小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

10月のある日、たまきは「城」を追い出されるように公園にやってくる。どこに行っても馴染めないと仙人に話すたまき。だが、「城」に帰ってきたたまきの身に、思いもよらない事態が待ち受ける!

「あしなれ」第16話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


十月二十一日 午後三時半 曇り

写真はイメージです

秋が深まってきて日に日に気温が下がっている、らしい。

しかし、シブヤに買い物に行って以降、たまきはほとんど「城(キャッスル)」に引きこもっていたので、天気の変化を実感できない。銭湯に行くのもおっくうで、最近は厨房で頭を洗い、体を洗ってている。

今日もやけに明るいピンクのソファの上でごろごろ寝転がって過ごす。昨日もそうだった気がするし、おとといもそうだった気がする。

このまま自分はごろごろ転がったまま死んでいくのだろうか。

たまきは右手首の包帯に触れる。指で少し触れるだけでじんわりとした痛みが手首に走る。

同居人はというと志保は本を読んでいた。依存症のナントカと表紙には書かれている。志保の通っている施設の図書室から借りてきたものらしい。

一方、亜美は何とも退屈そうに携帯電話を眺めていた。あんなに小さな携帯電話の向こうっていったいどんな世界が広がっているのだろうか。

今日もこうしてごろごろして日が暮れていくのだろう。明日もそうだし、明後日もきっとそうなんだろう。

そんな明日なんか、いらない。

ふと、亜美と目があった。亜美は一回、志保の方を見て、それからもう一回たまきを見ると、立ち上がった。

「たまき」

ちょっと強めの言い方だ。

「お前、いつまでごろごろしてるんだ!」

なんだか、心の中を読まれたような気がする。

「毎日毎日ごろごろして、不健康だと思わないのか!」

たまきも不健康だと思う。だが、健康とは長生きしたい人間が求めるものであり、たまきは別に自分が不健康でも気にしない。

「どっか行って遊んできなさい!」

『きなさい』という口調はいつもの亜美とはちょっと違い、なんだかおかしかった。たまきは口元を緩める。

「笑う元気があるなら、遊んできなさい!」

どうして遊ぶことを強要されなければいけないのか。

「行くところなんかないです……」

たまきは寝っころがりながらそう答えた。

「ミチのところにでも行ってくればいいだろ。あいつ、いつも公園にいるんじゃねぇの?」

「私、あの人、きらいです」

そういうとたまきは亜美に背を向けた。

「じゃあ、前言ってたホームレスのおっさんいるだろ、お前の絵をほめてくれた人。そのおっさんのところに遊びにけばいいじゃねぇか」

そういえば、もうひと月ぐらい仙人にあっていない気がする。

どうしてるだろうか。公園に戻っているのだろうか。これから冬になっていくというのに、寒くないのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、テーブルの上に置いてある肩掛け式のカバンを手に取り、黒いニット帽をかぶった。カバンからはスケッチブックがはみ出ている。

「お前、前から思ってたんだけどさ、スケッチブック、入りきれてねぇじゃん」

「……これしか持ってないんで」

そういうと、たまきは玄関で靴を履き、ドアノブを押して出て行った。

「……行ってきます」

「死なずに帰ってこいよー!」

「死ぬ気分じゃないです……」

ドアが閉まり、内側にかけられたネームプレートが揺れる。

ドアが閉まったことを確認すると、亜美は志保の方を振り向いた。

「ちょっと乱暴だったんじゃないの?」

志保が本を傍らに置いて言う。

「ああでもしねぇと、あいつは外に出ないって」

亜美は志保の方に近づいた。

「っていうか、ほんとに大丈夫なんだろうな。あいつ、いつも通り元気ないぞ?」

「大丈夫だよ。ちゃんと、メモ取ってるもん。間違いないよ」

志保はそう言うと立ち上がった。

「じゃ、はじめようか」

 

 

十月二十一日 午後三時四十五分 曇り

写真はイメージです

秋が深まって日に日に寒くなっているというのは、どうやら本当だったらしい。

たまきはとぼとぼと公園に向かう。道沿いには何人かのホームレスが段ボールを砦のように重ねて家を作っている。彼らに気を配るものは誰もいない。

歩道橋を渡って公園に入った。いつの間にか木々は黄色に染まっている。

冷たい空気をかき分けてたまきは公園の奥の方へと進んだ。

半月ほど前はここで大きなイベントをやっていたのだが、今は跡形もない。もしかしたら、あの時の屋台もステージも全部、砂でできていたのかもしれない。

鬱蒼と繁る木々の向こうにたまきは目を凝らした。

青い何かが見えた。たまきは、落ち葉を踏みしめて林の中へと入っていく。

そこには、青いビニールシートに包まれた、ベニヤ板のお化けのような小屋だった。夏に見たものよりは一回り小さいが、「庵」で間違いない。

「久しぶりだね、お嬢ちゃん」

聞きなじみのあるハスキーな声がして、たまきは振り向いた。

ジャンパーを着て、キャップをかぶった仙人がそこにいた。椅子に腰かけている。

たまきは何も言わず、ただ、ぺこりと頭を下げた。

「うん、その帽子は似合っとるな」

仙人はそう言ってほほ笑んだ。

 

 

十月二十一日 午後四時 曇り

 

たまきは、仙人が差し出した椅子に腰かけた。椅子の上から、小さくなった庵を見る。

「なあに、毎年のことだ」

そう言って仙人は笑った。

「毎年毎年作って、少しずつ大きくして、祭りの時期が来たら取り壊しだ。また一からやり直し」

「せっかく作ったのに……」

「仕方はあるまい。わしらはここにいてはいけないのだからな」

風に吹かれた木の葉がはらはらと舞い落ちる。

「それに、居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

そういうと仙人はカップ酒を口に運んだ。

「お嬢ちゃんは祭りには行ったのか?」

「……はい」

「どうだった?」

「……まあ」

仙人はそれ以上、祭りについて聞くことはなかった。

「あの……」

そう言ってたまきはスケッチブックを仙人に差し出した。

「お嬢ちゃんの絵を見せてもらうのも久しぶりだ。どれどれ」

仙人はやさしくも真剣な目つきでスケッチブックをめくる。

「これはシブヤだなぁ」

「この前……、友達と一緒に行ったんです。帰った後で思い出しながら描いたんですけど……」

「なるほどなぁ。お前さんにはこういう風に見えとったかぁ……」

そういうと仙人はたまきにスケッチブックを返した。

「大冒険だったな。そんなに怖かったか」

たまきは仙人の言葉にドキッとした。

「怖かったというか……、その……、私はここにいてはいけないんだなって思って……」

たまきは視線を落として答えた。

「昔から……、どこ行ってもなじめなくて……」

「でも、いっしょにシブヤに行ってくれる友達はいるんだろう?」

たまきは地蔵のように動かなかった。

「……友達になれたのかなって思ってたけど……、二人とも私に似たところがあるのかなって思ってたけど……、でも二人とも、やっぱりあっち側の人で……」

「あっちっていうのはどこだい?」

仙人のハスキーな声が優しく尋ねる。

「……どこと言われても……」

あっちはあっちだ。

「お嬢ちゃん。順番が違うんだよ」

仙人は少し身を乗り出し、優しい口調でたまきに言った。

「友達だと思ってた人が実はあっち側の人だったんじゃない。わしはお嬢ちゃんの友達がどんな人かは知らんが、お嬢ちゃんの話を聞くかぎり、『あっち側』の人なんだろう。あっち側の人だったはずの子たちと、お嬢ちゃんは友達になれたんだ。あっち側だったはずの子にも、お嬢ちゃんに似たところがあったんだ」

「でも……二人は私のことをわかってくれません……。今日だって追い出されるような感じでここに来たし……」

「じゃあ、お嬢ちゃんはその友達二人のことをよくわかっているのかい?」

「それは……」

たまきは言葉に詰まった。

「お嬢ちゃん、ちがうから友達になるんだ。わからないから友達になるんだ」

雑木林は少し薄暗くなってきた。たまきは確認するようにあたりを見渡す。

「……ありがとうございます。少し……すっきりしました。……帰ります」

たまきは立ち上がろうとしたが、仙人はそれを制した。

「おお、ちょっと待て。久しぶりにきたんだ。もう少しゆっくりしていったらどうだ。そうだ、お菓子があるぞ」

そう言って仙人は柿ピーの袋を取り出した。

 

 

十月二十一日 同刻

 

「城」の玄関を開けて舞が入ってきた。

「おっす、やってるな」

「城」の中を見渡して舞が言う。舞が来たことを知ると亜美は作業をやめ、舞の元へと駆け寄った。

「お疲れっす。先生、あれ、持ってきてくれた?」

「ああ」

舞は手に提げた二つのビニール袋を見せた。それは、以前に亜美と志保がシブヤで買った本屋の包みと、それより二回り大きな包みだ。

「なんか悪かったっすね。買ったはいいけど、ここに置いとくわけにはいかなくて」

その言葉を聞いて、舞はきょとんとした目で亜美を見た。

「なんか、はじめてお前の口から、『遠慮』を聞いた気がする」

「エンリョ? ウチ今、『エンリョ』なんて言いましたっけ?」

「ああもういい。忘れろ」

そういうと舞は厨房へと向かった。厨房では志保が作業をしている。

「手伝おうか?」

「あ、お願いします」

そこに再びドアの開く音が聞こえた。

「お疲れっす!」

ミチがギターケースを担いで入ってきた。

「いやぁ、めっきり寒くなりましたね。うわぁ、だいぶ進んでるッすね。なんか手伝いましょうか?」

ミチはギターケースを下ろしながらそう言った。亜美はそんなミチの肩に手を置く。

「いや、ミチ、お前には重要な任務を任せたい」

「なんすか?」

亜美の改まった口調にミチも身構える。

「見張りで外に立ってろ」

「え……外……?」

ミチの脳内でさっき彼自身が言った「めっきり寒くなった」がリフレインを始めた。

 

 

十月二十一日 午後四時四十五分 曇り

 

やっぱり、自分はどこに行っても場違いだとたまきは改めて思う。

たまきの前には幾人かのホームレスがいて酒盛りを始めていた。何人かは見覚えもあるが、それでもどこかいたたまれないような気持ちがぬぐえない。

この公園にいてはいけないホームレスたち。彼らの中でさえ、たまきは場違いだった。

学校に行っても場違いで、家に引きこもっていても場違い。あの家にとって、たまきのようなおかしな子は場違いだったのだ。だからと言って家出をしてみても、やっぱりどこへ行っても場違いらしい。

どこへ行ってもなじめないのなら、死ぬしかないじゃないか。

しかし、死んでそれで終わりならいいけど、万が一死後の世界なんてものがあったらたまったもんじゃない。きっとあの世ですらたまきはなじめないのだろう。たまきみたいな手に負えない悪い子はきっと地獄に落ちるのだろうが、もしも天国に行けたとして、天国になじめないかもしれない。天国でたまき一人、地獄のような日々を送るのだ、きっと。

柿ピーをポリポリつまみながらそんなことを考えていると、隣に座わる仙人が優しく笑った。きっと、たまきがどうせまた暗いことを考えているなんて、見透かされているんだろう。

「お嬢ちゃんは、人より繊細なんだよ」

やっぱり見透かされているようだ。

「だから、普通の人が気にしないようなことを気にして、普通の人が怯えないようなことにおびえてしまう。それはとても息苦しいことだ」

自分が繊細なのかどうか、たまきは自分ではよくわからなかった。でも、仙人の言う「息苦しい」はわかる。

「私は……、『生まれてきてよかった』とか、『生きていてよかった』とか、思ったことありません」

三億個もの精子が卵子を目指し、受精できるのはたったの一個。人は生まれて来ただけで奇跡なのだという。

生まれて来ただけで奇跡だというのなら、たまきはきっと生まれて来ただけで運を使い果たしてしまったに違いない。

そんなたまきを見て仙人はまた優しく笑う。

「まあ、『とても幸せだ』なんて鈍感な奴の言うセリフだからな」

仙人の言葉に、たまきは訝しむように仙人を見る。

「世の中には見たくないもの、都合の悪いものもたくさんただよってる。お前さんみたいな子は繊細だから、そういうものに気付いてしまう。『毎日が楽しくて幸せだ』なんて笑顔で言える奴は、鈍感だからそういうマイナスなものに気付いていないだけさ。本物の幸せは、そういうマイナスなこともちゃんと肌で感じていて、それでも自分は幸せだって言えるときのことを言うのさ」

たまきはよくわからない、といった顔で仙人を見る。

「例えば、お嬢ちゃんの年じゃまだ縁がないだろうが、覚醒剤とかに手を出す奴がいるだろう」

友達がそうです、とはたまきは言えなかった。

「ああいった薬は繊細な人間が鈍感になるのにはもってこいだ。余計なことは忘れて快楽を得られるからな。もっとも、あとあとやってくるマイナスがおぞましいわけだが」

仙人はたまきのメガネの奥の瞳をじっと見据える。

「お前さんもそのうち、そういう幸せではなく、ちゃんとした幸せを感じれる時が来るさ。生まれてよかったとは思えないけど、それでも自分は幸せだってな。それは、マイナスなことに目をつむって感じる薬のような幸せじゃない。マイナスをちゃんと肌で感じて、そのうえで幸せを感じとるんだ。自分にはこんなマイナスがある。でもこんなプラスもあるから幸せだってな。お前さんなら大丈夫。あんなにいい絵が描けるんだから」

気づけば、もう太陽はビルの向こうに沈んでいた。

「さあ、そろそろ暗くなる。おうちへおかえり」

 

 

十月二十一日 午後五時 曇り

写真はイメージです

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、歓楽街に入っていく。たまきの後ろでトラックのけたたましい音が聞こえる。

「そのうち幸せと思える」なんて、仙人も案外とあいまいなことをいうものだ。たまきはそう感じていた。大人が言う「そのうち」や「いつか」なんてやってきたためしがない。

とぼとぼと歩きながら太田ビルが見えてきた。たまきはふと上を見上げる。

太田ビルの階段から見慣れた顔が見えていることに気付いた。ミチだ。まあ、二階のラーメン屋でアルバイトをしているのだから、いても不思議ではない。

たまきは太田ビルの階段を上る。五階まで昇るのはしんどいのだが、この運動が無かったらたまきみたいな子はいよいよ不健康になるのだろう。

ふと、たまきはあることに気付いた。ミチがいたのは二階のラーメン屋ではなく、もっと上の階だった気がする。まあ、どうでもいいことだ。

5階まで登り切り、たまきは「城」のドアをコンコンとノックすると中に入った。

中は真っ暗だった。ただでさえ日当たりが悪いうえ窓は厨房にしかなく、もうこの時間帯は電気を消せば「城」の中は真っ暗だ。

でも、どうして真っ暗なんだろう。今まで、「城」に戻ってきたら誰もいなかったなんてことは一度もなかった。そもそも、たまきは鍵を持っていないのだから、誰かいないと「城」に入れないし、亜美と志保が開けっ放しにして「城」を離れたことも一度もなかった。

たまきはとりあえず靴を脱いだ。頭の中にこの前見た忠犬ハチ公の銅像を思い出して不安になる。

足元を触ると自分のもの以外の靴があることがわかった。誰かがここで靴を脱いで中にいることは間違いない。もしかしたら、また泥棒が入ったのかも。

たまきは不安で胸が締め付けられていた。強盗に襲われるのが怖いのではない。何が起きているのかがわからないのが怖いのだ。たまきは不安げにか細い声を出す。

「亜美さん……? 志保さん……?」

とりあえず、電気をつけよう。そう思ってスイッチを探そうとしたたまきの目に、オレンジの明かりが映った。

暗闇の中で煌々と輝き、はかなげに揺れ、それでもひときわ明るく輝いている。それが何かが燃えている様だと気付いた時、たまきは反射的に火事だと思った。刹那、仙人の言葉が脳内再生される。

「居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

自分が焼け死ぬことよりも、この「城」という場所がなくなることの方がたまきには恐ろしいことのように思えた。

ふと、冷静になり、見えている炎が思ったより大きくないということに気付いた時、急に視界が明るくなった。そして何かの破裂音と火薬の匂い。

ああ、いよいよもって死ねるのか。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

たまきの死への渇望をかき消すかのように、アコースティックギターの音に乗せてミチによく似た男の明るい声が聞こえた。

「はっぴばーすでーとぅーゆー♪」

ギターの伴奏に合わせて何人かの歌声が聞こえる。ほとんどが女性のようだが、さっきのミチのような少年の声も聞こえる。それにしても、この歌、なんの歌だっけ。

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ほとんど同じフレーズを繰り返す。たまきはこの歌が、誰かの誕生日を祝うために世界中で歌われている歌であることに気付いた。とはいえ、歌ったことも、生で誰かが歌うのを聞いたこともないので、気づくのが遅れてしまった。気づくのが遅いと言えば、火事だと思っていたのはろうそくの炎で、それがケーキに刺さったろうそくだということにも気づいた。明るい中で改めてみると、普通に安全なろうそくの火だ。

どうやら、今日は誰かの誕生日らしい。誕生日を祝ってもらえるなんて、何ともうらやましい限りだ。

「ハッピバースデーディアたまきちゃ~ん♪」

唐突に自分の名前が出てきてたまきはパニックになった。

え? わたし? なんで? だって、私の誕生日は十月のにじゅういち……、

あれ?

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ミチがギターをじゃかじゃかとかき鳴らす。たまきは部屋の中を見渡した。ギターを弾くミチ、ケーキの両脇には亜美と志保がいて、みんな笑顔で歌っている。少し離れたところには舞もいて、軽く口ずさむという感じだが、顔には笑みがこぼれている。

「たまきちゃん、お誕生日、おめでと―!!」

パン! という破裂音とともに紙テープが宙を舞った。再び、火薬のにおいが鼻につく。どうやら、さっき聞いた破裂音とにおいもこのクラッカーだったらしい。

たまきは、空が落っこちてきたかのような戸惑った顔をして、不安げに口を開いた。

「今日って、二十一日ですか?」

「そうだよ」

志保が答える。

「十月の?」

「ずっと十月だったぜ」

亜美がそう言って笑う。

「誕生日でしょ、今日?」

「……はい」

たまきは戸惑っているのが恥ずかしそうにうつむきながら答えた。

十月二十一日。それはたまきにとって最大の黒歴史、つまり何を間違えたのかこの世に生まれ落ちてしまったことを記念する日である。

「な、なんで私の誕生日知ってるんですか?」

「亜美ちゃんの誕生日の時、たまきちゃんの誕生日いつなのか聞いたじゃない」

志保が笑いながら答える。

「覚えてくれてたんですか?」

「あの後すぐ手帳にメモったよ」

志保の言葉に、たまきは心臓がひときわ高鳴るのを感じた。

「お前、いつも通り元気ねぇんだもん。ほんとに今日、誕生日なのかと疑ったよ」

「亜美ちゃん、三回ぐらい疑ってたよね。ほんとに今日なのかって」

そんな話を聞きながら、たまきの頭の中にいつかの仙人の言葉がよみがえる。

「誕生日を祝うということは、生まれてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうというメッセージを伝える、ということだ」

ふと、ケーキに目をやると、まだろうそくの火がゆらゆらと燃えている。

「ほら、たまき、お前が吹き消すんだぞ」

亜美が笑いながらたまきの背中をそっと押した。たまきはケーキの前に立つと、少し腰を落として、炎に息を吹きかけた。ふうふうと吹きかけるのだが、16本のろうそくのうち3本の火が消えただけで、あとはたまきの息にゆらりと揺れるだけ。肺活量が足らないらしく、いくら吹きかけても消えやしない。

すると急に亜美が横から顔を出し、一息で10本近く消してしまった。

「あー!」

そう言って声を上げたのは志保だった。

「なんで亜美ちゃんが消しちゃうの!? これ、たまきちゃんのバースデーケーキだよ?」

「こいつにやらせてたらいつまでたってもきえねぇだろ」

「もう……」

そういうと志保は腰をかがめ、残ったろうそくの炎を吹き消した。

「あ……」

今度はたまきが声を上げた。

「お前だって消しちゃったじゃないか」

亜美がそういうと、志保が悪戯っぽく笑った。

ふと、たまきの隣にミチが来る。

「本当はさ、仙人のおっさんも呼ぼうと思ってたんだけどさ」

「仙人て、たまきが言ってたホームレスのおっさんだっけ?」

亜美の言葉にミチがそうそうとうなづく。

「でも、おっさん、『わしのようなフンコロガシが行ったら、お嬢ちゃんの誕生パーティが汚れてしまう』ってどうしても行かないっつって」

ミチは少し低くハスキーな感じで仙人の声を真似した。たいして似てなかったが、真似しようとしていることだけは何となくわかった。

「だから来る代わりに準備ができるまで、たまきちゃんを足止めしてくれるように頼んだんだ」

「じゃあ、今日、遊んでくるように言ったのは……」

「バカ、お前がここにいたら、サプライズパーティの準備ができないだろ?」

たまきは改めて部屋を見渡す。色とりどりの折り紙で飾り付けをしてある。

仙人は今日、たまきが誕生日であることも、誕生日パーティがあることも知っていたのだ。「そのうち幸せと思える」の「そのうち」がすぐ来ることを知っていたのだ。

「じつは、たまきちゃんにプレゼントがありま~す」

志保がそういうと、舞が衣裳部屋から何かの包みを二つ持ってきた。一つは本屋の包み。もう一つはそれより二回り大きな包み。

「みんなでお金出しあったんだよ」

志保が笑顔で言ったが、

「おい、あたしが半分出して、お前ら三人で残り半分だからな」

と舞が付け足した。

「どっち先に渡す?」

「たまきに決めさせようぜ。たまき、どっちがいい?」

舞の問いかけに、たまきは大きい方の包みを指さした。いったい何が入っているのだろうか。

志保から大きい方の包みを手渡される。

「開けてみて」

がさがさと音を立てて、たまきは包みを開けた。

中には布製品が入っていた。灰色の布でできたそれは、リュックサックだった。全体的に洋服を作るのに使いそうな布でできていて、ふにゃっとしている。

たまきは試しに背負ってみた。軽い。

「いつもカバンからスケッチブックが飛び出たまんま外に出てただろ? これなら、スケッチブックも入るぞ」

「……ありがとうございます」

プレゼントそのものよりも、ちゃんと自分のことを見ていてくれていたことの方に、たまきは吐息が熱くなるのを感じた。

「もう一個の方も開けてみて」

志保が本屋の包みを渡す。がさがさと音を立てながら、たまきは中身を取り出した。

案の定、本である。表紙に男の顔が描かれている。油絵だ。

空色の背景に髭の生えた西洋人の男が描かれている。絵筆の後がはっきりとわかる独特のタッチだが、荒々しい画風とは裏腹に、繊細に描かれた男の顔は彼の人間性を深く醸し出している。

