旅ボッチと旅パリピ

「旅人」というとどんなイメージだろうか。高橋歩みたいな、誰に対してもフランクで、世界中のどんな人とも友達になれちゃう人? だが、旅人が全員そんな気さくなわけではない。人見知りだって旅をしていいはずだ。もっと孤独な旅があったっていいじゃないか。


旅ボッチと旅パリピ

先日、「旅祭2017」に参加してきた。

そこで感じたのが、「あれ、僕、この祭り、馴染めない」。

地球一周を経験し、「旅」というジャンルの中では否応なしに自分がもう初心者ではないのだと痛感することが多いのだが、それでも「旅」というジャンルを全面に出した祭になぜかなじめない。

なぜだろう。なんだかやたらフランクな参加者(客としてきた人も、作り手として参加した人も両方含む)を見て、僕はあることに気付いた。

世の中の旅人には、「旅ボッチ」「旅パリピ」がいる、ということに。

要は、「人づきあいが得意か苦手か」であり、僕はそれを「学校の教室の中心と周辺」と呼ぶこともある。

旅祭の参加者の大半は、みんなでワイワイするの大好き、人としゃべるの大好き、国際交流大好きという「旅パリピ」なんじゃないかと思った。これは、そのまま日本の旅人全体の比率に当てはまるかもしれない。

旅祭のステージに上がっていた「旅の達人」の中にも旅パリピはいた。

僕がアニキと尊敬する四角大輔さんなんかはもともと人と話すのが苦手だったというだけあって、大輔さんと伊勢谷友介さんの対談なんかは非常に落ち着いた、身のある者だった。また、グレート・ジャーニーを成し遂げた関野吉晴さんのトークもとても落ち着いていて、おもしろかった。

特に、大輔さんに関しては、ピースボート88回クルーズでとてもお世話になったのでよく知っている。決して旅ボッチではないが、旅パリピでもない。「孤独であること」の大切さをとても理解されている人だ。

だが、その一方で、いわゆる居酒屋トークに終始したトークをステージ上でしていた人たちも無きにしも非ずだった。

大輔さんよりも一回り二回り若い世代だろうか。内輪ネタをステージ上で繰り広げ、芸人の真似事みたいなしゃべり方をする。どうも僕にはピンとこなかった。彼らが旅パリピで、僕が旅ボッチだから、ということなのだろうか。

「旅先で友達が増える!」そんなのは嘘だ!

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

「旅に出れば世界中に友達が増える」という甘言で旅ボッチを惑わすのは、金輪際やめていただきたい。

旅ボッチと旅パリピ、教室の中心と周辺

とはいえ、そもそも全員を旅ボッチ・旅パリピと分類できるわけではなく、グレーゾーンもたくさんいる。僕の実感では、「旅ボッチ」の域に達しているのは全体の15%ほどだろうか。「旅パリピ」が35%ぐらいだと思っているので、数にして3倍の開きがある。

半分くらいはグレーゾーンに分類される。そういう意味では旅パリピも少数派である。何も、そこまで目の仇にしなくてもいいじゃないか。

しかし、旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

だからさっき「教室の中心と周辺」という言葉を使った。僕はスクールカーストといった階級制よりも、中心と周辺という表現の方が実態に合っていると思う。

学校の教室にはいわゆる「イケてる人たち」と「イケてない人たち」がいる。「イケてる人たち」は常に教室の中心にいる。それは、物理的に中心にいるわけではなく、会話の中心、情報の中心、注目の中心という意味だ。そして、「イケてない人たち」いわゆる会話の輪のようなものの外側にはじかれてしまう。

例えば、同窓会とかでこんな経験をしたことはないだろうか。

A君「あの時、BとCが付き合ってたよね」

Dさん「そうそう、あったあった」

僕「なにそれ! 今、初めて聞いた……」

このように、教室の周辺部にいる人間にはあまりクラスの情報が入ってこない。情報も会話も、このA,B,C,Dのような「クラスの中心の人たち」で回されて、注目も「クラスの中心の人たち」に集まる。周辺の人たちに会話や情報が回ってくることもなければ、周辺の人たちが話題に上ることもない。

そして、この構造が、教室を飛び出して「旅」というフィールドでも同じことが起こっているのだ。

旅人同士の情報は声の大きい旅パリピ内で回ってしまい、注目も旅パリピが独占する。

結果、旅パリピの「旅とはこういうものだ!」「旅人とはこういう人たちだ!」という、一方的な視点だけが流布することになる。

その結果、旅パリピの価値観に基づいて、旅の本が作られたり、旅のイベントが作られたりする。

そうやって、気づけば「旅」に関する情報や空間がどんどん旅パリピ色に染められている。

その結果、旅ボッチは大好きな「旅」の世界の中でも、中心には行けず周辺にはじかれてしまう。

よく「旅はどこに行くかではない、誰と行くかだ」なんて言葉を聞く。これこそ、旅パリピの極みではないだろうか。

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

誰かと一緒にいたって、目を奪われるような絶景を目にした時、隣に誰かがいるなんてことを忘れてしまう瞬間だってあるだろう。

だいたい、隣にいる人間が、必ずしも同じ景色を見て、同じことを感じているとは限らないのだ。

もっと、旅ボッチを、孤独な旅を、認めたっていいじゃないか。

旅祭2017 ~最果ての地、幕張~

幕張で行われた「旅祭2017」に参加してきた。旅祭には去年に続いて2年連続での参加となり、自分は去年からどう変わったのか、何も変わっていないのか、そして「旅」とはなんなのかを考えるいい機会となった。それでは、幕張で行われた旅祭2017を振り返ってみよう。


幕張到着

旅祭2017の会場は幕張海浜公園。今回、僕は初めて幕張を訪れた。

海浜幕張駅前は埋め立て地で、近未来的な街並みは、この日始まったばかりの「仮面ライダービルド」や、「宇宙戦隊キュウレンジャー」のロケ地にぴったりだ。

 

また、イオングループのおひざ元でもある。

 

さすが千葉だ。タワー・オブ・テラーまである(違います)。

 

会場はロッテの球場のすぐ隣だった。

 

だが、ここで不思議な事件が起きた。

みんな、スマホを片手に道に迷っているのだ。

なぜ、スマホを持ているのに、道に迷う?

僕なんか、これしか持ってないのに。

僕も若干迷ったが、方位磁石と、昨日見た記憶の中の地図を駆使して、大きな進路変更をすることなく、無事会場にたどり着いた。

「スマートフォンの機能を高めるより、本人の頭脳と勘を磨くべきだ」という僕の理論がまた一つ実証された。

旅祭2017 トークライブ 高橋歩×四角大輔

去年もオープニングアクトはこの二人だった。旅祭の発起人で、自由人であり作家の高橋歩さんと、ニュージーランドの湖畔で生活していて、僕がアニキと敬愛してやまない四角大輔さん。プライベートで親交の深い二人の旅人のトークからのスタートだ。

会場入りした僕は、マップを見ることなく、勘だけでトークライブのステージに直行した。

イルカの話とかハワイの話とかいろんな話が出る中、一番印象に残ったのが、「誰にでも、『理由は説明できないけど、とにかくこれがしたかった』という経験があるはず」、という話で、僕はその話を聞きながら大きくうなづいていた。

心当たりがあるからである。

ピースボート地球一周の船旅の魅力

船に乗ってから2年がたったが、いまだに船に乗った理由をうまく説明できない。たぶん、聴かれるたびに答えが変わっていると思う。

 

さて、トークライブが終わり、しばらく会場をうろちょろした後、いったん僕は会場を出て海浜幕張駅前に戻った。

仕事である、焼肉屋の取材をこなすためである。

旅祭2017 トークライブ 関野吉晴×高橋歩

取材を終えて会場に戻った僕は、高橋歩さんと関野吉晴さんのトークライブを見ることに。

関野吉晴さんは10年をかけて、南米から北米、アジアからヨーロッパ、そしてアフリカへと、人類の起源を逆にたどる「グレート・ジャーニー」を成し遂げた人物だ。

偉大なる探検家もまた、「目的や理由などなく、楽しいから旅をするのだ」と語った。グレート・ジャーニーは10年かかったが、本来ならおそらく5年ぐらいで旅を終えられたはずで、10年もかかったのは寄り道が大好きだったからだと語り、「寄り道をつないでたら一本の道になった」と言っていた。人類史上最大規模の寄り道である。

旅祭2017 MOROHA

続いてはMOROHAのライブ。1MC+1ACOSTIC GUITERという、本人たち曰く「少々毛色の違う」組み合わせだ。

今回、僕が一番楽しみにしていたのがMOROHAのライブである。旅祭2017の開催が発表され、今年は参加しようかどうしようかと出演者ラインナップを見ていた時、MOROHAの名前を発見して即効で参加を決めた。

MOROHAの持ち味は、儚いギターのアルペジオや激しいカッティングなど、既存のヒップホップのトラックとは全然違うサウンドに乗せてキックされる、まるで刃のように心に突き刺さるリリックである。

歌詞のほとんどはMC AFROの実体験に基づいており、曲の構成もまるで一つの物語のようだ。

MC AFROのあごひげから汗が滴るたびに、彼もまた身を削り、彼の人生をラップに変えて紡ぎ出していった。

と言葉で語っても伝わらないので(一応、音楽記事を書くライターです、ボク)、ぜひとも一度曲を聴いてほしい。彼らのライブを生で見れて本当に良かった。

MOROHAの歌の中で一番好きなのがこの”tommorow”である。曲中に「旅祭はいろんなトークライブがあって面白い」とふりを入れた後に、「『人生は旅だ』 そんなのはうそだ! 俺はどこにも行けないじゃないか」と歌いはじめる。

この歌の中にある「本当は一本道の迷路をさんざん迷って人は歩くよ」というフレーズは、関野さんの言葉に通じるものがある。

旅祭2017 Aqua Timez

Aqua Timezを見るのは、10年ぶり二度目である。とはいえ、10年前はライブではなくラジオの公開生放送であった。高校の帰りにいつも見に行くラジオの公開生放送。何も知らずに行ったら、たまたまその日のゲストがAqua Timezだった。

あれから10年。またAqua timezにあえたことをうれしく思う。MOROHAの歌詞で「勝ち負けじゃないと思えるところまで俺は勝ちにこだわるよ 勝てなきゃみんなやめてくじゃないか みんな消えてくじゃないか」というのがあったが、Aqua Timezは10年、やめることなく続けてきたのだ。

大ヒット曲「虹」で始まり、「決意の朝」や「等身大のラブソング」といったヒット曲を披露した。

旅祭から離れてふと思う「旅ってなんだろう?」

とまあ、さもここまで旅祭を楽しんだかのように書いたが、僕には一つの違和感が付きまとっていた。

どうも、この場になじめない。

CREEPY NUTSの『どっち』という曲がある。「ドン・キホーテにも、ヴィレッジ・バンガードにも、俺たちの居場所はなかった」という出だしで始まる曲で、ドンキをヤンキーのたまり場、ヴィレバンをオシャレな人たちのたまり場とし、サビで「やっぱね やっぱね 俺はどこにもなじめないんだってね」と連呼する。

旅祭の雰囲気はまさにこの歌に出てくる「ヴィレバン」だった。やたらとエスニックで、やたらとカラフルで、やたらとダンサブル。

突然アフリカの太鼓をたたく集団が現れたり、おしゃれな小物を売るテントがあったり、やたらとノリのいい店員さんがいたり、なぜか青空カラオケがあったり。

なんだか、「リア充の確かめ合い」を見せられている気分だ。「私たち、やっぱり旅好きのリア充だったんだね~♡ よかったね~♡」という確かめ合い。

会場で何回かピースボートで一緒だった友人たちに会い、その都度話し込んだが、彼らがいなかったら、とっくに帰っていたような気がする。

トークライブも、上にあげた通り刺激的なものもある一方、内輪ウケだけで乗り切ろうとする居酒屋トークみたいなのもあり、そんなもやもやを抱えながら夕方の会場内をフラフラと歩いていると、海岸に出れる道があることに気付いた。

海までほんの100m。海岸といってもおしゃれなビーチではなく、埋め立てによってつくられた人口の海岸である。浅瀬に沈んだテトラポッドに波が太鼓のばちのように打ち寄せる。この穴場海岸を発見した何人かはそこで思い思いの時間を過ごしていた。

久々に海を、波を体感して、船に乗っていた時のことを思いだす。夜、ベッドに寝転ぶと、波のうねりを全身で体感できる。まるで、地球の鼓動を感じているかのようだった。

そんな地球の鼓動に久々に触れ、空を見上げると太陽が輝き、海面は煌く。ペットボトルを開けると波の音に共鳴したのか、ボトルの中から「ブオーン」という何とも不思議な音が出てきた。

ここだったら、何時間でもいれる。

ああ、これこそが旅なんじゃないだろうか。

みんなでワイワイ盛り上がりたかったのではない。観光名所が見たかったわけでもない。行った国の数を誇らしげに語りたかったわけでも、ましてや土産話を誰かに自慢気に聞かすためでもない。

こんな感動を求めて、僕らは旅に出るんじゃないだろうか。

どんな感動かというと、「思いがけない感動」というやつだ。

「全米が泣いた」と書かれた映画を見に行くとか、泣ける歌を聞くとか、泣ける小説を読むとか、そんなのは僕は感動のうちにカウントしていない。

僕がここで「感動」とみなしているのは、大して期待しないで入った食堂のごはんがすごいおいしかったとか、たまたまラジオから流れてきた曲がめちゃくちゃかっこよかったとか、そういうのだ。

もちろん、別に泣きはしない。「泣く」=「感動」ではない。

では、旅人が求める感動ってなんだろうって思うと、見知らぬ街の坂を上った風景がきれいだったとか、初めての土地で何気なく見上げた夕焼けがきれいだったとか、旅先でやさしい人に出会ったとか、そういうのだと思う。

その一瞬に心を奪われたくて、僕らは地の果てを目指す。

この「地の果て」ってのは、別にわざわざパスポートを用意して、飛行機を乗り継いでいくような場所じゃなくっていい。こういった感動が味わえるなら、家から日帰りで行ける千葉の幕張だって地の果てなのだ。

旅祭2017 トークライブ 伊勢谷友介×四角大輔

そういう意味では、四角大輔さんと伊勢谷友介さんのトークライブも、思いがけない感動だった。

もちろん、伊勢谷友介という俳優は知っている。彼が社会活動をやっていることもなんとくなく知ってはいたが、詳しくは知らなかった。

伊勢谷さんは「リバースプロジェクト」という株式会社を経営している。NPOではなく株式会社。社会に貢献し、なおかつそれで利益を上げて収入を得る。そうしないと、誰もまねしようとは思わないからだそうだ。

例えば、車の捨てられるエアバックを使って、かっこいい「エアバッグバッグ」を作ったり、捨てられる野菜をつかって社食の料理を作り、収益の一部を途上国に回したり、そんな事業をしている。

伊勢谷さんの話で一番心に残っているのは、「誰しも生まれ持った使命があり、それに気づくか気づかないか」というものだった。

これも、身に覚えがある。

僕はピースボートに乗る前はボランティアセンターおおみやというピースボートの支部でせっせと乗船に向けて活動していたのだが、このボラセンが、なんと僕が乗船中に閉鎖してしまった。

『ボラセンがなくなる』と聞いた日のことは鮮明に覚えている。土曜日で、岩槻にポスターを貼りに行く日の朝だった。

最初、「ボラセンがなくなる」と言われたときは、頭では情報として理解していても、感情が追い付いてこなかった。感情が追い付いてきたのはその日の昼。お昼んカレーを食べていたら、急に泣きたくなった。

その日一日考えて出した答え「大宮ボラセンのような場所を絶対になくしてはいけない」は、2年たった今でも変わることなく、僕が小説を書く原動力となっている。

大宮ボラセンのような場所を仮想現実で再現したくて、僕は筆を執るのだ。これは、僕の「やらなければならないこと」なのだ。

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

旅祭とピースボート

旅祭にはピースボートもブースを出している。写真はマスコットキャラのシップリンだ。

この日は気温もそこまで上がらず、シップリンにとっては割と過ごしやすい一日だったのではないだろうか。去年は、とにかく暑かった。

ブースに近づくと見知った顔がいたから声をかけて見たりして、なじめない旅祭の中で結構助けられたブースでもある。

 

旅祭2017 ナオト・インティライミ

世界中を旅したことで知られるミュージシャンのナオト・インティライミ。旅祭に最もふさわしいミュージシャンの一人かもしれない。

そんなナオト・インティライミのライブだが歌はそんなに歌わず、むしろ旅の話ばっかりしていた。旅祭ならではである。

自身のヒット曲をメドレーにしたり、やけに短くアレンジしたりと、歌以外でも楽しませてくれる、まさにエンターティメントショーだった。

来年も旅祭に行きたいか

旅祭2017を振り返って、「来年も旅祭に行きたいか」と問われれば、答えはイエスである。

僕みたいな「旅ボッチ」は旅祭に群がる「旅パリピ」が苦手なだけであって、旅祭そのものは刺激に溢れた祭だ。

この「刺激」とは、単に「楽しい」とか「面白い」とかそういった刺激ではない。

今、自分がやっていること、すなわち、自分の旅路を振り返って、次の旅路へと歩みを進めるための刺激だ。

良い刺激、悪い刺激、選り好みすることなく様々な刺激が受けられる場所。それが、僕にとっての旅祭である。

小説:あしたてんきになぁれ 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

「たまきはたまきのままでいいんだよ」

「あしなれ」第8話はそんな話です。


第7話 幸せの濃霧注意報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


数日前と比べても気温は変わらず、まだまだ天気予報では「熱中症注意」の言葉が躍る。

そんな中、たまきは相変わらず黒っぽい長袖の服を着て、公園で絵を描いていた。使うのは普通の鉛筆一本。白い紙を埋めるように、灰色の線が次々と書き込まれていく。隣には、例のごとくミチ。今日もまた汗だくになりながら、ギターをかき鳴らし歌っている。弦の弾ける音はアスファルトを震わし、ミチのハイトーンな歌声が夏の熱気に融けていく。

たまきは、この時間がどちらかというと好きだ。

絵を描いているときは、作業に集中できるため現実を忘れられる。

正直、絵を描くのは好きでもなければ、楽しくもない。ただただ時間を押し流すための作業。

だから、たまきは同じ題材を何度も描いた。絵にこだわりなどないからだ。斜め向かいに見える都庁を同じアングルから灰色の線で何度も描く。

何度描いても都庁はまるで魔王の城だし、その手前の公園の樹木は夜の樹海。白い雲でさえ、薄気味悪い煙のようにしかかけない。

そんな自分の絵が大嫌いだ。でも、絵を描くこと以外、現実を忘れることができないのだからしょうがない。

自分の絵は嫌い。でも、絵を描くことで時間を忘れることは好きだ。

そして、隣で歌うミチ。

何度も本人に入っているのだが、たまきはミチのことが嫌いだ。チャラいし軽いしいやらしいしめんどくさい。誉めるところが一個も見当たらない。

ただ一つ、彼の歌声は好きだった。ハイトーンで力強い歌声に、底抜けに明るい歌詞がよく映える。ミチの歌を聴きながら絵を描けば、こんな自分でも少しは明るい絵が描けるのではないかと期待してしまう。

歌ってる本人は嫌い。でも、彼が歌う歌とその歌声は好きだ。

プラスマイナス合わせて、どちらかというとたまきはこの時間が好きなのだ。

 

ふと、たまきはミチの方を見た。普段は並んで絵を描くことはあっても、嫌いだからほとんどたまきはミチを見ないのだが。

何とも楽しそうに歌っている。汗が音符のように滴る。大声を出してメロディに乗せることがそんなに楽しいのかな、とたまきは不思議に思う。

自分は隣で好きでもない絵を描き続けているのに、その一方でミチはこんなにも楽しそう。

ミチ君にとっての幸せってなんだろう。やっぱり、歌うことかな。

 

