できないんじゃないか。

「こういうのはさ、言葉で説明できるもんじゃないんよ。なんつーかさ、いろいろ経験して初めてわかるっつーか……」

でた、経験マウンティング。

ふたたび、柿の実がとんできた。たまきの頭上から落ちてきた柿の実は、たまきにぶつかるとぐしゃりと音をたててつぶれる。いや、ぐしゃりと音をたてたのは、たまきのなかの何かかもしれない。

「わかんないですよ……私にはどうせ……」

「たまきちゃん、もっと恋愛に関心持ちなよ」

三つ目の柿の実。この柿の実は、昼間にもぶつけられた気がする。

「そういうところがさ……」

「……バカにしてるんですか?」

四つ目の柿の実を、たまきは鋏を振り上げ、ぐしゃっと握りつぶした。

「え?」

ミチはようやく、自分がたて続けに地雷を踏み続けていたことに気づいたらしい。

「……バカにしてますよね?」

たまきは真正面にあるテレビの方を向いて、ミチを見ることはなかった。

「いや……、バカにするとか……そういうつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私のことバカにしてますよね?」

「いや、だから、バカにするつもりは……」

「私はバカにされたと思いました」

いつの間にかテレビはCMに切り替わっていた。

「えっと……、バカにされたっていうのは、具体的にはどういう……」

たまきは、しばらく間をおいてから答えた。

「具体的にと言われても、私がバカにされたと思ったから、バカにされたんです」

「だから、それってどういう……」

「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」

たまきは、間髪入れずに返した。

「ミチ君、私なんかよりいろいろ経験してるんですよね。私が何で怒ってるのか、いろいろ経験してるミチ君だったら、言わなくたってわかりますよね?」

たまきは口をとがらせ、正面のテレビをにらみつけている。そんなたまきの左側に、冷静なたまきが現れて、肩に手を置く。それ以上はいけない、と。

これから一晩、この男の部屋に厄介になるのだ。ミチの物言いには腹が立つけど、これ以上踏み込んだら気まずいまま一晩過ごすことになってしまう。言いたいことがあるなら、あした言えばいいじゃないか。ここはひとつ、振り上げたこぶしを下ろして、穏便に済ませるべきだ。政治的判断というやつだ。

一方で、たまきの右側には革命家のたまきが現れ、旗を振る。攻撃の手を緩めてはいけない、と。

敵はたまきの思わぬ反撃にたじろぎ、戸惑っている。いまこそ、男子なるものにバカにされ、相手にされず、虐げられてきた積年の恨みをぶつけるときだ。そもそも、反撃されて戸惑うということは、どうせ反撃なんてされないと思っていたということだ。そういう態度が、バカにしてるというのだ。たまきの、いや、すべての女子の自由と尊厳のため、この男の首を討ち取って、今こそ勝鬨を上げるとき! えいえいおー!

左側から諭され、右側から煽られ、結果としてたまきは、まっすぐ前を向いたまま、右隣にいるミチのことは見ない。

「えっとさ……、だからその……、バカにするつもりは全然なくてさ……」

「……それは聞きました。でも私は、バカにされたと思ったんです」

「だからそれは……たまきちゃんの考えすぎだよ」

ぐしゃりと音がした。今度は間違いなく、たまきの中の何かがつぶれた音だ。

この男はこともあろうか、バカにされてるというのはたまきの妄想、勘違い、思い込みだとぬかしやがったのだ。

革命家のたまきが、深紅の旗を鮮やかに振り下ろした。

「……私の受け取り方がおかしいってことですか? 私が悪いって言いたいんですか?」

たまきは今度は、ミチの顔を見ながら言った。

「いや、そういう風に言ったつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私の方がおかしいって言ってますよね?」

「いや、そうじゃなくてさ……」

ミチは言葉に窮した。さっきから地雷を踏み続けている。取り繕うつもりの言葉すら、地雷だったらしく、どうすればいいのかわからない。なんだかルールを知らないままチェスをやらされてる気分だ。

「なんつーか、その、ふつうはさ、あのくらいなら別にバカにされてるとは思わな……」

「どうせ! ……どうせ! 私はふつうじゃないです……!」

どうやら、また地雷を踏んでしまったらしい。それも、たぶんさっきまでとは爆弾の種類が違う。

さっきまで借りてきたネコ状態だったたまきは、いまや尻尾を立て、毛を逆立て、ミチを睨みつけているようにミチには見えた。もちろんたまきはネコではないので、実際には睨みつけているだけだけど。