その本は「ゴッホコレクション」と題されていた。雑誌ていどの厚さの本で、ぱらぱらとめくるとひまわりの絵だったり、夜景の絵だったり、ゴッホの絵が何枚も収録されていた。

これがゴッホなんだ、とたまきは魅入られたかのようにページをめくる。

「たまきちゃん、絵が好きだし興味あるかな~、と思って」

志保が悪戯っぽく微笑む。

「あ、ありがとうございます」

たまきは一通りページをめくり終えると、4人の方に向いて頭を下げた。そのままうつむきがちにぽつりとしゃべり始める。

「私、生まれてきてよかったとか、生きててよかったとか思ったことないんです。でも、こんな風に祝ってもらえて……」

たまきははっきりと顔を挙げた。

「私、死なないで……よかったです」

たまきの言葉に亜美は明るく笑い、志保はやさしく笑った。

「よかった、喜んでもらえて」

「じゃ、ケーキ食う前に記念写真撮るぞ」

舞がカメラを手にそう言った。

「たまき、お前、今日はちゃんと映れよ。メガネ星人はなしだぜ」

亜美がたまきの肩をバンバンと叩きながら言った。

「今日は……たぶん大丈夫です」

「なんすか、メガネ怪人って?」

ミチが横から口を出す。

ケーキを持って立ったたまきの後ろに、亜美と志保が立つ。たまきの右斜め後ろに志保、左斜め後ろに亜美。志保の隣には舞が立ち、亜美の隣にはミチが立つ。5人は舞が持ってきた三脚の上のカメラを見つめる。

カメラのライトが点滅し、フラッシュが光った。舞はカメラを確認する。

「見てみるか?」

立ち上げたノートパソコンに舞はカメラを繋いだ。写真が画面いっぱいに拡大される。

「たまきちゃん、いい笑顔してるじゃない」

志保が声をあげると、たまきは顔を赤らめた。

「いやぁ、まだ堅いって」

「えー、この前よりいい笑顔じゃん」

「まあ、メガネ星人よりはましだけどさ」

たまきも画面を覗き込む。

……こんな表情、私もできたんだ。

「よし、手作りケーキ食おうぜ! 志保、ケーキ切り分けてよ」

亜美が勢いよく言った。

「えっ! これ、手作りなんですか?」

たまきが驚いたようにケーキを見て、そのあと厨房を見る。いくら何でも、ケーキを焼くような設備なんてあったっけ?

「手作りと言っても、買ってきたスポンジに生クリームぬって、フルーツ乗せただけだよ」

志保が笑いながら傍らのナイフを手に、ケーキを切り分け始める。

「来年はもっと派手にやろうぜ」

亜美が馬鹿みたいに明るく言う。

「ほら、レストランとか言ってさ、よくあるじゃん。お店が急に暗くなって、ケーキが運ばれて、お店みんなで祝うやつ。あれやろうぜ」

「……やめてください。はずかしいです。そうなったら私、逃げます」

たまきが少し目線を落としていった。

 

 

十月二十一日 午後七時 晴れ

バイトがあるから、とミチが「城」を出た。なんだか宴に一区切りがついたかのような雰囲気だ。

ケーキはすっかり平らげられ、テーブルの上には下のコンビニで買ったお菓子やお総菜、ジュースの缶が置かれている。

志保は使い終わった道具を洗い始め、亜美はソファの上にごろごろ転がりながら携帯電話を見ている。洗い物の音を聞きながら、たまきはぼうっとしていた。

私の人生にも、こんなこと、起きるんだな……。

お皿に付いた生クリームを人差し指ですくってぺろりとなめる。舌先に広がる甘い風味の余韻を味わうように息を吸う。

ふと、舞がたまきのすぐ横に腰を下ろした。

「いくつになったんだ、お前」

「……十六です」

「女子の十六つったら、もう結婚できる年だぞ」

「……相手がいません」

たまきが少し笑みを見せる。

「どうだった、今日は」

「たのしかったし……、うれしかったです」

たまきは、そういうと皿に残った生クリームの跡を眺めた。

「そこにパソコンがあるぞ。ネットにつながってる」

舞はテーブルの上のパソコンを指さした。

「ネットに書き込むか? 私はリア充ですって」

「言いません、だれにも」

たまきはやさしく微笑みながら、首を横に振った。

「誰かに言ったら、幸せが逃げちゃう気がするから」

「そうか」

舞は終始笑顔だ。

「でもさ、お前の家族には言ってもいいんじゃないか?」

「え?」

たまきは舞の目を見た。

「まだ、一度も連絡してないんだろ? 心配してるぞ。生きてるってことぐらい教えてやれ」

「……私なんかいなくなったって、どうせ心配なんかしてないです」

「だったら、見せつけてやれよ。あんたらのいないところでそれなりに楽しくやってるって」

たまきはゆっくりと立ち上がると、黒いニット帽をかぶり、もらったばかりのリュックを背負った。さっき、中に財布を入れたばかりだ。

たまきは立ち上がると、玄関のドアを開けた。吊るされたネームプレートが静かに揺れる。

 

十月二十一日 午後七時十分 月夜

写真はイメージです

いつの間にか雲は晴れ、お月様が顔を出している。

夜の歓楽街は多くの人が闊歩している。サラリーマン、学生らしき若者のグループ、客引きなどなど。闇の中でネオンサインが煌々と輝き、むしろ夜の方がきらびやかに感じる。その中を縫うようにたまきはとことこと歩いていく。背中に背負ったグレーのリュックがたまきの歩調に合わせて揺れている。

コンビニの前でたまきは足を止めた。

今どき珍しい、緑の公衆電話がある。誰もが携帯電話を持って当たり前の時代になっても、相変わらずそこにあり続ける。

公衆電話を必要とする人なんて、公衆電話に目を向ける人なんてほとんどいないだろう。

それでも、必要としてくれるほんのわずかな誰かのために、公衆電話はずっとそこにいる。

たまきは受話器を持って十円を入れると、自宅の電話番号を押した。

ぴぴぽ、ぴぽぱぽ。

呼び出し音が鳴るたびに、心臓が少しずつ締め付けられていく。

おそらく、父親はまだ会社のはずだ。高校生の姉も部活でいないだろう。出るとすれば母親だが、最近、お爺ちゃんの介護でたびたび家を空けることがあったから、いないかもしれない。

『ただいま留守にしております。ピーとなったら、ご用件をお願いします』

自宅の留守電音声なんて初めて聞いた。たまきは安堵で胸をなでおろすと、秋空の吐息と一緒にか細い声でしゃべり始めた。

「……私です」

なんだか、オレオレ詐欺みたいな喋り出しになってしまった。

「……とりあえず、生きてます。……十六才になりました。友達に……、祝ってもらいました」

十円で話せる時間には限りがある。たまきは何を言おうかと言葉を詰まらせ、だいぶ時間を使ってしまった。

「まだ……帰らないから」

ぷーっと音が鳴り、通話時間が終わった。

受話器を握りしめたまま、たまきは通りに目をやる。

たまきより少し上の世代の人たちのグループが談笑しながら歩いていく。男女入り乱れ、おしゃれに身を包み、明るく、笑顔で。

笑い声がたまきの耳の奥に響く。

たぶん、たまきは、ああいう風にはなれない。

誕生日を祝ってくれた人が仙人を含めて5人。きっと、ああいう人たちから見れば笑ってしまうくらい少ない数なのだろう。

たまきは友達が少ない。

でも、友達に恵まれている。今、たまきはそう強く感じていた。

それって、もしかしたら幸せなことなのかもしれない。

たまきは公衆電話の受話器をそっと元に戻した。

みんなに必要とされなくなっても、それでも必要としてくれるごくわずかな誰かのために、公衆電話は今日もそこにある。

つづく


次回 第17話「ガトーショコラのち遺影」

たまきの誕生日の写真が破かれるという事件が発生する! こんなひどいことをする犯人はいったい誰だ! まあ、だいたいわかる気もするけど。

犯人はこいつだ!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

オカルト!UFOを妖怪として民俗学してみた

現代のオカルトの代表格と言えるのがUFOだ。今回は、そんなUFOを「現代の妖怪」として、民俗学の立場から分析してみた。空からやってくる現代の妖怪、UFO。日本人と、いや、地球人とUFOのかかわりを民俗学的に分析してみよう。


UFOは存在する!

UFOは、います!

しかし、UFOは宇宙人の乗り物ではない!

どういうことかというと、UFOは「未確認飛行物体」の略称であって、別に宇宙から来たものでなくても、「空を飛んでいたよくわからないもの」をUFOと呼ぶよ、という意味である。

空を飛んでいて、正体が不明ならば、それはもうUFOである。

巷には数多くのUFOの写真や動画が出回っているが、その95%は何かの見間違いか、科学で説明のつく現象であるという。

しかし、それでも5%は何なのかわからない。

これこそがUFOである!

別に宇宙人が乗っていようが、宇宙から来てなかろうが、UFOの定義を十分に満たしている。たとえその正体が風で飛ばされたビニール袋でも、誰にもその正体がばれなければ、それはUFOである。

さて、ここからはみんな大好き、『宇宙人の乗り物』としてのUFOについて見ていこう。

最初のUFO

一体、人類はいつからUFOと遭遇していたのか。

その起源はわからない。へたしたら、人類が初めて空を見上げた日から、人類はUFOと遭遇しているのかもしれない。

一方で、UFOの一般的なイメージである「空飛ぶ円盤」ならば初出がはっきりしている。

それが、ケネス・アーノルド事件である。

1947年アメリカ・ワシントン州。そう、ビッグフットが住むことで有名なワシントン州である(ワシントンD.C.とは別物。高校生の僕はそうとは知らず、ホワイトハウス前で「この辺にビッグフットがいるのか」とあほなことを考えていた)。

ある日、ワシントン州でケネス・アーノルドという人物が昼日中から空を飛んでいた。もちろん、飛行機を操縦して。

すると、正体不明の飛行物体を目撃したのだ!

この目撃談をマスコミは「空飛ぶ円盤」として大々的に報じた。以後、UFO=空飛ぶ円盤というイメージが世界的に定着する。

だが、ここでひとつ残念なお知らせ。

ケネスは実は一言も「空飛ぶ円盤を見た」なんて言っていない。

ケネスが言ったのは「水面をはねるお皿のような飛び方をしていた」であり、形状に関してはむしろ「三日月のような形」と言っていたのだ。ところが、マスコミ発表ではそれが「空飛ぶ円盤」になってしまったのだ。

さて、不思議なことに、UFOに関する伝承はあまり聞かない。古い絵画に空飛ぶ円盤のようなものが書いてある、というパターンはあるが、UFOを見たという昔話はとんと聞かない。目撃談もほとんどが20世紀以降のものなのだ。

江戸時代のUFO

さて、UFOに関する伝承はほとんどないのだが、UFOと言われる絵なら実は日本にも残っている。それが「うつろ舟」と呼ばれるやつだ。

うつろ舟に関する伝承は全国各地に残っている。海岸に見慣れぬ船が流れ着き、その中には異国の人間が乗っていた、という伝承だ。

画像がこちら。

確かに、我々が抱くUFOのイメージによく似ている。

この画像の船は1803年に茨城の海岸に流れ着き、中には異国の女性が乗っていたらしい。

この絵が特に話題なのが、船の中に書かれていたという文字だ。画像の右上にある、記号のようなものがそうだという。

これが宇宙の文字みたいだということで、うつろ舟=UFO=宇宙人の乗り物、などと言われている。

ここで一つ聞きたいのだが、

……誰か「宇宙の文字」の実物を見たことがある、という人がいたら、ぜひ名乗り出てほしい。

そう、「宇宙の文字」の本物を見たことがある地球人は、いない。

誰も「ホンモノ」を見たことがないのに、何をもって「宇宙の文字みたいだ」なのだろうか。

むしろ、これは「今も昔も、日本人が思いつく『まったく見たことない文字』は似たような形である」ことを意味しているのではないだろうか。

さらに言えば、うつろ舟は厳密にはUFOではない。

UFOとは「未確認飛行物体」である。うつろ舟は漂着物であって、飛行物体ではない。うつろ舟が空を飛んでいるところを見た人はいないのだ。

現代のUFO

さて、UFOを妖怪として考えた時、他の妖怪とは決定的に違うことがある。

普通の妖怪は「噂話」として伝えられる。カッパを見たとか、天狗を見たとか、口裂け女に追いかけられたとか、全部噂話、口承文芸だ。

ところが、UFOの場合、「目撃談」もあるのだが、近年では「動画」が主流になっている。

UFOは動画で撮影されている数少ない妖怪の一つともいえる。

そういったUFO動画を見ていると、本当に驚く。

夜、真っ暗な夜空に突如煌々と輝く謎の飛行物体。この映像を見た時は本当に驚いた。

何の必要があって、夜中にピカピカ光っているのか、と。「見つけてくれ」と言わんばかりに。

そもそも、機体の外があんなにピカピカ光ってる意味が分からない。「機内の光が窓から漏れてる」なんてレベルではない。機体の外に明らかに発行体があって、何が目的なのかピカピカ光っているのだ。エネルギーの無駄遣いだと思う。

他にも、UFO動画は不可解なものばっかりだ。

空を飛んでいるのに、どういうわけか真横から光を受けているUFO。ちなみに、映像を見る限り真横に太陽があるようには見えない。いったい、あのUFOは上空で何の光を反射していたというのか。

逆に、真っ赤な夕焼け空に浮かんだ巨大UFOが、全く夕日を反射しない、という不可解な画像も見たことがある。この場合、沈みゆく太陽の方がUFOより下にあるのだから、下からUFOを見上げれば、夕日を反射していないとおかしい。

他にも、飛ぶのにも着陸するのにも、明らかに不向きとしか思えない形状のUFOもある。そこがとがってたるやつとか、どうやって着陸するのだろうか。

いずれにしても、現代の物理学では解明できない、不可解な存在だ。

伝承としてのUFO

さて、先ほども書いたのだが、UFOの目撃談は20世紀以降に集中している。

これまた不可解だ。

人類はほぼ毎日、誰かしら空を見上げている。なのに、UFOを20世紀にはいるまで見なかったというのか。

さらに、飛行機やヘリコプターが登場する前の時代は、空を飛んでいるものは鳥や虫以外は即UFO認定されるはずだ。

にもかかわらず、UFOの伝承は20世紀以降に集中しているのだ。

なぜだろう。

そこで僕は、「UFOの目撃者は飛行機乗りが多い」ということに注目してみた。

特に、ケネス・アーノルドをはじめとする1940~1950年代のUFO目撃者は、飛行機のパイロットに多い。このころからUFOの伝承は数を増す。

飛行機という乗り物は、第一次世界大戦時に大きく発展した。

つまり、UFOは飛行機が空を飛ぶのが当たり前になってきた時代に登場し始めた、ということだ。

思えば、UFOは大体結構でかい。重量もあるはずだ。

そんなものが空を飛ぶ、というのはかつては考えづらいことだった。

空を飛ぶ妖怪は古くからいた。羽を持つ日本の天狗、箒にまたがる西洋の魔女、いずれも、ほとんど身一つで空を飛ぶ。

僕が思い浮かぶ限り、飛行機登場以前で「空を飛べる」とされたもので最も重いのが、太陽の神ヘーリオスの馬車だろう。

ただ、これは誰かが空飛ぶ馬車を目撃したわけではなく、「太陽ってなんで空を飛んでるんだろうね?」「馬車で運んでるんじゃね?」的な発想で飛んでいたんだと思う。「馬車は空を飛べる」と思われていたのではなく、「なぜ太陽は上ったり下りたりするのか」の理由づけとして「神様が馬車で運んでいる」という風に考えられたのだ。

まあ、何が言いたいのかというと、飛行機が登場するまで、「空飛ぶ妖怪」は盛んに考えられても、「空飛ぶ乗り物」はあまり考えられなかったのである。

とはいえ、一部例外はある。岩手県には船が空を飛んだという話がある。竹取物語には月からやってきた「空飛ぶ牛車」が登場する。

だが、一般的には、人間の体一つ飛ぶので精いっぱい。「乗り物クラスの重量のものが空飛ぶわけない」と考えられていたのだ。

ところが、飛行機が「人体よりはるかに重いものでも、空を飛べる」ということを証明してしまった。

そこでようやく、空飛ぶ乗り物、すなわちUFOの伝承が生まれたのだ。

UFOは、人間の科学力が「乗り物でも空を飛べる」というレベルに追い付くまで、ずっと待っていたのだ。

きっと、地球人は、宇宙人に人間の科学力の一歩先を行っていてほしいのだ。人間が空飛ぶ乗り物を自在に操るなら、宇宙人にはどう考えても空を飛びそうにないフォルムの乗り物に乗っていてほしいのだ。反重力とかいう謎の動力で空を飛んでほしいのだ。突然消えるみたいな、物理の法則を完全に無視した飛び方をしてほしいのだ。テレパシーみたいな超心理学的な能力を持っていてほしいのだ。

UFOとは、科学時代の妖怪なのだ。

かつて、河童や天狗は神通力を持っていると思われていた。人間にはない魔術的な力を持っていると考えられていた。タヌキやキツネは人間にはできない「化ける」という行為ができると考えていた。

こういったものが信じられていた時代は、魔術が科学よりも強かった。

やがて科学が発展し、いつしか魔術は迷信として退けられ、科学こそが確かなものとして扱われるようになった。

それでも、人間は「自分たちにない、未知の能力を持つ妖怪」を追い求めた。

それこそがUFOであり、宇宙人なのだ。魔術ではなく科学の時代である現代に現れた、人間よりも優れた科学力を持つ妖怪、それがUFOであり、宇宙人なのだ。噂話ではなく、「動画」という科学技術で記録され、伝えられた妖怪なのだ。

UFOはまさに、科学の子、そんな妖怪なのだ。

飛鳥Ⅱとピースボート、比べちゃいけないと思いつつも比べちゃった

これははっきり言って暴挙である。高級ホテルとビジネスホテルを比べるようなものだ。どっちがビジネスホテルかは言うまでもない。しかし、飛鳥Ⅱの乗客の本を手に入れてしまった。これはピースボートと比較してみたくなるというものだ。というわけで、暴挙と知りつつ、飛鳥Ⅱとピースボートを比べてみた。


飛鳥Ⅱとピースボート、それぞれの基本事項

飛鳥Ⅱ。日本を代表する豪華客船だ。船籍は日本。進水したのは1989年。アラサーだ。

一方、ピースボートだが、実は「ピースボート」という船はない。2012年からは「オーシャンドリーム号」というパナマ船籍の船をチャーターしている。よって今回は、飛鳥Ⅱとオーシャンドリーム号を比較しようという企画だ。

飛鳥Ⅱが5万トン、オーシャンドリーム号が3万5千トン。飛鳥Ⅱの方が断然でかい。

さて、気になるのが値段だ。ピースボートはよく、「ピースボートの一番高い部屋と、飛鳥Ⅱの一番安い部屋が同じ値段」と言っているが、実際のところはどうだろうか。

ピースボートは安い部屋が100万円前後。窓なしの4人部屋だ。

一方、高い部屋は300万円ちょっと。

とあるツアーの食事で、そんな高額な部屋のマダムと相席になったが、そのテーブルは殿上人に出会ったとちょっとした騒ぎだった。

一方、、飛鳥Ⅱの一番安い部屋で世界一周をしようとすると500万円弱。なんてこった。ピースボートの一番高い部屋は、飛鳥Ⅱの一番安い部屋に足元も及ばなかったのだ!

