東大行く前に四の五の言え!

「ドラゴン桜」のドラマをまたやるらしい。あのドラマにはいい思い出がない。

と言っても、実は見たことないのだけれど。

何で見たことないのかというと、僕が通った大嫌いな高校がまさに、「四の五の言わずに東大に行け!」をリアルにやる学校だったからだ。

学校でさんざん先生から「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けて、どうして家でもテレビから同じことを言われなければいけないのか! 不条理だ! 納得できない!

というわけで、前回の「ドラゴン桜」は見てない。今回も見ない。高校時代のトラウマがえぐられるからだ。っていうか、番宣のCM見ただけで十分えぐられてる。これは理屈の問題ではない。

そもそも、僕は高校生の時、「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けたのに、四の五のどころか六七八九十くらいうだうだ言い続けていた。「学部にこだわらず、つべこべ言わずに、上位の学校に行け」というのがどうしても納得できなかったからだ。その結果、東大じゃほとんどやってない民俗学を学びに、民俗学を専門的に学べる激レア大学に進学することになる。

四の五の言いまくるのは大学卒業後も変わらず、「四の五の言わずに働け!」という社会で今度は八十八から百八ぐらいまでうだうだ言って、地球一周の旅に出る。

そして今、民俗学のZINEを作ってる。四の五の言い続けることに関しては、地球上の誰よりも自信がある。

だいたい、「四の五の言わずに東大へ行け!」と、大人が若者の選択肢を狭めるようなことを言うなんて、ひどいじゃないか。キングギドラだって「公開処刑」と言いつつ、3つも選択肢を用意してくれたっていうのに。

『おめぇに三つの選択肢を与えよう。死ぬか、戦うか、ビッチみてぇに訴えるか』

「公開処刑」とケンカ売った相手にすら三つも選択肢を与えるのに、前途ある若者に「東大に行け」とひとつしか選択肢を与えないのはあんまりだ。若者の可能性を殺しにかかってるとしか思えない。「公開処刑」ならぬ「東大処刑」だ。きっとBOY KENも同意見だと広辞苑に書いてあるはずだ。

ちなみに、ウチのリアルドラゴン桜高校に言わせると、東大に行った方が、そのあといろんな選択肢が生まれる、ということらしい。

だけどそれはあくまでも「学力が大事な世界」での話。「受験勉強して東大に行く」というルートの前にも、いろんな道がいっぱいある。

いや、むしろ、「学力が大事な世界」の方が意外と世の中では少数派かもしれない。

姜尚中の「悩む力」という本の中に、こんな一説がある。姜尚中が韓国の大学を訪問した時、わき目もふらずに勉強している学生を見て違和感を抱いたのだという。それは青春と言えるのか、と。

姜尚中にとっての青春とは、自分は何者なんだろうとか、人生とは何なのだろうとか、そういったあれこれに思いを馳せて、悩み、苦しみ、悶々とする時期のことを言う。そういった青春こそが真に人生を豊かにするのだ、と。つまり、「勉強ばっかりしてないで四の五の言いなさい」ということだ。

姜尚中は東大の名誉教授だ。東大の名誉教授が「若いうちは勉強よりも四の五の言う方が大事」と言っているのだ。

さあ、若者よ、四の五の言おう。勉強は後からいくらでもできるけど、若いときに四の五の言わないと、四の五の言えない大人になってしまうぞ。

ちなみに、「令和版ドラゴン桜」の放送に先駆けて、平成版ドラゴン桜の名言集みたいなのをたまたま見た。なるほど、ドラゴン桜はすばらしい名言がいっぱいあるらしい。人気があるわけだ。

