知識はあるけど知性がない、そんなやつを「知識デブ」と呼べ!

知識を自慢したがる人が多い。知識をひけらかし、自分より知識の少ないものを馬鹿にする、そんな人を、特にネット上でよく見かける。しかし、どんな知識もググればすぐに手に入る現代において、知識はそんなに価値がのだろうか。知識だけにかまけて、知性を磨くことをおろそかにしていないだろうか。


知識はあるけど、本質を見通せない人

過去に、このブログのコメント欄にこんな書き込みがあった。「どの記事か」を書いてしまうと、もはや名誉棄損になってしまうので、どの記事かは書かない。

僕の記事に対して、「前提が間違っている」「見当違い」というコメントだった。どうも僕が話題にしたことの専門家、専門の業者の方らしく、「なんでそんなこと詳しいの?」というくらい詳しかった。

批判は真摯に聞くとして、一方でこんな思いが沸き上がってきた。

確かに、僕の記事は前提が間違っていたのかもしれない。

……だから何だというのだろう。

前提に多少の間違いがあったとしても、結論は一緒ではないだろうか。結論部は変わらないのではないだろうか。

僕の前提が正しかったとしても、相手の前提が正しかったとしても、根本の部分は共通していて、結論部は変わらないはずなのだ。

そこのところ、むこうはどう思うのだろう、と考えて、「ずいぶんお詳しいですね。〇〇の原因などについてぜひ、詳しいお話をお聞かせください。」と返信した。「〇〇の原因」こそがズバリ、「結論部」にあたる箇所だ。

すると返事が返ってきた。「ずいぶんとお詳しいですね」という社交辞令に気をよくしたのか、長々と8行に渡って、最初の話題と「似たような事例」がつらつらと書かれている。

……あなたがその話題に詳しいことはわかったけど、僕は「似たような事例」を教えてくれなんて一言も言ってないんだよ。「〇〇の原因」についてどう思うかと聞いているんだよ。僕の導き出した結論と、あなたの思う結論が一緒なのかどうかを知りたいんだよ。

その肝心の部分に関してはたった一言、「〇〇が有名ですが、そこに答えがあるかと思います。」

その答えをあなたがどう考えているかを聞いてるんだよ! 「ここにあるかと思います」じゃなくて。

結局、この人は知識ばっかり豊富だが、「その知識がどのような結論を導き出すのか」「その知識でどうやって問題を解決するか」が全く見えていなかったのだ。

僕が気にしていたのは「前提がずれたら結論もずれるのか?」、その1点である。結論がずれないのであれば、多少の前提のずれは正直な話、どうでもいい。そして僕の考えは、「前提が多少ずれたところで、その根本の部分外れないのだから、結論はずれない」である。僕は相手に、前提がずれたら結論は変わるのか、変わらないのか、どう思うのか、むこうの意見を聞きたかったのだが、相手は全く関係ない知識を並べ立てたあげく、「そこに答えがあるかと思います。」=「私には答えがわかりません」と煙に巻いただけだった。

このように、「知識はあるのに、本質を見通す力のない人」を、僕は「知識デブ」と呼んでいる。必要以上にため込んだ知識が、かえって知性を圧迫している。

 知識はあるけど、教えない

SNSなんかを見ていると、政治問題に関してちょっと間違ったことを言うと、何か罪でも犯したかのように批判が集まる。やれ、バカだのアホだの、勉強してから発言しろだの、人格否定の集中砲火だ。

間違った知識をただすことはよいことだ。間違った知識をSNSに書いて、誰かがそれを信じて、それが広まるのはよくない。

だが、同時にこうも思う。

罵倒する必要なんて全くない、と。

ある程度強い言葉や皮肉を言わなければ伝わらない場合もある。だが、人格否定レベルの罵倒する必要などあるまい。

相手の知識が間違っている、そう思ったら、正しい知識を教えてあげればいいのだ。それこそが、知識を持つ者の責務ではないだろうか。

「教える」というのは、知識があるだけではできない。知性を必要とするものだ。「相手が何を理解していないのか」「何がわかっていないのか」「どう説明すればいいのか」に思いをはせる。これは知識ではなく知性が必要だ。相手の知識・知的レベルを推し量り、思いをはせることが重要だ。

だから、勉強ができる人=いい先生、とは限らない。「知識が豊富である」と「教えるのがうまい」のはまた別なのだ。

知識のない人を罵倒する人を見ると、教えるだけの知性がないのではないか、と思ってしまう。

教えることで有名な人に、池上彰さんがいる。例えば池上さんに、「どうしてアメリカと北朝鮮は仲が悪いんですか?」と質問したとしよう。ここで池上さんが「そんな簡単なことも知らないのか、バカ! 勉強してから発言しろ!」と言った日には、彼の仕事はなくなる。絶対にそんなことは言わないからこそ、池上さんの話は人気なのだ。

そういった初歩的な質問を投げかけられた時、池上さんはこういう。

「いい質問ですねぇ」

そういわれると、質問した側も悪い気はしない。「なんだ、バカみたいな質問でも、臆することなく言っていいんだ」とどんどん質問して、議論は活発化し、どんどん話は深まる。知識も深まる。

これが知性である。どうすれば相手が気持ちよく学習できるかに頭を働かせるのだ。それができない人が、知識のない人を「勉強しろバカ!」と罵倒する。ただ、自分の知識を自慢したいだけである。

これまた、知識デブである。知識ばっかり肥えて、教えるだけの知性が身についていない。

知識デブの知識自慢だなんて、デブの体重自慢のようなものだ。見苦しいことこの上ない。

ちなみに、なぜアメリカと北朝鮮は仲が悪いのか、の答えであるが、

興味がないから知らない。

知的メタボリックについて

「知識のある人」ならばもしかしたら、「知的デブ」が僕のオリジナルの言葉ではないことに気付いていたかもしれない。

「知識デブ」というのは、外山滋比古が提唱している「知的メタボリック」の言いかえである。「知的メタボリック」よりも「知識デブ」の方が、ことの危険性をより分かりやすく伝えられると思って、言い換えてみた。

だが、外山氏の「知的メタボリック」という言葉も、なかなか的を得た言い方だ。過剰な内臓脂肪が内臓や血管を圧迫して健康を害するように、過剰にため込んだ知識が却って知性を損なっている、というのが外山氏の言う「知識メタボリック」の本質だ。

知識があれば思考で苦労することがない。思考の肩代わりをする知識が多くなればなるほど思考は少なくてすむ道理になる。その結果、ものを多く知っている人は一般に思考力がうまく発達しないという困ったことが起こる。(『忘却の整理学」より)

外山氏は大学で教鞭をとっているなかで、日ごろよく勉強をしている学生の卒論よりも、あまり勤勉でない学生の卒論の方がしばしば面白い、ということに気付き、「知識が知性を邪魔しているのではないか」と考えるようになった。

外山氏の論はあくまでも「エッセイ」であり、学術的なものではない。が、知識があるのに知性がない知識デブが多いのは、検証したとおりである。知識の量ばっかりありがたがって、知性を磨くことをおおろそかにしたあげく、本質を見通すことも、他者に教えることもできずに、知識自慢しかできない残念な物知りで終わってしまう。「馬鹿の一つ覚え」とはよく言ったものだ。

いかに優れた名刀を持っていようと、それを握った人間に剣術の心得がなければ意味がないのと一緒である。

そもそも、今や何でも「ググれば一発」の時代である。物知りよりも「検索の早い人」の方が重宝される時代に、物知りであると自慢するなんて、それこそ知性がない証のようなものだ。一方、検索は「どうすれば目的の知識を引き出せるか」と頭を働かせることであり、検索の旨い人というのは、知性がある人だ。

たとえば、以前ラジオのクイズで「丸の内線の駅で、東京と霞が関の間にあるのは何駅だ」という問題が出た。

このクイズの面白いところは「検索クイズ」と言って、パソコンやスマートフォンで検索してもいい、むしろ、検索の早さを競い合う、という趣旨だった。

知性のない人は「東京と霞が関の間」と検索してしまう。ちなみに、これだと乗換案内が出てきてしまう。

知性のある人はここで、「丸の内線 路線図」と検索する。

路線図を出したら、あとは東京駅と霞が関を目で探す。東京の地理がだいたいわかっていれば、路線図のどの辺を探せばいいのかの見当はつく。

知性とは、こういうことだ。別に「答えは銀座駅だ!」と知らなくても、知性をもって正しい答えを導き出せる。

もちろん、知識は0では困る。だが、過剰な知識は知性を損なう。この辺も脂肪とよく似ている。つくづく、外山氏の知性に驚かされる。

まとめ

以前、友人からこんな話を聞いた。

ある学生が、「ググれば何でも調べられる時代なのに、どうして勉強しなければいけないのか」と先生に質問した。

先生は「知識を使えるようにしないと意味がないから」と答えたそうだ。

この「知識を使う」ということが知性の役目なのではないだろうか。

思えば、知識を活用して結論を導き出すことも、知識をわかりやすく他人に教えることも、「知識を使う」ということであり、その「知識の使い方」こそが知性なのかもしれない。

知識はあるけどその使い方を、燃焼の仕方を知らず、知識ばかりが無駄に肥大化し、知性を圧迫している。そんな知識デブは確実に存在する。

使い方を知らないから、せっかくの知識もただの自慢や、他人の罵倒ぐらいしかできることがない。知識が泣いている。

そんな知識デブは、あなたのすぐそばにいるのかもしれない。

いや、あなた自身が、知識に肥え太った、知識デブなのかもしれない……。

「やりたいことができない人」はダメ人間なのか?

「やりたいことがあったら、できない言い訳などせずに、やろう!」みたいな論調をよく自己啓発本とかで見る。まるで、やりたいことができない人間はダメ人間である、とでも言いたげである。しかし、本当にそうなのだろうか。「やりたいけどできない」の裏には、その人にとって何か大切なものが隠れているんじゃないだろうか。それを無視して、簡単に排除していいのだろうか。

やりたいことをやろう!

人生は、やりたいことをやるべきである。

なるべくやりたくないことを排除し、やりたいことをやる。

「やりたくないこと」を排除していくと、ストレスがなくなる。

ストレスがなくなるとストレスに対する許容量が増える。余裕が生まれる。

その結果、ちょっとくらいのストレスが気にならなくなる。

たとえば、駅に行ったら人身事故で電車が止まってる。いつ帰れるかわからない。これは結構なストレスだ。ほかの客の舌打ちなんかも聞こえてくる。日ごろからストレスの多い生活を送っていると、もうストレスの許容量がなくなり、結果「電車が止まってる」というストレスに耐えきれずに、いらいらする。ひどい人は駅員にあたる。

だが、ストレスの少ない生活をしていると、ストレスを受け入れる容量がまだたくさんあるので、「まあ、これくらいいいか」で済ますことができる。

こういったことは自分の身で実証済みだ。

人生は、やりたくないことを減らして、やりたいことをバンバンやるべきである。

だから、「やりたいけどできない」というのはよくない。「できない言い訳」は勇気を出してつぶし、やりたいことをばんばんやるべきだ!

……という論調が世の中多い。

実際、「やりたいこと できない」で検索をかけると、そういった論調が多い。

「世の中には、やりたいことをやる人と、やりたいことができない人がいる。お金がない、時間がない、自信がない、そういった理由でやりたいことにブレーキをかけている。でも、それはよくない! やりたいことをやって、人生を豊かにしよう!」

今回は、こういった論調に疑問を呈していきたい。

「くだらない理由」の裏にある大切なもの

以前、こんなことがあった。

友達に地球一周の旅の話をしていた。

一応言っておくと、自分から「オレの旅の話を聞きたいだろ?」と切り出したのではない。むこうから話してくれと言われて話しているのだ。

話し終えるとみんな「いいなぁ」と言う。

なので僕が「だったら行けばいいじゃん。何なら、スタッフとか紹介するよ」というと、友人の人がこう言った。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」

なんだそのくだらねぇ理由、と正直その時は思った(口に出してはいない)。そんなくだらないことを気にしているのか、と。そういうくだらねぇ理由を考えなくて済む世の中になればいい、そう思った。

それから3年たった今、僕はこう考えている。

あの時「くだらねぇ」と思った理由の中に、友人の大切にしている何かがあったのではないか、と。

それを「くだらねぇ」の一言で斬り捨ててしまうことが、一番くだらないことだったのではないか、と。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」ということは、その友人は「社会参加」、もっと言えば「働いてお金を稼ぐこと」に対しても価値を見出している、大切に思っている、ということではないだろうか。

それを理解しようともせず、「くだらねぇ」の一言で斬り捨てることが一番くだらないことではなかったのか。

大切だから、失うのが怖い

2017年に放送されていた「宇宙戦隊キュウレンジャー」にこんなシーンがあった。

主題歌の中で「考えてわかんないことは速攻近づこう Space jurney やらない理由など探さずに」という歌詞があるのだが、一方で、最終回直前にこう言ったやり取りがあった。

最終決戦前、ヘビツカイシルバーことナーガ・レイというキャラクターが、「怖い」という感情を口にする。

このナーガというキャラがけっこう変わったキャラで、彼は感情を持たない一族の出身だ。はるか昔、争いの絶えなかったその一族は争わないようにするために感情を捨てたのだ。

その一族の出身であるナーガは「感情を学びたい、手に入れたい」と旅に出て、やがてキュウレンジャーに加入する。そして、物語の中で少しずつ感情を学んでいく。

そのナーガが口にした「怖い」という言葉に、ナーガとずっと一緒に旅をしてきた相棒のバランスというキャラクターがこう答える。

「おめでとう。君は『怖い』という感情を手に入れたんだ。それは『今を失いたくない』という思いなんだよ」

最終決戦で勝てる保証などない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。自分は生き残っても、大切な仲間を失ってしまうかもしれない。

それが、怖い。

「できない」という理由の裏にはこの「怖い」という感情が隠れていることが多い。

たとえば好きな人がいるとしよう。

面と向かって「君が好きだ」と叫んだら、振られてしまうかもしれない。

どうして振られるのが怖いのかというと、「今の関係」を失うのが怖いからだ。

「君が好きだ」という思いと同じくらい、「今の関係性を失いたくない、壊したくない」という思いも大切なのである。

それを「勇気を出して告白しよう!」とか、「思いを伝えないと先に進まないよ」と言ってしまうのは簡単。

でも、「君が好きだと言いたいけど、今の関係を失いたくないからできない」、ここまでがワンセットでその人の個性、その人の価値観である。

それを「後半部分だけ斬り捨てろ」というのは、道理が通らないのではないか。

それを「個性の尊重」と言えるのだろうか。「できる自分の価値観」を「できない人」に押し付けているだけではないだろうか。

それでもやりたいことをやりたい人へ

「やりたいけど、お金がないからできない」のは、その人にとってお金が大切だからである。

「やりたいけど、時間がないからできない」のは、その人が別の大切なことに時間を費やしているからである。

「やりたいけど、自信がないからできない」のは、その人が失敗を恐れているからである。失敗したって死にはしない。が、何かを失う。その「何か」がその人が大切にしているものである。

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」のは、その人にとって家族も大切だからである。

「できない理由」の裏には、その人が大切にしている何かがある。

そもそも、大切でないものなんか、最初から天秤にかけたりしない。

自分の例になるが、僕が地球一周の船旅を決断できたのは、決して人より行動力があるからでも決断力があるからでもない。

当時僕は仕事をしていなかった。しかし、前の仕事でためたお金がけっこうあった。

天秤にかけるものがな~にもなかった。ただそれだけである。

仕事はしてなかったし、お金も「ある程度は使えるな」と大して重視していなかった。

たいして大切じゃなかったから、天秤にかけなかった。それだけだ。

「やりたい、でも……」と天秤にかけている時点で、それはとても大切なものなのだ。

それを「勇気がない」「行動力がない」「決断力がない」と捨てさせようとする。

それは、その人のことを考えているように見えて、

ただ、自分の「やりたいことができる人」の価値観を押し付けているだけである。

それは、優しさとは言えない。

もちろん、やりたいことはやるべきである。その方が人生は楽しい。

でも、「できない理由」もその人にとっては、失いたくない大切な「何か」である。

「やりたいこと」だけを優先して「できない理由」を「臆病だ!」「勇気を出せ!」と切り捨てさせようとするのは、その人の尊厳を踏みにじっていることに等しい。

しかし、「できない理由」だけを尊重して、「やりたいこと」を我慢するのも、やはり人生を無駄にしている。

ならば、道は一つだ。

本当にその人のことを考えるのであれば、「やりたいこと」と「できない理由」の両方を尊重するべきである。

つまり、「両方が実現できる方法を探す」べきなのではないか。

「好きだといいたいけど、今の関係を失いたくない」というのなら、かけるべき言葉は「勇気を出して告白しろ!」ではなく、「今の関係を維持したまま、好意を伝える方法」なのではないだろうか。

「やりたいけど、お金がないからできない」というのなら、言うべきは「お金を言い訳にするな!」ではなく、お金を稼ぎながらやりたいことを実現する方法ではないだろうか。

「やりたいけど、時間がないからできない」というのなら、言うべきは「仕事なんかやめちゃえ!」ではなく、「仕事をしながら短時間でやりたいことをする方法」か、「仕事の時間を減らす方法」ではないだろうか。」

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」というのなら、言うべきは「家族のことなんか忘れろ!」ではなく、家族との関係を崩すことなく、やりたいことを実現する方法なのではないだろうか。

「やりたいこと」と「失いたくないもの」、両方を実現すること、それが一番「その人らしい生き方」のはずだ。

「やりたいことをやりたいなら、『失いたくないもの』を捨てろ!」と言えるのは、所詮は他人であり、その人にとっては相手の「失いたくないもの」なんてどうでもいいからである。むしろ「やりたいことをやれてる自分」に酔っているから相手に押し付けたいだけかもしれない。

やりたいことがあるけどできない人へ

できない理由はいろいろあると思うが、やっぱり何かを恐れているからだろう。

何を恐れているのかと言えば、リスク、つまりは、何かを失うことを恐れているのだ。

あなたが失うことを恐れているそれは、あなたにとってとても大切なもののはずだ。

でなければ、最初から天秤にかけて悩んだりしない。

「リスクを恐れずに!」「勇気を出せ!」「後先考えるな!」と他人に口で言うのは簡単。

でも、『失いたくないもの』を失って、傷つくのは自分である。

やりたいことをかなえたい。

でも、大切なものを失いたくない。

ならば、道は一つだ。

失いたくないものを守りつつ、やりたいことをかなえる。

両方を取りに行く。それしか道はない。

そして、それが一番「自分らしい生き方」である。

欲張り? 何を言っているのか。

天秤にかけている時点で、最初から欲張りなのである。

本当は両方手に入れたいのである。

やりたいけれどできない。そんなことを言うと、「自分の気持ちに素直になって」と「やりたいこと」だけを取らせようとする人が多い。

でも、自分の気持ちに素直になるのなら、

両方取りに行け。

旅好きな人の性格は意外と不寛容なんじゃないかというブログ

ピースボートの乗客に話を聞くと、よく「世界を回って、多様な価値観を知った」という。世界一周などを経験してる旅人は大体そういう。多様性が大切だ、と。……本当にそうだろうか。いや、実際、世界にはいろんな価値観の人間がいる。僕が問いたいのはそこではなく、「本当に世界を旅すると多様な価値観が身につくのか」という点である。


日本のパスポートは最強なのだから日本人は旅をするべき! なのか?

