ピースボートの船旅、外国でガチで焦った3大事件!

旅は、楽しいだけではない。ピースボートに乗った経験者ならば、外国でトラブルに見舞われたことが一度はあるはずだ。日本ではなんてことのないトラブルも、言葉の通じない国では命取り。今回は、ピースボートの度で僕が出くわしたトラブルを、焦りや恐怖を感じた順に3つ紹介しよう。ノック自由堂のシャレにならない話、始まり始まり。


ピースボートの船旅 外国でガチで焦った第3位 トルコの爆走タクシー

外国のタクシーは、結構スピードを飛ばす。ドバイで乗った時も制限速度が80㎞の道をほんの100mほど走るだけなのに、トップスピードまで加速する。ペルーでタクシーに乗った時も、高速道路をサーキットか何かのようにぶっとばしていた。

どうやら、日本が距離でメーターが変わるのに対し、時間でメーターが変わる国があるらしい。こういった国のタクシーではなるべく早く着かないと、「料金あげるために、わざとのろのろ走っただろ!」というトラブルになりかねないのだそうだ。

そんなタクシーで一番恐怖を覚えた国、それがトルコだ。

ピースボート88回クルーズは、トルコのクシャダスに寄港した。野良猫がのんきに暮らす港町だ。

このクシャダスの目玉は、隣町にあるエフェソス遺跡だ。僕らが訪れた2015年に世界遺産になったばっかりである。古代ギリシャの時代に栄華を誇った大都市だ。今でも巨大なアリーナををはじめ、当時の栄華を伝えている。

エフェソス遺跡のアリーナ。ここでラップをしたら、20人ほどのヨーロッパ人観光客が拍手をくれた。

この遺跡はクシャダスから離れているため、行き来にはタクシーを使う。

このタクシーが、とんでもないスピードで飛ばすのだ。

いろは坂のような曲がりうねった山道を、猛スピードで飛ばしていく。カーブに差し掛かっても、減速した様子がまるでない。10回以上、「このままガードレールの向こうに突っ込むのかな」と覚悟した。

だが、助手席に乗っていたピースボートの水先案内人の四角大輔さんは平然としている。大輔さんはニュージーランド在住だ。

「外国のタクシーって、これが当たり前なの!?」と驚愕したことを覚えている。

外国に限らず、日本でも深夜のタクシーはかなり飛ばす。「急いでないから、普通に走ってくれー」といつも思う。

ピースボートの船旅 外国でガチで焦った第2位 フランスの山の中で迷子

ピースボートの船には「帰船リミット」というのがる。要は門限だ。これに遅れると大変なことになる。

船は港に停泊する際、港にお金を支払う。それが伸びれば莫大な延滞料金を支払わされる。デパートの駐車場で時間に遅れると追加料金を取られるのと同じ理屈だ。

だから、帰船リミットに遅れると、しこたま怒られるらしい。

リミットに遅れても、少しは待ってくれる。その代わり、しこたま怒られる。

そして、最悪の場合、置いていかれる。

だから、常に僕は帰船リミットに余裕を持って船に戻っていた。早めに船に戻って、人の少ない船を楽しんだり、デッキに出て港で景色を楽しんだり、早く帰っても結構楽しめる。

事件が起こったのはフランス、マルセイユだ。

マルセイユは港から離れていて、歩いて30分かかる。これまで訪れた国で、タクシーで散々な目にあってきた僕は、歩いて市街地に向かった。

帰船リミットは16:30。余裕を持って13:30には市街地を出た。

行きと同じ海沿いの道ではつまらないので、帰りは違う道を歩いて行った。

いい加減おかしい、と思ったのが14:00ころ。いつまでたっても海に着かない。

海に着かないどころか、むしろ山を登っている。

山といっても周囲は住宅街なのだが。

そう言えば、港から山が見えていた。そのどれかに上ってしまったのかもしれない。

とりあえず、現在地を把握しなければ。

しかし、バス停に書いてある地図はあろうことかフランス語で書かれていて(当たり前)、現在地がわからない。

何とか現在地を把握できたのは、14:30になってからだった。

なんと、僕は港から見えていた山を越えて、もう一つ向こうの山に登っていたのだ!

あと2時間以内に山を下り、登り、また下らないと、船に乗り遅れてしまう!

しかも、港はいくつかあって、帰るべき港の名前がわからない!

幸い、方位磁石は持っていた。そして、西に向かえばいずれは海岸線に出れることもわかっていた。

西へ向かってフランスパンを片手に急ぐ。

頭の中にはもちろん「最悪のシナリオ」だ。

幸い、クレジットカードは持っている。次の寄港地のバルセロナも陸続きだ。

だが、言葉が通じずに現在地すらわからなかった人間が、どうやってバルセロナにたどり着けというのだ!

見覚えのある海岸線の道に出れたのが15:30。真っ直ぐ西に向かっていたはずだが、いつのまにか市街地の近くまで戻っていたようだ。

船にたどり着いたのは、16:00だった。もし、「余裕を持って船に帰ろう」と思わなかったら、とんでもないことになっていた。

それ以来、「必ず港の名前を覚える」「必ず方位磁針を持ち歩く」ようになった。方位磁針は、日本に帰った今でも、見知らぬ街に行く際は持ち歩いている。

ピースボートの船旅 外国でガチにあせったランキング 第1位 インドでパスポートと財布を喪失!

ムンバイの街並み

インドのムンバイで僕は仲間と一緒にタクシーに乗った。行先はムンバイのスターバックスコーヒー。

インドのタクシーのおっちゃんは目の前を歩行者が横切っても、「そんなの轢かれる方が悪いに決まってんじゃん」と言いたげにアクセルを緩めない。おまけに、車間距離ぎりぎりまでトップスピードで近づく。助手席に乗っていた僕はめちゃくちゃ怖かった。

さて、タクシーを降り、スターバックスに入った僕ら。注文をしようとした瞬間、最悪の事実に気が付いた。

肩にかけていたはずの財布とパスポートを入れたカバンがない!

思い返すと、タクシーに乗るとき、カバンを肩から外して助手席の足元に置いた。

そして、そのまま出てきた。カバンをすっかり忘れて。

あわててスターバックスの外に飛び出したが、タクシーはすぐに立ち去った後。

まずい、まずいぞ! タクシー会社に電話しなければ。いや、タクシー会社なんて覚えていないし、そもそも、言葉が通じない。探すのはタクシー会社じゃなくて、日本大使館か(ムンバイには総領事館がある)。

などと2,3分途方に暮れていたら、誰かが肩を叩く。

振り向くと、さっきのタクシーのおっちゃんが、僕の黒いカバンを持ってたっていた!

どうやら、途中でカバンの存在に気づき、引き返してくれたらしい。

おっちゃんには悪いと思いつつも、その場で中身を確認する。パスポートも財布も、財布の中身も全く手を付けられていなかった。

運転中は散々こき下ろしたが、こうなったらもはや感謝しかない。

思えば、ピースボートのポスターを貼っていた時もいつもインド人のカレー屋さんに助けられてきた。まさか、本場のインドでこんな風に助けられるとは。

スターバックス前は結構な人ごみだった。向こうもよく僕を見つけられたと思うが、ぼくは迷子にならないように、オレンジのリュクに赤いバンダナといういでたちだった。それが功を奏したのかもしれない。

ぼくは財布から10ドルを出して、おっちゃんに渡そうとした。おっちゃんは手をぶんぶん振って、とても受け取れないという。

しかし、それではとても僕の気持ちがおさまらない。全部なくしたと思っていたのだ。それに比べれば10ドルくらい、安い。

こうして、カバンは無傷で帰ってきた。おっちゃんには本当に感謝しても感謝し入れない。

それ以来、僕はカバンを絶対に体から外さないようになった。本当に大事なものは首にかける。そうすれば、首を落とされない限りなくすことはない。逆に言えば、首を落とされてしまったら、もう諦めるしかない。


最後の寄港地、サモアで無事船に戻ってこれたとき、「これですべての寄港地を無事に終えることができた」と安堵した。外国の旅は刺激が多く楽しいが、言葉も日本の常識も通じない外国では、予期せぬトラブルが降りかかり、トラブルを解決するのも大変だ。「余裕を持って船に帰る」、「港の名前をちゃんと覚える」、「荷物は絶対に離さない」、これが僕が、トラブルで学んだことだ。

ピースボートに乗船したら、学習・交流系ツアーですごいところに行っちゃった

ピースボートに乗船すると、オプショナルツアーに参加できる。ツアーの中には観光地を巡るものもあるが、現地の歴史や社会問題が学べる学習系、現地の人たちと交流できる交流系もある。今回は、僕が乗船した時に参加した学習系ツアーを1つ、交流系ツアーを2つ紹介しよう。普通の旅ではなかなか行かない、すごい所へ行ってしまった。


乗船した時に参加したピースボートの学習ツアー シンガポール・昭南島の歴史

ツアーの概要

シンガポールは太平洋戦争中、日本に占領されていた。このことを知っている人はあまり屋内と思う。なぜなら、教科書では取り上げないのだから。だが、シンガポールではほとんどの人がこのことを知っている。

当時のシンガポールの名前は「昭南島」。「昭和に手に入れた南の島」という意味だ。

このツアーではほぼ1日かけて、当時の歴史を伝える博物館や日本軍による虐殺が行われたビーチ、いわゆる「からゆきさん」が眠る日本人墓地や、血債の塔などを巡った。

歴史をしっかりと学んだあとは、中華料理を楽しみ、マーライオンを観光した。

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これがからゆきさんのお墓。気づかなければつまづいてしまいそうなくらい、小さい。

ツアーの良いところ

このツアーの良い所は、日本ではあまり知られていない日本の歴史を知れるところだろう。

どういうわけか、日本ではこのことをあまり教えていない。

こういう話をすると「これぞ、ピースボートの左翼洗脳だ!」と声を荒げる人も出てくるだろう。だが、ツアーの参加者の中でも、このツアーには様々な見方がある。

ツアーの後には、参加者による報告会があった。そこで、それぞれが見てきたことを消化した。

その準備の段階で、「アジアでの日本軍の活動は、決して蛮行ばかりじゃない」ということを早くから指摘するツアー参加者もいた。

船に乗っている人たちに左寄りの人が多いのは事実だ。だが、決して傾ききった左翼の船ではない。実に様々な意見が飛び交っている。

この程度で簡単に洗脳されるような人間は、どうせどこに行っても洗脳されて帰ってくるので、あまり心配しなくて大丈夫だ。

報告会では、決して「日本軍批判」に陥ることはなかったと記憶している。

ここで語られたのは、「戦争の狂気」と「シンガポールのたくましさ」だった。

戦争に正義も悪もない。あるのは狂気だけだ。

そして、シンガポールの元大統領・リー・クァンユーは日本に対し、許すけど忘れない」という態度を示した。

日本軍の行いを忘れることは決してないのだろう。

だが、シンガポールは、許すことで国を前進することを選んだ。

強いと思う。日本を含め、このような考えができる国が、世界にいくつあるだろう。

歴史とは、自分を蔑むためのものじゃないし、自分を正当化するためのものでもないし、誰かを傷つけるためのものでもない。

過去を受け入れ、前に進むためにある。

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血債の塔

ツアーの悪いところ

だが、確かに視点が偏っている感も否めない。

そのことを解消するための報告会であり、その準備であり、意見交換なのだ。

しかし、このツアーの最大の短所はそこではない。

とにかく、重い。若い参加者ではあまりの重さに押しつぶされたような表情をしている子たちもいた。

さらに、観光要素は少ない。マーライオンを観光したが、正直、あまりシンガポールを満喫した感じはしなかった。

シンガポールの夜
それでも、こういう景色は楽しめる

乗船した時に参加したピースボートの交流ツアー パナマ・クナ族のコミュニティ

ツアーの概要

パナマに「クナ族」という部族がいる。もともとはパナマ近海の島に住んでいたらしいのだが、30年ほど前、内陸にコミュニティを形成した。このツアーではそのコミュニティを訪れた。

ピースボートはこのコミュニティにこれまで支援してきた。今回のツアーでも、P-MACと呼ばれる支援を行った。日本から集めた物資を、ツアーを通して直接届けるという活動だ。

仲の良いスタッフの一人が、かつて中南米の町にP-MACの一環として救急車を届けた話をしてくれた。船の中から日本の救急車が出てきて、「ずっと乗ってたんかい!」とたいそう驚いたのだとか。

ツアーでは文化交流会も行われた。ピースボート側からも出し物をやったほか、現地のロックバンドのライブが行われた。クナ族の神話の世界観をロックで表現したバンドらしい。

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この道路も、ピースボートの支援でできた

ツアーの良いところ

なんといっても、子供たちとの交流だろう。

僕は子供たちに受けるかと、プロレスのマスクを持っていった。

これが予想を大きく超えてバカウケ!

子供たちはマスクを取り合い、正義のレスラーと化して僕に襲いかかってくる。

マスクがない子も僕に襲いかかってくる。

相手は子供なので痛くはないのだが、動きがいいので防ぎきれない。

僕は適度にやられてあげてみたり、逆に全く聞かないアピールをしたりして遊んでいた。

すると、彼らにサッカーに誘われた。

彼らが使うサッカーボールは空気が入っておらず、三日月のようにへこんでいた。

もし、P-MACに物資を提供することがあれば、僕は迷わず空気入れを買って持っていくだろう。まず、人に支援する前に自分のことを何とかしなければいけないのだが。

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こいつらにボコボコにされました

ツアーの悪いところ

まず、暑い。

そして、ツアー中、食事をとるチャンスはほとんどない。

現地の人たちがフルーツを用意してくれるのだが、

申し訳ないが、フルーツだけじゃおなかは満たせない。

何か、おやつを持って行って、行き帰りのバスでつまむことがおすすめだ。

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クナ族の少女たち

乗船した時に参加したピースボートの交流ツアー ペルー・ビジャ・エルサルバドル訪問

ペルーの首都・リマの近郊に「ビジャ・エルサルバドル自治区」という町がある。

40年ほど前にペルーの内戦の難民たちによって、砂漠に作られた街だ。今では数十万人もの人が暮らしている。

砂漠に作られているため、町は常に砂埃が舞っていた。

この地に訪問するツアーはいくつかあるが、僕はあるNPO団体を訪問するツアーに参加した。

この団体は、子供たちの労働を支援している。

児童労働は世界各国で問題になっているが、この街では学校から帰ったら働くのが当たり前。大人たちは基本、優しく見守るだけで、組織の運営、各支部との会合などは、すべて子供たちが手掛けている。

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まさに、地の果ての町だ。だが、この街から見れば、日本の方が地の果てなのかもしれない。

ツアーの良いところ

このツアーの魅力も、なんといっても子供たちとの交流だ。

昼食は子供たちと一緒にレストランへ向かった。

出てきた料理は鳥の丸焼きと、山盛りポテト。

ペルーの中華料理屋に行ったとき、てんこ盛りの皿うどんが出てきたので、やっぱりこっちの子供はこんな量を食べるのかと思ったら、

子供たちは軒並み残してた。そりゃそうだ。

また、折り紙を持って行って、手裏剣や紙飛行機を折って子どもたちと遊んだ。

ここでもマスクが大活躍! 今度は悪役用のマスクをかぶってみたところ、子供たちが喜んで挑みかかってきた。

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この広場で遊んでいた

ツアーの悪いところ

このツアーの欠点は、やはり言葉が通じないところだろう。僕のつたない中学英語では全く通じない。

なぜなら、向こうはスペイン語しかしゃべらないのだから。

「船で70日かけてきました」とつたない英語で行ってみたが、全く通じなかった。

何せ、「70days」すら通じなかったのだから。腕時計の前で指をぐるぐるすることで、ようやく何らかの時間の単位であることが分かってもらえた。

「英語は世界どこでも通じる」と思っている人には、ぜひピースボートに乗ってもらいたい。


ツアーは決して安くない。

だが、ツアーでしか知れない知識や、ツアーでしか会えない人もいる。

そして、大事なのは、そこで知ったことだけがすべてではない、ということだ。一つの事柄にはいろんな側面がある。

それが確かめたくて、僕らは地球を一周するんだと思う。

埼玉・入間の住宅街にアメリカの町が!~ジョンソンタウンの旅~

埼玉県入間市に「ジョンソンタウン」という町がある。かつてアメリカ軍基地があったこの場所には、今でもアメリカ風の建物が残っていて、雑貨屋やカフェなど、おしゃれな店が立ち並んでいる。そんな埼玉のアメリカ、ジョンソンタウンに行ってみた。とんでもない誤解をしていたとも知らずに……。


