「悪」を煽る奴も同罪じゃないのか?

ネットとかを見ていると、腑に落ちないことが多々あって。

「悪いヤツ」や「悪いもの」をもてはやした連中は、「悪いことをしたやつと同罪」ではないのか、って想いがずっとあるんですよ。

たとえば、ちょっと前に話題になった「迷惑ユーチューバー」。逮捕だの裁判だのアカウント凍結だので話題になりましたけど、あれって、「動画作った本人」だけが悪いんでしょうか。

どうしてそんな動画作ったのかと言うと、「再生回数が伸びるから」ですよね。誰も見ない迷惑動画を黙々と作るような酔狂な人間はまずいないはず。「この動画、迷惑でおもしれー!」ともてはやした連中が、サル山の猿のようにうじゃうじゃいたから、迷惑ユーチューバーは迷惑動画を作り続けたはずなんですよ。

迷惑動画をおもしろがって楽しんだ連中は、動画を作った本人と同罪じゃないのか? だって、こいつらがいなかったら、迷惑ユーチューバーは活動できなかったはずなんです。

そして、こいつらがタチ悪いのと思うのは、

「いや、僕らただ動画見てただけですよ」という言い逃れができてしまう、という点。

たしかに、積極的に悪いことをした人間と、それをただ見てた人間を同罪にする、と言うのは無理があるのかもしれません。

一方で、「いじめを黙認して傍観してるやつも、イジメた奴と同罪」っていうし。

犯罪にしろ虐待にしろ、「通報義務」ってあるし。

飲酒運転を黙認したやつは飲酒運転したやつと同罪だし。

悪を傍観することは、悪を黙認することであり、悪を推奨することなのではないか。

思えば、昔からこういう問題がたびたび出てくるわけです。

たとえば、10年ほど前の某ボクサー一家の問題。

それまでさんざん「ワルっぽいところがいい!」とか言ってたのに、いざ問題を起こしたら、みんなてのひら返し。

挙句の果てには「持ち上げてたマスコミが悪い」。

マスコミが持ち上げてたのは視聴率が取れるからであり、つまりは「ワルっぽくておもしれ‐!」って人たちがいっぱいいたから、マスコミが持ち上げたわけです。誰も食いつかないものにマスコミは注目しません。

最近だと、SNSの誹謗中傷で自殺者を出した某番組。この番組も、過剰な演出がイケなかった、ということにされています。

するとやはり、過剰な演出をした番組が悪い、と言われるのですね。

でも、テレビが過剰な演出をしたのは、その方が視聴率が取れるからであり、つまりは「リアリティショーっていうの? 過激でおもしれー!」という連中がいっぱいいたからです。

そして、ボクサー一家が問題を起こそうが、シェアハウス番組が問題を起こそうが、面白がった連中は知らんぷりです。「僕ら、ただ見てただけです」というわけですね。

……同罪だからな。

ちなみに、「ガキ使」をやらなかった今年の日テレの大みそかは、視聴率が悪かったらしいです。みんなやっぱりケツバットとタイキックが見たかったんですね。

……アウトー!

感想:「白い砂のアクアトープ」とは何のアニメだったのか

ふだん、僕はアニメを見るとき、事前情報を一切入れない。当日のテレビ欄で初めて「こんなアニメ始まるのか」と知るのである。

そんな僕が唯一、予告CMで「これは見たい!」とチェックを入れ、見逃さないように放送日をしっかり確認したアニメ、それが「白い砂のアクアトープ」。

予告を見て、「これは僕好みのアニメっぽいぞ。それも、P.A.WORKSだと!?」とチェックを入れていたのです。3か月も前から。

そして、「白い砂のアクアトープ」、期待通りのアニメでした。

「白い砂のアクアトープ」のあらすじ(軽いネタバレあり)

「終わっちゃった、私の夢……」

東京でアイドルとして活動しながら夢を追いかけていた少女、宮沢風花。だが、チャンスを手放してしまい、夢を諦めてアイドルをやめてしまう。

だけど、すぐに実家の岩手に帰る気にもなれなかった風花は、たまたま東京駅で沖縄の観光ポスターを目にして、沖縄への一人旅に出る。

当てもなく沖縄をさまよう風花はやがて、「がまがま水族館」という古い水族館にたどり着き、館長の孫娘、海咲野くくると出会う。どこにも行く当てのない風花は、がまがま水族館が人手不足・絶賛バイト募集中であることを知り、がまがまで働くことになった。