だけど、それはマンガだからだ。「リアルドラゴン桜高校」は名言など残さず、「勉強しろ」しか言わなかった。現実は厳しいのだ。

ネットで何と言われようと構わない

ネットやSNSをしていると時々、汚い言葉で噛みついてくる輩がいる。もはや社会問題だ。

だけど、僕はネット上で何言われようが、まったく気にしない。

「言いたい奴には言わせておけ」の境地だ。往々にして向こうがイキってカラ回ってるだけなので、犬が吠えているのと大して変わらない。特にこちらから何かすることはないし、何を言われても気にしない。犬に吠えられたからと言って、いちいちその内容を吟味して落ち込むことなんてない。

もちろん、いくら何でも面と向かって言われればさすがにへこむ。相手が顔見知りであったらなおさらだ。それは真摯に受け止め、本気で反省します。

だが、ネット上で顔も名前もわからない様なやつだったら、別になに言われてもどうでもいいや、と思っている。

すなわち、「言いたい奴には言わせておけ」というわけだ。相手がそれで気が済むなら、好きなだけ言えばいいじゃないか。いちいち耳は貸さないけど。

そして、黙って通報&ブロックである。

こういうのは、「反論しないと負け」「反論できないと負け」ではない。

「ムキになった方が負け」だ。弱い小型犬ほどよく吠え、明らかに強そうな大型犬ほど以外におとなしいものだ。

こっちが相手にしてないのに、やたらとムキになって吠えたてるような奴は、基本的に小型の室内犬だと思うようにしている。

室内犬はよく吠える。でも、室内犬だから広い世界を知らない。野生の力関係もわからない。室内犬がやたらと元気なのは、彼らが室内で飼い主にかわいがられながら暮らしているからだ。

本当に強い大型犬は、やたらに吠えたりはしない。強いから、余裕があるのだ。

「人間にネットで罵詈雑言を吐かれた」と思うから腹が立つのであり、「ガラスの向こうで室内犬がやたらと吠えてる」という風に思えば、途端にかわいく思えてくる。そして3日もすれば、何を言われたかすら思い出せなくなる。

室内犬に吠えられたからと言って、ムキになって本気で蹴っ飛ばしたりしたら、さすがにかわいそうだ。だから特にやり返したりはしない。

だけど室内犬の皆さんはたいてい、「やり返さないと負け」「逃げると負け」「反論しないと負け」と思っている。だからこそ、蹴っ飛ばそうが踏んづけようが、吠えて噛みつくことをやめない。

そんな室内犬にかまってあげるのはめんどくさい上に、時間の無駄だ。蹴っ飛ばそうが踏んづけようが首の骨を折ろうが、彼らはけっして負けを認めない。だからと言って、息の根を止めてしまうのは大人げない。

めんどくさいので、室内犬はブロック&スルーして、勝ち星を譲ってあげよう。何を言われようが「はいはい、その通りですよ、悪かったね」と軽く受け流す。大丈夫。室内犬に勝ち星を譲ってあげたぐらいじゃ、大型犬のプライドは傷つかない。本気で戦えば大型犬の方が強いのは、誰の目にも明らかだからだ。

いくら吠えても怖くないから、気が済むまで好きなだけ吠えなさい。時間がもったいないから、かまってあげないけどね。

根性なんてものはない

二度目の緊急事態宣言も、少し終わりが見えてきた。

するとまた街中に人が増えたとの報道が流れる。「自粛疲れ」ってやつらしいね。

たかだか一か月二か月のひきこもりにも耐えらないだなんて、根性が足りない! 人の命にかかわる問題だというのに、 何がひきこもりはストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……と強い口調で言ってみたのには、わけがある。

だって、これまでは「ひきこもり」の人たちが、こういう「根性警察」みたいな人の餌食になっていたじゃない。

外での社会生活に耐えられないだなんて、根性が足りない! みんな我慢してちゃんと働いてるのに、何がお外はストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……って。

今まで、「健全な社会人」から「ひきこもり」が言われ続けてきた言葉。その「言われ続けた側」と「言い続けた側」をひっくり返しただけである。

今まで「ひきこもりは根性がない」と言われ続けてきたのに、状況が一変してステイホームが推奨されるようになると途端に、「ずっと家にいるのはストレスが溜まって無理」とか言い出したのだ。おどろきのてのひら返しである。