「ありがとうございました。『しあわせな時間』でした」

いつも通り、ミチは歌い終わると「世の中」に向けて挨拶をする。その後、しばらく休憩したら、また次の歌を歌い出す。

「あの・・・・・・」

「ん?」

珍しくたまきの方から声を掛けられ、ミチが振り向く。

「ミチ君にとって……、幸せってなんですか?」

「え?」

ミチは驚いたようにたまきを見た。

「……やっぱり、歌ってる時ですか?」

「うん」

間髪入れずにミチは答えた。

「あ、でも、今までで一番幸せだったのは、やっぱカノジョと一緒にいた時かな」

「カノジョいたんですか」

たまきが冷めた目で尋ねた。

「中学の時だけどな。流れで付き合って、しばらく遊んでたけど、自然消滅かな」

たまきには「流れ」も「遊び」も「自然消滅」もよくわからない。

「中学校、行ってたんですか?」

「え、うん」

ミチは「なんでそんなこと聞くの?」という目でたまきを見る。

「……卒業したんですか?」

「当たり前じゃん」

たまきはうつむいて、スケッチブックを見た。ぽたりと、たまきの遥か頭上の空の上から一滴スケッチブックに落ちてきた。

 

落ちてきた一滴は、すぐに山林のように降り注ぎ、やがて銃弾のように二人を襲った。さっきまで広がっていた青空は重い鈍色に染まっている。雨粒が地面にあたる音だけが二人の鼓膜を震わせる。

二人は公園の中のトイレの軒下で雨宿りをしていた。ここまで百メートルほど走ってきたが、二人ともかなり濡れてしまっていた。

たまきの黒い髪はびしょぬれで顔にぺったりと貼りつき、左目を完全に隠した。毛先から、メガネから、水滴がぽたぽたと胸のふくらみへめがけて落ちていく。たまきは胸の前でカバンをしっかりと抱きとめていた。カバンの中にはスケッチブックが半分むき出しのまま入っている。

ミチはそんなたまきをしばらく見ていたが、やがて目をそらした。茶色い髪はしょんぼりしたかのように濡れそぼっている。背中にはギターケース。Tシャツはびしょぬれで、ミチがそれを雑巾のように絞ると、雨粒と同じくらいの勢いで水が流れ落ちた。

ミチは絞ってよれよれになった裾を見る。裾はだいぶ水気が飛んだが、そこ以外はまだびしょびしょだ。

ミチはギターケースをおろすと、Tシャツを脱いだ。ミチの細くもやや筋肉のついている上半身があらわになり、たまきは顔を赤らめるとあわてて目をそらした。

「な、何脱いでるんですか?」

「だって、このままだと風邪ひくじゃん。明日、バイトの初日なんよ。たまきちゃんも脱いだら?」

ミチが冗談めかして笑い、たまきはますます顔を赤らめる。

「脱ぐわけないじゃないですか」

そう答えつつも、亜美さんだったらためらいもなく脱ぐのかな、などとしょうもないことを考えている。

ふと、雨粒の向こう側に、見覚えのあるシルエットを見つけた。

40代くらいの男が自転車を押しながら二人の前を横切ろうとしていた。荷台には空き缶でパンパンになったゴミ袋が取り付けられている。

深緑色のレインコートを着ているその男のおでこは広く、その輪郭はなんだかそら豆みたいだった。たまきは、男の輪郭に、顔に、見覚えがあった。

「あの……!」

たまきの問いかけに男が足を止めてたまきの方を見た。

数日前、「城(キャッスル)」に強盗に入ったおじさんだった。

そら豆顔のおじさんはたまきを見ると、驚いたように細い目を見開き、そして、どこか懐かしそうな笑みを浮かべ、自転車を止めてたまきの方に歩み寄った。

「……君はこの前の……」

「ん? 知り合い?」

ミチが二人の顔を見比べる。

そら豆顔のおじさんを見たら、たまきはなんだかほっとした。

生きてたんだ。

帰ったら、志保に教えよう。きっと喜ぶ。

「あのときは……迷惑かけたね」

おじさんはやさしく微笑んだ。

「……ここで何してるんですか?」

「君と一緒にいた長い髪の子に教えてもらったとおり、駅の地下に行ったんだ。そこであったホームレスの人に、ここに来ればこれからの生き方を教えてもらえるって聞いてね、お世話になってるんだ」

たまきは、目を赤らめて「さびしい」とつぶやいたおじさんの顔を思い出していた。あの時と比べて、おじさんの笑顔は少し軽くなったように見える。

「あの子にありがとうって伝えおいてよ。あの子の言葉で、だいぶ励まされたんだ」

それもきっと、志保が聞いたら喜ぶ。

おじさんは、ミチの方を見やった。

「お友達?」

一拍置いて、たまきが答える。

「……知り合いです」

こんな上半身半裸男と友達なわけがない。

「彼の方は何回かこの公園で見たことあるよ。知り合いだったんだ」

「私たち、二人とも傘持ってなくて……」

「降るなんて思ってねぇもん」

ミチが少し口をとがらせていった。

おじさんは二人を交互に眺めると、口を開いた。

「2人とも、だいぶ濡れちゃってるね。すぐそこに庵があるから、案内するよ。たき火もしてるし、ここよりはましだよ」

「イオリ?」

たまきの問いに答えることなく、おじさんは「ちょっと待ってね」といって、自転車を置いて小走りに走っていったが、やがて傘を2本持って帰ってきた。

「これ使って。すぐそこだから」

おじさんは二人に傘を渡すと、自転車を押して歩きだした。

たまきは、ミチの方を見た。ミチが不思議そうにたまきに尋ねる。

「どういう知り合い?」

「この前、ちょっと……。それより、どうします?」

「あのおっさん、どこ連れてくって言ってた?」

「イオリだって」

「なにそれ?」

「さあ……」

二人は首をかしげる。ミチはめんどくさそうに顔をしかめながら口を開いた。

「どこだかしんねーけど、あのおっさん、ホームレスだろ? ロクなところ連れていかねーって」

「でも……ここよりはましですよ、たぶん」

ミチは空から降り強いる雨粒を見る。まるで鉄柵のように、二人を公園から逃がすまいとしているようだ。

「まあ、風邪ひいたら困るしな……。たき火あるんだったら、そっち行こうか。でも、この公園、たき火禁止だぞ?」

 

「庵」とかいて「いおり」と読む。隠居や出家をしたものが住む小さな家のことで、たいていは森の中にポツンと、木漏れ日を浴びながら立つ木造の小さな離れのことを指す。

二人が連れてこられた庵は、公園の樹木に囲まれていたし、木造ではあったが、一般的な庵のイメージからはだいぶ違った。

木造は木造でもベニヤ板作り。その上にブルーシートがかけられていて、ベニヤの半分以上はそのシートに覆われている。入口は完全にシートに覆われ、人が通るところだけぽっかりと穴が開いている。その入り口は、昔、まだたまきが学校に行けたころ、教科書で見たモンゴルの遊牧民のテントを思い出させた。

大きさは、大型トラックの荷台くらい。天井はミチより少し高いぐらいか。きれいな立方体、というわけではなく、基盤となる大きな家に、中くらい、もしくはもっと小さい家がいくつもくっついている。

さながら、ベニヤ板のおばけのような風体だが、公園の最深部、木々やオブジェの死角となる場所で、積極的に探そうとしない限り、見つかることはないだろう。

おじさんは二人に少し外で待つように言うと、大きな空き缶の袋を抱えて中に入っていった。二人がどしゃ降りの中で傘を差し、外で1分ほど待っていると、おじさんが顔を出し、手招きをした。

中は薄暗く、意外と暖かかった。全体の四分の1は土間になっていて、残りはブルーシートが敷かれていた。シートの上にはちゃぶ台が置かれ、上にはカップ酒と、おつまみらしきものが置かれていた。ホームレスらしき男性が数人、その周りを囲んでいる。

光源は二つ。

一つは板張りの天井からつるされた電球だった。白熱電球というのだろうか。でも、白というよりはオレンジ色の光を放っているので、また別の名前があるのかもしれない。

そしてもう一つ。土間の奥の方にくず入れぐらいの大きさの四角い缶が置かれていた。缶の中には枝が突っ込まれていて、枝の下の方が赤々と光を放っている。たき火だ。

暖かいのはありがたいのだが、においが鼻につく。町中でホームレスの人とすれ違うとにおってくる、あの匂いだ。たまきは隣のミチの顔を見上げた。ミチは顔を少ししかめていた。

そのにおいのもとは、「イオリ」の奥にいるホームレスたちから漂っているのに間違いなかった。みな、四十歳を超えているだろうか。浅黒い肌と、白髪交じりの長い髪が対照的だった。

彼らはみな、異質なものを見る目で人のことを見ていた。中年のおじさんばかりの小屋の中に。未成年が二人入ってきたのだ。無理もない。人の視線が苦手なたまきは、少し後ずさりした。

そして、たまきはあることに気付いた。

この小屋の中で、女性は自分しかいない。

たまきはミチがわきに抱えていた彼のシャツをぎゅっと握ると、振り返って出口を確認した。

二人を案内したそら豆のおじさんが、ホームレス集団の中央にいる男に声をかけた。

「あっちの女の子の方が、前に話した女の子ですよ、センさん」

センさんと呼ばれた男は、二人をにらむように見ていた。品定めしているようでもある。浅黒い肌に長い白髪交じり、灰色のもじゃもじゃのひげ。キャップをかぶり、丸いメガネをかけている。その視線には、不思議と知性と貫禄を感じた。

ホームレスの一人が、二人によれよれのバスタオルを持ってきた。

「風邪ひくぞ。ふきな」

「ど、どうも……」

たまきはどもりながらもバスタオルを二つ受け取ると、少しきれいな方をミチに渡し、もう一方で自分の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。服も濡れてしまっているが、こんな状況で脱ぐわけにもいかず、バスタオルを肩にかけると、たまきは焚火のそばに行き暖を取った。スカートの先からぽたぽたと水滴が地面に落ちる。

そら豆のおじさんが二人に近づくと、優しく微笑みかけた。

「雨が上がるまでここにいなよ」

「……おじさんは今、ここに住んでるんですか?」

「ああ、そうだよ」

おじさんがうなづく。

「今、センさんのところに泊めてもらっているんだ」

「センさん?」

たまきが、さっきセンさんと呼ばれていた眼光鋭い男をちらりと見る。

「そう、あの真ん中の人。『仙人』とか『仙さん』って呼ばれてるんだ」

そう言われてみると、確かに仙人っぽい。

「あの人が、この辺のホームレスのまとめ役なんだ。いろいろ面倒見てくれるんだよ」

舞先生みたいなものかな、たまきはそう思った。

たまきは仙人の方を見ると、「ありがとうございます」といってぺこりと頭を下げた。しかし、仙人は何も反応しない。

「しかし、すごい雨だねぇ」

そら豆のおじさんがテントの外を見ながら言う。その言葉に、ミチが笑いながら返した。

「まあ、よくあるゲリラ豪雨っすよ」

「いや」

重くハスキーな声が響き、たまきは声がしたほうを見た。

「わしらが若いころはこんな降り方はしなかった。地球温暖化の影響か、別に理由があるのか、いずれにしろ、異常気象だ」

声の主は仙人だった。仙人は腕組みしたまま、少し怒ったように続けた。

「異常が何年も続くと、みな異常だと思わんようになる。だが、異常は異常だ」

本当に面倒見がいい人なのかな、とたまきは思ったが、そういえば、舞もあんな突き放した言い方をする気がした。

「お前たち、見覚えがあるぞ。よく階段の上にいっしょにいるな」

仙人が再びハスキーな声で話し始めた。

「ボウズの方はほぼ毎日見るな。ギターでなんか歌っとる。お嬢ちゃんの方はたまに見るな。いつもボウズの隣で、何やら絵をかいとる」

見られていたのが恥ずかしくてたまきは下を向く。

「お前ら、付き合っとるのか?」

「あ、やっぱ、そういう風に見えます?」

「ちがいます! そういうんじゃないんです!」

「・・・・・・だろうなぁ」

仙人は顔を真っ赤にして首を横に振るたまきを見ると、納得したかのように呟いた。

「そういう風には見えんから、聞いてみたんだ」

雨はいまだやむ気配がない。それどころか雨脚は強くなり、傘をさしてもあまり役に立ちそうにない。

「ボウズ」

仙人はミチを見ると、ミチの持っているギターケースに目をやった。

「なんか歌え。いつもこの辺で歌ってるやつだ」

「え、なんで?」

ミチが少しいやそうに答えた。

「お前ら、わしらの家で雨宿りさせてもらってるんだから、わしらに何かお礼をするのが筋ってもんだろう?」

「いや、家ってここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」

「……ごめんなさい」

謝ったのは仙人でもほかのホームレスでもなく、たまきだった。

「それに、たき火とかこういうのやっちゃいけないんじゃないの?」

どうしてそんな突っかかるような言い方なんだろう、とたまきはミチを見て、その後仙人の方を見た。しかし、仙人は表情を変えることなく口を開いた。

「なるほど。ボウズの言う通りだ。お前さんが正しい。おい、みんな、今すぐこの小屋をばらしてここから出ていこう。たき火は消しておけ。ただし、二人とも、傘は返してもらう。それはわしらの金で買った、正当なわしらの所有物だからな」

そういうと仙人はよいしょと立ち上がった。他のホームレスたちも立ち上がり、壁に手をかけ、ベニヤ板がみしみしと音を立てる。仙人はペットボトルを持ってたき火のもとへ来て、たき火に水をかけようとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

あわてたのはミチの方だった。この大雨の中、傘を取り上げられて放り出せれてはたまらない。

「悪かったよ。歌うよ」

ミチがそういうと、ホームレスたちはみな、もといた場所に戻っていった。仙人も、にやりと笑いながら腰を下ろす。

ミチはギターを取り出すとピックを口にくわえてチューニングを始めた。チューニングしながら、隣のたまきに問いかける。

「何歌えばいいと思う? なんかリクエストある?」

たまきは下を向いて考えを巡らせたが、ミチを見上げて、自分の一番好きな曲名を伝えた。

「『未来』って曲が……私は好きです……」

「『未来』ね、オーケー」

ミチは口にくわえたピックを手に取ると、ホームレスたちの方を向いた。

「えー、ミチで『未来』です。聞いてください」

ミチは勢いよくギターをストロークすると、歌い始めた。

――青空の中、飛行機雲がどこまでの伸びていった

――あの先に未来が待っている そう信じ力強く羽ばたくよ

たまきは珍しく、ミチを見ていた。

ミチの声は力強く、ハイトーンながらも、ややハスキーなところもあった。

歌う前は渋っていたミチだが、歌い出すとなんだかんだ楽しそうだ。笑顔が焚火に照らされ、オレンジに輝いている。いつもはたまきしか聞いてくれる人がいないが、今日は他にも何人も聴衆がいる。それがミチのテンションをさらに上げているのかもしれない。

ミチ君は、本当に歌うことが好きなんだ。たまきはそんなミチがとてもうらやましかったが、なぜか口元が緩んでいる自分に気が付いた。

2番のさびが終わり、間奏に入る。間奏と言っても楽器はギターしかなく、ミチが口笛でメロディを奏でるのだが。たまきは、以前ミチが「ハーモニカが欲しい」とぼやいていたことを思い出した。

たまきはホームレスたちの方を見た。たまきより背の高いミチを見上げ続けて首が疲れてきたのもあるが、おじさんたちの反応も気になった。

おじさんたちはみな、つまらなそうにミチを見ていた。そのことにたまきは思わず目を見開いた。

曲調も決して、おじさんには受け入れられないようなジャンルじゃないはずだ。テンポはやや速いけど、ロック系の音楽が苦手なたまきでも好きだと言える曲なのだから。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

最後のサビが終わり、ミチがギターをじゃかじゃかじゃんと弾いて、演奏が終わった。ミチは「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

そら豆のおじさんは微笑みながら拍手をしていた。他にもまばらに拍手があったが、大半は無反応だった。

しばらく静寂が流れる。やがて、仙人が口を開いた。

「声はよかった」

仙人は厳しい目つきのまま言った。

「メロディも悪くない。だがな、歌詞はひどい。ラジオでやっとるヒット曲の切り貼りだ」

「切り貼り?」

ミチが少し苛立ったように聞き返した。

「最近の若い者は、『コピペ』というのか?」

「あぁ?」

ミチの声に、たまきが驚きミチを見る。

「ふざけんな! 俺の歌は、パクリじゃねぇよ!」

「ミチ君……!」

たまきはミチのズボンを引っ張ったが、ミチはそれをふりほどいた。

そんなミチに対し、仙人は勤めて穏やかだった。

「別に盗作とは言っとらん」

「さっきコピペって言ったじゃねぇかよ!」

「そういう意味で言ったんじゃない。あの歌詞は、確かにお前さん自身が書いたものなんだろう。だがな、どこかで聞いたような言葉ばっかりだ。まるで、ヒット曲の歌詞を切って貼ったみたいだ。もちろん、お前さんにそんなつもりはないんだろうが、お前さんがこれまで聞いてきた曲の歌詞によく似た言葉で埋め尽くされている。違うか?」

ミチは黙ったまま仙人を見ている。

「お前さんの言葉で書いたんだろうが、本当の意味ではお前さんの言葉になっとらん。そんなんでは多少歌がうまくても、本当に人の心を打つことはできん。ま、売れる売れないはまた別の話だがな」

仙人の言葉を聞いていると、なんだかたまきまで悲しくなってきた。

ミチは肩を震わせながら仙人をにらむように見ていた。やがて、

「ホームレスなんかに何が分かんだよ……」とつぶやいた。

「ああそうだ。所詮はホームレスの戯言だ。社会の最底辺だ」

仙人はミチの言葉にも表情を崩さなかった。むしろ、少し笑っているようにも見える。

「だがな、そういったやつの心に響かないと意味がないんじゃないのか? 特に、さっきお前さんが歌ってたのは、いわゆる『応援歌』ってやつだろう? わしらみたいなものを励ませないと意味がないのではないのか? それとも、CDも買えないようなホームレスを励ますつもりなんかないか?」

仙人が喋っている間、ミチは口を堅く結んでいた。やがて口を開くと

「……おっさんのゆうとーりっす」

と力なくつぶやいた。

「……すんませんでした」

「何を謝る」

仙人は笑いながら言った。

「侮蔑と偏見は、若者だけの特権だ」

そういうと、仙人はたまきの方を見た。

「お嬢ちゃんの絵も見せてもらえんか?」

たまきは困ったように下を見た。

できれば、自分の絵なんて誰にも見せたくない。自分が好きなミチの歌がぼろカスにけなされたのだ。たまきのへたくそで暗い絵なんて、けちょんけちょんにけなされるに決まってる。

そうでなくても、絵を見られるのはとにかく嫌なのだ。何がそんなにいやなのかわからないが、今この場で裸になれと言われているような感覚だ。理由なんかない。恥ずかしいものは恥ずかしいし、嫌なものは嫌なのだ。

だけど、ミチが仙人たちの前で歌って、ぼろカスのけなされたのだ。なのにたまきが絵を見せないというのは、アンフェアである。

たまきは、肩にかけたかばんからスケッチブックを取り出した。スケッチブックの方がかばんより大きく、かばんからはみ出ていたが、たまきが身を挺して守ったおかげで大して濡れていない。

たまきは下を向きながらスケッチブックを仙人に差し出した。仙人は身を乗り出してスケッチブックを受け取ると、中を見始めた。

もういやだ。お願い。見ないで。

たまきは今にも泣きそうな顔で、ぱちぱちと燃えるたき火を見ていた。仙人に絵を渡さないで、たき火の中に突っ込んで燃やしてしまえばよかった。

たまきは、恐る恐る仙人を見た。仙人は目を見開いてたまきの絵を見つめていた。その後ろに群がるように、ほかのホームレスたちが覗き込んでいる。

もうやめて。お願い。そんなに見ないで。

 