「どうして……、どうしてミチ君は、私を怒らせることばかり言うんですか!? 逆に……! 逆に、どうして私を怒らせるのがそんなに上手いんですか!?」

「う、上手い、そうかなぁ……」

「誉めてません!」

たまきは体ごとミチに向き直った。

「ミチ君は、全っ然上手くなんかないです!」

「え? さっき上手いって……?」

「私の怒らせ方が上手いってことは、私の扱い方は上手くないってことなんですよ!」

たまきがしっぽをばたばた揺らしている、ような気がした。

「ミチ君は、私よりもいろいろ経験してるんですよね! だったらどうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!」

なんだか、昔も誰かに、そんなことを言われたような気がする。

「乱暴に扱ってるつもりは……」

「……乱暴です!」

たまきはテレビの方に目をやった。今度は怪獣映画を紹介している。

「ミチ君の私の扱い方は……その……怪獣のおもちゃで遊ぶ時と、一緒なんですよ……!」

「いや、その例え、わかんねぇから……!」

ミチは少し苛立ったように、頭をぼりぼりと掻いた。

そこから数秒、二人は押し黙った。テレビではのんきにタレントが談笑している。テロップで、何秒後かに衝撃映像が出ますよ、というカウントダウンをしていた。

「……海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?」

「……え?」

ミチがたまきの方を向いたが、たまきは目を合わせない。

「待てよ、なんであの人の名前がここで出てくるんだよ?」

「知りませんよ……! どうしてあの人の名前が出てくるんですか?」

「たまきちゃんが言ったんだろ?」

「そうですけど……だって……」

たまきもだんだん、自分が何を言いたかったのかわからなくなってきた。ただでさえおしゃべりが苦手なのに、勢いに任せてまくしたてるから、こんなことになるのよと、冷静なたまきがなだめるように言うが、時すでに遅し。

……どうして、あんな人の名前を出してしまったんだろう。

だって、

だって、

「だって……私には乱暴なくせに、あの人にはそうじゃなかったら、なんだか……」

ミチに聞こえるか聞こえないくらいかの声でたまきがつぶやきながら、逃げ場を探すように視線をテレビの方へとむけた。

ちょうどその時、画面いっぱいにゾンビが映し出された。どうやらゾンビ映画の特集コーナーらしく、血まみれで頭の中身が飛び出したゾンビが、これまた血で真っ赤な口をバックリと開けて迫ってくる。直後に、映画の主人公らしき女性が絶叫を上げながら、ゾンビに向かって銃を撃ちまくる。

急にゾンビと目が合ってしまったたまきは、びっくりして

「きゃっ!」

と小さく叫ぶと、隣にいるミチの袖に手を伸ばし、ぎゅっとつかんだ。

突然の出来事にミチも驚く。ゾンビに驚いたのではない。さっきまで威嚇するネコ状態だったたまきが、急に袖をつかんできたからだ。

「あ……ああ、この映画? たまきちゃん、ホラーとか苦手なの? 意外と子供っぽ……」

そう言いかけてから、ミチはまた自分が余計なことを言ってるんじゃないかと思い、たまきの方を見た。

たまきは頬を少し赤らめると、ミチの袖をつかんだ右手を力いっぱい引き離した。

「……ホラーは別に苦手じゃないです。ただ、今のは……ちょっとびっくりしただけですから……」

なんだか急に、自分が負けたような気がして、たまきは下を向いた。

 

お風呂は、ミチが先に入り、たまきがその次に入った。

かわいい女の子が泊まりに来て、板子一枚隔てた浴室でお風呂に入っているという状況は、普段のミチなら舞い上がり、よからぬことの一つや二つはちょっと期待するのだが、そんなスケベイベントはもはや望むべくもないようだ。

『どうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!』

ミチは部屋で一人たまきの言葉を思い返すが、そんなに乱暴かなぁとミチは首をひねる。これでも、ミチとしては優しく接していたつもりだ。

『海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?』

また、たまきの声が思い起こされる。

海乃に対してはどうだったろうか。海乃とはケンカしたことがないが、だからと言って海乃の扱い方がもっと丁寧だったかと言うと、そうでもない気がする。というか、丁寧とか乱暴とか、そんなことは全然考えなかった。それは海乃だけでなく、これまでのカノジョに対してもそうだし、女友達にもそうだ。姉にだってそうだ。