きっかけはHOSONO HOUSE

おしゃれな店は、全部東京にある。

本を読んでいても、テレビを見ていても、ちょっと行ってみたいと思った店は、全部東京。

埼玉はすぐ隣なのに、みんな馬鹿の一つ覚えのように、東京に店を構える。

「住みたいまちナンバーワン」として知られる吉祥寺にみんなが住みたがる理由が、「都心に近いけど自然もあるから」と聞いて、以前マツコ・デラックスが「埼玉とどう違うんだ!」と吠えていたが、全くその通りだと思う。

そんな中、埼玉に「ジョンソンタウン」というおしゃれな町があることを知った。

ジョンソンタウンのことを知ったのは、『ドロップアウトのえらいひと』を読んでいた時のこと。

誰の項目を読んでいたのか忘れたが、こんな文章があった。

その昔、狭山には「アメリカ村」と呼ばれるアメリカンな町があった。その町は、返還された米軍基地跡地にあった、米軍の兵士が家族と暮らした家々を使っているらしい。

基地の名前は「ジョンソン基地」。

そしてそこには「Y.M.O」や「はっぴぃえんど」で有名な細野晴臣をはじめ、多くのミュージシャンが集まって暮らしていたという。

そんなアメリカ村の、細野晴臣の家で録音されたアルバムが「HOSONO HOUSE」という音源なのだとか。

つまり、ボヘミアンが集まる街が、埼玉にあったというのだ。

しかも、場所が狭山。狭山という場所は「となりのトトロ」のモデルにもなった場所で、要は田舎だ。

僕はトトロの森の中に忽然と現れたアメリカチックな町を想像した。

調べてみると、狭山に隣接する入間市に「ジョンソンタウン」という町があり、そこは今でも当時の雰囲気を残しているのだとか。

というわけで、ジョンソンタウンに行ってみた。

埼玉のアメリカ村、ジョンソンタウンの旅

西武池袋線に乗って入間市駅を目指す。所沢から電車で15分。少しずつ、少しずつ畑が増えていき、やがて冬の森の中を電車は疾走する。

そこを抜けると入間市だ。駅は結構大きく、ちょっとした駅ビルもある。

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入間市は以前ピースボートのポスター貼りで訪れていたのでだいたいわかる。駅前にはお店が多く、大きなショッピングビルもある。道路も整備されているという印象だ。

団地の中を突っ切って真っ直ぐ南へ

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入間市役所を抜けてそのまんま東へ

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すると、大通り沿いにジョンソンタウンが現れた。

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中にはおしゃれな雑貨屋がいっぱい。こちらのお店はアメリカンな雑貨が所狭しと並んでいた。

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こちらのお店は雑貨屋とカフェをやっている。なんだか、海外の寄港地を巡っているかのような雰囲気だ。

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町の広さはちょっとしたショッピングモールくらい。ジョンソンタウンのお店のほとんどが雑貨、カフェ、洋服屋などの原宿にも負けないくらいのおしゃれなお店なのだけれども、中には整骨院や歯医者、不動産屋、ダンススタジオなどもあり、この街はテーマパークではなく、れっきとした町なんだということを思わされる。現に、この町に住んでいる人もいるのだ。

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クロアチアの旧市街地に行った時を思い出した。あの町もとても美しい城塞都市で、テーマパークのようだったが、路地へ入ると家からパラボラアンテナが伸びていたり洗濯物がつるしてあったり、れっきとした町であることを思い知らされた。

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いくつかのお店を巡っていると、面白い店を見つけた。

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中では、独特なバッジやポストカードなどを売っていた。ふと、二階を見上げると、若い男性が壁に青いペンキを塗っている。

なにこれ? 改装中? それとも、アート?

などと思っていると、別の店員さんが声をかけてきた。

この店は、ここで働く二人を含め、いろんなアーティストさんの作品を販売しているらしい。ただ販売しているだけでなく、それぞれのアーティストを紹介するような形になっている。

アメコミみたいな絵の雑貨や、ソフトなタッチなんだけどなかなかインパクトのあるのポストカード。もこもこしたペンケース、などなど。

後で調べてみると、メインは服屋さんだったみたい。

ANANSE TONTAN

せっかくなので、ノートを購入。

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作ったのはイマイサトミというアーティストらしい。

東京ではなく埼玉にボヘミアンな町はは確かにあったのだ。

このジョンソンタウン、立地もなかなか面白い。

道路から入って反対側に抜けると、広い公園である。

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さらに、その周囲も普通の住宅街である。

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面白いのが、ジョンソンタウンには明確な境界線がないのだ。普通の住宅街を歩いていたら、突如アメリカンな街並みがあらわれた、そんな感覚。

さらに、アメリカンな町の中にふつうのおうちが紛れ込んだりもしている。

これが何の写真か、おわかりいただけるだろうか。

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ジョンソンタウンに紛れ込んだ小料理屋を撮った写真である。

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隣はもう、アメリカンな建物である。

休日なのもあってか、昼間のジョンソンタウンは多くの人でごった返していた。しかし、夜になったらここはどうなるんだろうか。公園もあるし、案外静かなのかもしれない。

さて、細野晴臣たちはこのジョンソンタウンから1kmほど離れた稲荷山公園で10年ほど前に音楽フェスを開いていた。僕も稲荷山公園に向かって歩き出した。

ジョンソンタウンの向かいにあるこの公園も、米軍基地の跡地を使って作られた。多くの人でにぎわっている。

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基地の町に栄えたミュージシャンの村。そう考えると、J-POPはつくづく米軍基地とは切り離せない関係なのだから不思議だ。

J-POPの担い手となったミュージシャンたちは、戦後間もなく、進駐軍のクラブでアメリカ人兵士たちのためにジャズを演奏していた。この時学んだジャズの要素が日本の音楽に変化をもたらし、今日のJ-POPに発展していったと言われている。

また、この時、ミュージシャンを集めて進駐軍のクラブに送る仕事をしていた人たちが、後の芸能プロダクションである。

その辺の歴史は、荻原聖人やオダギリジョーなどが出演している2004年の映画「この世の外へ クラブ進駐軍」で詳しく書かれている。5人のジャズバンドマンの物語だが、ほとんど楽器が弾けないのに、食うために「ドラム経験がある」とウソついてバンドに入ったメンバーがいたり、家族が共産主義者で警察に睨まれているメンバーがいたり、ヒロポン中毒に陥ったメンバーがいたりと、当時の世相がよくわかる。

公園を抜けると自衛隊の入間基地。基地沿いに歩いていると、敷地内に古い戦闘機が止まっているのが見える。たぶん、展示用だろう。

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入間川方面。奥に見えるのは秩父の山々だろうか。

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稲荷山公園。名前の通り小高い山の上にあり、周囲は森に囲まれている。

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稲荷山公園駅から帰路についた。

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とんでもない誤解をしていた……

さて、こうしてジョンソンタウンを訪れ、HOSONO HOUSEの雰囲気に浸ってきたのだが、

どうやら僕が味わったのは、本当に「当時の雰囲気」だけだったらしい。

実は、この記事を書くに当たり最後の調査を行ったところ、とんでもない誤解をしていたことが分かったのだ。

ズバリ、細野晴臣はジョンソンタウンには住んでいない!

彼らが住んでいた「狭山のアメリカ村」は、確かにジョンソン基地跡地ではあるのだが、入間市の「ジョンソンタウン」ではなかったのだ!

どうやら、かつての狭山・入間地方にはジョンソンタウンのような街がほかにもあったらしい。

どおりでジョンソンタウンは入間市なのに、「HOSONO HOUSEは細野晴臣が狭山のアメリカ村に住んでいたころ……」という書き方をされていると思った。

雰囲気はジョンソンタウンと一緒だということで間違いないと思う。当時の「雰囲気」を知りたければ、ジョンソンタウンへ行くべきだろう。

だが、HOSONO HOUSEはココではなかった。

では、一体どこにあったのかというと……。

どうやら、稲荷山公園駅の近くだったらしい。

つまり、

こことか、

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こことか、

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この近くだったのである!

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……もっと時間をかけて探索すればよかった。

これは、また行かねばならないようだ。今度は稲荷山公園駅を中心に……。

細野晴臣の足跡 狭山アメリカ村の旅・完結(はっぴいえんど)編

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ピースボートのクルーズで訪れた『どこやねん!』とツッコミたくなる5か国

ピースボートのクルーズでは、毎回20ヶ国近くの国を巡る。シンガポール・インド・フランス・スペイン・メキシコなど、日本人になじみの深い国にも行くが、「そこ、どこやねん!」と思わず言ってしまいそうな国にもいく。そんなピースボートのクルーズで行った『どこやねん』な国を5か国、紹介しよう。


ピースボートのクルーズで訪れた『どこやねん』な国 その① カタール

サッカーの試合でなんとなく名前を聞いたことがあるかもしれない。アラビア半島のペルシャ湾に面する国で、人口は200万人。FIFAランクは87位(2016年)。

国名よりも首都の方が、日本では有名かもしれない。

首都の名は『ドーハ』。あの『ドーハの悲劇』の舞台だ。

ドーハの悲劇とは……詳しくはwebで。

ドーハ気候に前日には、船の中で『ドーハの悲劇を再現する』という意味不明な企画も行われた。

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『ドーハの悲劇』の写真と同じポーズを、その身を持って再現しようとするおバカな人たち

カタールの国旗

そんなカタールの国旗がこちら。

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カタールの国旗はデザインが隣国バーレーンの国旗に似ている。

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なぜ、こんなにデザインが似ているのかというと、もともと2つは全く同じデザインだったのだ。バーレーンの鮮やかな赤がもともとの色だった。

ところが、倉庫に置いてあったカタールの国旗の方が、変色してエビ茶色になってしまった。それを見た王様が、

「……ま、べつにいっか」

といったかどうかは知らないが、なんと、カタールの国旗は変色したまま現在に至る。

ちなみに、その後ギザギザの数も変わった。

灼熱の町 ドーハ

さて、ピースボートではドーハに訪れた。

しかし、このドーハ、通称「世界一地味な首都」。

中心地は高層ビルがひしめくが、市街地はどこにでもあるアラブの街並み。

しかし、日本人にとってアラブの世界はなじみが薄いので、それだけでも結構楽しめる。

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町中でラクダにも会える
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どうやらホテルらしい。この写真はむかいのモスクからとっている。

このカタールで押さえておきたい場所が「スーク・ワキーフ」という巨大市場。

地元の人向けの市場で、別に大したもの売っていないのだが(こらこら)、アラビアンナイトみたいな世界を味わいたいのならば、ここがおすすめだ。

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スーク・ワキーフは広いうえに、迷路のように入り組んでいる。迷子にならないように気をつけよう。
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そうだ、アラブに行こう
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アラブの世界に迷い込んだ
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日本でこんな風景はなかなか味わえない
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武器も売っている

ただし、カタールは砂漠の国。めちゃくちゃ熱い。半そで姿だった友人は、なんと腕に水ぶくれができた。社会の教科書に書いてある「アラブの人は肌を出すとやけどするので長袖を着ている」という記述は本当だったのだ。

ピースボートのクルーズで訪れた『どこやねん』な国 その② モンテネグロ

またしても、サッカーの試合でかろうじて聞いたことのあるような国である。

イタリアとはアドリア海を挟んで対岸に位置する国で、人口は約60万人。FIFAランクは63位(2016年)。2006年までは「セルビア・モンテネグロ」という長い名前だった。もっと前には「ユーゴスラビア」という名前だった時代もある。

モンテネグロの国旗

こちらが、モンテネグロの国旗だ。

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旗の後ろに見えるのがフィヨルド

このマークは、ヴェネツィア王国の旗をもとにしている。アドリア海の北に位置するヴェネツィア王国の力は、モンテネグロにまで及んでいたのだ(ちなみに、「モンテネグロ」という名前もイタリア語でる)。どおりで、ヴェネツィアに寄港した時、冗談みたいにデカい宮殿があったわけだ。

フィヨルドと天空の城 コトル

モンテネグロのコトルなんて聞いたこともないし、周りの大人も「何もないよ」と口にしていた。

しかし、実際に上陸してみると、おしゃれな旧市街と、背後の山に伸びる砦、そして、そこから見えるフィヨルドの絶景などがあった。景観は、ヨーロッパの寄港地の中でも一番だった。

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早朝の写真。湖のようだが、フィヨルドである。外海とつながっていて、オーシャンドリームのような客船でも入れる。
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「モンテネグロ」とは「黒い山」という意味。その名の通り、黒っぽい山々が並ぶ。
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おしゃれな旧市街。港から徒歩数分のところにある。

コトルに来た人は、みんな裏山を登って砦に行く。逆に言えばそこしか行くところがないのだが、この砦というのが素晴らしい。石造りの砦だが長い歴史の経過を示すように草木に覆われている。眼下にははるか下にフィヨルドの海。

まるで、天空の城ラピュタである。

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竜の巣を越えた先には、天空に浮かぶ城がありました
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父さんは嘘つきじゃなかった!ラピュタは本当にあったんだ!
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砦からの景色

さらに、お楽しみは出航後にも。フィヨルドならではの景観を船の上から楽しめるのだ。

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フィヨルドに浮かぶ小島。建物は教会だろうか。

ピースボートのクルーズで訪れた『どこやねん』な国 その③ ジブラルタル

生命保険の名前ではない。町の名前である。

ジブラルタルがあるのはイベリア半島の先端。スペインの町のように見えるが、実はイギリス領である。ジブラルタル海峡を挟んでアフリカはすぐ目の前。「ヘラクレスの角」と呼ばれる地中海の玄関口である。

ジブラルタルの旗

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旗には堅牢そうな要塞が描かれている。

だが、実際にはこんな建物はない。

これは、ジブラルタルにそびえたつ天然の要塞「ザ・ロック」を本物の要塞に見立てて描いたものである。

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天然の要塞、「ザ・ロック」

このザ・ロックのせいで、1713年伊スペインからイギリスが奪い取った後、スペインは一度も奪還できなかった。まさに、難攻不落の町なのだ。

おもちゃ箱の町 ジブラルタル

そんなジブラルタルであるが、町はテーマパークのように整然としている一方、住宅地の中に急に古城が出てきたりと、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような面白い街だ。

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何の像なのかは知らない
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ジブラルタルの街並み
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ザ・ロックへと続く階段
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住民の駐車場と古城が隣接している

また、ザ・ロックに上ると特徴的なのがおサルさん。いたるところで簡単におサルさんが見れる。

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工事中の団地の足場におサルさん

ピースボートのクルーズで訪れた「どこやねん」な国 その④ ベリーズ

いよいよもって、まったく聞いたことがない。位置的には、メキシコの南である。人口は約40万人。FIFAランキングは163位(2016年)。

ベリーズの国旗

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ベリーズの国旗は人の絵が描いてあり、世界的にも珍しい。ここに描かれている人は、この国の主要な人種を表している。左側が国民の半分を占めるメスティソ、右側が黒人由来のクレオールと呼ばれる人種だ。

また、真ん中には造船などの主要産業が書かれている。

海賊のリゾート地 ベリーズシティ

ベリーズの首都、ベリーズシティの写真がこちら。

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海はあんまりきれいじゃない

これは、「ツーリストビレッジ」という、観光客向けのスペースの写真だ。ピースボート側から言われたのはただ一言。

「命惜しければ、このツーリストビレッジから出るな」

それほど、治安が悪い。人呼んで「リアル・ロワナプラ」。

町並みは、カリブ海のリゾート地。このツーリストビレッジを歩いていると、やたらと宝石店が目につく。ベリーズ自体も「カリブ海の宝石」と呼ばれているらしい。

その理由がこちら「ブルーホール」だ。みんな、これを見たさにベリーズへ立ち寄るのだ。

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ここまで、すべて自分で撮影した写真を使てきたが、これはよそのサイトから拝借してきた。高所恐怖症の私がこんな写真撮るわけがない。 出典:http://nagataka-world.seesaa.net/category/21208999-1.html

ピースボートのクルーズで訪れた「どこやねん」な国 その⑤ サモア

だから、どこやねん!