小さいころからよく絵を描いていた。学校へ行っても友達があんまりいなかったので、休み時間もいつも絵を描いて過ごしていた。通知表で2と3が並ぶ中、図工だけは4だった。

中学に上がり、たまきは美術部に入った。美術部の仲間とは、クラスメイトよりは仲良くできた。しかし、そこでは新たな問題があった。

みんな、たまきよりも圧倒的に絵がうまかったのだ。たまきはクラスとは違う劣等感を感じざるを得なかった。

おまけにどうしても明るい絵が描けない。たまきの絵が美術部内やコンクールで評価されることなんてなかった。

 

「この絵を、お前さんが描いたのか」

仙人はそういうと顔をあげ、たまきをじっと見据えた。たまきはほんの少しだけ、仙人と目を合わせたが、すぐに下を向いてしまった。

「……はい……」

のどが自転車で轢かれて潰されたかのように声が出ない。

しばらく沈黙が続いた。たまきは、そら豆のおじさんにもう一度殺してほしいと頼みたくなった。

「都庁の絵が多いね。よく描けてるよ」

そら豆のおじさんは微笑みながらそう言った。しかし、

「いや」

という仙人の低いハスキーな声が、たまきのうなだれた頭をハンマーのように撃ちつけた。仙人はスケッチブックに目をやる。

「確かに、都庁を描いたんだろう。都庁に見える。だが、実際の都庁はこうではない。線の書き方、影の付け方、比率、そういうのが実際の都庁と違う」

たまきは、自分の濡れたスカートのすそをぎゅっと握った。水がジワリと指の間からにじみ出て、ぽたっぽたっと地面に落ちる。

「都庁の手前の木の描き方もおかしい。あの階段に腰かけて描いたんだろう。だったら、こういう風にはならない」

そう言うと、仙人はスケッチブックから目を離し、再びたまきを見た。うなだれるたまきの、メガネのふちを、さっきよりもしっかりと見据えた。

「お前さんには、世界がこんな風に見えてるのか……」

仙人の言っている意味がよくわからず、たまきは顔をあげた。仙人が真っ直ぐとたまきを見据えていたが、不思議と怖くなかった。

「……フィンセントを知っているか?」

だれだろう。たまきは首を横に振った。

「フィンセントは十九世紀のオランダの画家だ。フィンセントの絵は、風景画や静物画、自画像を描くくせに、ちっとも写実的ではない。写実的な絵が描けるにもかかわらず、だ」

仙人は、まっすぐたまきの方を見ながら語りかけた。

「絵筆の痕がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。勢いに任せて筆を走らせ、その躍動感ごとカンバスに刻み付けている。それでいて、色の配置が絶妙だ。計算して色を置いているのか、直感で色を選んでいるのか、わしにはわからん」

そのフィンセントという画家の絵と私の絵、どう関係があるんだろう。

「きっと、フィンセントには世界がそう見えているんだろう」

そう言うと、仙人は今までで一番優しい目をした。

「お嬢ちゃんの絵を見て、フィンセントを思い出した」

 

たまきは不安げにミチを見上げて、再び仙人に視線を戻した。仙人の言っている言葉の意味が、今一つつかめない。

口を開いたのはミチだった。

「つまり、たまきちゃんの絵がフィンセントって画家の絵に似てるってこと……」

「まったく似てない」

ミチが言い終わる前に仙人が打ち消した。

「画風もタッチも全く違う。そもそも、技術に雲泥の差がある。フィンセントはプロとしての確かな技術があった。お嬢ちゃんのは、せいぜい中学校の美術部員ってところだろう」

正解すぎてぐうの音も出ない。

「だが、フィンセントの絵があそこまで人を惹きつけるのは、単に技術力の問題ではあるまい。素人目には、絵なんてうまいか下手かの二択でしかない」

仙人はたまきを見据えながら続けた。

「そうではなく、フィンセントにはああいう風に世界が見えていた。あの絵は、写実画なんだ。フィンセントは自分が見たままの世界をそのまま描いたんだ。だからこそ、いまなお高い評価を受けている」

そう言うと、仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきは申し訳なさそうに受け取る。

「お嬢ちゃんにも、フィンセントのような感性と表現力がある。画力はこれからあげていけばいい。そんなものよりも大切なものを、お嬢ちゃんは持っている。画力なんて、お嬢ちゃんの見ている世界を描くための道具にすぎない。むしろ、お嬢ちゃんの見ている世界をきちんと表現するために、画力を上げるんだ」

たまきは、この上なく不安げに仙人を見た。そして、ずっと気になっていたことを仙人に尋ねた。

「あの……私は……褒められているんでしょうか……」

「ああ、そうとも」

再び仙人はやさしく微笑んだ。仙人のメガネに、たき火のオレンジの暖かな光が写りこんでいた。

 

そら豆のおじさんが庵の外を見た。さっきまで泣きたいぐらいにどしゃ降りだったのに、いつのまにか雨はしとしと降っていた。これなら、傘を差せば帰れそうだ。

「その傘はお嬢ちゃんにあげよう。その代り、またお嬢ちゃんの絵を見せてくれんかね?」

「え、……は、はい」

たまきは戸惑ったように答えた。

「ボウズにも傘をやろう。新曲ができたら聞かせに来るといい」

「……またぼろくそに言うんでしょ?」

「また切り貼りだったらそうなるな」

仙人はにやりと笑いながらそう言った。

 

小雨がしとしと降る中、都庁のわきの道を二人は駅に向かって歩いていた。紺色のコウモリ傘を差したミチ。その後ろを若草色の折り畳み傘を差したたまきがとことこと歩いている。

たまきは歩きながら、ミチの背中を見ていた。絞ってよれよれになったシャツに、黒いギターケースを担いでいる。

ふと、ミチの方が大きく下がった。

「……自信失くした」

その声に、たまきはうつむいた。ミチは少し歩調を落として、たまきが横に並ぶのを待った。

「いや、実力もねぇのに、自信ばっかあったんだな、って思い知らされたよ。悔しいけどさ、あのおっさんのゆうとーりなんだよ」

二人は地下道に入った。傘をたたむ。休日の夕方近くだからか、ゲリラ豪雨の後だからか、いつもに比べて人が少ない。

「だからさ、たまきちゃんに言ってたことも、たぶん、あのおっさんのゆうとーりなんだと思う。すごいよ、たまきちゃん」

ミチの言葉に、たまきはブンブンとかぶりを横に振った。力強く振ったので、メガネが少しずれる。

「……私の絵なんか、すごくなんかないです」

「……俺さ、絵心ないし、絵の良しあしなんかわかんないけどさ、たまきちゃんはやっぱうまいとおもうよ」

「……中学の美術部レベルです」

「独特で面白いと思うし。あのおっさんみたいに何がいいとか細かく言えないけどさ」

「……中学の先生に『不気味』って言われました」

そう言いながらも、たまきは仙人の言葉を一つ一つ、頭の中で反芻していた。

褒められるなんてだいぶ久しぶりだ。それこそ、「はじめて歩いた」とか「はじめて喋った」時以来かもしれない。つまり、褒められた記憶なんてほとんどない。

中学の美術部では、決してたまきは特別な存在ではなかった。突出した技術も才能もなく、入賞するようなこともなかった。

なのに、なんで美術部に入ったんだろう?

小学校のころは、休み時間は絵を描いていてやり過ごしていた。自由帳がたまきの唯一の友達だった。

そう、「絵」はたまきにとって友達だった。誰も友達がいない教室で、絵を描いて世界と対話することがたまきの唯一の救いだった。

その時間だけが、たまきの唯一の楽しみだった。

もっと記憶をさかのぼれば、幼いころの自分が見えた。父と母、そして姉。姉が美少女アニメのお人形で遊んでいる中、たまきはクレヨンでずっと絵を描いていた。動物の絵、町の絵、家族の絵……。ずっと、ずっと、ずうっと。

「……思い出しました」

たまきがそう言って立ち止まった。ミチは2,3歩進んだところでたまきがついてこないことに気付き、振り返った。

「……私、絵を描くことが、好きだったんです」

いたくもない教室での唯一の友達。たまきは絵を描くことで時間を押し流し、なんとか学校に通っていた。でも、たまきよりうまい人なんていっぱいいて、たまきの絵は誰からも褒められない。むしろ、不気味だと顔をしかめられた。いつしか自信を無くし、「絵を描くことが好き」、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。

でも、たまきは絵が好きだった。

絵をほめられたことよりも、そのことを思い出せたことの方がうれしかった。そのきっかけをくれた仙人に、心の中で頭を下げた。

「……今まで、好きでもないのに絵を描いてたの?」

ミチの質問に、たまきはこっくりとうなづいた。

「ずっと忘れてました。むしろ、自分の絵なんて嫌いでした」

そう言うと、たまきはカバンを胸の前でしっかりと抱き止めた。カバンからスケッチブックが飛び出ている。

「……でも、好きになってもいいのかも……」

そう言うとたまきは、少し恥ずかしそうに笑った。

その横で、ミチは大きくため息をつく。

「いいなぁ。たまきちゃんはあんなに褒められて」

人に羨ましがられるなんて、初めての経験だ。たまきは思わず下を向く。自分の鼓動が早くなっているのがわかる。

「それに比べて俺なんて……。なんか、死にたくなってきた」

「簡単にそんなこと言わないでください!」

たまきの珍しくも強い口調に、ミチは半歩後ずさった。

『えぇ~、たまきちゃんがそれ言う?』

と、

『……なんかたまきちゃんが言うと、説得力あるなぁ』

の二つの言葉が声帯のところでぶつかって、言葉にならない。

「……私は、ミチ君の歌は、うまいと思います」

「……ありがとう。でも、うまくても、歌詞が切り貼りなんだってさ……」

そこでまた、ミチは深くため息をつく。

ふと気づくと、またたまきがついてこなかった。ミチは振り返る。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、まっすぐにミチの目を見ていた。

「私は……好きです。ミチ君の、バカみたいに前向きで明るい歌が。聞いてる間、何も考えなくていいので、……私は好きです」

「それってさ……俺……、褒められてるの……?」

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、ミチの目をまっすぐ見つめながら、力強くうなづいた。

 

「はい、どうぞ」

志保がプラスチックのカップに、インスタントのスープを入れてたまきに渡した。

生暖かい風の吹く外とは違い、「城(キャッスル)」の中は冷房が効いていて、たまきは帰ってきてすぐにくしゃみをした。ようやく服を着替えられたが、志保が「風邪ひくといけない」とスープを作ってくれた。たまきはそれをふうふうと冷まして飲む。

「へえ、あのおじさん、元気だったんだ」

「はい」

志保は、たまきがおじさんに再会した話に喜んだ。

「志保さんの言葉に励まされたって言ってました」

「ほんと? よかったぁ! 気になってたんだぁ。亜美ちゃん、あのおじさん、元気だったって!」

志保は部屋の奥でソファに転がっている亜美に声をかけたが、亜美は興味がないらしく、

「ふうん」

とだけ言って携帯電話をいじっていた。

たまきは1つだけ、気になっていることがあった。志保なら知っているかもしれない。

「志保さん、聞きたいことがあるんですけど……」

「なに?」

志保は笑顔で聞き返した。ここしばらく、志保は体調がいいらしい。本当に笑顔が似合う。

志保に聞こうとして、たまきは聞きたかったことの名前をちゃんと覚えていないことに気付いた。何て名前だっけ。

「志保さん、……ピンセットって画家知ってます?」

「ピンセット?」

なんか違う、そう思いながら口にしたのだが、志保の反応を見る限り、やっぱり違うみたいだ。

「……ピンセットじゃなかったかもしれません」

「ごめん。美術史はあんまり詳しくないんだ」

たまきは、必死に仙人の言葉を思い出していた。

「オランダの人で……、十九世紀の人だて言ってました」

それは思い出せるのに、何で名前は出てこないんだろう。志保も頭を悩ませている。

「その画家がどうかしたの?」

「今日あった人が、私の絵を見て、その画家のことを思い出したって……」

「これじゃね?」

そう言ったのは亜美だった。どうやら、携帯電話で検索をかけたらしい。

「十九世紀のオランダ人の画家で、似た名前の奴いたぞ。フィンセント・ファン……」

「あ」

たまきの中で、パズルのピースがピタリとはまった音がした。

「それです。ピンセットじゃなくて、フィンセントです」

「じゃあこれだ。フィンセント・ファン・ゴッホ」

「ゴッホ?」

驚きの声を上げたのは志保の方だった。たまきも自分の耳を疑った。

「ゴッホって、あのゴッホ?」

「じゃねぇの?」

亜美は携帯電話の画面を見せた。画質の荒い「ひまわり」が出てきた。

画面をスクロールさせると、いくつかゴッホの絵が出てきた。夜空を描いた絵、海辺を描いた絵、自分を描いた絵。

絵筆の後がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。まるで、絵筆の痕跡をわざと刻み付けたかのようだ。それでいて、計算したのか直感で選んだのかはわからないが、色の配置が絶妙だ。

そうかと思えば、本を描いた絵は細かく写実的だった。

たまきは、仙人の言葉を思い出した。ゴッホは、そういう風に世界が見えていたんだ。

「たまきちゃん、ゴッホの絵に似てるって言われたの? すごいじゃん!」

「……いや、『思い出した』って言われただけで、全然似てはいないそうです」

「それでもすごいよ! ねえ、見せて見せて!」

「あ、うちも見たい!」

たまきは困ったようにスケッチブックを見た。たまきにとって絵を見られるということは、裸を見られるに等しいことで……。

……この二人なら、べつにいいか。一緒にお風呂に入る関係だ。

たまきは少し顔を赤らめながら、スケッチブックを差し出した。二人がスケッチブックを覗き込む。

「へぇ、たまきちゃん、絵、うまいじゃん」

と志保。

「おもしろい絵だな。なんかさ、Ⅴ系のジャケットでこういう絵ない?」

と亜美。

「そういえばさ」

と亜美が切り出した。

「ゴッホって最後、死んじゃったんじゃないっけ」

「……そりゃ、十九世紀の人だもん。もう、死んじゃったよ」

「そうじゃなくてさ……、確か最後……」

「ああ」

志保が何かを思い出したように声を上げた。

「ゴッホって最後、自殺しちゃうんだよね」

そう言ってからしばしの沈黙を置いて、志保はタブーを口にしてしまったのではないかと不安げな顔でたまきを見た。

しかし、たまきは平然とした顔で、

「そこだけ……似てますね」

と言うと、いとおしげにスケッチブックを見つめていた。


次回 第9話 憂鬱のち誕生日(仮)

亜美の誕生日を祝うことになったたまき。祝いたい気持ちはあるんだけど、何をしたらいいのかがわからない。志保は絵を描けばいいじゃないかと勧めるが、たまきの暗い絵は誕生日には向いていない……。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

ミュージカル「コモンビート」を見て思う、「本当に争いはおろかなのか」

友人らが携わる「コモンビート」というミュージカルを見てきた。友人らの生き生きとした姿が見れて、とてもよかった。コモンビートを見るのはこれで3回目である。同じミュージカルでも3回も見ると、いろんな視点から新たな発見をすることができる。果たして、みんな本当に「争いはおろかだ」と思っているのだろうか。


ミュージカル「コモンビート」とは?

コモンビート。正式名称は「A COMMON BEAT」。通称「コモビ」。ミュージカル作品の名前であり、それを主催するNPO法人の名前でもある。

アメリカのNPO団体「Up with people」が2000年に制作したこのミュージカルは、「個性が響きあう社会へ~Hamony of Uniqueness~」というコンセプトのもと、日本でも公演されている。

このミュージカルの面白い特徴は、実は出演者はみなプロの劇団員ではない、ということだ。さまざまな職業の人々約100人が100日間練習して講演する。「なんだ、素人のミュージカルか」と決めつけるのは早計で、チケット代3500円に見合うクオリティはあると思うし、「素人が100日間でここまでやる」というリアル感、ライブ感もこのミュージカルの売りの一つだと思う。

ミュージカルの面白いところが、「エキストラがいない」という点ではないだろうか。広い舞台の上では高らかと歌い上げる役者がいる一方で、舞台の端や後ろでそれぞれの演技をする役者たちもいる。他にもダンスしたりコーラスをしたり、誰一人「とりあえずそこにいる」という役者はいない。歌う人、踊る人、歩く人、止まっている人、それぞれに大事な役割があり、それぞれがその役割を全うしている。特に今回の公演では舞台上にセットは置かれなかった。そうなると、なお一層、一人一人の演技が物語の世界を紡ぐうえで重要になってくる。メインの役どころだけが歌い、セリフをしゃべっても、ミュージカルは成立しないのだ。

コモンビートのネタバレ?

コモンビートの出演者たちは、大きく4つのグループに分けられる。赤、緑、黄色、青と戦隊モノよろしく色分けされた、四つの大陸である。

情熱の赤大陸はアフリカやアラビアをモチーフにしている(ちなみに、アフリカの国旗は赤・黄色・緑で構成されることが多く、アラビアの国旗は赤・白・黒・緑で構成されることが多い)。

気品の緑大陸はヨーロッパをモチーフにしている(ちなみに、ヨーロッパの国旗で緑を使っているのは、アイルランド、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ベラルーシ、ポルトガル、リトアニアの7か国のみ)。

調和の黄色大陸は日本や朝鮮、中国、インドなどの東アジア・東南アジアのあたりをモチーフにしている(ちなみに、この地域の国旗は赤を基調としたものが多く、黄色を基調としたのはブルネイの国旗のみ)。

自由の青大陸は南北のアメリカ大陸をモチーフとしている(ちなみに、中南米には青を基調とした国旗が多い)。

このように、国旗マニアとしては、赤と黄色は入れ替えた方がいいんじゃないかと思っている。いや、そういうことを言いたいんじゃない。

それぞれの大陸は音楽、ダンス、衣装でこれらのモチーフを表している。音楽・ダンス・ファッションに興味がある人たちは、これらに注目しながら見るのもまた面白いと思う。

さて、これら4つの大陸は、それぞれ互いの存在を知ることはなく、「国境警備隊」という誰に雇われたかよくわからない人たちによって守られている。

しかし、あるとき、彼らは互いの存在を知る。自分たちとは違う言葉、衣装、文化に興味を抱く人がいる一方、「権力者」と呼ばれる人たちは自分たちの仲間を、文化を、伝統を守るため、他の大陸のものたちを排除しようとし、やがて大きな戦いに発展し、多くの命が失われてしまう……。そこて初めて気づく。言葉や衣装、文化が違っても、僕らは同じ心臓の鼓動を、「コモンビート」を持っているのだと……。

というのがミュージカル「コモンビート」のあらすじである。そのまま、人類の歴史と言いかえてもいいかもしれない。

コモンビートの3つ目の視点

コモンビートは「個性が響きあう社会へ」をスローガンに掲げており、ミュージカルを通して「文化や歴史の違いから争いあうのはおろかなことであり、違いを乗り越えて共生することが大切だ」と訴えかけている。

一方で、だからといって戦いを煽った権力者が完全な悪者なのかというとそうではなく、それぞれの民族、文化、歴史、伝統を守るためだったという彼らの正義もきちんと描かれている。

実は僕はコモンビートを見るのは3回目である。1回目は2年前に同じ場所で、2回めはピースボートの船の中だった。

そして3回目にして今回、こういう見方もあるのではないかということを考えた。

「そもそも出会わなければ、交わらなければ、争うこともなかったのに」

コモンビートは4つの大陸が登場し、それぞれに権力者がいる、世界の歴史を描くスケールの大きなミュージカルだ。

一方で、実はこの物語は、それぞれの大陸を一人の人間として見ることもできるのではないだろうか。

人は幼いころは保護者という国境警備隊に守られていた。しかし、やがて学校や社会に出て、他者に触れ、他者と交わるようになる。その中では自身のアイデンティティや自尊心といったものが傷つくこともあり、自身を防衛するために、「敵」とみなしたものを排除しようとすることもある。

