小説 あしたてんきになぁれ 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」第27話にして、ついに主人公の一人、志保の過去が明かされます。なぜ、志保は薬物に手を出したのか。「あしなれ」第27話スタート!


第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

シブヤの大型家電量販店の中のゲーム売り場、最新のレースゲームのお試しプレイ用コントローラーを、志保は握っていた。

1Pのコントローラーは友人が握っている。志保は2Pのコントローラーを握り、画面の向こうにある緑の車を操っている。

 

神崎志保。星桜高校1年生。

 

画面の中の車は猛スピードで高速道路を走り、何台もの車を追い抜いていく。現実の高速道路と違うのは、いくらスピードを出してもパトカーが現れないこと、いやがらせかと思うくらいに曲がりくねっていること、そして、高速道路にもかかわらず、壁がないことだ。

コントローラーの操作を誤ると、あっという間にコースアウトしてしまう。道路の向こうい広がる暗闇に車が飛び出し、三回繰り返すとそのままゲームオーバーだ。

制服である紺色のブレザーを身にまとった志保は、表情を変えることなく、コントローラーを握りしめていた。

隣では友人の赤い車が、ヘアピンカーブで大きくコースアウトして暗闇を舞った。直後に現れる真っ赤な「GAME OVER」の文字。

「あ~!」

友人がため息にも似た叫びを漏らし、その後ろで別の友人たちが口々に

「惜しかったよ~」

「いや、あれ、ムズいって」

と笑いあっている。

一方の志保は、相変わらず硬い表情を崩すことなく、コースに車を走らせていた。友人たちの視線も志保に注がれる。

「志保っちうまいじゃん。ゲームとかやるイメージなかったけど」

「これは操作がシンプルだから」

志保は画面を凝視したまま答えた。

そう、こういうのは要領を抑えればいいのだ。

そもそも、自動車レースというのは、速く走ればいいわけではない。単に自動車の速さですべてが決まるのであれば、ドライバーなんて誰でもいい。

ドライバーの腕の見せ所はハンドルさばきである。トップスピードで走りつつ、高速で迫りくるコースの変化に対して、的確なハンドル操作をミスすることなく繰り返すことが、トップレーサーの才能だ。

もちろん、志保にそんな才能はない。

だから、志保はスピードを出すことを控えた。

志保たちがプレイする前にこのゲームを体験していた人たちはいずれも、トップ近くまで加速し、コースアウトや激突を繰り返し、ゲームオーバーとなっていた。後ろで並びながらその様子を見ていた志保は理解した。このレースゲームはコースの難易度が高く、トップスピードを出してしまうと、よほど慣れていない限りクリアできない。初心者が完走したければ、スピードを抑えることが重要だ。

スピードを抑えることは、レースとしては邪道かもしれない。

それでも、コースアウトしてゲームオーバーになってしまったら、何にもならないじゃないか。

志保はスピードを捨て、正確さに徹した。

そうなると後はもう、要領の良さの問題である。車をずらしたり、方向を変えたり、必要なタイミングで必要な操作をするだけだ。

志保は無事完走した。画面に「FINISH」の文字が踊り、背後から友人たちの歓声が聞こえる。

「志保っち、すごいじゃん!」

「あ、でも、順位は17位だって」

このゲームは30台もの車でレースを競う、という設定だ。第30位から始まり、一台ずつ車を抜いていく。

志保は早々に順位を捨てた。順位を気にしていたら、完走できない。どれだけ早かろうと、ちゃんとゴールできなかったら意味がない。

「でもさぁ、ミカのあれ、マジウケたよね」

ミカというのは、志保の隣でプレーして、早々にゲームオーバーとなった友人だ。

「あれねぇ。他の車に二回連続でぶつかって、そのままコースアウトってヤバすぎるでしょ」

「しかも、そのあと復活したけど、5秒でまたコースアウトして、ゲームオーバーでしょ? 下手すぎ」

そう言って、友人たちはゲラゲラと笑う。

会話の中心にいるのは、完走した志保ではなく、ゲームオーバーになった友人の方だった。

志保にはその理由がわかっていた。

志保のプレーは、ゲームとして面白くなかったのだ。

なにより、志保自身がプレーしていても、面白くなかった。

完走しても、ちっともうれしくなかった。

ゲームをしていたはずなのに、いつの間かそれが作業となり、楽しめなかった。

いっそコースアウトしてゲームオーバーしてしまった方が、ゲームとしては楽しめたのかもしれない。

 

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焦げ茶色のレンガを積み上げたような巨大なマンションに、志保は入っていった。志保は物心がついた時から、このマンションの9階で家族と暮らしている。

「ただいま……」

薄暗い部屋の中から返事はない。だが、そもそも返事を期待していたわけではないので、志保は表情を変えることなく靴を脱ぐ。

共働きの両親は今日も帰りが遅い。夕食に間に合うのであれば何か連絡があるはずだが、神崎家の食卓に二人以上の人間が並ぶことは稀だ。休日でさえ、志保はひとりで食事をとることが多い。一人っ子なので、志保は家でのほとんどん時間を、一人で過ごしている。

そういえばさっきメールが来ていた。もしかしたら、とチェックする。

メールの主は両親ではなく、違う学校に通うカレシだった。ゴールデンウィークに入る少し前に、友達が開いた合コンのような感じの食事会で出会った相手だ。内容はたわいもないようなこと。志保もたわいのないようなことを打ち込んで返信する。

携帯電話をテーブルの上に置くと、着替えを済ませ、一息つくと、夕食の準備に取り掛かった。

最初は母の手伝いとして料理を始めたのだが、いつの間にか自分一人のために料理をするようになっていた。

料理をし、食事をし、片付ける。ここまでを志保は、まるで機械化された工場のように淡々とこなした。

夕食後はテレビを一時間ほど見る。番組が終わると自室へと向かい、机の上に参考書を置いた。一学期の期末テストもそう遠くない。ちゃんと勉強しておかなくては。

そこで携帯電話が鳴った。母親からのメールだった。

用件は二つ。帰りが終電近くなるということと、ちゃんと勉強しておくようにとのこと。

他にないのか、と志保は少し寂しく思った。

年頃の娘が一人で留守番をしているのである。「戸締りをしっかり」くらい書いてあってもいいんじゃないだろうか。夕飯にちゃんと栄養のあるものを食べてるのかとか、そういうことは気にならないのだろうか。

もっとも、昨日も一昨日も母親からのメールは同じ文面だった。どうせ、前に送ったメールをコピーしているのだろう。

志保も昨日母親に送ったメールをコピーする。ただ、それだけではさすがに物足りないので、絵文字を一つ追加した。「わかった。大丈夫。ちゃんとやってるよ」という味気ない文面も、そのひと工夫でだいぶ印象が変わる。

新しいメールを一から作成するよりも、そういう機能を使う方が、効率が良く、要領がよい。

そう、世の中の大抵のことは要領である。

料理を作るのも、勉強するのも、要領だ。傾向と対策を把握し、あらかじめいくつかのパターンを想定しておいて、状況に合わせて、用意しておいた対処法をこなしていけば、大抵のことはうまくいく。昼間のゲームがそうだったように。

人間関係だって、結局は要領だ。どういう話題を押さえておけば、友達が喜ぶか。どういう返事をメールで送れば、カレシと良好な関係が保てるか。どういう子供を演じておけば、両親が安心するか。

神崎志保という少女のもっとも秀でた部分は、その要領の良さと言える。

そもそも志保は、基本スペックからして高かった。勉強は人並み以上にでき、運動もそこそこできる。おしゃれにも気を使い、わりとモテる部類に入っている。手先も器用で、料理もできる。苦手なことと言えば、歌うことがちょっと苦手なくらい。

基本スペックが高いうえに、志保は要領がよいため、大抵のことは何でもこなせた。何でもできる子だったし、できないことがあっても、どうすればできるようになるかはすぐに分かった。そして、少し練習すればすぐにコツをつかみ、うまくなれた。

頭が良くて、かわいくて、何でも要領よくこなせる子。志保は小学校の頃から、そういうポジションだった。

子供の頃はそれでよかったのだ。勉強ができれば、両親や先生が褒めてくれる。おしゃれに気を遣えば、お友達から一目置かれ、男子にもモテる。

進学校に入り、多くの友達を作り、カレシを作る。青春のリア充要素を、その持ち前の容量の良さで志保は次々と揃えていった。

それはそれで、幸福だった。

だが、いつからだろうか。志保の幸福と背中合わせの場所に、得体のしれない恐怖が居座り、無数の見えない針で背中に痛みを与えるようになっていったのは。

勉強も友達もカレシも、要領よくこなしていけば、大抵のものは手が届く。多少の障害やハプニングが起ころうとも、その要領の良さでうまく切り抜けてしまう。

今まで、ずっとそうしてきた。

そして、たぶん、これからも。

進学、就職、出世、結婚、子育てと、たぶん世の多くの人がそうしているように、自分もそつなくこなしていけば、多少の障害はあれど、そう苦労することなく手にできてしまう。そんな予感が志保にはあった。それは驕りでも慢心でもなく、自分を客観的に分析したうえでの答えだ。

その予感が志保に、得体のしれない恐怖を与えていた。なんだかもう自分の人生が数十年先まで決まっているのではないかという得体のしれない恐怖に、志保は感触のない水の中でおぼれているかのような息苦しさを感じていた。

そして行きつく先は、両親と同じような大人になっている自分である。そういう未来が、容易に想像できた。

別に両親の人生を否定しているわけではない。大きな企業で重責を担っている両親のことは、素直に尊敬している。

それでも、結局は両親と同じような人生を歩んでしまうことは、なんだか歪んだ時空の無限ループに陥っているような気がして、それが志保にはとてつもなく怖かった。

たしかに自分の意志で選んでいるはずなのに、何か陰謀めいた力によって自分の意志を操作されているかのような、言いようのない恐怖感。実は自分が人間ではなく、プログラム通りに動くロボットなのだと突きつけられたかのような絶望感。

志保を操る陰謀めいた力。おそらく「常識」と呼ぶものがそれだろう。

その常識に逆らうことなく、淡々と従ってしまう自分と、そこからもたらされるわかりきった明日、未来。それが何より、怖かった。

勉強して、お風呂に入って、気が付いたら夜の十一時を過ぎていた。両親はまだ帰ってこない。

志保は自分の部屋の電気を消すと、ベッドに入った。

昼間とたがわぬ明るさを保っていた部屋だったが、灯りを消すと、部屋は夜本来の暗闇に包まれた。

 

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「変わってんな、お前」

志保のカレシであるタカユキはそう言って笑った。

「やっぱりヘンかなぁ」

志保はパスタをフォークに巻き付けている。

シブヤの商業施設の中にあるパスタの店で、志保はタカユキとともにランチを食べていた。

何でもそつなくこなせてしまうと、先のことが見えてしまい、結局予定通りの人生しか歩めそうになくて、それが怖い。

そんなことをタカユキに話したのだが、返ってきたのは「変わってんな、お前」という言葉だった。

変なやつだと言われることもうすうす予想できていたのだが、志保は普段はそんな風に言われることがないので、改めて他人から変だと言われると、少しイラっとした。

だが、客観的に見ればやっぱり志保の考え方は変なのであろう。それもわかるから、志保は感情のささくれをそっと直して、タカユキの話を聞く。

タカユキはパスタを巻いたフォークを頬張り、メロンソーダを飲んでから、続きを話し始めた。

「だってさ、勉強も、ファッションも、料理も、人間関係も、何でもできるにこしたことないじゃん。その結果さ、欲しいものが手に入って、やりたいことがうまくいく。充実してんじゃん。それが怖いっていうのが、よくわかんねぇんだよなぁ」

もう一口、タカユキはパスタを口にした。

「それってさ、贅沢じゃね?」

そういわれることも、志保は予想していた。むしろ、そういわれることがわかっていたから、今まで誰にもこの話はしていなかった。

「何、ヤなの? 今の学校とか。あ、もしかして、俺と付き合ってるのがヤとかいうなよ?」

「ちがうちがう! そういうんじゃない。今の学校好きだし、そもそも、自分で志望して入ったんだし。タカくんのこともちゃんと好きだって」

そう言ってから志保は、「好き」という前に2秒ほど空白を開けるべきだったかな、と思った。それもやっぱり、持ち前の容量の良さで、恥じらいを演出したほうがタカユキはかわいいと思うだろう、というあざとい計算からくるものであった。

だが、もう一つ理由があった。何の臆面もなく、戸惑いもためらいも恥じらいもなく、「好き」と息を吐くように言ってしまう自分に、何か違和感を感じてしまったのだ。

「でしょ? 俺にとってお前は、かわいくて頭いい自慢のカノジョなんだから、ヘンな心配しなくていいんだよ」

自慢のカノジョと褒められると、やっぱり悪い気がしない。志保は少し顔を赤らめて下を向いた。

だが、またもや志保の左側に、要領が良くて客観的な志保が現れ、問いかける。

「自慢のカノジョ」というが、一体誰に自慢するというのだろうか。

そもそも好きだから付き合うのであって、誰かに自慢したりうらやましがれれるために付き合うのではない、はずである。

「自慢のカノジョ」というけれど、本当に自慢したいのはカノジョのほうじゃない。「自慢のカノジョを持っている俺ってスゲェ」なのではないか。

それは、ブランド物のバッグや高価なアクセサリーを見せびらかすのと大して変わりないのではないか。

でも、その自慢癖は、おそらく志保にもある。

タカユキはおしゃれな方ではあるが、決してギャル男というわけではなく、派手な遊び人でもない。志保の第一印象も「大人びててやさしそうな人」だった。実際、やや軽いところもあるが、一方でやさしくまじめな一面も持っている。

そんなタカユキは志保にとっても「自慢のカレシ」であった。

実際、タカユキの写真を友人たちに見せたときの、「え~! カレシ、かっこいい!」「やさしそー!」「いいなぁ」という羨望の強い驚嘆を浴びたときは、間違いなく優越感を味わっていた。

結局のところ、志保も一番かわいいのは自分ではないか。

要領よく何でも手にしてしまう自分の人生に言いようのない怖さを感じている一方で、そうやって常識的な欲望を満たすことを自ら欲し、手に入れている。

「常識」に従うことに恐怖を感じながらも、結局のところ志保は、「常識」を踏み外して生きることができないのだ。

もしかして、自分は本当の意味でタカユキのことを好きなのではないんじゃないか。ふとそんなことを志保は考えてしまう。

志保が欲しかったのは、「自慢のカレシを演じてくれる誰か」であって、それがたまたまタカユキだっただけなのではないか。

「さて、そろそろ行こうぜ」

タカユキが立ち上がり、志保も後に続く。

「あ、あたしも払うよ」

志保はバッグの中の財布に手をかけたが、タカユキは

「いいよいいよ、おごるって」

と言って一人でレジに行ってしまった。

二人で食事するときは、いつもタカユキがおごってくれる。志保は何度も自分も払うと申し出るのだが、タカユキは財布にかなり余裕があるらしく、いつもその申し出を断る。

そのたびに志保は引き下がる。ここはしおらしく、タカユキに「カノジョにおごるカレシ」を演じさせておけば、すべて丸く収まるという計算のもとに。

「でも、タカ君っていつもお金に余裕あるよね」

タカユキは学年でいえば志保の一個上、高2である。バイトの経験も志保よりあるのだろうが、だからと言って毎回おごってくれるとなると、その財源が気になる。

「販売系のバイトって言ってたよね。何売ってるの?」

店を出た志保は、タカユキの横に並びながら尋ねた。タカユキのバイトについてはこれまで、「販売系」としか聞いていない。服か何かを売ってるのだろうと勝手に思っている。

タカユキは少し何かを考えるようなそぶりを見せてから、口を開いた。

「……アイスだよ。あと、チョコとかかな」

「なにそれ? スイーツ屋さん? なんか似合わない」

志保はそういって笑った。それにしても、よっぽど人気で儲かっているアイス屋さんで働いているに違いない。

 

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この世には、とっくにバランスを失っていて、今にも崩壊しそうであるにもかかわらず、外から見てもとてもそんな風には見えないものがある。

たとえば風船。外から見るとまんまるで愛らしいが、その実態は空気が内部から圧力をかけ、ゴムがはちきれんばかりに膨張したとても不均衡な状態だ。わずかな穴ひとつで簡単に破裂する。

志保の家庭もそのような状態だった。両親は仕事でほとんど帰らず、たまに顔を合わせても会話と言えば「勉強はどうなんだ」くらい。次第に志保もカレシや友達との時間が増え、家に寄り付かなくなった。家族それぞれの時間が、家の外を軸に回り始め、家は、思い出の写真を飾るだけの箱となった。

志保の両親が離婚したのは、高校一年生の夏休みに入ってすぐだった。母親の方が家を出ていき、志保は父と暮らすことになった。名字も父方の「神崎」のまま。

実は、離婚の原因は、志保にもよくわからない。少なくとも、不倫だとか暴力だとか、何か決定的なものがあったわけではない。

一方で、何がきっかけになったのかはわからないが、その根底には「家族が家族でなくなっていた」ことがあるということを、志保は確信していた。

おそらく、きっかけはまるで風船に刺さった針のような小さなものだったのだろう。普通の家庭ならば、日常の小さな棘として見過ごされるようなものだったのかもしれない。

だが、志保の家庭は違った。その何ともわからぬ小さなきっかけで、それまで確実に存在していたにも拘らずまるで存在しないかのように扱われてきた家族のほころびが、一気に破滅へと広がった。ちょうど、風船が何に触れて穴が開いたのかもわからずに破裂するかのように。