船を降りてまだ1年もたっていないとき、ピースボート主催のささやかなイベントに出席した。

その時のテーマは確か「日本人は恵まれてるんだから、旅に出ない理由はない!」とかそんな感じだったと思う。

どういう意味で「日本人は恵まれている」のかというと、「日本のパスポートは最強である」という理由らしい。

基本、日本のパスポートはどこの国へ行ってもすんなりと入国できる。こんなに信用度の高いパスポートを持つ国はそうそうないらしい。日本人は恵まれているのだ。

確かに、ネットで「日本 パスポート」と検索すると、サジェストに「威力」とか「最強」とか、なんだかドラゴンボールみたいな単語が出てくる。それだけ日本のパスポートはすごいのだ。

ところが、そんな世界最強のパスポートを日本は発行しているにもかかわらず、日本国民のパスポート所持率はわずか25%(2017年)。

ちなみに、アメリカ人は約4割がパスポートを持っていて、イギリス人はなんと7割がパスポートを持っているのだから、どうやら日本のパスポートの所持率は低いらしい。

20代に至ってはなんとパスポートの取得率は5%だという。なんと、消費税よりも低い。

ちなみに、僕は、「パスポートを持っている珍しい20代」である。地球一周の船旅が3年前なのだから、当然と言えば当然だ。

世界最強のパスポートを持っているのに、日本人が世界を旅しないのはもったいない! みんな、もっと世界を旅しよう! こんなに恵まれた国にいて、旅に出ない理由なんてない!

……というのがその時のイベントの趣旨だった。

その時はうんうん、もったいないなぁとうなづいていたのだが、3年たった今、ふと思う。

こんなに恵まれた国にいて旅にでない理由なんてない! 日本人はもっと旅をするべきだ!

……本当にそうなのだろうか。本当に、旅に出ない理由はないのだろうか。

旅をする人、旅をしない人

このことを考えるにあたり、自分の友達でよく海外に行く人と全く行かない人を思い浮かべて比較してみた。

毎年夏になると必ず海外に行く友人がいる。「その時期は日本にいない」なんて言われると、ああ、もうそんな時期か、なんて思う。

一方で、生まれてこの方海外なんて行ったことないんじゃないか、という友人もいる。

海外旅行によっく行く人と、まったくいかない人、彼らで何が違うのだろうか、と考えてみた。

さっきのイベントだと、なんだか行動力の差、もっと言えば勇気があるか、度胸があるか、積極的か消極的か、みたいな論調だった。みんな、もっと積極的になろう、海外に行こう、視野を広く持とう、と。

だが、周りの友人たちを比べても、海外に行くやつが特別度胸があるとか、海外に行かないやつが消極的で視野が狭いとか、そんな印象はない。語学力だって同じくらいだと思う。経済力も違いはないだろう。

果たして、海外によく行くやつと、全然いかないやつ、その差はいったい何なのか。

両者を比べてみて、一つの可能性に行きついた。それは、

海外によく行くやつはアウトドア趣味であり、海外に行かないやつはインドア趣味である!

というよくよく考えれば当たり前のことだった。

そう、海外によく行く友人は、アウトドア趣味なのだ。海外に限らず、普段からよくいろんなところに出かけている。

一方、海外に行かない友人はインドア趣味なのだ。普段から家の近くで過ごしている。

これはもう、趣味の問題である。

もちろん、すべての人間がこれに当てはまるわけではない。

だが、海外に行く人と行かない人の差は、度胸がないとか、視野がどうこうとかそういうのではなく、ただの趣味嗜好である、という可能性がある。

日本人は4人に一人しかパスポートを持っていないという。

それはそのまま、アウトドア派とインドア派の比率が1:3である。ということを表しているだけなのかもしれない。

20代の場合はパスポート所持率は5%しかない。さすがに20代の95%がインドア派である! とまではいわないが、今の20代はインドア派が多いのではないだろうか。

でなければ、秋葉原があんなに発展するわけがない。あの町は漫画とかゲームとかフィギュアとかアニメグッズとかパソコンの部品とか、「おうちで楽しむもの」を中心に売って今の姿となったのだ。。

そう、外に出ないでも、20代は結構楽しんでいるのだ。

僕らが旅に行かない理由

なぜ、今の若者は海外に行かないのか。

それはあれが足りないとか、これを知らないとか、今の20代に何かが不足しているわけではない。それは、「旅に出ることが正義」という旅人の中だけで通用する、意外と視野の狭い考え方である。

なぜ今の若者は海外に行かないのか。

別に行こうと思わないからである。

日本のパスポートは世界最強である。そんな恵まれた国に生まれた僕たちが、旅に出ない理由なんてない?

理由なんて腐るほどあるさ。

興味がない。

つかれる。

めんどくさい。

別に旅が好きじゃない。

そんな時間があったら家でアニメを見たい。

そんなお金があったら、日本のお寺やお城をめぐりたい。

そもそも、家から出たくない!

知らない人コワい!

旅に出ない理由なんていくらでもある。

旅に出ない理由が、「本当は世界を旅してみたいけど、親が反対していて」とか、「お金がなくて」とか「幕府に禁じられてて」といった外的な抑圧が原因だった場合、それはなんとしても排除し、旅に出られるようにするべきだ。

ただ、性格、趣味嗜好の問題で、「別に行かなくてもいい」と思っているのであれば、

無理に海外を旅しなければいけない理由なんてない。

「そんなことない! 世界を旅するのは楽しいよ。旅に出れば考えは変わるって!」

というポジティブ旅人の声が聞こえてきそうだが、

「楽しいから行こう」はあまり勧誘の決め手にはならない。

こんな経験はないだろうか。相手にひたすら自分の趣味の話をして、あわよくば相手も同じ趣味に引きずり込もうとするのだが、「またその話か……」とうんざりされることを。

そう、いくら熱心に「楽しいよ!」「面白いよ!」と進めても、「そう? じゃあ、やってみるか!」と相手がなるのはごくまれで、それこそ95%はうんざりされて終わるのだ。

ちなみに、僕がこのブログでよくピースボートの話をするのは、「ピースボートは楽しいよ! 面白いよ!」と人に薦めたいから、ではなく、単にピースボートについての記事は閲覧数が高い、というデータに基づいてである。

日本のパスポートは世界最強である。なのに、なぜ日本の若者は海外に行かないのか⁉

そんなの、人それぞれである。無理強いはよくない。

旅好きの「国内蔑視」

そもそも、どうして「海外を旅すること」にこだわるのか。別に国内旅行だっていいじゃないか。

確かに、海外を旅することは楽しい。言葉の通じない国、まったく違う文化、食べたこともない食べ物。海外を旅することは刺激的だ。確かに、国内旅行よりは刺激が多い。

だが、日本国内も十分刺激が多い。

同じ日本でも都会と田舎は全然違うし、北と南も全然違う。山村と漁村も全然作りが、風景が違う。

土地によっていろんな郷土料理があるし、時には方言が全く聞き取れないときもある。

地球一周をして思ったことが「世界にはやばい国がたくさんある」ということだった。

そして、こうも思った。「日本だって同じくらいやばいはずだ」と。

別に僕は、「日本が世界で特別な国」だなんて思っていない。

それは「日本は世界で特別すごい国ではない」と思っていると同時に、「日本は世界で特別しょぼい国でもない」ということだ。日本には日本の魅力がある。

「世界を旅すること」というのは、世界のいろんな国の魅力を発見していくことだ。

その視点があるなら、日本の魅力だって見つけられるはずである。旅をする前は当たり前すぎて見逃していた日本の魅力に、世界を旅して養ってきた視点があれば、気づけるはずである。

ところが、どういうわけか日本の旅好きは「国内蔑視」がはなはだしいように感じる。「地球一周」を掲げるピースボートは団体の特性上、海外の話ばかりするのはしょうがないのかもしれないが、ピースボートとは本来直接関係のない人だったり団体だったりイベントだったりもみな、「海外へ行こう!」の一辺倒。

国内旅行がそんなにいけないのだろうか。もしも、「国内を旅したって、海外のような体験は得れない。やっぱり海外じゃなきゃダメだ」と考えているのだとすれば、

それこそ視野が狭いんじゃないだろうか。

「やらない理由」に愛をくれ

どうも、旅好きの多くは「やらない理由」に対してあまりにも不寛容なのではないか。最近、そんなことを考えている。

旅に行っていろんな国を見て回ることが正義であって、なんだかんだ理由をつけてやらないのはよくない、そういう風潮を感じる。

僕も昔は、それこそ船を降りた直後はそんな風に考えていた。

だが、最近こう考えるようになってきた。

「やらない理由」にその人らしさが出るのではないか、と。

「〇〇したいけど、××だからしない、やらない、できない」といった話を聞いた時、僕たちはつい「〇〇」だけがその人の本音であり、「××」の部分は本音を邪魔する障害だと考えてしまう。

その結果、「〇〇したいけど××だからやらない」という話を聞くと、「気持ちに素直になって」とか、「動かなきゃ何も変わらないよ」とか、「後悔してからじゃ遅いよ」とか、「男ならどんと行け!」とか、どっかのラブソングの焼き直しみたいなことを言って、「〇〇」を実行させようとする人が出てくる。「××」は完全な悪者だ。

だけど、違うのではないか。

「〇〇」が本音であって「××」は障害や言い訳なのではない。

「〇〇したいけど××だからやらない」、ここまでがセットとなってその人の「本音」なのではないだろうか。

「海外に行きたい!」「お店を持ちたい!」「結婚したい!」、こういったポジティブな「〇〇したい!」はその人の人間性がよく表れている。

一方で、「怖いから無理」「自信がないからやらない」「めんどくさいからいい」といったネガティブな「でも××だから……」にもその人の人間性が色濃く反映されているのではないだろうか。

「〇〇したい!」がその人の人格の光りの部分なら、「でも××だからやらない」は影の部分である。

そして、光と影の両方を理解することが大切なんだと思う。

「怖いけど勇気をもってやってみよう!」とか、「自信なんてなくたって大丈夫!」とか、「めんどくさくても動かないと始まらないよ!」という励ましの言葉は一見いいこと言っているようにも見える。

いいこと言っているように見えて実は相手の人格の影の部分を完全に無視している。

怖いとか、自信がないとか、めんどくさいとか、そういったネガティブなセリフをその人が吐くようになったのには、その人の人生に基づいたそれなりの理由があるはずだ。そこにその人の人生や価値観がもしかしたら凝縮されているのかもしれない。

もしかしたら、「でも××だから……」の部分にその人が大切にしているものが隠れているのかもしれない。

そして、ネガティブやコンプレックスがあってこその人間なのではないだろうか。

君が好きだと叫びたい。けど言えない。

会いたくて会いたくて震える。でも会いに行かない。

海外を旅してみたい。でもいかない、いけない。

こういう矛盾をはらむから、人間は面白いのだ。愛らしいのだ。

なのに、「でも××だから…」の部分を、あまりにも僕らはないがしろにしているのではないだろうか。

「世界を旅するといろんな価値観に気付く」「多様性が大事」だというのならば、「やらない理由もその人の個性」であることを認め、尊重しなければいけないはずだ。

もっと「やらない理由」を愛してやってもいいんじゃないだろうか。

みんながみんな旅をしなくたっていいじゃないか

日本のパスポートは世界最強なのに、日本人は75%がパスポートを持っていない。それでいいのか⁉

いいんです。むむっ!

旅に出る理由が人それぞれであるように、旅に出ない理由もまた人それぞれである。どちらを取るかは人それぞれだ。

海外のいろんな国を旅することが素晴らしいように、日本国内を旅することもまた素晴らしい。どちらを取るかは人それぞれだ。

「旅をしたい!」と思う気持ちにその人の個性が現れるように、「けどやらない、できない」という言葉にもまた個性が現れているのだ。どちらがより大事かは人それぞれだ。

そもそも、みんなが旅に出なきゃいけない理由なんかない。

旅をする楽しみは、わかるやつにだけわかる、マイナーな趣味、それでいいじゃないか。

「それじゃいけない! 旅をすることでいろんな価値観に気付ける! 人生が変わる! みんな、旅をするべきなんだ!」

でも、家でアニメを見て人生が変わることだってある。家で小説を読んで価値観が広がることもある。

何が人生を変えるのか。何が価値観を広げるか。

そんなの、人それぞれだ。

この、「そんなの、人それぞれ」という視点が欠けている旅好きがあまりにも多いんじゃないか。

そう思って今回、筆を執った次第である。

高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみることにした

自由人・高橋歩と言えば旅人のカリスマだ。僕は「ここがヘンだよ旅人たち」という記事の中で、「旅は好きだけど、高橋歩の本は好きではない」という話をした。特に反響はなかったが(ないんかい)、やっぱり食わず嫌いはよくない、ということで、3年前に挫折した高橋歩の本をもう一度読んで、もう一度高橋歩に向き合ってみることにした。

夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

高橋歩の名言で真っ先に思いつくのがこの言葉だ。

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。だから逃げるな」といった感じでとらえられる言葉のようだ。

ところが、僕なんかが読むと、どうもこの言葉は人を追い詰める言葉に聞こえてしまう。

別に逃げたっていいじゃないか。あんまり思い詰めると、かなう夢もかなわない。

一度逃げて、再び夢を追いかけたくなったら、同じ場所に戻ってくればいい。だって「夢は逃げない」のだから。ならば「自分」が逃げようがどうしようが、同じ場所で待っててくれてるはずだから、辛くなったら逃げればいいと思う。

「夢は逃げない。だから、またあとで戻っておいで」みたいな方が僕は好きだ。

と、ここまで考えて、ふと思う。

この言葉の初出はどこだ?

よもや半紙に習字で「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。 あゆむ」とだけ書かれて、蕎麦屋のトイレに飾ってあったわけではあるまい。

もしかしたら、元々はそれなりに長い文章の一部分で、インパクトのあるこのフレーズだけが独り歩きしているのかもしれない。

だとしたら、元々の文脈がわからないままにこの言葉を論評するのは反則ではないか。もしかしたら、元の文章にはめ込んでみると、すごく納得のいく言葉なのかもしれない。

これを機に、かつて挫折した高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみよう。そういえば、ちゃんと最後まで読み通したことがない。ちゃんと読んだら、「なんだ、高橋歩、面白いじゃん」となるかもしれない。

そう思ったら、本を手元に置けばいい。「やっぱり、高橋歩は好きになれない」と思ったらブックオフに売り飛ばせばよい。

よし、もう一度だけ、高橋歩に向き合ってみよう。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ。

本が見つからない。探すのはいつも自分だ。

まず、地元の図書館に行き、「高橋歩」で検索をかける。

何種類か見つかったが、どれも部数は一冊ずつ。おまけに、どれも貸し出し中。

僕はさいたま市全体のデータベースに検索をかけている。さいたま市は合併に合併を繰り返した結果、市内に数えるのがイヤになるほどの数の図書館がある。

にもかかわらず、高橋歩の著書は一冊ずつ。数えるのがイヤになるほどの数の図書館の中で、同じ本は一冊しかない。案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

その一方で、本はすべて貸し出し中。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

次に、近所のブックオフに行ってみた。

ところが、ここでも見つからない。

ブックオフに一冊もないとは、案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

一方で、ブックオフにないということは「買った人が著書を手放さない」ということだ。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

そして、二件目のブックオフでついにこの本を見つけることができた。

「『夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。』、この言葉には初出があるのではないか。このフレーズだけが独り歩きしているのではないか」

初出は、本のタイトルだった!

そりゃ、独り歩きしますわ。だって、タイトルだもの。

ちなみに、表紙に写っている男の子は高橋歩、ではない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

プロローグにこう書かれている。

この本は、高橋歩が、これから夢をかなえようとする仲間、後輩、読者たちとの飲みの場で、本気で語ってきた様々な言葉、エピソード、アドバイス、ユーモア、考え方を一冊にまとめた語録集だ。

重要なのは「飲みの場で」というフレーズだ。

どうやら、これから読む言葉は酒の席での言葉らしい。

なるほど、これまで高橋歩の文章は「距離が近い」と敬遠してきたが、「酒の席での言葉」だという前提なら、ある程度は納得できる。

さて、ページを進めていこう。

オレらが何かを始めるとき、世の中は必ずというほど「理由を説明しろ」と言ってくる。でもそんなもん、自分がただ「カッケェって思う」とか「鳥肌が立つ」とか「ああいう風になりてぇ!」とかで十分じゃね?

僕もそう思う。人生において重要な選択をするときほど、理由が他人にうまく説明できないというのは何回か経験している。

ただ、最後の「じゃね?」というのが非常に引っかかる。

この一言が、なんか全部を台無しにしているように僕には感じ取れてしまう。

もちろん、こういった口調がいい! という人もいるのだろう。

一方で、僕はこういった口調の本はちょっと受け入れられない。友達でもない人が急に「じゃね?」と話しかけてきたら、はっきり言って腹が立つ。

わかってる。これは「飲みの席での言葉」だということは。飲みの席の言葉なら別に語尾が「じゃね?」でもいいんじゃね?(せっかくなのでちょっと真似してみました)

しかし、まさか飲みの席の言葉を全部録音して、一字一句そのまま書いているわけではあるまい。本人や周囲の記憶に基づいて「こんなこと言ってたよね」と思い出して、本に収録しているはずだ。

だとしたら、語尾は果たして「じゃね?」でいいのか。「本に収録するんだし、語尾は『じゃない?』に変えようよ」という発想はなかったのだろうか。

本気さで勝つ、

アツさで勝つ、

バイブスで勝つ!

「新しいフィールドで挑戦しようとすると、」という出だしで始まる文章の一説。要は「初挑戦で実績なんてあるわけないのだから、やってみなきゃわからないに決まってる。初めてやるときは、本気さ、アツさ、バイブスくらいしかよりどころがない」ということらしい。

言っていることはわかる。初挑戦に実績なんてあるわけない。そりゃそうだ。

だが、いくら何でも考えがなさすぎないか? たぶん、「初挑戦で失敗していった人」の多くは「精神論でなんとななると思ってた」のではないだろうか。

あと、僕のように「何事も7割投球」というスタンスの人間は、こういうこと言われるともうどうしていいのかわからなくなる。

才能があろうがなかろうが、できるまでやれば絶対にできちゃうわけだからね。

人には向き不向きがあり、世の中にはどんなに頑張っても努力してもできないことがたくさんある。

BELIEVE YOUR 鳥肌

言いたいことはわかるんだけど……、「鳥肌」だけ日本語なのが中途半端に見えて、この言葉の良さを損ねている気がしてしょうがない。「鳥肌」も英語にするか、「鳥肌」をもっと簡単な英単語で置き換えるか……、

そもそも、わざわざ英語にしなくても「鳥肌を信じろ!」でいいんじゃね?(せっかくなのでもう一回真似してみました)。

日本の政治家に不満? ハイ、そう思う人は政治家になりましょう。

政治家になっちゃったらそれこそ高橋歩が嫌いそうなよくわかんないしがらみとかで身動き取れなくなってしまう。政治を変えたかったら、政治家にはならない方がいい。

あと、「政治家にならなくても政治に参加できるのが民主主義」っていうのを聞いたことがある。「政治に不満があるなら政治家になれ」っていうのははっきり言って視野が狭いと思う。もっとほかに道はいくらでもある

まず、やり過ぎる。そして気付く。自分なりのバランスはそれからで十分だべ。

「十分だべ」。

……どこ弁だ?

プロフィールには「東京生まれ」と書いてある。「だべ」について調べてみると、「だべ」は実は東日本で割と広く使われている方言らしい。

この本にはほかにも「だべ」という言葉がよく出てくる。

それまで特に訛りなど感じさせていないのに、たまに「だべ」という言葉を使われると、どうも文章のバランスが悪くなって引っかかる。訛るなら全部訛ってほしい。

本全体を通して、言っている内容はわかる。ツッコみどころもあるが、賛同できる個所もある。

だが、文章の細かい表現とかがどうしても気になってしまう。

「じゃね?」とか「だべ」とか「即〇〇」とか「最強!」とかこういったフランクな文体が、少しずつ僕の体力をそいで行く。僕の周りにこう言う言葉遣いをする人はいないので、慣れていないだけなのかもしれないが、「またこのフランク表現か……」と頭を抱え、気づけばページをめくる手が重くなっていく。本を読んでいてこんなにも体力を消耗したのは初めてだ。

読むのをやめようかとまで考えたが、今回のテーマは「もう一度だけ高橋歩に向き合ってみる」だ。最後まで読み通せば何か考えも変わるかもしれない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ!