たまきに対してもそれは同じで、優しくしようとしてるだけであって、丁寧とか乱暴とかは意識していないのだけれど、たまきに言わせるとミチは乱暴なのだという。

もう、ミチは、たまきにどう接すればいいのかわからなくなってしまった。これまでにミチが触れてきた女性とは、たまきは明らかに別種の生き物なのだ。エイリアンなのだ。ポケットモンスターなのだ。

ふと、ミチは気になった。たまきはいったい、どんなことでときめくのだろうか。ときめきポイントまで、ほかの女の子とはちがうんだろうか。

そういう恋愛がらみの話をたまきとしたことがない。いや、軽く振ってみても「まあ」というあいまいな返事しか返ってこなかった気がする。

もしかしたら、たまきから実はそういう話をしていたにもかかわらず、ミチの方から「たまきちゃんにはまだわかんないよ」と握りつぶしていたような気もする。

ミチにはたまきの地雷がどこにあるのかわからない。わからないうえに、ミチはそれを知らず知らずに踏んでしまうクセがあるらしい。

一方で、たまきには踏まれたくない地雷があるように、思わず心がときめいてしまうようなツボだってあるはずだ。そこを探し出して、そのツボを押してあげれば、この気まずい空気も変えられるんじゃないだろうか。

とはいえ、また正面から「たまきちゃんってさぁ……」と話しかけても、うっかり地雷を踏んでしまいそうな気がする。こういう時は、アレの力に頼るしかない。

ミチはおもむろに立ち上がると、本棚の中のCDをいくつか抜き取った。

本棚の上には、CDプレーヤーがおいてある。ミチは選んだCDのうちの一つを、そこに入れた。

選んだのはミチのお気に入りのロックバンドのアルバムだった。激しいギターサウンドのイントロが流れ、やがて力強い男性ボーカルが聞こえてきた。

2曲目のBメロに差し掛かったあたりで、浴室からたまきが出てきた。

黒髪はドライヤーで乾かしたとはいえ、湯上り特有の湿っぽい光沢があり、乾きかけのせいか、少しまとまりを欠いている。顔はほんのり赤みを帯びていて、いつもよりもさらに幼く感じた。

だけどそれと同じくらいミチの目を引いたのは、たまきの服装であった。

ミチは最初、ドット柄のパジャマだと思った。クリーム色の生地に、ドット柄が描かれているのだ、と。

だが、たまきがミチの近くに寄ってくると、それが間違いであることに気づいた。

ドットに見えたそれは、ネコやイヌの顔の絵だったのだ。

このパジャマは、たまきがリュックに詰めて持ってきたものだ。たまきの着た服の中では、今までミチが見たものの中で、最も明るい印象を受ける。だが、これは小学生が着るパジャマだろう、とミチは思った、がさすがに口にしなかった。たまきの幼さをより引き立てる一方で、どうにも不釣り合いである。