そのことは、志保の心にもちろん、影を落とした。

だが、それ以上に志保の心を曇らせたことがあった。

それは、両親が離婚したにもかかわらず、志保の生活も人生も、何も変わらなかったということだった。

両親の離婚が決定的になった時、志保はもちろん悲しかった。だが、その一方で、自分が少し胸躍っていることを否定できなかった。

両親の離婚という大事件で、自分の人生も何か変わるのではないか、と。

レースゲームに例えれば、突然コントローラーが故障してどう操作すればいいのか全く分からない、そんな状況が訪れるのではないかと、少し期待していたのだ。

要領の良さとか、スペックの高さとか、そういうものとは違う、もっと人間的な何かが試される大きな試練が訪れるのではないか、と。

常識通りに生きることに違和感を覚えつつも、けっきょく常識を踏み外せない志保は、何か常識はずれなトラブルが起きて、常識通りの人生を無理やり変えてくれないかということを期待するしかなかった。

だが、離婚後最初の一週間で、そんな試練は訪れないことを志保は悟ってしまう。

家に帰ってもだれもおらず、自分で自分のご飯を作り、夏期講習やデートに出かける、それまでと変わらない日々。

もともと家にいなかった両親が半分になったところで、志保の生活に変化はなかったのだ。ゼロに2分の1をかけてもも、答えはゼロのままである。

おそらく、神崎家の破綻は志保が思っていたような大事件ではなく、とっくの昔に破綻していた家族に、「離婚」という名前がようやく付いた、たったそれだけのことだったのかもしれない。

だが、そのことは、両親が離婚した以上に、志保の心に大きな影を落とす。

家庭が破綻して、両親が離婚しても、自分の人生は何も変わらない。

じゃあ、一体何が起きれば、志保の人生は変えられるというのだろうか。

 

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「志保っちのカレってさ、青柳第二高だっけ?」

八月に入ったある日のことだった。友人たちと四人で、カフェで時間をつぶしていた志保に、友人の一人が尋ねた。

「そうだけど?」

志保は答えたが、そこから先の会話が続かなかった。

尋ねといてなんなんだろう、と友人の顔を見ると、なんとも微妙そうな表情をしている。

「なに? どうかしたの?」

「……塾で聞いた話なんだけどさ……」

そう言って友人は、何か申し訳なさそうに切り出した。

「この前、青柳第二の生徒が二人、覚醒剤で逮捕されたんだって……」

その話を聞いた時、最初の反応として志保は思わず笑ってしまった。

「覚醒剤? あはは、ないない。ガセだよ、そんなの」

評判の悪い不良高校ならいざ知らず、青柳第二高校は偏差値も少し高めの、普通の高校である。

そこの生徒が覚醒剤で捕まるなんて、ありえない。まず、接点がないはずだ。覚醒剤なんて代物、どこから入手するというのだろうか。

「誰から聞いたの、そんな話」

志保は半ば笑いながら尋ねた。

「だから、塾の友達だって。その人の友達の先輩って言うのが、青柳第二の人と付き合ってて……」

つまり、「友達の友達から聞いた怪談話」のようなものだ。取るに足らない、信憑性に欠ける話だ。

「それでね、ママにその話したら、ママが高校の頃にも、そんな噂があったんだって」

志保は友人の話す噂話よりも、「ママとたわいのない話をした」という部分の方が引っかかった。母親とそんな、取るに足らないような噂話をしたなんて、いつが最後だっただろうか。

そこで、別の友人が口をはさんだ。

「あたしもガセだと思うけどなぁ。青柳第二でしょ? ないって」

「でも、ママの話だとね……」

友人はそういうと、ドリンクを一口すすって、話しはじめた。

「ママが高校の頃の青柳第二って、不良高校ってわけではなかったみたいなんだけど、それでも何人かの不良グループがいたんだって。その人たちがやばい大人と繋がってて、校内でクスリとか売りさばいてたんだって」

やはり、どうにも信憑性に欠ける話である。

「それって、三十年くらい前の、うわさ話でしょ?」

志保はドリンクをすすりながら、さほど気にしてないように言った。

「だからママが言うにはね、その時の密売グループみたいなのが今でも校内に裏のパイプみたいなのを持ってて、そこを通じて麻薬を売ってるんじゃないかって」

「それって、ママの想像でしょ? 刑事ドラマかなんかの見過ぎぎじゃないの?」

志保はもはや、気にしないのを通り越して、呆れかえってしまった。

「とにかく、志保っちも気を付けてよ?」

友人は心配そうに志保を見た。

「気をつけるって何を?」

「だから……、ヘンなクスリを売りつけられないように……」

「タカ君はそういうんじゃないし」

「あ、いや、志保っちのカレシがそうだって言うんじゃなくて……」

友人はそういうとバツの悪そうに、ドリンクのストローに口をつけた。

「まあ、志保は大丈夫でしょ」

それまで黙って話を聞いていた別の友人が口を開く。

「志保は頭いいし、しっかりしてるもん。そういうクスリに手を出す人って、『いつでもやめられると思ってた』とか、『自分は大丈夫だと思ってた』とか、そういう風に考えてるんでしょ? 志保はそういうタイプじゃないって」

「でも、もしカレから勧められたりしたら断わりづらいんじゃ……」

「だから、タカ君はそういう人じゃないって」

志保は怒るでもなく、明るく言った。

まったくもってばかばかしい話だ。青柳第二がどうとか、志保のカレシがどうとかいう話もばかばかしいが、仮に噂が事実だったとして、志保のカレシがクスリに関わる人物だったとして、志保がそんなものに手を染めるなどありえない。志保は友人たちとの会話をそう頭の中で片づけ始めた。

薬物の恐ろしさくらい、志保だってわかっている。そういう授業もあったし、テレビでも見たことがある。

一度使ってしまえばやめられなくなる悪魔の薬。意志の強さでどうにかなるレベルではない。

友人が言う通り、『自分はやめられる』『自分は大丈夫』、そんな甘い考えは通用しない。意志の強さや体質などに関係なく、万人に等しく破滅をもたらす薬、それが覚醒剤である。

そう、覚醒剤は、万人に等しく破滅を与える。

……その一言だけが、どうにも志保の心から離れてくれなかった。

 

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自分の部屋で一人、パソコンの画面をスクロールさせて、志保は文字を追って行った。

「薬物 恐ろしさ」で検索して出てきたのは、警察や市役所などが作った、薬物がいかに恐ろしいかを伝えるホームページなどだった。

薬物がもたらす快楽についても書かれていた。薬物に手を染める人はきっとそういうのに魅かれる人がほとんどなのだろうが、正直、志保はそこには特に興味がない。

志保が知りたかったのは、薬物がいかに人を破滅させるか、という点だった。

勉強の合間の息抜きに調べ始めたのだが、気が付けば読みふけっている自分がいた。

覚醒剤を一度でも使えば、肉体だけでなく、精神も破壊し、さらに依存度が強く、一度使ったら抜け出せない。このサイトを書いた人はきっと、薬物に興味を持った人にその恐ろしさを伝えることで踏みとどまらせようと思って書いたに違いないのだが、志保はその文章に妙な期待感を抱いている自分を否定できなかった。

次に志保は「青柳第二 覚醒剤」で検索をしてみた。

いわゆる掲示板のようなものに、「青柳第二の生徒が覚醒剤で捕まった」とか、「昔もそんな事件があった」とか、友人から聞いた話に近いものが書かれていたが、いかんせん、掲示板というのが嘘くさく、信憑性に欠ける。

その中で一つ、志保がまだ聞いたことのない話があった。どこまでも信憑性に欠ける話ではあったが、覚醒剤の売り子についての話だ。

志保は不良というと髪を金に染め上げ、タバコを吸ってノーヘルでバイクを乗り回す、そんなヤンキー漫画に出てくるようなイメージしかなかったが、今、青柳第二で売り子として暗躍している不良たちは、そんなステレオタイプな連中とは違うのだという。

外見は普通の生徒と変わらない。どちらかと言えばちょっと遊んでいる風ではあるが、校則を逸脱するような派手さはなく、校則の範囲でおしゃれをしているといった感じだという。

「……なんか、タカ君みたい」

思わずそう口にしている志保がいた。

売り子の少年たちは、生活態度も目立った素行不良などはない。

だが、学校にばれないところで悪事を働く。見た目の派手さやケンカの強さではない、狡猾さのある不良なのだという。

つまりは、「いかにもなワル」ではなく、教師から見ても親から見ても友人から見ても、そんな悪人には見えない、それでいて、隠れて悪事を働く狡猾さと、それを罪だと思わない倫理のなさ、そういった子に密売グループは目を付けるのだという。

そんな若者は、わりと多いんじゃないか。そんな風に志保は考えていた。バレなければ多少ズルをしたって構わない。ルールを真面目に守るよりも、どうすれば他人より優位に立てるか、どうすればより多くのお金が手に入るか、そっちの方が大事という若者は。

そして、志保はあることに気づいていた。

クリックをするたびに、画面をスクロールするたびに、志保の中に「自分の人生を壊したい」という、何色ともつかない願望が芽生え、大きくなっているということに。

いや、本当はもっと前から抱いていたものだったのかもしれない。それまでは、人生を「壊す」ための手段など思いもよらず、そんな願望があること自体を自覚していなかった。だが今、その「手段」があることに気づいてしまい、同時におぞましい願望を自分が抱いていたことにも気づいてしまったのだろう。

そんなおぞましい願望を抱いたのは初めてだった。「願望」自体を抱いたことが、志保にとっては初めてだったかもしれない。

それまでの志保は、「常識」に従って生きてきた。

そう、何かを自分で望んだのではない。ただ常識に従い、常識的に有利な方へと自分の駒を進めてきただけだ。

毎日勉強するのも、自分がそう望んだんじゃない。「勉強しないと将来に影響する」という常識に従っているだけだ。

進学校に入ったのも、自分がそう望んだんじゃない。偏差値の高い学校に行けば将来に有利だという常識に従っただけだ。

友達付き合いも、自分で望んだんじゃない。「友達は多い方がいい」という常識に従っただけだ。

タカユキと付き合ったのだって、自分では「彼のことが好きだから」と思っているけれど、本当は自分でそう望んだのではなく、「カレシがいた方が幸せだ」という常識に従っているだけなのかもしれない。

そう、何一つ自分で望んでなんかいない。何一つ自分で選んでなんかいない。ただ常識に従っていて生きていただけだ。

「常識」と言うとまっとうなものに見えるけど、「どこのだれが決めたかも定かではない価値観」だ。「自分の意志」ではない。

自分の願望を抱かず、自分にとって何が幸せか考えもせず、ただ常識が決めた幸せに向かって駒を進めるだけの人生。

それが「自分の人生」と言えるのか。

そんな人生を歩む自分は、本当に「自分」と言えるのか。

その人生を歩むのは、別に自分じゃなくてもいいんじゃないか。

「神崎家の一人娘」も、「星桜高校の志保っち」も、「タカユキのカノジョ」も、志保じゃない別の誰かが成りすましても、誰も気づかないんじゃないか。

だって、志保がこれまでやってきたことは、「一人娘」や「優等生」、「明るい友人」、「自慢のカノジョ」という役割を常識的に演じることだったのだから。

求められていたのは志保ではない。与えられた役割を、常識ってやつが書いた脚本にしたがって、要領よくこなしてくれる「誰か」。

要領よく役をこなしてくれるのであれば、別にそれは、志保じゃなくてもよかったのだ。

それでも、志保は与えられた役に縋りつき、そつなくこなすことしかできない。

役をうまくこなせば、その先にあるのは銀幕の中のような、誰もがうらやむ幸せな光景だ。キャンパスライフを楽しむ志保。スーツを身にまとい会社で活躍する志保。ウェディングドレスを着て教会で祝福される志保、赤ん坊を抱いて幸せそうな志保、年老いて子供や孫に囲まれる志保……。

でも、そこに写っているのが志保じゃない別の誰かと入れ替わっても、たぶん、誰も気づきやしないのだろう。

誰もがうらやむ幸せを手にする人間が誰かだなんて、本当は別に誰でもよいのだ。

だって、ただ常識に従って生きてきただけで、本当に自分が望んで手にした幸せではないのだから。

同じように、志保の周りの人たちが、違うだれかに入れ替わっても、たぶん志保は気づかないのだろう。母親がいなくなっても、生活が大して変わらなかったように。家族が、友人が、カレシが、別の誰かと入れ替わっても、志保は何事もなく生きていくのだろう。

何一つ実体を伴わない空っぽの人生。誰もがただ役割をそつなくこなしていくだけの人生。まるで自分という存在が顔も名前もない靄でしかないような気がして、志保にとってそれはたまらない恐怖だった。

そんな恐怖が、志保にある願望を抱かせた。

それまで願望を抱かず、常識が求める役割を願望とすり替えて生きてきた志保が、はじめて抱いた願望。

それが「自分のこの人生を壊したい」というものだった。

自分のこの人生を壊して、常識にただ従うだけの人生を変えたい。

親の離婚や家族の崩壊よりもさらに強烈な、今いる場所にはもう二度と戻ってこれないくらいに、何もかも、徹底的に、完膚なきまでに、壊したい。

そうすることでしか、「自分」というものがつかめない。志保はそう思うようになっていた。

ふと、要領の良い志保が、どす黒い破壊願望を抱く志保をいさめるようにささやきかける。そんなことしてもろくな結末にならない。もっとよく考えろ。もっとうまい方法があるはずだ。

志保が最初に壊したのは、そんな要領の良い自分だった。そうやって要領よく最善のやり方を求めても、何かが変わったようで結局今までと何も変わらないような気がしたのだ。

後先考えずに壊す。きっと、それくらいのことしないと、また「ここ」に戻ってしまう。後先考えずに壊すことでしか、この恐怖からは逃れられない。

なにより、はじめて抱いた心の底からの願望、それも、計算高さとは真逆の感情を前に、「要領の良さ」はあまりにも無力だった。

黒い願望を抱いたまま検索を続ける日々が、何日か続いた。

その間も志保の変わりない日常が続いた。夏期講習に行って、家事をして、カレシにメールして、勉強するだけの日々。そこには、志保の人生を変えるなにかは転がっていはいなかった。ブレーキのない列車に乗り続けるかのような恐怖感は、日に日に強くなっていく。いや、元から抱いていた恐怖を、日に日に実感しているのだ。

ただ一つ、ネットの中に書かれた、悪魔の薬についての話だけが、志保が望む破滅をもたらす唯一の扉に見えた。

そして、「壊したい」はいつしか、「壊そう」へと変わった。

 

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観覧車は志保とタカユキを乗せて回る。上る。

東京から少し遠出しての遊園地デート。志保が最初に乗りたいと言ったのは、絶叫マシーンでもお化け屋敷でもなく、観覧車だった。

タカユキはもっとスリルがあるアトラクションが良かったらしいが、志保がどうしても乗りたいというので、折れた。

「でも、観覧車ってさ、たしかに景色はスゴイいいけど、地味じゃん」

観覧車に乗る前、タカユキはそうつぶやいた。

そう、観覧車は、地味だ。

大騒ぎすることもなく、黙って座っていれば、眺めの良い所へ行ける。

そこから見える景色を見て「きれいだねー」とつぶやく。ほんとは予想通りの景色でしかないことは隠して。

そうして、また同じ所へと戻ってくる。そうしたら、また別の客が乗り込むだけ。

観覧車に誰が乗ってるかなんて、どうでもいいことだ。

だが、観覧車がほかのアトラクションより優れているところを挙げるとすれば、それは気密性の高さだろう。

中でだれがどんな話をしてようと、決して外に漏れることはない。

志保はタカユキの手をぎゅっと握りしめる。高度が増すにつれて少しずつその力は強くなり、志保の鼓動も早くなる。

だが、それは高いところが苦手なわけではない。ましてや、恋のドキドキなんてものではない。

下を歩く人たちが、ピーナッツぐらいの大きさになった時、志保は切り出した。

「……なんかまたおごってもらっちゃって、ごめんね」

「いいって別に。余裕あるし」

「そんなに時給いいの? アイスとかチョコとか売るバイト」

「時給か……。時給で考えたことねぇから、わかんねぇや」

「ふーん」

志保は下を見た。ピーナッツよりさらに小さくなった人影と、自分の膝と、腰まで垂れた自分の髪が同時に見えた。

「それってさ……、今持ってる?」

「……ん?」

タカユキが志保の方を見たが、志保は下を向いたまま、彼を見なかった。

「アイスとか……チョコとか……」

志保とタカユキは、園内に入ってから、何も買うことなくこの観覧車に乗った。もしかしたらタカユキが板チョコを隠し持っててもおかしくはないが、アイスクリームなど持ってるはずがないのは、一目瞭然である。

それでも志保は尋ねた。「アイスかチョコは持っているか」と。

それが、志保が扉を開けるために用意したカギだった。もし、志保の推測が正しければ、タカユキは何かを察するはずだ。それで鍵があく。

志保のような常識を踏み外せない人間でも、ちょっと目をつむっている間に、確実に人生を破壊してくれるクスリの入った宝箱の鍵が。

「そっか……」

タカユキは志保の隣でため息にもつかない息を漏らした。

「ここにはないよ。センパイに電話すれば用意してもらえると思うけど……。でも、高いよ?」

そういってからタカユキは、一度言葉を切る。

「まあ、最初だけなら、俺が金払ってもいいけど……」

「またおごってくれるんだ……」

そういって志保は笑った。

最初はおごっても、どうせ依存から抜け出せず、何度も買い求めるすることになる。最終的には儲かるという計算なのだろう。

もしかしたら、最初から絶好のカモだと目をつけられていたのかもしれない。いや、今はそんなことはどうでもいい。

そうすることを決めたのは、まぎれもない志保自身だ。

青柳第二高校で脈々と、ドラッグの密売が受け継がれているという噂。

売り子の姿にタカユキがぴたりとあてはまるという推測。

そして、「アイス」が覚醒剤を、「チョコ」が大麻を意味する隠語である、というネットで簡単に出てくる事実。

「お菓子」や「スイーツ」ではなく、「アイス」や「チョコ」という言い方をしたタカユキの選択。

それだけでタカユキがそうだと決めつけるには確証が足らなかったが、鍵が開くかどうかを試してみるには十分だった。

なにより、「人生を壊す」という目的において、こんなチャンスはもう訪れないだろう。

そして、鍵は開いた。

志保の胸には、今まで感じたことのない充足感が広がっていた。

親や先生、常識に従うのではなく、はじめて自分の意志で何かを望み、何かを選択したのだという充足感。

それがたとえ「自分の人生を破滅させる」という決断だったとしても。

 