悪口、批判、無視、そして暴力など、手段は様々だ。

そうやって人は傷つけ、傷つけられ、傷つけあう。そんな思いをするのなら最初から他者とは交わらない方が賢明ではないだろうか。

なんて問いかけをすると、おそらく多くの人が「それは違う」と答えるだろう。人と交われば傷つくことも多い。しかし、そこを乗り越えてこそ人は成長しあい、信頼し合えるのだ、と。争いはむしろ、成長のために必要な通過儀礼なのだ。

一方で、これが国レベル、民族レベルの話になると途端に、人々は争っていてはだめだ、争いはおろかだという。

矛盾していないか。

もちろん、国と国同士の争いは多くの死者を生む。個人レベルの話と単純に比較することはできない。

だが、個人レベルの争いは、命までは取らないい代わりに心が死んでいくのだと思う。人を信じられなくなったり、他人に心が開けなくなったり、自信を失ったり。そうして、自らの人生に自ら影を落としていく。人によっては、自ら命を絶つこともあるだろう。

そんな目にあうなら、最初から人と出会わなければいい。そういって殻にこもることをなぜか社会は許さない。外に出て学校へ行け、働け、そして人とふれあって、傷ついて来いと言う。

不思議なことに、傷つかない方法を教えてくれたり一緒に考えてくれるのは一部の専門家だけで、多くの人は他者に触れ、傷つけあうのは当たり前ののことだ、仕方ないことだ、避けられないことだ、さあどんどん傷ついて来いと言う。

そう思って街を見渡すと、漫画も映画も小説も歌も、「ケンカも失恋も、青春の1ページだ! どんどん傷つけ!」みたいなことを言って、若いうちはどんどん傷ついて来いと、むしろ争いを煽っている。

それでいて「乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、君ならできる!」というのだから無責任なことだ。これを国レベルで考えると、「戦争も差別の歴史の1ページだ!どんどん争え! だけど、 乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、この国ならできる!」といった感じだろうか。そんな無責任な煽り方があるだろうか。

個人レベルで見ると、「争いは成長するための通過儀礼だ」という声が多い。だが、国レベルで同じことが言えるだろうか。確かに、歴史を対極的に見れば戦争はもしかしたら通過儀礼だったのかもしれないが、だからといって戦没者や戦争経験者、いま戦火の真っただ中にいるものに「あなたたちは歴史の通過儀礼なのだから我慢しなさい」なんて言えるわけがない。

ジョン・キム氏は著書『時間に支配されない人生』の中で、「何かを選択した時点では正解不正解などなく、その後の行動でその時の選択を正解だったと言えるようにするのだ」と書いている。

だとすると、争いそのものも、争っている時点で正解不正解などない。「人と触れ合い、傷つけあい、乗り越えることで人は成長する」というのは、たまたま乗り越えられたやつが語る結果論であり、この国は乗り越えることができず命を落とした人が年間で3万人もいるというのが現状だ。

人と人が交われば争いあい、傷つけあうこともある。この時点では「それを乗り越えれば成長できる」かどうかなんて誰にもわからないはずなのである。

ピースボートの船の中でフリーランサーの安藤美冬さんにお会いした時、人生には春夏秋冬があるということを話してくれたことがある。人にはそれぞれ春の時期もあれば冬の時期もある。そして、その冬がいつやってくるかは人によって違う。子供のころの人もいれば学生時代の人も、社会に出てからの人も、結婚や親になった後の人もいる。冬が長引いてしまうひともいる。

そんな冬の時期に無理して人と交わり、傷つけば、たぶん乗り越えられない。だから、他者との接触を避け、殻にこもる。春になるのをじっと待っているカエルのようなものだ。

だが、社会はどういうわけかそれを許さない。「温かく見守る」なんて選択肢は存在せず、周りはみんな頑張っているのだから、こっち来て一緒に働けと言う。

じゃあ、「外で頑張っている人たち」がみな強い人たちなのかというとそうではなく、彼らの心もまたぼろぼろだ。「外は怖くないよ。こんなに楽しい所だよ。さあ、出ておいで」と言いたいのではない。「お前も俺たちと一緒に地獄でぼろぼろになるんだよ!」というわけだ。まるでカンダタのぬけがけを許さない罪人たちのようである。

「争いはおろかだ」、これはコモンビートが90分のミュージカルをかけて訴えていることである。90分の公演を見れば、いかに争いがおろかなことなのかが身にしみてわかる。

一方で争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで人も国も成長していく。これまた残酷なこの世の真理なのだろう。

大切なのは、だからといって争いを美化していい、というわけではないということだ。

争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで成長していく。

それでも、争いはおろかなことなのだ。美しいのは、それを乗り越えた後の時代の話であり、争いそのものはどこまでいってもおろかなのだ。

そう考えると乗り越えられるかどうかもわからない争いや差別を助長するなど決して許されることではない。

それはまた個人レベルでも同じであって、乗り越えられるかどうかもわからない人生の壁とやらにぶつかってこいというのもまた許されないことなのではないだろうか。

それでも人は悲しいことを避けて成長することなんてできない。なんて残酷な真理であろうか。

問題なのは、そんな悲しみを乗り越える気などさらさらない奴らが、寄り添う気などさらさらない奴らが、争いによる痛みを引き受ける気などさらさらない奴らが、人を戦場へと駆り立てることなのだと思う。

戦場というのは本当の銃弾が飛び交う戦場のことでもあるし、空襲警報が鳴り響く街のことでもある。

一方で、戦場とは平和な国のごく普通の学校の教室のことでもあるし、都心のオフィスのことでもある。もしかしたら、ネットの世界ですら戦場になりうるかもしれない。

「争いは仕方ないことだ。争いを乗り越えて、人は成長するんだ。さあ、どんどん争って、傷ついて来い! 大丈夫。君なら乗り越えられるさ。根拠はないけど」

「そして、僕は君のそばにいるわけでも、君の痛みに寄り添うわけでもないけど。さあ、争って来い! 戦って来い! 傷ついて来い! 結果だけ教えてくれ」

これを読んでいる人の中で、「人は傷ついて初めて成長するんだ」と誰かに言ったことがあったら、また、誰かにこれから言おうとすることがあったら、

どうか責任を持って、その人が傷つき、乗り越えていく姿を最後まで見届けてほしい。可能なら、そばにいてあげてくれ。一緒に傷ついてくれ。

争いというのはいつだって愚かであり、一人でぶつかって勝手に乗り越えていいけるほど甘いものではない。

僕の遠野物語

大学時代の仲間と2泊3日で岩手県遠野市に行ってきた。旅の詳細はプライベートなことなので省くが、今回、「遠野は水害の多い土地だったのではないか?」という疑問の解消も旅の目的の一つだった。実際に遠野の町を回ってみると、水害だけでない様々なことが見えてきた。それは、遠野の人々の「ここで生きていこう」という、強い意志である。


遠野と河童と水害

以前、柳田國男の「遠野物語」について記事を書いた。

河童・天狗・狐…… 「遠野物語」から見えてくるもの

遠野には河童にまつわる話がいくつか伝わっている。カッパ・ザシキワラシ・オシラサマの3つが「遠野三大話」と呼ばれる遠野を代表する民話だ。

馬を水辺に置いておいたら、河童が引きずり込もうとした、という話が多く、どことなく「水の事故」を連想させる。

河童の話だけでなく、「水害がひどいので神様に祈ったら家の前にあった川が、朝になったらコースが変わってた」という民話もある。

だいたいは祈りをささげるときに「もし願いを聞き届けてくれたら、うちの娘をささげます」などと軽はずみに言ってしまい、「本当に願いがかなってしまった。どうしよう」と途方に暮れる話である。

このほかにも「水の事故」や「水害」をイメージさせる話は多く収録されている。

遠野はもしかしたら、水害の多い土地だったのではないか。今回の旅では、その仮説を確かめてみようと思った。

遠野の地名と水

遠野には旅の1日目の夜に入り、3日目の午後にSLに乗って遠野を離れた。今回の話は、いきなり3日目の話から入る。

3日目の午前中に、僕たちは市立博物館を訪れた。

外壁の写真でごめんね

ここで遠野の歴史について展示していた。まあ、どこの町の「市立博物館」も町の歴史についての展示をするのは当たり前だろう。

個々の展示によると、「トオ」という地名はアイヌ語で「湖」を意味していて、その昔、遠野は巨大な湖だったというのだ(諸説あり)。

「このように、遠野には『水』に関わる地名がたくさんあります」と書かれていたので、「あぶない地名 ―災害地名ハンドブック―」を片手に町の地名を見て回ったところ、確かに、水にまつわる地名が多い。

まず、博物館のすぐわきにある鍋倉城跡(まあ、規模的には博物館の方が城跡のわきにあるんだけど)。

鍋倉城跡の神社の石段から。遠野の町がよく見える。

この「ナベクラ」というのが、そもそも、水に関わる地名だ。

『ナベ』は川を意味し、『クラ』は「えぐる」を意味する。

遠野の城下町は早瀬川によって削られて生まれた地形ではないのだろうか。「ハヤセ」という川の名前も、流れが早そうなイメージだ。

ここから話は2日目に戻る。

2日目、僕たちは遠野の名所である「カッパ淵」を観光した。

この当たりの地名は「土淵」。

『ツチ』は「泥」を意味する。『フチ』がそのままの意味であるなら、かなり水が豊富だったのではないかと思われる。

実際、近くを猿ヶ石川が流れ、田んぼの用水路には勢いよく水が流れていた。

本当はカッパ淵の写真を載せたかったのだが、トリミング不可なところに友人が映りこんでしまったため断念。残念!

遠野と金毘羅大権現

このカッパ淵の近くで、こんな野仏を見つけた。

文政9年のもの。足元には庚申塚や、馬頭観音も埋まっている。

僕の地元、埼玉ではあまり見かけない野仏だ。

調べてみると、金毘羅大権現は水の神様で、主に海上交通の安全を祈って祀られるらしい。

当然だが、遠野に海はない。

だが、遠野ではこの「金毘羅大権現」を多く見かけた。遠野における水神信仰の一つの表れかもしれない。

ただ、実はこの金毘羅大権現は天狗の眷属であるとも言われ、天狗信仰の表れとも言われている、というか、遠野ではこっちの説の方が有力だ。「遠野物語」では里と天狗の交流の話も多く残っている。

遠野と災害

気を取り直して、遠野が水害が多かったのはどうやら事実のようだ。博物館の展示でも水害に言及していたし、遠野の社会科副読本WEB版「ふるさと遠野」でも「風水害が多い」と書かれている。

ただ、遠野市立博物館によると、春は水害が多いが、夏は例外で作物が育たず、秋は飢饉が多かったと書かれていた。踏んだり蹴ったりな土地である。

例えば、遠野の西部には五百羅漢がある。

岩に羅漢の絵が刻みつけられている

この五百羅漢は、江戸時代にたび重なった大飢饉の犠牲者を供養するために作られた。

先ほどの金毘羅大権現ももしかしたら、何かの災害の折に建てられたおかもしれない。少なくとも、巨大な意思に文字を刻み、それを縦に起こして地面に置くなど、かなりの労力を有することで、何か天狗に祈りたい理由があったと考えるのが自然だろう。

水害に冷害、飢饉と様々な災害に見舞われてきた遠野だが、「こんなところ嫌じゃ! 引っ越す!」とは簡単にいかない。かつて湖だったと言われる遠野は四方を山に囲まれ、「遠野物語」曰く狼や熊、天狗が現れる人外魔境。そんなに簡単に越えられるような山ではない。

確かに遠野は災害も多いが、平地が広がり、水も豊富。山の中よりもよほど暮らしやすい。

ここに住むしかないのだ。ここで生きていくのだ。

そうして何百年も人が辛抱強く住み続けた結果がこの風景である。

見渡す限りの田んぼである。城下は栄え、市が立てば千人もの人が集まったと言われている。そしてその城下を取り巻く広大な水田。遠野の人たちは災害に負けることなく辛抱強く、この地で生き続けたのだ。その記憶がカッパであり、金毘羅様であり、五百羅漢なのだ。

ムラとは、「ここで生きていこう」という強い意志の表れである。歴史に思いをはせるということは、すなわち、先人の意志に思いを重ねるということなんだと僕は思う。


参考文献

小川豊「あぶない地名 ―災害地名ハンドブック―」2012年 三一書房

河童・天狗・狐…… 「遠野物語」から見えてくるもの

このたび遠野に行くことになり、それに先立ち、柳田國男の「遠野物語」を読んでみた。これまで柳田は難しいからと敬遠していたが、いざ読んでみるとなかなかに面白い。河童で有名な遠野だが、「遠野物語」には河童のほかにもさまざまな民話が書かれていて、その背景にまで思いを巡らせるとさらに面白い。

「遠野物語」とクトゥルフ神話

遠野物語は1910年に出版された。日本民俗学の父・柳田國男が遠野の民俗学者・佐々木喜善から聞いた遠野の民話をまとめたものである。いわゆる昔話というのは意外と少なく、明治になってからの話や、3~4年前の話と前置きされているものも多い。昔話というよりは、学校の怪談のような噂話に近い。

中には、山のカミサマを馬鹿にした男が、四肢をもがれて死んでいた、なんておぞましい話もある。まるで、白昼のバクダッドで見えない怪物に八つ裂きにされて死んだ、アブドゥル・アルハザードだ。

このアルハザードとは、アメリカのホラー小説群「クトゥルフ神話」に出てくる架空の魔術師であるが、このクトゥルフ神話が誕生した時代が1920年代ごろなので、奇遇にも遠野物語と海を隔ててほぼ同時期に生まれたということになる。

ホラー小説家のラヴクラフトが新しい形の恐怖として、神が人間を無慈悲に踏みにじるクトゥルフ神話を創作したころ、日本では古くからある恐怖として同じタイプの話が伝わっていることが明らかになった。ラヴクラフトが想像した「新しい恐怖」とは、西洋では新しいものであったのかもしれないが、東洋では古くから身近なものだったのかもしれない。

柳田國男と、遠野物語と、山人

柳田國男は「山人」の研究に熱心だった。古くから村には住まず、山などで生活する漂泊の民を「サンカ」と呼んでいたが、それとは別に、柳田國男はいわゆる「日本人」とは別の民族が山の中で暮らしていると考えていたようだ。

今日では柳田の数ある功績の中でもこの山人についての研究だけは、「さすがに山人は迷信だろう」というのが一般的な見解だ。しかし、「遠野物語」では里のものとは顔つきが違う山男と遭遇した、はたまた、天狗と遭遇した、なんて話をよく見る。中には山の中で2m近い大男にあった、なんて話もある。

こういう話をいくつも見ると、「山人がいる!」とまではさすがに思わないが、柳田が「山の中には『日本人』とは違う山人がいるんだ」と胸をときめかせたのも不思議ではないな、と思う。

遠野物語の神隠し

遠野物語委は神隠しの話もいくつか収録されている。面白いのが、どれもふとした日常の中でふと若い娘が消えてしまうという話だ。そのまま見つからない話もあれば、山の中で山男の妻となっているのを見つけた、という話もある。

山男の妻の話がホントかどうかはわからないが、急に人が姿を消す、というのはよくある話だったのかもしれない。

昔の遠野は今よりさらに自然が豊かな場所だった。それだけ、足を滑らせて転落したり、獣に襲われたりと、危険も多かったということではないだろうか。

遠野物語と動物

遠野物語には動物にまつわる話も多く収録されている。狐に化かされたという話だったり、狼に襲われたという話だったり。熊の話なんかも多い。

天狗や神隠しに比べるとインパクトは小さいが、遠野の人々がどういう動物と共に暮らしていたかがよくわかる、貴重な史料だ。

遠野物語と河童

遠野と言ったら河童で有名だ。カッパ淵は遠野観光では欠かせない観光スポットだ。

「遠野物語」には河童が馬を川に引き込もうとしたという、水難事故を彷彿とさせる話が収録されている。このほかにも、河童は出てこないものの、水難事故や水害の類を彷彿とさせる話は多い。

遠野の町を地図で見てみると、猿ヶ石川が細かく分岐しているのがわかる。水害の多い土地だったのかもしれない。


民話のように、古から文字に頼らずに伝えられてきたものの背景にはその土地の歴史が隠されている。それを読み解くのが民俗学の役割である。現地に足を運べば、さらに多くのことがわかる。民俗学とは、五感をつかって歴史を紐解く学問なのだ。

『サクラクエスト』の描く町おこしの本質 彼女たちが間野山に留まる理由

架空の町・間野山の町おこしをテーマとしたアニメ『サクラクエスト』が2クール目に突入する。2クール目に突入する前に思うのが、サクラクエストは、本当に間野山の町おこしを描いたアニメなのか? ということだ。確かに、町おこしが物語の軸ではあるが、物語の本質は、そのわきで描かれる人間ドラマである。果たして、サクラクエストは本当に町おこしのアニメなのか?


『サクラクエスト』1クール目のあらすじ

知っている人は読み飛ばしてかまいません(笑)。

東京の短大生、木春由乃は就活で30社受けるもいまだ受からないという状況で、手違いから縁もゆかりもない富山県の間野山という町の観光大使「チュパカブラ王国国王」になってしまう(任期は1年)。

当初は東京に帰りたがっていたが、仲間にも恵まれ、次第に町おこしにやりがいを感じるようになった由乃。

特産品のアピール、映画撮影の誘致、B級グルメの開発、お見合いツアーと様々な企画を打ち、就任から半年の集大成として、チュパカブラ王国20周年の建国祭を行うことになった。

地元テレビ局の協力で人気ロックバンドを呼ぶことができ、イベント自体は大成功に終わったが、その際に配った商店会のクーポン券はほとんど使われることなく、結局、街は何も変わらなかった。

ただ、人を呼べばいいというわけでゃないのはわかっていたはずなのに……。無力感に襲われた由乃は、大荷物を抱えてバスへと乗り込む。由乃は東京に帰ってしまうのか……。

町おこしに必要なのは「魅力」ではなく「魔力」

さて、4月に書いた「アニメ「サクラクエスト」から見る、今、町おこしが必要なあの町」では、「東京には魅力はあるけど魔力がない」ということを書いた。東京には人をたくさん呼び寄せる「魅力」はいっぱいあるけれど、呼び寄せた人をそこに留まらせる「魔力」はない、という話だ。例えるなら、「おいしいし行列もできてるんだけど、一度行ったらもういいかな~、って感じのお店」。

この「魔力がない」という問題は東京だけでなく地方にも言えることだ。しかも、地方の場合は魅力も魔力もないという二重苦である。

さて、1クール目で由乃たちが行ってきた企画は、特産品である彫刻をアピールしたり、「空家が自由に使える」という条件で映画のロケを誘致したり、そうめんを使ったB級グルメを開発したり、お見合いツアーを企画したり、クイズ大会を開いたり。

これらは、いずれも間野山の「魅力」をアピールする企画だった。

ただ、酷なことを言ってしまえば、どれも別に「間野山でなくてもいい」ものでもある。

確かに、彫刻が国の伝統工芸に指定されていたり、空家がしこたま多かったり、そうめんが古くから親しまれてきたり、それらは「間野山ならでは」ではあるのだが、「別に間野山でなくても、他にもあるよね」という話である。

そして、いずれも「魔力」にはなりえない。

彫刻があるから、そうめんがおいしいから、そんな理由で間野山に移住する人はかなり少ないだろう。「映画のロケ地」という要素もそうだ。一時、人を呼ぶことはできるかもしれないが、「そこに留まらせる」ほどの力があるとは思えない。現に、お見合いツアーに参加した女性3人は全員、結局、間野山には嫁がなかった。由乃たちは一生懸命間野山の「魅力」を伝えるツアーを企画したが、そこに留まらせる「魔力」は伝えられなかったのだ。

サクラクエストは町おこしのアニメなのか?