僕ら「ひきこもり族」にとって、この程度のステイホームなんて苦行のうちには入らない。「気づいたら3日間、全く外出しなかった」など、全くの余裕。そもそも海外のロックダウンとは違い、散歩やジョギングは認められている。それでも耐えられないだなんて根性がないのはどっちだよ、という話なのだ。今まで「ひきこもりは根性がない」と言っていた輩は、頭を丸めて謝罪会見を開くべきじゃないか。

と、ここでふと思う。

かたや根性がないから外の社会に耐えられない。

かたや根性がないからひきこもり生活に耐えられない。

じゃあ、根性があるやつとは一体どんな奴なんだろう。

もしかしたら、根性だなんてものは実はどこにも存在しなかったんじゃないか。

根性があるから外での仕事のストレスとかに耐えられる!と思ってた人たちが、おうちのストレスにあっさりと屈し、じゃあ、おうちのストレスに耐えられるひきこもり族が根性があるのかと言ったら、彼らはおそとでのストレスに耐えられない。

ならば、根性とは何ぞや。根性がある人とは何ぞや。

僕らが今まで「根性があるから耐えられる!」「我慢できないのは根性が足らないからだ!」と思ってたことは実は、「根性」じゃなくて「相性」の問題だったんじゃないか。

人によって耐えられるストレスと耐えられないストレスが違う。ある人にはいくらでも耐えられるようなストレスも、ある人は全く耐え得られない。これは「根性」じゃなく「相性」だ。

僕が子供のころにやっていたゲーム、まあポケモンなんだけど、あのゲームには「相性」があった。みずのポケモンはほのおに強いけどでんきに弱い、くさのポケモンはほのおに弱いけどみずに強い、みたいな。だから状況状況に合わせて最も相性の良いポケモンを選ぶ。

ポケモンに限らず、いろんなゲームに「相性」があって、相手との相性を考えて戦略を立てる。

ゲームと同じで、どんな仕事にも何かしらのストレスがあって、ストレスには人によって相性があるというのなら、それぞれが相性にあった仕事をすればいい。相性の悪いストレスの仕事を無理にするべきじゃない。

ある人には苦痛でしょうがない仕事を、別になんとも思わない相性の良い人がいるのだから、その人に任せればいいじゃない。

ゲームだと子供でもやってることなのに、不思議なことに、現実世界では「人によってストレスには相性がある」という事を、みんなすっかり忘れてしまうらしい。

たいしてヒットしていないアニメを応援する奴

たいしてヒットもしていないアニメをずっと追いかけている。

たいしてヒットしていないのだから、残念だけど、爆発的な人気はない。

でも、「根強い人気」というものはある。

たいしてヒットもしてないけど、大コケしたわけでもないので、ファンの数はそれなりにいて、その一人一人が作品に、結婚指輪を送りかねないくらい熱い思い入れを持っている。