一つ一つを田代の前で言葉にしながら、志保の眼はいつの間にか涙にぬれていた。

なに、泣いてるんだろ。

全部、自分で決めたことなのに。

望み通り、観覧車のようにただ上って降りるだけだった志保の人生は、根元から壊せたのに。

きっと、田代が志保への失望を表情に浮かべるのを、見たくなかったから、目が涙でぬれるんだろう。

いつかのトクラの言葉が蘇る。破滅と背徳は甘美なのだ、と。

破滅を自ら望む人なんているわけない、そんな風に志保は考えていた。

でも、ちがった。クスリがもたらす想像を絶する快楽と絶望の狭間にもまれて、そもそものきっかけを志保は忘れていた。

誰よりも志保が、自分の破滅を望んでいたということを。

観覧車のように高い塔の上で、ラプンツェルが長い髪を垂らして待ち望んでいたのは、すてきな王子様なんかじゃない。

高い塔も、長い髪も、お姫様という役割も、何もかも壊してくれる、破滅そのものである。

「サイテーだよね……。意味わかんないよね……」

涙が志保の目からぽろぽろとこぼれる。おかげで、田代が今どんな顔をしているのか、志保にはわからない。

いい。わからなくていい。どうせ失望と幻滅と軽蔑といったところだろう。

でも、それは仕方ない。

志保はみずから破滅を望み、その道へと進んだのだから。その代償は甘んじて引き受けるべきだ。

そもそも、志保が徹底的な破滅を望んだのは、もう「あそこ」には戻らないようにするためだ。

それなのに、人並みに恋をしようだなんて。

恋をして、結ばれて、幸せになって、そんな甘い夢を描いてしまった自分がいた。

でも、その先にあるのは、きっと志保が恐れていた「常識に従うだけの人生」なのではないか。

そして「そこ」に戻ってしまった志保はきっとまたこう思うだろう。

「これが自分の人生なのか」

「こんなの、自分じゃなくてもいいんじゃないか」

「自分はただ役割を演じているだけなんじゃないか」

「本当に自分で選んで決めたのか」

本当に恐ろしいのは、悪魔のクスリなんかじゃない。

恐ろしいのは、空っぽの人生をまた歩んでしまうこと。

その先にある幸せが空っぽであると気づかずに、流されるままに追い求めてしまうこと。

そして、そんな人生を破壊したいという衝動をまた抱くであろうこと。その甘美な衝動からは逃れられず、どんな背徳的な手段を使っても、また自分の手で壊してしまうということ。

人は時に、自ら望んで手に入れたはずの幸せを、自ら壊してしまう。不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、このような悲劇の不可思議なところは、それが望んだ幸せと祝福の延長線上にあるということだ。

幸福になることを望んで、望み通りの幸福を手に入れたはずなのに、なぜか自分の手でそれを壊す選択をしてしまう。

こんなはずじゃなかった。

私が望んだ幸せは、こんな形じゃなかった。

こんな現実が待ってるなんて、思っても見なかった。

それがもし、自分で望んだ幸せだったら、そのための選択と行動の結果だったら、きっとどんな代償にだって人は耐えられる。だって、自分で望んで、自分で選んだのだから。

耐えられなかった、壊したくなったということは、きっとそれは、実は自分で望んだものではなかったということなんだろう。自分で選んだように思えて実は、どこの誰が描いたともわからない「常識的な幸せ」に自分を落とし込み、そこで求められる役割を演じてきただけ。

それが積み重なると人は、「これは私の望んだ幸せではない」と、自ら壊してしまう。

今の志保にはまだ、自分にとって何が幸せなのかを自分で見つけ、自分で選び、自分で手に入れていくことができない。何が自分にとっての幸せなのか、今思い描いている幸せな未来は本当に自分で選んだものなのか、今の志保にはまだわからない。

なのにこのまま田代と一緒にいても、また目先の快楽と常識に引きずられてしまう気がした。そしてまた空っぽの人生を歩めば、きっとまた、自分の手で壊してしまう。

そんな未来が、そんな明日が怖い。

 

湧き上がる何かを押さえつけ、志保は言葉を発した。だが、もうその言葉も志保の耳には届いていない。田代の言葉も、顔も、もう志保には届いていない。

覚えているのは一番最後に「さようなら」と告げ、田代に背を向けたことだけだった。

 

つづく


次回 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」(仮)

第26話から続く「志保ちゃん三部作」の最後のエピソードです。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

なぜピースボートに若者が集まるのか? ~世界一周と無縁空間~

コロナウイルスの蔓延、さらにダイヤモンドプリンセス号でのクラスター発生で、クルーズ業界はどこもピンチらしい。御多分に漏れず、ピースボートもなかなか厳しい状況だと聞く。しかし、そもそもなぜ若者は船旅に集まるのだろうか。


集団バックパッカーとリセット願望

今に始まったことではないが、ピースボートはアンチも多く、悪評が多い。

ネット右翼が思い込みでしゃべってるだけというのもあるけど、たまにどう言葉を尽くしても擁護できないトラブルを巻き起こすから、悪評が絶えない。「悪意のないトラブルメーカー」である。ある意味、厄介だ。

それでも、ピースボートに若者は集まる。かくいう僕もその一人。

なぜかというと、「ほかに代わりがないから」である、と思う、たぶん。

若者でも払える程度の金額で世界一周ができる。なおかつ、船旅だから一人でチケットや宿を手配して旅するよりは安全性が高い。

安く安全な世界一周を提供しているのがピースボートであり、こと「船旅」という領域において、ピースボートは唯一無二の存在である。

ピースボートに集まる若者というと、国際貢献だの平和活動だのに関心が高い、というイメージが強いのではないか。

だが、決してそんなことはない!

もう一度言う。決してそんなことはない!

少なくとも僕は、世界の貧困とか格差とか戦争とか環境問題とか、どうでもいいと思ってる(こらー!)。

もちろん、そういうことに興味があってピースボートに乗ってる若者も多いけど、僕の実感では、そういうのに興味があるのではなく、ただ単純に旅がしたくて船に乗る若者のほうが多い、気がする。

ピースボートが始まったころは、政治思想的な考えが強かったのかもしれないが、現在のピースボートは、若者に関して言えばいわば、集団バックパッカーだ。「世界を旅てみたい」「世界をこの目で見たい」といった若者が集まって船に乗っている。

そして、集団バックパッカーの中には、必ずしもポジティブな理由とは限らない人もいる。

「今の退屈な人生を変えたい!」「今の自分を変えたい!」「今のままでいることが怖い!」「ここではないどこかに行きたい!」という、ちょっと意地悪な言い方をすれば「現実逃避」にも映りかねない動機で船に乗る若者も多い。

「今の自分が嫌だ!」「今の自分の現状を変えたい!」という強烈な自己否定が、「日本でのつまらない自分」から解放されるであろう旅に対して、強い憧憬を生むのだ。

いわば「リセット願望」である。「人生をやり直したい」というと、何か大失敗でもしたのかと思うが、そうではない。「これと言って不幸というわけでもないけれど、もっと不幸な人もいるんだけど、むしろ恵まれているほうかもしれないんだけど、可もなく不可もなくな今の人生を一度リセットしたい」、そういうリセット願望が人間にはあるのである。一歩間違えたら自殺願望になってしまうのかもしれないけど。

ピースボートが拾い集めているのはそういったリセット願望である、と思う。町中に貼られたピースボートのポスターは、普通の人には「居酒屋でよく見る、なんか写真がきれいなポスター」程度にしか映らないけど、リセット願望を抱えた人間には、不思議と「今の自分を、人生をリセットできる冒険の扉」に見えてしまうのだ。

樹海に行って首をくくるくらいなら、青い海に出てやり直そうか、というわけだ。

そして実際、ピースボートはリセット願望を抱えた人間が、「生きたまま」何かをリセットするのにぴったりな場所なのだ。それを紐解くキーワードが「無縁空間」である。ピースボートとは、現代の無縁空間なのだ。

無縁空間の歴史

もしも、「それまでの自分」と全く関係なく生きていける場所があるとしたら? リセット願望を抱える者にとって、これほど都合の良い場所はないだろう。

そして、日本の歴史の中で、そういった場所は確実に存在した。それが「無縁空間」だ。

中世民衆史の第一人者、網野善彦の有名な論文「無縁・公界・楽」は、そんな無縁空間が日本に存在していたことを説いている。

たとえば、「縁切寺」「駆け込み寺」という言葉がある。昔の夫婦関係は、男性から一方的に離婚を言い渡すことができても、女性のほうから離婚することはできなかった。ところが、駆け込み寺に女性が逃げ込んだ瞬間、男性側が何を言おうとも有無を言わさず離婚が成立したという。その寺に入った瞬間に、男女の縁が切れたのである。

そこに入れば、世俗の縁が切れる。それが無縁空間だ。

そういった場所は寺だけではなく、宿場町や市場、港町にも存在した。

無縁空間で切れる縁というのは、男女の縁だけではない。主従関係の縁、親子の縁、さらにお金の貸し借りの縁まで切れたという。

現代人が思い浮かべる「縁」とは少し違う。現代人が「この度はご縁があって……」などと口にするときの両者は対等な関係であることが多いけど、昔の日本人にとっての「縁」は決して対等な関係ではなかった。主従関係や親子関係、お金の貸し借りが台頭でないのはもちろん、夫婦関係も決して対等ではない。男性側を「主人」「亭主」などと呼ぶのがその名残だし、対等でないから女性側は縁切寺へ逃げ込むわけだ。

人は生きている間にいくつもの縁に結ばれている。いや、縛られている。領主と農民の縁、親と子の縁、亭主と嫁の縁、金の貸し借りの縁、いずれも決して対等な関係ではない。

ところが、無縁空間に逃げ込めば、その縁も切れてしまうというのだ。嫌な上司ももう上司じゃなくなる。顔も見たくないような旦那の顔を、本当に見ずに済むようになる。借金もチャラ。なんて理想的な空間。そこに行けばどんな願いもかなうというのか。おおガンダーラ。

そんな無縁空間には4つの要素がある。これはピースボートにもかかわってくることなので、しっかりと読んでほしい。

要素① 無縁

最初の要素は「無縁」だ。無縁空間なのだから当たり前といえば当たり前。

無縁、つまり、無縁空間にいる人たちはみな、世俗との縁が切れている人ばかりだ。

たとえば宿場町。宿場町を訪れる旅人は、どこの誰ともわからない人ばかり。無縁な状態である。

そして、彼らをもてなす宿場の住人もまた、無縁な人々である。彼らは農村社会からあふれ、はじき出されたものたちなのだ。

そこに住む者も、そこを訪れる者も、関わる人すべてが無縁な状態。それが一つ目の要素だ。

要素② 自由

無縁空間の住人は、出入りが自由だった。無縁空間に入るのも自由であれば、そこから逃げ出すのも自由だった。無縁空間は何者も拒まない。さらに、農民の移動が制限されていた時代でも、無縁空間の住民は移動が自由だった。

要素③ 自治

無縁空間はどこからの支配も受けない。「ここは俺たちの町だ!」という強い帰属意識のもと、自分たちの町を自分たちで治める、すなわち「自治」を行っていたのだ。

要素④ 反抗

無縁空間は何者も拒まないと書いたけど、たった一つ拒むものがある。それが、権力の介入だ。権力者が無縁空間に介入することを、無縁空間の住民は嫌った。介入しようとすれば、徹底的に反抗する。

 

無縁空間はこれら4つの要素を持っていた。そこにいても素性を問われず、出入りも自由。そして、既存の権力による支配を拒む。だからこそ、「無縁」という性質が保たれるのだ。

さて、現代人も多くの縁に縛られている。とりたてて不幸というわけではないんだけれど、見えない縁に縛られて身動きが取れない。そんな時、人はリセット願望を抱く。リセット願望を抱いた人間が、逃げ込む駆け込み寺、それこそが無縁空間である。

そして、ピースボートはまさに、現代の無縁空間なのだ。

ピースボートという無縁空間

ピースボートはまさに、現代の無縁空間である。その性質を紐解いていこう。

まず、無縁空間というのはいつも、社会のはじっこに生まれる。寺、宿場、市場、港、これらは農村を基本とした社会のはじっこに生まれるものだ。はじっこだからこそ、既存の縁が届かないのだろう。

では、ピースボートはどうかというと、船旅はまさに海の上という、現代社会のはじっこで行われる。いつの時代も海の上というのは、社会のはじっこである。

そして、ピースボートは先に挙げた4つの要素を持っている。

まず、無縁の要素。無縁空間に携わる人はすべて社会と無縁でなければならない。

つまり、無縁空間にいる間は、社会の肩書がリセットされなければならない。「〇〇会社の社長」とか「どこそこの店長」とか、「××大学ホニャララ学部1年」みたいな肩書が付きまとったのでは、無縁空間とは言えないし、リセット願望も満たされない。「肩書なんか関係ないよ」という状態になって初めてリセット願望は満たされるのだ。

そして、ピースボートはこの無縁の要素を満たす場所である。

なぜなら、ピースボートはニックネーム文化なのだ。

「ボラスタ」と呼ばれるポスター貼り出身の若者は、たいていがニックネームを持っている。ボラスタ登録後にまずニックネームをつけられる。

そして、ピースボートにいる間、基本的にニックネームでしか呼ばれない。本名を呼ばれるのは、避難訓練で点呼をとるときぐらい。

だから、船にいる間は、相手の本名を知らないまま「友達」として付き合う。

本名すらわからないのだから、その人が陸では何者なのかだなんて、本人がしゃべらない限り、まずわからない。僕の場合だと、本名も肩書も一切が無視され、単に「埼玉から来たノック」としか見られない。まさに無縁だ。

そして、このニックネーム文化は、スタッフ側にも適用される。スタッフもあだ名で呼びあい、あだ名で呼ばれる。もちろん、公式な場では本名を名乗るし、船内ではスタッフの本名が分かるようになっているのだけれど、普段の船内生活の中ではニックネームでしか呼ばれない。

まさに、関わる人すべてが、ニックネームによって無縁となるのだ。

次に自由の要素。来る者は拒まず、去る者は追わず。それが無縁の原理である。

もちろん、船旅は莫大なお金がかかるので、だれでも自由に乗れるとはいかない。だが、ピースボートにはボランティアスタッフ(ボラスタ)として活動すれば船代が割引される「ボラ割り」という制度があり、ボラ割りをためるためのボラスタになるのには、まさに来る者は拒まず、去る者は追わずなのだ。

登録に関しては、面接とか審査とか一切ない。事務所に言って名前さえ書けば、だれでもボラスタになれる。

そして、去る者は追わない。ボラスタをやめたければいつでもやめていいし、船の予約も期間内であれば簡単に取り消せる(まあ、ウイルスが蔓延して、一斉キャンセルとかになったら話は別だけど)。

実際、乗船するまでのモチベーションが保てずに、ボラスタをやめてしまった人も少なくない。

次に自治の要素。誰から支配されるのではなく、自分たちの手で場を運営してこその無縁空間だ。

よく言われるのが、「船は受け身では楽しめない」。ピースボート側から何か提供されるのを待っているのではなく、自分から積極的に参加し、行動しないと、ピースボートの船旅は楽しめない。

船の中では毎日、様々な企画が行われている。ピースボート側で用意した企画もあるが、多くは乗客の自主企画である。大規模なイベントも乗客の手で運営される。また、船内での映像の撮影や、音響、船内新聞づくりも乗客の手で行われる。

完全な自治、とはいかないまでも、自治度はかなり高い。

そして最後の要素は反抗である。無縁空間は権力の介入を許してはならない。

そりゃピースボートなんだから反権力的だろうと思ったそこのあなた、冒頭の文をもう一度読み直してほしい。ピースボートに乗る若者の多くは、政治とかそういうのに興味があるのではなく、ただ旅がしたい集団バックパッカーである。そして、その中にはリセット願望の強いものも多い。

彼らにとって介入してほしくないもの、それは政治権力ではない。「世俗の縁」だ。職場のしがらみとか、家庭のごたごたとか、友達関係の煩わしさとか、そういったものに介入されたくなくて、船に乗るのだ。

そして、船に乗れば、これらの「世俗の縁」から介入されない生活を送れる。

そもそも、物理的に届かないのだ。船に乗れば外界から完全に遮断される。海の上はWi-Fiが弱いので、家族も友達も職場も、めったに連絡が取れない。

 

こうやって見ていくと、ピースボートは強い「無縁の原理」を持つ無縁空間なのだ。そこに行けば、世俗のしがらみは断ち切られ、何者でもない自分として、約100日の間、世界を旅できる。

もちろん、カルト宗教みたいに「絶対に断ち切れます!」なんて断言することはできないけれど、少なくとも一般社会と比べれば、限りなく無縁に近い空間であるといえるだろう。