だが、がまがまは設備の老朽化で、あと1か月で閉館することがすでに決まっていた。

がまがまを我が家のように思って育ち、自他ともに認める水族館バカのくくるは、なんとかがまがまを存続できないかと一人奮闘していたのだ。

「風花、私の夢を手伝って!」

一か月の間、なんとかがまがまを存続できないかと奮闘するくくると、そんなくくるを手伝いながら、水族館の仕事に触れていく風花。

だけど、台風が直撃した夜、がまがまの老朽化した設備では生き物たちを守り切れないという現実を目の当たりにし、くくるは閉館を受け入れる。

こうして、がまがまはその歴史に幕を下ろし、風花も岩手へと帰っていったのであった。

ここまでが12話までのお話。これはこれで十分「いいアニメじゃった」って言えるんだけど、

これ、まだ、お話の半分です。12話であまりにもきれいに終わったので、ネットは「あと半分、どうなるの?」と騒然としていました。

さて、迎えた第13話。時は流れて、くくるは沖縄で、風花は岩手で、それぞれ高校を卒業し、二人はそろって沖縄に新たにオープンした大型水族館、「アクアリウム・ティンガーラ」に就職した。

風花はペンギンの飼育チームに配属。まずは、数十匹いるペンギンの顔と名前を一致させるところから始まる。

一方、飼育員志望、と言うか飼育員しか眼中にないくくるだったが、配属されたのはなぜか企画・営業の部署だった。圧迫上司には「プランクトン」とあだ名をつけられ、くくるの「水族館で働いているのに、生き物とまったく触れ合えない日々」が始まった……。

というのが、「白い砂のアクアトープ」のあらすじ。

さて、「白い砂のアクアトープ」とは、いったいどういうアニメだったのだろうか。

どういうアニメって、水族館のアニメですよ。

それはそうなんだけど、ここで言いたいのは、「このアニメの主題とは何か」。つまり、「このアニメで一番伝えたかったことはなにか」「24話もかけて描きたかったこととは何か」

「白い砂のアクアトープ」の主題、それは最終回に登場する。「水族館が好き」というセリフだ。

もっと細かく言うと、「たまたま水族館に行きついただけだった少女・風花」と、「水族館が好きだけど、水族館で働くことは必ずしも楽しいことだけではない、ということがわかっていなかった少女・くくる」が、本当の意味で「水族館が好き」と言えるようにまるまでを描いた物語、それが「白い砂のアクアトープ」である。

そして、「白い砂のアクアトープ」は「くくるの視点」と「風花の視点」で、意味合いが大きく異なる。物語そのものはたいして変わらないはずなのに(この百合ップルはスキあらばいつも一緒にいるのだ)、その意味が大きく変わる。

「水族館が好き」(くくるの物語)

「伝説の飼育員」をおじいに持ち、水族館を我が家のようにして育ったくくるは、自他ともに認める水族館バカ。学校の授業中でも海の生き物のことを考え、水族館で働けるなら休みなんかいらないというブラックなセリフも平気で言ってのける。

くくるにとって「水族館が好き」というのは、あまりにも当り前のこと。

ところが、そんなくくるがティンガーラで配属されたのは、特に興味のない営業・企画の部署だった。アットホームな雰囲気のがまがまと違い、ティンガーラは多くの人が働く「ガチ職場」。

はたから見ている分には、くくるが期待されているからこそ、飼育以外の仕事を経験させようという人事にしか見えないのだけれど、当の本人は「ぜったい意地悪されてる」。くくるという子は、基本的に未熟なのです。

好きじゃない企画・営業の仕事だったけど、くくるなりに一生懸命がんばる日々。だけど、何日もかけて用意したプレゼンで失敗して結果を出せずに落ち込んだくくるは、とうとう水族館の仕事をずる休みしてしまう。

これは、大事件である。水族館が大好きなくくるが、水族館から逃げ出したのだ。水族館で働けるなら休みなんていらないと豪語していたくくるが、ずる休みをしたのだ。

そうして心折れたくくるが、どう立ち直って、どう水族館に向き合っていくかが終盤の展開なのであるが、ここで注目したいのは、大好きな職場にも、「やりたくない仕事」や「めんどくさい人間関係」、「心折れる挫折」など、「好きだけじゃどうしようもないこと」があるという点だ。

好きな仕事や好きな場所で、つらいことや好きになれないことに直面した時、それでもあなたは「好き」って言えますか?

好きだけじゃどうしようもない。でも、やっぱり好きじゃないと乗り越えられない。

ただただ純粋に水族館が好きだったくくるが、水族館の「好きではない部分」を目の当たりにして、そこを乗り越えて本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでを描く物語、それがくくるのがわから見た「白い砂のアクアトープ」なのだ。

だから、くくるは最終回でおじいに「がまがまで働いてたとき、つらいことあった?」と尋ねる。このセリフをわざわざ最終回に持ってくるということは、それだけこのセリフがくくるにとって重要だということである。

「水族館が好き」(風花の物語)

風花はくくると違い、がまがまに来るまでは特に水族館に思い入れはなかった。たまたま水族館に流れ着いただけであり、行き場のない風花を受け入れてくれるのであれば、博物館でも図書館でも映画館でも写真館でも、蝋人形の館でもよかったのだ。

風花はまじめな子なので、たまたま行き着いただけの水族館の仕事にも真摯に取り組んでいく。ペンギンの名前を覚え、海の生き物の知識を深めていく。だが、くくるのような根っからの水族館バカや、大学で海洋生物を専攻していたような飼育員と比べると、やはり知識不足である。

それを印象づけるシーンがある。23話でのハワイ留学を賭けたプレゼンのシーン、風花だけがほかの人の発表も熱心にメモに取っていた。風花のまじめさが際立つ一方で、ほかの人に比べると風花はまだまだ勉強不足、ということを本人もわかっているからメモを取っているのだろう、という風にも見えるのだ。

ティンガーラの面接のときも、がまがまでの一か月で水族館の仕事に興味を持ったというだけで、はっきりと「水族館が好き」とは言っていない。

自分の意志や決断ではなく、たまたま流れ着いただけの場所。逃げてきて、たまたま行き着いただけの場所。それでもあなたはそこが「好き」って言えますか?