たまきはミチと目があると、恥ずかしそうに一言ぽつりと、

「お風呂どうも……」

とだけ言うと、無言でミチの隣にちょこんと正座した。

たまきがミチの前を横切って、隣に座るまでのほんの一瞬の動作に、ミチは不釣り合いの本当の理由を知った。

小柄な躰に幼すぎるパジャマを纏ったたまきだったけれど、その一連の動作のシルエットは、まぎれもなく女性独特のそれだった。

たまきはしばらく、CDプレイヤーの方を見ていたが、やがて視線を自分の膝へと移したまま、黙っている。

「えっと……なんかないの……?」

もう地雷を踏まないように、ミチは恐る恐る尋ねた。

「……なんかとは……?」

たまきもどこか石橋をたたくように答える。

「音楽かけてみたんだけど……」

「……聞こえてます」

「その……何か感想とか……」

たまきは困ったようにミチを見て、何も答えなかった。

たぶん、ロックはたまきの好みではないのだろう。

次にかけたのは、女性アイドルのCDだった。

A面の曲を流した時、たまきに反応があった。

「あ、この曲……」

「あ、知ってる?」

「まえ、志保さんがカラオケで歌ってました」

それっきり、たまきは再び困ったように黙ってしまった。どうやらただ単に知ってるだけで、これといった感想はないらしい。

思い切って、ミチはたまきに聞いてみることにした。

「たまきちゃんってさ、どういう曲が好きなの?」

たまきがときめくポイントを知りたいのだけれど、直接そう聞いたら、また何か地雷を踏みかねない。

ならば、音楽の力を借りよう。音楽の歌詞やサウンドでたまきが何かしらの反応を見せれば、そこにたまきのときめくポイントがあるはずだ。

ところが、その「たまきの好きな音楽」がわからない。

ならばいっそ本人に聞いてみようと思ったわけだ。好きな音楽の話なら、地雷を踏むこともあるまい。

実際、たまきは嫌そうな顔はしなかった。

ただ一言、

「まあ……」

とだけ言って、黙ってしまった。

「まあ」とだけ言われても困る。とりあえずミチは「マア」という名前のミュージシャンなど知らない。「フー」という名前のバンドならかろうじて知っているのだが。

相変わらず、ルールを知らないままチェスをやっている気分だ。

いや、ルールならわかっているのだ。

ただただ、相手の出方がわからないのだ。

けれど、そんなの、当り前なのかもしれない。

もちろん、相手の出方や戦略が読める方が、勝率はぐっと上がるのだろう。

でも、たぶん、チェスとか将棋とかの醍醐味は、相手の心が読めないときにあるのではないか。

相手の出方がわからない。セオリー通りのことが進まない。そんな時に、計算と経験と、直感を天秤にかけて、運の流れに身を任せ、ほのかに背徳を隠し味に混ぜて指す一手。それに相手がどう反応するのか。待ってましたとばかりにチェックメイトを仕掛けてくるのか、しまったと狼狽えるのか、じっと考え込むのか。

一手を指してから、相手が反応を見せるまでのほんの一瞬、そこが一番楽しいのではないか。

もちろん、ミチはそんなことを頭で理解しているわけではない。ただ、今この瞬間がちょっと楽しい、そう思って、棚の中のCDケースに手を伸ばした。

ちなみに、ミチはボードゲームなんて、オセロしかやったことがない。チェスも将棋も、ルールすらわからない。

 

プレイヤーの中でCDが、まるで指揮者が舞う蝶のごとく指揮棒を振るかのように、軽快にぐるぐるとまわりだす。やがて、ディスクに書き込まれたデータが音楽となって、部屋の中に鳴り響いた。

波のようにゆらゆらと揺れるベースラインの上を、忙しなく跳ね踊る魚のようにドラムが音を響かせる。ドラムの音は中低音で、スネアが叩かれるたびにほど良く空気を跳ね上げる。

官能的でありながらどこか煽動的なリズムに絡みつくように、ピアノとエレキギターがメロディを奏でた。ピアノはまるで少女がくすくすと笑うかのように美しく、ギターはさながら男が何か情念をたたきつけているかのように激しく。

そこに艶っぽくも力強い女性の歌声がかぶさった。

ジャンルで言えばジャズロック、とでもいうべきなのだろうか。

それは、ミチがラジオで聞いて気に入ったバンドのCDだった。ロックの激しさの向こうに、ジャズの持つ大人の深い苦みがあるようで、激しいビートに身をまかせながらも、どこかその苦さの深みに引き込まれていくような感覚を覚え、ミチの好きなバンドとなったのだ。

ミチはたまきの方をちらりと見た。相変わらずの無表情で、その顔から曲の良し悪しを読み取ることなんてできない。

不意に、たまきが足を崩し、正座から体育座りに切り替えた。小さな膝を両手で抱えるとたまきは、ミチの方をちらりと見た。

たまきと、ミチの目が合った。

たまきは目線を自分の膝へと戻し、ミチもたまきから目を離した。

特にどちらもしゃべることなく、二曲目が終わった。

 

三曲目の一番のサビが終わる頃に、たまきはおもむろに立ち上がった。

再びミチの前を横切って、部屋の窓へと向かうと、たまきは窓を開ける。

ミチの部屋は、スナック「それから」の看板がある通りから見ると、入口の方が奥にある。部屋に入って、奥の窓を開ければ表通りが見える。

いつの間にか風はやんでいて、表通りにいくつかあるスナックの看板が、ほのかにきらめいていた。

たまきは夜空を見上げた。つるぎのようにしなやかな三日月が浮かんでいる。たまきは窓から少し身を乗り出して、月を見ている。

その一連の動作を、ミチは背後から見つめていた。

「……どうしたの?」

と、ミチが声をかける。

「その……月が見たくて……」

たまきが振り向くことなく答えた。

「となり……いいかな?」

「……まあ」

ミチは、たまきの左隣へと腰かけた。いつもと違って、たまきは間隔を開けることはしなかった。もっとも、いつもの調子で間隔を開けてしまったら、窓枠から外れて月が見えなくなってしまうのだけど。