ピースボートは現代の無縁空間であり、若者が抱く「リセット願望」を生きたままかなえることができる。

だから、ピースボートに若者が集まるのだ。

「どうせお前にはわからない」

「どうせお前にはわからない」

「あんたなんかに私の何がわかる」

拒絶の常套句としてしばしばこのフレーズが使われる。

お前に私の苦しみなどわかるわけがない。

お前のような人間に俺のような境遇が理解できるわけがない。

自分の苦しみを知らないような奴が、自分と境遇の違うやつが、えらそうにアドバイスするんじゃない。

そうやって、他人のアドバイスなどを拒絶するわけだ。

だが、冷静に考えると、このフレーズは変である。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「私の苦しみや境遇をわからない・経験していないやつに、何か言われたところで、私の悩みは解決できないんだから、黙っとれ!」という考えがあるはずだ。

ならば、同じ苦しみを経験していれば悩みを解決できるというのか。同じ境遇の人間なら悩みを解決できるというのか。

もしそうならば、その人の悩みを最も適切に解決できる人間は「その人と全く同じ苦しみを味わったことがある人」や、「その人と全く同じ境遇・経験がある人」ということになる。

だが、自分の苦しみはしょせん他人にはわからない。他人の苦しむさまを見て「苦しそうだなぁ」と思うことはあっても、他人の苦しみは他人にはわからない。

つまり、自分の苦しみを感じ取れるのは自分だけ。自分の苦しみを最もよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

境遇や経験についても同じことが言える。似た境遇や似た経験ならあるだろうが、「まったく同じ境遇」「まったく同じ経験」の人間は存在しない。

兄弟姉妹だったら同じ境遇や経験をしているかもしれないが、人は同じ境遇・経験でもそのとらえ方や考え方で解釈が大きく異なるので、「まったく同じ」ではない。

つまり、自分の境遇や経験を誰よりもよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

さて、話を「おまえに何がわかる!」というフレーズに戻そう。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「自分の苦しみがわからない人間、自分と同じ経験・境遇ではない人間には、自分の悩みが解決できるわけがない」という考えがあるのだった。

ということは、自分の苦しみをよくわかっている人や、自分と同じ経験・境遇の人なら、自分の悩みを解決できるかもしれないということだった。

だが、自分の苦しみを最もわかっているはずの自分が、自分の経験・境遇を最もわかっているはずの自分が、自分の悩みの解決策がわからないから、人は悩む。

ということは、「おまえに何がわかる!」というお決まりのフレーズは、見当違いだった、ということになる。

その人があなたの境遇が違ったり、同じ経験を持たないからと言って、あなたの悩みを解決できない、とは限らないのだ。

僕は、悩みを相談するときは基本的に「真剣に答えてくれる人」を選ぶ。たとえその人が、その悩みを経験していなかったとしても。

逆に、経験豊富でも真剣に答えてくれない人には相談できない。

例えば恋愛相談をするとして、とてつもなく恋愛経験が豊富な人がいたとしても、面白半分で答えたり、相談者の人生を真剣に考えない人間では意味がない。ならば、恋愛経験がなくても、ちゃんと真剣に答えてくれる人に相談したいのだ。

小説 あしたてんきになぁれ 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。志保、亜美、舞、そしてたまき……、それぞれの恋愛観が激しくぶつかり合う(?)「あしなれ」第26話スタート!


第25話「チョコレートの波浪警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

冬は夜の帳が降りるのが早い。

子供のころはなんだか、「早くおうちに帰りなさい」と空と街灯から諭されているような気がした。もう一日が終わるよ、楽しい時間はおしまいだよ、と。

だが、大人になると、必ずしも夜というのは一日の終わりというだけではない。ほのかなイルミネーションに彩られた町並みは、ともすれば昼間よりも美しく映える。

夜の繁華街の大きな道を、冷たい風をかき分けながら、志保は太田ビルへと向かって歩いていた。

バイト代を奮発して買ったコートとちょっと高めの靴、愛用のお気に入りのバッグ。メイクは薄めではあるが、それでも気合を入れてある。

つまりは、志保は今、デート帰りなのだ。

信号を渡り、いつもの歓楽街へと入っていく。太田ビルが近づくにつれ、「デート帰りの志保ちゃん」の顔から、「不法占拠の志保」へと戻っていく。

太田ビルに着き、コンビニのわきの階段を、息を切らせながら登っていく。

こういうところに不法占拠で住みついてることを、カレシである田代には話していない。いや、志保はもっととんでもない隠し事をしている。打ち明ける機会を逸したまま、一か月もたってしまった。

隠し事は、時に百年の恋も冷めるほどの危険性を秘めている。

そのことは、志保の心臓をいばらのように締め付けているのだが、それでもなかなか打ち明けることができない。

本当のことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。自分のもとから去ってしまうんじゃないだろうか。

だが、隠し事をしたままでも、いずれ彼は去って行ってしまうかもしれない。

鞭で叩かれるのか、棒で叩かれるのか、どちらか選べ、と迫られているかのようだ。

どっちも嫌だ、と志保は先延ばししているのだが、先に延ばせば延ばすほど、その道の先には鞭か棒かの二択しかないと認めざるを得ない。

そして、鞭にしろ棒にしろ、先延ばしにすればするほど、その威力は強くなる。

なぜならきっと、先延ばしにすればするほど、志保は田代と離れがたくなるに違いないからだ。

離れがたくなればなるほど、「別れ」の傷は深くなる。

なるほど、トクラの言うとおり、それは破滅だ。

トクラはその破滅を楽しめばいい、という。恋の結末は大抵が破滅であり、破滅的で背徳的な恋ほど盛り上がるのだから、と。

人が背徳的なものに惹かれてしまう、というのは志保にも理解できる。

だが、破滅的なものに惹かれてしまう、ましてや、破滅を楽しめなんて、到底納得できない。

破滅したい人なんているわけがないし、ましてや、それを楽しめるはずがない。

 

息を切らせながら、5階にある「城」という名前の、キャバクラ跡地に入る。中にはソファーとイスが営業当時のまま残されているが、いまはそこに小型のテレビとか、ぬいぐるみとか、生活感あふれるものが置いてある。ゴミ捨て場で拾ってきたビデオデッキまである。

「ただいまぁ」

「おかえりー」

亜美が携帯電話の画面をのぞき込みながら言った。たまきは寝ているのか、ソファの上で丸くなって寝っ転がっている。

テーブルの上には、二人分のカップラーメン。時刻はもうすでに、夜の九時半を過ぎていた。

志保が田代と付き合うようになって以来、志保の帰りが遅くなることが増え、その分、亜美とたまきが夕飯をカップ麺やお弁当、ファーストフードですませることも多くなった。志保は申し訳なさを感じていたが、亜美は

「お前はうちの料理担当だけど、家政婦ってわけじゃねぇからな。ま、ウチらのことは気にせず、楽しんでこいや」

と言い、たまきはそもそも、食事なんて食べれればなんでもいいという感じだ。

「お風呂は?」

「いや、まだだ。お前もまだだろ? 十時半ぐらいになったら行こうぜ」

「城」にはさすがに風呂はないので、三人は近くの銭湯を利用している。二十四時間営業しているので、お金さえ払えば、いつでも入れる。もっとも冬場は、湯上りで夜の街を歩くのがちょっとした苦行なので、夕方のうちに入ることも多い。

「たまきちゃん寝てるんじゃない?」

「ん? 起こせばいいだろ」

志保はコートを脱ぎ、カバンをおろしソファに座り込んだ。

「あのさ……」

「ん?」

志保の問いかけに、亜美が返事をする。

「この前の話の続きなんだけどさ……」

「どの話だよ」

「……あたしがユウタさんに、ほんとのこと隠してるって話」

「誰だよ、ユウタって」

亜美はそんな名前、今初めて聞いたようだ。

「田代さんのこと」

「ああ、ヤサオのカレシか。アイツ、そんな名前だったのか」

亜美は携帯電話を閉じ、机の上に置いた。

「……やめようぜ。たまきが寝てる時にケンカしたら、なんか収まる気がしねぇよ」

「いや、そういうんじゃなくてね……」

志保はこの時になって、初めて亜美の方を向いた。

「付き合って一か月くらいになるんだけどさ、その、まだ言えてなくて……」

志保は胸元まで伸びた長い髪をいじりながら言った。

「わかってる……隠し事は良くないって……。でも、ほんとのこと言ったら、何もかも終わっちゃう気がして……」

「ま、フツーは別れるよなぁ」

亜美はあえて他人事のように言った。

「亜美ちゃんだったらどうする? 彼氏に言えないことがあって、でも言わなきゃって時、亜美ちゃんならどうする?」

志保は何かに縋るように亜美を見た。

「隠し事の内容によるなぁ」

亜美は志保の方を向くことなく答えた。

「知られると何となく恥ずかしいとか、そういうタイプの隠し事だったら、言いたくないなら言わなくてもいいと思うし」

「でも、あたしの場合は……」

「まあ、全然違うわな」

亜美は相変わらず、志保を見ない。

「ばれたら確実に驚かれる、ほぼ確実に別れる、ってタイプのやつだろ」

「うん……」

志保は現実から目をそらすように、亜美から視線を外す。

「……ウチだったら言うな」

「そうなんだ……」

「だってさ、どうせ別れるんなら、あとくされない方がいいだろ。隠し続けてバレたら、そのぶん、面倒なことになるだろ」

「うん……」

志保にしては珍しく、亜美の話に素直にうなづいている。

「だったら早い方がいいだろ」

「でもさ…、言ったら、別れるかもしれないんだよ?」。

「んー、そうだな」

「だったらさ、なるべく隠し通してさ、その、少しでも長続きするようにした方が……」

そう言いながら志保は、自分がこの前とは逆のことを言っているような気がした。

「だってさ……バレたら……その……破滅じゃない」

「なんだよ。破滅はヤなのかよ」

この時になって、亜美は初めて志保の方を向いた。

「……当たり前でしょ」

「あのさ、志保。どんな恋愛だって、いつかは必ず終わるんだぜ」

なんだか、この前もそんな話を聞いたような気がする。

「つーことはさ、今別れるのも、来年別れるのも、結婚して何十年かたって死に別れるのも、結局は一緒じゃんか」

「……一緒じゃないでしょ」

「一緒だよ一緒。要はさ、なんでそんな終わることビビってんだ? って話なわけよ」

そう言うと、亜美は煙草を一本取りだした。

「おい、吸っていいか?」

「……どうぞ」

亜美は慣れた手つきでタバコに火をつける。

「例えばさ、からあげがあるだろ? どんなにうまいからあげも、食べればなくなるんだよ。山盛りのからあげでもさ、食べ続ければなくなるんだよ。そんなの当たり前じゃん。からあげ食べながらさ、からあげがなくなるのやだっていう奴いないだろ? からあげがなくなることなんか、考えもしないで食ってるだろ?」

「……その例え話、よくわかんないんだけど」

「だからさ、オトコも一緒だよ。どうせいつか別れるんだよ。なのになんで別れることビビってんのかな? もっと今を、この瞬間を楽しめばいいじゃねぇか」

終わりが来ることを恐れずに今を楽しめ、という意味ではトクラの意見と一緒だ。だが、一方で亜美の意見とトクラの意見は正反対でもある。

トクラは、なるべく終わらないようにして長く楽しめと言う。

亜美は、いつ終わるのも一緒だからとっとと終わらせろという。

どちらが正しいのか、志保にはわからない。どっちも間違ってるのかもしれない。

でもたった一つ、はっきりと言えることがあった。

「あたし、終わらせるつもりないから……。別れるつもりないから……」

志保はソファの上に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取ると、ぎゅっと抱きしめる。

「お前にそのつもりがなくても、クスリのこと話したら、別れることになると思うぞ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと黙ってるののか? それでバレたら、修羅場だぜ。百パー別れることになるだろうよ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと隠し通す気か? 隠し通せると思ってんのか?」

亜美は問い詰めるように志保を見る。

「……隠し通せるとは思ってないし、何より……隠し事はしたくない……」

「じゃあ、答えは決まりだろ。覚悟決めて、とっととホントのことを話すしかねぇだろ。まだ付き合って一か月だろ? 今言えば、ヤサオも理解してくれるかもしんねぇぞ。確率は低いけどな。でも、延ばせば延ばすほど、その確率はもっと低くなるぞ。お前、ウチより頭いいんだから、それくらいわかるだろ?」

「……うん」

志保はどこか納得できないようにうなづいた。

「でもさ……」

「でもなんだよ?」

亜美は少しうんざりした口調だ。

「ほんとのこと言ったら別れるかもしれないでしょ……」

志保はクマのぬいぐるみを抱きしめる腕に力を入れる。ぬいぐるみのクマは、少し苦しそうにゆがむ。

「そりゃそうだろ」

「それはイヤ……」

「じゃあどうすんだよ!!」

苛立った亜美は志保の胸からクマのぬいぐるみを強引に奪い取り、壁に向って投げつけた。ドンという鈍い音は、なんだかぬいぐるみがあげた悲鳴のようにも、志保の悲鳴のようにも聞こえた。

志保は立ち上がると、床に転がったクマを拾う。

「わかんないから聞いてるんでしょ!」

「お前、ウチが言ったこと全否定じゃねぇかよ! あれもいや、これもいや。じゃあこうするしかねぇだろって言っても、それもいや。話になんねぇよ!」

志保はクマのぬいぐるみを拾うと、再び胸の前でしっかりと抱きとめ、少し涙でにじんで目で亜美を見た。それを見た亜美はため息をつく。

「……きつい言い方したのは謝るよ。でも、ウチ、間違ったこと言ってっか?」

その時、亜美の視界の端で何かが動いた。亜美の視線がそちらに向き、それを見た志保も同じ方向を向く。

二枚のタオルケットにくるまって寝ていたはずのたまきが、いつの間にかメガネをかけてこちらを見ていた。

「ごめんね、たまきちゃん。起こしちゃった?」

「……いえ」

たまきは少し視線を下に泳がせていたが、やがて志保の方を見た。

「あの……」

「なに? どうしたの?」

「その……」

たまきが何か言いかけたとき、

「やめ! この話はもうやめ! もうラチあかねぇよ。たまきも起きたことだし、風呂入りに行こうぜ」

「……そうだね」

志保は寂しげにそう言うと、たまきの方を向いて

「たまきちゃん、気にしなくていいからね。ちょっと恋愛相談に乗ってもらってただけだから」

と、わざと優しく微笑んだ。

たまきはやっぱりなにか言いたげに下を見ていたが、志保はそれに気づくことなく、気持ちを切り替え、銭湯に行く準備を始めた。

 

写真はイメージです

そうこうしているうちに、暦は3月に入った。まだまだ冬の寒さは残っているが、それも日に日にあたたかくなっている。もうひと月もすれば上着を羽織ることもなくなるし、この公園も桜色に染め上げられる。

日付は三月三日のひな祭り。いつものごとく階段に腰掛けるミチとたまきは、ひな壇に構えるお内裏様とお雛様のようにも見える。

とはいえ、それは二人仲がよさそうだから、という意味ではない。たがいに目を合わすことなく、会話もなく、正面を向いているさまが、ただ人形を置いただけのようにも見える、という話だ。

だが、この日のミチは時折、たまきの方をちらりちらりと見ていた。

やがて、しびれを切らしたように口を開く。

「俺、このまえ誕生日だったんだよねぇ」

それを聞いたたまきは、ふうっとため息を一つはいた。

「……知ってます。四日前ですよね」

「なんだ。俺の誕生日がいつか、ちゃんとわかってんじゃん」

そりゃここ半月ほど、会うたびに「俺、そろそろ誕生日なんだよねー」と言われ続ければ、いやでも意識せざるを得ない。さらにそれが日に日に「来週誕生日なんだよねー」「五日後」「三日後」とカウントダウンまでされれば、さすがのたまきでもミチの誕生日がいつなのか見当がつく。

だから、誕生日当日は、公園にはいかなかった。ミチは「城」と同じビルのラーメン屋でバイトしているので、うっかり出くわさないように、その日のたまきは完全に引きこもった。もともと、ひきこもることに定評のあるたまきだ。「今日は絶対に外に出ない」と決めたら、その徹底ぶりは完璧だ。

さらに念には念を入れて、その後三日も公園で絵を描くことを控えた。

そして今日、さすがに誕生日から四日もたっていればもうそのことを話題にしないだろう、と思って公園に来たのだが、どうやらたまきの認識が甘かったようだ。

「たまきちゃん、プレゼントは?」

ミチがニコニコしながらたまきに尋ねた。

「……ありません」

たまきはミチを見ることなく答える。

「でも、バレンタインの時はチョコくれたじゃん。俺、知ってるぜ。なんだかんだ言ってたまきちゃんはちゃんとプレゼントくれる子だって」

たまきはそこでもう一つ深くため息をつくと、志保と亜美の言葉を思い出した。

『ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!』

『だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが』

たまき本人は認めたくないのだが、亜美と志保に言わせるとたまきは「警戒心が強い割に、実は押し切っちゃえばチョロい女」らしい。

そして、どうやらミチもたまきのことを「押し切っちゃえばチョロい女」だと思っているようだ。

「俺、知ってるぜ。たまきちゃんはなんだかんだいってちゃんとプレゼント考えてくれてるって」

ミチがニコニコを通り越してにやにやしながら言った。

「私……考えたんですけど……」

「うん、なになに?」

「……私がミチ君にプレゼントする理由がないんですけど」

そこで初めて、たまきはミチの方を見た。

「え?」

ミチとしては想定外の回答だったらしい。

「誕生日プレゼントをあげる理由がないのに、プレゼントをあげなきゃいけないなんて、おかしいですよね? おかしくないですか?」

仙人曰く、誕生日はその人と出会えたことを感謝する日だという。

だが、たまきはこの男と出会えてよかったなんて、ちっとも思えない。

「いやいや、理由がないってことないでしょ~」

ミチはわざとおどけたような笑顔で言った。

「ほら、俺、いつもたまきちゃんと仲良くしてるし」

「……私だって、これでもミチ君と仲良くしてるつもりです」

そう言いつつも、たまきの視線はまたミチを外れ、正面を向いている。

「仲良くしてるからって、私ばっかりミチ君になにかあげるのって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「まって! ちょっと待って!」