サモアは太平洋に浮かぶ南半球の島国である。人口は約20万人。サモア諸島の西側は「サモア独立国」。東側は「アメリカ領サモア」である。

サモアの国旗

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デザインそのものは、旧宗主国であったニュージーランドの国旗を参考にしているらしい。星のマークは、南半球の国に多くみられる南十字星である。

最後の町 アピア

サモアの首都、アピアには、クルーズの一番最後に訪れた。

これがまた、びっくりするくらい何にもない。

何にもないから、海岸沿いの道を散歩して終わった。

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アピアに停泊するオーシャンドリーム号

ここに来る前に、タヒチのびっくりするほどきれいな海を見てしまったので、正直、サモアの海はあんまりきれいじゃない。

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サモアの教会
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教会の中は風通しがよく、宗教画に現地の人が描かれるなど、キリスト教がサモア風にアレンジされている
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なんかの王様
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ヤシの木
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国会議事堂かなんか

びっくりするほど何もないアピアだったが、一番びっくりしたのは、僕が財布も持たずに、散歩気分で歩いていた、ということである。

完全に、「異国」であることを忘れていた。

最初の寄港地フィリピンでは、バスの窓から見た土埃ひとつで「おお、異国っぽい!」と興奮していたのに。

ピースボートのクルーズで、23個も寄港地を回るうちに、異国という意識が薄れていってしまったようだ。


帰国後、「旅祭2016」に参加した時の話。

世界地図が広げられていて、「自分のいた国にピンを刺してみよう」というイベントがあった。

バックパッカーが集まるイベントだったが、ピンが集まっていたのはインドだったり、西ヨーロッパだったり、メジャーどころが多い。

僕がドヤ顔でモンテネグロにピンを刺すと、周囲にいた旅好きも「え?それどこ?」と反応を示していた。

クルーズの旅はバックパッカーと違い、行先はすでに決められている。それは「不自由」かもしれないが、聞いたこともない国の、聞いたこともない町に連れていてもらえるのもなかなか面白い。

ピースボートの旅は受け身では楽しめない。特に名所のない国にいたら、自分で探せばいい。

小説:あしたてんきになぁれ 第1話 命日のち明日

明日なんかどうでもいい。明日が来るのが怖い。明日なんかいらない。そんな3人の少女が、大都会の片隅でそれでも生きていく、そんな小説です。人と出会い、人と話し、共に暮らす。彼女たちにとって、それは都会の片隅の大冒険のはず。なので、「クソ青春冒険小説」と名付けました。伝説の秘宝も、モンスターも、宇宙船も出てこないけど、これは冒険小説なのです。「あしたてんきになぁれ」、略して「あしなれ」!


器用に生きられないすべての人へ。

 

008
写真はイメージです

町が歪んで見える。

アスファルト。ビル。空。雨。みんな灰色だ。

灰色の上を、色とりどりの服を着た人が、傘をさして笑顔を浮かべながら歩いている。

少女は、スクランブル交差点を、傘も差さずに歩いていた。

小柄で、地味な服装に地味なメガネ。右手首には包帯。肩にかかる程度のセミロングで、前髪を垂らしている。まるで、自分の顔を見られたくないかのように。

大通りを渡り、歓楽街に入った。鬱陶しいぐらいにネオンがまぶしい。少女は目的もなく歩き続ける。

彼女は今、死に場所を求めている。

やがて、少女の足は、一つのビルの前で止まった。少女は灰色のビルを見上げる。

一階はコンビニ。二階が飲食店。その上に雀荘があり、さらにその上にビデオ屋がある。その上にはキャバクラかなんかだろうか、「城」と書かれた看板がある。

人間の抱く、たいていの欲望がこのビルで叶いそうだ。ならば、私の欲望もかなうかな、少女はそう考えた。

少女の欲望。速やかにこの世からエスケープすること。

少女はビルの階段を上り始めた。四階のビデオ店のドアには、AV女優たちの写真が並ぶ。

この人たちは、体を売って、性を売り物にして、幸せなのかな。いや、作り笑いでもなんでも、笑顔ができる分、きっと、私より幸せなんだろう。

少女はそう考えながら、さらに階段を昇り、鈍色の空へと近づいた。なんだか、天国への階段を上っている気分だ。あのどんよりとした雲の向こうに、まぶしいほど開けた世界があるのだろう。

五階。だいぶ地上から離れた。ここから飛び降りてもいいんだけど、どうせならより高いところから飛びたい。その方が確実だろう。

五階の「城」というのは、「キャッスル」と読むらしい。看板にルビが振ってあった。キャバレーかなんかのようだが、午後三時にもかかわらず、すでに明かりがともっている。開店準備をしているのかもしれない。

そのさらに上へ行くと、屋上へ通ずる扉があった。さながら、天国の門だ。

扉に手をかけると、ドアノブが回り、開いた。少女は、屋上へと足を踏み入れた。

屋上には、空調関係と思われる機械が置かれていたが、それを差し引いても結構なスペースがあった。ポールが二本立てられ、誰が使うのか、物干し竿がかかっている。その物干し竿には、取り込み忘れの洗濯物がかかっていて、びしょ濡れになっている。色とりどりの洋服に、下着類。いずれもレディースだ。

色とりどりの洗濯物を少女は見つめていた。死を前にしてか彼女の視界はかなり歪んでいて、ぐにゃぐにゃである。色とりどりの洗濯物が、彼女には三途の川のお花畑に見えた。

少女は屋上の道路側のへりまで来た。柵はあるが大した高さではなく、難なく乗り越えられた。少女は屋上のへりに手をかけて、下を覗き込んだ。相変わらず視界は歪んだままで、灰色のなんだかわからないものが広がっている。これなら飛び降りても恐怖を感じずに済みそうだ。

さようなら、私。今日が私の命日。

ぼんやりと下を覗き込んでいると、後ろから声が聞こえた。

「何してんの?」

女の声だった。少女は振り向いた。そこに人らしきものがいるのはわかるが、視界が歪みきってて、顔はよくわからない。かろうじて、金髪らしいというのがわかる。

「いや、ちょっと……」

少女は下を向いた。金髪の女と目を合わせられない。合わせたくない。

「ちょっと、びしょびしょじゃん」

金髪の女が少女に近づいた。

「ほっといてください」

少女は、金髪の女に聞こえるか、聞こえないかぐらいの大きさで行った。

少女は金髪の女に背を向けると、屋上のへりに立った。

「さよなら」

少女は重心を前に、重力に身を預けた。

雨粒と同化する。

その瞬間、少女の腕を、金髪の女がつかんだ。

「ちょっとアンタ、何考えてるの!」

金髪の女は少女の腕を思いっきり引っ張った。

「ここで死なれたらウチ、困るんだけど」

屋上の外に出かかっていた少女の体は、内側へと大きく傾き、屋上に尻もちをついた。

少女は半ば呆然と、雨雲を見つめていた。

 

少女にとって、自殺するにはかなりのエネルギーが必要で、未遂に終わってもそのエネルギーは発散され、また自殺をするには、ある程度の充電期間を要する。

見知らぬ女に手を引っ張られ、少女の飛び降り自殺は未遂に終わった。そこでエネルギーを使い切ったらしく、女の手を振りほどいて自殺するほどの力はなく、雨に濡れた屋上にぺたんと腰を下ろしたまんま、雨雲を、雨粒を見つめて動かなくなった。

また失敗しちゃった。

そのまま、金髪の女性に手を引かれ、下の階の「城(キャッスル)」に連れ込まれた。そこでぬれた服を全部脱がされ、バスタオルが投げ渡された。金髪の女性はどこかに行ってしまい、少女は一人残され、今に至る。

バスタオルで拭こうとメガネをはずすと歪んでた視界がぼやけ、拭いたメガネを再びかけると、視界が正常に戻った。どうやら、視界が歪んでたのは、メガネについた雨粒のせいらしい。

小さな体をバスタオルでくるむと、少女はあたりを見渡した。

やはり「城(キャッスル)」は何かの店のようだ。マンションの一室ぐらいの広さの部屋で、壁に沿うようにして青いソファーが並んでいる。部屋の中央には二つのテーブル。窓はない。部屋の奥にはバーカウンターに似たキッチンがある。いわゆるキャバクラやスナックの類なのだろう。

ただ、その割には散らかっている。いや、もっとおかしいのは、ソファの上にいくつか転がっているぬいぐるみだろう。

少女は今、裸の上にバスタオルでくるんだだけの、決して人前、特に男性の前には出られない格好でソファーに腰かけているのだが、部屋は暖かく、あまり寒くない。

カウンターの左側にあったドアが開いて、金髪の女性が帰ってきた。レインコートを着ていた。

「ひゃーっ。曇りって言ったから洗濯物干してたのに、だまされた!」

金髪の女性はぐしょぐしょに濡れた洗濯物を抱えていた。それを持って少女の方へ向かった。

少女のすぐ背後にドアがあった。金髪の女性はそこを開けて中へ消える。

しばらくして、女性は服を抱えて戻ってきた。

「ちょっと大きいかもしれないけど、これ着な」

金髪の女性は少女に服を投げ渡した。少女は困惑した。渡された服が、少女が着たことのない、派手、かつ、露出が高いものだったからだ。

金髪の女性は、少女が外したブラジャーを眺めていた。

「このサイズは……、持ってないな。買ってこなきゃ」

少女は女性を眺めた。確かに、向こうの方が少女よりずっとスタイルがいい。あの女性の持ってる下着は、少女の体には合わないだろう。

「あたしは亜美。アンタ、名前は?」

金髪の女性こと、亜美はそういうと、少女に笑いかけた。高校三年生ぐらいだろうか。胸元の谷間を強調するかのようなタンクトップ、太ももを見せつけるかのような短パン、異性を誘惑するためのファッション、といった感じである。長い金髪を、後ろで縛っている。今どきのギャルって感じだ。右側の二の腕には、青い蝶の入れ墨がしてある。

「名前は?」

亜美は再び訪ねた。少女は下を向いたまま答えた。

「……たまき……」

「玉置かぁ。玉置なに?」

「え?」

「下の名前だよ」

亜美は少女の向かいのソファーに座り、足を投げ出して、煙草に火をつけながら尋ねた。

「いや、『たまき』が名前なんですけど……」

少女こと、たまきが申し訳なさそうに答えた。

「ああ、たまきって名前なんだ。名字は?」

たまきは下を向いた。

「名字は?」

亜美の繰り返しの問いかけに、たまきは下を向いたままだ。

「まあ、言いたくないんなら、言わなくていいよ。ウチもしばらく名字なんか名乗ってないし」

亜美はテーブルの上の灰皿に吸いかけの煙草を置くと、ごろんと横になった。

「あの」

たまきが謝るかのように尋ねた。

「何? 早く服着ちゃいなよ。ああ、ブラは後で買ってくるから、しばらくノーブラで我慢して。まあ、ウチとあんたしかいないから、平気平気」

たまきはまだ、バスタオルにくるまったままだ。

「ここってなんなんですか? お店?」

「ここ? ここはね、ウチの城」

亜美は立ち上がると、嬉しそうに語り始めた。

「もともとはキャッスルっていうキャバクラだったらしいんだけど、一年くらい前に潰れちゃって、オーナーは椅子とかテーブルとか全部置いたまんま店閉めちゃったのね。そこをウチが今借りてるの」

「借りてるって、家賃、どうしてるんですか」

驚いた目で見つめるたまきを、亜美は笑った。

「こんな店、借りられるわけないでしょ。貸す側だって、店として使ってほしいと思うから、ウチみたいに住みたいってやつに貸すとは思えないね」

「えっ……じゃあ……」

「まあ、いわゆる不法占拠ってやつだね」

亜美は、初対面のたまきに悪びれるでもなく言った。

「このビルのオーナーは関西に住んでいて、関西にもいっぱいビルを持ってるらしいの。そっちで手一杯で、東京なんてめったに来ないの。だからばれないばれない。それに、オーナーが来るときは、ビデオ屋の店長が教えてくれることになってるし。その間だけよそに泊まってればいいの」

そういうと亜美はたまきの座っているソファの前のソファに腰を下ろした。右手の指には、さっき置いた煙草が挟まれている。

「だからさ、ここで飛び降り自殺とかされてさ、オーナーがすっ飛んでくるってことになったら、ウチは困るの。わかる?」

たまきは静かにうなずいた。

「……ごめんなさい」

「まあ、そんなことより……」

亜美は立ち上がると、今度はたまきの隣に座った。

「あんたいくつ?」

「……十五ですけど……」

「中学生?」

「……卒業しました、一応……」

「じゃあ、三つ下か……」

亜美は煙草をくわえ、煙をふうっと吐き出すと、たまきの方を向いた。

「ねぇねぇ、何で死のうとしたの?」

「えっ……」

たまきは戸惑った。自分の内面に迫ろうとする、一番困る、一番答えたくない質問である。

「まだ若いんだからさ、いくらでも楽しいことなんてあるじゃん。友達作ったり、彼氏作ったり」

「はあ」

どちらもたまきには縁遠い話だ。

「ねぇねぇ、何で死のうとしたの?」

「……なんでそんなこと聞くんですか。関係ないじゃないですか」

たまきが迷惑そうに答えた。

「だってさっぱりわかんないんだもん。死にたいって気持ち」

「わかんないほうがいいですよ」

興味本位で聞かれるのも、親切心とやらで聞かれるのもたまきは嫌だ。

というより、誰にも言いたくない。

そもそも、できるだけ、誰とも会話したくない。

「わかんないなぁ。死にたいって気持ち。だって、毎日楽しいじゃん」

亜美はたまきから目を放し、カウンターを眺めている。

「そりゃ楽しいでしょうね。友達たくさんいて、彼氏もいれば」

「いや、ウチだって、彼氏って呼べるオトコはいないし、友達もそんなに多くないよ。それでも毎日楽しいよ。今日も楽しいし、昨日も楽しかったし、明日もきっと楽しいし」

「明日……」

たまきは伏し目がちにボソッと言った。

「明日なんていらない」

「え?」

その言葉に亜美は、驚いたようにたまきの顔を見た。

しばらく沈黙が流れた。

 

一度外に出た亜美が、どこで手に入れたのかたまきにあう下着を買って帰ってきた。

「もう五時か」

六月とは言え、外はだいぶ薄暗くなっている。雨が降っていればなおさらだ。

「もう、帰ったほうがいいよ。おうち、どこ?」

亜美は立ち上がり、煙草を灰皿に押し付けて、消した。

たまきは下を向いて答えない。

「言いたくない、か」

そういうと、亜美は窓の外を見た。

「まあ、この雨の中に放り出すのもあれだな」

そういうと、亜美はたまきの方を向いた。

「今日、泊まってくかぁ」

「え?」

たまきは亜美を見上げた。

「いいんですか?」

「今日だけね。修学旅行みたいでいいじゃん」

そう言って、亜美は笑った。

 

午後八時。外はもう真っ暗だ。

亜美は下のコンビニに食事を買いに行き、たまきは一人、店に残された。亜美が用意したワンピースを着ている。全く袖がないのを着るのは初めてだ。若干、サイズが大きい。

たまきは、「城(キャッスル)」の中を再び見回した。入り口には足ふきマットと靴、そしてスリッパが置かれている。店の中には小さなテレビがある。それだけではない。携帯の充電器、女性ものの雑誌、毛布などなど、生活に困ることはなさそうだ。

どこに、これだけのものを買いそろえるお金があるのか。

「ただいまぁ」

亜美が帰ってきた。コンビニの袋をぶら下げている。

「はい、おにぎり。ホントに2個だけでいいの?」

たまきは力なく頷いた。たまきの前におにぎりが2個置かれる。

亜美は、カウンターのテーブルにカップラーメンを置くと、カウンターの中に入り、やかんでお湯を沸かし始めた。

 