それに、そもそも僕が細かい表現とかを気にしている方がおかしいのかもしれない。表現などは些細な問題で、ところどころツッコみどころもあるが、「覚悟を決めろ」とか「まずは行動しろ」とか「直観を信じろ」とか、賛同できる個所は多い。

「僕が細かいのか? 僕がおかしいのか?」

そう思いながら本を読んでいた。135ページ目までは。

誰も矛盾を指摘しない。指摘するのはいつも僕だ。

135ページにはこう書かれていた。

本当に好きなようにやるなら、自腹でやれって想うよ。

この言葉を読んだとき、僕に衝撃が走った。高橋歩風に言えば「脳みそスパーク」……とはちょっと違うかもしれない。

なぜなら、この衝撃とは、「さっきと言ってることが違う!」という衝撃だったからだ。

わずか7ページ前にこう書かれていた。

友達から金を借りるのはイケナイことか?

この後、高橋歩がサラ金に手を出し、友達からお金を借りたエピソードが続く。この2ページ前には

とりあえず借金ぶっこいてとにかく始めちゃって、1年後にはもう店つぶしちゃって、(中略)ヤツの方が、絶対にアツい。

要は、高橋歩は「やりたいことがあるなら貯金なんてしてないで、借金してでもやれ」と言っているのだ。

にもかかわらず、7ページ後に「自腹でやれ」。さらにその次のページでは

オレは、他人の金で自分の夢を追うようなまねはしない。

とまで言い切っている。借金をしたエピソードはいったい何だったんだろう。

果たして、高橋歩は、「とりあえず借金ぶっこいて」と「自腹でやれ」が矛盾していることに気付いていないのか、どちらかの発言を忘れてしまったのか。

それとも、借金を「他人の金」と認識していないのか。友達から借りようがサラ金から借りようが銀行から借りようが親から借りようが、借金はあくまでも「他人の金」だと思うのだが。

断わっておくと、僕は「矛盾」そのものは嫌いではない。人は矛盾をはらむ生き物だと思うし、時にその矛盾が「いやよいやよも好きのうち」のような人間らしさを醸し出す。

また、人は考えが変わるものである。このブログだって、1年前の記事と今の記事ではたぶん、言ってることが違う(笑)。

それでも、わずか7ページでころっと変わってしまうのはあんまりだ。

とはいえ、たった一か所の矛盾をついて鬼の首を取ったように「高橋歩の言うことはでたらめだ!」と叫ぶほど僕は小さい人間ではない。

しかし、これまで「この表現どうなんだろ?」とか「この内容には賛同できないなぁ」といった細かい違和感の蓄積を重ねた状態でこの矛盾した個所を読むと、もはやとどめの一撃。

この時、僕は駅のホームで電車を待ちながら読んでいたのだが、もし僕が超人ハルク並みの剛腕を持っていたら、「もうこんな本読めるかー!」と本を真っ二つに引き裂き、線路に投げ捨てていただろう。

もちろん、本を傷つけるのはよくないし、そんなことしたらブックオフに持っていけないし、そもそもそんな腕力がない。あと、線路に物を捨てるのもよくない。

そして、思い出す。

3年前に僕が途中まで読んでやめた「高橋歩の本」も、まさにこの本だったということに。

そして、まったく同じ個所で、同じように「さっきと言ってることが違う!」となって、同じようにそれまで貯めていた違和感が爆発し、読むのをやめたのだ。

正直、もうこれ以上読みたくないのだが、今回のテーマは「もう一度高橋歩に向き合ってみる」。ここでやめたら3年前の繰り返しだ。最後まで読み通せば、また考えが変わるかも。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ(泣)。

とはいえこんな状態で読んでも、もう何が書いてあっても全く響かない。全部空寒く感じてしまう。

最後まで読んで、げっそりとした気持ちで本を閉じた。

高橋歩は「人間」を語らない。語るのはいつも「オレ」だ。

この本を読んで引っかかっていたことの一つが、「オレはこうする」「オレはこうした」という話が多すぎることだった。

その都度「僕はあなたじゃない」と思いながら読んでいた。

だが、例えば岡本太郎なんかもよく著書で「僕はこう生きてきた」みたいな話をしている。だが、不思議とそれには引っかからない。

なぜだろう。高橋歩と岡本太郎、何が違うんだろう。

そう考えた結果行きついたのが「人間」というワードだった。

岡本太郎の場合「僕はこうして生きてきた」の根拠に「人間とはこういうものだ」という考えが横たわっている。「人間とはこういうものだと思っている。だから、僕はこうして生きてきた」という話を語っている。

高橋歩のような「一言メッセージ系」の先駆者である相田みつをも「にんげんだもの」というフレーズが有名だ。

「人間とは何か」、そこを突き詰めているから、「自分はこうだ」を「人間とはこうだ」までに突き詰めているから、その言葉は広く人の心に刺さる。どんな人が読んでも、その人が「人間」である限り、「ああ、わかるなぁ」という箇所があるのだ。

しかし、高橋歩の場合、たぶん「人間とは何か」と突き詰めていない。あくまでもどこまで行っても「オレの話」。「オレはこうしてきた」「オレならこうする」という話が多い。もちろん、自分の話をすること自体は悪いことではない。(何なら、この記事自体「僕の話」だ)。だが、「オレの話」で話が止まり、「人間の話」までに昇華されていない。

世の中には自分とは違うタイプの人間、違う考え方の人間がいて、そういった人には「オレの話」は通用しないんじゃないか、ということを考えていないのではないだろうか。

結果、読む人を選ぶ。「どんな人間」にも通用する話ではない。「オレ」に近いタイプの人間にしか共感できないのだ。

そして、どうやら僕は「オレ」から遠い人間らしい。

高橋歩にネガティブの気持ちはわからない。語る言葉はいつもポジティブだ。

もう一つ、僕が強く感じていたことだ(ああ、また「僕の話」だ)。

たとえば、友達がどうとか、仲間がどうとか、家族がどうとかいう話が出てくる。

そういった話を読むたびにこう思う。

それは、友達を作れる人の話、家族に恵まれた人の話だ……、と。

こういうところでまたじわじわと小さな違和感が蓄積されていく。

読み進めるたびにこう思うようになった。

「この人はネガティブな人の気持ちがわからないんだろうな……」と。

実際の高橋歩がどういう人物かはわからない。もしかしたら、本来の彼はとてつもないネガティブを抱えているのかもしれない。

だが、この本からそういったことを感じることはなかった。そういうタイプの人間に対する理解を感じ取れることはなかった。

人見知り、ひきこもり、死にたがり……、そういった人間に対してこの本は「やさしくない」、そう感じてしまった。

闇を抱えた人間にとって、栄養ドリンクが何よりもの毒となるときがあるのだ。

高橋歩だけが悪いのではない。自己啓発本はいつもこうだ。

もっとも、こういった「ネガティブな人にやさしくない」というのは、何も高橋歩だけの話ではない。いわゆる自己啓発本は大体こうだ。

たとえば、自己啓発本にはよく「やりたいと思ったことは、あれこれ言い訳せずにやれ! まず行動!」といったことが書かれている。

いつも思うのだが、

「やりたいこと」が「死にたい」だった場合、彼らは何て答えるのだろうか。まさか「死にたいと思ったら、あれこれ言い訳せずに死ね!」と答えるのだろうか。

たぶん、こういった本を書く人は、「世界一周をしたい!」「カフェを開きたい!」「好きなことして生きていきたい!」といったポジティブな人のみのことを考えていて、「死にたい」「消えたい」「切りたい」「殺したい」「壊したい」といったネガティブな「やりたい」を抱く人がいるなど、想定してないのだろう。

そういう人の言葉は、「死にたい」のようなネガティブなワードに置き換えると、途端に破綻をきたす。

たとえば、「これといった夢はないけど、しいて言えば自殺すること」だった場合、自殺をしたいんだけれどなかなか踏ん切りがつかない、そんな人だった場合、「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。」の「夢」を「自殺」、もっと言えば「死」に置き換えれば、「死は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」という、自殺幇助ととられかねない言葉に変わってしまう。

だから、「ネガティブにやさしくない」のだ。「死ぬことが夢」なんてネガティブなことを考える人間が読むかもしれないということを、全く考えていないのだから。

「ネガティブな人」のことを最初から想定していない。存在しないものとして扱われている。これほど絶望的な扱いはないだろう。

まとめ

いろいろ書いたが、僕はけっしてただ単に高橋歩をディスりたかったわけではない。

以前にも書いたが、「旅人=高橋歩好き」というイメージが強すぎるように感じている。「旅が好きな人はみんな高橋歩が好き」と思われていて、そのように扱われている。「いや、俺、旅は好きだけど、高橋歩はあんまり……」と心の中で思っていても、「ノックも旅が好きなら、当然高橋歩のこと、尊敬してるよね」みたいなスタンスで決めてかかられ、「旅好きは高橋歩も好き」が大前提のように話が進む。

正直、肩身が狭い。旅好きのみんながみんな、あの雰囲気が好きなわけではない。あの雰囲気にあこがれているわけではない。

「旅好きはみんな高橋歩が好き、というわけではない。肩身が狭いのはいつも嫌だ」。結局僕が言いたかったのはこの一言だ。

さて、明日、ブックオフに行こう。

日本人が政治に無関心な理由は、「お前ら」のせいだ!

「日本人は政治に無関心だ」と言われて久しい。投票率も平成に入ってガクッと落ちている。どうしてこんなに日本人は政治に無関心なのか。偶然見かけたある光景から「もしかして“この人たち”が原因なのでは?」と考えて、筆を執ってみた。なぜ、日本人は政治に無関心なのか。

偶然、首相演説を見たお話

2018年9月19日、私用で秋葉原を訪れた。

夕方、大通り沿いを警察官が警備している。「あれ、歩行者天国は日曜のはず……?」と首をかしげていると、なんだか大きな声が聞こえる。

どうやら、駅前でだれかが演説をしているらしい。そういえば、ニュースでも連日、来たるべき選挙の話をしている。

警察官が警備しているが、別に通行禁止になっているわけではないので近づいてみると、100m先に、総理大臣の名前の書かれたたれ幕があった。どうやら、総理大臣が演説をしているようだ。そういえば、総理大臣は秋葉原では特に人気があるらしく、選挙前の最後の演説はいつも秋葉原に来る、なんて聞いたこともある。

総理大臣の名前を発見した時、最初に思ったのが「え、なんでいるの?」

なぜなら、連日ニュースでやっている来るべき選挙というのは、自民党総裁選だったからだ。

もちろん、僕に選挙権はないし、道ゆく人々の大半が選挙権を持っていない。

わざわざ警察官を動員して街頭演説するよりも、自民党本部で演説をした方が効果的ではないだろうか。

さて、選挙カーの周りには日の丸の旗をもって振っている一団が見える。彼らにも選挙権はないと信じたい。選挙権のある人、つまりは自民党員が選挙カーの周りを囲んでいて旗を振っているのだとしたら、それは「サクラ」である。

この話はニュースにもなっていて、総理に反対する人たちも大勢集まってヤジを飛ばしていたそうだ。

僕はこの日、秋葉原で総理大臣の演説があるなんて全く知らなかった。この日わざわざ日の丸やプラカードを持って行った人は、どう考えても「演説があることを知って秋葉原にやってきた人たち」だろう。つまり、日ごろから総理大臣の動向を気にしている、かなり政治参加への意識の高い層だ。

そして、その100m先には「総理大臣が来ていて、演説している」とわかっていて、「来てるみたいだねー」と話しているにもかかわらず、スルーして歩く大勢の人々。

一国の総理が来ているというのに、みんな関心がなさそうだ。確かに、自民党総裁選の選挙権はないとはいえ、生の総理大臣がいるのだから、もっと集客力があってもよさそうだ。

これが福士蒼汰とか広瀬すずとか、SEXY ZONEとかだったら、もっとパニック状態になっていたのではないか。そういえば、この前テレビで福士蒼汰が秋葉原でロケをしているのを見たが、あの時はどうだったのだろう。

秋葉原という場所柄、もしかしたら水瀬いのりとか上坂すみれとか宮野真守の方が集客力があるかもしれない。しかし、全員一発変換できるとは、人気声優パネェ。

少なくとも、この時は「選挙カーに書かれた文字が見える位置まで、難なく近づけた」程度の混雑だった。めんどくさかったから行かなかったけど、あと半分くらい距離は余裕で詰められたと思う。「一部の熱心な人たち」しか集まっていなかったのが現実だ。

「一強」などと言われているけど、総理は意外と人気がなかった。いや、選挙カーの周りにいた人が「総理をすごく好きな人」と「総理をすごく嫌いな人」だとすると、「みんな意外と総理に興味なかった」の方が正しいのかもしれない。

総理大臣を無視してアニメイトやソフマップに吸い込まれる人たちを見ながら、ふと思った。

今、選挙カーの前で日の丸を振っている人たち、選挙カーの前でプラカードをもって「やめろー!」と声をからしている人たち、

彼らは総理大臣ではなく、その反対側、興味なさそうに演説をスルーする人たちを見るべきなのではないか、と。そうすれば、自分たちがいかに「異常な存在」なのか気づけたのかもしれない。

そう、タイトルにもなった、日本人の政治のへの無関心の理由となった「お前ら」、それは、「政治への関心が強い人たち」のことだ。

そう、お前らのせいだよ。

「政治への無関心は悪」という発想を変えてみよう

おいおい、ひどい言い草ではないか。政治に関心があることが「異常」? ケンカ売ってるのか!

……と握った拳をひとまず開いて、話を聞いてもらいたい。

「政治に関心を持たないのはいけないことだ!」、そう思って「みんな政治に関心を持とう!」とか、「みんな選挙に行こう!」と声高に叫び続けて、

……効果があっただろうか。

ない。ないから、みんな総理大臣の生演説をスルーするのだ。

ここは発想の転換が必要だと思う。「政治には関心を持たなければいけない! 関心がないのは悪いことだ!」という今までの考え方をいったんやめて、「政治に関心を持たないのが普通。関心をもって、演説を見に行く方が異常」という発想に変えてみるのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前だ! それを『異常』だと!?  ふざけるな!」、と怒りたくなる気持ちをぐっとこらえて、目を閉じて大きく深呼吸して、口に出してみよう、「私は異常」と。

逆に、これくらいの発想の転換もできないような頭の固さでは、何も変わらないぞ。「当たり前だと思っている大前提を疑う」ことが知性への第一歩だ。

日本人が政治に無関心な理由① ハードルが高すぎる

「政治に関心を持たないのが普通。関心を持つのは異常」としたうえで、話を進めていこう。

「選挙カーの前で日の丸を振る」という行為や、「選挙カーの前で批判に声をからす」という行為を客観的に見てみると、これは結構異常な行動だ。

「そんなことはない! 選挙を応援するのは、国民に認められた当然の権利だ!」

「政治家を声高に批判しちゃいけないのか! 言論弾圧だ!」

と言いたくなる気持ちを抑えて話を聞いてもらいたい。

政治家を応援するのも批判するのも、国民に認められた権利である。とくに、「批判」を封じ込めたら、民主主義が成り立たない。それはわかっている。

と、同時に、「こういったことを積極的にやる人は、異常である」ということも理解するべきだ。

「異常」という言葉が納得できないなら、「政治に積極的にかかわる行動はハードルが高いので、普通の人はやらない」という言い方もできる。

本人は気づかないのかもしれないが、「日の丸の旗をもって総理大臣を応援する」も、「プラカードをもって総理大臣を批判する」も、実は人前でやるには意外とハードルの高い行動なのだ。

そして、「本人は気づかない」というのが問題だ。

選挙演説のさなか、「がんばれー!」とか「とっととやめろー!」と声を張り上げるさなか、もし一度でも後ろを振り返って、自分たちを遠巻きに見ながらスルーしていく人たちの姿を見ればきづくはずなのだ。「あれ、僕たち、周りから浮いてる?」「変な目で見られてる?」と。

別に、周りから浮いているからやめろとか、そういうことを言いたいのではない。自分の信念に基づいて、周りに何を言われようと、信じたことを貫く。結構なことだ。

と同時に、「自分が周りからどう見られているか」を把握する俯瞰した視点も必要である。

そして、「自分たちの行動が新規参入を阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみることも大切だ。

人は、いきなりハードルの高いことはしない。

そして、「政治に関心を持つ=選挙カーの前で日の丸を振ったり、声を張り上げて非難すること」というイメージを持たれたら、それはもう「ハードルの高いこと」なのだ。「ふつうの人」は「あの一団の中には入りたくないな……」と敬遠する。

人間は、あまりにも熱心な人を見ると、ちょっとヒクのだ。

こういう経験はないだろうか。自分の好きなものを熱心に進めたけど、相手は「ああ……」と微妙な表情をされたこと。これと同じことが選挙カーの遠くの方で起こっている。

結果、「政治に関心を持つことはハードルが高い」というイメージを持たれ、敬遠される。

より分かりやすく言えば、政治に関心の強い人たちを指さして「ああはなりなくないな」「あれと一緒にされたくないな」と、一緒にされることを避けるようになるのだ。

だからこそ、政治に関心の強い人たち、お前らが日本人が政治に関心を持つのを阻んでいる、となるのだ。

政治に関心を持つこと自体は悪いことではない。立派なことだ。選挙カーの前で応援しようが批判しようが、それは国民に認められた権利で、誰に邪魔されるいわれもない。

一方で、「自分たちが周りからどう見られているか」を考える余裕を持つことも大事だ。「もしかしたら自分たちの存在が、ほかの人が政治に関心を持つのを阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみる頭の柔軟さが必要なのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前のことだ! 政治に関心を持たないなんて、日本がどうなってもいいのか!」という脅迫・恫喝では、人間は動かない。

日本人が政治に無関心な理由② 右と左の罵りあいが口汚すぎる

ネットを見ると、SNSを見ると、右寄りの人は左寄りの人を口汚くののしり、左寄りの人は右寄りの人を口汚くののしる光景をよく見る。

左寄りの人は右寄りの人を「ネトウヨと呼び、右寄りの人は左寄りの人を「パヨク」と呼び、お互いがあいつらは馬鹿だ、あいつらはクズだ、あいつらは悪だと口汚くののしっている。

心当たりがある人は、ここで一歩引いて、さっきと同じように「自分たちを俯瞰して」考えてみてほしい。

この光景を見せつけられて、あの中に加わりたいなどと思う人がいるだろうか、ということに。

たとえば、駅で見知らぬ人がケンカしている。取っ組み合いとまではいかなくても、口汚くののしりあっているとしよう。

普通の人はこんな光景に遭遇したら、関わらないようにと距離を取って、避ける。「なんかアタマのオカシイ人たちがわめいてるぞ」と。よほど義憤にかられた人でないと、見かけた口喧嘩を止めるなんてことはしない。

それと同じだ。右と左が口汚くののしりあっていたら、「あいつらにかかわりたくない」と距離を取られ、避けられるのが「ふつう」なのだ。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前らだ」ということなのだ。

「あんな連中にかかわりたくない」、そう思われているのだ。

日本人が政治に無関心な理由③ 文章が難しい

政治について語った文章、特にネットにある文章を読むと、難しく感じる。

なぜ、難しく感じるのか。

内容が難しいのではない。

ただ単に「漢字が多い」から難しく感じるのだ。

一般的に、文章のなかで漢字の割合は3割程度がのぞましいとされ、それより漢字の量が多いと読みづらく、それより漢字の量が少なくても読みづらい、とされている。

ところが、「政治に関心の強い人の文章」は漢字が多いのだ。

漢字が多いほうが頭がよいと思っているのだろうか。だが、残念ながら今や、変換キーを押せば「薔薇」みたいな難しい漢字も、書けないのに書けてしまう。漢字が多いのはもはや、全然賢くない。

むしろ、かしこい人の文章とは、漢字と仮名の配分に気をつかう文章だ。本を読んでいると、そのことを痛切に感じる。

たとえば、「たとえば」と書くときに「例えば」ではなく「たとえば」と書く。大学教授が文章でこういう工夫をする。「例」という漢字を知らないはずがない。知っていて、あえて読みやすいようにひらがな表記を選択しているのだ。

ここが、「本当に頭が良い人の文章」と、「頭をよく見せたい人の文章」の違いだ。「頭をよく見せたい人の文章」は、なんでもかんでも漢字変換して、結果読みづらくなる。

読みづらい文章は、当然敬遠される。最後まで読んでもらえない。読み飛ばされる。結果、主張がつたわらない。

こうして、「政治に関心の強い人の文章」は「読みづらい」と敬遠される。そして「政治そのもの」が「難しいもの」として敬遠される。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だということなのだ。頭の良いアピールをしようと漢字を多用した結果、読みづらい文章を作っているのだ。

日本人が政治に無関心な理由④ バカは関わるな

先日、女優の吉永小百合がI-CANとともに核廃絶に向けたコメントをした、というニュースが流れた。

このニュースに対して賛否いろいろな意見があった。賛否があること自体は普通のことだ。

気になったのは「女優は政治に口出すな」というコメントがあったことだ。

まったくもって不可解なコメントである。職業にかかわらず、誰にだって政治に参加し、声を上げる権利はあるはずなのに。

それにしても、なぜ女優が政治に参加してはいけないのか。

女優になるのに学歴は必要ない。「バカは政治に参加するな」「声を上げるな」ということなのだろうか。吉永小百合は早稲田大学第二文学部を女優業をしながら次席で卒業しているのだが。

この「バカは政治に参加するな」という姿勢が、人を政治への関心から遠ざけている。

テレビでタレントが政治に関してコメントし、その知識が間違っていると、「政治クラスタ」が一斉に叩く。「こいつは馬鹿だ」「バカが政治を語るな」と。

もちろん、「知識が間違っている」のは問題だ。

だが、「間違っている人を見つけて、叩く」というのもまた問題なのだ。

本当に頭がいい人は、間違った知識の人を見つけたら、「教える」という方法を選ぶはずだ。

一方、実は頭がよくない人、頭が良いと見せかけたい人、頭がよくないことにコンプレックスを持っている人たちは、ため込んだ知識をだれかに教えてあげるなどということはせず、自分の頭の良さをアピールするために、他人を批判するために使う。知識が泣いている。

そうして「バカをたたく」ことによって、「政治にあまり詳しくない層」が関心を持つことを妨げているのだ。「半端な知識で関心を持ったら叩かれる」と。

「バカは政治を語るな」「バカは政治にかかわるな」という姿勢を見せる、こうすることで人は政治にかかわることを委縮してしまう。結果、政治から遠ざかる。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だというのだ。「バカは政治にかかわるな」という態度をとることで、人々の関心を遠ざけ、結果、政治の話題は「自称頭のいい人たち」が「頭のいいアピール」をするためのおもちゃに成り下がっているのだ。

「お前ら」に告ぐ!