終盤でティンガーラの近くの入り江にバンドウイルカの子供が迷い込んでくる。近所の子供たちから「バンちゃん」と呼ばれ親しまれるが、一方で、ケガをしてるわけでも弱っているわけでもないのに、なぜ沖へ出ていかないんだろうとくくる達は不思議がる。

「バンちゃん」は風花の現状を象徴しているのではないだろうか。迷い込んでたまたまやってきた場所が居心地がよく、沖に出ることを忘れたバンドウイルカ。

だからこそ、第23話で風花がくくると離れハワイへ留学する決意を固めたシーンで、「バンちゃん」が飛び上がり月に照らされるカットが描かれる。入り江に迷い込んだバンちゃんは、風花の姿そのものだからだ。

そして最終回には「バンちゃん」は登場しない。きっと風花の決意を見届けて、沖に帰ったのであろう。

風花がくくると離れるという決断をしたことには、物語の中で大きな意味がある。

風花がアイドルをやめてしまったのも、後輩にセンターの座を譲ってしまったことで、「やる気がない」と思われたことが原因だった。

風花は、自分の夢よりも他人を優先させてしまうのだ。

それ自体は決して悪いことではない。風花が優しすぎるが故のことである。

だけど、毎回毎回、自分よりも他人を優先させていたら、損をするのは風花である。

そして、ティンガーラで働いていた風花はやがて海の環境問題に興味を抱く。そんな風花にハワイ留学のチャンスが巡ってくるのだが、最初、風花は「くくると離れたくないから」と断ってしまう。

くくるにとって風花は、親友であると同時に、お姉さん替わりでもあった。そんな風花がいなくなったら、いま仕事でいっぱいいっぱいのくくるはどうなってしまうのか。

ここで再び、風花は自分の夢よりも他人を優先させようとしてしまう。

たまたま水族館に迷い込んだだけの風花が、今度はそこを離れられなくなってしまったのだ。

これは、くくるにとってもよくない。自分が理由で風花が夢を諦めたとなったら、くくるは絶対に責任を感じてしまう。実際、風花にセンターを譲られた後輩は、自分が風花を引退に追い込んでしまったんだと、逆に責任を感じてしまっていた。

だが、くくるが風花の優しさを受け止めたうえで、風花を夢へと送り出す側に回ることで、風花はようやく自分の夢へと進む。

「たまたま流れ着いた場所」から「居心地の良い場所」へと変わり、それが「たとえそこを旅立っても、また帰ってくる場所」になることで、ようやく風花は沖に出られたのだ。これが、風花にとっての「白い砂のアクアトープ」だ。

「白い砂のアクアトープ」は何のアニメか

最終回、完成したばかりの新エリア、床には白い砂が敷き詰められ、天井まで水槽が覆うまさに「白い砂のアクアトープ」で、風花とくくるはそれぞれ、「水族館が好きと言葉にする。

風花にとっては、たまたま流れ着いた場所なんかではなく、どこに行ってもまた帰ってこれる大切な場所として、ティンガーラが、「水族館が好き」。

くくるにとっては、たんによいところやおもしろいところだけでなく、いやなところやつらいところも味わって、それでもやっぱり「水族館が好き」。

そして、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えた時、ティンガーラにキジムナーが現れる。

1クール目ではたびたび、がまがまにキジムナーが現れて不思議な幻想を人々に見せていたが、ティンガーラに舞台を移してからは、その描写は全くなかった。

がまがまはくくるのおじいが館長をしていた水族館。最終回でのくくるの「がまがまで働いていて、つらいことあった?」の質問に、おじいは「いっぱいあった」と答える。きっとおじいは、何度もつらい思いをしても、それでもやっぱり水族館が大好きな、本当の意味での「水族館が好き」と言える人なのだろう。だから、がまがまにはキジムナーが現れた。

そのがまがまはなくなって、がれきの山と化してしまうのだけれど、そこにいついていたキジムナーはもしかしたら、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えるようになるまで、二人がいるティンガーラに行くのを待っていたのかもしれない。

くくると風花が本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでの全24話、それがアニメ「白い砂のアクアトープ」である。

最後に、これだけは言いたい。

最終回、風花が2年のハワイ留学を終えてくくると再会した時、衝撃の事実が発覚する。

会えなかった2年間、お互いが相手の名前の意味を調べていた!

……どんだけ好きだ、おまえら!