果たして、伝えるべき間野山の魔力とはいったい何なのか。

そして、2クール目を前にしてふと思う。

サクラクエストって、本当に「町おこし」のアニメなのだろうか。

なぜなら、1クール目を見ていて思うのが、サクラクエストの面白い所は町おこしの企画の成否ではなく、その裏で由乃たちがいろいろなことに気づき、成長していく過程の方だからだ。

描写のウエイトは由乃たちの成長譚に置かれており、町おこしはそのきっかけという位置づけにすぎないのだ。

彫刻をアピールするエピソードでは、駅を100年かけて彫刻で彩るという、壮大すぎてすぐには結果が出ない企画を打ち出した。そして、このエピソードの肝は実はそこではなく、東京から逃げてきた早苗が自分の仕事と向き合えるかどうかだった。

映画のロケを誘致するエピソードでも、映画自体はB級ゾンビものという、誰が見てもこけそうな内容だった。話の肝はそこではなく、女優の夢が敗れて間野山に帰ってきた真希が再び自分の夢に向き合うという点と、映画の中で燃やされてしまう家に対する観光協会のしおりの想い、それをくみ取ろうとする由乃だった。

B級グルメのエピソードでも本筋はその裏で描かれた、しおりの姉の恋愛模様だった。

お見合いツアーもツアー自体は誰も嫁がないという結果に終わったが、話の本筋はひきこもりの凛々子の「みんなとなじめない」という想いと、それに向き合った由乃であった。

こうやって見ていくと、サクラクエストにとって町おこしとは、あくまでも物語のきっかけに過ぎないという風に見える。

だとしたらサクラクエストがわざわざ2クールもかけて伝えたいこととはいったい何なのだろうか。サクラクエストがキャラクターの成長に力を入れている物語だということは、キャラクターに答えがあるのかもしれない。

サクラクエストのキャラクターたち

サクラクエストのメインキャラクターは、国王である由乃、由乃を補佐する観光協会のしおり、詩織の幼馴染でひきこもりの凛々子、東京から移住してきた早苗、一度は東京で女優の夢を追いかける者の故郷である間野山に帰ってきた真希の5人だ。

この5人は3つのグループに分けることができる。

まず、東京からの移住組、由乃と早苗だ。

二人とも、間野山に来た理由はちょっと弱い。早苗は「東京でなければ別にどこでもよかった」というのを指摘されているし、由乃に至っては単なる手違いだ。

だが、「東京を出てきた」理由はかなり切実だ。

由乃は東京で就活するも30社全滅。つまり、東京の社会に必要とされなかったのだ。

国王就任後も当初は東京に帰りたがっていたが、東京に帰ったところで、東京は由乃を必要としていないというのが現実だ。

一方、早苗は東京生まれの東京育ち。東京のIT企業に勤めていたが、『自分の仕事には代わりがいる』という現実を知ってしまい、逃げるように間野山へやってくる。

つまり、二人とも「自分が東京にいなければいけない理由」を失ってしまったのだ。

次に間野山在住組のしおりと凛々子。

間野山が好きで観光協会で働いているしおりに比べ、ひきこもりでニートの凛々子。

凜々子は昔から周囲になじむことができなかった。人前に出るのが苦手で、高校卒業後はひきこもり気味に。間野山にずっと住んではいるが、間野山に彼女の居場所はないのだ。

最後は間野山出身で上京するも、再び故郷に帰ってきた真希。

女優の夢を追って上京した真希。東京には「女優の夢を叶えられる」という魅力があったわけだ。

しかし、現実は厳しく、真希は女優の夢を諦めて故郷の間野山へと帰ってくる。女優という夢に彼女の居場所はなく、その瞬間に東京にも魅力がなくなってしまったのだ。

つまり、彼女たちは「自分はここにいなくてもいい」という想いを抱えていたのだ。

そんな彼女たちだったが、町おこしの中で徐々に思いが変わっていく。

最初は東京に帰りたがっていた由乃だったが、「この4人と働けるなら」と国王の仕事を引き受ける。

早苗は由乃たちに出会うまで、2週間だれとも話さず、東京へ帰ろうと思っていたところに由乃たちが現れる。間野山で由乃たちとともに頑張る中で、『自分にしか出せない結果』を求めるようになる。

真希は一度諦めかけた夢のかけらを間野山で見つける。由乃たちとともに映画撮影の手伝いをする中で、「どうしようもなくお芝居の世界が好きだ」ということを思いだす。

凛々子は「普通」でいられる由乃に自分が持っていないものを見出し、一方、由乃は強い個性を持っている凜々子に尊敬の念を表す。のちに凛々子は由乃のことを「私をちゃんと見てくれているから、好き」と評している。

そう、彼女たちが間野山に留まる理由。彼女たちを間野山にとどめた魔力。それは「仲間がいるから」に他ならない。

町おこしの本質 居場所という魔力 間野山に留まる理由

サクラクエストは町おこしのアニメなのか。その答えはイエスだ。

ただし、「町おこしに必要なもの」を町おこしの活動自体ではなく、そのわきで繰り広げられる人間ドラマで描いている。なかなか高度なことをしている。

町おこしに必要なもの。町に人をとどめる魔力。それは簡単に言えば「居場所」である。

仲間がいるから、ここにいる。ここにいていいんだ。ここで頑張っていこう。

それこそが町おこしの本質なのではないだろうか。特産品や名物はよその町にも似たようなものがあるが、仲間、友達、そういったものはどこにでもあるものではない。一度そこに居場所ができれば、替えなんてきかない。どんなにその町自体には魅力がなくても、仲間がいれば、居場所があれば、「ここで頑張ろう」、そう思えるものだ。

東京には魅力がたくさんある。だが、この居場所の魔力が弱いため、無理して東京にいても疲れてしまうだけだ。「ここにいてもいいのかな」「ここじゃなくてもいいんじゃないか」そう思いながら居続けるのはつらいことだ。

一方で、その町がどんなに田舎でも、何の観光名所もなくても、「ここにいていいんだ」そう思った時、人はその町に魔力を感じ、そこに留まる。

しおりは酔っぱらいながら「弱っている人ウェルカ~ム! 間野山はそ~いう町なの!」と言っていた。この言葉が、間野山の持つ魔力の本質であろう。また、凛々子の尽力で間野山が元来よそ者の受け入れに積極的な町だったことが明らかとなる。由乃の周辺もよそのものである由乃に割と寛大だ。

ここにいたい。ここにいていいんだ。ここで頑張ろう。そう思わせる居場所を作ることが町おこしの本質なのではないだろうか。

そう考えると、しおりの存在というのは大きい。その町の出身で郷土愛が強い一方、由乃のようなよそ者にも寛大なしおりは、よそ者と町を結びつける役割を果たしている。さらに、その町の出身であるにもかかわらず町に居場所がなかった凛々子と居場所をつなぐ役割も果たしている。人となじめない凛々子にとって、ほんわかしたしおりは居場所への入り口でもあるのだ。


サクラクエストは7月から2クール目に入る。残り3か月、どのように話が展開していくのかはわからないが、この「居場所」という観点から見ていくのも面白いんじゃないかと思う。

少なくとも、5人の若者が「ここで頑張ろう」「ここにいたい」「ここにいていいんだ」と思えるのであれば、彼女たちの町おこしはすでに成功しているのかもしれない。

小説:あしたてんきになぁれ 第7話 幸せの濃霧注意報

明日がいらない自殺志願の少女・たまきが一人で留守番をしていると、そこに合同が現れる。強盗に「殺してください」と頼むたまき。そこに帰ってきた亜美は強盗に飛び蹴りを浴びせる。「あしなれ」第7話はドタバタコメディ?


第6話 強盗注意報と自殺警報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「お城みたい」

志保(しほ)はそうつぶやいた。

夕方ごろから始まった交通渋滞のせいで車はなかなか進まない。舞(まい)と志保は渋滞が解消されるまで、通り沿いのショッピングセンターで一休みすることにした。

買い物を一通り終え、喫茶店で一息つく。薄暗い照明の中で、志保はコーヒーを、舞は紅茶を飲んでいた。ふと、窓の向こうを見ると、土砂降りの向こうにビル群が見える。

都庁を中心とした高層ビル群。このビル群の日陰になるように、志保たちが暮らす繁華街が広がっている。

つやのある石のようなビルの群れだが、どこか志保に雄大さを感じさせるものがあった。

 

「ん?」

志保の言葉に、舞が聞き返した。

「いえ、お城みたいだなぁって思ったんです」

志保は窓の外を見ながら答えた。

「城ってどっちの?」

「え?」

舞の問いかけに、志保は眼を開いて、舞を見た。

「名古屋城とかのほうの城か?」

「あ、いえ、中世ヨーロッパのお城みたいだなって思ったんです」

志保は再び、ビル群の方を見た。

「ヨーロッパのお城って、王様や貴族だけじゃなくて、いろんな身分の人がいたんです。なんか、そういうところ似てません?」

「……そう言われれば、見えないこともないな」

舞が返した。窓の外は雨が降り続ける。

 

写真はイメージです

「これは……どういう状況……?」

「城(キャッスル)」に帰ってきた志保を出迎えたのは、何とも奇妙な光景だった。

最も目を引くのは、面識のないおじさんがビニールひもで縛られて、正座をさせられている、ということだろう。おじさんと向かい合うように亜美(あみ)が立ったまま彼を見下ろし、睨みつけている。その脇ではたまきが正座して、申し訳なさそうに見ている。

「このおっさんが逃げださねぇように、縛っといたんだよ」

亜美がおじさんをにらみながら、志保の方を少しだけ見ていった。

「でも……ビニールひも、痛そうですよ……。ほどいてあげませんか……」

たまきが少し心配そうに亜美を見上げながら言った。

「何言ってんよたまき! このおっさん、たまきのこと殺そうとしたんだぞ!」

「ええっ! ちょっと、それどういうこと?」

驚愕の真実に志保が驚く。そして、おじさんがあわてたように喋り出す。

「違います! その子を殺そうとしてたわけじゃ……」

「どう見たって殺そうとしてたじゃねぇかよ! じゃあ、あれか? おっさんの世代は、若い娘に刃物むけねぇと、コミュニケーションとれねぇってのか? あぁ?」

亜美が傍らに置いてあった包丁片手にがなる。亜美の方がよっぽど強盗っぽい。

「いや……その、確かに最初は殺そうとしたんですけど……」

おじさんは何て説明したらいいのかわからなくなってうつむく。実際、おじさんも自分の身に起きたこと、正確に言うと、目の前の少女が言い出したことがまだよく理解できていない。

おじさんはすがるような目でたまきを見た。たまきは、少し身を乗り出すと、亜美に言った。

「私がこのおじさんに殺してくださいって頼んだんです」

「ええっ!」

「はぁ?」

志保の何度目かの驚きの声と、亜美の呆れた声が「城」の店内に響く。

戸惑うのはおじさんも同じだ。なんだってこの子はそんなこと言いだしたのか。

だが、「アミ」という名の金髪の少女は、ため息をつくと、それですべて納得がいったかのような顔をした。

「……また、いつもの自殺願望か?」

「えっ、いつもこうなんですかこの子?」

おじさんが驚いて尋ねる。

「ああ、いつもこうなんだよ」

「あの……ちょっといい?」

志保が申し訳なさそうに手を挙げた。3人の視線が志保に集中する。

「……このおじさん……誰?」

一番重要な部分が、説明されないままに話が進んでいる。

亜美は身をかがめると、たまきに訪ねた。

「そういやこのおっさん、誰だ?」

「さあ、誰なんでしょうか……」

たまきが申し訳なさそうに答えた。

 

「お、財布はっけーん!」

亜美がおじさんのカバンから、黒い財布を取り出した。

「……亜美さん、その……、あんまり人のカバンとか財布とか見るのって、やっぱりよくないんじゃないかな……」

たまきが申し訳なさそうに言えば、志保も申し訳なさそうに

「あたしがこんなこと言う資格ないんだけどさ……」

と口を開く。

「亜美ちゃん、取っちゃだめだよ」

「とんねーよ! 今朝、わびいれて来たばっかじゃん」

亜美が笑いながら言った。

「ウチ、万引きとか中学で辞めてるから」

「昔やってたんだ……」

「そういえば、親の財布からお金取ってたって……」

「だから、それは罪になんねーんだってば」

亜美は笑顔でおじさんの財布を開ける。

「大体、金に困って強盗するようなおっさんの財布なんてあてにしてねぇし。」

そういうと亜美は、お札入れを指で広げた。中にはわずか3千円。小銭入れにも、わずかな硬貨しか入っていない。

「よし! 推理ゲームしようぜ」

「?」

亜美の提案に二人が首をかしげる。

「このおっさん無理やり脅して名前とか聞きだしてもつまんねーじゃん」

「つまんない以前に……、やっちゃいけないと思います……」

「だから、この財布やカバンの中身から、おっさんの身分とか推理するんだ。面白そうだろ」

「……だから亜美さん、あまり、人の財布覗いちゃだめですよ。……ねえ、志保さん?」

たまきが不安げに志保を見る。志保は、顔を少し赤らめ、申し訳なさそうに笑っていた。

「……ごめん、あたし、今、それ面白そうって思っちゃった」

「・・・・・・」

「よしっ、決まり」

そういうと亜美は財布のポケットから、プラスチックのカードを抜く。

「いきなり社員証とか出てくれば、一発でわかるんだけど、それじゃつまんねーよな~」

こういうのをまな板の鯉というのだろうか。おじさんは下を向いたまま黙っている。これだけおとなしい鯉なら、さぞかし料理しやすそうだ。

亜美は引いたカードを覗き込む。たまきがそれを見て口にする。

「なんですか、これ?」

たまきの言葉に亜美と志保が信じられない、といった目でたまきを見た。注目されることが苦手なたまきは思わず戸惑ってしまう。

「お前、定期券、知らないの?」

亜美の言葉で、たまきはやっとそれがなんなのか理解した。

「あ、これ、JRの定期券なんだ……」

「たまきちゃん、JR使わないんだ?」

「うちの近くの駅、私鉄だし……、私、あまり電車乗ったことないんで……。高校も行ってないから、乗るときはいつもキップだし……あんまり遠出したことなかったし……」

たまきが申し訳なさそうに下を向いた。

「でも、定期券じゃなんもわかんねーなぁ」

「そうでもないよ。ちょっと貸して」

志保が亜美の手から定期券を取った。定期券には、二つの駅名が描かれている。

「左に書いてあるのが、たぶん家の最寄り駅。右に書いてあるのが、勤め先とかの最寄駅だね」

志保は2,3秒考える。

「勤め先があるあたりは……、オフィス街だよ、東京のど真ん中の。一流企業とかあるところ」

「さすが東京人」

亜美が腕を組んで笑う。

「昔行ったことあるから」

志保が少しうつむいて答えた。しばし経って顔をあげると、再び定期券を目の前にかざす。

「家があるところは、まあ、普通の住宅地じゃない?」

「つまり、一流企業に勤める、普通のおっさんってところか」

亜美がおじさんを見下ろしながら言った。

「そいつが、会社をクビになって、金が必要になって強盗した、ってところだな」

亜美がにやりと笑い、志保がうなづく。

「うん、この定期、3カ月前に切れてる。」

「志保さん、探偵みたい」

たまきのつぶやきに、志保は少し照れた。

「さぁて、お次は何かなぁ?」

亜美は躊躇なく財布の中身をあさり始める。

「ん?」

亜美の指が薄い紙を探り当てた。亜美は写真をつまみ出した。

写真には、二人の少女が映っていた。1人は高校生くらいだろうか、茶色い長い髪でセーラー服を着ている。もう一人は中学生くらいで、黒い髪に弦の細いメガネ、学校の制服を着ている。

「お、このおっさん、ロリコンかよ」

「いや、普通に考えて、娘さんじゃない? この二人、顔だち似てるし、姉妹なんじゃないかな」

志保がおじさんを見やりながら言う。

たまきは写真を覗き込んだ。姉妹の妹の方が、少し自分に似ているような気がした。

「あのぅ」

か細い声でおじさんが言った。

「その……、警察だけは……」

「あ?」

亜美が聞き返す。

「警察だけは……、勘弁してください……」

「おっさん、なに、ムシのいいこと言ってんだ?」

亜美が呆れたようにおじさんを見る。

「人の金盗もうとして、警察はやめてくれなんて、おっさん、ふざけてんのか?」

「ごめんなさい……」

謝ったのは、おじさんではなく、志保だった。

おじさんは、じっとうつむいていたが、顔をあげると、少しだけ声を張り上げた。

「お願いします。本当に申し訳ないことをしました。謝ります。ですから、警察だけは勘弁してください」

「ごめんで済むならケーサツはいらねーんだよ!」

亜美の怒号が「城」の中に響いた。

「亜美ちゃん……、今朝と言ってること、違うよ……」

志保が亜美の背中越しにつぶやいた。

「あ? 今朝? ウチ、今朝なんか言ったっけ?」

「それにさ……」

志保が亜美の背中越しに続けた。

「警察ここに呼んで困るのは、あたしたちも一緒だよ」

亜美は、天井を見上げると、「城」の隅に移動した。

「たまき、志保、集合」

言われるままに、たまきと志保が亜美のもとへと移動する。亜美は、おじさんに背を向けると、小声で二人に話しかけた。

「どうする?」

「どうするって……さっきも言ったけど、ここに警察呼んで困るのは……」

「……私たちですよね」

三人は不安そうに顔を見合わせた。

「三人そろって不法占拠」

「私は家出中だから、警察が来たら家に帰されるかも……」

「あたしは、ドラッグで少年院行きかな……」

三人は再び顔を見合わせた。亜美が二人の肩を抱く。

「おい、このことは、絶対あのおっさんにばれたらだめだ」

「なんでですか?」

「なんでって、足元見られて、なめられるだろ?」

亜美の答えに、たまきはおじさんを見やった。うつむいたまま動かない。ビニールひもで縛られた姿は、荷物みたいで、なんだかかわいそうにも思えてきた。

ふと、おじさんと目があった。最初に、たまきに包丁を向けた時と、同じ目をしていた。

あの時、たまきは妙に冷静だったので、おじさんの目をはっきりと覚えていた。

今にして思うと、おじさんの目は、怯えたような目だった。

「亜美さん」

たまきは、亜美の方を見ると、心細そうに言った。

「あのおじさん、逃がしてあげませんか」

「そんな、捕まえた鈴虫じゃねぇんだから……」

そういうと、亜美は少し考えるように宙を見てから、言った。

「っつっても、ここに置いとくわけでも、ケーサツに突き出すわけにもいかねぇしな」

亜美はおじさんに近づき、しゃがみこんだ。

「おっさん」

「はい」

おじさんが上ずったか細い声で答える。

「うちらはジヒ深いから、おっさんを逃がしてやる」

「ありがとうございます」

おじさんは縛られたまま、深々と頭を下げる。

「逃がしてやる代わりに、なんで強盗なんかしたのか、その理由を教えろ」

その言葉に、おじさんはうつむいた。

「あの・・・・・・」

「なんだ?」

「自分、その、強盗に入ったわけじゃないんです……」

「あ?」

亜美が睨みつけると、おじさんはうつむいたまま続けた。

「……自分は、空き巣をするためにここに入ったわけで……」

「は?」

「包丁も、強盗するために買ったんじゃなくて……、お守りとして……」

その言葉に、たまきははっとした。たまきも、お守りとしてカッターナイフを持ち歩いているからだ。

いつでもどこでも、速やかにこの世からエスケープするために。

刹那、亜美が手に取った灰皿を思い切りテーブルに叩きつけ、空気を切り裂き破るような甲高い音が「城」の中にこだまする。たまきは背筋がびくっとなる。

「てめぇ、何ふざけたこと言ってんだ! 強盗するつもりはなかっただぁ? たまきに包丁突きつけてるところ、ウチは見てんだよ! たまき! お前、このおっさんになんて言われた!」