かくいう僕も、その一人。

たいしてヒットもしてないけど、ファン一人一人のマグマのような熱意を集めて、細々と新作がつくられている。

爆発的にヒットしたアニメだったら、ほっといても新作がつくられるだろうけど、たいしてヒットしてないアニメで、細々とでも新作がつくられ続けているのは奇跡である。

そして、ほっとくともう新作がつくられないかもしれないから、必死になって応援するわけだ。

もしかしたらこの「たいしてヒットしていない」「ファンの数はそこまで多くない」というのが重要なのかもしれない。

たとえばすごく面白いアニメがあって、実際に「面白い」という感想を抱いたとして、

そのアニメが爆発的な人気で、誰もかれもが面白いと言ってるのを見ると、僕はかえって興ざめしてしまう。

「なんだよ、僕だけの『面白い』じゃなかったんかい」と。

ラブレターだと思って大切に読んでた手紙が、実はダイレクトメールでした、みたいながっかり感。

むしろ、「みんなに知られている」「みんなが好き」という時点で、なんだか価値が少し下がってしまったような気がするのだ。

もしかしたら、「みんなに人気があるもの」というのは、「ずば抜けて質が高い」というよりは、「とりあえず、ハズさない」ぐらいのものでしかないのかもしれない。

たとえば、ファミレスの料理。みんなに人気のファミレスの料理は、メチャクチャおいしいわけではないけれども、「クソまずい!」という事もない。とりあえず、ハズさない。

一方、「マイナーな名店」探しは骨が折れる。もしかしたら、大ハズレの店に行ってしまい、「これだったらファミレスに行けばよかった」と後悔するかもしれない。

コンビニのお弁当も、チェーンの居酒屋も、駅前のマックも、人気のアニメも、流行の音楽も、高視聴率のドラマも、ずば抜けて優れているのではない。「とりあえず、ハズさない」。

もちろん、「とりあえず、ハズさない」というのも、すごいことだ。「誰にとっても70点の面白さ」というのは、簡単にできることではない。

だけど、それよりもさらに30点面白いものがどこかにまだあるのだ。ほかの人にとっては20点でも、自分にとっては100点の何かが。

そして、それは不思議なことに、本屋の「おすすめです!」と書いてある棚や、CDショップの「今、人気です!」と書かれている棚には、置いていないのである。

自分だけの名作に出会うのは、ほとんど運任せだ。放送されているアニメを全部チェックして、そんなオタク生活を何年も続けてようやく巡り合うこともあれば、何も知らずに深夜にたまたま見たアニメがものすごく面白くて、なんてこともある。いつ、なぜ、どうやって巡り合えるかを私たちは誰も知らない。まるで縦の糸と横の糸が織りなすように……、あ、これ、中島みゆきの「糸」だ。

一つわかることがあるといえば、人気や他人の評価に頼らず、自分で探さなければいけないってことだろう。

願わくば、僕がつくる作品も、誰かにとっての「隠れた名作」でありたい。

webライターはもう夢を見れる仕事じゃない

webライターという仕事はもはや泥船。沈むのも時間の問題だ。

そう判断してwebライターをやめて1年ほどが経った。そんなある日まとめサイトの大手「NAVER」が終了するとのニュースが入った。

こういうまとめサイトというのもwebライターの巣窟の一つであり、その中でも大きなサイトであったNAVERが終わるとなると、いよいよもってwebライターの仕事が危なくなったなぁと感じる。

いずれはAIによってwebライターなんて淘汰されるのだろうか。だが、当のwebライター達はそのことには楽観的だ。「量をこなす」という点で人間はAIにかなわないが、「質の領域」ではまだまだ人間に分があるという論調が目立つ。

だけど、残念なことに、webライターに質など求められてはいない。求められているのは量だ。

僕がwebライターの仕事が泥船だと見切った理由もそこにある。僕は幸いにも取材や執筆にじっくりと時間・お金をかけられる環境にいたが、そんな仕事があるのはほんの一握りの幸運なものだけだ。

webライターが携わる案件のうちのほとんどが、求められているのは質よりも量である。流行りにのっかった記事を、手軽に、大量に作ること。それがwebライターに求められている。

そういう仕事しかないのは末端だけで、トップのライターは質の高い記事を求められている、というのならまだ救いがある。だけど以前、年収ウン百万を自称するwebライターの記事を読んでみたのだが、驚くべきことにそこで語られていたのは、「とにかくスピード勝負。集中して記事をたくさん書く」という、「質より量」の権化みたいな話だった。

トップから末端に至るまで、求められているのは質より量なのだ。

たとえば、「新橋の居酒屋を10件紹介する記事」という案件が、報酬わずか400円で募集されている。当たり前だが、わずか400円の予算で10件の居酒屋を食べ比べしたら、大赤字だ。下手したら、交通費にもならない。取材などせず、ネットで調べて書くしかないのだ。