「旅は移動しないといけない」って、誰が決めつけた?

ZINE作りをしていると、自分が旅をしているような感覚に陥ることがあります。

まったく何もないところから、計画を立て、準備を進め、「感性」という目的地にたどり着くように、一歩一歩製作を進める。なんだか旅に似ているような気がしますね。

計画通りに行かないこともしょっちゅう。計画変更もあります。その辺も旅に似てる。

一冊作るのにかかる日数は約100日。ちょうど、船で地球を一周するくらいの時間で、ZINEが一冊出来上がるんですね。

出来上がったZINEを見て、ノートにつらつらと構想を書いただけの状態から、よくぞ形になったと感慨にふける様は、まさに旅路を振り返る感動そのもの。

ZINE作りは、いや、モノ作りは、旅に似ているんです。

何より、旅もZINE作りも楽しいしね。

コロナ禍でさっぱり旅行に行ってないので、「旅行に行きたいよー」という欲はあるんだけど、ここしばらく、「どこかにあてのない旅に行きたいよー」という欲はさっぱりありません。それはきっと、モノ作りが旅と同じような刺激と興奮、そして感動を与えてくれてるからでしょう。

むしろ、「移動しなければ、旅とは呼べない」だなんて、誰が決めつけた?

物理的な移動を伴っていなくても、見ている景色が変わり続けるのなら、もうそれは「旅」と呼んでいいんじゃないか?

旅好きの人の多くは、「旅に出ると、価値観が変わるよ」なんて言います。確かに、僕は地球一周の船旅二日目ぐらいで、それまでの狭い価値観がぶっ壊れました。

旅が価値観が変えるというなら、「旅とは、物理的な移動を伴わなければいけない」という、凝り固まった価値観も、ぶっ壊れるべきです。

たとえ家から一歩も出なくても、目の前の景色が変わり続け、ワクワクし続けているのなら、それは「旅」と呼んでいい!

むしろ、「旅」を体験するのに、長距離移動を伴わなければならない、と考えていることの方が、非効率だろ。電車代だってバカにならないし、電車に座ってるだけでも、疲れるんだぞ。

ちなみに、僕のZINE作りという旅は、ちょっとは移動も伴うんですよ。

作ったZINEを売らなければいけないんで、ZINEを取り扱うお店やイベントは常に探してます。

また、イベントのブースを作るために、ホームセンターや文房具屋、時には都会の専門店や河童橋の道具街に足を運ぶことも。

ZINEを作ってなかったら、絶対行かなかったお店、絶対知らなかったイベント、絶対買わなかったもの、そういった未知の世界にZINE作りが結び付けてくれる。

そして、絶対出会わなかった人、絶対読まなかった本、絶対知らなかったこと、そういった結びつきもあります。

そういったものが、目の前の景色をどんどん変えてくれる。

ZINE作りは旅です。卓上でできる、極上の冒険なのです。

手書きにまつわるあれやこれや

「民俗学は好きですか?」vol.6が完成し、秋の文学フリマも終わり、12月に入ってからは本格的にvol.7の制作を始めました。

vol.7はどんな企画でいこうかしら、とさっそくノートを広げ、あれこれ書き連ねてます。

そう、僕はこういったアイデアを書き留めるとき、必ず「手書きのノート」を使ってるんです。

「最近、全然文字を書かなくなった」なんて話をよく聞くけれど、僕は今でもバリバリ手書きをしてますね。

どうして、手書きのノートにこだわるのか。

理由は一つです。

手書きのノートは、乱雑に扱っても、中のデータがなくならない!

デジタルは、ちょっとした衝撃ですぐデータがとびます。

ぶつけてもダメだし、落っことしてもダメだし、踏んづけてもダメ。

わがままだなぁ、もう。デリケートなんだから。

その点、手書きのノートは頑丈です。ゾウが踏んでも壊れません、たぶん。

この手書きのノートは、基本、外には出しません。他人に送って読ませることもしません。だから、手書きでいいんです。

これが、外とやり取りするような文書の場合は、デジタルの方がいい。一瞬で送れますからね。

ところが、お役所になんかの書類を届けてください、みたいな場合、ほとんどが紙の書類。最近、ようやくe-taxが出てきた程度。数年前にお役所とやり取りした時は「では、紙の書類を郵送してください」でした。

あきれたのが、役所のサイトに「申込用紙フォーマット」みたいなのがあって、「こちらを印刷して郵送してください」。

……なぜ、一度印刷させる? そこの画面に直接書き込める仕様にすればいいでしょ? e-taxはサイトに直接入力してるぞ。

印刷するだけでもひと手間めんどくさいうえに、書き損じをしようものなら、もう一度初めからやり直し。デジタルならバックスペースキー一押しで解決なのに。

そして郵送。封筒に入れて、あて名を書いて、切手を貼って、ポストに入れて。近場なら一日あれば届くだろうけど、土日を挟んだらもっとかかります。

デジタル送信なら、秒です。地球の裏側だろうが、秒です。

そうやって郵送した書類に何か確認したいことがあったのか、お役所から電話がかかってくることがあります。

ところが、電話に気づけず、携帯電話を見たら着信履歴があって、あら大変とかけなおすんですね。

すると、担当者がいまいないので、と言われる。何時に戻りますかねと聞いても、こちらから後で折り返すので、と言われて仕方がないから電話を切る。

するとまた、電話に出れないようなときに限って電話が来る。

着信履歴を見てあら大変とかけなおすと、ただいま担当者がいませんと言われ……。

……メールでよこせや!