以上、長々と書いたが、要はこういうことだ。

「自分が周りからどう思われているか、俯瞰してみる視点を身に着けよう」

自分の行動が周りから「異常」と思われているかもしれない。

自分の行動が周りから「関わりたくない」と思われているかもしれない。

自分の書いた「ためになる」文章が人が読むと「読みづらい」文章かもしれない。

自分の言動が人を遠ざけているのかもしれない。

日本人の政治への無関心が問題となっている。だが、視点を変えてみると、「政治が『政治クラスタ』だけのおもちゃとなっている」こと、「『政治クラスタ』が、新規参入を阻んでいる」の方が本当の問題かもしれない。

自分を疑おう。自分は異常である。自分は変に思われている。自分は間違っている。

僕は自分で自分をそう疑いながら、この記事を書いている。

平和や多様性の重要性について考えさせられる平成仮面ライダー5選

平成仮面ライダー20作目を記念する「仮面ライダージオウ」の放送が始まった。そこで、今回は趣向を変えて、「平和」とか「多様性」といったテーマにフォーカスした仮面ライダーについて5作品を紹介していこうと思う。「仮面ライダーって子供番組でしょ?」と思っている人も、この5作品のうち一つでも見れば、きっと考えが変わるはずだ。


仮面ライダークウガ(2000年)

「こんな奴らのために、誰かの流す涙は見たくない! みんなに笑顔でいてほしいんです! だから、見ててください! 俺の、変身!」

作品概要

2000年に放送された、記念すべき平成仮面ライダー第1作。主演はオダギリジョー。昭和のテイストを残しつつも、「改造人間ではない仮面ライダー」、「二話完結のエピソード」、「強化フォームの登場」などの新たな試みに挑み、のちの平成仮面ライダーシリーズの礎となった。

あらすじ

長野県の遺跡からグロンギ族と呼ばれる殺戮集団が蘇った。次々と人々を虐殺し、恐怖に陥れるグロンギを警察は「未確認生命体」と呼び対抗するが、その力の前に歯が立たない。しかし、遺跡から蘇ったのはグロンギだけではなかった。未確認生命体第1号が暴れる現場に遭遇した冒険家の青年、五代雄介は遺跡から発掘されたベルトを手にした瞬間、戦士のイメージが頭の中に流れ込む。イメージに従いベルトを身に巻いた雄介は、仮面ライダークウガに変身し、グロンギに立ち向かう。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「暴力への向き合い方」である。仮面ライダーに限らず、ヒーロー番組は「暴力」をもって悪を排除することが前提である(たまにまず保護から入ろうとするウルトラマンコスモスみたいなのもいるけど)。

御多分に漏れず、クウガもグロンギを暴力をもって排除するのだけれど、クウガに変身する五代雄介自体は、実は暴力をふるうことが嫌いな人間であり、第2話ではヒロインの桜子に変身して戦った感想を求められて「あまりい気分のものじゃない」と答えている。

そんな雄介だったが、グロンギのボスであるン・ダグバ・ゼバによって殺された人の葬式に居合わせ、遺族の女の子の涙を見て、グロンギと戦う決意を固める。

それでも、雄介はやっぱり暴力を好きになれない。物語の終盤には「俺は、いつもこれ(暴力)で嫌な思いをしている」と吐露している。

一方で、グロンギ族が人々を虐殺する理由も明らかになる。

それは、ゲーム。彼らは「誰が一番人間を狩れるか」を競って、遊んでいたのだ。

あまりにも身勝手な理由に、雄介の相棒である一条刑事は「彼らとは価値観が違いすぎて、対話は不可能」と結論付ける。

暴力をふるいたくないのに、暴力をふるうことでしか平和を守れないジレンマを抱えたヒーロー、それが仮面ライダークウガなのだ。

そのスタンスは最後まで変わることはなかった。ダグバとの最終決戦で、互いに変身が解け人間の姿のまま殴り合う。暴力をふるって相手を壊すことを楽しむように笑みを浮かべるダグバに対し、泣きそうな顔で拳をふるう雄介。いや、すでに泣いていたのかもしれない。「ああ、雄介は本当に暴力をふるいたくないんだな」ということがよく伝わってくるシーンだ。

正義のために暴力をふるっていいのか。暴力でしか正義は守れないのか。

たとえ暴力でしか正義を守れないのだとしても、それでも暴力を否定する。否定しながら、泣きながら拳をふるう。それが仮面ライダークウガである。

その他の見どころ

クウガは徹底したリアル志向である。実在の地名を使い、「もしも、現実社会に怪人が現れたら」「もしも、現実社会に仮面ライダーがいたら」どうなるかを詳細に描いている。クウガは警察と協力してグロンギと戦う。警察は毎週のようにグロンギ対策の会議を行い、クウガである雄介は一条刑事から情報をもらってグロンギと戦う。一方で、警察も初めからクウガに協力的だったわけではなく、クウガを「未確認生命体第4号」と呼び、一条刑事以外はクウガの正体を知らず、「未確認同士の仲間割れ」ではないかと議論する。

そして、クウガは被害が平成仮面ライダーの中でもひときわ重いのも特徴だ。毎回の犠牲者は数十人規模。ラスボスのダグバに至っては3万人近くが殺されている。もはや大災害である。

殺し方も朝からグロく、空から脳天めがけて針を打ち込んだり、トラックで壁際に追い込んでつぶしたり、すれ違いざまに首を斬り落としたり、飛行機という逃げ場のない空間で虐殺したり、犠牲になるのはその場に居合わせただけの罪もない人々。まるでテロだ。いや、グロンギにはテロリストのような「信じる正義」などなく、ただ虐殺を楽しむだけ。当時も番組に苦情が来たという。

ちなみに、僕が一番怖かったのはハリネズミ怪人、ゴ・ジャラジ・ダだ。標的の脳に小さな針を打ち込み、相手にタイムリミットを予告。そのリミットが来ると……、ああ、思い出しただけで背筋が寒くなる。標的の選び方も含めて、本当に怖い。

徹底したリアルな描写は、なにもグロ描写だけではない。被害者遺族の感情、雄介の周りの人たちの想い、そして、雄介の想いなど、人間の描写もリアルで繊細だ。

このリアルさがクウガの魅力であり、「平成仮面ライダーシリーズ」の根幹をなすものである。

仮面ライダー龍騎(2002年)

「そこに正義などない。あるのはただ純粋な“願い”である」

作品概要

名前の通り、ドラゴンと騎士をデザインのモチーフにした仮面ライダー。仮面ライダー同士が戦いあう「ライダーバトル」を主軸とした作劇や、10人近くの仮面ライダーが登場する作風など、その後の平成仮面ライダーシリーズに与えた影響は大きい。特に、トレーディングカードのようにカードをを使って戦うというスタイルは、のちに仮面ライダー剣、仮面ライダーディケイド、さらには仮面ライダーだけでなく天装戦隊ゴセイジャーに受け継がれた。さらに、収集系の変身アイテムを使って変身する仮面ライダーへと繋がっていく。まさに、平成仮面ライダー初期の、伝説の作品だ。

あらすじ

OLEジャーナルの新米記者、城戸真司はある日、鏡の向こうから現れるモンスターと、鏡の中で戦う戦士、仮面ライダーの存在を知る。最後の一人になるまで戦いあう仮面ライダーたち。仮面ライダー龍騎の力を手に入れた真司は、ライダー同士の戦いを止めるため自らも戦いの中へ、鏡の世界へと身を投じていく。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「人によって正義は変わる」ということ、さらに、「戦いを止めることは本当に正義なのか」という点だ。

龍騎が放送されたのは2002年。企画段階だった2001年9月にニューヨークで同時多発テロが起きた。企画会議では「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『真の正義』を示すべきだ」という意見と、「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『正義は一つじゃない』ということを伝えるべきだ」と二つの意見に分かれた。

結果、仮面ライダー龍騎は「正義は一つじゃない」を描く。

仮面ライダー同士が最後の一人になるため戦いあうということを知った城戸真司は、ライダー同士の戦いを止めるために仮面ライダー龍騎に変身する。

だが、ほかのライダーからは「余計なことをするな!」と邪見にされ、時には殴られる。それでも真司は「戦いあうなんて間違ってる! 戦いを止める!」と自ら信じた正義のために龍騎に変身する。

ところが、物語の中盤で真司は、ほかのライダーが「なぜ戦うのか」を知って愕然とする。

最後の一人になった仮面ライダーには、どんな願いもかなえられる力が授けられる。

仮面ライダーナイトに変身する秋山蓮は、事故で眠り続ける恋人を目覚めさせるために戦っていた。

仮面ライダーゾルダに変身する北岡秀一は、不治の病で余命いくばくもなく、永遠の命を手に入れるために戦っていた。

それぞれにそれぞれの戦う理由があった、ということを知った真司は、「戦いを止めることが正義」と言い切れなくなって、考え込んでしまうのだ。

これはまだ中盤の展開であり、その後、さらに真司を悩ませる事態が待ち受けるのだが、それは是非本編を見てほしい。平成仮面ライダーを見るなら絶対に抑えてほしい作品の一つだ。

最終回ではライダーバトルをこんな言葉で締めくくる。

「そこに正義なんてない。あるのはただ純粋な”願い”である」

その他の見どころ

「カードを使って戦う」というのは前述の通り、その後の作品に大きな影響を与えた。カードからモンスターを召喚したり、武器を取り出したり、トレカをモチーフとしたアニメが実写化されたらこんな感じなのかな、などと考えると興奮する。

さらに、鏡の中で人知れず戦いあうライダーたち、というのも従来の作風と異なり、なんだか深夜アニメの異能力ものを見ているかのようだ。

当時も、そして今も、異色の作風であると同時に、もう一度言うが絶対に抑えておかなくてはいけない作品の一つだ。

そして、仮面ライダー王蛇に変身する浅倉威。「脱獄した連続殺人犯」という、ガチの悪者である。「悪のライダー」のほぼ元祖にしていまだに最高峰に君臨する。悪にして今なお多くのファンを持つそのいかれっぷりもぜひ見てほしい。

仮面ライダー555(2003年)

「たっくん、オルフェノクがぁ!」

作品概要

「555」と書いて「ファイズ」と読む。携帯電話が一般に普及し始めた2003年に登場した、携帯電話を変身アイテムとして使う仮面ライダーだ。ファイズのベルトはそれまでのベルトと比べると変身へのハードルが割と低いほうで、そのため変身者がコロコロ入れ替わる。もちろん、メインで変身するのは主人公の乾巧なのだが、ここまで変身者が入れ替わる作品は他にはない。前50話の脚本は井上敏樹一人で書かれており(平成仮面ライダーで一人の脚本が全話を執筆したのは、555、エグゼイド、ビルドの3作品だけ)、緻密に伏線が張り巡らせ、謎が謎を呼ぶ、平成1期王道の展開が人気だ。

あらすじ

九州を旅していた青年、乾巧はある日、オルフェノクという怪物に襲われるが、その場に居合わせた少女、園田真理から渡されたベルトで仮面ライダー555に変身してこれを撃破する。真理とともに旅をしながらオルフェノクと戦う巧。一方、2年前に事故で眠り続けていた青年、木場勇治は死後に蘇り、オルフェノクとして覚醒してしまう。彼は、同じく死後にオルフェノクとなった仲間たちとともに共同生活を送るようになる。そして、巧と木場が邂逅する。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「異なるものとの共生」という点だ。このテーマを描いた作品は平成仮面ライダーシリーズに多いが、一番最初にそれを描き、なおかつ深く描いた、という意味では555を紹介しようと思う。

これより前の平成仮面ライダーシリーズの怪人はみな人間とは違う存在であり、言葉も通じない。クウガに出てくるグロンギは元は人間なのかもしれないけれど、価値観が違いすぎて対話ができない。

ところが、555の怪人、オルフェノクは死んだ人間が蘇生し、「進化した人間」として覚醒したもの。つまりは、元は普通の人間だったのである。

オルフェノクたちはあるものはその超人的な力で生前の復讐を果たして、あるものは人間からの迫害を受けて、人の道を踏み外していく。また、オルフェノクに殺された人間もまれにオルフェノクに覚醒することがあるので、オルフェノクの中には仲間を増やすために積極的に人間を襲う者たちもいる。

オルフェノクは「元人間」でありながら「人外の存在」でもある、非常に微妙な立場なのだ。

人間側にもオルフェノクは敵だ、悪だというスタンスを崩さないものもいる。オルフェノク側にも人間として生きようとして、人間を信じようとして、人間に裏切られてと、事態は一筋縄ではいかない。

555では主人公、乾巧とその仲間たちのほかにもう一つ、木場勇治を中心としたオルフェノク側からの視点で話が描かれている。「人間ではなくなってしまった悲しみ」を抱えながら、それでも人間らしく生きることはできないのかと模索する勇治。そして、互いが555とオルフェノクだと知らずに出会ってしまう巧と勇治。「異なるアイデンティティのものと共存できるのか」というテーマにおいて、やはり555が一番適任だろう。

その他の見どころ

作劇面に関してはもう十分語った気がするので、ここではCGの観点から。

実は、僕が平成仮面ライダーを見始めたきっかけは555である。たまたま見た555のライダーキック「クリムゾンスマッシュ」がかっこよすぎて、それがきっかけで平成仮面ライダーを見るようになった。

さらにバイクもかっこいい。555には3人のライダーが出てくるのだが、彼らのバイクがロボットに変形して、ミサイルをバカスカ打ち込む。まるで、戦争映画を見ているかのようだ。

仮面ライダーオーズ(2010~2011年)

「いけますって! ちょっとの小銭と、明日のパンツがあれば!」

作品概要

動物の力を宿した3枚のメダルで変身する仮面ライダーオーズ。タカの視力、トラの爪、バッタの跳躍力を持つタカ・トラ・バッタのタトバコンボを基本フォームとし、クワガタの頭部、カマキリの刃、バッタの跳躍力を持つ昆虫系のガタキリバコンボ、サイの角、ゴリラの剛腕、象の脚を持つ重量系のサゴーゾコンボ、タカの視力、クジャクの羽、コンドルの爪をもつ鳥系のタジャドルコンボと、様々な動物の力を組み合わせて戦う。それぞれの変身時には、クシダアキラによる謎の歌が流れ、耳から離れない。

あらすじ

ちょっとの小銭と明日のパンツしか持っていない無欲な青年、火野映司。今風に言うとミニマリストといったところか。ある日彼は800年の封印から解き放たれたグリードという怪人と、彼らグリードが生み出す怪物ヤミーの起こした事件に巻き込まれる。絶体絶命の状況に陥る映司を救ったのは、グリードの一人であるアンクだった。右腕だけしか復活できなかったアンクは、自身の体を取り戻すために必要なアイテム・コアメダルを集めさせるために、映司に仮面ライダーオーズの力を授ける。映司は人々を守るため、アンクは自分の欲望をかなえるため、時に利用し、時に協力し合う奇妙なコンビが誕生する。

チェックポイント

実は映司は「世界放浪中に内戦に巻き込まれた」という過去の持ち主。そんな映司だからか、オーズには戦争と平和、そして正義について考えさせられるエピソードが多い。

オーズの敵であるヤミーは人間の欲望から生まれてくる。ある回で登場したバッタヤミー(これが見た目がクソ気持ち悪い)は、「悪いやつを懲らしめたい」という欲望から生まれたヤミーだ。その欲望に従い、ひったくり犯を懲らしめて奪われたかばんを被害者の返してあげるヤミー。果たして、こいつは倒さなければいけないのか? 何も悪いことしていないじゃないか。っていうか、むしろ良いことをしているじゃないか。と悩む仲間に対し映司は「倒さなきゃ」と口にする。その理由を問われた映司はこう返している。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

その映司の言葉通り、ヤミーの行動はエスカレート。やくざの事務所や悪徳政治家のところに乗り込むまではよいものの、悪人とはいえ悲鳴を上げて逃げ惑う無抵抗な人間を捕まえて、ボコボコにぶちのめしていく。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

なるほど。だからきっと、世界から戦争がなくならないのだろう。

こんなエピソードもある。ある青年の「人の役に立つことをしたい」という欲望から生まれたクロアゲハヤミー。こいつが何をしたかというと、空から大量のお金をばらまくという行為。

そのお金がどこから来たのかというと、何のことはない、直前に銀行を襲って手に入れただけだった。

ただ、人の役に立ちたかっただけなのに、どうしてこんなことに……、と落ち込む青年に映司は自分の体験談を語る。

実は、映司は政治家の家に生まれ、親も兄弟も政治家というおぼっちゃま育ち。望めば何でも買ってもらえるというお金持ちだった。

そして、映司は「自分の力で世界をよくしたい」という大きな欲望を抱き、海外の貧しい国に多額の寄付を送った。

ところが、そのお金は映司の知らないところで戦争の資金に使われていたのだという。

この経験から映司は青年に向かって両手を広げて見せ、「正義感だとしてもこれくらい。これくらいなら、悪いやつに利用されることもなくなります」と語った。

要は、自分の手の届かないところにまで、目の届かないところにまで正義感を伸ばそうとすると、それがどう転ぶかわからず、責任が取れないから危険だよ、ということである。

世の中には、行ったことのない国のために一生懸命になる人、一生いかなそうな辺境の島のために声をからす人、あったこともない人を執拗にたたく人など、手の届かないところにまで正義感をふるおうとする人が結構いる。