ミチはたまきの言葉を片手で制した。

「俺、たまきちゃんの誕生日祝ったじゃん!」

「そうですね」

たまきはまたしてもミチを見ることなく答えた。

「そうだろ? だから、俺ばっかりなにかあげてるって言い分はおかしくない?」

「私、あの後、ミチ君のことかばって、嫌な思いしました」

二人の間に、三月にしては少し冷たい風が吹いた。

「私の誕生日の件は、あれでチャラになったと思います。むしろ、マイナスです」

「いや、でもその後、うちに来て飯食ったじゃん! あれ、うちのおごりだぜ?」

「あれでプラスマイナスゼロです」

たまきは絵を描く作業をやめる気配がない。

「それに、あのあと私、ミチ君にチョコあげてます。そのお返し、まだもらってません。なのにまた私がなにかあげるって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「いや……でも……」

ミチは何かを必死に探すように空を見上げる。

「でも……ほら……たまきちゃん、俺の歌が好きだって言ってたじゃん」

「今は嫌いになりました」

そこでたまきは、再びミチの方を向いた。

「そもそもあなたのことも嫌いです」

そう言うとたまきは立ち上がった。

「私、帰ります」

たまきはスケッチブックをリュックにしまうと、そのままミチを見ることなくすたすたと階段を上って行ってしまった。

後にはギターを抱えたミチが残されていた。もはや、風の吹く気配もない。

 

写真はイメージです

「お前、まだ言ってないの?」

手にした包帯の束を伸ばしながら、舞があきれたように言った。

志保とたまきが二人でいるときに、たまきが何週間ぶりかのリストカットをしたので舞が「城」へと呼び出された。「城」に舞の自腹で置かれた救急箱を使って、たまきの傷を処置していく。

そのさなか、志保が舞に、亜美にしたのと同じ相談を持ち掛けたのだ。

「はい……すいません……」

「やれやれ……オトコができたと聞いてたから、どうなるもんかと心配してたらこれだよ……」

舞はため息をつきながら、たまきの右手首に包帯をぐるぐると巻いていく。

たまきは、黙って志保の方を見ていた。

「それで……、先生はどう思いますか……。その……クスリのこと……ちゃんと言った方がいいでしょうか……」

「まず、言うべきか言わないべきかの二択、っつーのが間違ってる」

舞はきっぱりと言い放った。

「正直に言う以外に選択肢はない。言いづらいのや言いたくないのはわかる。でも、言うべきか言わないべきかじゃない。言うしかないんだよ」

舞はたまきの手首の包帯をきつく結び付けると、まっすぐに志保を見た。

「それがお前の果たすべき責任だ」

「でも……その……クスリのこと言ったら、カレはあたしから離れて行っちゃうんじゃ……」

なんだか、毎回同じようなことを言っている気もする。

「そんなの仕方ねぇだろ」

舞は少し呆れるように言った。

「お前が今日まで頑張ってきたのは知ってるからこういう言い方したくはないんだけどさ、自業自得ってやつだよ」

「そうですよね……」

志保はそう言って下を向いたが、やはりどこか納得していないようだ。

「でも……あたし……絶対に別れたくないんです……」

「そもそも、クスリのこと、まだまだ問題は山積みなのに、オトコを作る方が悪い」

舞は犯人に詰め寄る刑事みたいな口調で言った。

「一生オトコを作るなとは言わない。だがな、そういうイロコイは、ちゃんと自分に向き合えるようになってからしろ。何もかも中途半端な状態でオトコ作って、別れたくないなんて、そんなん通るわけねぇだろ」

舞は救急箱を片付けながら言い放った。

「いいか、人として未熟な奴が形だけの幸せを手にしたところで、いつか必ずそのしわ寄せが来るからな。それはお前に来るかもしれないし、相手の男にかもしれないし、周りの人間かもしれない。下手したら、将来生まれてくるお前の子どもにしわ寄せがいく、なんてこともあるかもな」

志保はなんだか、激流に流される人が藁を必死につかむかのように、スカートのすそを握りしめていた。

「そうですよね……。あたしにカレシ作る資格なんてないですよね……」

それを見ていた舞は、額に手を当てる。

「あー、悪い。ちょっと言い方きつかったな。いや、お前ぐらいの年の子がカレシ作りたがるのはわかるよ。ああ、痛いほどわかるさ。だけど、お前は今そういうことする状況ではないよな、って話よ。わかるだろ。カレシ作る資格がないんじゃない。カレシ作る状況じゃないって話だよ」

志保は仏さまがクモの糸を垂らしてくれたかのように、舞の方を見た。

「恋人の存在が薬物依存に立ち向かう力になるってことも、無きにしも非ずだからな。恋をするなとは言わん。だけど、それは相手に理解があってこそだ。クスリのこと聞いた途端にしっぽ撒いて逃げ出すような男と付き合っても、ロクなことにならねぇぞ」

「それは……わかってるんですけど……」

「その、ユウタだっけ、そいつがお前をちゃんと支えてくれる男かどうかを確かめるには、言うしかないんじゃないの?」

「でも……言ったら別れることになるんじゃ……」

「だから、そこで理解してくれないような男と無理して一緒にいても、絶対ハッピーエンドになんてならねぇって」

「でも……」

その後に続く言葉が、舞には予想できた。

「って言うかお前、ここ最近、ずっとそれで悩んでたのか? それで深刻そうな顔してたのか?」

「え? あたし、そんな悩んでる様に見えました?」

さっきまで思いつめたような顔をしていた志保だが、舞の言葉が意外だったのか、少し表情が和らいだ。

「たまきがリスカしたっていうから来てみたら、玄関にいたお前があんまりにも深刻そうな顔してるから、たまきじゃなくて志保がリスカしたのかと思ったくらいだ」

「そうですか……」

志保は再び、それこそ深刻そうにうつむいた。

舞の隣に座っていたたまきは、新しく巻いてもらった右手首の包帯をさすりながらも、切なげに志保を見つめていた。

 

2対1。田代にクスリのことを言うべきか言わないかで人に聞いてみた結果、3人に聞いて二人が「言うべき」、一人が「言わなくていい」。今のところ、2対1で「言うべき派」の勝ち越しだ。

この点差ならまだまだわからない。次の1点が「言わない派」に入れば、2対2の同点である。

でも、そんなに人の意見ばかり集めていったい自分はどうするつもりなのだろうか。舞が帰った後の「城」で、志保はひとりひざを抱えて考え込む。

「言わなくてもいいよ」という一言を誰かに言ってほしいだけなんじゃないだろうか。

そう考えると、トクラの答えが一番志保が望む形に近いと思うのだが、トクラは「どうせいつか破滅するんだから、すぐに言わなくていいよ」という考え方である。そこが志保の求める答えとは違う。

クスリのことは「言わなくていい」、でもこの恋は「きっと結ばれる」、そんな都合のいいことを言ってくれる人を探しているのだ。

でも、いつまでこんなことを続けるんだろう……。

 

写真はイメージです

「あの……」というたまきの呼びかけで、志保は我に返った。

「ん……どうかしたの、たまきちゃん」

反射的に、志保は笑顔と作って答えた。

たまきはソファの上に寝ころんでいた。うつぶせになって志保にお尻を向け、頭からはすっぽりとタオルケットをかぶっている。

「……舞先生も言ってましたけど、最近、志保さん、すごく悩んでいるように見えます……」

「そ、そう? そう見える? そうなんだ、あははは……。大丈夫だよ。大したことないから、心配いらな……」

「そんなわけないです」

たまきは姿勢を変えることなく言った。

「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……。なんだかこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がして……怖いです……」

「……そう」

部屋の中は蛍光灯で照らされていいるにもかかわらず、壁から染み出したうすい靄のような影が、じわじわと二人の周りを覆って、闇を作り出しているかのようだった。

しばらく静寂が続いた後、たまきが口を開いた。

「……どうして、私には何も聞いてくれないんですか?」

「え?」

「亜美さんにも、舞先生にも、カレシさんのこと聞いてましたよね。私だって、志保さんが悩んでるなら力になりたいです。でも、どうして私には何も聞いてくれないんですか。」

靄のような影が、たまきの周りにまとわりつく。

「……私に恋愛のこと聞いたって、どうせわかるわけない、そんな風に思ってるんですか?」

「そんなこと……!」

思うはずがない、志保はそう言おうとしたが、言葉が続かなかった。

たまきに恋愛のことを相談してもわかるわけがない、と志保が明確に思っていたわけではない。

それでも、亜美にも舞にも、そしてトクラにもした相談を、たまきにはしなかった。そんな選択肢を思いつきもしなかった。

無意識のうちに「たまきに相談する」という選択肢を外していたのだ。つまり、心のどこかで「たまきに聞いたってわかるわけがない」と、知らず知らずのうちに思ってしまっていたのだ。

「確かに……私は恋愛とかカレシとか、そういうのには疎いのかもしれません……」

たまきは相変わらず、頭からすっぽりとタオルケットをかぶったままだ。なんだか、床に無造作に投げ置かれた雑巾のようにも見える。

「でも……ちゃんと見てますよ。志保さんのことも、亜美さんのことも、ミチ君のことも……」

「うん……」

志保の頭の中に、先ほどたまきが言った「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……」という言葉が響いた。

「たまきちゃん、あたし、どうしたらいいと思う?」

「……志保さんは、『カレシさんに言わなくていいよ』って言って欲しいんですよね」

たまきの言葉に志保は驚きつつも、無言でうなづいた。たまきはそれを見ていないが、空気から察したかのように、言葉をつづけた。

「でも……、私は、ちゃんと言わなきゃいけないって思います」

「うん……わかってる……」

そう、最初からわかっていたのだ。そんなの、人に聞かなくたって最初からわかっていたのだ。「すべてを打ち明けなければいけない」と。

「でも……あたし、ユウタさんと別れたくない……」

何度目だろう、このセリフを言うのは。

「……わかってます」

たまきは静かに告げた。そして、こう続けた。

「でも、それは志保さんのわがままです」

「……わが……まま?」

「はい。クスリのことを知って、志保さんと別れるかどうするかを決めるのは、志保さんじゃなくて、田代って人です。でも、このまま何も言わなったら、何も知らなかったら、田代って人はそれを悩むこともできないんです。それに、言うのがおそくなったり、あとからほかの人に知らされたりすれば、田代って人は余計に傷つくと思います」

たまきはタオルケットをすっぽりとかぶったままだ。だから、志保からたまきの表情をうかがい知ることはできない。

「私には、『人を好きになる』っていうことがどういうことなのか、まだわかりません。でも、もしそれが、自分より相手の方が大切だっていう想いなのだとしたら、どうして相手の人の幸せを一番に考えないんですか? 相手の人の幸せを一番に考えなきゃいけないのに、自分が嫌だから言いたくないとか、自分が嫌だから別れたくないとか、それっておかしいですよね。おかしくないですか?」

そこでたまきはようやく起き上がると、志保の方を向いた。メガネをかけていないその顔は、いつもより少し大人に見えた。

「それとも志保さんは、田代って人より、自分のこと方が好きなんですか?」

そんなことない。志保はそう言い切りたかったが、またしても言葉が出なかった。

志保は、これまでのトクラや亜美、舞との会話を思い返す。

そして気づく。いつだって主語は「あたし」だったということに。

あたしは、言いたくない。

あたしは、別れたくない。

あたしは、あたしは、あたしは。

「志保さんが田代って人にクスリのことを話して、お別れすることになったとしても、田代って人にとってそれが一番幸せなことなら、それは仕方ないことなんだと思います。志保さんにとってそれはつらいことかもしれませんけど……」

そこでたまきは一度、言葉を切った。そして、今までで一番強い口調で続けた。

「……でも、志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!」

そこまで言うとたまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……なんかすいません、私なんかがえらそうに……」

「ううん。大丈夫。ありがとう」

志保は何かを観念したかのように息をついた。

三対一。でも、最後の一点は他のどの一点よりも強く、そして、温かかった。

 

歓楽街のちょうどど真ん中に、小さな神社がある。弁天様を祀っているらしく、その周辺はちょっとした空地になっている。

亜美たちは知る由もないが、はるか昔、この歓楽街には川が流れていた。その川も埋め立てられ、今では多くのお店が立ち並び、ホストの看板で彩られ、バスが走っている。水のカミサマである弁天様は、この街にかつて川があったころの名残だ。

その空地の一角で、志保は田代を待っていた。鼓動がいつもよりも早く、そして力強く、それこそ濁流のように血流を押し流す。

少し離れたところで、亜美とたまきが志保の様子を見ていた。たまきは黒いニット帽を、亜美はピンクのニット帽をかぶっている。

亜美は

「ウチら、その辺に隠れてようか?」

と提案したが志保は首を横に振った。

「ううん、近くにいて。二人にも聞いててほしいの」

やがて、路地の奥から田代が姿を現した。バイトの帰りらしく、ラフなジャンパー姿に、リュックを背負っている。

田代は志保を見つけると笑顔で手を挙げた。志保も軽く手を挙げるが、その顔に笑顔はなかった。

「どうしたの、話って」

田代は勤めて笑顔だったが、やはりこれからの会話にどこか不安を感じているかのようだった。

志保は一度大きく息を吸った。頭の中でたまきの言葉を思い出す。

『志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!』

志保は息を吐いた。三月の空気はまだまだ冷たく、志保の吐息を白く変える。

やがて吐息は空に消えたけど、志保の中にある煙のようなさみしさは消えることはなかった。

それでも、志保は話を切り出した。

「……お別れを言いに来たんです」

それが、志保の出した答えだった。

つづく


次回 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

志保ちゃんの過去編です。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

リア充だと確認しないと気が済まない

新型コロナウイルスの影響で、緊急事態宣言が出て、外出自粛要請が出て、半月近くがたった。

都心はすっかり人がいなくなった。正月だってそこそこの数の人がいたのに。

一方で、神奈川の湘南・江の島は、なぜか大勢の観光客でにぎわい、地元の人たちは戦々恐々としているらしい。どうも、神奈川県外からの観光客が多いという噂。

……それにしても、なぜ江の島? 九十九里浜や高尾山じゃダメなのか?

調べてみると、九十九里浜や高尾山に行く人もいるにはいるみたいだが、江の島ほど問題にはなっていない。

なぜ湘南? なぜ江の島?

そもそも、なぜそんなに外出したいんだろう? これほどネット技術が発達した現代、家で引きこもって遊ぶ方法なんていくらでもあるのに(それも、外出するよりはるかに安上がり)。オンライン飲み会なんておもしろいじゃないか。

家にずっといるのがストレスだというなら、歩いて行ける川や公園にでも行けばいい。散歩は自粛を求められていないし、いい運動になる。なのになぜ、わざわざ県外から車に乗って湘南・江の島に行くのか。

ここで一つの仮説を提示したい。

彼らは外出したいのではない。遠出がしたいのではない。旅行がしたいのではない。

「自分はリア充である」と確かめたいだけなのではないか。

なぜ、ずっと引きこもってられないのか。

なぜ、近所の川や公園では満足できないのか。

それでは自分が「リア充である」と確かめられないからだ。

だからわざわざ、家族や友達、恋人と連れ立って、湘南や江ノ島に行って、観光したりサーフィンしたりおいしいモノ食べたり写真撮ったりするのだ。湘南・江の島エリア。関東地方でこれほどリア充のにおいがするスポットがあるだろうか。

……と書くと、なんだか唐突な気もする。なんでいきなりリア充の話やねん、と。

だけど、「人は自分がリア充だと確かめないと生きていけない」というのは、僕にとっては唐突でも何でもなく、数年前から考えていたことだ。

なぜ、あちこちでいろんなイベントが開かれているのか。

なぜ、わざわざお金や時間を費やしてまで、イベントやパーティに参加するのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真を撮るのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真、食べたランチやディナーの写真をSNSにアップしたくなるのか。

なぜ、他人に「自分はリア充である」とアピールしたくなるのか。

その答えはただ一つ!

彼らは、他人に向かって「私はリア充です」とアピールしているのではない。

自分に向かって「私はリア充なんだ。私はリア充なんだ」と確かめて、言い聞かせているからだ。

どういうわけか人は、自分はリア充であると、自分自身に言い聞かせ、確認しないと気が済まないらしい。

へたしたら、「なぜ友達を作るのか」「なぜ恋人を作るのか」「なぜ結婚するのか」「なぜ家を買うのか」「なぜ車を買うのか」なんて言うことも実は、「自分でそう望んだから」ではなく、「自分はリア充だと確かめたいから」なのかもしれない。少なくとも、「友達を作る」「カレシ・カノジョを作る」というときの「作る」という表現に僕は違和感を感じる。人はプラモじゃねぇぞ。

人は、自分がリア充だと確かめないと気が済まない。自分がリア充ではないという現実に耐えられない。

だから、家でじっとしていることに耐えられない。誰とも会わず、どこにも行かず、週末を家でじっとして過ごす。こんなリア充からかけ離れた生活には耐えられないのだ。

というわけで、人は湘南や江ノ島に殺到するんじゃないか。その根底には「人は自分がリア充であると確かめないと気が済まない」という、どうしようもない性が隠れているのではないか。

あくまでも個人の見解、仮説です。

コロナの情報をあさらない

「コロナ疲れ」という言葉があるらしいけど、その実態はもしかしたら、ネット疲れ・SNS疲れの延長ではないのか。

そもそも、感染も発症もしてないウイルスに「疲れる」というのも変な話じゃないか。

みんな、実はコロナウイルスに疲れたのではない。コロナウイルスに関する「情報」と、それを調べるためのパソコン、SNS、スマートフォン、テレビのニュースに疲れているのだ。

そんなコロナ疲れしたそこのあなた、もしや丸一日、コロナに関する情報を漁ってやいませんか?