電話というのは、「こちらの電話に出れる時間」と、「相手の電話に出れる時間」が奇跡的に合致した時にだけ通じる、「奇跡の通信手段」だ! 奇跡を信じて何度もかけてくるんじゃない!

というわけで、手書きかデジタルか、要は使い分けが大事だよ、という話だったんですか?

ちなみに、年末になりましたが、私は年賀状に関しては、手書きだろうと宛名印刷だろうと一切やらない主義です。LINEとかSNSとかでもこの手の挨拶は一切やらない主義です。たかだか日付が変わったぐらいで、おめでたいことなんて何も起きてないからです。

3回目の文学フリマ

僕にとって3回目の文学フリマが終わりました。

目標としていた部数の8割以上を売り上げ、悪くはない結果です。

一方で、足を止めてもらうことの難しさ、立ち読みからの購入へのハードルの高さ、というものを改めて実感しましたね。

自分のブースの前をスルーする人たちに「なんでスルーするんだよー」と思いつつも、いざ自分が客として会場を回った時は、ほぼすべてのブースをスルーするという、まったく同じことをしていました。そりゃ、スルーするよね。何個ブースがあると思ってんだよ。

実は、今回の文フリの収穫はそこにあったんです。「いくつ売れたか」「どんな人が買ったか」だけじゃなくて、「どんな人が足を止めなかったか」「どんな人が立ち読みだけで買わなかったか」までもがよくわかったのです。

そして、「買ってくれた人」「立ち読みだけの人」「スルーした人」の性別・年齢層がはっきりちがうこともよくわかりました。

3時間ぐらいブースに座っていると、「この人は足止めないだろうな~」とか、「この人は立ち読みしてるけど、買ってくれる可能性は30%くらいかな」というのがわかってきます。

となると、「8割」を「完売」にするための道というのも見えてくるわけで「スルーしただけの人」よりも「立ち読みする人」にどうアピールするかを考えていけばいい。

こういうことは、ネットだけでやってたらわからないんだよなぁ。「いくつ売れた」とか「どの層に売れた」はネットでもわかるけど、「どんな人が買わなかった」「どんな風に選ばれなかったか」はネットではわからないんですね。

ネットの売り上げだけだと「画像見ただけでスルーした人」と「他の人のレビューとかも読んで買うのをやめた人」は全部「買わなかった人」と一緒くたにされるし、「PV数」や「再生回数」では「サイトや動画を見たけど、つまらなくて、途中でやめた人」までは反映されない。

たぶん、20年近く続く「出版不況」の原因の一つも、そこにあるんじゃないですかね。

だって、出版って「企画・編集する人」と「書く人」と「売る人」が別々じゃないですか。

編集者は原稿に口を出せるから、出版社と作者は連係がある程度とれるかもしれないけど、出版社が書店での売り方に口を出すわけでも、書店でのお客さんの動向をつぶさに見ているわけでも、ない。だから、書店でお客さんがどう動いているかなんて、把握してない。

マーケティングはやってるんだろうけど、そこには「もう少しで買ってくれそうだったけど、買わなかった人たち」みたいな微妙なポジションの人は反映されない。

でも、今回の文学フリマでお客さんを見ていてよく分かったのは、さらに売り上げを上げようとしたら、「すでに買ってくれる人たち」だけでなく、「もう少しで買いそうだったけど、買わなかった人たち」のような微妙なポジションにもっとアピールしなければいけないな、と実感したのです。

たぶん、世の中の「伸び悩んでる人たち」の多くは、「足を止めなかった人たち」のことを全く考えないから、伸び悩むのではないでしょうか。「足を止めないなんて、あいつらバカだなぁ」ぐらいに思ってるのかもしれない。

選挙演説とかそうじゃない。駅前に人だかりができて「これだけの人が関心を持っています!」ってアピールするけど、実は圧倒的大多数だった「足を止めなかった人たち」の方を全くカウントしてない。

で、次に何を言い出すかと言えば「もっと政治に関心を持とう!」。

それを言うなら「俺たちもっと関心を持たれる努力をしなきゃ」じゃないかしら。

とにかく、「足を止めなかった人たちにもっと注目する頃」が大事だと、痛感した文学フリマだったのでした。

限界を知らないと先に進めない

いよいよ明日、三回目の文学フリマです。

楽しみ、と言うよりも緊張と不安の方がまさってるんですよ。

……ほんとに売れるの?

三回目だけど、やっぱりまだまだ不安です。これ、慣れる人いるん?