その志自体は決して悪いことなのではないのだろうが、問題はやっぱり「手の届かないところに正義漢を伸ばそうとする」というところ、そして、「人間は正義のためならどこまでも残酷になれる」というところなのだろう。

その他の見どころ

オーズの敵は欲望から生まれた怪人グリードと、彼らが使役する怪物ヤミーだ。

しかし、欲望そのものを否定しない、むしろ「欲望は人間が生きるために必要なエネルギーだ! 素晴らしい!」と肯定するのがこの作品の大きな特徴だろう。

欲望そのものは決して悪くない。むしろ、必要な存在だ。問題は、それとどう向き合っていくか、である。

そして、先ほど触れた映司の「金持ちの家に生まれた」「内戦に巻き込まれた」という過去は、実はオーズの物語に大きくかかわってくる。

「世界を自分の手でよくしたい」という大きな欲望を抱いた映司は、旅先で内戦に巻き込まれる。そして、この時起きたある出来事が原因で、彼は「世界を変えたい」という欲望を失くし、無欲な人間になってしまう。

欲望がない。何も欲しがらない。何も持たない。聖人君子のようにも思えるがとんでもない、それは「生きるエネルギーを持っていない」ということで、終盤では映司の欲望を持たないが故の危うさがどんどんと浮き彫りにのなっていく。

映司と対照的なのがアンクの存在だ。まさに欲望の塊、自分の目的のためなら他人がどうなろうと「知ったことか!」と気にしない。オーズの相棒でありながら、実はかなりの悪党である。

しかし、アンクは腕しか復活できず、オーズの力がないと完全復活に必要なメダルを集められない。映司はアンクからメダルをもらわないと変身できない。これが、真逆な二人がコンビを組む理由だ。

欲望を失った映司はどこへ流れつくのか、映司の欲望はかなうのか、そして、映司とアンクのコンビはどんな結末を迎えるのか。ぜひ、本編を見て確認してほしい。

仮面ライダードライブ(2014~2015年)

「どうにも怒りが収まんねぇ! ひとっ走り付き合えよ!!」

作品概要

「仮面ライダードライブ」というタイトルを聞いた時、誰もが目を疑った。「ドライブって、ライダーなのに車乗るの? まさかぁ。CDドライブとかの『ドライブ』じゃないの?」と。だが、実際お披露目たなったドライブは真っ赤なスーパーカーとともに登場し、胸には駅伝のたすきのようにタイヤが収まっていたという、バイクに乗らずに車に乗る仮面ライダーである。ドライブは一度もバイクに乗ったことがない。一方で、主人公に刑事を据えた刑事ドラマでもあり、主人公である泊進ノ介は、仮面ライダーである前に警察官としての誇りを胸に戦う。また、主演の竹内涼真、ヒロインの内田理央、敵幹部役の馬場ふみかと、人気の俳優・女優を多く輩出した作品でもある。

あらすじ

機械生命体ロイミュードによる世界一斉蜂起が起きた。周囲の物の動きを極端に遅くすることができる「重加速現象」を引き起こせるロイミュードによって世界は崩壊の危機に陥ったが、ある戦士の活躍で世界は救われた。この事件は「グローバルフリーズ」と呼ばれた。

それから半年後、グローバルフリーズの時に相棒を誤射し、重傷を負わせてしまった刑事・泊進ノ介は、ロイミュード犯罪の専門部署「特殊状況犯罪捜査課」、通称「特状課」に異動になった。相棒を再起不能に追い込んでしまった事件以降やる気を失ってサボり魔となっていた進ノ介だったが、そんな彼のもとに謎のしゃべるベルトが現れ、彼に仮面ライダードライブの力を授ける。重加速の中唯一動くことのできる戦士、仮面ライダードライブとして、そして、刑事として、進ノ介は再起をかけて、ロイミュードによる犯罪に立ち向かっていく。

チェックポイント

ドライブで見てほしいのも555と同様、「違うものとの共生」だ。このテーマを描いた作品にはほかにも仮面ライダー剣、カブト、キバなど良作が多いが、平成2期からもう一つ挙げたかったので、今回はドライブを紹介する。

555のオルフェノクと違い、ドライブの敵ロイミュードは機械生命体。人間とは完全な別物である。しかし、人間の容姿をコピーし、知能も感情も人間と変わらない。

彼らの目的は人間の支配だ。ロイミュードを作った人間を支配することで、ロイミュードが人間よりも優れた種であることを認めさせる。

その中心となるのが「ハート」と呼ばれる彼らのリーダーなのだが、このハートがとにかく仲間思いなのだ。

仲間のロイミュードを「友達」と呼び、何よりも大切にする。ハートの知らないところでほかのロイミュードを捨て駒のように扱う作戦が実行されたときは、そのことを知ったハートは激高し、作戦を実行した幹部に制裁を加えた。仲間を捨て駒に使うなど絶対に許さないのだ。

極めつけは、ドライブに仲間の命を救われた時だ。ハートは宿敵であるドライブに頭を下げ、素直に感謝の礼の述べた。

ハート以外にも人間との静かな暮らしを望むロイミュードや、人間に協力するロイミュードなどが登場する。

「こいつらは本当に倒すべき悪なのか?」、回を重ねるごとに、見る者の胸にそんな思いが込み上げる。

そう思ったのは主人公・泊進ノ介も同じだったらしく、ある時、彼はハートに対して「お前ら本当に悪者なのかよ」とこぼす。

それに対してハートは「だろうな。もともとこっちは悪であるつもりがない」と返す。ほかにも、ロイミュード側の戦士を「悪の戦士」と呼ぶ人間に対して、「その考えこそが人間の驕りだよ」と鋭く指摘している。ハートとしてみれば悪事を働いているつもりはなく、ロイミュード側の正義に基づいて行動しているだけなのだ。

やがて、視聴者の「こいつらと戦わなくてもいいんじゃないか?」という思いがはち切れそうなタイミングで、進ノ介は再びハートに問いかける。「戦わずに済む方法はないのか?」と。

だが、これもハートは「ないね」と一蹴する。人間と戦って勝ち、支配し、ロイミュードを地球の新たな種であることを認めさせる。そのプロセスで「戦い」は必然なのだ、と。

どうしてハートはここまで戦って勝つことにこだわるのか。実は、ハートはロイミュード開発時期に実験と称して開発者から虐待されていた過去があった。「絶対に人間を見返してやる」という強い思いが彼の胸にはあったのだ。

やがて、終盤に人間・ロイミュード共通の敵が現れ、ドライブはハートと手を組み、これを撃破する。そして最終回で、ハートはともに戦ったドライブに、人類とロイミュードの運命を決める最終決戦を挑んでくる。

仮面ライダーの最終回というと、普通は「戦え! そして、勝て! 仮面ライダー!」とテレビの前で応援するものだが、仮面ライダードライブの最終回、僕はテレビの前でこう祈った。

「変身しないでくれ! 戦わないでくれ! 仮面ライダードライブ!」と。

進ノ介、お前だってハートと戦うことを望んでなんかいないはずだ! 戦い以外の決着を見せてくれ!と。

しかし、変身せずに一方的に殴られたら、進ノ介が死んでしまう。

果たして、進ノ介はドライブに変身してしまうのか? 戦ってしまうのか? 人間とロイミュードはどのような決着を見せるのか……?

ドライブの中でロイミュードは従来の怪人たちよりもより人間的に描かれている。だからこそ、期待してしまう。姿形が異なれど、価値観が異なれど、心を通わせることはできるのではないかと。戦う以外の道があるのではないかと。

その他の見どころ

ハートがらみでもう一つ。

ロイミュードの幹部の一人が、ドライブの変身者が特状課にいることを割り出す。変身者を特定しようとハートに持ち掛けるのだが、ハートはこう答える。

「変身前を暴いて叩くような、無粋な真似はしたくない」

仮面ライダーは人間の守護者であると同時に、人間の科学の叡智、強さの結晶。その仮面ライダーに変身した状態で戦って、勝つことに意味がある。だから、変身する前に倒してしまえなんてことはしたくないのだ。

このプライドの高さこそがハートの魅力である。

仮面ライダー側の魅力としては、自らの意思を持ちしゃべるベルト、ドライブドライバー、通称「ベルトさん」であろう。

なぜ「ベルトさん」と呼ぶのかというと、第1話でロイミュードに遭遇し「どうすりゃいいんだ、ベルト!」と問いかける進ノ介に対しベルトから帰ってきた答えがただ一言、

「呼び捨ては失礼だねぇ」

以後、「ベルトさん」である。

このベルトさんの声を担当していたのが、J-WAVEを、いや、日本のラジオを代表するラジオDJ、クリス・ペプラーである。あの渋く、セクシーな低音ボイスでベルトさんに声を当てていた。

ベルトさんはドライブの相棒として、作戦を指示したり、ドライブの能力を解説したり、ロイミュードの能力を分析したりと、よくしゃべる。開発者の意識をデータ化してダウンロードしたものであり、人間的な感情を持っているので、時に進ノ介の行動を心配したり、叱責したりする。

さらに、変身するときもベルトさんの「ドライブ! タイプ・スピード!」という音声が流れ、ライダーキックを放つときも「ヒッサーツ! フルスロットル!」の音声が流れる。

ドライブは胸部のタイヤを換装することで様々な能力が使えるのだが、このタイヤを換装するときの音声が「タイヤコウカーン!」。もちろん、クリス・ペプラーの声だ。

オープニングもクリス・ペプラーの「Start your engine!」の声で始まり、番組終わりもクリス・ペプラーのナレーション。さらに、玩具のCMのナレーションもクリスペプラーと、とにかくクリス・ペプラーづくしの30分だ。

さあ、平成仮面ライダーを見よう

今回は紹介しきれなかったが(この調子で全作品紹介していたら、1日あっても終わらない)、残り15作品もよい作品ばかりだ。

たとえば、仮面ライダービルドでは作中に戦争が勃発する。平和や多様性といったテーマで見てみるのも面白いだろう。

この記事を読んでもらえれば、平成仮面ライダー番組が単なる子供向け番組ではないことをわかってもらえたと思う。

それでもまだわからないというのであれば……、

もうひとっ走り付き合えよ!

西川口駅周辺に中華料理店が増えたのはなぜだ‼?

埼玉県の西川口駅というと、かつては県内有数の風俗店街として有名だった。ところが最近、西川口駅周辺は中華料理店が増え、テレビにも取り上げられている。そういえば、西川口は家から近いのに、中華料理店が増えた西川口に行ったことがない。どうして西川口は中華料理店が増えたのだろう。なぜだ? なぜだ!? なぜなんだ!!?

西川口の歴史

埼玉県の玄関口、川口駅。その北に西川口がある。北にあるのに何で西川口? その答えは、「川口駅自体がそもそも、川口市内の中で割と西のほうにあるから」である。

川口市は東京のベッドタウンとして発展した。夜の京浜東北線(下りに乗っていると、ターミナル駅でもない川口駅でたくさんの人がおりていくのがわかる。加えて、古くから鋳物の街として知られ、今でも線路沿いには鋳物工場が並ぶ。僕は鋳物工場のわきで鉄くずを拾ったことがある。本当に溶けた鉄が適当な形で固まっただけの、使い道のない純粋な鉄くず。

通勤通学に便利で、市内の産業も発展し、その上オートレース場があり、浦和の競馬場や戸田の競艇場も近い。

そんな人が集まる街だからだろうか、西川口は埼玉県有数の風俗街が発展した街でもある。埼玉県内では「西川口に行く=風俗店に行く」で通じてしまうくらいの知名度だった。

とはいえ、住んでいる人からすれば迷惑な話だ。

そんな声が増えていったからなのか、はたまた、全国的にそんな流れだったのか、2000年代半ばに西川口の風俗店は次々と摘発されていき、西川口駅前はゴーストタウンのようになってしまった。

その西川口駅前の風俗店の跡地に、中華料理店が入るようになったのは、それから10年ほどしてからだ。

西川口はおいしかった

というわけで、時は2018年。新興の中華街として注目を集める西川口の西口に降り立った。

駅を降りていきなりすれ違う中国人(たぶん)。明らかに日本語ではない言葉をしゃべっている。

さっそく中華料理店の看板が見える。

ほかにも、駅前にはいろんな看板がある。

外国人向けの電話屋さん。

 

中国料理屋と、よくわからない漢字の店。

 

街の南側をぶらりと歩いてい見ると、確かに中華料理店の看板が多い。

 

軒を連ねるのは中華料理店だけではない。中国人向けの食料品店、雑貨店なども多い。

こういう、「その町で暮らす外国人向けのお店」があると、いよいよもって本物だ。

他にもこんな看板があった。

中国語カラオケである。僕だったら何を歌おうか。女子十二楽坊ぐらいしか知らないなぁ。

……歌詞ねぇよ、女子十二楽坊。

さらにはこんな看板も。

何の看板かはわからないが、とりあえず見たことない漢字だ。

こうやって歩いてみると、なんだか日本じゃないみたいだ。

見てるだけではもったいないので、実際に中華料理店に入ってみた。

入ってさっそく驚く。客がみな中国人だ。本当にこの店入っていいのかな、とちょっと不安になる。

店員さんもおそらく中国人なのだろうが、そこは日本で商売しているだけあって、日本語での接客もばっちりだ。

ところが、席に座ってまたまた驚く。

なんと、店員さんは、カラのコップを置いたのだ。

テーブルの上には水の入ったポットがあるので、自分で注げということなのだろう。

日本ではなかなかないシステムだが、思えばヨーロッパに行ったときは、カラのコップと水の入ったボトルを渡された。案外、こっちのほうがワールドスタンダードなのかもしれない。

カニチャーハンを注文してみた。

なるほど。日本のラーメン屋や定食屋で食べるチャーハンとは違う。

具体的にどう違うのかというと、油が多い。

断わっておくけど、決して「無駄に油っこい」わけではないぞ。

僕史上一番おいしかったチャーハンは、中国・北京で食べたやつなのだが、日本で食べた中ではあれに一番近かったと思う。

つまり、この油多めのチャーハンのほうが、本場の味というわけだ。

ボリュームも結構ある。これでカニがついて700円以下ならば安い。

え、どこの店かって。

すでに紹介した写真の中に答えはあるぜ。

探してみな。チャーハンのすべてをそこに置いてきた!

風俗街・西川口は死すとも、スケベは死なず

さて、そんな西川口だが、風俗店はどこへ行ってしまったのだろうか。すべてなくなってしまったのだろうか。

男子諸君、ご安心を(?)。

風俗店は、生きている!

とはいえ、駅前の1ブロックを中心にわずかに残っているにすぎない。県内のよその町に比べれば確かに数は多いのかもしれないが、「風俗街」と呼ぶにはちょっと物足りない。

とはいえ、「風俗の街、西川口」はまだかすかではあるが生きている。

しかし、ネットの中ではもはや風前の灯火なのかもしれない。yahooで検索をかけると、トップで「中華料理屋」がサジェストに上がる。だが、風俗店に関するサジェストは出てこない。

もはや、「西川口に行く=中華を食べに行く」、そういう時代なのだ。

中華料理と風俗店

なぜ、西川口に中華料理店が多いのだろうか。

もともと、西川口の隣町、蕨駅周辺は外国人が多い場所として知られていた。チャイナタウンとなりつつある団地もあるという。そういったところにあった風俗街が摘発を受けてゴーストタウンとなった。空いた場所で在日外国人たちが商売を始めた。

こうして西川口は中華料理の街になりましたとさ。おしまい。

……と、ここで面白いことに気付いた。

「外国人街」と「風俗店街」の組み合わせが関東地方には多い、ということに。

たとえば、関東最大の風俗店街と言ったらやはり新宿歌舞伎町だろう。特に歌舞伎町の北側はホテル街となっている。

そこから職安通りを挟んだすぐむこう側は、新大久保のコリアンタウンだ。

コリアンタウンというと、東京の北東部、三河島近辺も有名だ。

三河島のすぐ南に行けば、鶯谷がある。ここは都内でも特にラブホテルが密集する場所だ。

鶯谷の隣は上野だ。上野のアメ横は近年、アジア系のお店が並び、異国情緒があふれている。

外国人街と風俗街がセットになっているのは、東京だけではない。

中華街といえばやっぱり横浜中華街が有名だ。ここから徒歩30分ぐらいのところにある黄金町は、かつての風俗街として知られている。

このように、外国人街と風俗店街は、距離の近いところにある。

もちろん、例外はある。例えば、インド人が多いことで知られる西葛西周辺に風俗店街はない。最近、西葛西ばっかり歩いてる僕が言うのだから間違いない。

西葛西に行ったら30人に一人がインド人だった

さて、今のところ、僕は「周辺」が関係しているのだと思う。

街の、都市の中心ではなく周辺。

西川口はベッドタウンだ。つまりは、「東京」という大きな経済圏の中心ではなく、周辺部に位置している。

新宿は今でこそ東京の中心の一つだが、戦後ぐらいまでは東京の「周辺部」だった。

上野は新宿よりも都心には近いが、あの町もまた「周辺」に位置している。これについては日を改めて詳しく書きたい。

そして横浜中華街と黄金町。ここもまた横浜の中心地ではない。周辺部だ。

こういった周辺部というのは、誤解を恐れずに言うと、昔から異質なものが集まりやすい場所なのではないか。

とはいえ、僕も日本国籍じゃない友人が何人かいるので、「外国人=異質なもの」と書いてしまうと、後で川にでも放り込まれそうな気がするが、決して差別的な意図で言っているわけではなく、「日本という枠組みの外から来た者、異なるアイデンティティを持つ者」という意味合いで使っている。

一方、風俗嬢の知り合いはいないので、そちらに関しては川に放り込まれる心配は全くしていない(実は隠れて……ってい人もいるかもしれないけど)。

さて、今のところ、外国人街と風俗店街が近いのがわかったのは関東だけだ。よその地域ではどうなのかはこれから調べていきたい。

この「周辺」という概念については、今後さらに研究していきたいテーマの一つだ。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

テレビ全盛の時代が終わりをつげ、you tubeの動画が何億回も再生される、そんな時代がやって来た。さらに、showroomやVtuberといった、新たなメディアやコンテンツが次々と登場し、時代はどんどん変わっていっている。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!


ラジオの公開収録を見てきた

8月24日に池袋で行われた、FM NACK5「Nutty Radio Show THE魂(ソウル)」の公開収録に行ってきた。

THE魂 公式ブログ

当日は乃木ヲタ(乃木坂46のファンの皆さん)やスラッシャー(DISH//のファンの皆さん)が大勢訪れるのは想像に難くない。だって、レギュラー出演しているのだから。

そんな中、純粋なラジオファンの底力を見せてやるぜ! 妙に意気込んでいた私。

事前に優先観覧スペースの抽選をやるというので、ダメもとで応募してみたところなんと当選! これで、場所取りをする必要はなくなったと、余裕をもってサンシャイン60へと向かった。

さて、集合場所に行ってみると、どうやら抽選に当選した人は210人いるらしい。その中で僕の整理番号は43番。どうやら、相当今回は運がいいみたいだ。

整理番号順に並んで優先観覧スペースへと向かう。番号順に場所が決まってるのかなと思いきや、順番を守らなければいけないのは優先観覧スペースに入るまで。スペースに入ってからは自由に場所を選んでいい、というので、なるべく真ん中に行くことに。

2列目、というかほとんど1.5列目のど真ん中に陣取り、後ろを振り返った。

優先観覧スペースの後ろに、普通の観覧スペースがある。そこにも優先観覧スペースと同じくらいの数の人がひしめいていた。

優先観覧スペースと普通の観覧スペース、合わせて400人ほどがサンシャイン60の地下1階、噴水広場にひしめいている。

それだけではない。噴水広場は吹き抜けになっていて、1階、2階、3階からも観覧できる。そこも人で埋め尽くされていた。

数百人がイベントに集まったわけだ。一応言っておくが、「THE魂」は埼玉県のラジオ局、FM NACK5の番組だ。radikoを使えば全国で聞けるが、基本は関東地方、埼玉県を中心としたローカルな番組だ。

そのイベントに数百人が集まったわけだ。

テレビやyou tubeなど、様々なメディアが登場し、ラジオはすっかりレトロな存在となった。

にもかかわらず、ラジオのイベントにこれだけの人が集まったのだ。

さて、公開収録が始まる前に、優先観覧スペースをもう少し広げよう、ということになり、観覧スペースとステージの間にあった仕切りがちょっとだけ前に動かされた。それに伴い人も動く。

その動きの中で、なんと僕は、最前列のど真ん中に躍り出ることに成功したのだ!