三曲目のアウトロのピアノが静かに流れ始めたところで、たまきは口を開いた。

「その……さっきはご……」

そこから、たまきが次の言葉を言おうとする前に、ミチは勢い良く頭を下げ、素早く声を発した。

「さっきはごめん!」

そうしてゆっくり頭を上げると、あっけにとられるたまきを見て、ニコッと笑った。

「よし、今度は俺の方が先に謝ったぞ」

それを聞いて、たまきはあきれたようにため息をつく。

「どっちが先とか、関係なくないですか?」

「でも、男があとから謝った方が、カッコ悪くない?」

「だから、謝るのにかっこいいも悪いもないし、……その、男だとか女だとかも、関係ないじゃないですか」

そういうと、たまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……私の方こそ、ごめんなさい」

男とか女とか、そんなことにこだわっていたのは、たまきの方なのだ。ミチに対して腹を立てていたようで、途中からミチのことなんか見ていなかったような気がする。

いつの間にか、四曲目の歌い出しに入っていた。

「でもさ……」

そういうと、ミチは探るようにして言葉をつづけた。

「謝っといてなんだけどさ……俺さ、自分のなにがマズかったのか、イマイチわかってないんだよね」

「なんですか、それ」

たまきは再び、あきれたようにミチを見た。いや、完全にあきれていた。

「じゃあ、なんでさっき謝ったんですか?」

「なんか怒らせるようなこと言っちゃったかなぁ、って」

「じゃあ、なんで私が怒ったと思うんですか?」

「それはわかりません」

再び、たまきのため息。こんなにため息ばかりしてたら、しぼんでしまうのではないだろうか。

「じゃあ、また同じこと繰り返すかもしれないじゃないですか」

「そのときはごめんね」

軽い、たまきはそう思った。

そう、軽いのだ。乱暴だとか雑だとかいろいろ思ったけれど、基本的にはこの男の言動は、軽いのだ。たまきへの接し方も、軽いのだ。考えが浅くて、行き当たりばったりで、そのくせ見栄っ張り。深い考えもなくうっかり人を傷つけるうえに、なにが悪いかもわからずに、カッコつけて謝ろうとする。そんなんだから、クリスマスの時みたいなトラブルを起こすのだ。

なんでこんな人が、いま私の隣にいるんだろう。

なんでこんな人が、いつも私の隣にいるんだろう。

けれども、じゃあミチがたまきに対してもっと慎重で優しかったら、と考えると、そっちの方がなんか違うようにたまきには思えた。

たとえば、志保のカレシの田代のような人。志保が抱える問題についてせっせと勉強したり、志保のことを支えるなんて平気で言ったりできる人。カノジョだけじゃなくて、たまきや亜美のようなカノジョの友達にまで気配りができる人。男であれ女であれ、そんな人が隣にいたら、たまきは腹を立てる前に逃げ出してしまうかもしれない。

優しければ踏み込んでいいわけではないのだ。

五曲目が始まった。歌詞の中に「月」というワードが出てきた。

「月、きれいだね」

とミチが言った。

「……月は、きれいなんかじゃないです」

たまきは、下を向いたままそういった。

「月は穴ぼこだらけだし、自分で光ったりしません。裏側なんてもっと穴ぼこだらけだし……」

「でも、月、きれいじゃん」

「月がきれいに見えるのは……」

たまきはそこで一度言葉を切ってから、続きを言った。

「地球がちょうどいい距離から見てるからなんです……」

そんなことを話しながら、ミチはふと、ネコのクロを思い出した。クロはミチが呼んでも近寄ることなんてなかったけど、その代わり、逃げもしなかった。ミチが近寄ると、ちょっとイヤそうにも見えたけど、逃げずにじっとしていた。

もしかしたら、ミチとの間のあの距離が、クロにとっては心地よかったのかもしれない。

 

急に、何かの糸が切れたかのように、たまきが倒れた。

「え?」

ミチは驚いてたまきの顔を見る。

たまきは、すやすやと寝息を立てて、眠りについていた。倒れた衝撃で、メガネがずれている。

「なんだよ……びっくりした……」

ミチは、幼子のように眠っているたまきを見た。

「メガネは……はずしてあげた方がいいのかな……」

そうつぶやきながら、ミチは割れ物に触れるかのように、たまきのメガネに手を伸ばした。

 