不安からいろいろ調べたくなる気持ちもわかるけど、むしろ逆効果じゃないかしら。

コロナが不安だからいろいろ調べる。でも、調べたところで不安を煽るような情報しか見つからない。結果、ただ不安が大きくなっているだけ。その不安を解消したくてまた調べる。悪循環だ。

だったらいっそ、勇気をもって情報を遮断したほうがいい。

コロナに関する情報を漁ってないと不安になるかもしれないけど、漁ったって不安が大きくなるだけだ。

そして、不安なんていくらため込んでも、なんの役にも立ちやしない。

大事なのは不安じゃない。警戒心だ。

コロナに全く不安を抱いていなくても、警戒心をMAXに働かせておけば、冷静に的確な対処ができる。

ならば、不安を煽るような情報は遮断しよう。

そして、最大の警戒心を持って、正確な情報を必要な量だけチェックする。必要以上の情報には触れない。

そうやって情報を制限することで、デマにも踊らされなくなる。

デマというのは巧妙に信じ込ませようとするから、一度出くわすと見抜くのはなかなか難しい。

でも、触れる情報の量を制限すれば、そもそもデマが回ってこない。触れる情報の絶対数が少ないのだから。

たとえば、「10の情報のうち1つがデマである」という状態と、「100の情報のうち10個がデマである」という状態を比べてみよう。

どちらも、デマが含まれている割合同じ。前者は注意すればたった1つのデマが見抜けるかもしれない。だけど、問題は後者。90の真実と10のデマを完璧に見分けることはまず無理だ。

触れる情報の量が増えれば、デマに行き当たる数も増える。デマの数が多くなれば、見抜くのは困難になる。

情報を漁る前に、まず落ち着いて考えてみよう。大量の情報を漁ったところで、自分にそれを処理する能力があるのか、と。

あなたが毎日、新聞を5紙取って読み比べてる、そんなレベルの「情報猛者」なら、大量の情報を漁っても適切に処理できるかもしれない。

でも、一般人は違う。大量の情報から真贋を見極めるスキルも、専門知識も、情報を処理して本質を見抜く眼も持っていない。

僕は、どれも持っていない。だから、自分の処理能力を超える量の情報には触れない。制限をかける。僕のように情報処理に疎い人間こそ、実は触れる情報量に制限をかけるべきである。

そうやって情報に制限をかけることで今度は、「なら、少ない情報の中で必要な情報を補うには、どこを見ればいいか。何をチェックすればいいか」という方向に頭が働く。

では、少ない情報でも必要量を的確に補うには、どんなメディアが良いのか。

ネットはダメだ。ネットにはチェック機能がない。大半のデマはネットで出回る。

信頼置けるニュースサイトもあるが、今度は記事の後ろに「あわせて読みたいニュース」なんて余計なものが出てくる。こんなのいちいち目を通していたら、不安が増すだけだ。

テレビはネットと違って正確なな情報を提供してくれる。

だけどテレビは、話が長い。

「本日の感染者は何人です」とだけ言ってくれればいいのに、町の様子とか、海外の様子とか、深刻そうな出演者の顔とか、不安を煽るような追加情報を延々と流している。テレビを見るなとは言わないけど、見る時間はある程度制限しないと、不安が増すだけだ。

そしてラジオ。ラジオも公共放送であるため、信頼できる情報を教えてくれる。

そして、ラジオのニュースは時間が短い。

局によって違いはあるけど、基本は1時間ごとに2~3分だけ。その中で4,5個のニュースが伝えられるわけだから、1つのニュースは1分以下。正確な情報が簡潔にまとめられている。

しかも、テレビのニュースと違い、同じニュースを繰り返したりしない。2時のニュースでいった内容は、3時のニュースでは言わない。常に最新情報しか流さないのだ。

ネット、ラジオ、テレビ、便利なメディアは数々あれど……「正確」「簡潔」「最新」の条件を満たすのはラジオの特性…。

おまけに天気予報と交通情報までついてくる。

災害においてラジオこそが最強のメディアだ!

「フォロワー数=ファンの数」ではない

100日後にワニが死ぬ漫画が、最終回後に炎上してしまったらしい。

それも内容とは関係なく、終了後の商業展開が露骨すぎて、さらにブラック企業で有名な電〇通が絡んでいたともうわさされたのが原因らしい。作品の内容とは関係ないところで、というのが何とももどかしい。

たしかに、商業的な展開とは無関係と思っていた作品が、終了後にこれ見よがしに商業展開を始めたら、興ざめするのも気持ちはわかる。

とはいえ、人気が出たものに尾ひれはひれがつくのは当然のことだし、電〇通の噂はあくまで噂だし、何か確固たる理由があって炎上したというよりは、どうにも感情論でしかないような気もする。

気にする人は気にするけど、気にしない人は気にしない。気にしない人は気にしないけど、気に食わない人は気に食わない。そういう微妙な問題。

一説には100日で200万人ほど、作者のフォロワーが増えたのだというが、今回の騒動を見てみると、このフォロワー数を人気のバロメーターだと考えるには、いささか疑問が残る。もしも彼らがファンであるならば、はたしてこんなに批判されるだろうか。

今回の騒動で言えること。

ツイッターのフォロワー数や、you tubeのチャンネル登録者数、それは決して「あなたのファンの数」ではない。

ましてや、何をやっても誉めてくれる「あなたの信者の数」でもない。

「あなたを監視する人の数」である。

「登録者数10万人」は「10万人に人気がある」ではない。「10万人がお前を監視している」である。

「フォロワー100万人」は「100万人がお前の一挙手一投足を監視している」という意味だ。

監視だから、監視する側の意にそぐわない行動をとった時は、ただでは済まさない。

たとえるなら、株主が一番近いのかもしれない。

SNSをフォローしたり、動画を見たりするのは株を買うようなもので、株主に利益を出している限りは、応援してあげる、というものだ。

その代わり、不利益を出したらただじゃすまさない。引きずりおろしてやる。そういうものである。

スポーツのファンとか、そういうのが露骨かもしれない。勝っているときは声を涸らして応援するけど、負け続けると怒れる暴徒と化す。

ただ、スポーツの場合は、勝つか負けるか、結果がはっきりしているから、「何をしたらファンが怒るか」もわかりやすい。要は、負けなきゃいいねん。

だが、マンガとか、SNSとか、you tubeとかと言ったコンテンツは、「何をやってはいけないか」がわかりづらい。

わかりづらいけど、どこかに地雷があって、知らずにその地雷を踏んでしまうと「お前、何やっとんねん!」と炎上してしまう。

なぜなら、フォロワーは「良い作品を作ってくれるなら、多少のことは目をつぶろう」というファンではない。

「作品の良し悪しはもちろん、その周辺状況も含めて採点し、満足させてくれるなら称賛するけど、満足できなことをしたらただでは済まさない」と、監視をしている人たちなのだから。

「監視する者たち」を満足させるには、「自分が何をしたいか」「自分が何を作りたいか」ではなく、「どうしたら監視する者たちを満足させられるか」「どうしたら監視する者たちを黙らせられるか」を考え、そのための行動をし続けなければならない。さらに、どこかに隠れている地雷を探して、踏まないように注意しないといけない。地雷を踏んだとたんに、監視する者たちは、脱走兵を見つけたかのごとく牙をむく。

だから、「フォロワー数が増える」「登録者数が増える」というのは、「お前を監視する者が増える」という事であり、あまり手放しで喜べる話ではない。

小説 あしたてんきになぁれ 第25話「チョコレートの波浪警報」

今回はバレンタインデーのエピソード、バレンタインデーに真剣な志保と、バレンタインデーを含めたあらゆるイベントごとが苦手なたまき、バレンタインデーに興味があるのかないのかよくわからない亜美、それぞれのお話です。それではあしなれ第25話、スタート!


第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

昼間のスナックほどおかしな空間はない。

スナックとは本来、夜に営業するつもりで作られている。だから、窓がない店が多い。窓をつけたって、どうせ日の光は入ってこないのだ。

さらに、店内の照明がうすぼんやりとしている店も多い。都会の夜の闇に溶け込み、夜の闇を楽しむための空間。それがスナックだ。

だからなのか、絵に描いたような青空が広がる昼間にスナックを訪れると、そこが「昼間」という時間から隔絶された空間であるかのように思える。ドアをくぐった瞬間、空間が歪むのだ。

「そのあと」というヘンな名前のスナックも、そんなうすぼんやりとした影をたたえた店だった。

「東京は城のようだ」と誰かが言ったが、東京を代表する大きな駅から坂道を下り、まるで東京という城のお堀のような閑散とした住宅街の中に、スナック「そのあと」はたたずんでいる。

「ランチタイムやってないの? 昼間もママの料理食べたいよ。絶対繁盛するって」という常連のおじさんにそそのかされた若き雇われママさんが、週に二回、ランチタイム営業をやっているのだが、これがさっぱり人が来ない。

やっぱり、周囲にオフィスが全然ないという立地が悪いのかしら、と若きママは考えているのだが、ママの弟に言わせると「全然宣伝とかしてないからじゃねぇの?」。

「だったら、ミチヒロがうちのCMソング作ってよ。で、その辺の路上で歌って宣伝してきてよ」

と若きママは、「プロのミュージシャンになる」と豪語する弟に提案するのだが、弟は「オレ、そういう商業的な歌は歌わないの」とずいぶんと生意気なことを言っていた。

時計は午後一時を回り、店のわきに置かれたテレビの中では、ライオンの着ぐるみがサイコロをぶん投げている。若きママは誰もいない店内で、大きなあくびをした。

その時、ドアがかちゃりと開いて、ちりんちりんとドアのベルが鳴った。

「いらっしゃい」

わずかに開いたドアの隙間から、誰かが中をうかがうようにのぞき込んでいる。

「あ、営業してますよ。大丈夫ですよ」

ドアはきい……と、風に揺らされているかのように開いた。外の光がこぼれてくるのと同時に、中学生くらいに見える、背丈の低い女の子が入ってきた。

「あ、たまきちゃん! いらっしゃい!」

若きママが女の子の名前を呼ぶと、そのたまきという女の子は、ロボットのようなぎこちなさと丁寧さで

「こんにちは……」

と言って頭を下げると、カウンターの一番左端の席を指さして、

「あの……ここ……座って大丈夫ですか?」

と若きママに尋ねた。若きママがにっこりとほほ笑むと、たまきはスカートのすそを引っ張りながら、その椅子に腰かけた。

そのしぐさがどうにも、子どものころにかわいがっていた黒猫にそっくりで、若きママは思わず笑いそうになった。「クロ」と名付けてかわいがっていた黒猫が、若きママが弟と一緒に暮らしてた施設の敷地に初めて迷い込んできた時も、ちょうどこんな感じだった。

たまきは五百円玉をカウンターの上に置いた。

「あの、焼きそばお願いしても大丈夫ですか?」

「焼きそばね、了解。お金は食べ終わってからでいいからね」

若きママの言葉に、たまきは恥ずかしそうに五百円玉を引っ込めた。

若きママは少しからかうように

「お酒は何にする? ハイボール?」

と尋ねる。

「え?」

たまきは困惑して、それこそ猫のように目を丸くした。

「あ、あの、私、その……」

「冗談だってば」

若きママは歯を見せて笑うと、冷蔵庫から焼きそばの袋を取り出した。

ものの数分でほかほかのソース焼きそばがたまきの目の前に置かれた。

たまきは割り箸を手に両手を合わせると、

「いただきます」

とつぶやいた。力を入れて割りばしを割る。たまきは割りばしがしなって割れる瞬間が、本当に苦手だ。どうせ箸を作るなら、割ってから出荷してくれればいいのに。

ソース焼きそばを口へと運ぶ。なんだか、昔、たまきのお姉ちゃんが作ってくれた焼きそばを、数年の時を経てようやく口をつけているような気がした。

ふと、顔をあげてみると、カウンターの中に若きママことミチのお姉ちゃんの姿がなかった。

どこかに行ったのかとあたりを見渡してみると、背後に気配を感じ、たまきは驚いて振り返った。

ミチのお姉ちゃんは、たまきの真後ろにいた。ニコニコしながら、たまきを見ている。

もっと正確に言えば、たまきのお尻あたりをニコニコと眺めていた。

「あ、あの……私の、その、おしりに、なにかついてますか……」

「いや、何もついてないんだよねぇ~」

そう言いながらミチのお姉ちゃんはたまきのお尻、特に尾骶骨あたりをしげしげと眺めた。

「ネコみたいだから、黒いしっぽでもついてるんじゃないか、と思ったんだけどねぇ」

そんなわけない。たまきはそう思った。

「知ってる? ネコって、しっぽで気持ちがわかるんだよ。ピンと立てている時はうれしい時、しっぽを丸めてるときは怖がってる時、しっぽをばたばた振ってるときは嫌がってる時、昔飼ってたクロはねー、なでるとよくしっぽをばたばた振ってたんだよ」

だから、嫌がってる、とわかっているのに、どうしてなでるのだろう。

「ネコってしゃべらないけど、ちゃんと気持ちは表現してるんですね」

「ね、たまきちゃんそっくり」

「え?」

たまきは驚いたように、ミチのお姉ちゃんの目を覗き込んだ。

「ほら、今も、すごい驚いたような顔してる。あんまりしゃべんない子だなって思ったけど、その分、顔にすごい出るよね、たまきちゃん。だから、見てて面白いよ」

そんなわけない。そんなわけない。

たまきは、強くそう思った。

今まで、人からそんな風に言われたことなんてない。

むしろ、「表情が乏しい」といったようなことをよく言われてきた。

親からは「何考えてるかわかんない子」と言われ、亜美からは「それで笑ってるつもりなのか?」と呆れられ、志保にご飯の感想を「おいしいです」と告げれば、「本当に? 無理しておいしいって言わなくていいんだよ?」と疑われる。

ミチに至っては、たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、それを態度に反映させようという姿勢が全くない。たまきが怒っている時にさらに怒らせるようなことを、たまきが恥ずかしがっている時にさらに恥ずかしがるようなことを、たまきが落ち込んでいる時にさらに傷つけるようなことを平気で言う。

それが、たまきの気持ちをわかっていてわざと嫌がらせをしている、というのであれば、もうこんな人とは関わらない、で済むのだが、そうではないから始末が悪い。

あの人はきっと、たまきが何考えているかなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、全部いつもとおんなじ表情に見えているに違いない。たぶん、ミチはそのクロっていうネコが嫌がっていることをそもそも気づかずに撫でていたんだろう。

そんなだから、そのミチのお姉ちゃんがたまきのことを「顔にすごい出る」と評したのは、意外としか言いようがなかった。

そう言えば、以前にも同じようなことを一度だけ言われた気がする。誰だったっけ。

「私……あんまり顔に出ないって言われます……」

ミチのお姉ちゃんに表情を読み取られたことが少し恥ずかしくなり、たまきはうつむきがちに言った。

「そんな恥ずかしそうに言わなくても」

またしても心を見抜かれ、たまきはますます恥ずかしくなった。もしかしたら、ミチのお姉ちゃんには超能力でもあるんじゃないか。ばかばかしい考えだが、その方が「たまきは顔に出やすい」という説よりも現実味がある気がする。

たまきは五百円玉を差し出し、二十円を受け取って、お店を出た。

空には雲一つない冬の青空が広がる。さっきまでのうすぼんやりとした空間なんて、まるで存在しなかったかのようだ。

たまきは、歓楽街へと帰る坂道を、とぼとぼと登り始めた。

坂道を登りながら、たまきの頭の中で、なにかがぐるぐると回る。

この前は「ネコに似てる」と言われ、今日はさらに「顔に感情が出やすい」と言われた。

あの店に行くと、ミチのお姉ちゃんに合うと、たまきが思ってもいなかったたまきを突きつけられる。

でも、もしかしたら、「自分が思っている自分」の方が間違っているのかもしれない。

何せ、普段は自分で自分の顔を見ることができないのだ。自分が人からどう映っているのか、わからないのだ。

よくよく思い返せば、たまきは自分の「笑顔」を知らない。鏡の前で笑顔の練習をしてみたことならあるが、そこに映っていたのはあくまでも「練習している笑顔」でしかない。

そうではなく、亜美や志保との暮らしの中で、ごく自然に出る笑顔、亜美や志保が見ているであろうたまきの笑顔を、たまき自身は知らないのだ。せいぜい、誕生日の時に撮ってもらった写真に写る、ちょっとカタい笑顔を見たくらいだ。

そんなことを考えながら、一つ思い出したことがあった。

『たまきってすぐ顔に出るから』

昔、たまきにそういったのは、たまきのお姉ちゃんだった。

たまきのお姉ちゃんも、もしかしたら「たまきが思っているたまき」とは全然違うたまきを見ていたのかもしれない。そして、ひょっとしたら、そっちの方が本当のたまきなのかもしれない。