ステージまでほんの数メートル。視界を遮るものが一切ない中で、間近でイベントを堪能できた。イベントは撮影禁止だったので、写真でこの近さをお伝え出来ないのが残念だ。

とりあえず、間近で見た月曜日担当・乃木坂46のゆったんこと斉藤優里は、異次元の可愛さだった、とだけ書いておく。

2時間のイベントを最前列で堪能して帰路に就いた。そして、こう思った。

やっぱり、やっぱりラジオが大好きだ!

ラジオ、最近どうだい?

イギリスが生んだ伝説のロックバンド、QUEEN。QUEENが1984年に発表した曲に「RADIO GAGA」という曲がある。ベーシストのロジャー・テイラーが作詞作曲を担当した珍しい曲だ。

タイトルの通り、ラジオのことについて歌った曲だ。

歌詞の内容は次のような感じだ。

テレビが全盛の時代となり、ラジオの時代はとうに終わってしまった。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

そんな歌だ。

Radio what’s new?(ラジオ、最近どうだい?)

Someone still love you(まだ君を、ラジオを愛している奴がいるんだ)

ちなみに、この「RADIO GAGA」をもじって芸名にしたのが、かの有名なLADY GAGAだ。ウソのようなホントの話。

この歌が発表された80年代、ラジオは全盛期を終え、時代の中心はテレビだった。ラジオは廃れていくけど、それでも、やっぱりラジオが大好きだ! そういう歌だ。

それから30年以上の時が流れた。今度はテレビが全盛期を終え、時代はyou tubeだ。人気の動画は世界中で再生され、いつでも好きな時に見れる。

それに比べてラジオなんて、音しか出ないし、FMは一つの地域でしか聞けないし、放送時間決まってるし。最近はradikoプレミアムやタイムフリー機能があるが、radikoプレミアムは有料だし、タイムフリーは1週間しか持たない。you tubeに比べるとだいぶ不利だ。

だが、ラジオはなくならなかった。テレビ放送が始まって半世紀近くが過ぎ、ネット動画の時代になってもラジオはなくならず、ローカル番組のイベントに数百人が集まる。

なぜだろう。

その理由は“Someone still love you”、この一言に尽きるのではないだろうか。

ラジオとリスナー

ラジオはなぜ生き残っているのか。それは、ほかのメディアにはない「リスナーとともに番組を作る」という点にあるのではないだろうか。

もちろん、テレビでも視聴者の投稿を募集することはあるし、you tubeだって視聴者のコメントなどを反映させることはできるだろう。

だが、ラジオの「まずリスナーありき」「リスナー依存度」は半端ではない。

たいていの番組が毎回テーマを決めてリスナーからメールを募集する。リスナーのメールを読んで、DJがその話を膨らませていく、というやり取りがラジオの基本だ。DJが一方的にしゃべるだけ、という番組はないわけではないが(情報番組とか)、基本は「番組がテーマを決めてメールを募集する」⇒「リスナーがメールを送る」⇒「DJがメールを読む」⇒「リスナーのメールをもとに話が膨らんでいく」というのが、ラジオ番組の基本である。

そのため、どこのラジオ番組も「リスナーがいないと、まったく番組の進行ができない」というくらいリスナーありきの放送をしている。

さらに、番組からリスナーに電話してお話をしたり、クイズを出したりすることもある。これを「逆電」という。

そして時に、リスナーの人生まで垣間見える。恋の話、家族の話、病気の話などなど。

どこかの誰かの人生とほんの一瞬つながる瞬間。これこそが、ラジオの醍醐味だろう。

ラジオと音楽

ラジオは音楽との相性がいい。そりゃそうだ。音だけのメディアなのだから。逆に、写真とか絵画との相性は最悪だ。

いろんなラジオ番組があるが、特に音楽番組は多い。

最新のヒットチャートを紹介する番組、レコードをかける番組、アニソンに特化した番組、V系に特化した番組、リクエストをかける番組、いろんなタイプの番組がある。

何がいいって、リスナーはどんな曲がかかるかわからない、ということだ。

だからこそ、好きな曲や懐かしい曲のイントロが流れるとテンションが上がる。自分でウォークマンやiPODを操作して流すのとは、全然違う。

ラジオと投稿

ラジオの醍醐味の一つが、番組に投稿することだ。もちろん、サイレンとリスナーでも十分にラジオは楽しめるが、投稿が読まれた時の喜びはひとしおだ。

ただ、これが全然読まれない(笑)。

渾身のネタが読まれず、楽しい放送なのに一人がっかりする、なんてことはよくある話だ。

だからこそ、読まれた時の喜びはひとしおだ。自分のラジオネームが読まれ(ちなみに、僕の場合、ラジオネームも「自由堂ノック」だ)、自分の送ったメールが読まれる。僕のメールをもとにDJが話をする。

いつも聞いているラジオのど真ん中にいきなり自分が放り込まれるような感覚だ。

さらに、自分のメールから話がどんどん広がったり、DJの思い出話なんかを引き出せたり、ツイッターでほかのリスナーが自分のメールに反応をしてくれたりすると、さらにうれしくなる。

特に面白いメールにはノベルティが贈られる。こうなると喜びはMAXだ。町中を走り回って「皆さん、私の投稿がラジオで読まれ、ノベルティが当たりました!」と大声で叫んで回りたい気分だ(もちろん、投稿はすれど、そんな奇行をしたことはない)。

ラジオと災害

この記事を書いている2日前、北海道を震度7の地震が襲った。

翌日のニュースで札幌に住んでいる人がインタビューに答えていて、「ラジオを聴いている」と話していた。

ラジオは、あらゆるメディアの中でも特に、災害に強い。

それは、災害が起きても放送をしている、というだけではない。

例えば、東日本大震災の時の話だ。

地震直後、テレビをつけるとどこの局も、東北を襲う津波の映像を流していた。多くの人の命を奪った痛ましい津波だ。

だが、この時僕が欲していたのは、自分がいる埼玉県は安全なのか、という情報だった。

ところが、どこのテレビも東北の津波ばかりで、埼玉で何が起きているかは全くやってくれない。どこかで火災は起きていないのか。避難したほうがいいのか、しなくていいのか、遠くの津波の話ばっかりで、自分の身の回りの情報が全くない。

そこで、ラジオをつけた。地元埼玉のFM NACK5の人気番組、小林克也の「ファンキーフライデー」だ。

そこでは、「栗橋の交差点で信号が止まっています」といった、超ローカルな情報がリスナーたちによって寄せられていた。おかげで、自分の身の回りの情報を手に入れることができた。

ラジオは投稿してから読まれる前に、放送作家によるチェックが入る。「動物園からライオンが逃げ出した!」みたいな、SNSでよく見るトンデモデマ情報はまず読まれないだろう。

ほかにも、ラジオは緊急地震速報を流してくれる。気象警報を教えてくれる。

災害に限らず、電車の遅延や運転再開まで教えてくれる。

いつもはおどけたことを言っているDJが、こういうお知らせの時はまじめな口調になるのが、ちょっとおもしろい。

そして何より、災害時に笑顔を届けることができる。

「おに魂」の最終回で読まれた、「3.11の時、福島から避難する車の中で、おに魂を聞いて3時間笑いっぱなしでした」というメールがいまだに印象に残っている。

 

ラジオ、最近はどうだい?

テレビ全盛の時代を迎え、それすら過ぎ去り、時代はyou tubeだ。

さらに、showroomやVtubeなど、新しいメディア・コンテンツが次々と生まれていく。

音しか出ないラジオなんて、時代遅れなコンテンツなのだろう。

それでも、悪いけど、どのメディアも、ラジオの楽しさには及ばない。

Someone still love you.

Someone love radio from now on.

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

初心者のためのラジオ用語集

ラジオをあんまり聞いたことがないよ、という人のために、初心者向けのラジオ用語集を作ってみた。さあ、ラジオを聞こう!

AM・FM

電波の違いらしいのだが、まあ、一般的にはAMが全国放送、FMが地域放送、といった感じか。

AMは広範囲、それこそ日本全国規模で届くが、音質があまりよくない、と言われている。

一方、FMはAMに比べると届く範囲が狭く、例えば関東のFMだったら関東しか聞こえない。埼玉県入間市に基地があるFM NACK5だったら、神奈川県西部はちょっと厳しい。静岡ではかなり厳しい。

だが、東京湾では意外とばっちり聞こえる。東京湾を行く船の上で、NACK5を聞いた本人が言っているのだから間違いない。

FMは範囲が狭い分音質が良いとされ、音楽番組向きだといわれている。

改変

番組のDJが変わったり、番組そのものが入れ替わる時期。1月、4月、7月、10月に改編が行われるが、特に4月と10月に集中している。

改変の1か月前くらいに、「番組の最後に大事なお知らせが……」みたいなことを言い出したら、大好きな番組の終了を覚悟したほうがいい。

たまに、「大事なお知らせが……」といって、「何年何月に放送が始まった今番組ですが……」と神妙な面持ちで切り出しておいて、「来月から放送時間が変わります!」と発表するパターンがある。「びっくりした。終わるのかと思った。あ~、よかった」という安堵感と、「おい! 番組終わるかと思っただろ! 紛らわしいことするな!」という怒りが同時に胸中に押し寄せる。

カフ

DJの手元にあるマイクのスイッチ。このスイッチを入れることを「カフを上げる」という。カフを上げ忘れると、しゃべっても声が放送に乗らず、その後もカフを上げ忘れたことでしこたまいじられる。

逆電

番組からリスナーに電話をかけ、お話をしたり、クイズやゲームを楽しむ企画。大体が番号非通知でかかってくるので、非通知拒否設定を解除しないと、番組から電話がかかってこない。

公録

公開収録の略。

サイレントリスナー

投稿をあまりしないリスナー。

周波数

電波の周波を表した数字。単位は「MHz(メガヘルツ)」。埼玉県には、周波数が79.5MHzだから、「ナックファイブ」という社名をつけたふざけたラジオ局が存在する。

ジングル

CMに入る前後に挿入される音楽。音楽にのせて番組名を言う場合が多い。

たまに、ゲストのミュージシャンがお土産に番組のジングルを作ってきたり、遅刻のお詫びにジングルを作ったりする。

聴衆率調査週間

2か月に一回、偶数の月に行われる、番組聴衆率を調査する週間。この週になると、どこもスペシャル感を出し、プレゼントが豪華になったり、特別な企画を行ったり、動画配信を行ったり、ノベルティが当たりやすくなったりする。

トークバック

ディレクターが放送中にDJに出す指示。放送ブースの外からマイクを使って指示を出し、DJはヘッドフォンやイヤホンでこの指示を聞く。そのため、トークバックが放送に乗ることはない。

ハガキ職人

番組にせっせと投稿したり、面白い投稿を連発したりする人のこと。時代は流れ、ラジオへの投稿はハガキからFAX、そしてメールが主流となったが、「メール職人」という言い方はあまりしない。

ふつおた

「ふつうのお便り」の略称。番組が募集しているテーマとは関係ない内容のメールのことを指す。番組や放送局によって名称が変わることもあるが、「ふつおた」が一般的である。ふつおたを特に集中して紹介するときは「ふつおたまつり」と呼ばれる。

radiko

インターネットを通じてFMラジオを聴くアプリ。電波による放送に比べると、数秒から30秒近く遅れる。有料プログラム「radikoプレミアム」を使うと、電波が届かない地域のFMラジオを聴くことができる。さらに、タイムフリー機能があり、聞き逃した放送も1週間以内なら再生することができる。

ここがヘンだよ旅人たち

ピースボートなんぞに乗っていると、いろんな旅人と知り合う。世界のあちこちをめぐり、旅に生き、旅を愛し、自由を謳歌する旅人たち。最高である。最高なんだけれど、どうも違和感を感じてしまう時がある。今回はそんなお話。外国に行くのがえらいんですか? 何か国も行くのがえらいんですか?


今年は旅祭に行かなかった

去年、旅祭2017に参加した。2年続けての参加である。

旅祭2017 ~最果ての地、幕張~

この時もそれなりに楽しんだのだが、一方で「祭りになじめない」という思いを切実に感じていた。その当時の記事から抜粋してみた。

さもここまで旅祭を楽しんだかのように書いたが、僕には一つの違和感が付きまとっていた。

どうも、この場になじめない。

CREEPY NUTSの『どっち』という曲がある。「ドン・キホーテにも、ヴィレッジ・バンガードにも、俺たちの居場所はなかった」という出だしで始まる曲で、ドンキをヤンキーのたまり場、ヴィレバンをオシャレな人たちのたまり場とし、サビで「やっぱね やっぱね 俺はどこにもなじめないんだってね」と連呼する。

旅祭の雰囲気はまさにこの歌に出てくる「ヴィレバン」だった。やたらとエスニックで、やたらとカラフルで、やたらとダンサブル。

突然アフリカの太鼓をたたく集団が現れたり、おしゃれな小物を売るテントがあったり、やたらとノリのいい店員さんがいたり、なぜか青空カラオケがあったり。

なんだか、「リア充の確かめ合い」を見せられている気分だ。「私たち、やっぱり旅好きのリア充だったんだね~♡ よかったね~♡」という確かめ合い。

会場で何回かピースボートで一緒だった友人たちに会い、その都度話し込んだが、彼らがいなかったら、とっくに帰っていたような気がする。

とまあ、ひがみ根性丸出しの文章を書いている。

とはいえ、締めの文章では

旅祭2017を振り返って、「来年も旅祭に行きたいか」と問われれば、答えはイエスである。

僕みたいな「旅ボッチ」は旅祭に群がる「旅パリピ」が苦手なだけであって、旅祭そのものは刺激に溢れた祭だ。

と書いているから、この時点では旅祭2018も参加する気満々だったらしい。

そうして1年が過ぎ、5月ぐらいになると「今年も旅祭やるよ!」という告知が回ってくる。

なぜ、今年の旅祭は行かなかったのか。

この5月のときに前回の旅祭を思い返してみても、「全然なじめなかった」という記憶しか出てこなかったからだ。

正直、今回、この記事を書くかどうかは悩んだ。友人の中には旅祭を楽しみにしている人や、旅祭の運営に1枚かんでいる人までいる。「なじめなかったから今年は行かない」なんて書いたら、彼らを傷つけてしまうのではないだろうか、と。

だが、僕に限らず、お祭りやイベントごとになじめない人間というのは一定数必ず存在する。それは、僕自身ピースボートに乗っているときにイベントを運営する側に回ったことで痛切に感じたことだ。

そして、「なじめない人間」というのはあまり自分から声を発することはない。そういうのが苦手な人が多い。

そのため、イベントを運営する側にしてみればそういった「なじめない人たち」は「いないもの」、「存在しないもの」として扱わざるを得ない。

なので、「なじめない!」と声を上げることも必要なんじゃないか、と思って筆を執る次第だ。

旅ボッチと旅パリピ

去年の旅祭に参加して切に思ったのは、「旅人の中には『旅ボッチ』『旅パリピ』がいる」ということである。

旅ボッチと旅パリピ

旅ボッチと旅パリピはどういうことかというと、「旅の好きなボッチ」と「旅の好きなパリピ」である。読んで字のごとくだ。

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

 

旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

 

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

僕の実感では、やっぱり旅祭は旅パリピを対象にしたイベントであって、旅ボッチにはどうにも居心地が悪い。

いや、もしかしたら日本の「旅業界」全体が、旅パリピ向けなのかもしれない。

それは単にJTBみたいな「旅行業界」だけではない。例えば本屋やこじゃれたカフェにある「旅の本」なんかを見ると、大体カラフルな写真が並び、「絶景」というワードが入っている。

これは旅パリピ向けである。旅ボッチにとってはこういうのはちょっと手を伸ばしにくい。

今のところ、旅ボッチ向けの、白黒写真の「旅の本」はまだ見たことがない。

不思議である。旅パリピは大体口をそろえてこう言う。「世界を回るといろんな価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

ところが、現状「旅人業界」は旅パリピのことしか見ていない。旅パリピは自分たちの価値観が旅人代表であるかのように語り、旅ボッチのことは存在すら知らないらしい。

何が「世界観が広がる」だ。多様性が大事だというのなら、もっと旅ボッチの存在に目を向けるべきである。

ここがヘンだよ旅人たち① 旅人はフレンドリーじゃなきゃいけない?

旅パリピはよく「旅に出ると世界中に友達ができる」と口にする。

それは、旅パリピだけの話だ。

また、旅祭のようなイベントに行くと、顔見知りでも何でもないのにやたらフレンドリーに話しかけてくる関係者の人がいる。

なんだろう。「旅人はみなフレンドリーである。いや、フレンドリーでなければいけない」という不文律でもあるのだろうか。

旅ボッチの視点から言えば、知らない人がなれなれしく話しかけてくるのは、

迷惑である。なるべくやめていただきたい。

断言しよう。別に現地の人と話さなくても、旅は楽しい。旅人はフレンドリーでなければいけない、なんてことはない。

むしろ、人と接触しすぎるとかえってトラブルに巻き込まれる可能性だってある。

ここがヘンだよ旅人たち② みんな高橋歩が好きなのか?

旅好きで高橋歩の名前を知らない人はいないだろう。世界のあちこちを放浪し、若者たちに強く訴えかけるメッセージを発し続ける、旅人のカリスマである。僕の周りにも高橋歩が大好き、影響を受けた、尊敬している、そんな人が多い気がする。

僕自身も旅祭で何度か高橋歩を見ている。「おもろいおっさん」というイメージで、決して嫌いなわけではない。

だが、これだけは言わしてほしい。

全ての旅好きが、高橋歩の著書を後生大事に読んでいる、というわけではないことを。

高橋歩が苦手な旅人だっている、ということを。

どの辺が苦手なのかというと、「距離感が近すぎる」という点である。

旅パリピにとってはそこが魅力に映るのかもしれない。本を読んでいると、まるですぐそばで励ましてくれているような気がする、と。

ところが、同じ本でも旅ボッチが読むと、「距離が近い近い近い近い! 無理無理無理無理! 離れて離れて!」と感じてしまう。あの距離感が苦手なのだ。

だから、僕の本棚には、高橋歩と仲の良い四角大輔さんの本はいっぱいあるのだけれど、高橋歩の本は一冊もない。

ところが、旅人仲間の中では「高橋歩大好き!」「歩さんマジ神!」といった人が結構多い。

そしてそういう人たちはどういうわけか、「ノックも旅が好きなら、当然、高橋歩好きだよね⁉」という前提で話しかけてくることがある。

旅が好きなら当然、高橋歩も好き。

決して、そんなことはない。

そんなことはないんだけれど、話の腰を折るのが嫌で、「いや、俺、あんまり高橋歩好きじゃない」とかいうとなんか相手の尊厳を傷つけてしまう気がして、「ああ、うん……」と適当に話をごまかす。実際に著書に目を通したことはあるけど、それで感動したことは一度もない。だって、距離感が近すぎるんだもん。

多様性が大事だというのであれば、「誰だって本の好き嫌いぐらいある」ということも理解するべきだ。

ここがヘンだよ旅人たち③ 遠くへ行くほうがえらいのか?