午後八時半。亜美はソファの上に転がってテレビを見ていた。たまきも、首はテレビに向けている。亜美はゲラゲラ笑っているが、たまきはちっとも面白くない。

インターホーンが鳴った。

「誰?」

亜美は入口の方へ歩いていくと、大声を出した。

「だーれ?」

「俺だよ」

男の声だった。

亜美は扉を開けた。

ドアの外には、男が二人立っていた。派手な服装に、派手な髪型。品行方正でないことは見ればわかる。

「今日だったっけ」

亜美は二人を見ていぶかしんだ。

「今日だぞ」

男のうちの一人が言った。派手なシャツに金髪にサングラス。あまり関わり合いになりたくないなとたまきは思った。

亜美は店の奥に行くと、カバンの中をあさり始めた。

男の一人がたまきと目があった。

「誰?」

目があったほうの男がたまきを見ながら言った。ヒップホップな格好に強面、ひげにピアス。こちらも関わり合いにはなりたくない。

「今日の昼間にね、屋上で自殺しようとしてたの。雨の中ほっぽり出すわけにもいかないから、泊めてるの」

「自殺?」

男たち二人はたまきの方に近寄ってきた。たまきは、男たちから逃げるかのように後ずさった。いつもなら絶対に着ない、露出の高い服を着させられているので、余計に恥ずかしい。

「かわいいな。怯えてるよ」

ヒップホップの方の男が笑った。

「ああ、今日だったね」

亜美は、カバンの中から引っ張り出したピンクの手帳を見ながら言った。

「ほらほら、いじめない」

亜美は男二人の間に割って入ると、たまきに言った。

「悪い、たまき。今夜、ここで仕事するから、奥の部屋で寝てくれない?」

「……いいですけど……」

こんな夜中に、何の仕事だろう。

 

真夜中、たまきは目を覚ました。

この部屋は、もともとはキャバクラのキャバ嬢たちの控室だったらしい。接客スペースの三分の一ぐらいの広さだろうか。中には白いソファーが並び、テーブルが一個ある。今は、亜美の衣裳部屋と化しているようだ。クローゼットの中にある服の量、派手さ、共ににすごい。どこに、こんなに服を買うお金があるのだろうか。

たまきは喉が渇いた。無駄に生きるつもりがないのに、生きるための欲求がわき、それを満たそうとする自分がいる矛盾。

カウンターに冷蔵庫があったはず。水かなんかをもらおう。

ドアノブに手をかけて、たまきはふと思った。

亜美が仕事をしているんじゃないだろうか。

もう、客は帰ったかもしれない。しかし、たまきは時計を持っていないので、今の時間がわからない。

たまきは、ドアを少しだけ開けて、中を覗いた。もし、仕事中なら我慢すればいい。場合によっては、断りを入れれば、冷蔵庫ぐらい、使わせてくれるかもしれない。

たまきは、ドアを少し開けて、その向こうを見た。

うすぼんやりした部屋の中で最初に見えたのは影だった。次第に、その影の色がわかる。

3つの影は揺れていた。

そういう経験のないたまきでも、そこで何が行われているかは分かった。

たまきはあわててドアを閉めると、自分が寝ていたソファのところまで歩いた。

汗が額を滑る。

「仕事」ってそういうことか。

考えてみれば、いくらでも推測できた。亜美はたまきを「三個下」と言っていた。亜美は十八歳だろう。

二十歳にもいかない女性が、テレビや大量の服を買えるほど稼げる仕事。

夜に訪ねてきた、ガラの悪い男たち。

これらを考えれば、答えはおのずと決まる。

たまきはソファの上に横になった

自分の鼓動と、吐息がやけに耳につく。

 

翌朝。たまきがドアを開けると、「城(キャッスル)」の入り口に、亜美と昨日の男二人がいた。

「ねぇねぇ、次はいつ来るの?」

亜美が甘えるように上目づかいで訪ねた。

「来週の水曜日なんてどうだ?」

「わかった」

そういうと亜美は、金髪の方の男と軽くキスをした。

「じゃあね」

扉が閉まった。亜美の手には、一万円札が複数握られている。

そこでようやく亜美は、たまきが起きてきたことに気付いた。

「あ、おはよう。朝ごはん、買ってくるね」

 

亜美は下のコンビニで菓子パンを二つ買ってきた。

「あの……、お仕事って儲かるんですか?」

たまきが菓子パンを頬張りながら尋ねた。

「ん?」

「……売春ですよね」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「なんだ、見たのか」

たまきは無言でうなずいた。

「売春じゃないよ。援助交際」

「一緒です」

亜美は菓子パンの残りを口の中に放り込んだ。

「儲かるか、か……。儲かるどころじゃないよ。お金もらって、気持ちいいことできるんだから」

「でも……、その……、妊娠の危険性とか……」

それを聞いて、亜美はハハハと笑った。

「そんな起こるかどうかもわかんないこと考えたってしょうがないじゃん」

そういうと亜美はたまきの方を向いた。

「今が楽しけりゃ、それでいいじゃん。明日のことなんて、どうでもいいじゃん。何が起こるかわからないんだから、もっと楽しまないと」

亜美は笑いながら立ち上がると、煙草に火をつけた。

 

たまきは「城(キャッスル)」を出た。傘も服も、亜美にもらったものだ。

階段を下りると、ビデオ店の、AV女優のポスターが見える。

「今が楽しけりゃ、それでいいじゃん」

案外、この人たちもそうなのかな。だとしたら、私よりも前向きだ、とたまきは思った。

外はまだ灰色の雨が降っている。階段を下りたたまきは、亜美にもらったビニール傘を指して、駅の方に向かった。

帰ろう、帰りたくもないあの家へ。

 

010
写真はイメージです

「城(キャッスル)」のあったビルを出てしばらく歩くと、大通りにぶつかる。危険な歓楽街と、人気の高い駅前との境目である。たまきにはこの大通りが三途の川に見えた。

渡りたくない。

帰りたくない。

視界が歪む。傘をさしているから、雨粒のせいではない。

吐きそうになって、たまきはその場にうずくまった。

信号が青に変わる。

人々が横断歩道を渡り始めた。うずくまっているたまきからは、人々が地面を踏むたびに舞い上がる雨粒が良く見える。

うずくまっている間に、信号は赤に変わった。

たまきはよろめきながら立ち上がると、大通りに背を向け、再び歓楽街の中へと消えた。

 

亜美は部屋で一人煙草を吸っていた。

雨粒が窓にあたり、ザラザラ音を立てる。

たまきか。ウチと真逆の子だったな。

死にたい、か。

思ったことないや。

たまきは言っていた。明日なんていらない。

先のことなんか考えるから、死にたくなるのだ。人生何が起こるかわからない。計画通りには進まない。どうせ人生、行き当たりばったり。明日のことなんて考えるだけ面倒だ。

亜美はふと思った。

たまきは「仕事」に興味を持っていたのではないか。

儲かるのか、って聞いていた。

亜美はソファに寝転びながら考えを巡らす。

たまきを「仕事」に誘ってはどうだろうか。

何から何まで、亜美とは反対の子である。

地味で、人と目を合わせようとしない。

世の中には、そういう子の方が好みの男性もいるだろう。

たまきを「仕事」に誘うことで、客層が広がる。

帰したのは失敗だったな。

そう考えると亜美は、傘を手に取り、たまきを探しに外へ出た。

 

013
写真はイメージです

たまきは昨日と同じように、歓楽街を徘徊していた。

傘は、気が付いたら、なかった。ふらふらと当てもなくさまよい続ける。

公園がたまきの目に入った。

公園の中には、きれいなトイレがあった。

トイレ。たまきが初めて、自殺未遂をした場所は、自宅のトイレだった。

たまきはふらふらと、トイレの中に入っていった。外見はきれいなトイレだが、雨空もあり、中は薄暗い。

トイレの洗面台の前に立つ。

目が死んでいる、自分でもわかる。

たまきは目を閉じた。

 

昔から、人と話すのが苦手だった。人に見られたくない。学校では常にその思いが付きまとった。

ゆえに友達ができない。学校生活はちっとも楽しくなかった。

中学二年の六月、たまきはついに不登校になった。

その日、朝起きると雨が降っていた。

もういいや。今日は休もう。

その日以来、たまきは学校に行かなくなった。

家の中に閉じこもるのは楽だった。誰とも話さなくて済む。部屋の中の小さな宇宙が、たまきのすべてだった。

しかし、家族がそれを許さない。みっともないから学校へ行けという。

久しぶりに学校へ行っても、そこはもう、たまきのなじめる場所ではなかった。いや、もともと学校はたまきのなじめる場所ではなかった。

そしてまたひきこもりに戻る。何日かひきこもった後、家族にどやされて学校へ行き、吐きそうになりながら帰ってくる。そんな日が続いた。

夏休みを挟んで、完全に学校へは行けなくなった。

夕方、自宅の部屋の窓から外を眺めると、夕焼けに映されて下校途中の生徒たちが見える。

みんな、楽しそう。

どうして自分だけ、うまく生きられないんだろう。

母親が部屋の中に入ってきた。鍵は以前、たまきが学校へ行っている間にはずされてしまったので、締め切ることができなくなった。

そのことがたまきの心を圧迫していた。

母は、窓の外の中学生たちを見た。

次にたまきを見た。恥ずかしいものを見るかのように。

「ただいまぁ」

二歳上の姉が帰ってきた。

「お帰りなさい」

母は嬉しそうな声を出すと、姉を出迎えに下の階へ降りて行った。

たまきはベッドの上に横になった。

めまいがする。ぐるぐる回る。

お姉ちゃんばっかり。もういい。私なんか、いらないんだ。

死のう。

たまきは机の上のカッターナイフを取ると、唯一、完全に閉め切れるところ、トイレに向かった。

トイレのドアを閉め、鍵をかける。

カチカチカチとカッターの刃を出すと、手首でそっと触れた。

ギュッと目をつぶり、刃を手首に押し当てる。

思ったより痛くはなかった。赤い線が流れる。

たまきは、流れるに任せた。

数十分後、いつまでもたまきがトイレにこもるので、不審に思った母親が誰に頼みどうやったかは知らないが、ドアをこじ開け、血に濡れるたまきを発見した。

 

003
写真はイメージです

失敗したな、と亜美は思った。雨が降ってるのだから、何か羽織ってくればよかった。薄着ではさすがに寒い。

大通りを渡り、駅まで歩いたが、たまきには会えなかった。もう、電車に乗ってしまったのかもしれない。そう思って歓楽街に帰ってきた後、亜美はぶらぶらと散歩をしていた。

亜美は、このネオン煌めく欲望にまみれた町が大好きだ。食欲、性欲、人々はこの町では欲望を隠さない。普段は性欲などないかのようにふるまうオトナたちが、この町では獣に変わる。

歓楽街の奥地まで歩いた。色とりどりの、それこそ城のようなラブホテル街を抜けると公園が亜美の目に入った。

公園にはきれいなトイレがあった。

なつかしいな、と亜美は思った。この町に来た時、最初の何週間かは、このトイレで寝泊まりしていた。このトイレで、援助交際をしていた。人気のないトイレは身を隠すと同時に、イケナイことを行うには絶好の場所だった。

 

亜美が勉強をつまらないと感じるようになったのは、中学生のころだった。

こんなこと、何の役に立つんだろう。

そんな亜美にオトナたちは言った。いつか役に立つ時が来る。

いつかっていつ?

亜美は勉強をほとんどしなくなり、仲間や彼氏との遊びに熱中した。

それでも、高校には何とか入れたが、どんどん生活が乱れていった。

彼氏などというものは作らず、不特定多数のオトコと快楽を貪った。家に帰らず、学校をさぼり、朝から晩まで、そして、夜中までゲームセンター、クラブ、ラブホテルに入り浸った。

なまじスタイルが良く、男の性欲を刺激しやすい容姿だったため、遊びの金を男の方が出してくれることが多かった。

やがて、体を売ってお金を得るという発想に行きついたのは、自然のことだった。

この町に流れ着いたのは1年ほど前だ。

最初はこのトイレで寝泊まりした。

やがて、公園の近くにたむろする若いオトコたちや、性欲に飢えたホームレスを相手に、援助交際をするようになった。

「城(キャッスル)」に住むようになったのは、半年近く前のことだ。

その日は大雨だった。亜美は、「城(キャッスル)」のある太田ビルの一階のコンビニで雨宿りをしていた。

雨具が欲しかったのだが、突然の大雨であいにく売り切れだ。仕方なく、ファッション誌などを呼んで時間をつぶしていたが、雨は一向にやみそうになく、立ち読みももう限界だ。

日暮れが近くなっている。亜美は宿を探すことにした。

普段はマンガ喫茶に泊まるのだが、傘なしでそこまで行くのはキツイ。どこか適当な男をひっかけて、ラブホテルに誘い込むというのもあるが(もちろん金は向こう持ち)、この大雨で、外は誰も歩いていない。

このビルの中に何かないだろうか。屋上の物置とかでもいい。

そう考え、亜美はビルの階段を上り始めた。

二階のラーメン屋、三階の雀荘、四階のビデオ店、いずれも泊まるのは無理そうだ。

亜美は五階まで登った。白い看板に「城(キャッスル)」と書かれてあった。看板の右下は割れて、中の蛍光灯がむき出しになっている。

直そうよ、そう考えた時、亜美は思った。

看板を直さないってことは、もしかしたら空き店舗ではないのか。

亜美は、店のドアノブをゆっくりと回した。

鍵はかかっていなかった。薄暗い店内は店としての設備を備えていたが、その散らかり具合から、空き店舗であることは明らかだった。

鍵が開いていたことや、設備がそのまま残されていることを考えると、夜逃げ同然で閉店したに違いない。

とりあえず、今夜はここに泊まろう。亜美はそう考えると、ソファの上に横になった。

しかし、これだけのいすやテーブルが残されているのに、使っていないのはもったいない。

亜美は天井に目をやった。何か機械らしいものが見える。

もしかしてエアコンだろうか。

雨で体がぬれて冷えてるし、時期も冬だし、暖房が欲しいところだ。

あちこち探した結果、空調や照明を調整する操作盤が見つかった。亜美は照明をつけ、暖房を入れる。数分もすれば、部屋は快適になった。

ソファーの上に亜美は寝転ぶ。

「天国じゃぁ~」

寝ころびながら亜美は思う。

ここ、住めるんじゃないか。

女のノラ暮らしは危険が大きい。だが、ここなら鍵がかけられる。

何より、亜美は援助交際で稼いだ金を持て余していた。儲かるのだが、それを預ける場所を亜美は持たない。今、かなりの金額を持ち歩いているのだが(といっても、アパートの部屋を借りれるほどではない)、「鍵のかかった部屋」にお金を置いておけるメリットは大きい。そして、お金をかければ、今よりも住みやすくなるだろう。

決めた、ここをウチの「城」にしよう。

 

時は戻って今、亜美は、なつかしさからトイレの中に入っていった。雨音が背後に響く。

洗面台の前に、一人の少女が倒れていた。少女の手首からは、一筋の赤黒い線が流れていた。

黒く、頭を覆う髪の毛。そばに落ちている、黒いメガネ。何より、彼女の着ている、彼女の体に似合わないサイズの大きな服は、亜美がたまきにあげたものだった。

「たまき……」

亜美は駆け寄り、少女を抱き起した。

眠っているような少女の顔に、亜美は落ちていたメガネを重ねた。

たまきだった。

「たまき!」

亜美の声が、トイレにこだました。

 