たまきが目を覚ました時、最初に感じたのは、布団の温かみだった。

布団で寝るなんてここ一年でほとんどなかったので、たまきは寝ぼけながらも戸惑った。

自分の状況を確かめようと、左手を伸ばす。いつもならそこにメガネが置いてあるはずなのだけれど、ない。

いよいよもって自分がどんな状況にいるのかわからず、不安になったたまきは今度は右手を伸ばした。右手が、メガネに触れる。

メガネをかける。薄暗い部屋だったが、徐々に物の輪郭が見えてきた。

たまきはパジャマを着て布団で寝ていたらしい。一瞬、実家に戻ってしまったのかと思ったけれど、このパジャマは『城』で暮らすようになってから買ったものだ。

そうだ、ミチ君の家に泊まりに来たんだった。

ミチはどこにいるんだろう、とたまきは狭い部屋の中を見渡した。

たまきから少し離れた場所で、ミチは寝ていた。ただし、布団のようなものは一切ない。この部屋には布団が一人分しかないので、二人のうちのどちらかが布団で寝れば、どちらかは布団がない。

ミチは寝巻としてジャージを着ていたが、チャックを締めていないので、はだけておなかがあらわとなっている。

「風邪ひきますよ……」

たまきは、窓のそばに置いてある、加湿器代わりのバケツを見やり、もう一度、ミチを見た。

「……のどが大事なんじゃなかったんですか?」

さっきは、あんなに扱いが軽かったくせに。

いつもは、穢すだの壊すだのいやらしいこと言うくせに。

私が知らないところで、やさしくしてるなんて。

「……ずるいよ」

たまきは、自分のパジャマを確かめた。とりあえず、寝てる間に変なことはされていないらしい。

たまきは、掛け布団を横にした。半分は自分に、半分はミチにかかるようにすると、布団の中でなるべくミチと距離をとるようにして、横になった。

すぐには寝付けない。

穢されも壊されもしていないのだけれど、たまきの心の奥底の何かが乱されているような気がした。

……なんでこの人は、私なんかにかまってくれるんだろう。

つづく


次回 第34話「モノレールのちブレスレット」

ケンカしたり仲直りしたりのお泊りの翌日、ミチはたまきを外に連れ出すことに。

つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

オリンピックがつまらない

初めてここで、東京五輪の話を書く。

僕はこの手のイベントが苦手だ。大嫌いだ。

紅白歌合戦とか、24時間テレビとか、オリンピックとか、本当に苦手なのだ。

紅白や24時間テレビは、その時間だけテレビをつけない、そのチャンネルに合わせない、その日一日やり過ごす、これでなんとか事なきを得る。

ところがオリンピックは連日やっているうえ、期間も長い。ニュースにもなる。全然違う番組を見てても、話題に上る。

目をそらしたくても、視界に入ってくるのだ。これが一番厄介だ。

おまけに今回は、自分の家のわりと近くで行われているというのだ。何かの嫌がらせだろうか。心の底から思う「よそでやってくれ」と。

いっそ国外逃亡を、と考えても、オリンピックは世界規模の大会なのだ。地球の裏側まで行ったって逃げ場がない。

2021年はコロナ禍だというのに、オリンピックをやるという。逃げ場はない、と言うか、コロナ禍なので、外国どころか他県に逃げることもできない。万策尽きた。押し入れにひきこもろう。そのための押し入れをまず買ってこよう。

ところが、開催直前になり、組織委員会にまつわるスキャンダルが次々と明るみになり、ネットは大荒れである。

開会式前日に演出の担当者が辞任。それも、過去に倫理的に問題のある発言をしていたという理由で、だ。そしてネットは大荒れ。

これは面白いことになって来たぞ、とワクワクする僕。

いや、面白い、なんてものではない。

僕の見たかったオリンピックとは、まさにこれではないか!