たまきは踏切で足を止める。目の前を列車が轟音をあげながら通過する。クリーム色に近い白の車体に、青いラインが走っている。走り去る列車を見つめながら、ふと思う。

たまきの姉やミチの姉が見ているたまきが実は本当のたまきなのだとしたら、ここにいるたまきはいったい誰なのだろう。

 

写真はイメージです。

たまきは冬が苦手だ。

別に、寒いから苦手なわけではない。むしろ、気候で行ったら冬よりも夏の方が苦手だ。

たまきが冬を苦手とするのは、クリスマス、お正月、バレンタインデーと、たまきの苦手な「イベント」が目白押しだからだ。最近ではハロウィンもある。どうしてみんな、あんなにもイベント好きなんだろう。何も楽しいことなんてないじゃないか。

そして、たまきの嫌いな「イベントの冬」ももうすぐ終わる。最後のイベントであるバレンタインデーが間近に迫っていた。一か月後にはホワイトデーがあると言えばあるが、どういうわけか、そっちはあんまり盛り上がらない。

亜美、志保、たまきの三人は、デパートで行われていた「チョコレートフェア」なるものを見に来ていた。

正直、たまきはチョコに全然興味がない。チョコをあげたい男の子もいない。そもそも、甘いものは別に好きじゃない。

だが、あんまりイベントに背を向けすぎると、かえってみじめになる気がしてついてきたのだが、やっぱり興味がないものは興味がない。

一方、志保は、興味があるを通り越して、もはや切実な問題とでも言いたげにチョコを見て回っている。

数日前、田代とともに映画を見に行った志保は、ものすごい上機嫌で帰ってきた。

「どうした。コクられたのか?」

と茶化す亜美に対して、

「そうなの! 聞いて聞いて!」

と、じゃれつくウサギのように志保ははしゃいだ。

「なに!? マジで!?」

と、亜美もしっぽを振る子犬のように飛びつく。たまきだけが、まるで水槽の中の熱帯魚でも見るかのように、少し離れた場所から二人を見ている。

「映画見終わって、食事して、そのあと街を歩いてたら、田代さんが……」

そこで志保はいったん言葉を切った。

「『なあ、俺たち、付き合わない?』だって!」

と志保は顔を赤らめて、亜美の肩をバンバンと叩いた。

「で、お前はなんつったの?」

「『うん、いいよ』って!」

「で、その後どうしたんだ? ヤッたのか?」

「やだもう! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

志保は再び、亜美の肩をバンバンと叩いた。

その様子を、たまきは少し離れたところからぼんやりと眺めている。

『付き合わない?』

『いいよ』

お互いに、好きだとは言ってないし、好きということを確かめてもいないけど、それでいいのかな。そんなことをぼんやりと考えながら。

 

時は戻って現在。志保はチョコ売り場の中をウロチョロしながら、チョコを品定めしている。

「なんだ、まだ決めてねぇのか。ま、『本命』チョコだから、仕方ねぇか」

亜美はわざと「本命」を強調した。それから、口の横に手を当てると、

「みなさ~ん! この女、本命チョコえらんでますよ~! おい、リア充がいるぞ~!」

「もう! ちょっと黙っててよ」

と志保が亜美の方に近づいてくる。

「あれ? 亜美ちゃんもチョコ買ったの?」

「あ? ああ、友チョコだよ、友チョコ」

亜美が手にしたお店の袋を無造作に振り回した。

志保は陳列されていた、ハート形のチョコを手に取る。

「これまた、あからさまな本命チョコですなぁ」

と笑う亜美と、口をとがらせる志保。亜美は今度はたまきの方を向いた。

「お前はチョコ買わないの?」

「……別に」

「ミチにあげたりしねぇの?」

「なんでですか?」

たまきは心の底から不思議そうに、亜美の方を見た。

「いや、別に、本命チョコじゃなくても、義理チョコでもあげとけば、あいつ、しっぽ振って喜びそうじゃん」

「……あげる義理がないです」

そう言ってたまきは、視線を志保の方へとむけた。志保はまだチョコを選んでいる。右手と左手、それぞれにハート形のチョコを手に持ち、見比べている。

たまきは正直、どっちでもいいような気がしてきた。

 

写真はイメージです。

それから数日後、たまきは例によって、いつもの公園のいつもの階段に腰を下ろして、絵を描いていた。

ふと、背後に人影を感じる。

「お、たまきちゃん来てるな?」

ミチの声だ。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答えた。

ミチは階段を降りると、たまきのすぐ横に腰掛ける。たまきはすっと体をスライドさせ、ミチとの距離を開けた。

いつもならミチがギターケースを置き、ギターを取り出す音が聞こえてくるものだが、それが聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、紙袋をがさがさと広げる音。

ちらりとミチの方を見ると、珍しくギターケースを持ってきていない。

「今日は歌わないんですね」

とたまきが言うと、

「この後バイトだし、そのあとは先輩たちと飲みに行くから」

ミチの年齢だと、飲みに行ってはいけないはずなのだが、たまきは面倒くさいのでそこはスルーした。

「じゃあ、何しに来たんですか?」

「何しにって、たまきちゃんからチョコを貰いに来たんだよ」

あれ? とたまきは思った。そんな約束、してたっけ?

絵を描く手を止め、大急ぎでたまきは頭の中に検索をかける。ミチにチョコをあげるなんて約束をしたかどうかを調べるが、そんな記憶は全くない。念のため、なにか勘違いさせるようなことを言ったのではないかとも考えたが、そちらも全く心当たりがない。

「そんな約束、してないと思うんですけど……」

「え? だって今日、バレンタインデーだよ?」

そこでたまきは初めて、今日が二月十四日であることを知った。なるほど、だから今朝、志保が妙にうきうきしていたのか。

だが、バレンタインデーだからなんだというのだろう。

「バレンタインデーだと、なんで私がミチ君にチョコをあげなければいけないんですか?」

「え? だって、たまきちゃん、女の子じゃん」

もしかして、この男はバレンタインデーのことを「女子が男子を見るや否や、無差別にチョコをばらまく日」とでも勘違いしているのではないだろうか。

「……その紙袋は何ですか?」

まさか、たまき一人から紙袋が埋まるほどのチョコを期待しているとでもいうのだろうか。たまきは二木の菓子ではない。

「いや、この後バイト先でもらって、先輩たちと飲みに行った先でもらうからさ」

「……貰うって、それはもう決まってるんですか?」

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

どうも会話がかみ合わない。「バレンタインデーを忘れるほど興味のない女子」と「バレンタインデーに過剰な期待をする男子」が会話をすると、こういうことになるらしい。

たまきは、絵を描く作業に戻った。しばらくの間、沈黙が続く。

「たまきちゃん、チョコは? まだ?」

「……持ってません」

これまでの会話の流れから、たまきがチョコなんか用意してないことくらい、気づかないのかな。

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

ミチの返事は、たまきの予想と一言一句同じだった。隣からはあからさまに、紙袋をがさがさと広げる音がする。

「チョコこじき」、そんな言葉がたまきの頭をかすめた。

 

写真はイメージです。

バレンタインデーの起源は、ローマ帝国にあるという。

ローマ帝国では兵士の結婚を禁じていた。故郷に恋人や妻がいれば士気が下がるからだという。確かに、「俺、この戦争が終わったら田舎に帰って結婚するんだ」と語る兵士に限って、戦争が終わるまで生き延びることがない。

だが、キリスト教の司祭だったバレンタインは兵士たちのために隠れて結婚式を執り行っていた。しかし、そのことがばれんた、いや、ばれたために処刑されてしまう。その処刑された日が二月十四日だった。

バレンタインデーの正体は、実はバレンタインさんが処刑された命日だった。そんなことを語るシスターの話を、志保はぼんやりと聞いていた。起源がどうあれ、重要なのはその後の歴史、そして、今日を生きる志保たちがバレンタインデーをどうとらえているからだ。バレンタインさんは恋人たちのために尊い犠牲になったのだ。それは二千年前も今も変わらない。合掌。

シスターによる簡単な講義が終わった後は、チョコレート交換会が始まった。志保が通う施設は、何も四六時中「依存症とは何か」などと暗い顔をしているわけではない。むしろ、イベントごとをみんなで楽しむことを更生への一環として、積極的に取り入れている。

各自それぞれ、箱サイズのチョコを持ち寄ってテーブルの上に置き、みんなでつまみあう。ただし、アルコール依存の人もいるので、ウイスキーボンボンのようなタイプのチョコはNGだ。

「これ、神崎さんの?」

トクラが志保の持ってきたチョコを手に取る。

「はい」

「ふうん」

トクラはそのチョコをしげしげと眺める。

「本命は別にちゃんといる、ってことか」

そう言って、トクラは包みの銀紙からチョコをはぎ取り、口に放り込んだ。

「え、なんでわ……」

そこまで言って、志保は自分の反応がほぼ「イエス」と言っていることに等しいと気づいた。別にカレシがいることを隠すつもりはないが、トクラに知られると、なんだか後々面倒な気がするのだ。

トクラは志保にそっと近づくと、耳打ちするように言った。

「お相手はどこまで知ってるの?」

そう言ってトクラは悪戯っぽく微笑んだ、ような気がした。実際には見てないけど、そんな気がした。

志保は何も答えなかった。答えられなかった。

沈黙。

それだけで、トクラは大体のことを察したかのようだった。

志保は、田代に対して「現在」を何も教えていない。田代の中での志保は、都内の高校に通う女の子、という認識のはずだ。

嘘、とも言い切れない。少なくとも一年ほど前までは、志保は「都内の高校に通う女の子」だったのだから。

そこから先のことを語っていないだけだ。嘘をついているのではない。沈黙を貫いているだけだ。

そうな風に自分に言い聞かせようとする自分自身が、志保は嫌だった。

彼のことを騙してる。

そして、自分のことも騙してる。

そんな自分が嫌だった。

でも、だったら、「自分のことを騙そうとする自分」とはいったい誰なのだろう。騙される方の自分とは、いったい誰なのだろう。

そして、そんな自分が嫌になる自分とは、いったい誰なのだろう。

「ちょっと……いいですか……」

志保はトクラに、部屋の隅に来るように促した。チョコの置かれたテーブルから少し離れる二人。

「トクラさんだったら……どうします……? 付き合ってる人に、自分の『病気』のこととか、正直に言いますか……」

「それ訊いてさ……」

トクラは少しいぶかしむように志保を見た。

「あたしの言ったとおりにしてさ、それでうまくいかなくなったらあたしのせいにする、っていうなら答えないよ?」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「まあ、あたしだったら、言うか言わないかは相手次第だけど、なるべく長持ちする方を選ぶよね」

「長持ち……?」

志保はトクラが言っていることが、ちょっとよくわからなかった。

「だから、相手がクスリとか依存症とかにあまり縁がない人、理解のない人だったら、言わないかな」

「でも、いつかバレるんじゃないですか? そうなったら、なんで言わなかったんだ、嘘ついてたのか、って余計にややこしいことになりませんか?」

志保の言葉は、まるで自分で自分をいさめているかのようだった。だが、そんな自分をいさめる自分とはいったい誰なのだろう。

「まあ、バレたらオワリだよね」

「だったら……」

「あのね神崎さん」

トクラは志保の肩にポンと手を置いた。

「すべての恋はね、いつか必ず終わるんだよ?」

その言葉に、志保は再び沈黙した。だがそれは、さっきの沈黙とはまた少し違ったものだった。

「出逢い、結ばれることが恋の始まりなら、その終わりは等しく『別れ』。結婚したって、離婚する人も多いし、いつかは死に別れる。それが嫌なら心中するしかないけど、心中って破滅だと思わない?」

トクラはもう一度、志保の肩を軽く叩いた。

「未来はコントロールできない。でも、今現在はコントロールできる。どういう終わり方を迎えるかはコントロールできないけど、今、この恋愛をどう楽しむかはコントロールできるの。だったら、今が楽しければそれでいいんじゃない? で、それを少しでも長く引き伸ばすの」

「でも、今が楽しければその後どうなってもいいなんて、そんなの、待ってるのはそれこそ破滅じゃないですか……」

「あら、破滅じゃ嫌?」

トクラは微笑んだ、ような気がした。実際は見ていないのでわからない。

「さっき言ったでしょ。すべての恋は必ず終わる。それは別れるか破滅するか。それに『別れ』も喧嘩したり浮気したり憎しみ合ったり、大半が破滅。多くの恋の結末は破滅なの。神崎さん、なんでだと思う?」

志保はまたしても沈黙した。この沈黙は単に、答えがわからないゆえの沈黙である。

「恋を燃え上がらせるのは、破滅と背徳なの。破滅的で、背徳的な恋ほど盛り上がるの。だから人は、破滅は嫌だ、背徳はいけないと言いながら、知らず知らずのうちに破滅と背徳に向かって突き進む。不倫なんてそのいい例じゃない。明らかな背徳で、その先に待っているのは明らかな破滅。なのに不思議と後を絶たない。なんでだと思う? それは、明らかな背徳で、向かう先が明らかな破滅だから。破滅と背徳、それに勝る快楽はないから」

トクラはテーブルの前に戻ると、チョコの包みに手を伸ばした。

「どうせ恋の行きつく先が破滅なら、何も恐れることなんかないじゃない。いつか破滅するとわかっててなお、今を楽しまないと。太ると知っててついついチョコを食べちゃう。虫歯になると知っててついついチョコを食べちゃう。それとおんなじ。バレンタインさんもそのことを知ってたのかもね。これから戦場に向う兵士の結婚式なんて、すぐに戦死しちゃうかもしれないから、せめて式だけでも、ってことでしょ? 破滅に向かう恋が一番美しい、バレンタインさんはそれがわかってたんじゃないかしら」

そう言って、トクラはチョコを口の中に放り込んだ。

 

写真はイメージです。

「じゃあ、たまきちゃんは結局、チョコを買わなかったの?」

公園から駅へと向かう地下道の途中で、紙袋を手にしたミチがたまきに尋ねた。

「……亜美さんと志保さんとお金を出し合って、三人で食べる用のチョコは買いました」

「でもそれってさ、誰かにあげたわけじゃないじゃん」

「……まあ」

たまきはミチの少し後ろを歩きながら、うつむきがちに答えた。

「誰かにチョコ、あげないの?」

「別に……」

「だって今日、バレンタインデーだよ?」

さっきから、こういう会話の繰り返しである。たまきはいい加減にうんざりしてきた。

「今までだれかにチョコあげたことないの?」

「ありません」

「男友達とかは?」

「そんな人、いません」

「じゃあ、女友達。学校で友チョコあげたりしなかったの?」

「……そんな人、いません」

ミチはそこで少し考えてから

「じゃあ、父親とかは?」

と尋ねた。たまきも少し考えてから

「お姉ちゃんとお金を出しあって……、でも、あれもお姉ちゃんが選んで、渡してたから……」

と答える。

長い地下通路も終わり、タクシーの入るロータリーに差し掛かった。二人は階段を上って地上へと出る。

日本、いや、世界で最も利用者数が多いなどと言われるその駅前は、時間としてはまだ夕方にもかかわらず、すでに夜の帳が降りきったように真っ暗だ。だが、仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人でごった返し、むしろ昼間以上の混雑を見せていた。

「じゃあ、私はこっちなんで……」

たまきは駅の北側を指さすと、くるりとミチに背を向けて、歩き出した。

だが、ミチも

「いや、俺もこっちだから」

とついてくる。

「あれ、ミチ君の家あっち……」

とたまきは駅の南の方を指さしたが、

「この後バイトだから」

と、たまきの横に並んで歩きだした。

そうだった。この男は、たまきが暮らす太田ビルの2階のラーメン屋でバイトをしているのだ。

すなわち、たまきが「城」に帰るまで、ずっと一緒なのだ。

「じゃあ、今まで一度もチョコあげたことないの? なんで? 今まで十何回もバレンタインデーあったのに?」

つまり、このうんざりするチョコ尋問も、太田ビルに着くまでの十数分間、ずっと続く。

ちょうど、右手にコンビニが見えてきた。

たまきは、コンビニンの前で立ち止まると、ミチの方を向いて

「ちょっと待っててください」

と言うと、コンビニの中へと入った。

二、三分ほどして、たまきはコンビニから出てきた。手には百円ちょっとで売られている、赤いパッケージのチョコのお菓子を持っていた。

たまきはそのチョコレートを、不機嫌そうに、ミチの前に突き出した。

「これ、あげます」

ミチはぽかんと、たまきが突き付けた赤いパッケージを見る。

「え? いいの?」

たまきは相変わらず不機嫌そうに赤いパッケージを突き出したまま、ミチをにらむ。

この男の口に石ころを詰め込んで黙らせる労力を考えれば、チョコを買って渡すことくらい、大したことない、はずだ。

「……義理チョコです」

一応、たまきは念を押しといた。

ミチはたまきの手から赤いパッケージを受け取ると、待ってましたとばかりに紙袋の中に放り込んだ。

「やった。たまきちゃんの『はじめて』、もらっちゃった」

「そ、そういうヘンな言い方、やめてください!」

たまきは慌てたように、恨めしげに、紙袋の中へと消えた赤いパッケージを見ようとした。それが完全に紙袋の中へと入ったのを確認すると、たまきは再び、「城」の方へと向かって歩き出す。

「ところでさ……」

たまきの横を歩きながらミチが口を開いた。

「今月末、俺の誕生日なんだよねぇ」

「知りません……!」

たまきは深くため息をついた。

 