「お、お金を出さなきゃ、殺すって……」

「それみろ」

亜美が勝ち誇ったようにおじさんをにらむ。

「でも、そのあと殺してくださいって頼んだのは、私で……」

「そっから先はどーでもいいんだよ!」

亜美は今度は、志保の方を向いた。

「志保、このおっさん、強盗罪だろ! そうだろ!」

「……計画性はないけど、たまきちゃんに刃物向けて、お金出せって言っちゃったんなら、強盗未遂じゃない?」

「それみろ!」

「でも、その後たまきちゃん、自分から殺してくださいって」

「だから、そっから先はどーでもいいんだよ!」

そういうと、亜美はおじさんにぐいと顔を近づけた。

「とりあえずおっさん、なんで強盗したのかいえ。じゃねーと、この紐、ほどかねーぞ」

「警察に突き出すわけじゃないんだし、動機なんてそれこそどーでもいいんじゃないかな」

「どーでもよくねーよ。なんか、もやもやすんじゃん!」

亜美は、まったく論理的じゃない答えをした。

「要は、亜美ちゃんの楽しみのために、動機を言えってこと?」

「……そういう人なんです、亜美さんは」

たまきと志保はあきれたように顔を見合わせた。

おじさんは思いつめたようにうつむいたまま、話し始めた。

「……会社を、半年前にクビになったんです。」

「いや、それはわかってんだよ」

亜美が呆れたように言った。

「それで、半年ほど家にいて……就職活動したんですけど、見つからなくて」

「で?」

「家にいたら妻や娘たちに疎まれるようになってきて……、先月、家を出たんです。十万持って、ビジネスホテルとかを転々としてたんですけど、お金が底を突いて、それで……」

たまきは亜美の顔を見た。明らかに「ありきたりすぎてつまらん」といった顔をしている。

「あの……、亜美さん、おじさん逃がしてあげませんか……」

たまきはもう一度聞いてみた。亜美の答えはあっさりしたものだった。

「あ、いいよ」

もう、おじさんに興味を失ったらしい。

しかし、ビニールひもはきつく縛られ、結び目はほどけない。

「これつかったら?」

と、亜美がおじさんの包丁を差し出す。志保が驚いたように制する。

「いやいや、危ないでしょ」

「ちょっと待っててください」

たまきは自分のカバンから、黄色いカッターナイフを出した。それで、ビニールひもを1本1本こするように切っていく。

3分ほどかけて、おじさんは自由の身になった。おじさんの持ってきた刃物は危ないので、「城」においていくことになった。

「…ご迷惑をおかけしました」

ドアを背にそう言うと、おじさんは深く頭を下げた。

「これからどうするんですか? お金、ないんですよね?」

たまきの問いにおじさんは、

「さあ……」

と寂しそうに頭を振るだけだった。部屋の中にはかすかに雨音が響く。

たまきは、ドアの横の傘たてからビニール傘を引き抜くと、

「あの……」

とだけ言って、おじさんに差し出した。

おじさんは傘を受け取ると、

「ありがとうございます」

と、小さく頭を下げた。

 

写真はイメージです

おじさんが去り、「城」の中は何とも言えない静寂が漂う。夕飯を済ませ、テレビをつけると、あっという間に午後9時だ。

近所の銭湯は400円で入れる。銭湯と言っても、ビルの一角でそんなに広くない。いつも閑散としていて、ほとんど3人の貸切だ。

「あの……」

湯船の中からの、たまきのつぶやくような声もかすかに反響している。

「幸せってなんですか?」

髪を洗っていた志保と、体を洗っていた亜美が驚いてたまきを見る。

「いきなり、何言ってんだ、お前?」

「なんか、哲学的だね」

「わかんなくなっちゃって……」

風呂という完全無防備な場所で、同居人とはいえ、他人の視線を一気に集めてしまい、恥ずかしくなったたまきは湯船に身をうずめる。

「だって、あのおじさん、結婚して、子供もいて、それでも全然幸せそうじゃなくて……」

「会社クビになっちゃったからねー」

と志保が残念そうに言う。細い体に細い腕で、栗色の髪を泡立てている。

「でもさー、あのおっさん、家族いんだろ? 家族が支えりゃいーじゃん。うっとうしがって見捨てるとか、薄情じゃね?」

亜美がつやのある体を磨くように洗いながら言った。

「そうでもないよ」

そういったのは、志保だった。

「一番最初に裏切るのは、家族だよ」

志保は伏し目がちに言った。

たまきも、湯船の陰でこくりとうなづいた。

「あ~、でも」

と、亜美が浴室にこだまするように言った。

「ウチも、オヤジが仕事クビになって、ずっとうちにいたら『うっとうしいからどっかいけ!』って言っちゃうかもなぁ。おっさんの家族の気持ち、わかるよ」

「亜美ちゃんって、一貫性ないよね……」

志保が呆れたようにつぶやいた。そして、たまきを見ながら言った。

「たまきちゃんにとって、幸せって何?」

「え?」

頭の上にメガネを置いた、たまきの子猫のような目が大きく見開かれる。

「しあわせ・・・・・・?」

「ウチは、男と・・・・・・」

「亜美ちゃん、ちょっと黙ってて」

浴場の外にまで聞こえそうな亜美ののんきな声を、志保が制する。

たまきは困ったように志保を見ながら言った。

「……わかんない……です」

学校に行っても友達などいなく一人ぼっち、家に引きこもっても家族から疎まれ一人ぼっち。

どこに幸せがあるというのか。

「志保は?」

亜美が湯船に足を入れながら尋ねた。

「うーん、初めての彼氏と初めてデートしたのが、今までで一番幸せかな」

「はぁ~、リア充だねぇ」

亜美がたまきの隣にしゃがみ、お湯につかる。

「幸せだったんだはずなんだけどねぇ」

志保はどこか遠い目をして、そういった。細い右腕には、無数の針のあとが目立つ。

たまきは、湯船につかりながら考える。

恋人がいれば、友達がいれば、誰かに認めてもらえれば、幸せになれる。たまきは今まで、どこかでそんな風に考えていた。だから、誰からも認められない自分は、不幸せだ。

でも……、ちがうのかな。

たまきは、もう一度あのおじさんに会いたくなった。話が聞きたくなった。

 

写真はイメージです

都会の片隅に吹く雨上がりの風は生暖かくもあり、風呂上がりの3人には涼しくも感じられる。

繁華街の中に小さな公園があった。小さな神社と一緒になった、小さな公園。

公園の中に小さな岩がゴロゴロと転がっていて、その中に見覚えのある影が腰かけていた。

くすんだ背広に禿げ上がった頭。あのおじさんだった。

「亜美さん、志保さん、あれ……」

たまきはおじさんを指さした。

「ほんとだ、さっきのおじさんだ」

「ここで、一晩過ごすつもりですかね……」

たまきは心配そうにおじさんを見た後、亜美の方を向いた。

「亜美さん、あのおじさん、一晩だけでもウチに……」

「やだ」

亜美は振り向きもせずに答えた。

「なんで……」

「興味がない」

亜美は足を止めることなく答えた。

「普通のおっさんだろ」

「そうですけど……」

普通のおじさんだから……。

「冬なら泊めてもいいけど、今、夏だろ? 野宿したってしなねぇよ」

亜美はおじさんを一瞥することなく答える。

「あの……!」

たまきは少しだけ大きな声を出した。

「先に帰っててください」

「りょーかい」

亜美はたまきと志保を置いて雑踏の中に向かっていった。

志保はたまきをしばし見ていて、口を開いた。

「夜の一人歩きは危ないよ。たまきちゃんみたいな子には」

志保は、繁華街のネオンサインをちらりと見た。口を固く結ぶと、たまきの肩を軽くたたいた。

「あたしも付き合うよ」

たまきは、おじさんに歩み寄った。

「こんばんは……」

おじさんは、背筋をかがめてもそもそとコンビニ弁当を食べていた。たまきの呼びかけにおじさんが振り向く。

「君はさっきの……」

「……ここで一晩過ごすんですか」

おじさんは照れたように笑った。

「お金がないからね」

「……そのお弁当はどうしたんですか?」

「ゴミ捨て場で拾ったんだ。賞味期限が切れたばっかり見たいだからね」

おじさんは、まだ新鮮な鮭の切り身を口に入れた。

たまきはおじさんの右横の石に腰かけた。

おじさんはお弁当をわきに置くと、たまきに向き直った。

「私に、何か用かな」

二人の様子を、志保が少し離れたところで見ている。

「……おじさんは、一流企業に勤めてたんですか?」

「……自分で言うのもなんだけど、食品業界の最大手だったね。X食品って知ってる?」

なんか聞いたことがある気がする、とたまきは志保を見た。志保が口を開く。

「2年くらい前に、産地偽装で話題になったところじゃない?」

おじさんはゆっくりとうなづいた。

「牛肉の産地偽装でね、会社は窮地に追い込まれた」

深夜にぼんやりとしかテレビを見ないたまきはそんな事件知らないが、志保はニュースとかで見たことあるらしい。

「じゃあ、その事件に関わってクビに?」

志保の問いかけに、おじさんは首をむなしく振った。

「私は水産加工品の部署にいたんだ」

「じゃあ、関係ないじゃないですか」

たまきの質問に、またおじさんはむなしく首を振る。

「関係ないけど、同じ会社だからね。もちろん、実際に偽装に関わった社員たちは真っ先にクビになった。でも、一度信用を失った会社の業績は、戻らなかったんだ」

最後におじさんは、ぽつりと付け足した。

「人員整理ってやつさ」

「……おじさんは、大学を卒業したんですよね」

「ああ、そうだよ」

「……学校にちゃんと、行ってたんですよね」

たまきの質問に、おじさんはやさしく笑った。

「ははは。そんなの、当たり前じゃないか」

「……ですよね」

たまきが下を向く。

この人は普通のおじさんだ。当たり前のように学校に行って、当たり前のように卒業し、当たり前のように就職し、当たり前のように結婚して、当たり前のように子供育てて。

きっと、これからも当たり前のように幸せな人生を歩くはずだったのに……。

当たり前の人生を歩けば、幸せになれると思っていたのに……。

「でも、やっぱりおかしいですよ」

そういったのは志保だった。志保は難しそうな顔をしながら、たまきの右隣の石に腰かけた。

「おじさんは悪くないじゃないですか。食品偽装とは関係ないんでしょ?」

志保の問いかけに、おじさんはため息をついた。

「最初はそう思ったさ。妻も娘も言ってくれた。『お父さんは悪くない』って」

でもね、とおじさんは続けた。

「就職先が決まらず、半年ほどたつとだんだん家族から疎まれるようになってね……」

そこでおじさんは言葉を切った。

たまきはおじさんの顔を覗き込んだ。おじさんの目は赤みを帯び、うるんでいた。

おじさんはたった一言だけつぶやいた。

「さみしいなぁ……」

……たまきは、おじさんになにも声をかけられなかった。

なにを言えばいいんだろう。「強く生きてください」?

でも、私は人にそんなことを言えるほど、強く生きてなんかない。

今日だって、おじさんに殺してもらおうとした。

おじさんに、なんて声をかければいいんだろう。「頑張ってください」? 「負けちゃだめです」? 「生きてればいいことがあります」?

そんなきれいごとが、今までたまきの首を絞め続けてきた。

「学校行った方がいいよ」「世界には、学校に行きたくても行けない子もいるんだよ」「将来どうするの?」「みんな辛くても学校にちゃんと行ってるんだよ」

そんなこと、わざわざ言われなくてもわかってる。誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われた方もとっくにわかってることなんだ。

たまきは、結局何も言えなかった。何も言えずに、たまきはおじさんの足元を見ていた。

おじさんの足元では群れからはぐれたのか、ありんこが一匹、ふらふらと歩いている。

「あの……」

そういって語り始めたのは志保だった。

「この辺で野宿するのは……危ないですよ。駅の地下道なら、ここよりも安全だと思います」

「駅の地下か……。確かに、そうだね。ありがとう」

「強く……生きてください」

たまきが言えなかった言葉を、志保はさらりと言った。

おじさんは、静かにうなづいた。お弁当の最後の日と口をほおりこむと、ゆっくりと立ち上がった。

「いろいろ、迷惑をおかけしました……」

おじさんはそういうと公園を去っていった。小さく丸まった背中が、ネオンの闇の中に消えていった。

たまきは、おじさんの背中が見えなくなるまで、見ていた。見送るでもなく、見ていた。

志保がポツリと言った言葉が、ふとたまきの耳に入った。

「おかしいよ、こんなの」

 

写真はイメージです

歓楽街の中は、まるで遊園地のようだ。

きらめくネオンサイン。

行き交う人々。

街中に流れるヒットソング。

ほとんど車も通らず、外界から隔絶された空間のようにも思える。

だけど、たまきはこの町が好きじゃない。

人ごみが苦手というのもあるし、行き交う人々がどこか楽しそうなのも嫌だ。

二人は、公園を離れ、帰路についていた。

曲がり角を曲がって、「城」のあるビルまで残り四十メートルほど。黒い空の下をネオンの看板が星のようにきらめいている。

ふと、志保がたまきの左手を、そっと握った。

「え?」

たまきは驚いて、少し背の高い志保を見上げる。

志保の手は、痩せていて、少し骨の感触もある。

志保は少しうつむいていた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろう……」

「……さっきのことですか」

志保は力なくうなづいた。

「『強く生きて』なんて、自分が強く生きてなんかいないのに……」

そんなことない。そう言おうとして、たまきはやめた。

誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われなくてもとっくにわかってる。

志保の「私は強く生きていない」は、そんな誰もが言いそうな言葉を心の中で何回も否定して生まれたんだ。

結局、私は、何も言えない。

無力だ。

生きてる価値がない。

消えちゃえばいいのに。

たまきが何も言えずにいると、志保が少しかすれた声で言った。

「……自分の偽善が嫌になる」

「……偽善ですか」

「だってさ、あたし……」

志保は、自嘲気味に笑った。

「犯罪者だよ?」

犯罪者。その言葉は、まるで志保とたまきの間に壁が生まれたかのように感じられた。

「さっきだってさ、たまきちゃんを一人で帰すのは危ないとか言っちゃってさ……、でも、一番危ないのは、あたしなんだよね」

「え?」

「……ネオン街、怖いんだ。ちょっと道外したら……、クスリあるから……。一人で帰ったら、あたし……、たぶんまた……」

志保の指先は少し震えていた。

 

たまきは、自分の姉のことを思い出していた。

2つ年の離れたたまきの姉は、志保に少し似ていた。たまきよりずっと勉強ができ、たまきよりずっと友達が多く、たまきよりずっとおしゃれで、たまきよりずっと笑顔が素敵な人だった。

幼いころのたまきは、お姉ちゃんが大好きだった。外出するときは、よく手を繋いでもらっていた。

でも、いつも最初に手を差し出すのは、たまきだった。お姉ちゃんは、しょうがないなと言いたげに手をつなぐ。

たまきはお姉ちゃんと手を繋ぎたかったけど、お姉ちゃんは少し面倒だったらしい。

 

たまきは、志保の軽い右腕を見て、その手をぎゅっと握った。1人じゃジュースも開けられない弱々しい握力だが、それでも、力いっぱいに。

志保はつながれた自分の右腕を見た。注射の針跡が生々しく残る右腕。

「……ありがとう」

志保は、少しかすれた声でつぶやいた。

「なんか最近、誰かに見られてる気もしてたんだけど、なんかほっとした」

志保の言葉に、たまきはくすりと笑った。

「志保さん、美人さんだから、みんな見ちゃうんですよ」

今度は志保がくすりと笑った。

「そうだといいんだけどね」

二人は歩き出した。

たまきは、志保の手を精一杯握りしめた。

こんな私でも、そばにいるだけで、手を握るだけで、誰かの力になれるんだったら、

こんなに幸せなことはない。

 

群れから外れた小さなありんこが二匹、それでもアスファルトの上を力強く歩いていた。


次回 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

次回はずばり、「たまきはたまきのままでいいんだよ」そういうお話です。

「『お前さんには世界がこんな風に見えているのか』」

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第6話 強盗注意報と自殺警報

ライブハウスでの財布盗難事件も無事解決し、3人の新たな生活が始まった。依存症治療の施設へ通い出した志保。一方、留守番をしていたたまきのもとに、思いもよらない人物が現れて……。

「あしなれ」新章スタート!


第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

写真はイメージです

まだまだ暑い日が続く。日差しがアスファルトをフライパンのように焼き付け、蝉の声が調味料として降りかかる。立ち上る陽炎は、さながら料理から溢れる湯気のようだ。

少年は公園の階段でギターを奏でながら、オリジナルのラブソングを歌っていた。軽やかなリズムでギターをストロークする。はじける弦の感触がピック越しに伝わる。

少年は仲間内からは「ミチ」と呼ばれていた。

日差しに負けじと、蝉に負けじと、声を張り上げて歌う。

だが、それに耳を傾ける者は誰もいない。階段の下に広がる広場では、若者がスケボーに興じるが、距離からかんがみて、おそらく、ギターの音がかろうじて聞こえるくらいだろう。ミチのわきを通り過ぎる者もいるが、目を向けることはあっても、足を止めることがない。

正直なところ、ミチも何のためにここで歌っているのか、わかっていない。

練習、というわけでもない。かといって、ストリートライブ、というわけでもない。ストリートライブをするには、人通りが少ない。

何のために、誰に向かって自分はここで歌っているのか。

そう考えた時、ミチの頭に、以前、この場所である女の子としたやり取りを思い出した。

一曲終った後、何も考えずに「ありがとうございました」とつぶやいたミチ。その時、彼の隣にいた女の子に、誰に対していったのか問われたことがあった。

その問いかけにミチはすぐに答えを出せなかった。ふと、口をついて出た言葉が「世の中」だった。

それを聞いた女の子は、あきれたような顔をしていた。

あの時、「世の中」なんて言う変な答え方をしたのは、曲を誰かに聞いてほしかったからだと思う。

ただ、それが特定の誰かではないし、「通行人」ですらない。よくわからない「誰か」に聞いてもらいたい。それが「世の中」なのだろう。

「世の中」に聞いてもらいたいから、密室ではなく、かといって聞いてくれる人がいるわけでもない、だだっ広い公園で歌っているのだろう。

いや、たった一人、彼の歌に耳を傾けてくれる女の子がいた。

女の子の名はたまき。ごく最近出会った、同年代の女の子だ。

ミチの中学校の先輩にヒロキという男がいる。そのヒロキの知り合いの女性とたまきは一緒に暮らしている。

たまきは週に一度か二度、この公園にやって来る。彼女は決まってミチの隣に腰を下ろし、絵を描いている。

一度だけ彼女の描く絵を見たことがある。青春真っ只中の年頃の女の子の絵とは思えない、暗い絵だった。鉛筆で公園を描いたものだったのだが、何ともおどろおどろしいものだった。見られたことが恥ずかしいのか、たまきは少し涙目だった。

たまきは変わった少女だ。常に死にたい死にたいとつぶやき、右手首には白い包帯が目立つ。

ミチの周囲にいる女性は、派手な人が多かった。不良仲間を見れば、派手な髪型に派手なメイク、誰を誘惑するつもりなのか谷間を強調するファッション。音楽仲間に至っては、ピンク色の髪をした女性もいる。

おしゃべりが好きで、男に対して警戒心がなく、なれなれしい。そんな女性ばかりだった。

たまきは、それとは真逆だった。黒い服を好み、化粧もしないし髪型も作らない。ほとんどしゃべらず、目を合わせない。極力肌を見せたがらず、触られるのを拒む。彼女が常にかけているメガネ、左目を覆う前髪は、どこか「世の中」を拒絶しているようにも見える。

決して人になつかない黒い猫。それが、ミチがたまきに漠然と抱いた印象だった。

 