この夏、南関東を制覇してきた。

静岡では伊豆に行き、天城山を歩いてきた。

神奈川では鎌倉に行った。帰りにちょこっとだけ横浜に立ち寄った。

東京では高尾山に登った。葛西臨海公園で海も見た。

埼玉では飯能に行き、アニメ『ヤマノススメ』の聖地を巡ってきた。

千葉では館山に行き、海のそばでバーベキューをした。帰りには海ほたるにも立ち寄った。

東京湾に浮かぶ海ほたるまで行ったのだから、「南関東完全制覇」を宣言しても差し支えないのではないか。

そして、思う。

旅をするのに、別に何も「遠くでなければいけない」ということはないんだな、と。

伊豆で見たのどかな田園風景、高尾山から見下ろす東京の街並み、館山の海岸、価値観を揺さぶるには十分だ。

だが、ピースボートなんぞに乗っていると、どうも、「より遠くに行くことが正義」という風潮があるように感じてしまう。

旅祭に関しても、「世界」にばかり目が行って、すぐ足元の「日本」の旅にあまり目を向けていない気がする。

だが、昔の人はいい言葉を残した。「灯台下暗し」。世界ばかり見ていないで、自分の足元にも目を向けるべきだ、ということだ。

大体、近所の景色のすばらしさに気づけないやつが、世界を旅したところで得るものなんて大してない。

ここがヘンだよ旅人たち④ 何か国も行くやつがえらいのか

旅祭2017に参加したとき、こんなイベントがあった。

100か国以上を巡った人たちが、ステージに上がってお話します、というものだった。その時、こう思った。

……何か国も行くやつがえらいのか?

そもそも、行った国の数を自慢している時点で、アウトなのではないだろうか、と。何かを学んだとはちょっと思えない。

プロフィールにはなるべく数字を入れないほうがいい。数字が語るのはその人の自尊心の強さだ。入れていい数字は生年月日ともう一個何かぐらい。だから僕はプロフィールに入れる数字は「地球一周」のみと決めている。これ以上数字を入れてしまうと、ただの自尊心の強い人になってしまうからだ。

そもそも、僕の感覚では世界を10か国ほど旅すれば、そこから先は何か国旅してもそんなに変わらない、と思っている。10か国行っても、20か国行っても、50か国行っても、100か国行っても、300か国行っても、そこまで価値観とか経験値の差は出ないと思っている(ちなみに、世界に300も国はありません)。

量ではない。大事なのは質だ。

僕が尊敬してやまない人物に民俗学者の宮本常一がいる。宮本常一は日本の各地をつぶさに歩いて回ったが、海外に行ったことはあまりなく、初めての海外旅行は還暦を過ぎてからだといわれている。

たぶん、行った国の数だけを比べたら、僕のほうが宮本常一の4倍の数、国を訪れている。さらに、宮本常一は東アフリカと東アジアにしか行っていない。地域にも大きな偏りがある。

じゃあ、僕のほうが宮本常一よりも、行った国の数が多い分見識が深いのかというと、断じてそんなことはない。「僕のほうが4倍多くの国を訪れているから、4倍見識が深い」なんて言ったら、全宮本常一ファンにぼこぼこにされるだろう。ちなみに、その「全宮本常一ファン」の中には当然僕本人もいる。自分で自分をぼこぼこににしたいくらいの、分不相応な問題発言である。

量より質なのだ。「100か国以上旅した」という旅人を46人くらい集めても、ほぼ日本1か国だけを旅し続けた宮本常一1人の見識の深さにはかなわないと思う。

ここがヘンだよ旅人たち

「世界を回ると、様々な価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

旅人は口をそろえてこう言う。

だが、その実態は旅ボッチの存在に目を向けることなく、自分の好きな本はみんな好きだろうと勝手に思い込み、世界ばかりに目を向け日本を、近所を旅する楽しさを知らず、行った国の数を自慢する。

要は、ほとんど何も学んでいないに近い人が多い。

人の価値は何を経験したかでは決まらない。その経験から何を学んだか、どれだけの経験値を得たかで決まる。

どこを旅したとか、何か国行ったとか、地球何周したとか、そんなことはどうでもいい。そこから何を学んだかである。

「地球一周した」とか「100か国以上行った」とかいうと、たいてい「へぇ~、すご~い!」といわれる。

勘違いしてはいけないのが、この場合すごいのは「経験」そのものであって、「経験した本人」がすごいのではない。

もっと言えば、「それだけすごい経験をしているのだから、お前がどんなに馬鹿でも、何かしらのことを学んでいるよね?」という期待値が込められた「へぇ~、すご~い!」である。

何を経験したかではない。そこから何を学んだか、それが人間の、旅人の価値を決めるのだ。

小説 あしたてんきになぁれ 第17話「ガトーショコラのち遺影」

前回、たまきは16歳の誕生日を祝ってもらい、人生で一番楽しい誕生日となった……。

で終わらないところが「あしなれ」である。その誕生日パーティの写真が破かれてしまうという事件が発生する。果たして、犯人は誰?

「あしなれ」第17話スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「誕生日の写真? 写真だったら、このまえ渡したじゃねえか」

舞は振り返りざまにそう言った。

「ええ……、まあ……、そうなんですけど……」

志保は少し申し訳なさそうにはにかむ。

十月二十一日に行われたたまきの誕生日パーティ。その時の写真は舞のカメラで撮影し、そのデータは舞のパソコンに入っている。パーティーの翌日、舞はプリントアウトした写真を「城」に持っていったはずだった。

志保が再びその写真をプリントしてくれないかと頼みに来たのは、十一月に入ってからだ。志保は買ったばかりのベージュのコートと赤いマフラーに身を包んでいた。冬着に身を包むと、志保の細い手足も隠れ、健康そうに見える。

「パーティの次の日に渡した写真の画像しかないぞ? 同じ写真が欲しいのか?」

「……はい」

「前の写真はどうした」

またしても、志保はごまかすように笑う。しかし、そんなはにかみでごまかされる舞ではない。

「別に、お前らを監視したいわけじゃないんだけどさ……」

舞はエンターキーを勢いよくはじくと、パソコンの置かれたデスクから立ち上がった。仕事途中なので、今日はメガネをかけている。

「お前らがあの『シロ』ってキャバクラに勝手に住み着いていることを黙認している身としては、些細なトラブルでも把握しておきたいんだよ。わかるか?」

「……はい」

「一応聞いておくけど、……クスリがらみじゃねぇよな」

「それは違います」

志保はきっぱりと否定する。それを聞いて舞は安心したように微笑んだ。

「別に怒りゃしねぇから。言ってみな」

 

 

十月下旬 今から二週間ほど前

写真はイメージです

「シゴト」から帰った亜美が「城(キャッスル)」へ戻ると、たまきが一人でいた。志保は施設の集会に向かったらしい。

たまきはソファの上に寝転がりながら、本を読んでいた。誕生日プレゼントにもらったゴッホの本である。

雑誌ていどのサイズの本にゴッホの絵が掲載されている。

十六才になって最初の一週間を、たまきはこの本を繰り返し読むことで費やしていた。

見れば見るほど、ゴッホという画家は面白い。そして、知れば知るほど、なんだか自分と重なる。たまきはそんな気がしている。

驚くべきことに、ゴッホはたまきと同じで中学校を途中でやめている。そして美術商の会社に就職する十六歳までの間、何もしていない。たまきと同じように、部屋でごろごろしていたのだろうか。

その後、美術商の会社に勤めるが、7年後にクビになる。その後は父親と同じキリスト教の聖職者になるが、これまたクビになる。そうして本格的に絵を描き始めたのが27歳のころだった。

この頃のゴッホの絵は何というか、暗い。黒を使うことが多く、絵はどこかくすんでいる。こういったところも、たまきはなんだか他人の気がしない。

その後、ゴッホは故郷オランダを離れ、パリへと移る。そこで出会ったのが印象派と浮世絵だった。

特に、印象派の影響が強く、この頃、画風ががらりと変わる。青や白といった色が増え、画風が急に明るくなる。明らかに印象派の影響だろう。

もう一つ、ゴッホに影響を与えたものがある。浮世絵だ。浮世絵を通して日本に強い憧れを抱いたゴッホは、アルルという街に日本の面影を求めて移住する。アルルのどの辺が日本っぽいのかはわからない。移住の理由はそれだけではなく、どうもゴッホは都会になじめなかったらしい。

アルルに移住したゴッホの絵は、今度は黄色くなる。有名なひまわりの連作もこの頃にかかれたものだ。住んでいた家も「黄色い家」というらしい。

だが、同居人のゴーギャンとはケンカ別れをし、自分の耳を切り落とし、挙句の果てにアルルから追い出されるように精神病棟に強制入院となる。退院後もアルルに居場所はなく、サン=レミの療養院へと入院することになった。

療養院に移ってからのゴッホの絵は青くなる。一方、彼は死に魅入られたかのように発作を繰り返す。

そして退院からわずか二か月後にピストル自殺をするのだった。

死ぬ間際の作品として有名なのが「烏の群飛ぶ麦畑」だ。

麦畑の上を無数のカラスがはばたく。空は青空にもみえるし、漆黒の夜空にもみえる。黒、青、黄色、ゴッホが特にこだわってきた色が使われている。

カラスはまるでアルファベットの「M」の字のような形をしている。「線」と言い換えてもい。こんなの、美術の時間に描いたら「ふざけるな」と怒られてしまうだろう。ゴッホの絵は生前は1枚しか売れなかったというから、当時もふざけてると思われていたのかもしれない。

それでも、不思議とカラスにしか見えない。畑も正直な話、子供が黄色い絵の具をこすり付けただけのようにしか見えないが、それでも不思議と麦畑に見える。耳を澄ませば風になびく麦のざわめきの中に、カァカァというカラスの鳴き声が聞こえてきそうだ。仙人の言っていた「直感でやっているのか計算してやっているのかわからない」というのはこういうことを指していたんだろう。

そして、この絵は「極度の孤独」を表現したものらしい。麦畑とカラスのどの辺が孤独なのかよくわからないが、それでも、確かにこの絵からは孤独とか絶望とか死とか、そういったものが伝わってくる。

なんだかどこかでこの絵を見たことがある。そう思ってたまきは眺めていたが、一週間眺めてやっとわかった。

たまきが初めてこの太田ビルに来て亜美と会った日、雨にもかかわらず傘も差さずに歩いてたためメガネのレンズはぬれ、視界はぐにゃぐにゃに曲がっていた。そうだ、あの時に似ているのだ。

最近もどこかで見たと思ったら、「東京大収穫祭」の時に一人ベンチに座って泣いていた時に舞が目の前に立っていた、あの時に似ている。メガネをはずしていたうえ、目はなみだで滲んでいた、あの時に見た景色に。

死ぬ間際のゴッホには世界がこんな風に見えていたのか。ゴッホも泣いていたのかな。

ゴッホという画家はその絵1枚1枚もさることながら、時系列順にその絵を並べてみることで彼の人生そのものを表現している、「ゴッホ」という一つの作品らしい。

死にたがりなところとかどことなく自分に似ている。たまきはゴッホに親近感を沸くと同時に、自分とは違うところもいくつか見つけていた。

ゴッホもコミュニケーションが苦手だったらしいが、たまきのように喋らないのではなく、むしろすぐに人と口論になって嫌われてしまうタイプだったらしい。ゴッホが残した手紙にも、そんな自分に対して自分で嫌気がさしているかのような言葉が目立つ。

それでいて、ゴッホは自画像を多く描いた。

自分が嫌いでしょうがないたまきは自画像なんて描きたいと思わない。ゴッホは実は自分が好きだったのだろうか。

それとも、自分を好きになりたくて自画像を描いていたのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、厨房の方へと移動した。厨房の手前はちょっとしたカウンターになっていて、そこに安っぽい写真立てに収まった、誕生日の日の写真が飾られている。

写っているのは5人。後列は右からミチ、亜美、志保、舞。みな笑顔だ。

写真の中央、4人より少し前にたまきは座っていた。満面の笑み、とまでは行かなかったが、十分笑顔だった。

もし私が……、ふとそんなことを考えたとき、亜美が口を開いた。もちろん、写真の中の亜美ではなく、すぐそばにいる実物のほうの亜美だ。

「誕生日プレゼントを気に行ってもらえたのは嬉しいんだけどさ」

亜美は半ばあきれたように言う。

「お前、ずっとそれ読んで一歩も外出てないだろ」

「……お風呂と洗濯に行きました」

「それだけだろ。とにかく、ここ一週間ほとんど外出してないじゃないか」

と、声を張り上げた。

「そうですね」

「どっか行って遊んできなさい!」

先週もそんな風に言われた気がする。

「おそとに出るのがえらいんですか?」

「……べつにえらかねぇけどさ」

亜美はまだ何か言い足りなさそうにたまきを見ていたが、やがて、ふうっと息を吐くと、あきらめたかのようにたまきの頭を軽く、ポンポンと叩いた。

「ま、無理に外に出して、車道に飛びこんで死なれてもアレだからな」

「……アレってなんですか?」

「……アレはアレだよ」

たまきは怪訝そうに亜美を見上げていたが、やがてぽつりと、

「亜美さんは……、私が死んだら悲しいですか?」

と言った。

「は? そりゃ、カナシイに決まってるだろ。何か月一緒にいると思ってんだ」

「そうですか」

たまきは、亜美ではなく写真立ての方を見ながら、そう返事した。

 

 

十一月上旬 今から一週間ほど前

写真はイメージです

たまきの約十日ぶりの本格的な外出は、駅前の喫茶店に行くことだった。

志保が最近よく足を運ぶ喫茶店があるらしく、そこに行こうと誘われたのだ。

亜美もたまきも最初は断った。亜美は

「喫茶店ってジジイがコーヒー入れてババアがケーキ運んで、おばさんがベチャクチャしゃべりながら飲むところだろ?」

と随分凝り固まったイメージを喫茶店に持っているらしく、行くのを渋った。たまきはたまきで

「お茶なら下のコンビニで買えます……」

とだけ言ってそのまま昼寝しようとしたが、志保が

「友達連れてくって約束しちゃったの!」

と懇願したのだ。

最初にじゃあ行きますと言ったのはたまきの方だった。これまで友達らしい友達がいなかったから、「友達」という言葉を出されると、どうもむげに断れない。

たまきが行くというのを聞いて、だったらウチもと亜美が言い出して、三人で行くことになった。

十一月に入ったばかりの東京の町は、まだ午後二時だというのに空っ風が吹いて寒い。

これからどんどん寒くなっていくのだろう。あと2カ月もすれば、クリスマスに大晦日、お正月と世間が浮かれる1週間がやってくる。

それまで生きてられるかな、と漠然とたまきは考える。

歓楽街を出て大通りを渡ると、駅へと続く大きな歩道だ。色とりどりの看板が、客が来るのを首を長くして待っている。

足音。話し声。車の音。何かの音楽。

この町はシブヤと違って、たまきはあまり場違いな感じがしない。何が違うのかと考えてみたが、4カ月この町にいる、ということしか思い浮かばなかった。

「志保さ、一個聞きたいんだけど」

「なに?」

志保が振り返って、後ろを歩く亜美に返事をした。

「友達連れてくって約束したって言ってたじゃん」

「うん」

「誰と?」

志保の時間が一瞬止まった、ような気がした。

「だ、誰とって?」

「誰とそんな約束したんだよ」

「え……店員さんだけ……ど」

志保は亜美を見ることなく答えた。

「喫茶店の店員とそんな約束するか、フツー?」

「でも、施設行くときとか帰りにいつも寄ってるから、仲良くなっちゃって」

そう答える志保の後姿を、たまきはぼんやりと眺めていた。

喫茶店の店員と仲良くなれるだなんて、たまきには想像がつかない。いったいどうやったらそんなことができるのだろう。

仙人はいろいろとたまきに言ってくれたが、やっぱり志保は「あっち側」の人なんだ、そうあらためて思う。

「いつから通ってんの?」

亜美は振り返らない志保の背中越しに問いかけた。

「え~っと……、8月の半ばくらいかな……」

これは嘘である。本当は店に初めて行ったのは10月の頭、大収穫祭の翌朝である。

おそらくそのことを正直に言ったら亜美は「1か月で喫茶店の店員とそんな仲良くなれんの?」と聞き返してくるだろう。そう考えたら、とっさに嘘をついていた。

「亜美ちゃんってさ……」

志保は振り返ってそう言いかけたが、

「ごめん。やっぱ、なんでもない」

と言って再び前を向いた。

「なんだよ。気になるな。言えよ」

「なんでもないって。あ、ここ、左だから」

志保は袖でそっと額の汗を拭く。「亜美ちゃんってさ、おバカなのに、勘がいいよね」なんて失礼なセリフ、言えるわけがない。

 

写真はイメージです

「シャンゼリゼ」というおしゃれな店名から連想することは人それぞれ違う。

志保は、この看板を見るたびにレコードの時代のおしゃれな音楽が頭の中に流れだす。

一方たまきは、ゴッホもパリにいたころシャンゼリゼ通りを歩いたのかな、なんてことを考える。ゴッホがパリにいたのは確か、絵が青と白だったころだ。

亜美は「シャンゼリゼ」という看板を見たら、カップルのうちの男の方が壁にかけられた変な顔の彫刻の口に手を突っ込む、白黒の映画のシーンが頭に浮かぶ。ちなみに、その映画の舞台がパリではなくローマ、フランスではなくイタリアであることを亜美は知らない。

「シャンゼリゼ」の店内はなんだかレトロな蒸気機関車の座席みたいだ。とはいえ、三人のうちだれも機関車に乗ったことなんてないのだけれど。

「なんだか、ウチの知ってる喫茶店と違うなぁ」

亜美がはきょろきょろと店の中を見渡していたが、やがて興味を失った亀のように首をひっこめた。一方、たまきはふだんの猫背をさらにねこのしっぽのように丸めている。

店内はスーツを着たサラリーマンや、学生らしき若い男女で込み合っていた。曲名も知らないクラシック音楽の上に、食器の音や話し声が、ベートーヴェンの音楽のように流れていく。

「いらっしゃい、志保ちゃん」

ウェイターの青年が水の入ったコップを持って、三人のテーブルにやってきた。長身だがこれといった特徴のない顔をしている。どちらかというと、パーマのかかったもじゃもじゃの髪の方が印象に残る。胸には「田代」と書かれた名札がついている。

田代を見て、志保の顔に笑顔がこぼれる。

「田代さん、こんにちわ」

「……この子たちがこの前言ってた友達?」

「そうそう。こっちが亜美ちゃんで、その隣がたまきちゃん」

「どうも」

亜美が軽くあいさつし、たまきも無言で頭を下げる。

「なんか、二人とも、志保ちゃんと雰囲気ちがうね」

「よく言われる」

志保が笑いながら返す。

「どういう知り合い? 学校?」

「……そうじゃなくて、家が近いんだよね?」

志保は亜美とたまきの方を向く。たまきはどう話を合わせればいいのかわからなかったが、亜美は

「そうそう、家が近くて、昔からよくつるんでんの」

と話を合わせる。

「じゃ、オーダー決まったらまた呼んで」

そういうと田代は厨房の方へと向かって行った。

「なに飲む? あたしはもう決まってるから」

志保はメニュー表を広げて、亜美とたまきの方に渡した。

「酒とかないの?」

「ないよ」

「だろうな」

そう言いながら亜美はメニュー表を覗き込む。

「お、このナポリタンうまそうじゃん」

「え? 食べるの?」

「なんだよ。悪いかよ」

亜美が怪訝な顔をして聞き返す。

「だって、お昼、食べたじゃん」

志保も怪訝な顔をする。

「食えるって、これくらい。飲み物は……コーヒーでいいや」

「たまきちゃんは飲み物どうする?」

「え?」

たまきは戸惑った。飲み物ならすでにお水があるじゃないか。

もしかして、こういった店はたまきの知らない不文律があって、「お水は飲み物のうちに入らない」とか、「お水以外の飲み物を頼まなければいけない」とか、たまきにはわからないルールがあるのかもしれない。