ちなみに、この記事の読者の98%は関係ない話だと思うが、一番高い部屋は1泊20万円。これで地球一周しようとすると、2000万円かかる。お金と度胸のある人は乗ってみるといい。

飛鳥Ⅱとピースボートの共通点

共通点なんてあるのか。「船である」くらいしか共通点はないんじゃなかろうか。

それが、結構、共通点がある。

まず、船内では常にIDカードを携帯し、このIDカードを使って船内では支払いを済ませる。財布は船内では持ち歩かない。

また、「船内新聞」なるものが発行される。船内のイベント情報や寄港地の情報が乗っている新聞だ。もっとも、ピースボートの船内新聞は7割が乗客の有志による手作りだ。

船内新聞を作ってた本人が言うのだから、まず間違いない。

船内にはカルチャースクールも存在する。ピースボートの場合はヨガ教室、太極拳、水彩画教室などがあった。

また、有名人のゲストも乗船する。ピースボートの場合は「水先案内人」と呼ぶのだが。

船内では毎日、企画がたくさんある。そして、飛鳥Ⅱもピースボートも、自分で企画を立ち上げ、主催することができる。

また、船内ではスクリーンを使った映画の上映会も行われている。

ちなみにピースボートではたまに屋外での映画の上映会があった。オープンデッキでゆらゆら揺られながら、「となりのトトロ」を見て埼玉が懐かしくなったものだ。

共通点は船内だけではない。船外では共にオプショナルツアーが行われる。

そして、二つの船の最大の共通点、それは、

老人が多い!

以前、「海の上の老人ホーム?ピースボートの高齢者世代に若造が物申す!」という記事を書いたが、ピースボートの乗客の7~8割は老人だ。

そして、飛鳥Ⅱに至っては、ほぼ全員が老人だそうだ。

なので、たぶんいないと思うが、20~30代で、飛鳥Ⅱに乗れるほどのお金があったとしても、飛鳥Ⅱはお勧めできない。

理由はただ一つ。ほぼ間違いなく、浮く。老人だらけの船に若者が一人乗っていたら、ほぼ間違いなく、浮く。

それだったら、ピースボートに乗る方を進める。ほぼ間違いなく「殿上人」みたいなあだ名がつくだろうが。

飛鳥Ⅱとピースボートの相違点

さて、ではこの二つの船、違うところは値段と大きさだけなのだろうか。

飛鳥Ⅱはどうやら、夕飯が時間制らしい。レストランに一度に集中すると大変なので、人によって夕飯の時間が決まっているようだ。

そう、飛鳥Ⅱの夕食は、レストランなのである。

ピースボートのように、夕飯が牛丼とか、かつ丼食べたさにずらりと行列ができるとか、そんなことはないのだ!(オーシャンドリーム号にもちゃんとしたレストランはあります。コース料理かかつどんか、ピースボートでは好きな方をお選びください)。

そして、飛鳥Ⅱには大浴場がある。船内にちゃんとしたお風呂があるのだ(オーシャンドリームには屋外にジャグジーがある。また、現在のオーシャンドリーム号にはなんと、露天風呂があるらしい)。

そして、飛鳥Ⅱでは毎日違ったタイプの一流のコンサートが開かれる。オーシャンドリームが毎日同じ線愛バンドが小さなライブを開いていることを考えると、えらい差だ。

ちなみに、飛鳥Ⅱに運動会があるのかどうかは確認できていない。

そして、飛鳥Ⅱの部屋には基本、がある!

さて、僕が驚いた飛鳥Ⅱとオーシャンドリーム号の最大の違いがこれだ。

飛鳥Ⅱは毎日午後5時以降はドレスコードが存在する!

ドレスコードってなんだよ!

飛鳥Ⅱではフォーマル・インフォーマル・カジュアルの3つのドレスコードがあり、毎日午後5時以降に発動するらしい。

ざっと調べてみると、カジュアルが普段着、インフォーマルがスーツ、フォーマルがタキシードやドレスだそうだ。

ピースボートでもドレスコードのあるパーティはあったが、船内全体がドレスコードなんていうことはない。

船内全体でドレスコードがあったら、スーツ着るのが嫌でパーティをすっぽかした僕なんか居場所がない。

インフォーマルやフォーマルのドレスコードが発動したら、新日本プロレスのTシャツを着てるやつとか、仮面ライダーのTシャツを着てるやつとか、クロアチアで買ったクロアチア代表ユニフォームを着てるやつとかは、居場所がなくなるのである。

……全部ワシやないか。

飛鳥Ⅱとピースボートを比較した結果

どちらも地球一周ができる船である以上、基本的なところは一緒である。しかし、そこから先、スケール感とでもいうべきだろうか、そういうところは、やはり違うみたいだ。

やっぱり、高級ホテルとビジネスホテルくらいの違いはあるようだ。

参考文献

狭間秀夫『~飛鳥Ⅱの船旅~ 101日間世界一周』牧歌舎 2008年

小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

シブヤを訪れた亜美、志保、たまきの三人。ショップ、プリクラ、ハチ公、ランチ、カラオケとめぐるが、たまきはどうしてもシブヤの町になじむことができない。いや、そもそもたまきはこの世界になじむことができない、場違いな存在なのか。そんなことを考えてしまうお話です。

「あしなれ」シブヤ編、どうぞ!


小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「あ~、かわいい~!」

試着室のカーテンを開けたたまきを見るなり、志保が1オクターブ高い声で叫んだ。この「かわいい」は前にも聞いたことがある。たまきの姉が水族館のクラゲの水槽の前で言っていた「かわいい~」と同じだ。

さながら、たまきもクラゲみたいなものなのだろう。水族館で見るクラゲはさも美しい生き物かのように飾られているが、自然界のクラゲはそこにいるのかいないのかよくわからないくらいぼんやりしていて、何の目的もなさそうにふよふよと漂っている。おまけに無表情だ。それでいて毒針を持っているというのだからタチが悪い。

たまきはカバンの中に入っているカッターナイフを思い出した。クラゲでいうところの毒針に相当するそれは、いつでも速やかにこの世からログアウトするためのたまきのお守りだ。

シブヤへ買い物に行こう、と言い出したのは志保だった。もう1年近く「城(キャッスル)」で暮らす亜美と違い、死ぬつもりで家を出てきたたまきと、トイレで倒れていたのを発見されてそのまま「城」へ転がり込んだ志保には冬服がなかったのだ。亜美はシンジュクで買えばいいと言ったが、志保はどうしてもシブヤがいいと言って譲らなかった。たまきはシンジュクもシブヤも一緒じゃないかと二人の言い争い?を冷めた目で見ていた。

 

シブヤの中でも大通り沿いの象徴的なビルに三人は入った。志保曰く、このビルにはたくさんの「ショップ」が入っているらしい。「お店」ではなく「ショップ」。

館内の中ほどをエスカレーターが貫き、その周りを洋服を売る店ばかりが囲んでいる。冬を前にしてか落ち着いた色の服が多い。鼓膜を打つのは流行っているらしいJ-POP。たまきとしては文房具屋とかのほうが落ち着くのだが、そういったたぐいのものはとんと見当たらない。みんな、そんなに服が欲しいのか。

このビルにとって、たまきは明らかに場違いだ。雪国に夏服で来てしまった、そんな居心地の悪さだ。ビルに入る瞬間は緊張をおぼえた。たまきみたいなおしゃれじゃない子は、屈強でおしゃれなガードマンに「お客様、ちょっと……」と言われて、ビルの外へつまみ出されてしまうのではないだろうか。

志保はお気に入りの店、じゃなかった、ショップがあるらしく、そこへ行くとじっくり30分かけて、自分の冬服を選んだ。顔と体型は変わらないのだからどれを着てもおんなじじゃないかとたまきは思うが、志保には決して同じなんかではないらしく、クリーム色とカーキ色のカーディガンをそれぞれの手にもち、悩んでいた。亜美も服を何着か買い、3人でおそろいのパジャマを買った。

残るはたまきの冬服である。たまきは服にこだわりなどなく、なんなら人に見られたくないと思っている。適当なものを買って終わらせたかったのだが、志保が

「あたしがたまきちゃんの服をコーデしてあげる♡」

と余計なおせっかいを発揮して、現在に至る。

数あるショップのうちの一つにたまきを連れ込むと、ハンガーにぶら下がった色とりどりのセーターを次々と手にとっては、たまきの体に重ねていく。

「ちがうな~」

などと首を傾げてはいるが、なんとも楽しそうだ。きっと、クラゲをライトアップして楽しむ女性というのはこんな感じなんだろう。

最終的に、セーターとベレー帽を手渡されて、たまきは試着室に放り込まれた。

志保に渡されたセーターとベレー帽を身に付けて出てきたところでの志保の「あ~、かわいい~!」である。

たまきは志保の絶叫を聞くとすぐさま試着室のカーテンを閉めて、神話の中の天照大御神のごとく試着室の中へと姿を隠したが、せっかく閉めたカーテンを志保が素早く開けてしまった。

「ほら、くるっと回ってみて」

言われるままにたまきは無表情で、少し辟易しているように見えるかもしれないが、その場でくるりと回った。再び志保が

「ほら~、かわいい~!」

ともだえる。

「やっぱり、たまきちゃんは小柄であどけないから、体のラインが出ないモコモコした服が似合うと思ったんだぁ」

と志保は何ともうっとりした感じでたまきを眺めている。

「でね、たまきちゃんって、暗い色の服ばっかりいつも着てるでしょ。ここは少しイメージを変えてみようと、オレンジを基調にしてみたの」

たまきは振り返ると、改めて鏡で自分を見た。

セーターはオレンジと白の太いスプライト。ベレー帽もオレンジの毛糸で編まれている。

これじゃまるでクマノミだ。

「ちょっとさ、オレンジ、きつすぎない?」

少し後ろで見ていた亜美が口を出す。

「わかってるよ。だからさ、アウターとかでそこを押さえていくんだよ」

志保はロダンの「考える人」みたいなポーズを取りながら答えた。

たまきはもともと来ていた黒っぽい服に着替えると試着室から出てきた。すると今度は亜美がたまきの手を掴んだ。

「ウチに貸してみ。ウチがコーデしてやるよ」

「え……」

たまきは拒否反応を示したが、亜美はたまきの手を引っ張って別のショップへと連れて行った。志保と同じようにハンガーにかかった服をたまきの体に合わせていく。志保同様楽しそうだが、どちらかというと悪だくみをしているような笑顔だ。

十月に入って気温も下がり、亜美の露出もだいぶ減ったが、それでもたまきならば絶対に着ないような服ばかりだ。不安でたまきの額に汗がにじむ。

「よし、これなんてどうだ」

亜美はたまきにジャケットとシャツを渡した。

たまきは不安げに亜美を見たが、亜美はたまきをくるりと回して試着室の方に向かせると、どんと背中を押して試着室に押し込み、何か言いたげなたまきを無視してその扉を閉めた。

二分ほどして出てきたたまきは、血のように真っ赤なシャツに黒いジャケットを羽織っていた。シャツはたまきの体にぴたりとまとわりつき、凹凸をはっきりさせている。ジャケットにはジャラジャラとシルバーの鎖がついている。

なんだかマグロの切り身みたい。鏡に映った自分を見ながらたまきはそう思った。

「え~、たまきちゃんの良さ、残ってないじゃん」

志保は明らかに不満げだ。

「何言ってんだよ。これくらいのイメチェンしないと、こいつはいつまでもうじうじしたままだって」

「ちがうよ。もっと、たまきちゃんの良さを生かしたうえで、イメチェンしてくんだよ。これじゃ、丸っきり亜美ちゃんじゃん。ほら、料理する時も、素材の味を生かさなきゃダメでしょ?」

「ウチ、料理しないもん」

言い争う二人に割って入るようにたまきはおずおずと口を開いた。

「あの……、やっぱり私、こういうのは似合わないかなって……」

たまきの言葉に亜美はじっとたまきを見ていたが、

「やっぱ、メガネがよくないな」

というとたまきにすっと近づき、さっとメガネをはずしてしまった。

「あっ……」

視界が一気にぼやけるとともに、街中に全裸で放り出されたかのような感覚に陥る。もちろん、そんな経験などないのだが。

メガネを取り返そうにも、亜美がどこにいるかわからない。なにしろ、そこかしこに亜美みたいな服が並んでいるのだ。

だが、志保が亜美からメガネを奪い取ると、たまきの目にそっと戻した。

「だーめ。たまきちゃんはメガネが似合うんだから、かけてた方がいいって」

たまきはメガネに指を添えて、ズレを直す。逃げ込むようにたまきは試着室へと入った。

「だいたい、亜美ちゃんは自分の趣味を押し付けすぎなんだよ。これじゃあ、まるでたまきちゃんじゃなくて亜美ちゃんだもん。プチ亜美ちゃん」

「なんだよ、そのプチトマトみたいな言い方は」

「あのシャツの赤は、趣味の悪いプチトマトみたいだったけど」

「お前の方こそ、オレンジにタルタルソースかけたみたいだったじゃねーか」

二人が言い争う中、元のほぼ黒一色の服に身をまとったたまきが出てきた。若干よろけながら店、ではなくショップの外へ出て行く姿は、食卓の上を転がる黒豆のようだ。

「たまき、お前はどういうのがいいんだよ」

「私は……」

たまきは不安げにあたりを見渡すと、目に入ったショップに駆け込んだ。そこで売られていた黒いニット帽を手に取り、

「……こういうのがいいです」

と少し自信なさげに言った。

「お前、また黒かよ」

亜美が少し呆れ気味に言った。

 

写真はイメージです

結局、黒い色の多いいつものコーディネートをたまきは購入し、三人はビルを出た。たまきの頭にはかったばかりの黒いニット帽が耳まですっぽりとかぶさっている。

ビルの外を色とりどりの服を着た人がたくさん歩いている。秋が深まるにつれて服の色は暖色が増えてくる。街行く人は、シンジュクよりも若い人が多い印象だ。

三人は細い路地を歩いている。たまきは二人の背中を追うように、とぼとぼとついていく。

大通りに出て通り沿いに歩くと、白いきれいなビルがある。そのビルの一階を指さして志保が言った。

「せっかくだからさ、あそこでプリクラ撮ってかない?」

「お、いいね~。いこうぜ」

「え……」

またしてもたまきは何か言いたげだったが、亜美に強く腕を引っ張られて、言葉を飲み込んでしまった。

 

プリクラ専門店と銘打ったその店は、白とピンクがほとんどの色を占めていて、秋口だというのにここだけ春のままのようだ。専門店というだけあって、たくさんのプリクラを撮る機械で占められている。

とはいえ機械そのものが見えているわけではなく、機械全体を大きな垂れ幕が覆っていて、どの垂れ幕にもモデルらしき茶髪の美女の写真が描かれている。

さながら無数の巨大な顔が立ち並んでいる状況だ。二次元のはずのそれから目線を感じ、たまきは下を向かずにはいられない。

「おい、コスプレ用の衣装なんてのもあるぜ」

亜美が指さしたが、たまきは反射的に反対方向を向いた。さっきのようにまた着せ替え人形みたいにされたらたまったもんじゃない。

一方、志保は真剣な顔をして、機械を見比べていた。たまきから見るとどれも一緒のような気がするが、何か違いがあるのかもしれない。

「これにしようよ。いろいろ盛れるみたいだよ?」

……何が漏れるのだろう。そんなたまきの疑問を置き去りに、志保と亜美は垂れ幕の向こう側へと入っていく。たまきは少しそこに立ち尽くしていたが、不意に垂れ幕の向こうから細い志保の腕がすっと出てきて、たまきの手首をつかんだ。

「ほら、たまきちゃんも入って」

言われるがままにたまきも垂れ幕の向こうへと入る。

垂れ幕の向こうはまるで宇宙船のコックピットのようだ。

正面にはモニターがあり、その上にカメラのレンズなのだろうか、穴のようなものがある。何となく、たまきは写真館みたいに古いカメラが置いてあるのをイメージしていたため、自分の世間知らずさに少し恥ずかしくなった。

「亜美ちゃん、なんかこうしたい、とかある?」

「プリクラなんて中学以来だもん。ウチがやってた頃よりも、いろいろバージョンアップしてるんじゃねぇの? わかんないよ。志保に任せる」

「オッケー」

志保はモニターをいじっている。

「目元とか盛っとこうか。胸は……盛れないか」

志保が冗談なのかわりと本音なのかよくわからないことを言う。

「立ち位置とかどうしようか」

志保の後ろから亜美が声をかける。

「たまきちゃんが真ん中がいいんじゃない?」

「え?」

志保の提案にたまきが戸惑いの声を上げた。

「な、なんで私が真ん中に……」

「いや、身長的に、その方がバランスとれるかなぁって」

確かに、亜美と志保の身長はほとんど変わらず、一方でたまきは二人よりちょっと小さい。

『レンズの中央を見てください』

モニターがそうしゃべった。

「ほら、たまきちゃん、真ん中」

志保はたまきの右側に立つと、たまきの両肩を掴んでレンズの正面に立たせた。その左側には亜美が立つ。

『5秒前』

たまきは不安そうに志保を見ていたが、

「ほおらぁ、たまきちゃん、前」

と志保は今度はたまきの両頬を手で挟んで、前を向かせた。

もはや逃げ場はない。さながら、まな板の上の鯉だ。いや、まな板の上のクラゲ。

『3・2・1』

パシャッという音が聞こえる少し前にたまきはニット帽を思い切り下に引っ張った。

 

亜美は仕上がったプリクラを見て爆笑していた。

写真の両脇に亜美と志保がたっている。それぞれ目元はいつもより大きく、瞳はやけに光を反射している。色もやけに白っぽく、どこかマネキンのような質感だ。それぞれ、志保の字で「あみ」「しほ」と名前が書かれている。

その真ん中にたまきが移っている。いや、かろうじて「たまき」と名前が書いてあるからたまきだとわかるだけで、顔はほとんど映っていない。口元を残して上は黒いニット帽にすっぽりと覆われている。

その際、ニット帽かたまきの手がメガネに当たり、ずり落ちた。たまきの記憶では、あごにメガネがふれた、そんな感覚が残っている。しかし、つるがニット帽に挟まれていたため、完全に落ちることはなく、そこで静止していた。それが、カウントダウンの「1」という声が聞こえたタイミングだった。

そして、たまきは反射的にメガネを手に取り、かけ直した。間違えてニット帽の上から。あ、っと思ったタイミングでパシャリと音がした。

その結果、黒いニット帽で顔をすっぽりと覆い、その上に黒縁メガネをかけているというシュールな写真ができあがった。

しかも、メガネがプリクラのフラッシュを反射してしまい、そこだけ白く光っている。口は映っているので、顔に見えないこともない。むしろ、別の何かの顔に見える。

亜美は「メガネ星人捕獲!」とタイトルをつけてゲラゲラ笑っていた。

「たまきちゃん、プリクラ、嫌だった?」

志保は少し腰を落として、たまきと同じ目線になるようにして言った。

「写真は……苦手です」

「どうして?」

「……上手く笑えないし……」

「そっか……」

志保はなにか悪いことをしてしまったかのような顔をした。そんな顔をされると、こっちこそ何か悪いことをしたような気分になる。

 

写真はイメージです

「よし、ここでいったん、解散しようぜ」

店を出て少し歩き、渋谷の街のメインストリートに出たときに、亜美がそう言った。

「かいさん?」

亜美の言葉にたまきが首をかしげる。

「それぞれ、買いたいものとかあんだろ。昼飯にはまだ早いし、ここでいったん解散しようぜ」

「集合場所はハチ公でいいよね。何時に集合する?」

志保は腕時計を見ながら言った。現在、十時半だ。

「十一時半にハチ公集合。それじゃ」

そういうと、亜美と志保はもう既に行く店が決まっているかのように歩き出した。

たまきが一人、ぽつんと取り残された。いや、あたりは人だらけで、ぽつんと一人だけそこに残っているわけではないのだが、立ち止まっていると自分だけ時間が止まってしまったかのようだ。

さっきまで亜美と志保と一緒だったのに、急に一人になってしまった。自分だけ白黒になってしまったようで、なんだか心にぽっかり穴が開いたようだ。

たまきは行く当てもなく、仕方なく駅の方へと向かってとぼとぼと歩きだした。

1,2分もしないうちに大きな交差点へとたどり着く。タイヤと地面の擦れる音が地響きのようだ。

ふと、周りの人たちを見渡す。

恋人同士、数人のともだちグループ、小さい子を連れた家族連れ。みんな誰かと一緒にいる。一人ぼっちの人を見つけたかと思えば、携帯電話で誰かと電話していた。

東京のど真ん中の、いちばん人が集まる交差点で、たまきだけ、一人ぼっち。

ちがうの。今日は友達ときたの。私は一人ぼっちなんじゃないの。たまきは交差点に向かってそう叫びたくなった。

数日前の舞の言葉を思い出す。

「だってさみしかったんだもんよ」

信号が青になり、たまきはスクランブル交差点を渡る。交差点の向こうには女優さんが写った看板や、アイドルの歌を世伝する看板があり、実にカラフルだ。

目の前に人の影が迫ってきたり、横切ったり、背後から急に出てきたり。それらにいちいち怯えながらも、たまきは交差点を渡る。

ふと、たまきは「ガリバー旅行記」を思い出していた。漂流していたガリバーが目覚めると小人の国に流れ着いて、地面に固定されていた、というのは有名な話である。そんなガリバーが次に訪れた国は確か、巨人の国だった。