太陽をスポットライトにしてミチは歌う。汗がたらたらと流れ、湯気にならないのが不思議なくらいである。「何よりも大切な人」とか「君を守り続ける」とか、どこかで聞いたことがあるようなフレーズを繰り返す。

と、隣に小さな影が歩み寄り、日陰に腰を下ろした。顔は見ていないが、そのたたずまいからたまきで間違いないだろう。

「ありがとうございました。今歌った曲は、『ラブソング』でした。」

誰でもない、「世の中」に対しFMラジオのような曲紹介をする。自分でも呆れかえるほどひねりのないタイトルだが、他に思いつかなかったので仕方ない。

一曲終ったところで、ミチは横にたたずむ影を見た。

やはりたまきだった。

だが、いつもとは様子が違っていた。

いつもなら、たまきの視線はミチをかすりもせず。スケッチブックと前方の景色だけに注がれている。会話を交わすことはあっても、たまきはミチのことをほとんど見ない。目を合わせることもない。

だが、今日は違っていた。ミチの右側の日陰に座ったたまきは、首を九十度左に向け、まっすぐにミチを見つめていた。いつもは貧血気味の肌も、心なしか紅潮している。ミチも思わず見つめ返す。

若い男女が見つめ合う、といえばロマンチックだが、たまきはメガネの奥の大きな瞳を見開き、口をとがらせ、まっすぐに攻撃的な視線を飛ばしてくる。つまり、睨みつけているのだ。

ミチが思わず視線をそらす。心当たりがあるからだ。

「……やっぱり、怒ってる?」

ミチが気まずそうにたまきを見ながら言った。たまきは睨んだままうなづいた。

「どうして助けてくれなかったんですか」

数日前、ミチのバンドのライブ会場で、バンドメンバーの財布が盗まれるという事件が起きた。その時、たまたま楽屋に入ってしまったたまきは疑われたのだ。

その件については今日の午前中にメールが来た。「真犯人」が友人に付き添われて謝罪と返金のためやってきたらしい。誰が犯人かは書かれていなかったが、全額帰ってきたことと、本人が深く反省し、誠心誠意謝罪したことから、警察沙汰にはしないそうだ。これにて一件落着。

だが、ミチにはまだ問題が残っていた。ライブハウスの楽屋でたまきが疑われていた時、ミチは助けを求めるたまきから目をそむけてしまった。

「……もちろん、誰が一番悪いかと聞かれたら、自分の言葉ではっきりと潔白を証明できなかった私です……。きっと誰かが助けてくれるなんて、そんなこと当てにしてません」

たまきはミチから目を離し、うつむきつつ言った。

「でも、ミチ君は私ともバンドの人とも知り合いなんですから、あの時何か言ってくれてもよかったじゃないですか」

たまきはそういうと、再びミチをにらみつけた。

「それとも、ミチ君も私が犯人だと思ってたんですか?」

「ま、まさかぁ」

ミチが取り繕うように笑いながら言った。

「お、おれだって、たまきちゃんがそんなことしたなんて思ってないよ」

「じゃあ、あの時そう言ってくれればよかったじゃないですか」

たまきはずっとミチをにらんでいる。ただでさえ目に生気がないうえに、あどけない顔だけに、睨まれると怖い。

「……俺さ、あのバンドの中では下っ端でさ……。ほとんどサポートメンバーに近いっていうか……」

言い訳にしかならないとわかっていながら、ミチは続けた。

「こういう風に路上で歌いたくて。でも、アカペラだと厳しいんだよ。何ていうか、アカペラで路上で歌ってても、よっぽどうまいやつじゃない限り、イタイじゃん?」

たまきが睨んだまま、こっくりとうなづいた。

「だから、ギターを弾きながら歌えればと思って、知り合いでバンドのリードギターやってる人に教えてくれって頼んだんだよ。そしたら、教える代わりに、バンドメンバー足りないからサイドギターで入れって言われて……」

「私は別に、バンドメンバーに逆らってくれとは言ってないですけど……」

「なんていうか、意見しづらいっていうか……」

たまきの納得できなさそうな顔を見て、ミチは申し訳なさそうに尋ねた。

「俺のこと、ちょっと嫌いになった?」

たまきはミチから顔をそらして答えた。

「もともと嫌いですけど」

「あ、そう……」

その答えは、ミチにとって心の片隅で予想していたものだった。

そのまましばらく二人の間に沈黙が流れる。空気を読まずになくセミの声がうっとうしく感じられる。たまきはスケッチブックをかばんから出すと、いつものごとく黙々と絵を描き始めた。ミチは沈黙に耐えかねるようにギターのチューニングを始める。

「……下っ端だからあんなにつまらなそうにしてたんですか?」

たまきがポツリと発した問いかけに、ミチが振り向く。

「え?」

「この前のライブです」

「俺、つまんなそうだった?」

たまきは無言で、ミチに横顔を向けたまま、こくりとうなづく。

「そうかぁ。やっぱりつまんなそうに見えちゃってたかぁ」

ミチはチューニングをやめ、天を仰ぐ。途端に太陽のまぶしすぎる日差しが、容赦なく視界を襲う。

「確かに、楽しんではねえよ。でも、別に下っ端だからってわけじゃねえよ。たしかに、他の4人より年も下だし、ちょっと気まずいけど、みんないい人だよ」

日差しに目を細めながらミチは続けた。

「つまんなそうに見えたのはギターに必死だったってのもあるけど……」

ミチは下を向いた。

「やっぱ俺、歌いてぇんだよ」

ミチは気づかなかったが、たまきはミチを見つめていた。

「こういうこというとさ、本気でギターやってるやつはふざけんなって思うかもしれないけど、俺は歌を歌いたいんだよ。唄うためにギターを弾きたいんだよ」

そういうとミチは、再びチューニングを始めた。

二人の間を涼しい風がなびく。

 

写真はイメージです

都心から車で二十分ほど走れば、閑静な住宅街が広がる。赤土のレンガを用いた洋風のこじゃれた家が立ち並び、街路樹の緑葉がアクセントをつける。お店もカフェや雑貨屋とこじゃれたものばかりだ。

そんな街中にひっそりと、教会が佇んでいた。そんなに大きくはない。面積は家三軒分といったところか。

この教会は、薬物に限らず、アルコールやギャンブルなど、依存症患者への支援が手厚いことで知られている。

教会が主催している支援施設では、多くの人が入所したり通院したりして、あらゆる依存症と戦っている。

その支援施設の中の一室に、志保と京野舞が並んで座っている。二人の前には長机を挟んで、シスターの姿をした年配の女性が微笑んでいた。

「それで……、ドラッグを始めたのはいつ頃になるかしら」

シスターは志保に問いかける。シスターは手に黒いバインダーを持ち、その上には「問診票」と書かれた紙が志保には見えないようにおいてある。それまではドラッグから引き起こされる症状の話が主だったが、そのドラッグに手を出した頃の話に移ってきた。

「……高一の夏休みです」

志保は伏し目で答えた。

「ドラッグは誰からもらったの?」

「当時の彼から……」

少し頭が痛そうに、志保は顔をしかめた。

「ドラッグをやったきっかけは?」

「きっかけ……」

言葉に詰まる志保を見て、シスターは微笑んだ。

「いいわ。今日はここまでにしましょう。だいたい、入会に必要な情報も聞けたことですし」

志保は無言でうなづく。

「それでは京野先生、神崎さんは通院という形でよろしかったですわね」

「ええ」

舞が応答した。

「神崎さんはご自宅から通院する、ということでよろしかったかしら」

自宅……。何て言えばいいんだろう。まさか「不法占拠」なんて言えないし……。

志保は言い淀んだが、すぐに舞が代わりに答えた。

「はい。自宅からの通院です」

その声に志保は目を見開く。

「ご自宅ということはご家族と一緒に暮らしていらっしゃるのかしら」

シスターの問いかけに、またしても舞は毅然として答えた。

「はい、姉が一人に、妹が一人です」

え? あたし、一人っ子……。その言葉を志保は飲み込んだ。おそらく、姉というのは亜美を、妹というのはたまきのことを指すのだろう。

家族……。その言葉はぴんと来ない。

「ご両親とは一緒ではないのね」

シスターの言葉に、志保の眉が不安そうにふるえる。

「両親と同居していなければ、『通院』は認められませんか?」

舞が凛として訪ねた。

「そんなことはありません。患者さんによっては、両親や家族と離れた方がいい、という方もいらっしゃいますから」

「志保は今、わけあって両親と一緒には暮らしていませんが、この子の姉や妹も、まあ、ちょっと頼りないけど、私は信頼しています。両親がいない分は、わたしが主治医として責任を持って、この子をサポートします」

「お医者さんが親代わりなら、心強いわね」

シスターはそう言って志保に微笑みかけた。志保は、あいまいな笑みを返すにとどまった。

 

施設内の食堂でお昼ご飯を食べ、午後は見学ということになった。正直、疲れているので「城(キャッスル)」に帰って寝たいところだが、わがままも言えない。

そもそも、疲れてるのもまた、志保が原因なのだ。

数日前、志保はどうしても今すぐにクスリが欲しくなってしまった。その時、たまたま財布を「城」においてバンドのライブに来ていた志保は、楽屋に忍び込み、バンドメンバーの財布を盗んでクスリを買った。今日は教会に来る前に朝早くから、亜美に連れられてバンドメンバーのアパートを訪れ、謝罪と返金をしてきたのである。

朝だというのに部屋のカーテンは閉め切られていた。

志保が正座し、亜美は体育座り。机を挟んだ反対側に、被害者のバンドメンバーが胡坐をかいている。誰もが黙りこくり、外の大通りを走るトラックのエンジン音だけが聞こえる。

まず、志保が財布を返し、頭を下げて謝罪した。口を真一文字に結んだバンドメンバーが、しゃべりはじめる。

志保はある程度覚悟していたが、バンドメンバーには相当口汚く罵られた。自分が悪いとわかっていても、わかっているからこそ泣きたいぐらいに。

バンドメンバーが、警察を呼ぶと言った時、事件は起きた。

亜美がテーブルを蹴り飛ばしたのだ。軽いプラスチック製のオレンジ色のテーブルは宙を舞い、壁に叩きつけられ、ドンガラガンと音が鳴る。その音よりも大きな声で亜美が怒鳴る。

「てめぇ、志保がこうして恥を忍んで頭下げてんだろうが! 悪かったつってんだろうが! 金は全部帰ってきたんだろうがよ! 丸く収めるってことが出来ねぇのか!」

「何だと、てめぇ!」

「何だとはなんだてめぇ!」

亜美とバンドメンバーが互いに怒鳴りあう。互いに服を掴んで引っ張りあうので、つかみ合う二人はどんどん動き、そのたびに床に積んである雑誌が崩れ、棚の上の小物が落ちる。

志保は、亜美が自分の気持ちを口汚くも代弁してくれたことは嬉しかったし、結局一番悪いのは自分なのもわかっているが、それでも、謝罪の付添人としてこの態度はよくないんじゃないか、という思いを禁じ得なかった。

「てめぇ、ホントにケーサツ呼ぶぞ!」

バンドメンバーが怒鳴る。

「ああ、呼んでみろよ! 全員ぶっ殺してやるよ!」

亜美が社会に挑戦しかねない言葉を吐く。

「亜美ちゃん、とりあえず、落ち着いて!」

志保は亜美の右腕の入れ墨にほほを押し付け、肘を引っ張り、何とか二人を引き離そうと骨のように細い両腕に力を入れる。それとは別に冷静に考えている自分がいた。

謝りに来たのはあたしで、亜美ちゃんはその付添いのはずだったのに。

 

結局、何がどうなったのか、わずか数時間前のはずなのに、よく覚えていない。幸い、暴力沙汰にならなかったことと、亜美が貫録勝ちしてこちらの要求が通ったことは覚えている。

 

施設の中の一室に志保と舞は通された。白い壁で囲まれた部屋の中には長机が円卓のように並べられ、ホワイトボードが一つ置かれていた。そのわきには進行役の職員が立ち、机のまわりには施設の利用者なのであろう人たちが座っていた。志保と同年代であろう少女や、志保の親ぐらいの年齢の男など、まさに老若男女だ。

「これから、ここでミーティングが行われるのよ」

終始優しく微笑むシスターが説明してくれた。

「ミーティング……ですか?」

志保が尋ねる。今ひとつピンとこない。いったい何を話し合うというのだ。

「ミーティング、といっても、一般的な会議とは違うのよ。うちの施設では、毎回テーマを決めて、そのことを話してもらうの。自分の生い立ち、家族、夢、いろんなことを話して、みんなに聞いてもらうの」

「……聞いてもらうだけ、ですか?」

「ええ。」

微笑みシスターが返事をした。

進行役の職員がホワイトボードに、今日の議題を書く。

『依存症になったきっかけ』。それが今日のテーマらしい。

三十歳くらいの男性が話を始める。彼はアルコール依存症らしい。仕事のストレスからアルコールを飲む量が増えていった、という話をしていた。

話を聞きながら、志保は考えていた。

あたしが、クスリを始めたきっかけってなんだろう。なんだか漠然として、はっきりしない。

以前たまきに聞かれた時も、はっきりとは答えられなかった。

ただただ、明日が怖かった。

何であたしは、クスリに手を出したんだろう。

 

写真はイメージです

教会の駐車場に停められた、舞の赤い車に、志保と舞は乗り込んだ。エンジンをふかし、静かな住宅街の路に滑り出す。進路を歓楽街に向けてとる。

「シロで降ろすから」

舞はサングラスをかけ、煙草をふかしながらハンドルを握る。「シロ」というのは志保が暮らすつぶれたキャバクラ「城」(キャッスル)のことらしい。

「次からは電車で一人で行けるな? 本当はお前を一人で外出させたくないんだけど、こればっかりはなぁ」

「……はい」

車は住宅街を抜け、大通りを走る。頭上には高速道路が続いている。10分もすれば、歓楽街に着くだろう。

「あの、先生」

助手席の志保が少し顔を舞に向けた。

「どうした?」

「その……、あんな嘘ついてよかったんですか?」

「嘘?」

「自宅通いって言ったり、家族と同居してるって言ったり……」

「ほんとのこというわけにはいかねぇだろう」

舞は右手でハンドルを握りながら、左手でくわえたたばこをつまみ、灰皿の上に軽く押しつけた。そして志保の方を見やって、にっと笑う。

「あの二人はまだ家族とは思えねぇか」

志保は軽くうなづいた。

「まあ、一緒に住み始めて、半月ぐらいか? お前としては、この前の事件の負い目もあるだろうしな」

志保はまた力なくうなづく。

「でもな、志保。お前があいつらのことをどう思ってようが、あいつらがお前のことをどう思ってようが、あの二人は自分たちがお前を支えると決めたんだ」

舞の後ろの車窓に、陽を浴びた街路樹が流れていく。

「だったら、お前のことを家族だと思って扱ってくれなきゃ、困る」

赤い車の側面を、南西から太陽が照らし出す。前方に並ぶ車の列を見て、舞は舌打ちをする。どうやら渋滞にはまったらしい。カーラジオからは、夕方ごろから天気が急変し、ゲリラ豪雨の恐れがあるという予報が流れていた。

 

写真はイメージです

「うひゃー!」

亜美が「太田ビル」を出ると、外はものすごい雨だった。雨粒が銃弾のようにアスファルトをたたく。

「んだよ。さっきまで晴れてたのに」

亜美の愚痴も雨音にかき消される。

傘をさすと亜美は小走りに動き出した。たまきにはやむまで待ったらどうかと言われたが、亜美は待つことが苦手な性分だ。

小脇には3人の洗濯物を入れたビニール袋。これよりコインランドリーに洗濯に行くのだ。

今、『城』の中には結構なものがそろっている。テレビやビデオは亜美の稼ぎやごみ捨て場で手に入れたし、元がキャバクラで、夜逃げ同然で使われなくなったので、調理系の家電もそろっている。空調も万全だ。

だが、洗濯機はない。ましてや、風呂場などあるわけがない。なので3人はコインランドリーや、小さな銭湯を利用している。コインランドリーは亜美とたまきの2人でローテーションを組んでやっている。だが、「志保を一人で外に出すな」という舞からの通達があるため、志保は料理専門として洗濯担当から外されているし、外出が苦手なたまきを考慮して、亜美が洗濯に行く場合が多い。

コインランドリーまでは歩いて5分ほど。雨の中、亜美は小走りで駆け抜ける。

途中、背広を着た中年の男とすれ違った。ふと、気になり、足を止める。

なぜ気になったのか、亜美にもよくわからない。すぐにまた、コインランドリーに向けて駆け出した。

昼間の歓楽街に背広の人間はあまりいない。オフィスなんてほとんどない。居酒屋、エッチなお店、ヤクザの事務所……。背広を着て通勤するような場所はあまりない。

お昼時や夜なら食事や飲み会、エッチな目的で来たサラリーマンをよく見るが、午後3時、しかも雨となると、なかなかいないものだ。

 

写真はイメージです

「亜美さん、大丈夫かな」

『城』の中で窓をたたく雨粒を見つめながら、たまきがつぶやく。昨日も大雨の中、亜美は洗濯に行った。「今日は私が行きます」と言えなかった自分が情けなくて嫌になる。

一人で「城」の中にいるのは、なんとなく心細い。もともと店として活用されていた広いスペースに一人でいるのだ。空間を持て余してしまう。聞こえるのも空調の音と、ガラスの向こうの雨音だけだ。

たまきはソファの上に横になると、静かに目を閉じ、物思いにふける。

今日、ミチから聞いた話は、たまきをますますわからなくさせた。

世の中には輝いている人間がたくさんいる。ビジネスマン、芸能人、スポーツ選手などなど。特に、芸能人なんて、たまきと同じぐらいの年なのに、太陽のような輝きを放っている人がたくさんいる。

それに比べれると、たまきはちっぽけな月みたいなものだ。太陽の周りを回るちっぽけな地球。その周りを回る、さらに小さな月。

そんなたまきにとって、ミチは「地球」のような存在だった。青く、月より美しい地球。

以前、月から撮影された地球の写真を見たことがある。真っ暗な空に、青く大きく、丸く美しい、そんな地球が浮かぶ。

月から一番近いのに、穴ぼこだらけの月よりもずっと美しく、手を伸ばせば届きそうなのに、背伸びしても飛び跳ねても決して届かない。

月は、いつも地球にあこがれているのだ。その美しさにあこがれているのだ。

たまきは、そんなミチのそばにいれば、もっと正確に言えば、ミチの歌を聞いていれば、自分も少しは輝ける、と思っていた。

宇宙から見れば、月なんてちっぽけな石ころだ。でも、地球から見れば、美しく光り輝いて見える。

地球があるから、月は美しく見てもらえる。

だが、憧れであったはずのミチにも悩みがあった。彼は、もっと輝きたかった。

チャラい風貌は受け入れがたいが、夢に向かって毎日歌うミチは、たまきにとっては十分まぶしい存在だった。

だが、ミチは今よりももっと、太陽のように輝きたいという。

自分よりも友達作りスキルの高い亜美が学校というレールから外れ、自分よりも恵まれているはずの志保がドラッグに手を出し、自分より輝いているはずのミチがもっと輝きたいという。

地球は青く美しい。それで十分じゃないか。でも、彼らはもっと輝きたいと言ったり、輝きを捨てて月に近づこうとする。

一体どこまで行けば、ゴールにたどり着けるのか。友達ができれば、恋人がいれば、夢を持っていれば、たまきはゴールにたどり着けると思っていた。幸せになれると思っていた。

でも、二人の同居人やミチを見ていると、友達がいたって、恋人がいたって、夢があったって、悩みは尽きない。

だったら、きっとたまきみたいな人間は、どれだけ歩けどもゴールにたどり着けないんじゃないだろうか。

一体何がいけないのだろう。誰のせいなのだろう。

それとも、全部自分のせいでしかないのか。

『城』のキッチンの窓ガラスを雨粒が流れ星のように滑る。

雨の日はなんだか憂鬱になる。

 

あまりの大雨に、傘をさしていても、男の足元はどんどん濡れていく。濡れた裾が刺さるように痛い。

男はわきにあったビルを見た。ビルの一階はコンビニで、そのわきには上層へと続く薄暗い階段がある。男は傘をたたむと、階段に入って雨宿りを始めた。

コンビニの方に入らなかった理由は男にもはっきりとしない。明るいところを無意識に拒んだのかもしれないし、ただ誰かに顔を見られるような場所に行きたくなかっただけかもしれない。

男はスーツ姿だったが、薄汚れ、しわだらけで、「正装」とは言い難い。顔だけ見ると四十代半ばといったところだが、薄くなった頭はそれ以上に老け込んだ印象を与える。手には黒い、小さい、くたびれたかばんを持っている。

男は階段の入り口に掲げられた看板を見る。これを見れば何階に何が入っているのかがわかる。

一階はコンビニ。二階が飲食店。その上に雀荘があり、さらにその上にビデオ屋がある。その上にはキャバクラかなんかだろうか、「城」と書かれた看板がある。

人間の抱く、たいていの欲望がこのビルで叶いそうだ。ならば、自分の目的もはたせるかもしれない。男はそう考えた。

5階のキャバクラがいい。この時間なら、まだ人はいないかもしれない。

男はゆっくりと階段を昇って行った。甲高い足音がこだまする。

 

5階に着くと蛍光灯のカバーが割れた看板が男を出迎えた。「城」と一文字漢字で大きく書かれ、そこに「キャッスル」とルビが振ってある。

もしかしたら、この店はもうやっていないのかもしれない。そう思いながら男はドアノブに手をかけ、静かに回して引いた。カチャリ……、と小さな音を立ててドアが開く。

やはり、もうやっていないのか。それとも、ただただ不用心なのか。

中は薄暗い。小さな窓から灯りは差してはいる。だが、外は大雨。もともと外が暗いので、店の中はぼんやりとしか見えない。

男は、誰か来たらどうしよう、ということしか考えていなかった。店の人間に見つかったら、最悪の事態になりかねない、と。だから、ソファの上のぬいぐるみにも気づかなかった。

男は静かにドアを閉めて、歩き出した。レジスターらしきものは見当たらない。奥に行けば金庫ぐらいはあるだろうか。

もし、彼がこの時後ろを振り返れば、ドアにかかった「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが揺れているのに気付いたはずだ。

 

薄暗い店の中を男は探っている。背後には厨房らしきスペースがあり、右手に”PRIVATE”と書かれたドアがある。金庫があるとすればあそこの中だ。

と、ふと左に目をやったとき、ソファの上にクマのぬいぐるみが置かれていることに男は気づいた。

ぬいぐるみ? キャバクラの中に、ぬいぐるみ?