いやいや、これはオリンピックそのものではなく、完全な場外乱闘なのであるが、それでも「僕が見たかったものはこれだ!」という想いを禁じ得ないのだ。

「倫理観にかける」というこの上なく醜い理由でトラブルを起こす組織委員会。

いかに相手に落ち度があるといえど、ここぞとばかりに攻撃性をむき出しにして責め立てる人々。

まさに、人間の醜さのモツ鍋煮込みである。

しかし、一番醜いのは、その様子を嬉々として見ているこの僕なのである。

あらゆる人間の醜さが露呈し、さらに、それを喜んで見ている自分が一番醜いことに気づかされる。素晴らしいではないか。まさに極上のアートであり、エンターティメントだ。これこそ僕の見たかったオリンピックである。

そして気づく。オリンピックや紅白、24時間テレビがどうして好きになれないのか。

決定的に、「背徳感」にかけているからだ。

「愛と希望を表現しています」みたいなよくわからない演出、感動を過剰に煽る物語、「さあ、笑ってください」と言わんばかりに差しはさまれる当たり障りのない寸劇、否定的な言葉が一切許されないような空気。愛とか希望とか夢とか感動とか平和とか、並べられた美辞麗句。

すべてが癇に障る。

そこには決定的に、背徳感が欠けているのだ。

すなわち、人間の醜さとか、愚かさとか、傲慢さとか、いやらしさとか、どす黒さとか。

美徳があって、背徳もある。それが人間だ。人は美徳を愛し、美徳を目指し、美徳を重んじる。それと同じくらい、人は背徳に惹かれるのだ。

その背徳をないもののように扱い、美徳だけを並べ立てれば、そこに映っているのは人間じゃない。そこに人間の魅力などない。

ロボットの表情を人間に近づけるほど不気味になるという現象を「不気味の谷」と言うが、背徳を排して美徳だけを並べたテレビやイベントは、この不気味の谷のどん底に落っこちてしまったように僕には見えるのだ。無理して笑っているようにしか見えない。

そういったものを見て感動するというのが、僕はまったく理解できない。

マルセル・デュシャンがただの便器に「泉」という名前を付けて展覧会に出品しようとした理由が、ちょっとわかる気がした。汚いものを排除してキレイなものだけを並べる、不気味の谷のどん底祭りは、まるでトイレのない美術館である。

トイレのない美術館なんておもしろくない。アーティストだって人間であり、オシッコをするのだ。だったら、展示室のど真ん中にトイレがあったっていいではないか。いやむしろ、トイレあっての美術ではないか。

日本の文学なんて、背徳を真正面から描いたものばっかりだ。罪を犯してでも生きる人間を描いた芥川の「羅生門」、親友を出し抜き自殺に追い詰めた男の苦悩を描く漱石の「こころ」、太宰の歪みがにじみ出た「人間失格」、そして三島由紀夫の「金閣寺」……。

このような文学は、ただ人の醜さを見せているわけではない。ひたすらに人間を醜く描き、貶めているのではない。

「このように、人間とは醜い存在なんだけど、それを知ったうえでおまえはどう生きる?」という問いかけをぶつけられているのだ。だからこそ、人は強く引き付けられる。

僕はプロレスが好きだ。大好きだ。

プロレスを見ていてたまらない瞬間がある。

メディアの取材の前ではさわやかで礼儀正しかったレスラーが、相手の攻撃をもろに受け、

「てめぇ、ぶっ殺したる!」

という目に変わるあの瞬間だ。

その時、倫理観は死ぬ。だけど、リングという場所の上で闘争本能をむき出しにする彼を、倫理観に欠けると罰することなどできない。そこに善も悪も超越した、剥き出しの人間の存在そのものがあるだけなのだ。

醜くもあり、美しい。

弱いからこそ、強い。

正しさの中に、悪が潜む。

人間とは本質的に矛盾をはらむ存在であり、その矛盾こそが人間の真の魅力である。金ピカかのメダルなんかより、よっぽど尊いものだ。

そういった矛盾から人間を切り離すような演出をすれば、それは人間、オリンピックの場合ではアスリートを魅力から切り離し、単なる不気味な偶像に落とし込むことでしかない。

肉体美に神秘を求める古代ギリシャならそれでもいいんだろうけど、僕は古代ギリシャ人ではないのだ。

栄光や感動とか希望とか、そんなものはいらない。その背後に潜む狂気とか攻撃性とか、そういうものを見たいのだ。いや、そういった人の醜さを正面から描き、乗り越えた時に始めて感動とか希望とかが生まれるのだ。

オリンピックの背徳感を。そんなに難しいことじゃない。たとえばそう、聖火台を思い切ってトイレの形にして、「泉」って名前を付けてみる、とか。