たまきは目を開けた。

視界はかなりぼやけている。なんだか白っぽい。

この感覚は覚えがある。

たまきは、左手を横に伸ばした。

台らしきものに触れた。

たまきは、そのあたりを探った。

だいたい、いつもこの辺にある。

たまきの左手が何かに触れる。たまきはそれを目の前にもってくると、両手で触れた。

私のメガネだ。間違いない。

たまきはメガネをかけた。ぼやけた視界が近寄るように鮮明になる。

どこかの部屋らしかった。雑誌の入った本棚や、CDラックが立てかけてある。

たまきは足元を見る。ふとんがある。ふとんが体の上にかけられている。

たまきはベッドの上に寝かされていたのだと自覚した。

深く、ため息をついた。

また失敗しちゃった。

初めて手首を切ったときも、目覚めたらこんな感じだった。だから、うすうす気づいていた。まだ死ねてないということに。

あの時は、周りを家族、すなわち、母と父と姉にかこまれていた。投げかけられる罵声。

恥ずかしい。みっともない。迷惑だ。

だれも本気で心配してない。

だれも本気で叱ってくれない。

その日から、たまきは自宅と病院の往復生活となった。自宅で手首を切っては病院に担ぎ込まれ、しばらく入院し、退院してもしばらくするとまた手首を切る。学校にはほとんど行かなかったが、ギリギリの出席で卒業できた。

何度目かのリストカットの後、たまきは気づいた。

家で自殺するから、失敗するのだ。家族は、あの人たちは、私なんかいてもいなくてもいい、と思っているのに、自殺をすると病院に連れて行く。そして、お説教。その中で一度たりとも、命を粗末にしたことへの叱責はない。救急車が来て恥ずかしいとか、そんなのばっかりだ。

私のことなんてどうでもいいのなら、死なせてくれたらいいのに、本当に死んでしまうとそれこそ世間体が悪いみたいで死なせてくれない。

だからたまきは家を出た。親には出かけてくるとだけ言って。

それが昨日、亜美に出会う少し前の話だ。

 

たまきは部屋の中を見渡した。病室ではなさそうだ。

たまきは部屋のドアを開けて外に出た。

ドアの向こうには机があり、机の上にはパソコン、コーヒー、そして大量の本。

机の前の椅子には白衣の女性が座っている。部屋の奥の窓側の小さなソファには、金髪の少女が座っていた。

「たまき!」

亜美だった。たまきを見た亜美はたまきに近づくと、肩をバンバンたたいた。

「いやー、トイレで倒れてるのを見つけた時は、ほんとびっくりしたよー」

「……亜美さんが見つけたんですか……?」

「感謝しなよ」

「……別に助けなくてよかったのに……」

たまきはぼそっと言った。

「……あの……亜美さん……ここは?」

たまきはあたりを見渡した。テレビにソファ、食器棚。病院でないのは明らかだ。

「あたしんち」

たまきの後ろで声がした。振り返ると、白衣の女性が立っていた。三十歳前半ぐらいだろうか。黒髪のストレート、「姉貴」という言葉が似合いそうな女性だ。モデルのように背が高い。

「家?」

「そ、あたしんち」

そういうと、白衣の女性は椅子に腰を下ろした。

「あの……お医者さんじゃ」

「医者だよ、一応」

そういうと、女性はたまきに名刺を渡した。

 

医療ライター 京野(きょうの)舞(まい)

 

「ライター……? あの……、お医者さんじゃ……?」

不思議そうな目で尋ねるたまきに、舞が答えた。

「もともと医者やっててさ、いろいろあって辞めて今は医療系の記事を専門に書いてるライター」

「へぇ」

「まあ、初めの方は医療系だけじゃ食っていけなくて、いろんな記事書いてたね。ヤクザの記事とか。この町に住んでるのも、そういうのを書いてた時、この町に住んでた方が情報が入りやすかったから。そしたら、そこで知り合ったヤクザが治療をアタシに頼むようになって、気が付いたら副業でわけあり専門の医者やってるってわけ」

「先生、口堅いから」

亜美が口をはさんだ。

「面倒に巻き込まれたくないだけだ」

そういうと、舞はたまきの方に歩みよった。

「出血もたいしたことなかったから、命に別状はないんだけど、とりあえず今夜はここ泊まってきな」

舞はそういうと、壁にあるフックに鍵をかけた。

「あたし、これから出かけるから。合鍵、ここにかけとくから、使ったらここに戻しとくよーに」

「はーい」

亜美の返事を聞くと、舞は部屋を出て行った。

たまきは、亜美の隣に腰掛けた。ソファが少しへこむ。

「あの……治療代ってどうすれば……」

たまきが亜美に訪ねた。

「大丈夫。うちが払っとくから」

「そんな……悪いです……」

「いいのいいの。ウチはあんたに用があるんだから。」

「そういえば……」

たまきは顔を上げた。

「なんで助けてくれたんですか?」

「そりゃあんた、トイレで血ィ流して倒れてたら、普通だったら救急車呼ぶよ。でも、普通の病院だったら、あんたのこと家族に連絡するかもしれないでしょ。あんた、なんか家に帰りたくなさそうだったから、家族呼ばれるのまずいと思って。先生なら口堅いから」

「……どういうご関係なんですか」

「前に、援交でオトコともめたことがあって、ぶん殴られて、アザできて、その時ヒロキ、あ、昨日の金髪のやつね、あいつが教えてくれたの。ヒロキは彼の先輩から教えてもらったって。口堅いから、やんちゃな奴から信頼されてるの」

「……で、なんで助けてくれたんですか?」

「だから、トイレで血ィ流してたら……」

「そうじゃなくて、何であのトイレにいたんですか?」

たまきはうつむき加減で言った。

「あぁ、何であの場にいて助けられたのかって? たまたまだよ。あのトイレには思い入れがあってね。散歩したら目に入って、フラッとよったらあんたが倒れてて」

「雨の日に散歩ですか?」

「いや、あんたを探しに行ったついでだよ」

「……私を? そういえば、私に用があるって言ってましたけど」

たまきは亜美の目を見た。

「そうそう。ねぇねぇ、ウチと組む気ない?」

「はい?」

たまきは亜美の顔を覗き込んだ。

「あんたと組めばさらに儲かると思うんだよねぇ」

「あの……儲かるって……まさか……いっしょに売春をしようってことじゃ……」

「うん」

亜美の返事に、たまきは座ったまま後ずさった。

「たまきってさ、ウチの真逆のタイプじゃん。あんたと組めばうちも客層広げられるかもしれないんだよ」

「あ、あの、お断りさせていただきます……」

「なんで?」

「いや、そういうの、経験ないですし……」

たまきの顔は真っ赤だ。

「何事も経験だよ?」

「いや、結構です」

たまきはぶんぶんと手を振った。

「じゃあさ、やんなくていいから、組もっ」

「や、やんなくていいからって、どういうことですか?」

たまきは怯えるように尋ねた。

「別に、いるだけでいいから」

「なんで私にそんなに固執するんですか?」

「……なんでだろ?」

亜美は上を向いた。

「あんたがウチに似てるからじゃない?」

「……似てる? さっき、真逆だって言ったじゃないですか」

「でも、『家に帰りたくない』っていうのが似てるなぁと。だからほっとけないのかもしれない」

亜美はたまきに詰め寄った。

「どうせどこにも行くとこないんでしょ。自殺するんなら家にも帰せないじゃない。ウチに泊まればいいじゃない。あそこ、一人暮らしには広すぎるんだよ」

「……どうしてこうずかずかと私の中に入ってくるんですか」

たまきは顔をそらした。

「面白いんだよ。だって、死にたいだなんて全然理解できないんだもん」

「面白がらないでください」

「目の前の今を楽しまなきゃ」

「全然楽しくないです」

亜美はくすくすと笑った。

「面白いなあ、たまき」

「私は面白くないです」

「で、どうするの? 帰るの? うち来るの? それとも、自殺するの?」

「帰りたくはないけど……。」

たまきは手首の包帯を見た。また自殺するほどの力は残ってない。

「じゃあ、しばらくお世話になります」

「そう来なくっちゃ。よろしく」

そういうと亜美は笑った。

たまきは自分でも不思議だった。なぜ、亜美の申し出を受け入れたんだろう。

きっと、亜美のずかずかと入ってくるところがうれしかったんだろうとたまきは思った。初めて、人にちゃんと見てもらった気がした。

窓の外からは、夕焼けが差し込んでいた。

これからしばらく、この人と暮らすのか。

窓から差し込む日の光はまぶしかった。たまきは目を細めた。

昨日、屋上に立った時には、こんな展開になるとは思ってもみなかった。

「何が起こるかわからないんだから、もっと楽しまないと。」今朝の亜美の言葉を反芻する。

確かに、何が起こるかわからない。亜美の言う通りだ。

久しぶりかもしれない。明日がちょっとだけ楽しみなのは。

たまきは静かに目を閉じた。

この人と過ごす明日が、いい天気でありますように。たまきは心の中でそっとつぶやいた。

つづく


次回 あしたてんきになぁれ 第2話「夜のち公園、ときどき音楽」

一緒に暮らすことになった、亜美とたまき。しかし、ずかずか入ってくる亜美と、距離をとりたがるたまきの間の溝は埋まりそうにない。そんな中、さまざまな出会いが二人の明日を変えていく……。

「本当につらい時、涙なんて出ない。あるのは吐き気である。 」

第2話「夜のち公園、ときどき音楽」

自営業の方必読!ピースボートのポスターを貼る6つのメリットと3つのデメリット

自営業をしている人の中には、ピースボートのボランティアがポスターを貼らせてほしいと頼みに来た、という経験を持つ方も多いのではないだろうか。貼らせてあげた方がいいのか。でも、お店に特にメリットないし。そこで今回は、ピースボートのポスターを貼ることのメリットとデメリットを紹介したい。


ピースボートのポスターを貼る6つのメリット

出典:「素材三昧」 URL:http://sozaizanmai.com/

まず最初に、「マレビト信仰」という風習の話をしたい。

古来より日本には「マレビト信仰」という風習がある。よその土地からやってきた神様が、イエやムラに福をもたらす、という考え方だ。そのため、どこのイエでも、よそから来たカミサマを手厚くもてなした。

もてなしたのはカミサマだけではない。旅人もそうだ。

四国には「善根宿」というものがあった。お遍路さんを無料で家に泊め、手厚くもてなすことにより、自分もお遍路さんととな寺ご利益が得られると信じられていたのだ。

なにも「今すぐお金を落とす人」だけが客ではない。今はポスターとチラシしか置いていかなくても、巡り巡って福をもたらすこともあるのだ。

メリット① 新たな出会いがある

ピースボートのボランティアスタッフ(通称:ボラスタ)たちは、だいたい3か月に1回ぐらいのペースで、再び同じ町を訪れる。前回と同じボラスタが来ることもあるし、前回と違うボラスタが来ることもある。だけど、お店側の視点で見れば、3か月に1回のペースで誰かしらピースボートのボラスタがやってくる。

ポスターを貼るのを断っても、ボラスタは毎回店を訪ねるだろう。怒鳴って追い返せば二度と来ないはずだ。ただ、「純粋な客」としてもピースボート関係者が訪れることは二度となくなる。「あの店に行ったら理不尽に怒られた」という話は後世まで残る。ポスターを貼らせられないのなら、やんわりとお断りして、次は客としてきてもらうようにしよう。丁寧に断られれば、ボラスタ側もすがすがしく店を後にすることができ、次は客として訪れることもある。

むしろこれは、「昼日中から仕事もしないで、ただでポスター貼って、『地球一周』という夢を叶えようとしている奇特な人たち」と出会う絶好のチャンスである。彼らはそんなに急いでいないので(急いでる時もあるけど)、話しかけてみれば、彼らの夢の話、先に船に乗った彼らの仲間の話、彼らのそれまでの人生の話など、いろいろと面白い話を聞かせてくれるはずだ。

メリット② 常連客が増える

ピースボートに携わる者は、ポスターを貼ってある店と貼ってない店が並んでいた場合、まず間違いなく貼ってある方に入る。これは船を降りてピースボートに携わらなくなってからも続く。ポスターが貼ってあると、無条件にうれしくなるものだ。

また、ボラスタがその町を訪れるのが2回目だった場合、前にポスターを貼ったお店で食事をとることもある。食事ついでにポスターの張り替えもできるわけだが、前回、その店でポスターを貼った時の「あの店、おいしそうだったなぁ」という記憶に基づくことの方が大きい。

船を降りた後で、ポスターを貼ったお店に友達と食事に行った、なんて話も聞く。

大宮に「楽釜製麺所といううどん屋がある。

大宮ボラセンのメンバーで言ったところ、値段が安く味も良い。

さらに、目立つ場所にポスターが貼ってあったのだ。

それ以来、僕らはことあるごとに楽釜製麺所に足しげく通った。「安くて、うまくて、ポスターが貼れる」と評判の店だったのだ。船に乗っていた時、唯一食べたくなった日本食が「楽釜製麺所」のうどんだった。

「純粋な客として訪れる」というのは、ボラスタにできる唯一の恩返しであり、財布に余裕がある限り、その恩返しを続けていきたくなるものだ。

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楽釜製麺所の釜玉うどん。これに、揚げ玉をたっぷりかけるのがお気に入り。くぅ、たまらん!

メリット③ 勝手に宣伝してくれる

さらに、気前よくポスターを貼らせてくれたなど、印象に残る店はボラスタが勝手に宣伝までしてくれる。

例えば、「一代元」というラーメン屋がある。埼玉県を中心に展開しているラーメン屋だ。

もともと個々のラーメンが大好きで、足しげく通っていたのだが、

なんとこの店、ポスターにも寛大。今まで、5店舗を訪れて、貼ったポスターは11枚。なんと、一度も断られたことがない。

以来、僕はあちこちで一代元を宣伝して回っている。こんな風に。めちゃくちゃうまいうえにポスターも貼れるのだ。あ~、書いてたらまた行きたくなってきた。

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一代元の韓国ラーメン。くぅ、たまらん!

メリット④ お客さんとの会話も増える

お店にピースボートのポスターを貼っておくと、たまにお客さんがポスターのことを聞いてくるらしい。

もちろん、お店の人に詳しい説明などできるはずもない。

だが、ポスターにはチラシが張り付けてあったり、URLや電話番号が書いてある。説明する代わりに、チラシを渡したり、連絡先を教えればいい。

ついでに、ポスターを貼りに来たおかしな若者たちの話でもしてみるといいだろう。お客さんとの会話が増えるはずだ。

メリット⑤ インテリアとして使える

以前、とあるエジプト料理屋さんに貼った時、こんなことを言われた。

「これ、前はピラミッドの写真とかありましたよね?」

「あ~、ありましたよね。僕も、そのバージョン見たことありますよ」

「ね~。ピラミッドが写ってたら、もっとよかったんだけどねぇ」

とまあこんな感じで、お店によってはポスターの写真が店の雰囲気を高める場合もある。3か月ぐらいしたら、全然違うデザインのに変わってしまうのだが。

メリット⑥ 夢への投資

ポスター1枚貼ることで、そのボラスタに約300円寄付した計算になる。もちろん、お店側は1円もお金を払わない。本来、ピースボートがボラスタに請求するはずだった乗船費用が、300円マイナスになる、というシステムである。

こちらは1円も損しない募金と言えば分りやすいだろうか。

募金の場合「金の使い道」というのがよく問われる。日本はNGOやNPOへの警戒心が強いので、募金の透明化はどこの団体にも求められている。

だが、このシステムは純粋に「ボラスタの乗船費用の割引」にしかならない。他の使い道はありえない。なぜなら、ポスターをお店に貼ったところで、ピースボート側には1円もお金が入ってこないからだ。むしろ、ポスターの印刷代がかかっている分、赤字である。

募金とは、身もふたもない言い方をすれば、わずかなお金で「今日はいいことをした」というすがすがしい気持ちを買う行為である。そういう意味では、ポスターは最良の募金だと思う。

ピースボートのポスターを貼る3つのデメリット

ここまではポスターを貼るメリットについて書いてきた。過去にポスターを3000枚貼ってきた者としては、ポスターが貼れる店が一つでも増えてほしいのだが、デメリットを書かないのはアンフェアだ。ここから先は、ポスターを貼ることのデメリットを書こうと思う。

デメリット① ズバリ、邪魔

ポスターを貼ることの最大のデメリット。それはずばり、邪魔だということだろう。

縦は約50㎝、横は約40㎝。結構な大きさである。これが50枚、60枚となると結構な重さで、もって歩くのもなかなかに大変だ。

お店によっては、自分たちの店や商品に関するポスターを貼らなければいけない場合もある。そういう場合、このサイズのポスターは純粋に邪魔である。これが、ポスターをお店にはることの最大のデメリットだろう。

デメリット② 他のポスターも貼らなければいけなくなる

たまに、このような理由でポスターを断られることがある。もっともな意見だ。

街に出てお店を回り、ポスターを貼ってもらえるよう交渉しているのは、ピースボートだけではない。探偵事務所だったり、ペット美容室だったり、さまざまな企業が「ポスターを店に貼る」という宣伝方法をとっている。また、地元の学校の文化祭のポスターや、選挙ポスターなどもある。ピースボートに限らず、ポスターという宣伝の仕方はやはりバカにできないのだろう。

1回こういうのを許してしまうと、他のポスターも断れなくなってしまう。「なんでピースボートはよくて、うちはダメなんだ?」といった具合に。人が良いのか、いろんなポスターに埋め尽くされたお店を何度も見たことがある。

「ポスターを貼ったことにより店の外観を損ねた」のか、「ポスターを貼ったら殺風景なガラス窓がカラフルになった」のか、受け取り方はその人次第だろう。

デメリット③ 店の雰囲気に合わない

ポスターが店の雰囲気に合う場合があれば、もちろん、雰囲気に合わない場合もある。蕎麦屋やすし屋など、和風なお店がそれである。

こういう店ではあまり貼らせてもらえない。理由はやはり「店の雰囲気に合わない」ことだろう。

「地球一周の船旅」である以上、写ってる写真はヨーロッパの街並みやピラミッドやモアイ像が多い。やはり、和風なお店には合わないようだ。

以前、僕が貼っていたポスターにはでかでかと、サンバを踊るブラジル人美女の写真が載っていた。

これが和風な店での成功率がすこぶる悪い。もっとも、僕も店に入る前から「あきらかに店の景観と会わないけど、念のために行ってみるか」という感じだったので、断られても「ですよねー。お時間とらせました~」といった感じで大してダメージを受けることはなかった。

ピースボートのポスターってどこに貼ればいいの?