ぬいぐるみに気を取られていた男は、足元にあった何か固いものを踏んだ。不意を突かれてバランスを崩し、ソファに頭から突っ込んで鈍い音を立てた。右手から放たれた鞄と、左手から放たれた折り畳み傘が宙を舞い、派手な音と共に床へと落ちた。

幸い、顔から突っ込んだので、大したダメージはない。男はすぐに立ち上がった。と、ほぼ同時に、視界の隅で人影がゆっくりと動いた。

 

何かが倒れたり落ちたりする音で、たまきは目を覚ました。どうやら部屋でぼおっとしているうちに、眠っていたらしい。亜美か志保のどっちかが帰ってきたのか。こういう派手な音を出すのは亜美の方かな、と音のした方を見る。

見たことのない男がそこに立っていた。父親と同年代だろうか。頭の薄い、さえない印象を受ける。

本来、いるはずのない人間を見て、たまきは小さい叫び声をあげた。

だれ? なに? もしかして泥棒? どうやって入ったの?

そういえば、鍵を開けたままにしていたんだった。「城」のカギは、むかし亜美が店内で見つけたという一個しかない。たぶん、「城」のオーナーが夜逃げするときに置いていき、そのままになっていたのだろう。

そのカギは今、たまきの手元にある。亜美も志保も鍵を持たないまま外出したのだ。

もし、鍵を閉めてしまうと、今日のようにたまきがうっかり寝落ちした時に二人は「城」に入れなくなってしまう。

そんなことを刹那のうちに考えていると、男がたまきの方を向いた。

直後、男は

「うわぁ!」

とたまきの悲鳴より数倍大きなボリュームで叫んだ。

 

男は叫んだと同時に、後ろにのけぞり、腰を抜かした。そのままソファの上にばすんと尻を乗せる。

誰? 何? 店の人間? いつからここにいた?

相手の少女は小柄で、まだあどけない顔にメガネをかけている。おそらく、中学生か高校生といったところだろうか。冷静に考えれば、そんな年頃の地味な少女がキャバクラの店員なはずがないのだが、(中には法を犯して、中高生を働かせている店もあるかもしれないが)、この男、何せ生来の小心者。そんなことを落ち着いてかんがみる余裕はない。

どうする? 顔を見られた?

足元に目をやると、ビデオデッキと思われる物体が置いてある。どうやら、これを踏んづけてバランスを崩したらしい。

何で? 店の中にビデオデッキ?

目の前の少女は、怯えているのか、男の顔をじっと見つめている。

駄目だ。確実に顔を覚えられた。

どうする? 逃げるか? でも、顔を見られた!

パニックに陥った男は、あたりを見渡す。自分のかばんを見つけると、中に手を突っ込み、何かを取り出した。

それは包丁だった。店頭で売られていた時のまま、パッケージに入っていたが、男はぶるぶる震える手で乱暴にこじ開け、中の包丁を取り出した。まだ新品で薄暗い中でも、切っ先がほのかに光を放つ。その刃先をふるえる手で少女に向けると、男はあらん限りの声を振り絞って叫んだ。

「こ、殺されたくなかったら、言うことを聞け!」

言ってから、男は後悔した。なんてことを言ってしまったんだ。

いや、そもそも、最初から泥棒をするつもりで店に入ったのだ。もっとも、包丁を買ったのは、誰かに出くわしたときに殺すためではなく、包丁を購入することで、もう後戻りはできないと腹をくくるために、いわば景気づけのために買ったのだ。そのままお守り代わりにかばんに入れておいたのだが、まさか使うことになるなんて。

血の気が引いたのか、男は少し冷静に考えられるようになった。

もしかして、さっき一目散に逃げれば、大事にはならずに済んだのでは?

でも、もう遅い。刃物を女の子に向けて、あんなこと言って、これじゃもう脅迫、強盗、殺人未遂。

こうなったら。男は、悪い方向に腹をくくった。

こうなったら、とことんやってやる!

「か、金を出せ! 大人しくすれば命は助けてやる!」

上ずった声で叫びながら、頭の中で算段を立てる。

相手はたぶん、中学生か高校生。だとしたら、学生証なり身分を証明するものを持ってるはずだ。お金と一緒にそれを取り上げるんだ。そして「これでお前の身元は簡単に調べられる」とか、「しゃべったらおまえや家族を殺す」とか言えば、きっと黙っててくれるはずだ。

そうだ。俺はこの子を殺すために刃物を向けてるんじゃない。お互い、無事に事を収めるために刃物を向けているんだ。男は自分にそう言い聞かせた。

 

たまきは困っていた。

隣の部屋にはいくらあるのか知らないが、亜美がエッチであくどい事をして稼いだお金が入っている。お金を渡したら、きっと亜美に怒られる。

たまきは不思議と恐怖を感じていなかった。

どうも自分は、「恐怖」というものに鈍感なようだ。前に亜美にホラー映画を見せられた時も、あまり怖くなかった。きっと、中学の時、初めてリストカットした後に無理やり学校に行かされ、気分が悪くなって3時間目にさぼって吐いた女子トイレの便器の中に、恐怖心も一緒に吐き出してしまったんだろう。

そもそも、たまきはお金の場所を知らない。

亜美は普段はずかずかしているくせに、そう言ったことに関しては疑り深く、誰にもお金のありかを教えていない。何となく、隣の部屋にあるのだろうといった感じだ。

でも、お金を渡さないと殺されちゃう。男が持っている刃物は、おもちゃではなく本物のようだ。

あれ? でも、殺されたらそれはそれでいいんじゃない?

そうだよ。私、ずっと死にたかったんだから。

それでも、今日まで不本意ながら生き残ってしまったのは、どこかにためらいを感じていたんだろう。

きっと自分は、恐怖を感じていないんじゃなくて、恐怖を感じていることに気付いていないだけなのかもしれない。

たまきの右手首にまかれた包帯の下には、無数の傷の線が走っている。これを「ためらい傷」というらしい。

死ぬことが怖いのか、痛いことが怖いのか、自分でもわからないが、どこか恐怖を感じているのだろう。だからためらい、死にきれない。

だったら、殺してもらえばいいのだ。

奇特にも目の前にいる男は、たまきを殺すという。

たまきのような、毒にも薬にもならない女を殺してくれる人なんて、もうこの先現れないかもしれない。

よし、今度こそ、今日が私の命日だ。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

男は戦慄した。刃物を向けて殺すと脅した少女が臆するどころか、嬉しそうに笑ったのだから。

あどけない笑みはこういう状況でなければかわいらしいものだが、今は恐怖しか感じられない。

少女は男の方へ近づいてきた。男は怖くなって喚いた。

「おい! 来るな! 殺すぞ!」

「殺してください」

少女は臆することなく、笑顔で答えた。

「お金はあげられません。だから、殺してください。」

男と少女の距離は30センチぐらいだろうか。包丁の切っ先の、それこそ鼻先に少女の鼻がある。

少女の小さく白い手が男の手を包み込み、男の腕を降ろし、少女は刃先を自分の胸元へ向けた。少女の袖がめくれ、手首の白い包帯があらわになる。少女の指先はつめたかった。

何を考えているんだ、この娘は。

少女はしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

「胸よりおなかの方がいいですかね?」

「え? え?」

「心臓を一突きにしてもらおうと思ったんですけど、でも、胸って心臓を守るための肋骨がありますよね。」

「え? あ、あるねぇ」

男は自分が何を聞かれて、何を答えたのかもよくわかっていない。

「だったら、胸よりおなかの方がいいですよね?」

「え? う、うん……」

少女は男の腕をさらに降ろし、刃先を自分のおなかに向けると、手を離した。

沈黙が流れる。

「あの……、まだですか?」

男より一回り背の低い少女が、男を見上げながら言った。

「え……、え?」

「早くしてください」

男の人生で、この先、こんな若い子に何かをせがまれることなど、もうないかもしれない。だからといって、さすがに殺すわけには……。

ちょうどその時、入口のドアが開いた。二人は同時にそっちの方を見る。

「あ、亜美さん」

さっきまでの黒髪の少女がそうつぶやいたのと、新たに入って来た金髪の少女が、

「たまきになにしてんだてめぇ!」

といって駆け出したのはほぼ同時だった。そのまま金髪の少女はテーブルを踏み台に飛び上がった。

男は、反射的に金髪の少女から顔をそらした。男のほほに少女の飛膝蹴りが突き刺さり、男の体は吹っ飛び、鈍く大きな音を立ててソファの上に落下した。


次回 第7話 幸せの濃霧注意報

強盗のおじさんと出会ったことで、「幸せってなんだろう」と考えるたまき。果たして、亜美に蹴り飛ばされたおじさんの運命はいかに?

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

検証:ピースボートで人生は劇的に変わるか?:フリーライター自由堂ノック編

前回に続き、「ピースボートで人生は劇的に変わるか」シリーズの第2弾である。今回は仕事につながる話だし、ちゃんと人生に変化はある。果たして、その変化が劇的なものなのかどうか。もちろん、前回に続き、主人公として登場してもらうのはこの私、自由堂ノックだ。


ピースボートの船内には、「船内チーム」という集団がいる。乗客の中から有志が集まって、船内を盛り上げる様々な仕事をするのだ。音響や照明を担当するPAチームや、映像チームなどがある中、僕は船内新聞を作成する「新聞局」に入った。

船内新聞とは読んで字のごとく、船内で発行される新聞を作るチームだ。とはいえ、記事の大半は船内のイベント情報で、そのイベントを担当するスタッフが書く。

ただ、参加者を紹介するコーナーがあり、そのコーナーは新聞局のメンバーが面白い人を見つけて取材し、記事にする。また、新聞が記事で埋まらないこともあり、そのスペースは新聞局の仲間がコラムみたいなものを書く。

僕はもともと文章を書くのが好きだったので、船に乗ったら新聞局に入ろうと思っていた。

ただ、「文章を書くのが好き」であって、「文章を書くのが得意」と思っていたわけではない。

大学のころ、自分の書いた文章にかなり修正を加えられたことがある。

大学では「民俗学研究会」という部活に所属し、そこで毎年、部誌を発行していたのだが、僕の文章は同期の仲間に「ふざけすぎだ」と言われてかなり修正されたのだ。その日は、めちゃくちゃ落ち込んだ。

これまで、取り立て文章で褒められることもなかった。浦和市が市内の小学生の文章を集めた「文集うらわ」に載ることもないし、何かの賞をもらったこともない。

だから、新聞局に入っても、記事は書かずに編集などをしようと思っていた。まったく自信がなかったからだ。

ただ、1記事だけ、僕が専属で書くことになった。

それが、寄港地の国旗について紹介する記事だった。

とはいえ、僕は船に乗るまでこれと言って国旗に詳しかったわけではない(今では国旗大好きだが)。

ではなぜ、国旗のコラムを書くことになったのか。

船に乗る前、事前に新聞局に入りたい人が集まる機会があり、そこでLINEのグループを作った。

そして、局長を務めるスタッフから、船内新聞で国旗に関するコラムをやりたいということ、国旗に関する本があったら持ってきてほしいことがLINEで伝達された。

その翌日である。僕がブックオフでたまたま、「国旗の世界史」という本を見つけたのは。

世界中の国旗がマイナーな国まで網羅されているうえ、それぞれの国旗に隠された歴史も書かれている。おまけに、本来1800円のその本が中古だったので500円。

奇妙なめぐりあわせで、僕はその本を購入した。いざ、船に乗ったら新聞局でそんな本を持っているのは僕だけだった。それがきっかけである。

国旗のコラムをいくつか書いていると、局長から「ノックは文章うまいから助かる」との言葉をいただいた。

とはいえ、例によって疑い深い僕である。お世辞ぐらいにしか思わず、全く本気にしていなかった。

そんな僕に、ある出会いが訪れる。

ピースボート88回クルーズでは、mすあき案内人としてフリーランサーの安藤美さんが乗っていた。僕らは親しみを込めて「ミッフィーさん」と呼んでいた。

そのミッフィーさんが、ツイッター用の140字のプロフィールを添削してくれるという。ぼくは文章力が上がるのではないかと思い、140字のプロフィールを作って店に行った。当時、ツイッターなどやってはいなかったが。

自分での感想は「ふざけすぎた」だった。学生時代に修正喰らったことが頭をよぎった。

だが、これから添削されに行くのだ。完璧なものを用意する必要はない。もしふざけすぎたのであれば、そう指摘されるだろう。

だから、ミッフィーさんから「どこも直すところがない」と言われたときは、頭が真っ白になった。「何も添削する必要がないなんてめったにない」とも言われた。もちろん、いい意味で、だ。

添削される気満々だった僕は、じゃあどこを改善したらいいのかと途方に暮れた。褒められなれていないのだ。

疑り深い僕でも、さすがにこれは信じざるを得なかった。ミッフィーさんが添削の場でお世辞を言う理由が全くなかったからだ。

この一件は僕の文章に対する自己評価をかなり変えた。「もしかして、自信を持っていいのか?」と考えるようになった(自信を持ったわけではない)。

ミッフィーさんから教わったことはほかにもある。

船内の講演会で、「今、ネットのメディアはライターをたくさん募集している」とミッフィーさんは教えてくれた。船を降りた僕はその言葉を当てに「クラウドワークス」や「ランサーズ」に登録し、今、フリーライターの仕事をしている。

ミッフィーさんと出会わなかったら、今、フリーライターをしていないかもしれない。そう考えると、わずか2週間ほどの交流だったが、実に不思議だ。今でも僕は、ミッフィーさんを師と仰いでいる。ライターとしての目標の一つは、「いつかミッフィーさんと仕事をする」だ。

ただ、ミッフィーさん一人の影響は大きいが、それがすべてではなかった。

船内新聞で書いた僕の記事の感想が、僕の耳にも入るようになったのだ。直接本人から「よかったよ」と言われたり、人づてにそう言ってたよと聞いたり。そのほぼすべてが、僕の本名の読み方を間違えていたが(笑)。だが、そういうことがきっかけで船内の企画に携わるようにもなった。シニアの方から船内新聞の記事のファンレターをもらったこともあった。

そんなこんなの影響で何を勘違いしたのか、今、僕はフリーライターをやっている。出版業界にいた経験は、ない。前職は警備員だ。

さて、では、僕の人生は劇的に変わったのだろうか。

僕自身は、劇的とは思っていない。

以前にも書いたが、やっぱり人生は複線回収で、過去にそうとは知らずにつくってしまった伏線を、後々回収するだけなのだと思う。

小さいころから本を読むのは好きだったし、文章を書くのも好きだった。就活の時も漠然と「文章を書く仕事がしたい」と考えていた。今思えば、そういった伏線を回収する機会を得ただけなんだと思う。

だが、複線回収の一方で、思いもよらない偶然の連鎖というものがある。

船に乗る前に「国旗の世界史」を買わなければ船内新聞で記事を書くことなんてなかったかもしれないし、88以外のクルーズだったらミッフィーさんに出会うこともなかった。

ラップに関しても、大宮ボラセンにたまたまラップ好きが集まってなければ、船でラップをしようなどとは思わなかった。

そして、僕がこの変化を「劇的」とは思わない理由がもう一つあって、

僕は、いまだに自分が文章を書くのが得意だと思っていない。

「人からそう言われるので、おそらく僕は文章を書くのが得意なのだろう」と認識しているだけで、自分で文章が得意だとは全く思っていない。「しゃべるよりは書く方が得意だろう」ぐらいの認識である。

他人の文章の良し悪しはわかる。同じ船内新聞の仲間の書いた文章は本当にうまいし、逆にネットでよくわかんない記事を見て、「文章下手だなー」と思うこともある。

だが、自分の文章に暗しては、とんとわからない。

「これでいいのかな?」と首をかしげながら日々仕事をしている。

何か月もやってクビになってないから、おそらく評価されているんだろう、という認識である(もちろん、不採用になった原稿もたくさんある)。

だいたい、僕は「フリーライターになれた」のではない。他の仕事が壊滅的にできないから、「フリーライターになるしかなかった」のである。「書く仕事がしたかった」とは言ったが、「いきなりフリーで」なんて一言も言っていない。いきなりフリーで仕事をし出したのは、かわいそうなくらい会社の仕事ができないからであり、かわいそうなくらい面接が苦手だからだ。

志望校に全滅して、滑り止めの高校に進学したら、意外と自分に合ってた、そんな感じだ。

ピースボートで人生は劇的に変わる、わけではない。これまでの伏線を回収するだけだし、相変わらず自信なんてない。

ただ、ピースボートは「選択肢」を提供してくれる場であったと思う。

船で出会った仲間や水先案内人、旅先の文化や風景などが、あなたに無数の選択肢を与えてくれる。「普通の」以外にも道はたくさんあるんだと教えてくれる。

そして、ピースボートは何かをチャレンジした人を応援してくれる人がとても多い。一般社会では「空気読めよ」と言われてしまいそうなことも、臆することなく評価してくれる。だから、どんどんチャレンジするといい。船は積極的じゃないと楽しめない」、これは僕が恩人からもらった言葉だ。

無数の選択肢の中から何かを選び取った時、それまでの人生にちりばめていた複線が、そして不思議な偶然が、最高の仲間が、ちょっと背中を押してくれる。たったそれだけである。