交差点を渡りきっても、そこはたまきにとってはまだまだ巨人の国だった。「場違い」、そんな言葉が頭から離れない。まるで町全体に拒絶されているかのようだ。

こんな思いは学校に通っていた時からずっとだった気がするし、家に引きこもっていた時も感じていた気がする。つい最近、お祭りに行ったときにも強く感じた。

要するに、生まれてからずっと、たまきは場違いなのだ。

たまきみたいな人間が生まれてきたこと自体がこの世界にとって場違いなのだ。どうして自分なんか生まれてきたんだろう。

ふと、たまきの左目に交番が映った。いつもは前髪で隠している左目だが、ニット帽をかぶっているときは不思議と出していても平気だ。

制服のお巡りさんが立っているのが映って、たまきは足早にそこから遠のく。小柄なたまきは中学生に間違えられることもある。そうでなくても家出中の身。声をかけられたら面倒だ。

やっぱり、たまきのような存在は、この町にとって、この社会にとって場違いなのだ。

 

写真はハチ公です

騒々しい人の声と音楽の間を縫って進むと、たまきの目の前に、犬のような形をした銅が現れた。台座には「忠犬ハチ公」と彫られている。

銅像は台座を含めるとたまきの身長より高く、犬はまっすぐ正面を向いていたが、なんだか不思議とたまきは銅像と目があったような気がした。

「さみしいよ……」

誰に聞こえるでもないボリュームで、たまきはそうつぶやいた。

頭の中で舞の言葉が響く。

「もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

なんだか、ハチ公がそう言っているような気がした。

ハチ公の物語はなんとなくしか知らない。昔、この場所で飼い主を犬が待っていたが、飼い主は病気か何かで死んでしまって帰ってこず、犬は死ぬまでその場で待ち続けた、そんな話だったような気がする。

「忠犬」の泣ける物語として語り継がれているが、そうじゃないような気もする。

この犬はきっと、さみしかったんじゃないだろうか。一人ぼっちがさみしいから、飼い主が帰ってくるのをずっと待っていた。たとえその飼い主のことを、そこまで好きじゃなかったとしても。犬にとって場違いな人間の世界で、飼い主しか居場所がないのだから。

たまきはもう一度銅像を見上げた。やっぱり、目が合ったような気がする。

銅像の周りはベンチのように鉄の棒が半円を描いている。たまきはそこに腰かけた。

もしもこのまま亜美も志保も来なかったら、そんなはずはないのだが、ついついそんなことを考える。

それでもきっと、たまきはここで待ち続けてるのだろう。誰かがこっちにおいでと言っても、待ち続けてるのだろう。だって、知らない人は怖いから。

そうして死んで行ったら、「忠犬たま公」とでも呼ばれて銅像でも建てられるのだろうか。「たま公」なんて、どちらかというとネコみたいな名前だ。でも、銅像が作られてじろじろ見られるのは嫌だな。

 

空が落ちてくるんじゃないかと心配することを「杞憂」という。たまきのくだらない心配も杞憂に終わり、まず最初に志保が、次に亜美が待ち合わせ場所にやってきた。志保の手には本屋のの名前が書かれたビニールがぶら下がっていて、亜美はそれより二回りも大きなビニールを持っていた。ビニールは色がついていて、二人が何を買ったかまではわからない。

「たまきちゃんはどこか行ったの?」

「……まあ」

これ以上かわいそうな子だと思われたくなくて、たまきは適当な言葉でごまかす。

「じゃ、メシにしようぜ」

「あ、あたし、美味しいとこ知ってるよ」

 

写真はイメージです

志保が案内してくれたのは、スパゲッティのお店だった。

「ここのパスタ、とってもおいしいんだよ」

パスタとスパゲッティはどう違うのだろうか。そんなことを考えながらたまきは席に付いた。

亜美と志保が向かい合うように座る。たまきは、志保の左隣に座った。亜美の右隣に座ってしまうと、亜美の右腕とたまきの左腕が食事の時にぶつかってしまう。

注文を終えて料理が来るのを待つ。他のテーブルで食器と食器がカチカチとぶつかる音が聞こえる。

「こんな店、誰と来たんだよ」

「……モトカレ」

亜美の問いかけに、志保は少し淡白に答えた。

「それにしても、けっこう買っちゃったね」

志保は話題をずらすかのように、亜美の隣の席を見た。今日一日の買い物が置かれ、まるでもう一人いるかのように存在感を放つ。

「車でもあれば便利なのにね」

「え~、駐車場探すのめんどくさいじゃん」

亜美が不服そうに口をとがらせる。

「……その前に私たち、免許ないじゃないですか」

「いや、ウチは持ってるぞ、メンキョ」

「え!」

亜美の言葉に二人の視線は一気に亜美へと集中した。

「なんだよ。高校辞めてヒマだったし、教習所なら親も金出してくれるっていうし、ウチの地元、車あった方が便利だし……、そんなにおかしいか?」

「だって、ねぇ……」

志保がたまきの方を見る。たまきも志保を見る。

「なんか、スピード出して事故を起こしそうなイメージが……」

「大丈夫だよ。うちの近所、畑ばっかりだから人いないし、ミスっても畑に突っ込むだけだから」

「スピードは出すんだ……」

志保が呆れたところで、注文したパスタがやってきた。

 

スパゲッティはフォークに巻いて食べなければいけないなんて、だれが決めたんだろう。そう思ってはみたものの、ついついフォークに巻きつけたくなってしまう。

「この後、どうする?」

志保がパスタをくるくる巻きながら言う。

「え、カラオケ行くんじゃねぇの?」

「食べてすぐ行く感じ?」

「うん」

「了解」

志保と亜美のやり取りをたまきは巨人の国に迷い込んだガリバーの気分で見ている。

やっぱり二人はこの町に似合う人間なのだ。二人のやり取りはどこか、不文律とでもいうべき、言外の共通理解があるように感じられる。その不文律はこの街の空気に書いてあって、この町の人間じゃないと、この町に溶け込める人間じゃないと、その不文律を読むことができないのだ。

「でも、こんなふうに3人で遊ぶって初めてだねぇ」

志保があさりを口に運びながら言う。

「いつか、3人で旅行に行きたいね」

「いいね、それ」

亜美と志保が盛り上がるなか、たまきは下を向いた。

「レンタカーとか借りようぜ」

「……法定速度、守ってくださいね」

たまきが少し顔をあげて言う。

「大丈夫だって。ちゃんと、制限速度ぐらいのスピードで走るから」

「ぐらい」は若干、制限速度を越えているのではないだろうか。いったい、亜美はどこの教習所に通って、どんな講習を受けていたのだろう。

「それでさ、首都高ぶっとばして、千葉に行くんだ」

「なんで千葉なんですか?」

「千葉に何があるの?」

志保とたまきは少し身を乗り出して尋ねた。

「バカ、千葉には太陽があるんだぜ」

亜美は急にロードムービーみたいなことを言い出した。

「夜中に歓楽街をぬけ出して、朝日めがけて車を飛ばすんだ。海に出れれば一番だけど、まあ、出れなかったらそん時はそん時だ。そこで朝日を見ながら、『バカヤロー!』って叫ぶんだ」

「……亜美さん、そういうの好きですね」

たまきはパスタをくるくるしながら言った。

「リスカとかクスリとか……、いろいろ忘れてさ、サイコーの明日を迎えようぜ」

「亜美ちゃん……、酔ってる?」

志保は念のため、亜美のグラスの中身を確認したが、甘そうなメロンソーダがあるだけだった。

 

写真はイメージです

食事が終わり、カラオケ屋へ向かってセンター街を歩いていく。

途中にもカラオケ屋があったが、志保が会員カードを持っている店が別にあるらしく、その店へ向かって歩いていく。

道の端っこを歩きながら先頭を志保、その後ろを亜美が歩き、一番後ろをたまきがとぼとぼとついていく。

突然、志保が短い悲鳴を上げた。次に声を挙げたのは亜美だった。

「ネズミだ!」

志保の足元から亜美の足元へと、灰色の小さなネズミが駆け抜けていった。たまきはよけようと道のさらに端に身を寄せたが、ネズミは急に方向転換して、道の真ん中へと走っていく。

ネズミを目で追うと、視界にトラックが入ってきた。

「あ……!」

ほんの一瞬、ネズミとトラックのタイヤが重なった。

次の瞬間には、さっきまで活発に走っていたネズミがアスファルトに横たわっていた。ピンクの何かがネズミの体からこぼれていた。

特に何か音がしたわけでもなかった。ネズミの頭がい骨や内臓が潰れた音も聞こえなかったし、ネズミは断末魔一つ上げなかった。もしかしたらトラックに最期まで気づかなかったのかもしれない。

聞こえてくるのはトラックの走り去る音と、志保の「やだ……!」という小さな悲鳴と、亜美の「うわっ……」というため息にも似た声だった。

 

写真はイメージです

「あ~、やなもん見ちゃった……」

カラオケ屋でエレベーターが来るのを待っていると、志保が堰を切ったように言った。何か話さずにはいられない、そんな感じだ。

「まあさ、飯食う前じゃなくてよかったじゃん」

と亜美。

「そうだけどさ……」

「そんな珍しくもないじゃん。よくカエルとか、轢かれて潰れて転がってるじゃん」

「それは轢かれた後のやつでしょ? あたしたち、ちょうど轢かれるところ見ちゃったんだよ?」

「まあ、後味悪いけど、ウチはそれより、東京にネズミがいたことに驚いたよ」

「そう? たまに見るよ。シブヤでネズミ。……もう、この話はおしまい! カラオケで忘れよ?」

エレベーターが昇っていく。ガラス張りになっていて、上に上がるごとにシブヤの町の一角がよく見える。

さっきのネズミ、走らなければ轢かれて死ぬこともなかったのに……。たまきはぼんやりと考える。

きっとネズミにとっても、このシブヤは場違いな町だったのかもしれない。その違和感に耐えきれずに、逃げようとして走り出したら、この町どころかこの世からおさらばする羽目になってしまったのだろう。

 

ショップ、プリクラ、スクランブル交差点、ランチ、どれもたまきにとって場違いな場所だったが、カラオケの個室が一番場違いだと強く感じてしまう。

ドアをくぐると薄暗い部屋にテーブルを囲む形でソファーがあり、大きな画面からは最新のミュージックビデオが流れている。

三人はじゃんけんで順番を決めた。志保がドリンクバーで三人分の飲み物を持ってくると、一番手の亜美が曲を入力した。

画面に曲のタイトルが出てきた。やけに画数の多い女性歌手の曲だ。

「亜美ちゃん、こういうの好きなんだ。もっと、ヒップホップ系かと思ってた」

「そういうのも聞くけど、ロックも好きだぜ。特にこの人の曲は、かっけぇし、歌詞もいいんだ」

画面が切り替わり、カラオケ映像が始まった。出だしはBGMが無く、若干のリズム音が流れた後、ほぼアカペラの状態で亜美はマイクに口づけするかのように歌い出した。

そのままひずんだギターと軽快なドラムとベースのロックサウンドが流れ、亜美は歌う。その歌声は地声より少し低く、力強く、それでいてどこか往年の歌謡曲スターのような妖艶さを兼ね備えている。

と、筆舌を尽くしてみたが、簡単に言えば、うまいのである。

アウトロに合わせて亜美がスキャットをして終わった。志保とたまきは、食べ散らかしたポテチの袋のようにぽかんと口を開けていた。

「ん? どした?」

亜美もぽかんとして尋ねる。

「亜美ちゃん、……上手い。……意外」

志保が半分放心したかのように言った。

「意外、は余計だろ」

「バンドとかやらないの?」

「ヤだよ、めんどくせ―」

そういうと、亜美はマイクをたまきの前に置いた。

「あれ、お前、曲入れてねぇの?」

亜美が不思議そうに画面を見る。画面の中ではどこかのアイドルグループのインタビューが流れている。

「あ、今いれます」

亜美の歌が意外にもうまく、自分の曲を入れるのを忘れていた。たまきは慣れない手つきでリモコンを操作する。

……何を歌えばいいんだろう。ヒット曲なんて全然知らない。かといって「おもちゃのチャチャチャ」でも歌おうものなら、バカにされるに決まってる。

たまきはかろうじて知っている曲を入力した。

「これ、何の曲?」

案の定、志保が聞いてきた。

「……深夜にやってたアニメの歌です」

「たまきちゃん、深夜アニメなんか見るんだ」

「……家族がいないときにしかテレビ見てなかったので……」

何かの冒険の始まりを告げるかのように、ピアノの旋律が鳴り響いた。たまきはマイクを両手でつかむと、口元に運んだ。

小さく息をすって歌い始める。

人前で歌うなんて、たぶん初めてだ。恥ずかしくて消え入りそうになりながら、たまきは必死に文字を追って歌っていく。自分でももうちょっと声を張った方がいいんじゃないかと思うけどこれ以上なんて出せやしないし、音程なんて取れてるのかどうかわかりやしない。

何とか曲終わりにまでたどり着けた。たまきはうつむいたままマイクを志保へと渡す。

「かわいい歌い方だね」

志保はそう言ってほほ笑んだ。またクラゲのかわいいだろうか。

「なんか、透き通るような歌声で、あたしはそういうの好きだよ」

「音とか外れてなかったでしょうか……」

「いや、大丈夫じゃね?」

亜美がソファに片足を乗っけながら答える。

「声ちっさいからたまに聞き取れねぇ所あるけど、無理して張り上げたほうが逆に音外すかもな。うん、あれでいんじゃね?」

たぶん、亜美ほどうまくはないけど、合格点なのだろう。たまきはそう解釈した。

「あたし、大丈夫かなぁ。歌、あまり得意じゃないんだよねぇ」

志保はそういうとマイクを手に取った。画面には、たまきでもかろうじて知っている女性歌手の名前が出ている。

ピアノのイントロが流れた。さっきたまきが歌った曲よりも重苦しい感じだ。志保は右手に握ったマイクを口に近づける。若干痩せているのが気になるが、その姿はなかなか様になっている。

曲はいきなりサビから始まる構成である。志保の声がマイクに乗ってスピーカーから拡張される。その歌詞は、流行りの音楽に疎いたまきでも何となく聞いたことのあるものだった。

そのまま間奏を経てAメロ、そしてBメロへと続く。

亜美とたまきは、思わず顔を見合わせた。

さっきから、音符がほとんど合っていない。

半音、ひどい時は二音、高かったり低かったり、何かしらずれている。

つまりは、本人の申告通り、志保は歌があまり得意ではない。いや、「あまり」という副詞は余計か。

それでも本人は気持ちよさそうに歌っている。英語の部分の歌詞はちょっと発音よく歌ってそれっぽい雰囲気を出そうとしているのだが、いかんせん音符が合っていない。

たまきはこの曲のサビのメロディしか知らない。それでもわかる。全体的に、とにかく音符が合っていない。

時空でも歪んだんじゃないかと思える5分間が終わり、志保の前には一周してきたリモコンが再び置かれていた。

「う~ん、この歌好きなんだけど、やっぱちょっと難しいな」

そういうと志保は、

「次なに歌おうかな~。ほんと、歌、そんなに得意じゃないんだよね。いっそ『おもちゃのチャチャチャ』でも歌おうかな」

と笑いながら言った。

 

写真はイメージです

カラオケにいたのは3時間ほどだっただろうか。

亜美はレパートリーの豊富さが際立っていた。ロック、R&B、ヒップホップ、それもわりと玄人好みの曲が多い。そして、どの曲も抜群の歌唱力で歌いこなしていた。バラードなど圧巻の一言である。

たまきは次第にレパートリーが尽きてきた。終盤は子供のころ見てたアニメの歌などで場を繋いだ気がする。歌うたびに志保から話「かわいい~!」とその歌声を評され、亜美からは「アニソンにはそういう方があってるかも」と評された。

志保はアイドルの歌など、ヒットチャートの上位の曲を多く歌った。マイクを取るたびに磁場がどうにかなってしまったのかと思うような歌を披露したが、あくまでも本人は「歌はちょっと苦手」という程度の認識らしい。

カラオケ屋を出てからの三人は、十月の風を浴びながら無目的にシブヤの街を歩いていた。

亜美と志保が次はどこに行こうかと話しながら歩く後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。たまきとしてはこんな場違いな町は早く出たいのだが、シンジュクに帰ったとして、やっぱりそこもたまきにとっては場違いな町なのだろう。

ふと、亜美が立ち止り、片手で志保を制した。後ろからついてきていたたまきも立ち止まる。

「ストップ」

「どうしたの?」

「ケーサツがこっち来る」

「え? どこ?」

志保は目を細めた。数十メートル先から、青い制服の警官が二人、こちらへ向かってくる。

「ほんとだ。亜美ちゃん、よくこんな遠くから気づいたね」

「とりあえず、こっち行くぞ」

亜美はすぐ左にあった狭い路地へと入っていった。志保とたまきもそれに続く。

路地に入って十数メートル歩いたところで、志保が口を開いた。

「……そういえばさ、なんでおまわりさんから逃げるの?」

「だって、見つかったらいろいろと面倒じゃねぇか。特にお前なんか、聞かれたらいろいろと困るだろ?」

亜美は志保を見ながら答えた。

「でも、あたし、もう三カ月ぐらいクスリ使ってないし、クスリも器具も今は持ってないし、調べられて困るようなことなんかないよ?」

「そういえば……、でも、目ぇつけられたら困るだろ。たまきとかはまだ子供に見えるかもしれないし」

「別にいいんじゃない? だって、もう夕方だよ?」

そういう志保のわきを、地元の子どもだろうか、ランドセルを背負った子供が3人ほど、はしゃぎながらすり抜けていく。

「ほら、もう、学校とか終わってる時間だって。だいたい、今のあたしたち見て、不法占拠とかクスリとかエンコーとか、見ただけじゃわかんないって」

「そういやそうか……」

そこで会話は途切れたが、急に亜美が笑いだした。

「え、じゃあ、ウチら、なんでケーサツ気にしてるんだ?」

「そうだよ。まあ、確かにいろいろやましいところあるけど、ちょっと見られたぐらいで目をつけられたりしないって」

「そうだよな。あれ、なんでケーサツ気にしてるんだろ?」

亜美と志保はケラケラ笑った。その後ろで、たまきも少しほっとしたように笑った。

この町にとって、この世界にとって自分が場違いだと思っていたのは、たまきだけではなかったらしい。

 

写真はイメージです

「さっきから、ガキ、多くね?」

亜美がすれ違う小学生たちを見ながら言う。

「近くに学校があるんじゃないの?」

「こんな都会のど真ん中に?」

「あるところはあるって。」

そんな会話をしながら3人は少し人気のない路地を歩いていく。

「ん、学校ってあれのこと?」

亜美が少し先の建物を指さした。塀とフェンスに囲まれ、門から続々と子供たちが出てくる。

「こんな都会にも学校ってあるんですね」

たまきが久しぶりに口を開いた。

「うわっ! 校庭、狭っ! 運動会とか、無理じゃん!」

亜美がフェンスにへばりつきながら、その向こうの校庭をのぞいた。緑色のゴム素材のような地面をしている。

「だいたい、校庭ってフツー、土だろ。なんだよあの、テニスコートの失敗作みたいなの」

「都会の学校なんてどこもそんなんだって。土地が少ないんだから、しょうがないじゃん」

志保が亜美の少し後ろで笑いながら言った。さらにその後ろでたまきがぼんやりと二人を眺めている。

たまきと志保の間を、女子高生が三人通り過ぎた。ワイシャツの上に学校指定のものと思われる紺のセーターを重ね、胸元には真紅の大きなリボンを飾っている。

亜美が校庭を見るのに飽きて振り向くと、志保がその女子高生たちが通り過ぎた後も、彼女たちを目で追い続けているのが視界に入った。その顔は、どこか儚げでもあった。

「なに、どうした? 知り合い?」

「ううん、そうじゃないんだけどね……」

志保は少しため息をつくと、言葉をつづけた。

「あの制服、ウチの高校のなんだ……」

そうさみしそうにつぶやく志保を、たまきはまたさみしそうに見つめていた。

……志保さんは、学校に戻りたいのかな。

そんな志保とたまきの間を、今度はオートバイがエンジン音を響かせて通り過ぎる。

そもそも、たまきのように学校に行きたくない方が少数派なのだろう、きっと。志保は頭もよく、友達も多い、学校でうまくやっていけるタイプだったはずだ。そんな志保がたまきみたいな死にたがりや亜美みたいなヤンキーギャルと一緒にいること自体が、場違いなのかもしれない。

「志保さんは、がっこ……」

たまきがそう言いかけた時、亜美がわざとらしく大きな声で言った。

「しょうがねぇじゃん。もう、こっち来ちゃったんだから」

そう言って亜美はにやりと笑うと、志保の肩に手をポンと置いた。

志保は少し自嘲気味に笑った。

「時々さ、思うんだ。クスリさえ使わなければ、今頃、フツーに学校通ってたのかなぁって」

声は少し震えている。志保は、笑顔を作り直した。

「でも、今ここで二人といることは、後悔してないよ。だから、クスリに手を出したことも、後悔してない」

志保は二、三歩歩いて、亜美とたまき、二人とも視界に入る位置に動いた。

金髪のポニーテールの少女は、どこか安心したかのように笑っている。

黒いニット帽とメガネの小柄な少女は、不思議そうに志保を見ている。

「こんなこと言うとさ、舞先生には怒られそうだけどさ、クスリを使ったことは後悔していない。もちろん、反省はしてるし、二度とやらないって決めてる。でも、後悔はしてない。だってさ……、こうならなかったら、二人に会えなかったんだよ?」

そこで志保は一呼吸おいて、言葉をつづけた。

「しょうがないじゃん。出会っちゃったんだから」

そういうと志保は、駅の方に向かって歩き出した。

「夕飯、どうする?」

「駅前にあっさり系のうまいラーメン屋知ってるぜ。こんどはうちが案内するよ」

「たまきちゃん。ラーメン屋でいい?」

「あ……、大丈夫です」

「メシにはちょっとはえぇな。駅ビル見てこうぜ」

「あ、あたし、コスメ見たい!」

駅の方に向かって三人は歩いていく。二人の背中を追いかけながら、たまきはふと、ハチ公を思い出していた。

もしもあの時、亜美も志保も待ち合わせ場所に来なかったら、それでもたまきは待ち続けていただろうか。

きっと、それでもたまきは待ち続けていたんだろう。

しょうがない。出会ってしまったんだから。

つづく


次回 第16話「公衆電話、ところによりギター」

亜美に「外に出て遊んできなさい!」と言われて、仕方なく公園に向かうたまき。仙人に、どこへ行ってもなじめないと相談する。

その裏で、ある準備が進められていた……。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

ピースボートのボランティアで出会った、心の温かい日本人たち

ピースボートの真骨頂と言えば国際交流、様々な国籍の人と出会えることだ。一方で、船に乗る前のポスター貼りのボランティアでは、日本のいろんな町を巡り、いろんな人と出会う。そこで今回は、僕がボランティアを通して出会った心温まる日本人の皆さんのエピソードを紹介しよう。


ピースボートのボランティアについてはこちら。

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

ピースボートは反日?