毎回毎回、テストを受けに行くような感覚ですね。これまでの成果が試されている気分。

今回はかなり時間に余裕をもって、作品作りはもちろん、それを売るための準備もこれまで進めてきました。

でも、その努力が報われなかったら?

特に今回は不安が大きくて、なぜなら、前回の倍の部数を販売するつもりなんです。

すでに、文学フリマの半月ほど前には刷り上がっています。もう逃げられないぞ。ああ、胃液を吐きそう。

まあ、これまでの部数が少なすぎたんですけどね。コロナ禍なんだし、そんなに客は来ないでしょ、と少なめに刷っていたら、瞬く間に売り切れてちゃったので、今回、もっと部数を増やそうと思い立ったんですよ。

なにせ、前回の文学フリマ東京は、2時間で売り切れてちゃったのですから(イベント自体は5時間)。短い文学フリマだったなぁ。ほんとにコロナ禍だったのか?

これは、いくら何でも部数設定が弱気すぎた、というわけで、今回は倍の部数を刷ったのですよ。

ただ、「倍の部数」と決心するまでにもまたいろいろありまして。

「1.6倍」にするか「2倍」にするかで、一週間ぐらい悩みました。

結果、売れ残るのを覚悟で、「2倍」にすると決断。果たして、どうなることやら。

まだ、自分の限界が見えないんですよ。いったい何部売れるのか、という限界が。

「限界は超えるためにある!」

「いや、限界は超えないためにある!」

「限界まで足掻いてみる!」

ヒーローものだったりアニメだったりで、いろんな「限界」の話が出てきます。

そんななか今の僕の心境は

「限界を知らないと、先に進めないじゃないか」

自分の限界がどこにあるのかを把握していなかったら、その先に進みようがないんですよ。

そうです。私、限界の先に進む気、満々です。

限界が見えてるからこそ、その先に進もうと努力する。逆に言うと、限界がわからない状態では、努力できないんですよ。

限界よりもその先へと進むために、まずは自分の限界がどこにあるかを知りたいんです。

だから、「売るための準備」「努力」と書いたけど、それが本当の意味での「努力」になるのは、限界が見えて、その先に進もうとするとき。

……まあ、そもそも「努力」って言葉はあまり好きじゃないんだけど。「オレ、やってますぜ感」が鼻につく。誰に? 僕自身に。

だいたい、いざ当日になって、ブースを設営したら、もうほとんどやることはない。座ってるだけ。努力もへったくれもないのです。過剰な売り込みは逆効果だと思うし。

というわけで、明日はいよいよ文学フリマです。ここにきて、もうやることはなにのないのに、焦りだけを感じています。

でも、まだまだまだまだ止まんないよ。鼓動がまだだって鳴りやまない!

政治に興味があるヤツがえらいのか?

選挙が終わりました。衆議院選挙の話です。

選挙期間中、あちらこちらで「選挙に行こう!」「投票しよう!」と、もううるさいったりゃありゃしない。

どうしてこうもしつこくしつこく言うんですかね。

だって、人ってしつこく言われるほど、反発したくなるものじゃないですか。

「勉強しなさい!」「うっせーな! 今やろうとしてたのに、やる気なくなったんだけど!」という、アレですよ。

人はしつこく言われれば言われるほど、反発したくなるものなんですよ。でないと、「うっせぇわ」なんて曲、流行ったりしません。

なかには「投票しろ!」などと言う、もはや脅迫じゃないかという物言いのポスターもありました。そういう高圧的な言い方をしたら、むしろ足が遠のくのではないかと、なんで考えない?

しつこく言いすぎると逆効果。じゃあ、どうしたら投票率が上がるのか。

……行きたくないものはムリしていかなくていいんじゃないかな。この国には「自由」があるんだから。

そもそもの話、他人を自分の思い通りに動かそう、という発想自体が、ちょっとズレてると思います。たとえそこに、選挙とか投票とか政治のような大義名分があったとしてもね。

選挙期間中、これまたよく聞いた言葉が「政治に関心を持とう」。

……政治に関心を持つ奴がそんなに偉いのか。

政治に関心あるやつがやってることって、右も左も口汚い罵りあいと貶めあいばっかりじゃないですか。「#国会中継」みたいなツイッターなんて、ほんとに子供に見せられるようなものじゃない。

はっきり言って、人として、「下品」なんですよ。どんなに立派なことを言っていても、その言い方や振る舞いは、「下品」なんです。

人は話の内容よりも、その話し方や立ち振る舞いに品があるかどうかを重視するんです。

たとえば、街頭演説している男がいて、とても立派な主張をしていたとしましょう。

でも、その男が全裸でパンツすら履かずに演説をしていたとしたら? 演説の内容がどんなに立派なものだったとしても、誰一人耳を傾ける者はいないはず。なぜなら、「下品」だからです。

若者に政治に関心を持ってもらいたかったら、政治に憧れを持ってもらえばいいんです。憧れの力は強いです。ヒーローに憧れて変身ポーズをまねし、サッカー選手に憧れてサッカー部に入り、ロックスターに憧れて歌い方やファッションをまねする。いくつになっても、人は憧れで動きます。