さて、いざポスターを貼るとなって、一体どこに貼ればいいのか。

実は、決して店の目立つところに貼らなければいけない、というわけではない。貼らせていただけるのであれば、どこだろうとありがたい。

例えば、物がごちゃごちゃ置いてあって、そこに貼っても全体の4分の1しま見えないような場合。

問題ない。4分の1も見えていれば、十分だ。

人目に付くのであればトイレでも構わない。お店側は「そんなトイレなんかに貼っちゃって悪い」と遠慮することがあるのだが、トイレのポスターから地球一周の扉をたたいた人は結構多い。

さらに言えば、別に客の目に触れなくてもいい。ポスターを見る人はお店の従業員でも構わないのだ。つまり、店のバックヤードの殺風景な場所でも構わない。

あるお店なんか、壁に穴が開いちゃた所にポスターを貼っていた。だから、逆にポスターをはがせないのだとか。そんな使い方で全然かまわないない。

ポスターを途中で剥がしたくなった時はどうすればいいの?

一度ピースボートのポスターを貼ったが、お店の都合で別のポスターを貼らなければいけないなど、ポスターをはがさなければならない場面もあるだろう。そんな時はどうすればいいのか。ピースボートに連絡すればいいのか。

連絡する必要はない。

お店に貼った時点で、もう、ポスターは店の所有物だ。お店の判断で自由にはがして、捨ててしまってかまわない。

「一週間たったらはがす」という条件のもと貼った店もいくつもある。そういう店でもやはり人がいいのか、半年ぐらい貼っていてくれた場合もあったが。

はがすときは、ちょっと引っ張れば簡単にはがせる。ガラスにテープがついてしまうこともあるが、爪でひっかけば簡単に取れる。

まとめ ピースボートのポスターは貼った方がいいの?

貼ることのメリットは簡単に言えば「善意の輪が広がる」という点だろう。それが客を増やすことにつながることもある。

一方、やはりデメリットは「景観を損ねる」ことだろう。

善意をとるか、景観をとるか。

僕は、ひいき目なしに、商売上手な店というのは、こういう場面で「善意」を選べる店だと思う。根拠は、1万以上の店をポスター背負って回った経験でしかないのだが。

ピースボートのボラスタがどんな生活をしてるかはこちらの記事で!

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

経験者にしか実態はわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!

「ピースボートでポスター貼ってた」というと大半が「すごい」と言ってくれる。だが、その実態は、あなたの想像よりはるかに面白く、はるかに大変だ。ピースボートの乗船を目指す者たちは、いったいどんな思いでポスターを貼っているのだろうか。ネットには様々な風評が渦巻いているが、こればっかりは、経験者でないと語れない。


ピースボートのポスター貼り「楽」

まず最初に、「ラクな話」ではなく「楽しい話」である。

ラクなはずがない。

だが、ポスター貼りは楽しい。

まず、いろんな町に行けるという楽しみがある。

これまで行った中で最も都会だったのは、聖地・秋葉原だろう。あんまり枚数は稼げなかったが。

一方、一番田舎だったのは東武東上線で行った寄居町だろう。季節は春先だったと思う。緑のトンネルの中を電車が駆け抜けていく様は、ピクニック気分にさせる。町並みも古く、人柄もよく、ポスターもよく貼れた。

埼玉は街道沿いの街が多く、川越をはじめ意外と古い町並みが残っているので、そういうのが好きな人には、結構たまらない。

そしてお楽しみはポスター貼りが終わった後にもある。仲間たちと食卓を囲み、地球一周の夢を語り合う。

たまに勢い余ってカラオケに行ったり。休日にみんなでどこかへ遊びに行ったり。世代やそれまでのバックボーンを越えた交流が何よりも楽しい。

ピースボートの魅力の一つは、旅の前から仲間たちとともに楽しいひと時を過ごせる、というところでもあるだろう。もちろん、その絆は旅の後にも続いていく。

また、自分の頑張りが数字という形でわかりやすく表れるのもまた楽しい。

とまあ、これだけ「ピースボート楽しいよ」って話をしとけば、これからさきの話にも耐えられるだろう。ついてこれるかな、フッフッフ。

ピースボートのポスター貼り「哀」

ポスター貼り経験者は口をそろえてこういうだろう。「あのころは楽しかった」と。

また、口をそろえてこうも言うはずだ。「よくあんなことやってたよね」と。

ポスター貼りは決してラクではなく、とにかく、体はきつく、心は折れる。

最大の敵は何といっても天気だ。

まず、冬。

冬に関しては埼玉は、雪が降らないだけましだろう。

しかし、冷たいからっ風が吹く。これがかなり体力を削り取る。まるで、体の芯から熱を奪っていかれたかのようだ。

さらに、屋外でポスターを貼るときは、風にあおられてポスターが飛ばされる、なんてことも。東京のど真ん中で風に飛ばされたポスターを追っかけたこともある。

冬が過ぎて春がやってくると、つかの間の春が訪れる。春はいい。気候は暖かく、花は咲き乱れ、絶好のお弁当日和だ。

それが過ぎると、梅雨がやってくる。雨もまたきつい。

雨は体力を奪うだけでなく、雨に濡れた壁はポスターが貼りずらい。

雨の中、整備工場のトタンの塀にポスターを貼ろうとしたことがある。普段なら10秒もあれば終わるのだが、濡れた壁に両面テープがくっつかず、しこたま時間がかかった(それでも貼るのを断念したことは一度もない)。

そして、梅雨が明けたら夏が来る。埼玉の夏は、暑すぎて太陽から人類への殺意を感じるほどである。こまめな水分補給が欠かせない。

汗をかき、さらに暑さのあまり汗が渇く。すると、皮膚に乾いてできた塩がざらざらとついているのだ。

僕は夏の時期はバンダナをしてポスターを貼っていた。公衆トイレなどでこのバンダナを濡らして暑さをしのいでいた。

今までで一番きつかったのは、埼玉大学近辺で貼った時だろう。

雨と風が同時に来たのだ。

かなりのどしゃ降りだったのだが、傘をさすと強風で煽られて歩けない。結局、ぼくは傘をさすのを諦め、濡れながら歩いた。

さらに、それから3か月後、再びこの場所にポスターを貼りに行ったところ、まったく同じ天候だった。この時僕は、神様っているのかも、と思った。もちろん、悪い意味で。

そして、つらいのは天気だけではない。

ポスター貼りは、毎日何百というお店を尋ねる。

これは、断られる確率の方がはるかに高い。当然だ。見知らぬやつがいきなり店に来て、営業中にもかかわらず(営業中じゃないと入れないんだけど)ポスターを貼らせてくださいと頼むのだから。貼らせない方が普通だろう。

10軒以上断られ続けると、心が折れることもしばしばだ。

体力い的な意味では悪天候がきついが、精神的な意味では断られるというのがきつい。

それでも、ほとんどがやんわりとお断りをしてくれるので、心は折れるが傷つきはしない。

ピースボートのポスター貼り「怒」

しかし、中には、腹が立つとき、心が傷つくときもある。そんな時は自分にこう言い聞かせる。

「ケンカしたら負けだ」

ボランティアスタッフとはいえ、ポスター貼りの現場ではピースボートの代表である。自分の評判がそのままピースボートの評判へと変わる。

もし、自分がトラブルを起こしてしまったら、自分だけではなく、仲間や、自分より後に船に乗る者たちに迷惑をかけてしまう。

誰かの選択肢を奪うような真似だけは、絶対にしてはいけない。

ピースボートのポスター貼り「喜」

体力を削り、心折れて傷つき、そうまでしてポスターを貼るのはなぜなんだろう。

もちろん、夢のため、お金のためだ。

だが、決してそれだけでもない。

実は、腹が立つ場面なんて数か月に1回あるかないかで、それ以上にはるかに協力的な人の方が多いのだ。

そんな優しい人たちに出会えるから、僕らはポスター貼りを続けられる。

「若いうちに世界を見た方がいい」と言っていた自転車屋のおじさん。

「私はあんたたちのことを応援してるんだよ」と言ってくれた居酒屋のおばちゃん。

「孫に乗ってほしい」と言って貼らせてくれた美容院のおばさん。

暑いさなか道を歩いていて、ふと目があった瞬間に「兄ちゃん、休んでけ!」といった雑貨屋のおじさん。

快く3枚も貼らせてくれただけでなく、他の店に入ろうとしたら通りの向こう側から大声出して、「兄ちゃん、その店はだめだぁ! 隣の店いきな!」と言ってくれた八百屋のおばちゃん。

かつて船に乗っていたらしく、「いくらでも貼っていきなよ」と言ってくれた美容師さん。

「ピースボートだから貼らせるんだよ」と言ってくれたお花屋さん。

「貼らせてあげられないのが申し訳ない」と言っておやつをくれたラーメン屋さん。

夏の暑いさなか、コーラをごちそうしてくれたスナック。

決して、忘れるものか。

ポスター貼りをやって気づいたのが、

なんだかんだ、日本人は優しい、ということだ。

ピースボートのボランティアで出会った、心の温かい日本人たち

僕らはそんな人たちの善意におんぶにだっこで旅をする。優しい人の力で旅に出るわけだ。

たまに、よく知らずに上辺だけの知識で「ピースボートは反日だ」という人がいるが、冷静に考えてほしい。

日本が嫌いな人間に、日本の街で頭を下げてポスターを貼り続ける、なんて芸当ができるわけがない。

僕たちは、この国に住む人々の優しさを肌で知っている。ネットのうわさなど、単なる0と1のデジタル信号でしかない。『世界』は、自分の目で見たものしか、自分の肌で感じた者しか、存在しないのだ。

だから、僕の言いたいことはただ一つ。

こんなブログなんて信じないで、自分の目で、自分の肌で、世界を、日本を確かめてくれ。

寄せ鍋の夜、銃口の朝~ピースボート乗船から1年~

2016年12月10日。かつて、「ボランティアセンターおおみや」(通称「大宮ボラセン」)というピースボートの事務所でポスターを共に貼った仲間たちが再び集まった。あのころ、ピースボートの船旅に夢を見た仲間たちは、いつのまにかみな地球一周を終えていた。再び集まった仲間たち。でも、帰るべきボラセンは、もう、ない。


メロウ

十日市は大宮最大にして伝統のある祭りだ。ちなみに、「十日市」と書いて「とおかまち」と読む。

この祭りに再び集まろう、そういう話が出たのは2か月ほど前だった。

今から2年前、僕はピースボートの事務所の一つである大宮ボラセンのドアを叩き、ピースボートのボランティアスタッフとして、ポスター貼りを始めた。

「ピースボート地球一周の船旅」との出会い

ポスターを貼るときは一人だ。夜空に浮かぶ月を見て、エレカシの歌を歌いながら、重たいリュックを背負って歩いていた。

でも、ボラセンに帰れば、いつも仲間がいた。同じ釜の飯を食べながら、「地球一周」という夢を語り合う仲間が。年齢もばらばら、歩いてきた畑も違う。場所柄、埼玉出身の人が多いんだけど、東京から通っている子や、東北から来てシェアハウスに住んでるやつもいた。

僕らの共通項は2つだけだった。その一つが、「地球一周に夢を見た」。

そして、もうひとつが、「みんな、何かしらの闇を抱えていた」。

僕らはこの闇を「メロウ」と呼んでいた。仕事のこと、恋愛のこと、学校のこと、人生への言いようのない閉塞感。消えてしまいたいほどの絶望感。

みんな何かしら一ネタ持っていて(スタッフを含め)、みんなでそのメロウを分け合っていた。

僕たちは、ここではないどこかに行きたかった。見たことない世界が見たかった。ここがすべてじゃないんだって証明したかった。

きっと、僕らを海へ駆り立てた理由というのはそういうことなんだと思う。

大宮ボラセンはセンターとしての規模はかなり小さく、マンションのワンルームを借りて運営されていた。ボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)の数もよそのセンターと比べると少ない分、お互いの距離が近かった。

だからなのか、大宮ボラセンはよそからよく、「仲がいい」「アットホーム」と言われていた。

ボラスタ経験者はみな、自分の育ったセンターこそが一番だと思っていると思う。それでいいと思うし、僕も大宮が一番だと胸を張って言える。

そして、去年の10月、大宮ボラセンは4年半の歴史に幕を下ろした。

今宵の月のように

夕方五時。といっても、もうすっかり暗くなっている。最初に大宮駅に集まったのは、僕を含めて4人だった。僕以外はみんな女の子。皆、半年近くあっていなかった。でも、すっかり冷え込んだ12月の空気だけど、あって少ししゃべれば、半年の時間の隔たりなんてとけていった。

後からみんなちらほら来るとのことで、先に氷川神社へ行くことに。あの頃歩いた大宮の街を神社に向けて進んでいく。

一歩一歩、そこにある思い出をかみしめながら。

10分ほどあれば氷川神社にたどり着く。関東地方にいっぱいある氷川神社の総本山。2kmある参道は空から見れば街中に伸びる一本の緑の線に見える。

といっても、2kmも歩くわけはなくて、神社から500m位のところから僕たちは入った。

紅の鳥居をくぐると、普段は緑に囲まれた賛同も今日ばかりは屋台が並び、冬空の下でお月様のように明るい。その中を流れる川のように多くの人が行きかっている。

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十日市の様子

僕たちはステーキ串を買って4人で分け合った。正確に言うと、恵んでもらったんだけど。

途中で大宮のスタッフだった人と合流し、5人で最後の鳥居をくぐり、神社の境内へと入っていく。

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氷川神社の鳥居
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本殿の入り口

いつもだったら開けた砂利の境内も、右も左も上も熊手で囲まれている。そこを抜けて本堂でお参りを済ませ、屋台で味を楽しみながら待っていると、一人、また一人とやってきて、いつのまにか8人に膨れ上がった。

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熊手を売っているところ。
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高い熊手を買うと、三本締めの声が響き渡る。