たまに「ピースボートは反日だ」という声を聞く。

アホ言え。

こちとら、日本(主に埼玉)にピースボートのポスターを3000枚貼っている。1店舗1枚というわけではないのだが、ざっと数えてもおそらく2000人以上の日本人の無償のご厚意で船に乗せてもらい、地球一周した身だ。

嫌いなわけなかろう。むしろ感謝しかないわ。

今回の記事はそんな2000人への感謝の意もある。

じゃあ、どういった日本人が嫌いなのかというと、

「反日」とか「親日」とかいったレッテルでしか人間を判断できない奴だ。日本人に限らず、僕はこういう輩が嫌いだ。こういった輩は大局を見ている風で、結局なにひとつ見えていない。

人間は反日とか親日とかそんな単純なレッテルで区別できるものではない。ポスターを3000枚貼って、その10倍近く頭下げて街を回ればさすがにそれくらいわかる。

だいたい、相手が自分のことを好きなら仲良くするとか、嫌いなら仲良くしないとか、そういう狭い了見が気に食わない。相手が自分のことをどう思っていようがそれで態度を変えるなんて子供のやることだし、相手の印象なんて後から変えられる。むしろ、「あの国は反日だから仲良くしない!」なんてやってたら反日感情に油を注ぐようなものだ。

そろそろ本題に入ろうか。

心温まる日本人 励ましてくれた人たち

ここからの話は全て埼玉県での話だ。プライバシー保護のために町の名前はぼかして書くことにする。

最初のエピソードは、かつて県内最大の風俗街として知られた街の話だ(もう、埼玉県民にはぼかした意味はないと思う)。

その日、僕は60枚のポスターをもってその町に降り立ったのだが、午後五時を過ぎた時点で17枚しか貼れていなかった(よくまあリアルに枚数を覚えてるなと、自分でも驚いている)。

ピースボートには住所別のポスターの枚数のデータがり、それをもとに枚数が晴れそうなエリアはもう行きつくしてしまった。あとは居酒屋など夜に営業するお店にかけるしかないが、そこで残り43枚が貼りきれるとは思えない。

僕は賭けに出た。データ上では1~2枚しか貼れないとされているエリアが、今いる場所から離れたところにある。そこにまだまだ未知の店があると信じていってみることにしたのだ。居酒屋はもっと夜遅くになっても行ける。しかし、普通の商店はもたもたしていたら閉店してしまうかもしれない。

大きな県道をとぼとぼと歩く。与えられたエリアの端っこ近くまで歩いたとき、一件の自転車屋にであった。

交渉してみるとガラス戸に貼っていいという。ガラス戸は中からも外からも見えるため、「両面貼り」と言って2枚のポスターを背中合わせにして貼る。一気に2枚稼げるのだ。

ポスターを貼らせてもらっていると、自転車屋の主人が「若いうちに世界を見てきた方がいい」と言ってくれた。なんだか、自分のやっていることを肯定してくれたみたいでうれしかった。

ここから駅に向かって戻っていく。同じ道を通ってもしょうがないので、住宅街を歩きながら、ふいに出てくるクリーニング屋とかに交渉していく。

駅から少し離れたところに居酒屋があった。おかみさんが一人で切り盛りしている。

貼らせてもらえることになったのだが、貼る場所が少々変わっていた。

2階へと続く階段の下、階段に合わせて天井がななめとなっている、そこに貼らせてもらうこととなったのだ。

重力の影響が強くて少々貼りづらいのだが、そこしかなかったのだろう。貼らせてもらえるだけでもありがたいし、結構目立つ。

貼り終わるとおかみさんがこんなことを言ってくれた。

「あんたたちのこと、応援してるんだからね」

ふたを開けてみれば、17時から21時までの4時間で23枚を貼り、40枚ジャストでその日は終えた。けれども、枚数以上に印象に残った日だった。

心温まる日本人 やさしい人が多い街

その翌日。その日は市街地から離れた古い街道沿いの町を訪れていた。

持って行った枚数は50枚。今日こそは全部貼りきるぞと意気込んでいたものの、県道を行って帰って17時を過ぎて20枚ちょっと。

昨日の町と違い駅前に居酒屋なんて全くなく、この先30枚近く貼れるとはちょっと思えない。

そんな夕暮れに出会ったのがある美容院。

そこの奥さんはあちこち海外旅行をしていたらしく、「大学生の孫にぜひピースボートに乗って、世界を見てきてほしいと思っている」という話をしてくれた。

さて、残り30枚どうしよう。

そこで僕はまたしてもデータを無視し、坂道を登ってみることにした。データ上では全部回っても10枚ほどしか貼れないはずだが、データにない店があるかもしれない。

坂道を登り始めると大きな通りになっていて、両側にお店は多い。案外イケちゃうかもと期待していると、店先に椅子を置いてお茶を飲みお菓子を食べている人たちが目に入った。

目が合った瞬間に店の主人が「あんちゃん、ちょっと休んでけ!」

とても驚いた。僕はたまたま取り掛かり、目が合っただけである。目が合った瞬間に「あんちゃん休んでけ!」と言われ、椅子に座らされ、お茶を振る舞われた。

たまたま通りかかった通行人にお茶を振る舞うような人が、この日本にいるのだ!

残念ながらその店は大家さんの許可がないとポスターは貼れない、ということだったが、代わりに桃味の飴玉を一個もらった。なんだか、ポスターを貼れた時よりもうれしかったような気がするし、今でも覚えている。

坂道を登ってとある商店に行き着いた。

実は、僕はこの店を見たことがある。以前、テレビの旅番組で出ていたのだ。

店のおばちゃんが、ロケでその町を訪れた芸能人にいろいろ親切に商品である食べ物を渡していた。

そして、この店のおばちゃんは芸能人だけでなく、「素性不明の『ポスターを貼らせてくれ』と頼む怪しい男」、すなわち僕にも優しかったのだ。

店の中と南側の壁に合わせて2枚気前良く貼らせてくれた。僕が調子乗って北側の壁にも貼らせてくれとお願いしたら、「兄ちゃん、それはちょっと調子が良すぎるよ」と笑いながら言われたので「ですよね~」と引き下がり、談笑をしていた。

楽しく談笑していたところ急に「兄ちゃん、北側の壁にも貼っていけ!」

さっきダメだって言ってたじゃん! しかも、僕からはそのご一言も「もう1枚貼らせてくれ」などと厚かましいことは言っていない。話が盛り上がったからなのか急にもう一枚貼らせてくれることになったのだ。

その後も、道路の反対側にあったとある店に入ろうとすると、道路の向こう側から大声で「兄ちゃん、その店はダメだ~! 隣の店に行け!」

理由はわからないが、おそらく店の主人が偏屈ですぐ怒るとかそう言った理由なのかもしれない。おばちゃんのおかげで地雷を踏むことを回避できた。

テレビに出てくる面白素人さんは、芸能人だからやさしく接しているのではない。誰にでもやさしいのだ。

別の町にもそういった人がいた。ごく普通の飲食店なのだが、マスターのキャラが面白く、とある番組では度々登場していた。僕が訪れると、何とピースボートの見学会に訪れたことがあるとかで、快く貼らせてくれた。僕が「テレビに出てる飲みましたよ」というと、うれしそうに顔をほころばせていた。

もう一度言う。テレビに出てくる面白素人さんは、芸能人だからやさしく接しているのではない。誰にでもやさしいのだ。

さて、さっきの町に話を戻すが、ある美容室をとずれると(さっきの美容室とは別)、なんとその人もピースボートの過去乗船者で、ポスター貼り経験者だった。

「ポスター貼り大変だよねぇ」といい、「何枚でも貼っていっていいよ」と言ってくれたので、すでに4枚貼っていあるところをもう1枚増やして5枚にさせてもらった。ポスター貼りを経験すると人は優しくなれる。僕も町で配っているティッシュはなるべくもらうようにしている。

その日は21時まで粘って、50枚すべてを貼り終えた。坂の上の街道沿いに意外と店が多かったのだ。貼りきれたという感動と、優しい人にたくさん出会ったという感動が相まって、この日のことはとても印象に残っている。

心温まる日本人 夏の暑い日

ごくたまにではあるが、食べ物や飲み物をごちそうになることがある。

特に夏の暑い日、「熱いでしょう」と飲み物のペットボトルや、キンキンに冷えたコーラを振る舞ってもらったことが何回かあった。

飲み物そのものよりも、その心配りがうれしかった。

やさしいのは日本人だけじゃないぞ

とまあここまで心温まる日本人の話をしてきたが、優しいのは日本人だけではない。

僕の経験上、韓国料理屋とインド料理屋は、ポスターを貼らせてくれる確率が結構高い。次点で中華料理屋。

結局のところ、国籍関係なく、人間はやさしいのだ。

サンカ備忘録

ここ最近、日本のいわゆる「常民」の外にいた人たちに関心があり、特に「サンカ」にまつわる本をいろいろと読んだ。しかし、ネット上にはまだまだ、虚実織り交ぜのサンカ像が書かれている。そこで、今回は自分の備忘録も兼ねて、サンカに関して「確実に言えること」を残しておこうと思う。

サンカとは何ぞや

サンカとは何か。それを今から書こうというわけだが、まずざっくりと書くとこうなる。

日本人は一つのところに住んでいる人が大多数だ。お金がなくてホームレスになる人もいれば、お金がありすぎて別荘を持つ人もいるが、基本は一つの家に住んでいる。「定住」というやつだ。

一方で、一つのところに定住せず、あちこち移動する「漂泊の民」と呼ばれる人がいる。有名なのがモンゴルの遊牧民だろう。ヨーロッパだとジプシー、アラブだとベドウィンと、漂泊の民は世界中にいる。

そして、日本にもいた。それが「サンカ」である。

「山窩」という字を当てられることもあるが、埼玉県中部のような一体どこに山があるのだろうと思われるところにも彼らはいた。

サンカの語源は諸説あるが、僕は「さかのもの」が変化して「さかんもん」、さらには「さんかもん」へと転じていったという説が一番有力かな、と思う。平地に住む者に対して「坂に住むもの」という意味だと考えれば、すごく自然だと思う。

ちなみにサンカは「ミナオシ」や「テンバ」、「ポン」とも呼ばれるらしい。

サンカと三角寛

サンカに関しての研究は小説家の三角寛の研究が一番詳しいとされてきた。割と最近までは。

しかし、彼の研究は複数の研究者から「ほぼすべてが捏造」だと批判されている。ためしに、ウィキペディアの「サンカ」のページの三角にまつわる項目を見てみると、

サンカに関する一般的な知識は、三角寛の創作によるところが大きい。

そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。

さらにウィキペディアの「三角寛」のページを見ても

三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

とまあ、「ほぼすべてが捏造」と書かれている。三角の親族ですらそれを認めるほどだ。

厄介なのが、サンカについて調べれば、必ず三角の捏造にぶち当たらざるを得ない、ということだ。

ネット上を調べても、三角の著作が捏造だということを知らないのか、それとも三角は捏造をしていないと信じているのか、三角の提唱するサンカ観を疑いなく乗っけているページがある。ネイ○ーとか。せめて「彼の研究には批判の声も多い」ぐらい書いておいてほしいものだ。

これまでのサンカのイメージ

というわけで、まずは三角の捏造が明らかになる以前のサンカのイメージについて簡単に記しておこうと思う。もしあなたが抱いているサンカのイメージがこれと合致していたら、ちょっと調べ直した方がいい。

・全国規模の組織を持ち、日本中のサンカを傘下に収める大親分が存在する。

・独自の掟を持ち、逆らったものには処刑をも辞さない

・独自の隠語があり、さらに「サンカ文字」という独自の文字を持つ

・犯罪者集団である。

これらは、現在では「三角による創作の可能性が限りなく高すぎて泣きたいレベル」と言われている。要は、捏造されたイメージだとして扱われている。

最後の「犯罪集団」というのは三角の創作ではなく、戦前の警察機構がサンカに抱いていたイメージだと言われている。

確かに、定住者の世界で犯罪を犯して追われたものがサンカに受け入れられるということはあったと思われる。

ただ、「サンカが犯罪性の高い集団」と断定することはできないだろう。僕は、サンカと定住者の数少ない接点の一つが泥棒や博打などの犯罪行為だったために、そういったイメージがついただけではないかと思う。

以下、三角の研究(捏造?)によらず、他の研究者の研究をもとに、ほぼ確実に事実だと言えるサンカの実態について書いていく。

サンカとは何者か

サンカには大きく2パターンがある。

親の代からサンカだったものと、定住の世界からサンカへと移ったもの。

そう、親がサンカではなく、一般的な定住家庭に育った者でも、サンカに参加できたのだ。

彼らはいわゆる被差別民である。サンカの研究がなかなか難しいのは、彼ら自身がサンカであること、サンカの子孫であることを隠すためである。フィールドワークを行うには、話者との信頼関係が不可欠である。

サンカの家

サンカの家は「セブリ」と呼ばれる布製のテントのようなものだったり、「ワラホウデン」と呼ばれる掘立小屋だったりする。

どうも集団で住んでいたらしい。大阪の天王寺にはサンカと思われる集団がいたと言われているし、そのほかにもサンカのテント集落は存在していた。

サンカの行動範囲

漂泊の民、というと全国を転々としていたようにイメージするかもしれない。

しかし、さすがにそこまで行動範囲は広くないようだ。

おそらく、今の行政区分で言う市町村をいくつか周回する程度だったのではないかと思われる。

というのも、彼らにはそれぞれ仕事のお得意様がいて、そのお得意様のいるところを回って生計を立てていたらしいからである。見知らぬ土地に行くことはあまりなかったのではないだろうか。

行動範囲が全国規模でない以上、全国規模の組織があったとか、全国規模の親分がいたという三角の主張はちょっと考えづらい。

サンカの生業

では、サンカはどのような仕事をしていたのだろうか。

サンカが「ミナオシ」とも呼ばれているように、その多くは蓑や竹細工、箒などを作っていた。「ミナオシ」とは「蓑直し」の意味で、新しく蓑や竹細工を作って売るほかにも、古くなった道具を修理して生計を立てていた。

この技術というのは一朝一夕にできるものではない。定住者が蓑が壊れたからと自分で修理するのは難しい。また、定住者もサンカになれるとは書いたが、ミナオシの技術は元からサンカであるものとあとからサンカになるものではかなり差があったらしい。

こういった工芸のほかには、川で漁をするサンカもいる。また、芸を覚えて見せる者もいる。

さらに、サンカを「乞食」と呼ぶ地域があったことを考えると、いわゆる乞食のようなこともしていたのだろう。

サンカのまとめ

現在、サンカについて断定できることは次の通りだ。

・村には定住せず、移動生活を行っていた。

・いわゆる技術職であるものが多い。川での漁や、芸で生計を立てる者もいる。

・被差別民であった。

現段階で僕に断定できるのはこのくらいである。僕自身もまだまだ勉強中であり、この記事は僕の備忘録の意味合いもある。もし、「これは違うよ」というのがあったら修正したいので遠慮なくいってほしい。

僕の専門は集落や野仏である。そのため、サンカについて本格的に研究するつもりは今のところないが、日本の集落の成り立ちを研究するためにはサンカの存在は考慮しなければいけないだろう。これからもサンカに関する勉強は続けていきたいと思うし、可能ならばサンカの研究に参加していきたいと思う。

参考文献

礫川全次『サンカと説教強盗 闇と漂泊の民俗史』 批評社、1992年

筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』文春新書、2006年

筒井功『日本のアジールを探して -漂泊民の場所-』河出書房新社、2016年

ピースボートのポスター貼り3000枚達成した俺がコツを伝授しよう

ピースボートのポスターは、約3000枚貼れば100万円割引される。僕はポスターを約3000枚貼った結果、ピースボートの船代が全額割引となった(もともとの船代は99万円)。船代に関しては1円もピースボートに払っていない。そんな僕が、今回、ポスター貼りのコツを伝授しようと思う。


ピースボートのポスター貼りにはいろんなタイプがいる

僕がポスター貼りをしていたのは約8か月ほど。僕が所属していたのは今はなき「ボランティアセンターおおみや」という、マンションの一室を借りて運営していた、ピースボートの事務所の中でもひときわ小さなところだった。

そこにはいつも通ってくるメンバーが何人かいて(本当に、「何人か」という規模だ)、家族よりも長い時間を共に過ごす。一緒にポスター貼りに行ったことも何回もあるし、ポスター貼りが終わって事務所でのんべんだらりとしたり、週に一度連絡会を行ったりして、他の人がどういうポスター貼りをしているのかもなんとなく聞いていた。

すると、あることに気づく。

人によってポスター貼りのスタイルが違う。

もっとわかりやすく言えば、人によって得意不得意がある、ということだ。

例えば、抜群のコミュニケーション力を武器に交渉を進める人がいる。

一方で、とにかく長距離を歩き、店の数を稼ぐ人もいる。

短期間で信じられない枚数を貼る人もいる。

一方で、枚数よりも、貼らせてもらったお店の人から直接「ピースボートの資料欲しいんだけど」と声をかけてもらうことが得意な人もいる。

また、人によって「この店が得意」とか「こういう時間帯が得意」という人もいる。

人によってポスター貼りのスタイルは千差万別である。

つまり、「ポスター貼りのコツ」というのも、聞く人によって変わってくる、ということだ。

これから話すのはあくまでも「僕が使っていたコツ」である。これを読んだあなたが僕のやり方を試してみたところで、必ずうまくいく、なんて保証は残念ながらできない。ポスター貼りのスタイルが違えば、うまくいかない可能性もある。

それでも、なるべくどんなタイプの人でも通用するであろうやり方を書くつもりだ。

ポスター貼りのコツ① とにかく、多くの店に入る

これは僕の意見、というよりも、一般論に近い。とにかく多くの店に入ること。店の前で「どうしようかな……」と躊躇するくらいだったら、入ってしまえとさんざん言われた。

とはいえ、何でもかんでも入ればいい、というわけではない。例えば、飲食店だったらランチタイムは避け、もっと好いている時間に行く。明らかに今忙しそうにしている店も後回しだ。「いま忙しいんだよ!」と怒られたら元も子もない。

それでも、店に入るのはいつだって勇気がいる。

一番勇気がいるのは多分、「その日最初の店」だと思う。こっちのスイッチがまだ入りきっていないときに店に入る、というのは一番勇気がいる。

逆に言うと、こっちのスイッチが入ってれば、トライしやすくなる。

とにかく、大事なのは「リズム」なのかもしれない。断られても「次だ次!」と前向きに問えらえられるようになれば、リズムよくいろんな店にトライできる。アドレナリンが関係しているのかもしれない。

ポスター貼りのコツ②交渉編 相手の顔を、目線を見て判断する

一般論から言うと、ダメもとで交渉をするべきである。相手が「ウチはちょっと……」と断ろうとしても、「そこを何とか」と食い下がることが大切だ。その結果、交渉に成功した例もいくつかある。

とはいえ、これはコミュニケーション力がある人が成功しやすい、と僕は思う。

しつこく食い下がるとかえってクレームに発展しやすいし、食い下がった結果ダメだったら、時間の無駄になってしまう。

これは「そこを何とか」と言って、嫌われることなく話を勧められるスキルがあってこそ、ともいえる。

僕はそんなスキルないので、あまり食い下がらなかった。

正確に言うと、「食い下がっていい時」と「食い下がっても無駄な時」を見極めていた。

まず、あいさつのときは相手の不信感を一気に取り除くことを心掛けた。

「すいませ~ん、私、NGOピースボートでポスター貼りのボランティアをしているものでして……」

最初に、自分は客ではなく、こういう身分のものだと一気に説明する。お店側の「こいつは何者だ?」という不安を取り除くことが大切だ。

そして交渉に入る。

「こちらのお店のポスター貼らせてもらうことはできないかなぁと思ってきたんですけど……」

僕はここでいったん、話を区切る。この後、「貼らせてもらえませんでしょうか?」的なセリフが続くわけだが、とりあえずいったんここで話を止める。

話しを止めて相手の顔を見る。

慣れているお店なら、この時点でOKをくれる。

そして、「絶対ダメ」な場合は、難色を示す。

難色を示すというのはどういう状態かというと、「そういう顔をしている」ということだ。だいたい、苦笑している。

コミュニケーション力がある人はここで食い下がれるのだろうが、僕は食い下がらなかった。一件に食い下がるよりも、より多くの店に行くために時間を使いたいので、「ダメですか?」と聞き、「ダメです」と言われたら、「あ~、すいません。お邪魔しましたぁ」と引き下がる。