ところが、「政治に関心ある大人」に若者は憧れない。なぜなら、彼らは「下品」だからです。

「下品」なヤツには憧れないし、「下品」なヤツとは関わりたくない。人として、当然の発想です。

そして、「下品」なヤツが、「下品」なくせに「俺は政治に関心があるから偉いんだ」と言わんばかりに「投票しろ!」などと言う。

人間が見えていないんだなぁ。「人間とは何か」がわかっていない。

しつこく言い続けたら、人間はどう思うか。

高圧的な言い方をされたら、人間はどう動くか。

罵りあいを見せられたら、人間はどう動くか。

「下品」な人間が、周りからどう見えているか。

だから僕は、「政治に関心を持て」とは言いません。「人間に関心を持て」と言う。「人間とは何ぞや」と問い続けろ、と言う。

人間に関心を持つとはどういうことか。もちろん、生の人間と触れ合うのが一番いいけど、優れた文学や、歌の歌詞、芸術、歴史や文化に触れることでも人間は学べます。他人が苦手な人でも、自分の内面と向き合う、と言う学び方もあります。

政治に関心を持つ前に、まずは人間に関心を持とう。むしろ、人間に関心がないのに、何を勘違いしたのか偉そうに政治に関心を持つヤツ、これが一番めんどくさいんです。

販売ブースのあれこれ

今月末には「文学フリマ東京」があります。3回目の参加ですね。

文学フリマが近づくと、毎回毎回「販売ブース、どうしようかなー」ということを考えてます。

どこのブースも、その世界観にあったブースを設営していて、やっぱりそういうところで負けちゃだめなんです。「こだわったブース」と「手を抜いたブース」だと、やっぱり「こだわったブース」の方が目に留まりやすいんですね。

というわけで、凝りに凝ったブースってやつを考えてみるわけなんですが、ここで一つ問題が。

どんなに凝りに凝った、おしゃれなブースを設計したところで、持ち運ぶことができなかったら意味ないんですよ。

すぐに設営できて、すぐにバラすことができないといけない。僕の場合は電車で移動するので、カバンひとつで持ち運びできないといけない。

となると、素材も、仕組みも、「トランクひとつだけで飛び回る」ということが大前提になるんです。

重い素材、軽くてもかさばる素材は、持ち運びに不便なのでNG。

それでいて、棚とかを作るときは、それなりの強度がないとだめ。おまけに、持ち運びするためにはバラバラにしないといけない。つまり、ばらせる構造じゃないとだめ。

そんな都合のいい素材はないかと、ある時はホームセンターをうろうろ。またある時は合羽橋をうろうろ。さらにある時はカッパのコスプレで街をうろうろ。いや、カッパのコスプレはしてないな。

せっせとZINEだけ作っていればいい、というわけじゃないのです。

いや、せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にも手を抜きたくはない。

たとえば、ステージに立って歌う、となると、「衣装はどーでもいい」とはならないでしょう。「演出もセットも、なんでもいい」というわけにはいかないでしょう。「歌さえ上手けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはいかないのです。

たとえば、飲食店をやる、となると、「内装はこだわらなくていい」とはならないでしょう。洋食屋ならヨーロッパっぽく、お寿司屋だったら純和風に、ハンバーガー屋はアメリカンに、喫茶店はアンティークに、内装や雑貨や音楽で世界観を表現する。これ、どこもやっていること。「メシさえ旨けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはやっぱりいかんのです。

それと全く同じです。

せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にもこだわりたい。いや、販売ブースまでを含めて、僕の一つの作品なんです。

むしろ、世のライターだ作家だと言われる人たちが、原稿だけ書いて、その販売は完全に本屋まかせ、ということの方が、僕には不可解です。

さらに言えば、出版社ですら販売は書店まかせ、というのが僕には不可解なのです。

製作から販売まで全部やる。大変だけど、正直めんどくさいけど、楽しいです。

夢の結実点はどこだ?

電車の中で映像の広告が見れるようになったのはいつからでしったっけ? 僕が学生の頃にはまだなかったように思うから、ここ数年のような気もしますけど、いつしかすっかり当たり前のものになってました。

電車に乗りながら、ぼんやりとCMを見てたんです。どうやら、大手の予備校のCMみたいです。

そのCMは、虫が好きな女の子が主人公で、「女の子なのに虫が好きなんて変なのー!」とからかわれがらも、家族の励ましもあって、好きなものを好きなまま、成長していきます。イイハナシダナー。

やがて女の子は大人になって虫の研究者となり、なんか顕微鏡を見てたら大発見したらしく、「なにかの生物学賞」を日本人で初めて受賞するのです(あ、この話はCMの話で、フィクションです)。いやぁ、「なにかを好きだ」ということの原動力は素晴らしい! イイハナシダ……。

……「好き」の結実点は、「成功」や「栄光」でいいの?

……なにかを「好き」って気持ちは、そういった形で報われないといけないの?