写真はイメージです。

「来年こそは手づくりしようかなぁ」

志保は「城」のキッチンを見ながら言った。

「まだ手作りチョコって作ったことないんだよねぇ。ここの設備しっかりしてるから、頑張ればイケそうな気がする」

冬の夜、三人は「城」でまったりと過ごしていた。暖房の効いた部屋の中にいると、こういう場所があることにありがたみを感じる。もちろん、家賃は払っていないのだけれど。

「志保さんならできると思います」

ゴッホの画集を読んでいたたまきが、志保の方に目をやって告げた。

「まあ、来年もあたしがここにいれば、だけどね……」

志保はそうやって自嘲気味に笑う。

「そもそも、来年もカレシがいるかどうかわかんねぇもんな。あ、別のオトコに変わってたりして!」

亜美は悪戯っぽく笑いながら、テーブルの上に置かれたチョコの包みに手を伸ばした。3人で千円ずつ出し合って買ったものだ。

「もう……!」

志保は不満げにチョコに手を伸ばす。

「ところで、たまきは誰かにチョコあげなかったのか?」

「え? ま、まあ……」

たまきは、どうとでも解釈できそうな言葉でお茶を濁した。

「そう言えばさ、亜美ちゃん、いっぱいチョコ買ってたじゃん。なんかケースのやつとかさ。あれって男友達にあげたりしたの?」

亜美のチョコを咀嚼する口が止まった。

「いや……あれは……女友達にあげたから。友チョコだよ」

「男友達にはあげなかったの?」

「はっ。アイツらにやるチョコなんてねぇよ。まあ、チョコ代立て替えてくれるっつ―なら、渡してもいいけどな」

「えー、でも、あげようかなって思ったりしないの? バレンタインデーだよ?」

あれ、さっき、どこかでそんなこと言われたぞ、とたまきは思った。

「ほら、ヒロキさんとか、付き合い長いんでしょ?」

そういうと、志保は亜美の方ににじり寄る。ヒロキとは、亜美の客の中で、特に付き合いがある男の名前だ。たまきも、亜美とヒロキが二人で街を歩いているところを見ている。

「ここだけの話、あたし、亜美ちゃんとヒロキさんちょっといいかんじなんじゃないか、なんて思ってるけど、そこんとこどうなの?」

にやにやしながら亜美に尋ねる志保。だが、亜美は眉一つ動かすことなく、あっけらかんと答えた。

「ヒロキ? あーないない。そもそも、あいつヨメもコドモもいるし」

「なんだそうなの。じゃあしょうがないか……」

さらっと受け流してから、志保とたまきは、亜美がとんでもないことを言っていることに気づいた。

「えぇ!!」

志保が、壁が破れるんじゃないかってくらいの大声を出す。たまきは大声こそ出さなかったが、目を丸く見開いて、て亜美を見た。

「ん? どした?」

亜美だけがぽかんとしたように、チョコをポリポリかみ砕きながら、二人を交互に見ている。

「ちょっと待って? ヒロキさんって、奥さんも子供もいるの?」

「ああ、いるいる。それがマジウケることに、ヒロキの嫁って、うちの一個下なんだぜ。それでガキいるって、じゃあ何歳の時に結婚して、何歳の時に産んだんだよ、そもそも、何歳の時に手ぇ出したんだよ、ってハナシじゃん? ウチもそれ聞いた時はさすがに『こいつらやべぇな』って思ったよ」

「ちょっと待って? ちょっと待って?」

志保は頭が追い付いていないのか、亜美の話を制した。たまきは、あまりにも自分とかけ離れた世界の話なので、もう理解することをやめた。

「え? それ、不倫じゃん!」

「それってどれだよ」

「亜美ちゃんとヒロキさんの関係!」

「は?」

亜美は亜美で、いま志保に言われたことが理解できないらしい。

「不倫じゃねぇだろ。お互い、本気じゃないんだし」

「亜美ちゃん、結婚してる人とその……エッチすることは悪いことだ、ってのはわかってる?」

「あのな……」

亜美はまるで人の道でも説いて聞かすかのような顔で話し始めた。

「いくらからあげが好きだからって、毎日からあげ食ってたら、たまにはテンプラが食いたくなるだろ?」

前にもこんな話を聞いた気がする。

「あれ……ちょっと待って……あたし……思い出してきたんだけど……」

志保がより一層戸惑ったような表情になった。

「亜美ちゃんさ、クリスマスの時、『不倫はスジが通んない』って言ってなかった? そうだよ、不倫してた女の人、殴ろうとしてたじゃん! っていうか、ヒロキさんも『不倫した奴が悪い』みたいなこと言ってなかった?」

「そりゃそうだろ。不倫は悪いに決まってんじゃねぇか」

「でも、自分が不倫してんじゃん!」

「だから、お互い本気じゃねぇから不倫じゃねぇってば。っていうか、あんとき、お前の方こそ、不倫するやつの気持ちわかるみたいなこと言ってなかったっけ?」

「『気持ちがわかる』と『不倫してもいい』は別の話でしょ!」

志保は手ごろなクッションをソファにたたきつけた。

「相手の奥さんの気持ちとか考えたことあるの、亜美ちゃん!」

「相手の気持ち? 相手の気持ちねぇ……」

亜美はしばらく考え込むようなしぐさを見せた。

「ヒロキのヨメは何も知らねぇんじゃねぇかな」

「だから……そういうことじゃなくてさ……、相手の奥さんが傷つくんじゃないかとか……」

「何も知らねぇんだから、傷つくわけねぇだろ。そもそも、本気じゃないんだし」

「だから……そうじゃなくて……」

「あのさ……」

亜美はうんざりしたように志保を見た。

「嘘ついてオトコと付き合ってるような奴に、とやかく言われたくねぇんだけど」

亜美の声には、温度がこもっていなかった。

「嘘って……」

「あのヤサオに、なんも言ってねぇんじゃねぇの?」

「それは……」

志保が下を向く。

「自分のカノジョが嘘ついてて、実はクスリやってて、しかもそれずっと黙ってましたって、お前こそ相手の気持ち考えたことあんのかよ。あ、これも相手はなんも知らねぇから、別にいいのか」

「それは……わかってるけど……」

志保は沈黙した。唇が少し震えているようにも見える。

亜美は、「なんか文句あるか」と言いたげに椅子にふんぞり返っている。

たまきは、少し離れたところで画集を膝の上において、それを見ているだけだった。

亜美と志保の周りに、真冬の朝の冷気のように落ち着かない空気が漂っていた。一触即発、というのとはちょっと違う。むしろ、重苦しい何かで押さえつけられたような感じだ。

たまきはなんとなく、ゴッホが描いた、麦畑の上をカラスが飛んでいる絵を思い出した。ゴッホなら、今のこの部屋の空気を何色で書くだろうか。

何か言わなきゃ、たまきはそう思った。

以前、志保はたまきが亜美と志保の間をつないでいる、たまきはそこにいるだけでその役割を果たしてくれる、と言っていた。だったら、不穏な空気が漂う今こそその力を使うときなんじゃないのか。コンド―……、じゃなかった、緩衝材としての役目を果たすときなんじゃないのか。

だがしかし、何を言えばいいのだろう。普段でさえ何をしゃべればいいのかわからないのに、こんなに落ち着かない状態の時に言うべき言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

亜美か志保、どっちかのフォローに回ろうかと思ったが、たまきの乏しい会話力では、フォローしきれそうにないし、どっちかの味方をしたらどっちかを怒らせてしまうかもしれない。そして、それをなだめる会話力も、やっぱりたまきは持ってない。

だったらいっそ、全然違うこと、意表を突くようなことを言って、場の空気を変えるという作戦がいいのではないか。だけど、今この状態で、二人が不穏な空気を忘れてノッてくるような話題なんてたまきにあるはずも……。

「あ、あの……」

たまきはそっと立ち上がると、たった今、必死で考えたフレーズを口にした。

「私、チョコレートあげました、ミチ君に……!」

その言葉を聞いた途端、凍り付いた空気が一気に蒸発したかのように、亜美と志保は驚いた様子でたまきの方に振り向いた。

「はぁ!?」

「えぇ!?」

「……義理チョコですけど……」

急に恥ずかしくなって、たまきは下を向く。

「なんで? そういうの興味ないって言ってたじゃん!」

志保がまるで裏切り者を問い詰めるかの如く、たまきに迫る。

「さっき会ったとき、あまりにもチョコをあげないのかとしつこかったから……チョコくらいいいかなと思って……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保がたまきの両肩をつかんだ。

「ダメだったんですか……?」

「ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!」

「でも……別にチョコレートをあげるくらい……」

「そういう小さいことを積み重ねていくと、だんだん押し切られるのが当たり前になっちゃうよ! もしエッチなことをさせてほしいとか言われたらどうするの?」

「それとこれとは話が違うんじゃ……」

「一緒だよ一緒! 亜美ちゃんからも何か言ってよ!」

志保が、さっきまで口論していたはずの亜美に助言を求める。

「志保の言うとおりだぞ、たまき」

亜美は腕を組んでたまきに言った。

「だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが」

そう言われると、そんな気もする。そもそも、たまきがこの「城」で暮らすようになったのだって、亜美に押し切られたからだったような気もする。

「だからいっそのこと、そのまま押し切られてオトナの階段を上るってのもありなんじゃね?」

「何言ってるの亜美ちゃん!」

志保は今度は亜美の肩をつかんだ。

「そうでもしねぇと、こいつは自分からオトナの階段上ったりしねぇって」

「だからってそんなやり方……傷つくのはたまきちゃんなんだよ?」

「お前さっき、そういうこと繰り返してけば、それが当たり前になるっつったじゃねぇか。押し切られるのはこいつにとって当たり前のことなんだから、当たり前のことやってなんで傷つくんだよ?」

「だから……そうじゃなくて……」

 

夜中。太田ビルの屋上で志保は電話をかけていた。街の明かりが志保のブラウンの髪を照らす。

「あ、チョコ、食べてくれたんだ。どうだった? おいしかった?」

そのあと、二言三言言葉を交わす。

「うん、あたしも。大好きだよ」

そう言って志保は電話を切ると、振り返った。

そこには亜美が立っていて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、にやにや笑っていた。

「熱いねぇ」

「うわっ! 亜美ちゃん、いつからいたの?」

「ん、今来たとこだけど?」

本当はもっと前からいて、黙ってそこに立ってたんじゃないか、そんな気がしてきた。

「じゃ、じゃあ、あたし、部屋ん中戻るから……!」

志保が顔を赤らめて、そそくさと屋上を後にしようとする。志保の背中越しに、亜美が声をかける。

「大好きだよー!」

「やめて~!」

そんな叫びとともに、志保は階段を下りて行った。

「熱いねぇ……」

亜美はポケットから何かを取り出した。

紺色の包装紙に包まれた、ハート形のチョコレート。

亜美は軽くそれを上に向って放り投げ、落ちた来たそれをキャッチする、

そのままチョコを手に、亜美は屋上の柵にもたれかかった。

このまま、屋上から落としてチョコを粉々に砕いてしまおうか、とも思ったけど、怒られそうなのでやめにする。

亜美は無造作にビリビリと包装を破って中のチョコを取り出すと、かじりついた。

ガリッという音がして、チョコがちょこっと砕ける。

チョコは見た目に反して、少し苦かった。

自分で買ったチョコを自分で食べて、誰かに渡したつもりになる。

その「誰か」というのは、一体どこにいるのだろう。

つづく


次回 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」(仮)

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。5月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

情報をとりすぎない

現代は情報氾濫の時代で、情報の取捨選択が大事だと言われる

情報が氾濫しているのはわかる。

……「情報の取捨選択」って何だよ。

子供のころから何度も「情報の取捨選択が大事」と言わた気がするが、それが何かはあまり教えてもらっていない。

たまに、フェイクニュースの話に触れて「情報の取捨選択が大事で……」みたいなことは聞くが、それは「情報の取捨選択」というよりもむしろ、「嘘情報に騙されるな」ではないか。

「情報の取捨選択」とは何か。それは「情報をとりすぎない」ということなのではないか。

評論家の外山滋比古は、知識をとりすぎてかえって考えが凝り固まり、思考力が落ちてしまうことを「知的メタボリック」と批判した。情報をとりすぎるとかえって思考力が落ちてこの知的メタボリックになってしまう。それを避けるために必要なのが「情報の取捨選択」ではないだろうか。

「知的メタボリック」とはよく言ったもので、知識や情報はカロリーと同じで、行動につなげて消費しないと、どんどん太って、不健康・不健全になってしまう。

例えば、SNSなんぞを見てると、政治の話しかしない人がいる。そういう人の文章はほぼ例外なく、物事を0が100か、正義か悪か、敵か味方かの二項対立でしかとらえていない。

自分と同じ意見は正義。違う意見は悪。悪は徹底的に叩く。グレーゾーンとか、折衷案とかがない。

頭が固い知的メタボリックに陥っているのだ。

たしかに、政治の知識や情報を身につけることは良いことだし、おもしろい。知れば知るほど、自分が賢くなったような錯覚に陥る。

いわば、「政治の話」は高カロリーな情報だ。ラーメンやとんかつ、甘いお菓子のようなものだ。好き好んで摂取して、どんどん太っていく。情報の暴飲暴食だ。

だが、食べたぶんは動いて痩せなければならない。

情報は取りすぎるとどんどん太って、知的メタボリックになってしまう。その分、その情報をもとに行動につなげて、動いていかなければならない。これまた、カロリーと同じだ。

ところが、「政治の情報」を行動につなげられる機会というのは限られている。

大半の人はたまにあるかないかの投票に行くぐらいだ。

投票は寄り集まれば国を動かす大きな力、民主主義の根幹だ。だが、一人の行動に還元すると、投票所に行って名前を書いて表を入れるだけ。実はたいした行動をしていない。

そう、「政治の情報」は高カロリーなうえ、それを行動につなげて消費する機会が、とても少ないのだ。

結果、高カロリーな情報をどんどんため込んで、どんどん知的メタボリックになっていく。そうなると、SNSで政治ネタをつぶやいて、賢いふりでもして発散するしかない。

では、知的メタボリックにならないためにはどうすればいいのか。

一つは政治家になったり活動家になったりして、情報をどんどん行動につなげることだ。もちろん、誰でもできることではないし、むしろ、おすすめしない。

そして、もう一つは、高カロリーな情報をとりすぎないように注意することだ。

これこそが、情報の取捨選択である。

高カロリー・ハイリスクな情報はなるべく避け、自分の行動に繋がっていく、栄養価の高い情報を選んで取り込んでいくのだ。

政治・芸能・スポーツのニュース、SNSのトレンド……、これらは高カロリーな情報なので、おもしろかったり、賢いつもりになれたりするが、ちゃんと自分の行動につながるかどうか、しっかりと注意したほうがいい。

だから、僕がニュースを見ていて何よりも重要な情報だと一番注目しているのは、「明日の天気」である。明日の自分の行動に直結する情報なのだから。

スマートフォンに時間を渡さない

長年ガラケーを使い続けてきたが、2020年問題に引っ掛かった。通話ができなくなってしまったのだ。

携帯電話なのに電話できなくなってしまったら、さすがに携帯電話ではない。とうとう買い替えることにした。

買い替えるからには、何か一つ機能をアップデートさせようと思い、前からやろうと思っていたウーバーイーツを始めることにした。

ところが、ウーバーイーツのようなアプリは、ガラケーやガラホではダウンロードできないのだという。

ということで、やむを得なく、初めてスマートフォンを購入した。

さて、初めてスマートフォンを手にしてわかったのだが、

これはさほど便利なものではない。

というのも、30年近くスマートフォンを使わない生活を、より正確に言えば「スマ―トフォンがなくても困らない生活」を送っていたので、いまさらスマートフォンにしたところで、ウーバーイーツ以外に頼らざるを得ない機能がほとんどない。

ウーバーイーツのほかには、LINEでの待ち合わせができるようになったのと、外で地図が見れるようになったくらい。

そのLINEでさえ、待ち合わせのような連絡以外では外では使わない。基本的には家のパソコンで見ている。

SNSは家でやればいい。

動画は家で見ればいい。

テレビは家でのんびり見ればいい。

ニュースは家で見ればいい。

ゲームは家でゆっくりやればいい。

このあとの天気がどうなるかなんて、空模様見ればだいたい見当がつく。

地図なんて目的までに3回見れば十分だ。

ガラケーを使っているときは、みんな何をそんなに夢中になってスマートフォンを見ているのだろう、と不思議でしょうがなかったが、いざスマートフォンを手にしても、やっぱり何をそんなに夢中になっているのか、さっぱりわからない。

みな、スマートフォンに時間を奪われすぎだと思う。

そもそも、そんなに情報を取得して、一体どうするつもりなのだろうか。

ネットにある情報のうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

配信されるニュースのうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

そう考えると、四六時中情報を取得する必要などなく、適度な時間に適度な情報をとればそれでいいということになる。

政治とか、芸能とか、スポーツとか、おもしろいけど実は自分にはほとんど無関係、という情報はたくさんあって、そういうのに時間を費やすのは、時間の無駄である。

SNSでそれらの話題に時間を割くなど、愚の骨頂だ。

しかも、こういった話題に対するコメントは大抵が「こいつ嫌い」だの「こいつはバカだ」だの「こいつをクビにしろ」だのと、みんなだいたい同じ意見で、実はたいしたことは言っていない。

わざわざ1万分の1でしかない意見を書くのに時間を費やすのは、実にもったいないと思う。

そうやって、みんなスマートフォンに夢中になっている。腕を伸ばしてスマートフォンを持つのは疲れるので、みんな、顔のすぐ前にスマートフォンをかざす。

そうすると、視界の大半が覆われて周りが見えなくなる。そのまま歩くと、何かにぶつかったり、躓いて転んだりする。

それでケガをしたり、けがをさせたりしたら、その元凶たるスマートフォンで救急車を呼んだり、病院を調べたりしなければならない。

こういうのを「端末転倒」、じゃなかった、「本末転倒」というのだ。