一方で、次のような反応が見られた場合、僕は食い下がる。

それは、「店内をきょろきょろと見渡す」。

これは「どこか貼らせてあげられる場所はないかな~?」と探してくれているのだ。

その結果、「ごめんね。スペースがなくて……」と断られても、これは「最初からダメ! 何が何でもダメ!」のダメではなく、「貼らせてあげたいけど、スペースがない」のダメである。

ここで食い下がる。

「あ、ほんとに、こういうちょっとしか見えない端っことか、トイレとかバックヤードでも全然かまわないので……」

そう言うと、「何だ、そんなところでいいのか」と言って貼らせてくれるケースは結構ある。

ポスター貼りのコツ③技術編 Pカットテープの貼り方

ポスターを貼る道具は次の三つが一般的だ。

①両面テープ

②画鋲

③Pカットテープ

基本は両面テープだ。ガラスなどにつけやすく、剥がしやすい。

両面テープがくっつきそうにない壁には、画鋲で刺して止める。

厄介なのがPカットテープだ。

これは「つるつるした壁には貼ってはいけない」というルールがある。ガラスのようにつるつるしたものに貼りつけると、剥がすときに跡がついて、クレームになってしまうらしい。

Pカットテープをどういうときに使うのかというと、両面テープや画鋲では貼ることができず、なおかつつるつるしていないもの。すなわち、ブロック塀やコンクリートの壁など、ざらざらした壁やでこぼこした壁だ。まかり間違ってもガラス窓焼きの壁に貼ってはいけないし、コンクリートでもつるつるしているのなら両面テープで張っていいと思う。

あくまでも「ざらざら、でこぼこした壁」に貼るのだ。

そして、そういった壁は、Pカットテープといえども簡単には貼りつかない。

こういう時は、親指をテープにぐりぐりと押し付ける。

テープと壁の間の空気をすべて抜き、テープを壁に密着させ、スキマなく貼りつける。そんなイメージでぐりぐりと押し付ける。指圧のイメージに近いかもしれない。

実際、このやり方で、お店の人から「貼ってもいいけど、つかないと思うよ」と言われた壁に見事貼りつけ、「大したもんだ」と褒められたことがある。また、「いつも貼ってもらうんだけれど、壁がざらざらしてて3日も持たない」と言われた壁に僕が貼った結果、1年以上にわたり残ったということもある。

「どんなにざらざら、でこぼこした壁にもポスターを貼りつけられる」というのは、僕が唯一自慢できるポスター貼りの技術だ。

ポスター貼りのコツ④ 3つの強さ

徳にポスター貼り終盤の話なのだが、僕は『3つの強さ』を意識してやっていた。

その「3つの強さ」とは

①打たれ強さ

②粘り強さ

③勝負強さ

である。

打たれ強さとは、断られてもすぐ次の店に飛び込む、という打たれ強さだ。

ポスター貼りとは、まず断られる方が普通だ。

何度も何度も断られるとと心が折れてくる。ポスター貼りをやっていたら、「心が折れる」というのはよく聞く言葉だ。

しかし、夜が更けてくると「帰りの時間」というのも意識しなければならない。それは、自分自身の帰りの時間ももちろんだし、事務所で待ってくれているスタッフの帰りの時間も考慮しなければいけない。

つまり、夜が深くなるほどに、断られて「はぁ……」とため息をついている時間はなくなるのだ。「次だ次!」と切り替えて別の店に行き、なるべく早く全ての店を回ることが大切だ。「どうして断られるんだろ……」という反省会は帰りの電車ですればいい。

次に粘り強さだが、これは「一つの店に粘ること」ではない。さっきも書いたように、僕は相手の顔色を見て、粘れるときに粘るタイプだ。

そうではなく、「その町に店がある限り、アタックする」という粘りだ。

丸一日歩き続けていると足が痛くなり、体力がなくなる。

そんな状況で遠くの方に赤ちょうちんが見える。居酒屋はポスターが貼れる可能性が高い。

「粘り強さ」とは、ここで「なんか遠くに飲み屋が見えるけど、あそこまで行くの面倒くさいな……」と思っても、足を伸ばす、つまり、その町で体力の限りどこまで粘れるか、ということだ。

「こんなもんでいいか」と思わずに、時間の許す限りその町で粘る。それが「粘り強さ」である。

そして最後に勝負強さ。それは、ここぞという時に結果を出す、ということだ。

それは思うようにいかなかった日の翌日とか、「このエリアでこの枚数いかなかったらまずいよ」と言われたときとか、ポスター貼りの残り日数が減ってきて、「今日、50枚貼れなかったら、あとが厳しい」なんていう状況で結果を出す、ということである。

これはどちらかというと精神論に近いのかもしれない。大事なのは、「自分はここぞという時に結果を出せる」と信じることだ。もちろん、実際にそういう経験があって、それを思い出せれば、より強く信じられる。

かなりストイックな話をしたかもしれないが、この『3つの強さ』は、僕が出航1か月前、毎日自己ベストに近い枚数を貼りつづけなければいけない状況に追い込まれたときに考えたことだ。日ごろからこんなこと考えてやっていたわけではない。しかし、追い込まれたときは、「3つの強さ」を思い出してほしい。

ポスター貼りにおいて一番重要なこと

ポスター貼りにおいて一番重要なこと、それは、「あきらめても足を止めないこと」。

用意した枚数の半分も貼れず、「今日はもうだめだ」と思うことはポスター貼りをやっている間、何度も訪れる。

一方で、そう思いながらも店を探して歩き続けたら、結構貼れた、ということも何回かある。

心は諦めてしまっても構わない。それでも足を止めることなく、店を回り続けることが大切だ。

むしろ、とっとと諦めろ、と僕は言いたい。

「絶対あきらめない!」と踏み出した一歩と、「たぶん、もう無理だ」と諦めて踏み出した一歩、どっちも一歩だ。歩幅は大して変わりやしない。「前に向かって歩いている」ということが大切なのであって、どんな気持ちなのかはさほど大した問題ではない。

むしろ、「絶対に諦めない!」と意気込んで歩く方が、体力を使う。疲れる。結果、足が止まる。だったら「どうせ無理だ」と諦めて、なおかつ足を動かした方が気が楽だし、体も楽だ。結果、長時間・長距離を歩ける。

今回書いたのは、あくまでも僕のやり方だ。最初に書いた通り、一人ひとりスタイルが違う。僕の話は参考程度にとどめておいてあまりこだわらずに、どんどんポスター貼りを経験して、自分のスタイルを見つけることが大切だ。

宇宙民俗学の幕開け ~民俗学は宇宙を舞台としうるか~

宇宙。それは人類に残された最後の秘境。あらゆる科学の分野が宇宙開発や宇宙の研究に通じている。あらゆる科学が、宇宙をフィールドとしうるならば、日本民俗学も宇宙に飛び出してもいいのではないだろうか。ここに、宇宙民俗学の幕開けを宣言しよう。果たして、日本民俗学は宇宙をフィールドとしうるのか。

民俗学が宇宙を舞台にする

そもそも、民俗学とはどういった学問だろうか。

日本民俗学の父、柳田國男によれば、農村をフィールドとして調査をし、文字に残らなかった常民の歴史を明らかにすることである。今日ではこの「常民」の定義も議論の余地があるが、要は、農村や漁村に行って、ごく普通の人々の歴史や文化を調べる学問である。

ということは、民俗学が宇宙をフィールドにするということは、宇宙に行って、ごく普通の宇宙人の歴史や文化を調べるということであろうか。

無理だ!

そこで、視点を変えよう。

日本に住むごく普通の人々は、宇宙をどのようにとらえているのか。どのような宇宙観を持っているのか。

今より科学が未発達な時代、人々は宇宙に対してどのようなイメージを抱いていたのか。

これを明らかにする、それが宇宙民俗学である。そう考えたら、宇宙民俗学もできそうではないか。

例えば、宇宙を「他界」と考えてみたら、その研究は民俗学の領域ではないだろうか。

最後の他界、宇宙

他界、というと現在では死んでしまうことを意味するが、民俗学における「他界」とは、文字通り他の世界、つまり、別世界を意味する。

と言っても、異次元とか異世界転生とかそういった「他界」ではない。

今よりも交通の便がずっと悪く、インターネットなんてない時代、一人の人間が把握できる世界というのはとてもとても狭かった。その外はもう「別の世界」なのだ。

民俗学では、具体的に次の4つの他界がある。

天上他界……空の上に違う世界がある、という考え方だ。空まで行かなくても、木の上という考え方がもある。「天女の羽衣」なんて話がまさにそれだ。現代風に言えば、「天空の城ラピュタ」である。

海上他界……海の向こうには別世界が広がっている、という考え方だ。「常世の国」とか「ニライカナイ」などと呼ばれている。かの有名な竜宮城や鬼が島も海上他界の一種だ。

地下世界……地面の下には別の世界がある、という考え方だ。地底人である。「おむすびころりん」などが地下世界の代表例だろう。

山上世界……山の上、さらに言えば山の向こうには異世界があるという考え方だ。例えば、「遠野物語」を読むと山にまつわる怪異の話はとても多い。

さらに、国家レベルで考えても、国境の向こう側は別世界だった。「別の国」ではない、「別世界」だ。鬼が跋扈するバケモノの世界と考えられていた。

例えば、かつての平安京の貴族たちにとって、遠く東北の地やその先の北海道などは、鬼の住むところと恐れられていた。

もちろん、現代の世で「東北や北海道は人の住むところではない!」などと言ったら、訴えられてもおかしくない。交通が発達し、情報が発達し、「あそこに住むのは、鬼ではなく人である」とわかったからである。

科学の発達でどんどん他界はなくなっていった。空を飛べるようになったが、天女はいなかった。海の向こうにはいろんな国があったが、ニライカナイはなかった。

人類の活動領域が増えるにつれ、どんどん「他界」はなくなっていった。人間が夢を見ていい場所はどんどん奪われていった。

しかし、科学は人類に新たな、そしてとても広大な他界の存在を教えてくれた。それこそが宇宙である。

日本人と宇宙

人類が宇宙に行けるようになったのは、歴史上ごく最近のことだ。

しかし、宇宙に行けなくても、ずっと人類は宇宙を見てきた。

88ある星座のほとんどはギリシャ神話に基づいたものだ。古代ギリシャの遊牧民たちが、夜空の星に神々の物語を重ねた。これは何もギリシャ人だけがやっていたわけではなく、どこの国にも星にまつわる神話はある。

さて、日本人は宇宙をどのようにとらえていたのだろうか。

一番大切な星はやっぱり太陽だろう。日本国旗「日の丸」も名前の通り太陽をデザインした旗だ。また、天皇家も太陽の神である天照大神の子孫だと言われている。

農業国である太陽は日本人にとって、生活とは切り離せないものだった。

一方、月も大事な星だ。日本は幕末まで太陰暦、月の満ち欠けを暦に使っていた。そのため、月の欠け具合30パターン全てにちゃんと名前がある。

もちろん、ちゃんと月の神様もいる。ツクヨミノミコトである。セーラームーンではない。

月を舞台にした有名な物語と言えば、やはりかぐや姫だろう。正確には舞台はどこかの竹林で、月はヒロインの出身地なのだが、それは逆に「月に誰か住んでいるのかも」と日本人は昔から考えていたことを意味する。ウサギは月に住む霊獣だと考えられていた。

一方で、宇宙のあらゆる現象は「凶事の前触れ」とか「天帝がいまの政治に怒っている」という風にとらえられていた。これは中国の思想の影響もある。そのため、陰陽寮という役所には天文博士という役職があり、毎晩夜空を観測しては、その夜空が何を意味するのかを占っていた。この天文博士の代表格が、ファンタジーでおなじみの安倍晴明である。

人類が宇宙に行くようになったのはごく最近だ。しかし、人はずっと昔から、宇宙を見てきたのだ。

他界としての宇宙

さて、科学の発展で「他界」はどんどん失われてきた。その一方、科学は宇宙という新たな他界を生み出した。

宇宙には、この地球と同じような星がいくつもある。地球のように水と空気と気温に恵まれた星はまだ見つかっていないが、星という大地が宇宙に無数にあることはわかっている。

かつて、海の向こうにニライカナイや竜宮城を夢見たように、「宇宙の向こうにも、別の世界、未知の文明があるのではないか」と考えるようになった。

そして、「怪異」も宇宙を由来とするようになった。

「山で妖怪にあった!」なんて話はその数を減らし、そのかわり「UFOを見た!」とか「宇宙人にさらわれた!」なんて話を聞くようになった。昔だったら人をさらうのは山から来た天狗と決まっていたが、今では宇宙人によるアブダクションだ。

日本のいたるところにかっぱのミイラがある。しかし、いまどきかっぱのミイラを見つけても流行らない。今のはやりは宇宙人やUFOの写真である。

宇宙という新たな他界は、今やオカルト界の一番人気だ。

例えば、何年か前、イギリスが「英国政府は宇宙人を確認していない」と正式発表した。するととあるオカルト評論家がこんなコメントを出した。

「この発表の何が恐ろしいかというと、宇宙人がいないというのなら、今まで我々が宇宙人の写真だと思ってきた、あそこに映っていた奴らは宇宙人でないとしたらいったい何なのでしょうか」

なるほど。今まで宇宙人だと思ってきたものが実は宇宙人ではなかった、そう言われるとなんだかぞっとする。だが、同時に僕はこうも思った。

「……宇宙人でなければ妖怪じゃないの?」

そう、今我々が「宇宙人」だと思っているものを昔の人に見せたら、おそらく「妖怪」というはずだ。思えば、よくオカルト番組に出てくる「宇宙人の写真」も、別に本人が「ワレワレハウチュウジンダ」と名乗ったわけではない。写真を見せる側が「これは宇宙人の写真です!」「宇宙人を捕まえました!」と言っているにすぎない。

今まで「妖怪」だと思われていたものが、「宇宙」という他界の存在を知ったために、単に「宇宙人」と呼ばれるようになっただけではないのか。

さらにこんな話もある。とある雑誌でかっぱの特集をしていた。

その雑誌では「かっぱは妖怪ではなく、実は宇宙人だった!」という斬新な説を紹介していた。それを読んで僕はこう思った。

「……妖怪と宇宙人はどう違うんだろう? っていうか、どっちでもいいや」

そう、妖怪と宇宙人は本質的には一緒なのだ。「川底という他界からやってきて、妖術を操るかっぱ」と、「宇宙という他界からやってきて、超科学を操る宇宙人」は、実は本質的には一緒なのだ。

それまで「妖怪」と呼ばれてきたものが、「UFO」とか「宇宙人」と言いかえられているだけなのではないだろうか。だとしたら、民俗学がでしゃばる余地はある。

現代の他界 ~宇宙・デジタル・幻想郷~

繰り返しになるが、科学の発達でこれまで「他界」とされてきたものは急速に減っていった。

しかし、現代は他界のないつまらない世界なのかと聞かれればそうではない。

例えば、海底はまだまだ他界である。かつては海の底は竜宮城があると考えられていたが、今では海の底にはゴジラが棲んでいると考えられている。地球上で体長50mを越えるバケモノを隠せる場所と言ったら、もうそこしか残っていない、実際、海底はまだまだ未知の生物の多い場所だ。

そして、科学や情報の発達は、それまで存在していなかった新たな他界を生み出した。

例えば、デジタル世界がそうだろう。1978年のインベーダーゲーム、1983年のファミリーコンピューター発売。スーパーマリオやドラクエ、ポケモン、モンハンと様々なゲームを生み出してきた。

昔のゲームは白黒の上8ビットと画質は粗く、おまけに移動は縦と横しかなかった。僕が子供のころにはさすがにゲームもカラーになっていたが、まだまだ画質は粗かった。

だからこそ、96年の任天堂64と「スーパーマリオ64」の登場は衝撃的だった。立体的なマリオが立体の世界を冒険するという、今では当たり前となった光景がCMで流されたとき、当時小学生だった僕はぽかんと口を開けてみていた。あの衝撃は今でも忘れない。「ゲームの向こうに世界がある」、本気でそう思ったものだ。

時は流れ、ライトノベルや深夜アニメなんかを見ると、「ゲームの世界」を舞台にした作品は多い。ソードアート・オンラインやアクセル・ワールド、あ、どっちも川原礫だ。他にも「現実世界の人間がゲームの世界を冒険する」という話は多い。

一方で、ゲームをモチーフとした「仮面ライダーエグゼイド」は、ゲームの中から出てきたウイルスと戦う話だ。こちらはゲームの世界が現実の世界を侵食していく。

他にも「リング」や「着信アリ」など、デジタルの他界をモチーフとした話は多い。

また、近年、ラノベで「異世界転生もの」がふえている。本屋のラノベのコーナーに行けば、右も左も「異世界に転生して、変な職業につくんだけれども、チートの強さを誇る話」だ。

どうしてみんな異世界転生ものばっかり書くのか。ラーメン激戦区にわざわざラーメン屋を出店するようなものではないか。

という「異世界転生もの」の是非は置いといて、ここでいう「異世界」とは、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーに出てくるような、中世ヨーロッパ的な世界観を土台にしいた、いわゆる「剣と魔法の世界」である。

日本人として生まれてしまった以上、中世ヨーロッパのような世界観で暮らすことはなかなか難しい。お金の問題、言語の問題、文化の問題、クリアすべき問題は実にたくさんある。

おまけに「魔法がある世界」に至っては完全に無理である。

しかし、ゲームの台頭により、そういった世界観は身近なものになった。かつて、人類が行くあてもない宇宙を眺めて憧れたように、今の子供たちは「剣と魔法の幻想郷」という「絶対に行けない世界」を画面越しに眺めて暮らしてきたのだ。

デジタル世界と剣と魔法の幻想郷、そして宇宙。この三つが、現代になって現れた「他界」と言えよう。

民俗学における他界の条件

こうやって見ていくと、「他界」として認識されるのは大きく二つの条件があることがわかる。

一つは「簡単にはいけないこと」。

山の向こうも海の向こうも、かつては簡単にはいけないところだった。そして現代、宇宙には簡単にはいけないし、ゲームの世界にも、剣と魔法の世界にも行けない。

他界には簡単にはいけない。しかし、他界は常に人間のそばに、見えるところになくてはいけない。これが二つ目の条件だ。

例えば、遠野物語にはニライカナイの話は登場しない、はず。遠野の人たちにとって、海の向こう以前にまず、海が身近ではなかったからだ。その代わり、山の不思議な話は山ほど出てくる。

デジタルの他界も、ゲームやパソコン、携帯電話が身近だから成立するのだろう。

「剣と魔法の世界」という、ヨーロッパの人からすれば今更感のある場所がいま、日本で高いとして注目されているもの、ゲームによってこれらの世界観が日本人の身近なものとなったからに他ならない。

そして、宇宙。僕らはまいにち宇宙を見ている。宇宙に行った人は数少ないが、宇宙を見た人ならたくさんいる。窓を開けて、月を見ればいい。一番近い宇宙だ。

一方、漠然とした「異世界」や「異次元」は他界とはなりえない。なぜなら、漠然と「異次元」と言われてもさっぱりイメージがつかないからだ。見えるところにあるからこそ、他界としてイメージしやすいのだ。

見えるところにあるけれども、簡単にはいけない場所。それが他界の条件だ。

だとすれば、「デジタル」と「幻想郷」は、近いうち他界ではなくなってしまうかもしれない。VRの登場でゲームの世界に入り込めるようにもなったし、ということは剣と魔法の世界にも行ける、ということだ。

しかし、宇宙は別格だ。

宇宙に行きたい人に宇宙のVRを見せたところで満足しないだろう。むしろ、本物の宇宙への欲求をさらに高めるだろう。

もちろん、宇宙に行くことは不可能ではない。実際に人類はもう宇宙に行っている。

ただし、宇宙に行ける人間は限られている。宇宙飛行士は選ばれた人のみの職業だし、民間の宇宙旅行もまだまだ億万長者のものだ。

よしんば、海外旅行の間隔で月に行ける時代が来たとして、宇宙は広い。広すぎる。宇宙全てをくまなく探検することは、不可能だ。

だから、宇宙は他界であり続ける。

 

いろいろと書いたが、そもそもの話は「民俗学は宇宙を舞台にできるか」である。

宇宙も竜宮城も「身近だけれど簡単にはいけない他界」という意味では本質的一緒だ。宇宙人といじめられているしゃべるカメも本質的には同じものだし、玉手箱と半重力発生装置も本質的には同じものである。

だとしたら、宇宙だって民俗学の領域である。

八つ墓村フィールドワーク ~横溝正史も知らなかった民俗誌~

八つ墓村。言わずと知れた、横溝正史の探偵小説の題名であり、その舞台である。その八つ墓村という村を民俗学的に見ていくことで、民俗学の面白さを描く一方で小説「八つ墓村」の世界観がさらに深まるのではないかという試みだ。横溝正史すら知らなかったであろう八つ墓村の真実を、民俗学によって紐解いていこう。