じゃあ、虫が好きだけど研究者にはならずにこれといった大発見もせずに、でも週末にはカブトムシを探して森に向かうような大人は、好きなもので成功したわけじゃないから、報われてないのか?

そもそも、「好き」が報われるって何だ?

「努力」なら、そりゃ、報われてなんぼですよ。「負けちゃったけど惜しかったね」でいいやと思って努力する人はいないわけです。報われてなんぼです。

でも、「好き」はまた違うでしょう?  報われたくて努力する人はいるけど、報われたくて好きになったわけじゃないじゃん。

じゃあ、「好き」の結実点ってどこだろうと思ったら、それって「好きであり続けること」なんじゃないか、と思うんです。

好きで好きで始めたことでも、ずっとやり続けてたら、どこかでちょっとキライになってしまうタイミングってものがあります。

好きでやってるんだけど、努力しても結果が伴わず、報われなかったとき……。

それでもやっぱり好きでいられるか?

だって、「好きだったものが、キライになる」ってこんな悲しいことはないでしょう? それを好きだった日々を自分で否定しなくちゃいけないなんて。

だからやっぱり、「好き」の結実点は「今も好き」「ずっと好き」「たとえ報われなくても、好き」なんです。

ドリカムも歌ってるでしょ。「報われなくても、結ばれなくても、あなたはたった一人の運命の人 あああ~♪」と。

だから、あのCMのオチは、「決して思い通りの人生じゃないけど、ふと道端で虫を見かけて、やっぱり虫が好きで、ついつい微笑んじゃう」とか、そんな感じがいいと思うのです。

……ただね、これ、残念なことに、残念なことに?予備校のCMなんですよ。「みんな、大学行こうぜ!」って言わなければいけないんです。

まかり間違っても、「虫が好きすぎて、大学を中退して、虫取り網片手にアフリカへと向かう」みたいなオチであっちゃならないんです。クライアントが許しません。クライアントが報われません。

……CMって、難しい!

感覚でとらえる民俗学

ここ最近は、「日本の民俗の世界を、感覚でとらえることはできないか」なんてことを考えています。

どこの学問もそうだと思うけど、日本民俗学は学問だから、知識と論理をもとに語られるんですね。知識をもとにして論理的に考察を進める。結論には根拠が必要で、そのためには知識が必要で、根拠となる知識は、多ければ多い方がいい。

だけど、僕は学者ではなく、物書きなのです。あんまりそういった「知識と理論」に偏り過ぎるのもどうなんだろう、なんて考えるのです。ちょっと堅くないかな、って。

もっと感覚的なとらえ方をしたっていいんじゃないかしら。「これ、おもしろい」「美しい」「ワクワクする」「なんか怖い」、そういった、感覚的なものを中心にして文を書きたい。

いわば「それってあなたの感想ですよね?」ってやつですね。

……感想で悪いか!

でも、僕が作っているZINE「民俗学は好きですか?」は論文でも教科書でもなく、「読み物」です。「正しい」よりも「おもしろい」を重視して作っているわけです。

それに、昔の人たちは身の回りの世界を、知識や理屈ではなく、もっと感覚的にとらえていたはずなのです。「この神社にはこんな祭神がいて、こんな歴史があって」なんて堅苦しいことは考えずに、「なんかここ、めっちゃ神々しい!」という感覚で拝んでいたはず。

そんなことを考えながら、この前、某刑場跡を訪れました。

場所を具体的に書かないのは、僕がそこに対していい印象を持っていないからです。

駅を降りたってから、「その場所」に近づくにつれて、なんだか空気がひずんでいるような感覚を覚えました。

空気がひずんでいて、なんだか一刻も早くそこを離れたい、そんな気持ち。歩くだけで、なんだかげっそりと疲れる、不思議な感覚。そこに住んでいる人からすれば、すごい失礼な話。

……たしかに僕は、「日本の民俗の世界を、知識や理屈ではなく、感覚でとらえたい」とは言いました。

……「霊感が欲しい」とは言ってない!

まあ、これはいわゆる「霊感」とは違うと思うけど。

なぜなら、うちの地元にも「処刑場跡」はあるんだけど、そこへ行っても特に何も感じないからです。

地元の処刑場跡って場所は今はすっかりおしゃれな街なのです。

霊感がついたのならば、地元の処刑場跡を自転車で通るたびに、霊に憑りつかれて眩暈だ吐き気だに襲われてないと、おかしい。

つまり、これは霊感なんてたいそうなものではなく、ただ街になんとなく漂う当時の「雰囲気」をオーバーに感じてしまってるだけなのでしょう。

でも、これこそ「感覚でつかむ民俗世界」ってヤツなのでは?

昔の人たちは知識や理屈ではなく、「この辺、なんか不気味な場所だなぁ」と何となく感じて、処刑場だの墓場だのを作ったはず。

僕もそんな風に、民俗の世界を感覚でとらえていきたい。

でも、そうやって感覚でとらえた世界を、ほかの人にも伝わるように表現するためには、それこそ知識や理屈が必要なのです。

やっぱり、ちゃんと勉強しないとなぁ。