たまきは無言で「リンゴジュース」と書かれた文字を指さした。

「ジュースだけ? ケーキとかは頼む?」

「おい、ナポリタン、食うか?」

二人の問いかけに、たまきは無言で首を横に振った。

「田代さぁん、注文お願いします」

志保の呼びかけに田代がやってくる。

「ミルクティーとガトーショコラとモンブラン」

「うん、いつものやつね」

「それからナポリタンとコーヒーとリンゴジュース」

「ハイ、かしこまりました」

田代は伝票にメニューを記入すると、再び厨房の方へと向かった。ミチがバイトしているラーメン屋のように、大声で注文を叫んだりはしない。

「お前、ケーキ二つも食うのかよ」

「ナポリタン注文した人に言われたくない」

志保は少しむっとしたように答えた。そして、壁の張り紙に目をやった。

そこには「バイト募集」と書かれていた。「女性大歓迎」とも書いてある。そういえば、この店には若い女性の店員がいない。

「今度、この店の面接受けようと思うんだ」

「面接ってバイトの?」

「うん」

志保は張り紙を見ながら答えた。

「いつまでも亜美ちゃんの……稼ぎにお世話になるわけにもいかないじゃない。この前のイベントも無事こなせたし、あたしもバイトしようかなって。まあ、先生に相談してみてだけど」

「ふうん」

亜美は厨房の方に目をやる。

ほどなくして、ナポリタン以外の注文の品が運ばれてきた。ナポリタンはやはり少し時間がかかるようだ。

志保の持つ銀のフォークが黒みを帯びたガトーショコラの中に沈みゆく。濃厚なチョコの香りが志保の鼻孔を刺激する。

「最近はどんな本読んでるの?」

田代は志保のわきに立つと、トレイを片手に話しかけた。

「これ読んでます」

志保はカバンから文庫本を出した。

「ああ、映画になったやつね。見たよ」

「原作読みました?」

「いや、原作はまだ……」

「読んだ方がいいですよ。ヒロインの細かい感情表現がとてもきれいなんです。あ、読み終わったら貸しましょうか?」

そんな話をしているうちにナポリタンが出来上がった。

 

たまきにはわからない。ごく普通のリンゴジュースである。コンビニや自販機で買えるものとそんなに違わない。いや、むしろ自販機のリンゴジュースの方がたまきの舌にあっている気がする。

店内を見渡すと、コーヒーや紅茶だけを注文している客もちらほらいる。

そんなの、わざわざこんなお店に来て飲まなくても、その辺で買って、帰ってゆっくり飲めばいいじゃないか。

それとも、すぐに帰りたがるたまきの方がおかしいのか。亜美が「どっか言って遊んできなさい!」というように、お外へ出たがる方が普通のなのかも。

そんなことを考えていたら、ナポリタンを食べ終わった亜美が口を開いた。

「志保、ウチら、さき帰るから」

亜美も帰りたがることがあるんだなぁと、ぼんやりと亜美のコーヒーカップをのぞきながらたまきは思う。カップにはまだ3分の1ほどコーヒーが残されていた。

あれ? 「ウチら」?

「ほら、たまき、帰るぞ」

そう言って、亜美はたまきの肩をたたく。

「あれ? 帰るの? だったらあたしも」

そう言って志保は立ち上がろうとしたが、

「いや、お前は残ってていいよ。もう一杯紅茶飲んだらどうだ?」

そういうと再びたまきの肩をたたく。

「ほら、たまき」

たまきは何が何だかわからない。

「え……帰るんですか?」

「なに、お前、残ってたいの?」

「いえ……」

帰りたいか帰りたくないかと聞かれれば、帰りたい。

志保は何かを怪しむように亜美を見る。心なしか、顔が紅潮している。

「亜美ちゃんってさ……」

「ん?」

「なんでもない! じゃあ、お言葉に甘えてもう一杯もらおうかな」

「あ、たてかえといて。あとで払うから」

そういうと、亜美はたまきの手をグイッと引っ張って店を出た。たまきも、なんだか無理やり散歩させられてる子犬のような足取りで外へ出る。

 

写真はイメージです

「フツーの味だったな」

亜美が口の周りのトマトソースをなめながら言う。すれ違うトラックのエンジン音が響く。

「……リンゴジュースも普通の味でした」

たまきが亜美の後ろをとぼとぼとついてくる。歩くたびに雑踏の中で黒いニット帽が揺れる。

「あれだったら別に、わざわざ行かなくてもよかったなぁって……。志保さん、なんでわざわざ通ってるのかなって……」

おしゃれ女子の考えていることはわからない。

「ま、そういうことだろ」

亜美は振り返ってにやりと笑う。

「紅茶なんてどこで飲んでも一緒だし、ケーキなんてもっとうまい店この辺だったらいっぱいあるだろ。それでも志保はあの店に通う。そういうことだよ」

「……どういうことなんですか?」

たまきはけげんな顔をして亜美を見つめた。

「いや、あの二人、デキてるだろ」

「……あの二人って?」

「志保とあの店員だよ」

「できてるって何が……?」

しばらくたまきは考えたが、そういうのに疎いたまきでも、流石にわかってきた。

「え? え?」

「まあ、お互い意識している段階っていうのが60パー、もう付き合ってるっていうのが20パー、まあ、どっちかは確実に意識してんだろ」

「なんで? なんでわかるんですか?」

珍しく食いついてくるたまきに気をよくしたのか、亜美は名探偵よろしく語り始める。

「フツーさ、喫茶店の店員と仲良くなるか? どっちかが意識して声かけたか、そうじゃなかったら、実は別の場所で知り合って、ていうのもあるな」

「でも、志保さん、施設行くときはいつもあの店寄るって言ってたから、それで仲良くなったのかも……」

「施設っつったって、毎日行ってるわけじゃねぇだろ。週に2回か3回だろ。それも、あいつの話がホントなら2か月ちょっと通ってるわけだけど、それでも仲良くなるかよ。結構混んでるぜ、あの店」

「確かに……」

「そもそも、志保の話もどこまでほんとかわかんねぇしな」

「え?」

たまきがまたまた驚いたように目を見開く。

「店に行く前にウチが質問したとき、明らかにキョドってたよ、あいつ。どの辺がウソなのかまではわかんねぇけどさ。とにかく、あいつには隠しておきたい何かがある。でもさ、そこにウチラ連れてくんだから、別に後ろめたいことしてるわけじゃねぇ」

「はぁ」

たまきは話についていくのに精いっぱいだ。

「そういうのは大抵オトコがらみだよ。あいつ、読んでる本を店員に見せてただろ。自分はこういうの読んでるって知ってもらいたいんだよ。ウチらが連れてかれたのもその延長。こういう友達がいます~って知ってもらうことで、志保について知ってもらいたいってことよ。だからウチラを連れて行った。でも、恥ずかしいからウチラにほんとのことは言わない。そんでもって、バイトしようかな~、だろ? 客としてじゃ満足できねぇってことよ」

「じゃあ、志保さんは、あの店員さんが……、その……、好きなんですか?」

「たぶんな。そんなはっきり意識してはねぇかもだけどな。そうか、あいつ、ああいうヤサオがタイプか」

「ヤサオ」の意味がたまきにはわからなかった。「野菜みたいな男」という意味だろうか。そういえば、あの店員のもじゃもじゃした髪は、どことなくキャベツっぽい。

それにしても、全然気づかなかった。自分の鈍感さにたまきはショックを通り越して半ばあきれてしまった。

「亜美さんって、おバカだけど、そういうとこ鋭いですよね……」

その言葉に亜美は足を止めた。呆れたように笑っている。

「お前、けっこう、失礼なこと言うな」

「え? ごめんなさい。褒めてるつもりなんですけど……」

「いや、『おバカだけど』は褒めてねーよ」

「でも、私、そういうの全然気づかなかったから、亜美さんすごいなぁって……」

「いや、だから、『おバカだけど』は余計だって。まあ、否定はしねぇけどさ」

そう言いつつも、亜美は笑顔だった。

 

 

十一月中旬 志保が舞の家を訪れる前日

写真はイメージです

志保が「城」で暮らすようになって気づけば4カ月がたっていた。

だいぶ慣れてきたな、志保は自分でもそう感じる。最初こそは異様に距離感の近い同居人と、全然しゃべらない同居人に戸惑うこともあったが、4か月一緒にいると、どう扱えばいいのかもなんとなくわかってくる。

ただ、ビルの5階にある、というのはいつまでたっても慣れない。毎回、階段を上ると息が切れてしまう。

やっぱり体力が落ちてるんだな。骨が浮き出るかのように細い自分の手を見つめながら志保は息を飲み込んだ。

それでも何とか登りきり、ドアの前で呼吸を整える。ビルの影に沈む直前の西日が志保の髪を照らす。

息が整い、志保は「城」へと入った。

「ただいまぁ」

特に返事はない。電気もついていない。

ただ、ドアが開いていたからには、誰かしらいるはずだ。

志保は電気をつけて、奥へと進んでいく。

ソファの上に、黄色い毛布にくるまったたまきがいた。もっとも、頭を向こうに向けているので顔までは見えないが、黒髪と、テーブルの上に置かれたメガネからして、たまきと見て間違いない。

「ただいまぁ」

ともう一度言ってみた。

「……おかえりです」

たまきがか細い声で答える。もしかしたら、さっきも返事をしていて、単に聞き取れなかっただけかもしれない。

「どうしたの。元気ないね」

たまきに向かって何回このセリフを言ったことか。志保にとっては英語で言うところの”How are you?”に相当するあいさつの定型句だ。

「……別に」

これまた、たまきにとってはお決まりの返事である。

だが、心なしかいつもよりも元気がないような気がする。

志保は、カバンをソファの上に置いた。片手には下のコンビニで買った履歴書を持っていて、厨房の手前のカウンターに置こうとする。

履歴書がカウンターに置かれたのと、志保が写真の異変に気づいたのはほぼ同時だった。

先月行われたたまきの誕生日会の写真。たまきたち5人が笑顔で写った写真。

その写真が引き裂かれていた。中央にいるたまきの顔は、真っ二つに裂けている。

「なにこれ?」

志保は息をのみ、目を見開いた。

写真を手に取った志保は、下腹部から何か熱いものが湧きあがってくるのを感じていた。その一方で、手先は熱を失ったかのように震えている。

写真たてに入っていた写真が、勝手に破けるはずがない。誰かが取り出して破かなかったらこんなことにはならない。

たまきがいつもより元気がない理由も、おそらくこれだろう。誰が一体、こんなひどいことを。そして、なんのために。

志保は厨房に入ると、水道水をコップに入れ、一気に飲み干した。

そのタイミングで、再びドアが開く。

「たっだいま~」

亜美ののんきな声が「城」の中にひびた。

「……亜美ちゃん」

志保はいつもよりも低い声を発した。

「これなに?」

志保は二つに裂けてしまった写真を亜美の目の前に付きだす。

亜美はしばらくその写真を見つめていたが、突如、

「はぁ!?」

と声を張り上げた。

「これ、たまきの誕生日会の時の写真だろ? なんで破けてんだよ。たまきのところ、真っ二つじゃねぇか。誰だよ、こんなひどいことするの。たまきがカワイソウじゃんか」

「……白々しい」

志保が、泥棒でも見るかのように亜美をにらむ。

「亜美ちゃんがやったんじゃないの?」

「はぁ!?」

亜美は、さっきよりも語気を強めた。一方、志保は亜美を睨んだままだ。

「イミわかんない。何でウチが写真破かなきゃいけねぇんだよ?」

「たまきちゃんばっかり注目されて、自分が主役じゃなかったのが面白くなかったんでしょ!?」

志保は糾弾するように亜美に詰め寄った。

「は? たまきの誕生日だったんだから、たまきが主役になるのは当たり前だろ? ウチが嫉妬? ばかばかしい。証拠あんのかよ、証拠!」

亜美は、写真をカウンターの上に乱暴に叩きつけると、尋問のように志保を睨みつけた。叩きつけたときの音が「城」の中で反響する。

「だって、あたしじゃないもん。そしたら、亜美ちゃんしかいないでしょ。誕生日の写真、こんなことされて、たまきちゃんがかわいそうだよ! たまきちゃんに謝りなよ!」

「なんだよその理屈。自分じゃないからうちが犯人だって、お前が犯人じゃないって証拠あんのかよ?」

「証拠はないけど……、でも、あたしには動機もないもん。たまきちゃんの写真にあんなことする動機ないもん」

「ハッ、どうだか。隠れてクスリやって、ラリって破いたんじゃないの?」

その言葉に、志保が目を大きく見開いた。少し充血気味だ。

「訂正して、亜美ちゃん」

明らかに言葉に怒りがこもている。

「あたしは7月にみんなに迷惑をかけた一件以来、クスリ一回もやってない! 正直、使っちゃえば楽になるかなって思った日もあった。でも、一回もやってない! 訂正して!」

志保は亜美に詰め寄ると、亜美の肩を強くつかんだ。

「触んじゃねぇよ!」

亜美は志保の手を勢いよく払いのける。

「訂正すんのはてめぇだろ? 何でウチが疑われてんだよ! 濡れ衣もいいとこだろ。ウチが今まで、誰かの写真破ったことあるかよ。てめぇ、前にクスリやって財布盗んでる前科者だろうがよ! てめぇの方こそ、よっぽど怪しいじゃねぇかよ!」

亜美は、志保の肩に手を当て、突き飛ばした。志保がよろけて、壁に背中を強打する。骨がぶつかる鈍い音が「城」の中にこだました。

「いったぁ……」

志保も負けじと、亜美を親の仇かのように睨みつける。

志保はソファの上に置いてあったクッションを手に取ると。亜美に向かって投げつけた。クッションは勢いよく宙を舞うが、亜美が片手で払いのける。

「お、やんのか? お前みたいなガリガリに負けねぇぞ? それとも、とっとと罪を認めて楽になるか?」

「……そんなこと言ったって、そんなこと言ったってあたしじゃないもん!」

志保が叫ぶ。その振動で窓ガラスが震える。

「あたしじゃなかったら、亜美ちゃんしかいないじゃない! 他に誰がいるの!? だったら何? たまきちゃんが自分で破ったとでもい……」

そこまで言って、志保ははっとしたように言葉を止めた。亜美の方も何かに気付いたのか、少し顔色が冷めてきたように見える。

そういえば、もう一人の同居人は、自分で自分の手首を切るような女だ。

それに比べれば、自分の写真を引き裂くぐらい、たぶんなんでもないことだろう。

志保は、カウンターに上に置かれた写真をもう一度見た。

縦に真っ二つに引き裂かれている。たまきの顔は左右に泣き別れだ。

一方で、たまきのすぐ後ろにいた亜美と志保の顔には傷がない。まるで、亜美と志保の間のわずかな隙間をうまく破くように、細心の注意を払ったかのように。

二人はゆっくりと、ソファの上に寝転がっていたまきを見た。

いつの間にかたまきは立ち上がり、二人のすぐそばにいた。小柄な体を小刻みに震わせて、目も少し赤い。

言い争いが収まり、「城」にはかりそめの静寂が訪れた。静寂の中でたまきは幽かに、それでいてはっきりと、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

今にも泣きそうなたまきは、言葉を続ける。

「ちゃんと言わなきゃって思って……、でも、二人とも、声かけられるような雰囲気じゃなくなって……。私、怖くて本当のこと言えなくて……。ごめんなさい……。私が早く本当のことを言えば……」

「本当にこれ、たまきちゃんが破いたの?」

たまきは、うつむいたまま、ゆっくりとうなづいた。

「お前、なんでそんなこと……」

「たまきちゃん、誕生日パーティ、嫌だった? 楽しくなかった?」

志保は腰を落として、たまきに目線を合わせて尋ねた。たまきはぶんぶんとかぶりを横に振った。

「……楽しかったです。嬉しかったです……」

「だったらなんで……」

たまきは、ゆっくりと顔をあげた。

「誕生日の日は、……とても楽しかったです。でも、その時の写真を見るたびに、思うんです。いつか私が死んじゃった時に、こんな写真が残ってたら、あの時はこんなに楽しそうにしてたのに、結局、最期はあんな死に方をしてって、みんな悲しくなると思って……」

まるで自分がどういう死に方をするかわかっている、もしくは決めているかのような言い方だ。

亜美はおもむろに身をかがめ、たまきに目線を合わせると、

「バーカ」

と言ってたまきのメガネをデコピンではじいた。

「いたっ」

「ちょっと亜美ちゃん、メガネは危ないって」

「お騒がせした罰だよ」

亜美は呆れたように笑っている。

「写真があろうがなかろうが、お前が死んだらカナシイに決まってんだろうが、バカ。だいたいな、そんな自分が死んだ後のことなんかどーでもいいんだよ。どうせ自分はいないんだから、そんなんいちいち気にしてんじゃないよ」

そういうと、亜美は破れた写真を手に志保の方を向いた。

「……どうする? 先生に頼めば、写真くらいまた印刷してくれるだろうけど、どうせこいつ、また破るぞ?」

志保は天井の方を見上げてしばらく何か考えていたが、何かを思いついたのか、たまきの方を向いた。

「じゃあさ、こうしようよ。この写真は、たまきちゃんの遺影にしよう?」

「遺影?」

たまきがきょとんとして目で聞き返す。

「いつかたまきちゃんがその……死んじゃったら、この写真を遺影にするの。この子は最期は……結局死んじゃったけど、こんな楽しそうに笑ったこともあったんだよって。ならいいでしょ?」

「遺影……」

たまきはぽつりと同じ言葉を繰り返した。そして、

「悪くないです」

と言って珍しく、たまきにしては本当に珍しく、微笑んだ。

「お前、さっきたまきが言ってたこと、ひっくり返しただけじゃねぇかよ」

亜美が志保のそばに行き、小声でつぶやく。

「そんなもんだって。こういうのは、考え方次第だってば」

志保はそう言って笑った。が、急に真面目な顔つきになった。

「さっきは……ごめんね。根拠もないのに疑って」

「まったくだよ……。まあ、ウチも、言っちゃいけないこと言っちゃったかもなぁって……、思ってます……。すいませんでした……!」

亜美は志保から顔をそらして言った。だから、志保は亜美が顔を少し赤くしていることに気付かなかったし、亜美も志保が亜美のことばを聞いて呆れたように笑っているのを知らない。

「……ごめんなさい。そもそも、私が写真を破らなければこんなことに……」

「お前はもう、この件で謝んな! なんかもう、死ぬまで毎日謝ってそうだから」

亜美はたまきの方を向くと、笑いながらそう言った。

「でも、今思うと……、二人が私のために怒ってくれたのは、ちょっとうれしかったです」

たまきはぽつりとそういったが、その言葉に志保がおかしそうに笑う。

「今の言葉、なんか、魔性の女っぽいね」

「え?」

たまきは意味が分からず、志保の顔を見つめる。

「『やめて! 私のために争わないで!』って言いながら、本心では男子に自分を取り合わせて、優越感に浸る、みたいな」

「お、たまきの中の魔性がついに目覚めたか」

「ち、違います! わざとやったわけじゃないし、そもそも、二人が争っている間は、もうどうしていいかわかんなくて、あとになって少し落ち着いてから、そういえば二人とも、私のために怒ってくれてたんだなぁって思って、けっしてそういう争わせようとか……」

「わかってる、わかってるって。じょうだんだってば」

志保は笑顔で、たまきの方を優しくたたいた。

つづく


次回 第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

シャンゼリゼでバイトをすることになった志保。一方、たまきは自分も何かバイトをしなければと焦り、周りの人に仕事について尋ねていく。

続きはこちら! 半分くらい、ギャグ回です。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」