注意!ここから先は、小説「八つ墓村」の結末を知っていることを前提として書いていきます。ネタバレしたくない人はここで引き返してください。

八つ墓村民俗誌

八つ墓村の生業

もちろん「八つ墓村」は横溝正史のフィクションである。

その一方、「八つ墓村」という小説は、寺田辰弥という青年の原稿を横溝正史が入手して世に発表した、という設定になっている。その設定にならい、ここから先は横溝正史を作者ではなく、八つ墓村という村の報告者として扱っていく。また、寺田辰弥も主人公ではなく報告者として扱う。

八つ墓村は岡山県にあり、鳥取県との県境にある山村だ。横溝は1945年から3年間岡山県倉敷市に疎開していたので、もしかしたら八つ墓村の近辺も訪れているかもしれない。

農耕地は少なく、気候の影響で作物が育ちにくいらしい。その一方、古くからナラやカシ、クヌギといった木材を使った炭焼きを生業としてきた。横溝は

この地方の楢炭と言えば、関西地方でも有名である。

と報告している。関西では広範囲に流通しているらしい。

近年では牛を育てている。「千屋牛」と呼ばれる岡山県特有の牛を飼っていることから、八つ墓村は岡山県北西部にあるということが推察できる。横溝の報告に

近所の新見で牛市が立つ

とあることから、新見市の経済圏に属していると推察される。

横溝の報告には「博労」という言葉が多く出てくる。これは「馬喰」とも書き、「バクロウ」と読む。

宮本常一の「土佐源氏」には高知のバクロウが登場する。村から村へと移動し、質の悪い牛を口先三寸で高く売り飛ばすため、あまりいい印象は持たれていなかったらしい。

炭にしろ、牛にしろ、よその村や町と交流を持って初めて生業として成り立つ。八つ墓村は山村であるが、決して孤立した閉鎖的な村ではなかったと言える。寺田の報告では、

麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形から言うと、むしろ八つ墓村に縁が深く、檀家もこちらの方が多かった。

と書かれているので、近隣との交流も多かったのではないだろうか。

八つ墓村の伝承

横溝は、八つ墓村という村名の由来としてある伝承を記述している。

永禄9年(1566年)、雲州富田譲の尼子義久の家臣である若武者と、七人の近習が山を越えて落ち武者として八つ墓村に逃れてきた。

村人は八人の落ち武者を歓待し、彼らは村人になじんで半年ほど炭焼きをしながら暮らしてい。しかし、彼らの持ち込んだ3千両の財宝に目がくらみ、名主の多治見庄佐衛門を中心とした一団が落ち武者たちを襲撃し、落ち武者たちを殺してしまった。ところが、その後財宝は見つからなかった。

その後、村で不審死が相次ぎ、とうとう多治見庄佐衛門が発狂して、村人を次々と切り殺して自害した。

その時の死者の数は庄左衛門を含めて八人いたことから、これは落ち武者のたたりに違いない、落ち武者が八人のいけにえを求めているのだとおそれられ、村人は落ち武者の墓を作って丁重に供養し、八つ墓明神なる社を作って祀った。

それ以来、この村を「八つ墓村」という。

「八つ墓村」という名前の疑問

奇妙な伝承である。

寺田の報告から、落ち武者の甲冑と、大量の小判が実際に確認されている。八つ墓村に落ち武者が財宝とともに逃れてきたのは事実なのだろう。

ただ、この伝承が本当なら、この事件、つまり1567年頃までこの村には名前がなかったか、別の名前があたたけどわざわざ「八つ墓村」という忌まわしい名前に変えた、ということになる。

一般的に地名とはイメージの良いものに変わっていく。世田谷の「九品仏」という町は、なんとも古臭い町名を捨て、「自由が丘」というきれいな名前になった。

わざわざ「八つ墓村」なんて言う名前に変えるだろうか。しかも、この村にとっては忌まわしい歴史のシンボルである。

人から「デブ」と呼ばれたからと言って、いっそ名前を「デブ」に改名してしまうようなものだ。そんな人はデーブ大久保ぐらいだろう。

デブくらいならまだ笑って「俺、デブだもん」で済ませられるが、村の忌まわしき歴史を示す「八つ墓」をわざわざ村名にするだろうか。

寺田の報告によると、八つ墓村は丘を登り墓地を越え、川沿いに200~300m歩いた先にある。村のシンボルとするには、少々村から外れていないだろうか。

「八つ墓村」という村名の不自然さはこれだけではない。

横溝は「一種異様な名前」と評しているが、「墓」という字はあまり地名では使わない。

もちろん、「墓」という字を使う地名はいくつかある。

「墓」地名:その1

「墓」地名:その2

これが「墓」地名のすべてとは限らないが、これを見る限り、東北から東海地方、京都にかけて多い。一方、瀬戸内海の方ではあまり見られない。

そして、「墓」を意味する言葉は「墓」だけではない。「塚」という字もまた墓を意味している。

なぜ、「八つ塚村」ではいけなかったのだろうか。寺田も実際に見た落ち武者の墓を「八つの塚」と表現している。

結論から言うと、本当にこの村が16世紀から「八つ墓村」と名乗るようになったというのは疑わしい。落ち武者伝説の生まれる以前から「八つ墓村」と名乗っていたのではないだろうか。

「八つ墓村」ではなく「ヤツハカ」

村名を考えるとき、漢字に囚われてはいけない。

まず、「ヤツハカ」という地名が先にあり、「八つ墓」という漢字を後から当てはめたと考えるべきだ。

この「ヤツハカ」という地名ができたのはいつか。

伝承によれば、落ち武者は村人に歓待されたというから、落ち武者が来る前にはすでに人が住みついていて、炭焼きをしていたと考えられる。

そもそも、農作業がままならない村にわざわざ16世紀になってよそから移住して村ができたとは考えづらい。もっと前からこの地に住んでいたと考えるべきだ。

つまり、もっと前からこの地には人が住んでいた。当然、村の名前ももっと前からあったはずだ。

もともと別の名前があったのにわざわざ「八つ墓」という忌まわしき名前に変えたとは考えづらい。

すなわち、もともとこの地は「ヤツハカ」と名乗り、そう呼ばれていた。落ち武者の八つの墓ができる前から。

じゃあ「ヤツハカ」とはいったい何を指しているのだろう。

「ヤ」は「谷」かもしれないし、「屋」かもしれないし、「矢」かもしれない。もちろん、「八」かもしれない。「ツ」は「ヤ」と「ハカ」をつなぐ音であろう。

問題は「ハカ」である。

もちろん、本当に墓を意味する言葉なのかもしれない。落ち武者の墓よりももっと古い墓があったのかもしれない。

一方で、「ハカ」は「ハク」、すなわち「吐く」が転じたものとも考えられる。

「吐く」という言葉が使われる地名は意外と多い。川の合流地に当たり、水害で濁流があふれ出た場所などにつけられることがある。

こういう地名を「災害地名」という。過去にこういう災害があったから気をつけろと、地名を通して警鐘を鳴らしているわけだ。

そして、八つ墓村には、鍾乳洞がある。

鍾乳洞の中には「鬼火の淵」という水場がある。そもそも鍾乳洞とは地下水が流れて生み出されるものなのだから、水場があるのは当然と言える。

そして、鍾乳洞の水場というのは大雨の際に氾濫して、地上へと流れ出る。近年では、岩手を代表する鍾乳洞・龍泉洞が水害で決壊し、洞窟の入り口から濁流があふれ出た。

さて、八つ墓村の鍾乳洞は村内の「バンカチ」と呼ばれる場所まで続き、そこに出口がある。

水害の時はそこからドクドクと水があふれ出たのではないだろうか。それこそ、水を「吐きだす」ように。それが、ヤツハカの「ハカ」の意味するところなのではないだろうか。

やがてそれが村はずれにある八つの塚と奇妙に符合し、「八つ墓村」という字があてられたのではなかろうか。

八つ墓村落ち武者伝説は事実なのか?

八つ墓村には確かに落ち武者がいた。それは寺田の報告から明らかである。

しかし、「多治見家がその落ち武者を殺した」という伝承は果たして事実なのだろうか。

もし、本当に落ち武者殺しがあったのだとしたら、落ち武者の霊を鎮める祭りがあってしかるべきではなかろうか。だが、寺田も横溝もそういった祭については一切言及していない。

八つ墓村の落ち武者伝説は、全国各地にある「六部殺し」の伝承によく似てる。

「こんな晩」とも呼ばれているこの伝承は、次の通りだ。

ある家の旅の六部がやってくる。家のものは六部を泊めるが、六部の持っていたお金に目がくらみ、六部を殺してしまう。

そのお金で家は裕福になった。子供も生まれたが、子供はどういうわけかいくつになっても口がきけない。

さて、ある晩に子供がむずがるので小便化と父親が子供を連れて外に出た。すると、初めて子供が口をきくのだ。

「おれが殺されたのも、ちょうどこんな晩だったな」

そう言って振り返る子供の顔は、殺された六部そっくりだった……。

これは全国各地にある伝承だ。八つ墓村の伝承と比べると、六部と落ち武者の違いこそあれ、「大金を持っていたために殺されてしまう」「のちに怪奇現象を引き起こす」という点で共通している。

八つ墓村の落ち武者伝説は、この六部殺しが変形したものではないだろうか。

なぜ、六部殺しなどという奇妙な伝承が生まれたのかというと、ねたみが根底にあるという説がある。

村の中で急に裕福になった家が出てくる。すると「あの家は何か悪いことをしてもうけたに違いない」というウワサが出てくる。やがてそれが「旅の六部を殺して……」なんて話になっていくわけだ。

寺田の報告によると、落ち武者殺しの首謀者とされる多治見家は今でも莫大な資産を保有しているらしい。落ち武者伝説はそんな多治見家への妬みから生まれたのかもしれない。普通は「六部殺し」になるところを、たまたま八つ墓村には落ち武者が逃げ延びていたから「落ち武者殺し」になったのだ。

さて、本当に落ち武者殺しはあったのか。ここで一つ、寺田が気になる報告をしている。

多治見家は代々、落ち武者の甲冑をお社に入れてご神体として祀っていたというのだ。

たたりをなす落ち武者の遺品を事件の首謀者がいつまでも取っておくだろうか。八つ墓明神に収めて供養してもらうのが普通だと思う。それをわざわざ屋敷の中で祀っていたというのならば、それは多治見家にとってたたりをなすものではなく、福をもたらすものだったのではないだろうか。

僕の推論はこうだ。八つ墓村に確かに落ち武者は来た。ただ、人数が八人だったかどうかはわからない。もっと少なかったかもしれない。

そして、落ち武者は殺されたのではない。多治見の娘と結婚し、多治見家と同化したのではないだろうか。

そして、多治見家は落ち武者のもたらした財産を使って裕福なった(寺田によると、落ち武者の財産はいくらか持ち出された可能性があるらしい)。

つまり、多治見家にとっては落ち武者は富をもたらした「マレビト」であると同時に、先祖でもある。だから、その甲冑を屋敷の中で祀っていたのではないか。

落ち武者の財産は鍾乳洞の奥に隠されていて、そこへ行くには「鬼火の淵」を渡らなければいけないのだが、八つ墓村には鬼火の淵から先には行ってはいけないという伝承が根強く残っている。

この「鬼火の淵の先に行ってはいけない」という伝承は、財宝を守るために多治見家が流したものではないだろうか。

じゃあ、寺田が確認した八つ墓明神の八つの塚はいったい誰のものなのだろうか。

寺田は墓碑銘に関しては一切言及していない。そのため、八つの塚が一体誰のものなのかはわからない。

本当に落ち武者のものかもしれないし、違う誰かかもしれない。落ち武者のものとして、殺されたのか自然死したのかはわからない。僕は自然死した後、村に富をもたらした者たちということで特別なところに祀られ、社が建てられたと考えている。

八つ墓村の歴史

すなわち、八つ墓村の歴史とは次のようなものだ。

「ヤツハカ」と呼ばれる村に永禄9年に落ち武者たちが逃れてきた。彼らは村に同化し、とくに落ち武者たちのリーダーは多治見家の娘と結婚した。

多治見家は落ち武者の財宝を使って裕福になった。そして、落ち武者に感謝の意味を込めて立派な社を作って祀ったのだ。

やがて時がたち、急速に裕福になった多治見家にも「六部殺し」のような噂が立ち始める。ただし、実際に落ち武者が村に来ていたことから、多治見家の場合は「六部殺し」ではなく「落ち武者殺し」となって、一連の伝承が生まれたのだ。

八つ墓村フィールドワークを終えて

さて、最後に言わなければならないことがある。

「八つ墓村」は横溝正史によるフィクションであり、「八つ墓村」などという村は存在しない!

ただ、民俗学という観点で「八つ墓村」を捕えていくと、世界観が深まるよ、という話だ。

横溝正史は3年間岡山県にいたから、実際に自分で見聞きした岡山の山村のようすが八つ墓村に活かされているのかもしれない。バクロウにまつわる民俗や終戦後の山村の様子なども克明に描かれていて、八つ墓村を終戦直後の民俗誌としてとらえてみてもなかなか面白い。

小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「わたしはふたりにこっちがわにきてほしかった!」

「東京大収穫祭」で号泣したたまきに優しく微笑む舞。翌朝、たまきはとある場所でミチと海乃に出会う。一方、喫茶店を訪れた志保にも思わぬ再会が……!

「あしなれ」第14話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「かんぱ~い!」

グラスの触れ合う音が部屋に小さく響いた。

テーブルの上にはお菓子とアイス、フルーツが並んでいる。アイスとフルーツはクレープの売れ残りだ。

クレープは完売とはいかなかった。しかし、8割がたを売り上げ、今テーブルの上にのこっているのはわずかなアイスとフルーツだ。

場所は教会のすぐ近くにあるマンションの一室。志保が通う施設は、マンションの二部屋を借りて男女別のシェアハウスにしている。

「おつかれ」

トクラがグラスを志保の前に差し出し、志保はサイダーの入ったグラスでトクラとこつんとやる。口をつけると炭酸の泡が血管中にしみ込んでいくのがわかる。

お菓子をつまみながらワイワイとやりながら携帯電話に目を向けると、着信があったことに気付いた。

電話は主治医の京野舞からだった。

志保は席を立つと廊下に向かった。十月の初めのマンションの廊下は、室内とはいえ足元が少し寒い。フローリングならばなおさらだ。

リダイヤルを押すと電話を耳に当てる。すぐに舞が出た。

「お、打ち上げ中か? 悪いな。メールしようかと思ったんだけどさ、お前の番号だけでメアド知らなくてさ」

「どうしたんですか?」

志保は少し不安げに尋ねた。

「お前、今夜帰ってこないんだろ?」

「はい。出店の打ち上げです」

「今夜、たまき、うちで預かるから」

「あ、そうなんですか。よかった。亜美ちゃんも帰ってこないみたいだし、たまきちゃん、一人になっちゃうけど大丈夫かなって心配してたんです」

「ふうん」

舞の返事はどこか冷たく感じられた。

「で、あのキャバクラ、名前なんだっけ、『シロ』? あそこのカギ、いま、たまきが持ってるって」

「あ、はい、知ってます」

「つーわけだから、明日お前が帰ってきて、鍵開いてなかったら、あたしんとこに電話してくれ」

「はい」

志保の返事の後、舞はしばらく沈黙していたが、

「ま、打ち上げ、楽しみなよ」

と言って電話を切った。

 

写真はイメージです

チン!という音がして、舞はトースターの扉を開けた。鳥かごの檻のような台の上に置かれた二つの食パンには程よく焼き目が付き、チーズが掛布団のようにとろけている。

舞はそれを「あちち」と言いながらそれぞれお皿に載せると、黄色いスープの素が入った二つのマグカップにそれぞれお湯を注ぎ始めた。

「こっちでよかったのか? あたしがお前んとこ泊まりに行ってもよかったんだぞ」

舞はたまきにマグカップを渡しながらそう言ったが、たまきは静かに首を横に振った。

「……先生、お仕事とかありますよね。……そこまで迷惑かけられないです」

「……スープの素、下の方にたまってるからかき混ぜて飲めよ」

そういうと舞はピザトーストにかみついた。チーズがむにーと伸びる。

たまきは小さく「いただきます」というと、ピザトーストにかぷりと口をつけた。スープも飲もうとするが、ふうふうと息を吹きかけ続けるだけで、なかなか飲もうとしない。

本人は気づいてはいないが、舞から見ると泣きはらした目は真っ赤っかだった。

「少しは落ち着いたか?」

舞が優しく問いかけると、たまきはスープに息を吹きかけるのをやめ、こっくりとうなづいた。

「……ご迷惑かけました。ごめんなさい」

「……何で謝んだよ」

舞はビールの缶のプルタブに手をかけながら尋ねた。

「……結局、私のわがままなんです」

たまきはまだ熱いマグカップを手に、しょんぼりしたようにつぶやく。

「ふむ……伸びるな」

舞の口かっらびろ~んとチーズが伸びる。たまきも同じようにピザトーストを口にした。下味にガーリックペーストがまぶしてあって、香ばしい。たまきのチーズもびろんと伸びたが、舞のようにはうまくいかず、すぐ、ちぎれてしまった。

「……私のは、あんまり伸びないみたいです」

「いや、お前は伸びるぞ。あたしなんかよりずっと伸びる。強くなる」

舞は笑いながらそう言った。たまきは意味が分からず、舞の目を見つめる。

「何かあった時『自分のせいだ』って思える奴は、伸びるぞ。成長できる」

舞はそういうと缶をテーブルの上に置いた。

「ま、お前は自分のせいにしすぎだけどな。そこまで自分を責めると、かえってストレスだ。六割は自分のせい。四割は人のせい。それっくらいがちょうどいいんだ」

たまきはまっすぐ舞の目を見ていた。

「でも、やっぱり私はわがままです……」

「なんでそう思うかね?」

「自分が一人ぼっちだからって、亜美さんや志保さんにこっち側に来てほしいだなんて……」

「誰だってそんなもんさ」

そういうと、舞はスープに口をつけた。

「人間は誰しも、さみしさを抱えてるもんさ。それはな、絶対にぬぐえないんだ。ぬぐおうとか紛らわそうとかするんじゃない。『自分は孤独だ』って受け入れて生きていくしかないんだ」

舞は再びビールの缶に口をつけた。

「……孤独を、受け入れる」

「そうだ。人は誰でもいつか死ぬ。それと同じくらい、人は誰でもいつか孤独を感じる。お前みたいに『私は一人ぼっちだ』って泣いている奴ほど、いざ本当に一人になった時に強いのかもしれんぞ。亜美とか志保とかミチとか、みんなでワイワイやってごまかしてる奴よりもずっとな」

「……みんな、さみしいのをごまかしているだけなんですか? 亜美さんも志保さんも、ミチ君も?」

舞の言っていることが今一つ信じられない。誰とでも友達になれる亜美や志保、カノジョが作れるミチが、たまきみたいに『一人ぼっちはさみしい』なんて言って泣いている姿が想像できない

「お前はさ、あたしが結婚してたから自分とは違うんだ、みたいなこと言ってたけどさ、あたしだってさみしさを感じる時ぐらいあるぜ。いまは男いなくてフリーだしさ。仕事も取材とかもあるけど、一人でここで文章書いているときは、ああ、さみしいなって感じるよ。医者つづけてたら、体力的にはしんどいけど、同僚とか上司とか先輩とか患者とかいたんだろうになって考えると余計に」

舞はそういうと、少し身を乗り出した。

「それではここで問題です。あたしが三十何年の生涯の中で、一番さみしかったのはいつでしょうか?」

舞はにっと白い歯を見せた。

「……そんなの、わかんないです。だって、私は舞先生のその、三十何年のうちの何か月かしか知らないし……」

「まあまあ、あたしについて、知ってる情報の中にもう答えはあるはずだから」

たまきは少し下を向いて考えた。

「……離婚したとき?」

たまきは我ながら失礼な回答だと思った。だが、そもそもクイズにしてきたのはむこうだ。

「おしい。それは第二位だな。離婚届出して、じゃあね元気でねって元旦那と別れて、一人になった駅のホーム。たしかにさみしかった。でも、それは第二位だな」

たまきは舞の言っていることに共感できなかった。別れ以前に出会いを経験していない。

「じゃあ、わかりません」

「正解は、結婚パーティの夜でした」

「え?」

たまきのメガネの奥の瞳が大きく見開かれた。

「あたし、結婚式はやってないんだよ。その代り、結婚パーティってのはやったの。本当に親しい友達だけ集めて、ちょっとしたパーティ会場、と言ってもそこまでデカいところじゃないけどさ、そこを貸し切ってパーティを開いたんだよ。パーティって言っても二十五人ぐらいの規模だけど。みんなに祝福されて、人生で一番幸せだったね」

全然さみしくなんかないじゃないか。たまきは少しむくれた。

「でさ、パーティが終わり、家に帰るじゃんか。でさ、旦那は同業者だったんだけどさ、その日は当直だったんよ。他の日にしたかったんだけどさ、二人の共通の知り合いっていうと医療業界のやつばっかでみんな忙しくてその日しかなくてさ。だから、あたしがシャンパンとか飲んでるよこで旦那はジンジャエールで我慢して、夜勤に行ったのよ」