この時になると、もうすっかりあのころの空気だ。十日市の雰囲気を楽しみつつも、僕らはエレカシのあの歌みたいな、あのころの雰囲気を懐かしむように味わっていた。

「俺たちが集まれば、そこがボラセンだから」

集まれれば、別に十日市でも、クリスマスでも、初詣でも、何でもいいのだ。旅はどこに行くかではなく誰と行くか。ピースボートに乗る人が口をそろえて言う言葉だ。

僕が88回クルーズに乗ることを決めたのは、大宮の仲間がたくさん乗るからだった。だから、地球をぐるっと回ってさえくれれば、行先はどこでもよかったんだ。

人間交差点

夜8時。僕らは大宮から電車に乗って蕨という町に向かった。仲間が働いているホテルで、みんなで鍋パーティ&お泊り会をするのだ。

電車に乗ると、みんなで八景島や秩父に行ったことを思い出した。あのころは、月に1回みんなでどこかへ出かけていた。

電車に乗って15分くらいで蕨駅に着く。日本一小さい市として知られる蕨の駅前は、大きな建物がいっぱい建っている。いつだったか、ここから15分近く歩いてポスターを貼りに行ったっけ。

みんなで駅前のスーパーで買い出しをする。「一番好き嫌いがなさそう」という理由で、鍋のスープは寄せ鍋に決まった。みんなで割って620円。

スーパーを出て8分歩くと、今日の宴のお宿に着く。町中のマンションを改装したと思われるお宿を2部屋借りた。一部屋12000円なのだが、みんなで割って3000円。締めて3620円。

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ホテルのパンフレット

居酒屋で飲むのと同じような値段だ。でも、これでお泊りがつくうえ、プライベートが確保できる。

鍋パは女子部屋で行われることに。部屋の間取りといい、なんだか大宮ボラセンに似ていた。

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ホテルの部屋。大宮ボラセンもこのような感じの部屋だった。こんなオシャレじゃないが。

「本当にいい場所を選んだねー」などと言いあう。

ホテルといっても部屋の中にキッチンも洗濯機もある。お鍋の準備をしたり、足りない食器やいすを男子部屋からとってきたり。

段取りができない僕は、ブログ用に写真を撮るばかり。そういえば「ADHDの段取り」みたいな本があったが、そろそろ本気で読まないといけないのかもしれない。

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鍋の準備をしているところ

9時過ぎになって、船を降りてピースボートスタッフになった仲間が仕事を終えてやってきた。これで予定していた仲間は全員来た。大宮恒例の「海賊乾杯」をする。

「野郎どもー!! 船が出るぞー!!」

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大宮の仲間で東京ONE PIECEタワーへ行ったこともある

といっても、近所迷惑を考えてささやき声である。

鍋を囲みながら、各自の近況が報告される。

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ピザと鍋がターンテーブルとミキサーのように並んでいる
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寄せ鍋。締めはおうどん。

新たな仕事を始めたやつ。

仕事を辞め、旅に出ることを決めた人。

新天地へ向かうことになったやつ。

人生の大きな決断を下した子。

別々の場所からこの大宮に来て、船に乗って、また別々の場所に旅立っていく。まさに人間交差点。

そして、夢の入り口に立った子がいる。ここから少し、その子の話をしたい。

「空は青く澄み渡り、海を目指して歩く」(「RPG」より)

その子は僕より7個年下の女の子だ。

小柄で幼く見え、明るく人懐っこい子だけど、その笑顔の裏には、中学のころ、周りになじむことができず不登校だったという過去を抱えている。

大学へ進学するも、そこでも周囲に、特に同世代の学生たちに溶け込むことができなかった。

近所の人に大学に通っていると告げると、「今が一番楽しい時でしょう」と言われた。

それが、つらかった。

ずっと「普通になりたい」と願っていた。

そんな彼女も地球一周にロマンを感じ、大宮ボラセンに通い、埼玉でポスターを貼るようになった。

そこで、彼女は初めて心を許せる仲間に出会えた。表面上の馴れ合いではなく、それぞれがメロウを抱えた仲間たち。

僕は、彼女のちょっと後輩にあたる。一緒にポスターを貼りに行ったり、大阪の キャンプに参加したり、ずいぶん同じ時間を一緒に過ごした。

僕とその子は同じ船に乗った。船に乗って1週間ほどたったフィリピンでの港の夜、そのこともう一人、当時18歳だった大宮の仲間の男の子に、話があると僕は呼び出された。

その話は、二人が参加している「グローバルスクール」という船内のプログラムに参加しないか、というものだった。

グローバルスクール、通称GSについてはまた日を改めるが、簡単に言えば引きこもりや不登校経験者、今もそのさなかにいる人たちを支援するプログラムだ。実は、僕も船に乗る前に母に参加を促されたが、引きこもりでも不登校でもなかったので参加しなかった。

もちろん、僕は二人にそのことを告げた。どっちの経験もないのに入っていいの?と。

それに対して二人は、決してそういう経験がなければ入れないわけではない、ノックみたいな人がいっぱいいるから入ろうよ、と答えた。

引きこもりは決して僕とは無縁の存在ではない。引きこもりと社会人の境目みたいなところを歩いてきたという自覚があった。

何より、二人のことを信頼していた。

自己評価よりも、二人の意見を信用することにした。

そうして、僕はGSの15人目のメンバーになった。

その時、GS担当のスタッフから聞かされたのが、二人のうち特に女の子の方が僕の加入をプッシュしていたらしい、とのことだった。

「ノックが入ればノックとGS両方に効果があると思う」と言っていたのだとか。

二人が誘ってくれたおかげで、かけがえのない友達が増え、かけがえのない日々が送れた。感謝しても感謝しきれない。

さて、そんな彼女であるが、船の中で大きな変化が見られた。そのきっかけはシンガポールだったと思う。

日本軍によるシンガポール占領の歴史を学ぶ「昭南島ツアー」に僕も彼女も参加していた。

そこで、彼女は血みどろの歴史にショックを受けていた。感受性が豊かなんだ。

その後、昭南島ツアーの報告会の準備をみんなで進めていた。

彼女は発表者の一人だったが、本番前に50人ほどの聴衆を前にガチガチになっていたのを覚えている。

この後あたりから、彼女は今まで関心がなかった「平和」を中心とした国際問題に興味を覚えるようになっていった。アウシュビッツに関する本を借りて読んだり、国際問題に関する企画に積極的に参加していったり。

彼女が今の大学になじめずに悩んでいることを知っている僕は、「やりたいことが見つかったのなら、今の大学なんてやめてそっちに行けばいいのに」と思っていた。

しかし、僕に学校を辞めた経験はない。相談されてもいないのに無責任なことなど言えない。

やがて、彼女は人気のアウシュビッツ見学ツアーの空きを確保し、1週間ほど船を離れ、ポーランドへと向かった。

アウシュビッツで何を見たのか、何を学んだのか、詳しくは知らない。もちろん、アウシュビッツでの話は聞いたが、わかったことは2つ、「現地へ行かないと何もわからない」と、「アウシュビッツに行ったことが彼女に大きな影響を及ぼした」ということ。

帰ってきた彼女は、GSのみんなの前で堂々と宣言した。

「生まれて初めて、夢ができました!」

今の大学を辞めて、平和について学べる大学、学部に入り直す。それが彼女の決断だった。

彼女が自分の意志で答えを出したことで、僕もようやく、ずっと思っていた「大学を辞めて、入り直した方がいいのではないか」という思いを伝えることができた。

でも、日本にいる両親に彼女がその意志を伝えると、両親はとても驚き、帰ったら一回話し合おうと返事をした。

そのことには僕も驚いたが、よくよく考えれば、両親は彼女の船での変化を知らないのだ。当然と言えば当然の反応だった。

それと同時に、家族ですら見ていない彼女の変化を、一人の人間が人生の大きな転機を迎えるのを、こんなにも間近で見させてもらえたことを光栄に思った。普通は学校の先生などの仕事をしないとこんな経験はさせてもらえないと思う。

以前、大宮のスタッフが、「仕事が大変でも、人が変わっていく過程を特等席で見させてもらえる。こんなに楽しい仕事はない」と語っていた。その気持ちが、少しわかった気がした。

それから、彼女は、寄港地の度にスマートフォンで大学を調べたりと、生まれて初めてできた夢に向けてわくわくが止まらない感じだった。船の中でも企画に参加するだけでなく、自ら積極的に企画運営にかかわるようになっていった。

シンガポールの発表会でガチガチに震えていた時の姿は、もうどこにもなかった。

彼女は船を降りて家族と話し合った結果、もう一年今の大学に3年生として通った後、別の大学に2年生として編入することに決めた。

そして、8か月間、彼女は受験勉強をした。

頑張ることに関しては何の心配もしていなかった。むしろ、頑張りすぎてやしないかと心配するくらいだ。

編入試験は一般入試よりも早く終わるため、勉強期間は短い。さらに、一次試験を40人が受けて二次試験に進めるのはたったの4人、その後には教授の面接が待ち受けているという難関だ。

そして迎えた12月10日。彼女の口から、本命の大学への編入が決まったことが告げられた。4月からは親元を離れ、寮生活も始めるそうだ。

もっとも、合格発表の日のLINEが既にうきうきしていたことから、うまくいったんだろうなとなんとなくわかっていたのだが。

約8か月ぶりにあった彼女は、嬉しそうに社会学について語っていた。彼女がかつて不登校だった経験を踏まえて、「不登校が個人にとってリスクになりかねない社会」というものを突き詰めて行きたいと考えていた。

「平和」と聞くと、ついついどこか遠い異国の戦場や、空爆されている市民を思い浮かべる。

だが、憲法9条があるはずのこの日本も実は平和とは言い切れない。今日もどこかで誰かが、閉塞感にあえぎ生きづらさを感じている。

彼女にとっての平和とは、誰しも平等に制度や社会構造の救いの手が差し伸べられること。決して、爆撃機飛び交う砂の街だけが戦場ではない。70年も平和なはずのこの国でも、子供がたった一人で見えないなにかと戦い、爆撃を受けた廃墟のように心が崩れていく。PKOのような応援部隊など誰も来ない。

そういう意味では、戦場で母をなくして泣き叫ぶ子供も、学校に行けず一人部屋にこもって時間をつぶす子供も、彼女にとっては何も違わない。

社会学を学ぶことで、この国を追う「見えない戦争」「かりそめの平和」に光りがさせるのではないか。今、社会学が彼女の希望だ。

彼女がレアケースとは思わない。船に乗って人生を変える大きな出会いがある人を、僕はほかにもたくさん見てきた。

それでも、彼女は僕ら大宮ボラセンの、自慢の妹だ。

わかもののすべて

夜は更ける。

あの頃毎日聞いていた声が隣で響いている。

あの頃毎日見ていた顔に囲まれている。

誰かの話に腹がよじれるほど笑う。

部屋の雰囲気がボラセンに似ていたのもあってか「俺らが集まればそこがボラセン」なのだと実感させられる夜だった。

全員が泊まるわけではなく、明日も仕事だと3人ほどが帰って行った。

が、そのうち一人から電話が。どうやら、道に迷って終電を逃したみたい。

結局、男子3人、女子4人が残った。

船を降りてからこれまでのことを語り合う。本当にあのころに戻ったようだった。

夜もさらにふけ、僕らは男子部屋へと戻って寝ることにした。

時刻は深夜2時。思うと、5時に集合してからここまでびっくりするほど長かった。

「これがずっと続いたらねぇ」

「でも、あのころはこれがずっと続いていたんだなぁ」

本当にあのころに戻ったみたいだ。

でも、本当はもう、あのころには戻れない。淋しいが、わかっている。みんなもう、それぞれの道を歩き出しているのだ。

そして、一人思う。

僕は果たして、歩き出しているのか? この1年、同じところに留まり続けていただけではないのか?

だって、僕には「おめでとう」とか「頑張ってね」って言ってもらえるような報告が何一つない。

 「また会う日までそれぞれの道で」(「琥珀色に染まるこの街は」より)

朝を迎え、9時に女子部屋へと向かいみんなで朝ご飯を食べる。ドラゴンボールはなぜか野球に興じ、ONE PIECEは12ページを30分かけてやっていた。

ホテルから駅へと向かう帰り道、冷たい冬の空気をかき分けながら、「よくこんな寒空の下、みんなポスター貼ってたな」と笑いあう。それぞれがそれぞれの道へと向かい、次に会えるのはいつなんだろう、そんな話をする。

「みんな、埼玉から旅立っちゃうんだねぇ」

やっぱり、僕らの本質は旅人なんだ。ひとところにはとどまらない。つくづくそんなことを考えさせられる。あのころ、埼玉に集った仲間たちの多くは埼玉で暮らしていた。でも、大宮ボラセンが閉鎖して1年。シェアハウスは2か月ぐらい前に閉鎖した。

そして、みんな埼玉から旅立っていく。

でも、僕は埼玉に残る。

新天地へ行く予定もなければ、そもそも引っ越すお金も、部屋を借りるお金もない。

だが、僕の仲間は、お前の感じてる劣等感なんて気のせいだとでも言いたげに笑った。

「ノックは埼玉を守ってよ」

ハシリツヅケル

最寄駅までは電車で10分もかからない。電車を降りて一人になった僕は、どこかもやもやした気持ちと、どこかすがすがしい気持ちを両方抱えて、駅前のスクランブル交差点で信号を待つ。

みんなと久しぶりにあって思ったこと。みんな、前に進んでいる。自分の道を歩き出している。

僕も歩いているつもりでいたが、僕の歩みはどうも遅い。

どうやら、僕は人よりだいぶ不器用らしい。

多くの人はいくつか武器を持っていて、状況に応じて使い分ける。

 

でも僕は、相手が空を飛ぼうが守りに入ろうが、何人いようが愚直に剣を振り回すだけ。相性の良し悪しは関係ない。剣しか持っていないんだから。

思えば、船に乗っている時からそんな生き方だった。立ち止まってうまく立ち回った方がいいんじゃないかと思ったこともあったが、思ったところで立ち回れない。

自分ができること、やりたいことをやるしかなかったし、うまく立ち回っている自分を好きになってもらったところで、たぶん長続きしない。

だから、走りつづけることしかできなかったけど、そうやって数えきれないほどの人と出会えた。

突っ走ったんじゃない。突っ走ることしかできなかった。

地球一周を選んだんじゃない。地球一周しか行くところがなかった。

フリーライターを選んだんじゃない。フリーライターしかできるバイトがなかった。

人一倍、不器用なのだ。臆病でプライドが高くて、かまってちゃんなのだ。

だから、相手が鎧を着ていようが、戦車に乗っていようが、要塞に立てこもっていようが、斬れるまで刀を振り回す。それしか僕にはできない。

人よりは時間がかかるだろうが、それしかできないならそうするしかない。そうやって走りつづければ、ちょっとした奇跡がその先で待っているかもしれない。

だから、僕は僕なりに一歩一歩歩くしかない。僕がほかの誰の真似もできないように、誰も僕の真似はできないはずだ。

そんなポジティブな僕を背後から、ネガティブな僕が銃を突き付け、あざけるように笑う。

「お前さ、おれのこと忘れてない? 人一倍ねたみやすく、人付き合いが苦手で、消えてしまいたい願望を抱えてる俺のことを。船に乗って地球一周してさ、ちょっと成長した気になって、俺のことなんか忘れてんだろ? でも、逃げらんねぇよ。俺はお前だから。俺のことを忘れたら、俺はお前を撃ち殺すよ」

僕は彼の銃口を握り返す。

お前のことを忘れるもんか。この先、どこへ行こうとも、お前と一緒だ。お前は俺だ。

「はっ、どうだか。忘れるなよ。俺はいつでもお前を見てる。お前がこの先どんな幸せを手にしようとも、どんな称賛を浴びようとも、ずっと俺はお前に狙いを定めてる」

信号が変わる。僕は、「僕ら」は、一歩一歩、自分のペースで歩き出した。このまま歩き続ければ、いつかまた「約束のあの場所」でみんなに会えると信じて。

 

この記事を、仲間であり、同志であり、友人であり、家族であり、兄弟であり、帰るべき場所である大宮ボラセンに捧げる。

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

ピースボート地球一周の船旅の特徴。その一つがボランティア割引制度だろう。僕はこの割引をためるボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)として8か月活動した。外からはなかなか見えてこないであろう、ピースボートのボラスタがどんな毎日を送っているのか、どんな思いでポスターを貼っているのかを書いていこう。


ピースボートのボランティア割引制度とは?