いつになったらさみしくなるんだろう、とたまきはむくれたままじっと話を聞く。

「で、旦那が出かけて一人ぼっちの部屋の中でふと『さみしいなぁ』ってさ、思っちまったわけよ。信じられるか? 結婚パーティの日だぞ? 先まで旦那がいて、友達がいて、祝福されて、それで一人になった途端に『さみしい』て感じちまったらさ、それってもう、何やっても埋められないさみしさ、ってことじゃねえか」

たまきは、以前にあった強盗のおじさんを思い出していた。誰しも「絶対に埋められないさみしさ」というやつを抱えていたとしたら、あの時のおじさんの「さみしいなぁ」もそういうことなのかもしれない。

「それでさあ、そのタイミングでまさかの、モトカレから電話かかってきたんよ」

「……前に付き合ってた人からですか?」

「そう。『結婚したって聞いて、おめでとう』って。どうしても言いたかったんだと。『ごめんね。もうかけてこないから』って」

それを聞いてたまきは困ったように笑った。

「……それは、迷惑ですね」

「……あたしは、あやうく『今から会える?』っていうところだった。結局言わなかったんだけどさ」

「え?」

驚いてたまきの背筋がピンとなった。

「だって、さみしかったんだもんよ」

「さみしかったからって、それはさすがに……」

いくらそういうのに疎いたまきでも、昔付き合っていた男女が再会して、ただ会って終わり、とはならないことぐらい想像がつく。舞がさみしかったというなら、なおさらだろう。

「だからさ、テレビで芸能人とかがよく不倫してこき下ろされてるじゃん。あたし、気持ちがわからんでもないわけよ」

舞はビールの缶をコトリとテーブルの上に置いた。

「だいたい『家族がいるのに……』っていう批判をされるわけだ。でもさぁ、家族がいるのにさみしさを覚えちゃったらさ、それはもう家族じゃ埋められんわけよ。だとしたらさ、家族以外の人で埋めるしかないじゃんか」

たまきは、舞の言っていることが何となく理解できた。理解はできたが、納得できない。

「でも、それを認めちゃったら……」

「だからさ、『さみしさを埋める』っていうのがさ、そもそもの間違いなわけよ」

たまきは、舞の顔がさっきより近くに来ているのに気付いた。こんな風に舞と一対一で話すのは初めてかもしれない。

「このさみしさからは絶対に逃げらんない。そんでもって、絶対に埋められない。もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

だからさ、と舞は続けた。

「お前みたいに、一人ぼっちで寂しいってちゃんとわかってる奴は、ほんとうに独りぼっちになった時に、そのさみしさに耐えられると思うんだ。恋だ友達だっつって紛らわしてるような奴は、いざ孤独を感じても、耐えられないから紛らわそうとする。その結果、不倫みたいなトラブルを起こしちまうんだよ。それに引き換えお前ときたら、友達になじめないって言って泣いてやがる」

「私は……、べつに自分から耐えてるんじゃないんです。……紛らわせてないだけです」

「結果、耐えてるんだよお前は。ちゃんとさみしさを正面から受け止め続けてるんだ」

舞はそういうとにっこりと笑った。

 

写真はイメージです

日はまた昇り夜が明け、、いらなかった明日がまたやってくる。たまきは、少し早めに舞の家を出た。たまきが「城(キャッスル)」の鍵を持っているのだ。二人が帰る前に戻らないと。

舞が志保に電話してくれたおかげで、もし志保が帰っても鍵が開いていなかったら舞のところに連絡が来ることになっている。そうすれば、「城」までたまきの足でも歩いて5分ちょっとだ。電話が来ればすぐに駆け付けられる。

だが、亜美からの連絡はなかった。舞がメールを送ったらしいが返事はなし。そもそもメールを見ているかどうかも疑わしい。

たまきから見て亜美はまるで自由気ままな三毛猫だ。ふらりとどこかに行って、ふらりと帰ってくる。

どこかへ行くときの決まり文句はたいてい、「シゴト」と「隣町の美容院」だ。亜美が「隣町の美容院に行ってくる」と言って、本当は何をしてるのかは考えてもわからないし、「シゴト」と言って出かけて、そこで何をしてるのかは考えたくもない。

そして亜美は突然帰ってくる。朝に帰ってくることもあるし、真夜中に帰ってくることもあるし、次の日の夕方に帰ってくることもある。

つまりは、亜美が一体いつ帰ってくるのかはたまきにも予想がつかないのだ。帰ってきたはいいが鍵の開いていない「城」の前でいらだつ亜美を想像すると……、

なんだか、めんどくさい。

たまきは「城」のある太田ビルに向かってとぼとぼと歩いていた。

舞の住むマンションと太田ビルの間にはホテル街が広がる。たまきはどことなくうつむきがちにそこを通り過ぎていく。たまきのすぐわきをトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。うすい朝もやの向こうにはまぶしいばかりの朝日が見える。朝日を見るのは久しぶりだ。

ホテル街の一角に「CASTLE」というホテルがある。名前の読み方は「城」といっしょだが、こっちの方がよっぽどお城っぽい外観だ。

その入り口から誰かが出てきた。案の定、男女のカップルである。道路と自動ドアの間には小さな噴水があり、カップルはたまきから見て噴水の向こう側を歩いている。たまきはなるべくそっちを見ないように歩いたが、ちょうどカップルが道路に出たところでバッティングしてしまった。

たまきはカップルをちらりと見上げると、すぐに目線を足元に落として、二人が通り過ぎるのを待とうとした。しかしカップルに、特に男の方に見覚えがる気がして、たまきはもう一度カップルの方を見た。

相手も同じことを考えていたらしく、たまきの方を見つめている。

たまきは半ばあきれたように言った。

「……おはようです」

「おはよう……、ってか、たまきちゃん、こんなところで何してるの?」

カップルのうち男の方、ミチが少し驚いたように言った。左隣にはミチと同じくらいの身長の、茶髪の女性がいる。たまきにもなんとなく見覚えのある顔だ。たぶん、海乃って人だろう。ミチの左手と海乃の右手がしっかりと恋人つなぎされていた。

「あれ? もしかして、たまきちゃんも朝帰り?」

こんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことをたまきは不快に思いながら

「舞先生のところにいました」

とだけ答えた。

「ミチ君こそ、こういうところ泊まっていいんですか?」

「まあまあ、細かいことは気にしないの」

ミチはそう言って笑う。すると、海乃がミチの左手を軽く引っ張った。

「みっくん、お友達?」

厳密にはたまきと海乃は初対面ではないのだが、一度だけ店に訪れた地味な客の顔など、海乃は覚えておるまい。

「そうそう、友達」

「知り合いです……!」

いつもより強めにたまきは否定した。

「へぇ、どういうお友達? 同級生?」

海乃は何か興味を引かれたらしい。

「いや、最近知り合ったんだけどさ。引きこもりのたまきちゃん」

「引きこもり?」

海乃が不思議そうに聞き返した。

たまきはむっとした。「引きこもり」だなんて紹介、あんまりじゃないか。

しかしたまきは学生じゃないし、社会人でもなければ、フリーターですらない。不本意ながら、「引きこもり」以外に自分を表す肩書が見つからない。

「へぇ~、かわいい~」

海乃はたまきを見ながらそう言うと、笑顔をこぼした。

引きこもりのなにをもって「かわいい」なのかわからない。たまきは、昔、家族で水族館に行ったときに姉がクラゲの水槽の前で「かわいい~」と言っていたのを思い出した。いまの海乃の「かわいい」に似ている気がする。きっと、海乃は「ヒキコモリ」をナマコかウミウシの仲間かなんかだと思っているのだろう。

「あれ、でも、この子ヒキコモリなの?」

海乃はたまきを指さすと、不思議そうにミチの方を見た。

「だって、外にいるよ?」

海乃は笑いながらそう言った。それを聞いてミチも

「ほんとだ。確かに、たまきちゃんって引きこもりだと言っている割には、けっこう外にるよね」

と言って笑う。

ミチが「たまきはわりと外にいる」と思っているのは、外でしか会わないからだ。たまきはそのほとんどを「城」の中で具合悪そうにゴロゴロして過ごす。たまに体調がいい時に頑張って都立公園まで行き、そこでミチと出くわすのだ。ミチはその「たまに体調がいい時に頑張っている」たまきしか知らないのだ。

「この子、いくつ?」

海乃は横にいるミチに尋ねた。

「一個下だから、今十五才だよね?」

ミチの言葉に、たまきは無言でうなづいた。

「みっくんの一個下ってことは、高校生?」

海乃はまた隣のミチに尋ねた。なぜ、本人を目の前にしてとなりに尋ねるのだろうか。

「でも、不登校だから、高校は行ってないよ」

「へぇ~」

海乃は奇異なものを見るかのようにほほ笑んだ。きっと、「フトウコウ」もフジツボの仲間ぐらいに思っているのだろう。

ふいに海乃は手を伸ばすと、たまきの黒い髪を撫でた。

「ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ」

たまきは驚いたように、自分の頭をなでる海乃の手首を凝視し、次につながれた二人の手をじっと見ていた。

「海乃さん、俺だって学校行ってないよ?」

ミチが口をとがらせた。

「みっくんはちゃんと働いてるじゃん」

海乃はそう言って笑った。

「じゃあね、たまきちゃん」

海乃はそういうと、ミチと手をつないだまま歩き出した。さっきからずっとつなぎっぱなしである。

海乃は振り返ると、たまきに向かって手を振っていた。たまきは、その手をじっと見ていた。二人の姿が見えなくなるまで、海乃を見つめていた。

 

写真はイメージです

駅と歓楽街の間のにぎやかな通りを志保は歩いていた。

鍵を持っているたまきが舞の家に泊まっているということは、「城」に帰っても中に入れないかもしれない。舞に電話することも考えたが、まだ二人とも寝ているかもしれない。どこかで時間を潰そうと志保は歓楽街へと続くルートを外れて、ふらふらと散策していた。

駅前の繁華街は、「城」がある歓楽街ほど物騒でないとはいえ、やっぱり飲み屋が多く、朝から落ち着ける志保好みのカフェなんていうのはさっぱり見つからない。月曜日の朝はスーツを着た出勤途中のサラリーマンが通りを埋め尽くし、その中をカフェを探して歩くのはなんだか申し訳ないような気分にもなってくる。

駅からだいぶはなれたところを歩いていると、喫茶店を一件見つけた。カフェではなく喫茶店。スタバのような「カフェ」ではなく、昔ながらのレトロな喫茶店だ。昭和のころはきっと、こういうのが最先端のおしゃれだったのだろう。

入口には午前七時から営業中と書いてあった。時間は既に七時半。中にはサラリーマンらしき男性や、オフィスレディが座ってコーヒーを飲んだり、軽食のようなものを食べたりしている。

志保は店の中に入った。ドアは手動で、少しずつ、まるで店の空間の機嫌をうかがうかのようにドアをして、志保は足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ~」

若い男性の店員が志保を席へと案内する。

志保は席に着くと、ミルクティを注文した。カフェオレにしようかと思ったけど、これから帰ったら少し寝たいのでやめておいた。

周りはやはり出勤前のサラリーマンやOLばかりで、志保には少々居心地が悪い。

ふと、志保が視線を感じてそっちの方を見ると、先ほどのウェイターの男性が志保の方を見ていた。

どこかで見た顔だ。どこかで会っただろうか。わりと最近、会ったような……。

あ!という志保の声が店内に響いた。周りの客たちの視線が志保に集まる。志保は声を出してしまったことが恥ずかしいといいたげに顔を赤らめると、ウェイターの方に歩み寄って、声をかけた。

「あの……、この前、助けて下さった方ですよね。ほら、繁華街の前の大通りの信号で……」

志保の言葉を聞いたウェイターは

「やっぱり!」

と声を上げた。背が高く、黒い髪は軽くパーマをかけている。顔だちはこれといった特徴があるわけではないが、ウェイターの制服と相まって、さわやかそうな印象を受ける。

制服の胸ポケットには、「田代」と書かれた名札がついていた。

「やっぱり、この前の子だよね?」

「あ、あの時はありがとうございました」

志保はまだ恥ずかしさが残る中、ぺこりと頭を下げた。

二週間ほど前、幻覚や幻聴のようなものに襲われ、赤信号なのに道路に飛び出してしまった志保。すんでのところで腕を引っ張って助けてくれたのが彼だった。名前も連絡先も知らなかったのだが、また会えるとは。

「いや、元気そうでよかったよ」

田代はほっとしたようにはにかんだ。

「あの時は本当にご迷惑を……」

「いいよ、そんなに気を遣わなくて。具合悪かったんでしょ?」

「は、はい……、まあ」

あの時は確かに具合が悪かった。嘘ではない。

「この辺、よく来るの?」

「……この町にはよく来るけど、このあたりに来るのは初めてです」

これは少し嘘が入っている。「よく来る」のではなく、住んでいるのだ。ただ、家賃を払っていないのだが。

「へぇ~。学生さん? 高校生?」

「……はい」

これは嘘ではない。もう4カ月ほど学校に行っていないが、退学届けを出した覚えはない。

「今日、学校休み?」

「……はい。ぶ、文化祭の振り替え休日で……」

これは嘘である。昨日まで文化祭みたいなことをしていたのは事実だが。

志保は席に戻ると、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。女性エッセイストの単行本の続きを読み始める。

数分たって、田代がミルクティーを運んできた。

「お待たせしました。ミルクティになります」

その言葉づかいが志保には少しおかしかった。「ミルクティになります」って、もうミルクティになっているじゃないか。

田代は、志保の読んでいた本に目を落とした。

「その人の本、面白いよね」

「え、こういうの読むんですか?」

意外である。男性がこの著者のエッセイを読んでいるイメージがない。

「まあ、女性向けなんだろうなとは思うけど、その人、視点というか、切り口が面白いから、読んでて楽しいよ」

「ですよね! 私も、そういうところが大好きなんです」

これは本当である。

「それじゃ、ごゆっくり」

田代は軽やかな足取りで離れていった。

カップの中に志保は視線を落とす。「城」を一歩外へ出ると、嘘をつかないと誰かとしゃべれない。クスリのこと、高校のこと、今住んでる場所のこと。同じ施設に通う依存症患者たちに出さえ、「城」のことは嘘をついている。いつからこんな人間になってしまったのだろう。

もっとも、志保の性格が嘘つきになってしまたのではない。隠さなければいけないことが多すぎるのだ。

志保はカップを持ち上げると、ミルクティに口をつける。

レモンは入っていないはずなのに、なんだかレモンみたいな味がした。

信じてもらえないだろうが、本当である。

 

写真はイメージです

太田ビルの4階にはビデオ屋が入っている。もはやビデオテープは置いておらず、全部DVDのディスクなのだが、みんな「ビデオ屋」と呼んでいる。

とはいえ、普通のテレビや映画のビデオは少ないし、子供向けのアニメなんて全くおいていない。そのほとんどがアダルトビデオで、おまけによくビデオ屋のアダルトビデオコーナーの入り口にあるのれんらしきものが見当たらず、たまきのような子供でも簡単に目に入るところにアダルトビデオが置いてある。法律にしっかり基づいたビデオ屋なのかと首をかしげたくなる。

そんなビデオ屋だから、入口には裸一歩手前の女性のポスターがたくさん貼ってある。ここを通るたびに、たまきはそのポスターを見ずにはいられない。

別にいやらしいことを考えているわけではない。ポスターの中の彼女たちの笑顔が気になって仕方ないのだ。

心からの笑顔なのか、自分の美貌に自信があるのか、それとも、巷のうわさ通り無理やりやらされているのか、そもそもそんなことを考えているのはたまきのエゴなのか。

もしかしたら、この人たちもさみしいのかな。そんなことを考えて、たまきは階段を上る。

階段を上るにつれて、水平線から昇る太陽のように金色の髪の毛が見えてくる。

想定していた中でも、割とめんどくさい状況のようだ。

階段を一段上ると、亜美の顔が見えてきた。なんだか小刻みに揺れている。

ドアの方をにらむ目はつりあがり、口はとがっている。たまきには亜美がとても苛立っているように見えた。

想定していた中でも、トップクラスにめんどくさい状況が発生しているらしい。たまきは重い足取りでゆっくりと階段を上った。

亜美が小刻みに揺れていた理由は、脚だった。脚がかくかくと上下に揺れている。苛立ちからくる貧乏ゆすり、と呼ぶにはだいぶ激しい。「メガ貧乏ゆすり」とでも呼べばいいのだろうか。ブーツがコンクリートの床に触れるたびに、タタタンタタタンとリズムよく音が響く。

亜美は、たまきが階段の残り2段のところまで来て初めてたまきに気付いた。「気配の薄さ」ならばたまきはどこのクラスに行ってもトップを取れる自信がある。

亜美は勢い良くたまきの方に振り向くと、がなった。

「お前、どこ行ってたんだよ! 今、八時だぞ、八時! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ!」

「亜美さんはいつ帰ってきたんですか?」

「あ? 15分前だよ」

亜美の方こそこんな時間までどこをほっつき歩いていたのだろうか。

「メール、見なかったんですか?」

たまきは亜美と視線を合わせることなく尋ねた。

「は? お前、ケータイ持ってないんだから、お前からメールが来るわけないだろ?」

「私じゃないです。舞先生からです」

「先生?」

亜美は自分の携帯電話を開いてピコピコといじった。

「あれ、なんか来てる」

亜美は今初めて、昨日の夜十時ぐらいに舞が送ったメールを見ているらしい。

「なるほど。お前、そういうことは早く言えよ」

「……早く伝えたつもりなんですけど……」

たまきはもうここでこの件は終わらせたかった。「亜美は何をしていてメールに気付かなかったのか」は知りたくなかったからだ。ミチの朝帰りを見てしまったから余計に。

それまでぶすっとしていた亜美だったが、急に顔をほころばせると、

「ま、お前が生きててよかったよ」

と言ってたまきの頭をポンポンと軽くたたいた。さっき、海乃に触られた時よりも、なんだかとってもやさしい触り方だった。

「……心配してたんですか?」

「ま、うちもこの歓楽街にいたからさ、お前がここで自殺してたらパトカーとか救急車のサイレンが聞こえたはずだから、生きてるんだろうなぁ、とは思ったけど」

亜美はバカのくせに、そういったことには頭が回る。

「ウチはむしろ、お前もとうとうナンパされて朝帰りデビューしたのかと思ってたよ」

またこんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことにたまきはがっかりした。

そこに、パタパタと足音を鳴らして、志保が戻ってきた。

「ハァ、ハァ、やっぱり、5階ってキツイ……」

志保はいつも骨のように細い手足を震わせ、息切れしながら昇ってくる。

「あ、たまきちゃん、帰ってる」

「お、志保、おかえり。お前、たまきが今までどこにいたか知ってるか?」

亜美はまた悪巧みしたかのような笑みで志保に問いかけたが、

「え? 先生のところでしょ?」

とあっさりと返した。

「なんだよ! 知らなかったの、ウチだけじゃん!」

「亜美ちゃん、エッチなことに夢中で、ケータイ見なかったんでしょ」

「いや、メール来たときはカラオケしてた。今度、三人でカラオケこうぜ!」

「カラオケ~?」

志保は左手を右肩に置いた。

「あたしはいいや。歌はあまり得意じゃないの」

「……私も、歌うのはあまり……」

「え~、そんなこと言わないでさ、っていうか、たまき、カギ! あと、ウチの財布!」

「……あ、はい」

たまきはカバンから亜美の財布を取り出すと、亜美に返した。

亜美は財布を開けて、鍵をさぐる。ちりんちりんという鈴の音が財布の中から聞こえる。

「……二人も、さみしいんですか?」

たまきの突然の問いかけに、亜美の手が止まった。

「たまきちゃん、どうしたの急に」

志保がやさしく微笑みながら聞き返す。

「……何でもないです。忘れてください」

たまきはばつの悪そうにうつむくとそういった。

亜美は、取り出した鍵をたまきに渡すと、

「ウチ、屋上でたばこ吸ってくるから、先、中入ってて」

というと、そのまま屋上へと続く階段へと向かった。

 

たまきと志保は鍵を開けて中に入る。たまきはふらふらとソファへと向かうと、ころりと横になった。

落ち着く。家族と暮らしていた実家よりも、落ち着く。

「城」がこんなに落ち着く場所になったのはきっと、亜美も志保もたまきには深く干渉しようとしないからだろう。特に亜美は普段ずかずかしているくせに、ほんとうに放っておいてほしい時には放っておいてくれる。

でも、昨日は放っておいてほしくなかったな。一緒にばっくれて欲しかった。

そんなことを考えながら、たまきは眠りにつく。

志保がたまきのことを放っておいてくれるのは、彼女のコミュニケーションスキルの高さによるものだ。たまきのような子はあまり接近しすぎず、少し距離を置いておいた方が相手も楽だということを知っているのだ。

亜美は、そんな風に頭を働かしてたまきのことを放っておいてくれるわけではない。

たまきに放っておいてほしい時があるように、亜美にも放っておいてほしい時があるから、なんとなく相手の放っておいてほしい時がわかってしまう。それだけの話である。

 

つづく


次回 第15話「場違い、ところによりハチ公」

シブヤへと買い物に来た3人。だが、たまきはどうしても自分が場違いな存在だと感じてしまう。そんなほのぼのとした(?)休日。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」