「ボランティア」といっても、ゴミ拾いなどをしているわけではない。

感覚としては、アルバイトに近い。

NGOピースボートの活動を手伝うことにより、バイト代が支給されない代わりに、働いた分だけ乗船費が安くなるという制度だ。ボランティア割引、通称ボラ割という。

30歳未満なら、最大で全額割引き、タダで乗ることができる。これを「全クリ」といい、全クリした人を「全クリスト」という。

僕も全クリストだ。だから、ピースボートに乗船費は1円も払っていない。

30歳以上の場合、割引きは半額までしか適用されない。これは、ピースボートが若い世代に世界を見てもらいたいという理念を持っていて、なるべく若い人に乗ってもらいたいからだ。

ボラスタには比較的若い世代が多く、学生やフリーターが多い。

ボランティア割引① ポスター貼り

ここからはボラスタの日常について見ていこう。

まず最初に書かなければいけないのが、僕は「ボランティアセンターおおみや」しか知らない。大宮ボラセンは今はないので、他のピースボートセンターに行くと、「あれ、話と違う」ということがあるかもしれない。そこをわかったうえで読んでほしい。

ボラスタが行う活動のメインがポスター貼り、通称ポス貼りだ。

ピースボートのポスターを街中で見たことがある人は多いだろう。このポスターは、ボラスタたちがせっせと貼っている。

3枚で1000円分の割引がたまる。1日で1万円分、うまくいけば2万、それ以上ためることができる。1件1件を店を回り、頭を下げ、ピースボートの活動を説明し、交渉し、時に怒られ、時に励まされながらポスターを貼っている。

朝の10時に事務所が開き、まずは今日のエリアを決める。自分で選べるところもあるらしいが、大宮は規模が小さい分、ピースボート職員とボラスタの距離が近く、職員がボラスタの力量を把握していたので、職員がそれぞれの力量にあった場所を選んでくれていた。

エリアが決まったら電車に乗ってその町に行く。そしてひたすら歩き、お店に入り、交渉して、ポスターを貼る。場所によっては夜遅くまでかかることもある。

ただ、人によって得意不得意がある。やはり、営業経験のある人が優位のようだ。ただ、ポス貼りを続けていく中で交渉の技術を鍛えた人もいる。

また、体力も必要不可欠だ。毎回約2万歩近くを歩く。

さらに、冬は寒いからっ風にさらされ、梅雨時には雨に打たれ、夏には(特に僕の活動していた埼玉ではより一層)暑い日差しに汗も乾き、体に噴き出た塩がこびりついている、なんてことも。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の熱さにも負けない丈夫な体が必要だ。ん? どこかで見たことのある文章だ。

その上、精神力も必要だ。営業中のお店にって「ポスターを貼らせてください」などといっても、断られるのが普通だ。何軒も連続で断られたり、心無い人に罵声を浴びせられたり。「心が折れた」なんて日常的に使う言葉だ。

そんな思いをしてまでなぜポスターを貼るのか。

そこに、どうしても叶えたい夢があるからだ。

どうしても見たい景色がある。どうしても行きたい場所がある。

だから、僕らはポスターを貼る。

ボラスタの活動をしていれば、船に乗る前から仲間ができる。一人ぼっちで船に乗ることがなくなるのだ。

また、悪い人がいれば同じくらい、いや、悪い人なんかよりもずっと多く、励ましてくれる人たちがいる。そんな人に出会えるのが、何よりの喜びだ。

「今日もまたどこへ行く。愛を探しに行こう」

 

ボランティア割引② 内勤

このポスターを準備することでもボラ割をためることができる。ポス貼りと比べれば額は少ないが。

ポス貼りと違い室内で行うので、「内勤」と呼ばれている。

全国の事務所によってやり方は変わるが、大宮では次のようなことをやっていた。

まず、ポスター貼りに使う両面テープを準備する。5㎝ほどに切りそろえるのだ。

準備が終わったら、それをポスターに貼っていく。全部で9か所。こうすれば、現場ではテープの紙をはがすだけだ。

10枚ポスターができたら、丸めて輪ゴムで止める。その繰り返し。ポスター以外に、ポスターに張り付けるチラシも準備する。

単純作業だが、仲間たちとおしゃべりをしながら作業できる。ポス貼りと比べて肉体的疲労もない。時間も自分の都合に合わせて作業できる。

こちらは、年配の人がやることが多いが、若いボラスタも内勤をする。

ボランティア割引③ 船内見学会

ピースボートでは年に3回くらい、全国の港でオーシャンドリーム号の見学会を行っている。その受付を手伝うこともボランティア割引の適用内だ。

しかも、休憩時間に船内を見学することができる。いつか「我が家」となる船を見学するのはとてもテンションが上がる。

また、船が帰ってきたときにもボラスタの出番はある。船から降りてくる人たちは、歩いて持ち帰るのが無理なレベルの荷物を抱えて降りてくる。そういった荷物は宅配で自宅へと送られるのだが、その際に佐川急便さんのお手伝いをするのだ。

こういったピースボート全体を上げたイベントは、普段はあまり接点のないよそのピースボートセンター所属のボラスタと交流できる貴重な機会の一つだ。

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オーシャンドリーム号 in タヒチ

ボランティアスタッフの日常① 定例会

どこのピーセンでも、週に1回定例会を行っている。大宮ボラセンでは「さいた丸」という名前で毎週水曜日に行われていた。

定例会開催の名目上は連絡事項の伝達だが、親睦を深めるという意味が大きい。

職員がせっせと作ってくれたこだわりの料理をみんなで食べ、連絡事項が終わったら、楽しいイベントの時間。さいころトークのようなレクレーションをやったり、時にはゲストが来たりする。

乗船を控えたメンバーがいるときはいってらっしゃいパーティ、略して「いってらっぱ」が開かれる。いわば、ボラスタの卒業式だ。

このような定例会以外でも、ポス貼りが終わったらすぐ帰るボラスタというのはあまりいない(終電の都合などで早く帰る人ももちろんいるが)。事務所に残り、地球一周という夢を語り合う。そんな毎日だった。

ボランティアスタッフの日常② P-1グランプリ

数か月に一度、p-1グランプリという大会が開催される。全国のピーセンごとに、1週間のポス貼りの成果を競い合うのだ。

とはいえ、「枚数」では日本一の商業都市である東京と埼玉では勝負にならない。それぞれのピーセンごとに目標枚数が設定され、その枚数に対する「伸び率」を競い合う。

P-1の週になると、ボラスタも職員も7日間身をすり減らしてポスターを貼りまくる。その分、目標を達成した時の達成感は半端ない。

普段は一人で貼るもの、自分との戦いだが、P-1になると「自分が手を抜いたら目標を達成できないかもしれない」というチームへの責任感を感じるようになる。

いつもよりも枚数を稼げるエリアに行くことができるので、ポス貼りの腕をレベルアップさせる絶好の機会でもある。

ボランティアスタッフの日常③ アルバイト

ボラスタとして活動しても、1円ももらえない。だから、多くのボラスタはアルバイトで生計を立てている。

正社員の仕事をしながらボラスタとして活動することもできる。ボラスタとしての活動は、完全に自分のペースで進めることができるのだ。都合のいい時だけピーセンに顔を出せばよい。

ただ、全クリを目指すのであれば、バイト生活の方が多くの時間を割ける。

僕の経験上、このようなバイトがおすすめだ。

週末のバイト ポス貼りは日曜が休みなので、僕は平日はボラスタをメインに、週末はバイトをメインに活動していた。ボラスタの方が融通が利くので、バイトのシフトと自身の体力に合わせて週に3~4日ほどポス貼りをしていた。

夜勤のバイト 夜勤をメインにバイトをしていれば、日中は内勤をして、夜はバイトという風に1日を使うことができる。バイトではかなり体力を使ったが、内勤は体力を使わないので両立できた。ただし、深夜の夜勤だと生活リズムがくるってしまうのでお勧めできない。

すぐやめれるバイト どうせ、船に乗るときにやめるのだ。すぐやめられるようなバイトがいい。

ボラスタの日常④ 休日

大宮ボラセンでは、月に1度みんなでどこかへ出かけていた。

鴨川シーワールドやディズニーランドをはじめとした遊園地や、電車に乗って秩父に行ったり。

印象に残っているのが、みんなで日野に行ったことだ。

大宮ボラセンには幕末好きが多く、新選組ゆかりの地、日野に行き、資料館をはじめ、新選組にまつわる場所を回って歩いた。資料館では新撰組の浅葱色の服や、土方歳三の洋装のコスプレをして記念写真を撮って楽しんだ。

このほかにも、乗船を間近に控えた仲間がいる場合は、お別れ会を兼ねてどこかに出かけたりする。

また、平日に堂々と休めるのもボラセンの特権である。平日に堂々とディズニーランドに行ったこともある。

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こんなコスプレをして楽しんだ。 出典:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a2/38e86c360372d82c1f397c07f9e9972b.png

ボラスタとは不思議な縁だ。年代も経歴も将来の夢すらも違う人たちが、一つの場所に集まり、夢を語らいあう。彼らをつなぐ絆はただ一つ「地球一周にロマンを見た」

夢を追いかけ、仲間たちと語り、笑いあったかけがえのない日々。「俺たちのドラマは今、最高に視聴率が熱いところなんだ!」が合言葉だった。

「閉塞感」という言葉が恐怖の大魔王のように支配している昨今、ピースボートの事務所のように、「勇者の酒場」となるべき場所が必要なんだと僕は思っている。

ポスター貼りのもっと細かい実態についての記事はこちら!

経験者にしか絶対にわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!

ピースボート地球一周の船旅の魅力

飛行機ならわずか1時間で進む距離を、船旅だと丸1日かけて進む。ピースボートのように地球一周となると3か月ほどかかる。あるものは仕事を辞め、あるものは学校を休学して船に乗る。何がそこまで人を海へ、船旅へと駆り立てるのだろうか。今回は、乗った人にしかわからない、ピースボート地球一周の船旅の「魅力」に迫ってみる。

ピースボートの船旅への誤解

スイートルームに泊まり、シャンパン片手にキャビンの窓から水平線に沈む夕日を眺める。夜にはドレスを着て高級レストランで、豪華フルコースと素敵な音楽に舌鼓を討ちながら社交パーティに興じる。

そんな豪華絢爛な船旅に魅力を感じているのなら、ぜひ頑張ってお金をためて飛鳥Ⅱに乗ってほしい(笑)。

我らがオーシャンドリーム号でも、奮発すればいい部屋に泊まれるし、「リージェンシー」という立派なレストランもある。部屋でシャンパンは飲めるかどうかは知らない(寄港地でお酒を買っても、船に預けなければいけない)。

しかし、豪華絢爛船の旅を想像していると、乗った後でがっかりするという話をよく聞く。

オーシャンドリーム号は「地球一周できる客船」ではあるが、「豪華客船」ではない。

若者も多く、「海の上の合宿所」、よくて「海の上のビジネスホテル」である。

いきなり悪口から入ってしまった。まあ、当然である。

船に限らず、人も組織も国も、知れば知るほど良い面も悪い面も見えてくる。悪い面が全く見つからないなんてことはあり得ず、その悪い面に折り合いをつけて僕らはうまくやっていく。

人でも組織でも国でも、「すべてが好き」だったり「すべてが嫌い」などという人は、実は「何も知らない」と言っているのと同じなのだ。

いろいろ長くなったが、ピースボートの船旅は決して豪華な旅ではない。ピースボートの船旅の魅力は、「そこ」ではないのだ。

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船内はこんな感じ

ピースボートの船旅の魅力① 異国がすぐそこに

ピースボートの船旅に限らず、船旅の魅力の一つはなんといっても、飲んで食って起きたらもう外国」という点だろう。四角大輔さんの言葉を借りれば「Door to door」

バスや電車、飛行機でも飲んで食って寝ることはできるが、狭い椅子に座りっぱなしであまりリラックスはできない。ずっと座ってただけなのに、気づけばぐったり疲れている。

船の場合、それはない。船内は自由に歩けるので、好きな場所でのんびりと羽を伸ばすことができる。キャビンで寝ていてもいいし、ジムで汗を流すのもいい。フリースペースでソファに持たれながら仲間とおしゃべりするというのは、船内でよく見かける光景だ。

そして、朝起きたら、そこはもう異国の港である。モンテネグロではフィヨルドの山々に当たりを囲まれ、パナマ運河では目の前にジャングルが広がり、タヒチでは朝起きたら楽園だった。

僕自身、最初の寄港地セブ島では10年ぶりの海外ということで少し緊張していたが、最後の寄港地サモアでは財布も持たずに散歩気分で外を歩いていた。外を歩いてから「そういえば、ここ外国だった」と気付いたくらいだ。

「朝、起きたら異国」。そんな経験を繰り返すうちに、異国が身近になっていく。これが船旅の魅力の一つだ。

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タヒチ・ボラボラ島。船内で朝ご飯を食べながら。

ピースボートの船旅の魅力② 船からの絶景に価値観も変わる

「誰も見たことがない景色」というのはどこにあるのだろうか。

人類がいまだ到達していない、月よりさらに向こうの景色など、まさにそれだろう。だが、何も「人類史上誰も見たことがない景色」でなくても、「現代人のほとんどが見たことない景色」というのがある。

船旅はまさにそれだ。飛行機の登場以前は、「海外」といえば文字通り船に乗っていくのが当たり前だった。それは島国である日本だけでなく、遠くへ行こうとすれば、船に乗らなければいけなかったのだ。国内の移動でも汽車や電車が登場するまでは船が最も一般的な乗り物だったのだ。

交通網の発達で船旅をする人は希少になってしまった。

だからこそ、僕らは海に恋い焦がれる。船の上から見る景色はどんなものか、船に乗る前には想像もつかなかった。

船の上から見える景色は、毎日青い海と青い空ばっかり。だが不思議と飽きることがない。

どんな陸上の景色が変わっても、海の上の景色は何万年も前からずっと変わらない。古代ギリシャの商人も、大航海時代の探検家も、カリブの海賊たちも、戦艦大和の乗組員たちも、すべて同じ青い海を見てきたのだ。

青い空、青い海、夕日、朝日、星空。眼前をゆっくりと通り過ぎていく、名前も知らない島。価値観を揺さぶる風景など、一生忘れられない景色など、いくらでも見れる。

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坂本龍馬も、ナポレオンも、コロンブスも、きっとこんな景色を見ていたのだろう。

ピースボートの船旅の魅力③ 船の中の暮らし

船の中では様々なイベントがある。ピースボート側が用意するものもあるし、自分で企画することもできる。旅人の中には、船に乗る前から船内でチャレンジすることを決め、準備をしてきたものもいるくらいだ。

船の中ではなんだってできる。音楽活動だったり、ダンスだったり、美術作品制作だったり、映像制作だったり、イベントの企画・運営だったり、本当に何でも。

そして、旅人達は仲間のチャレンジを常に受け入れてくれる。陸の上では指差されて笑われそうなことでも、船の中では必ず誰かが面白がり、応援してくれる。

本当に不思議な空間だ。これこそが、ピースボートの船旅ならではの魅力だろう。

あるスタッフは、船に乗る前に「船は積極的じゃないと楽しめないよ」と言っていた。また、あるスタッフは「立場的には何度も船に乗ってほしいんだけど、個人的にはこう思っている」と前置きしたうえで「これが一生のうちで最後の地球一周だと思った方がいい」と言っていた。

船の中では決して受け身では楽しめない。至れり尽くせりの豪華客船が望みなら、悪いことは言わない。飛鳥Ⅱに乗りなさい。

そして、船の中でやりたいことがあったら、やり残してはならない。某麦わらの海賊は「気に食わなかったらもう一周する」などと言っていたが、「もう一周」などないと思って乗るべきだ。

そうでないと、楽しめない。「これを逃したら、もうこんなことするチャンスなんてない」、そう思うことだ。