さらに、400円の記事を1時間かけて書いていたのでは、時給400円となり、ライターの利益にならない。これを時給800円、1200円とするには、このようなお手軽記事を効率よく量産していかなければならない。

手っ取り早く記事を書くにはどうすればいいかとなると、すでにネット上にあるブログなどのサイトをコピペして組み合わせるしかない。

どこのクライアントも一応「コピペは厳禁です」と言っているのだけれども、コピペするしかないような金額しか渡さないのであれば、コピペするしかない。

良識あるライターはここで「こんな仕事できるか」と離れていくのだが、それでもこういった案件がなくならないのは、400円の記事をコピペで短時間で仕上げ、それを大量に作って利益とする悪質なライターが後を絶たないからだ。

それにしてもどうして、ネットでは質よりも量が求められるのだろうか。

ウェブサイトは記事を読んでもらって、広告をクリックしてもらって、初めて収益が発生する。それでも、8割近くが月数万円にしかならないという。

個人ならそれでも良いかもしれないが、webライターなんぞを雇うのはたいていは事業として行われる。事業として考えると、月数万円は到底足りない。

事業の収益を上げるにはどうすればいいのか。

記事の質を上げるのははっきり言ってムダである。どれだけ文学的な記事を書こうとも、どれだけ入念な取材に基づいた記事を書こうとも、広告をクリックしてもらわなければ1円にもならない。サイトの記事の質が向上したからと言って、収益が増えるわけではないのだ。

とにもかくにも量である。流行りに乗っかって検索されやすそうな記事を量産するしかないのだ。

こういう戦略は、ビジネスとしてはまっとうな考え方なのだろう。「こだわりの記事を、じっくり、数を厳選して」なんてことをやっていては、ネットで収益は上げられない。

だけど、ビジネス的な効率だけを優先して、粗悪品を大量生産するようなビジネスは、いずれ行き詰まる。特に「クリエイティブ」や「エンタメ」などと呼ばれる業界は、よその業界よりもそれが顕著に表れる。NAVERやWELQがその証明だ。

「商業主義」と「芸術家肌/職人気質」はビジネスの両輪である。どちらに傾きすぎてもいけない。職人気質に偏りすぎたビジネスは売れないし、商業主義に偏りすぎたビジネスは粗悪品をばらまくようになる。

今のwebライティング業界は商業主義に偏りすぎている。

つまるところ、もうwebライターは夢を見れるような仕事ではなくなったのだ。ここでいう夢とは「お金を稼ぐ」という夢ではない。「良い作品を作る」という夢だ。

数年前、クラウドソーシングという働き方が脚光を浴びたときは、確かにそこに夢はあった。だけど、もはやそこに夢は残っていない。沈むのを待つだけの泥船なのである。

「どうせお前にはわからない」

「どうせお前にはわからない」

「あんたなんかに私の何がわかる」

拒絶の常套句としてしばしばこのフレーズが使われる。

お前に私の苦しみなどわかるわけがない。

お前のような人間に俺のような境遇が理解できるわけがない。

自分の苦しみを知らないような奴が、自分と境遇の違うやつが、えらそうにアドバイスするんじゃない。

そうやって、他人のアドバイスなどを拒絶するわけだ。

だが、冷静に考えると、このフレーズは変である。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「私の苦しみや境遇をわからない・経験していないやつに、何か言われたところで、私の悩みは解決できないんだから、黙っとれ!」という考えがあるはずだ。

ならば、同じ苦しみを経験していれば悩みを解決できるというのか。同じ境遇の人間なら悩みを解決できるというのか。

もしそうならば、その人の悩みを最も適切に解決できる人間は「その人と全く同じ苦しみを味わったことがある人」や、「その人と全く同じ境遇・経験がある人」ということになる。

だが、自分の苦しみはしょせん他人にはわからない。他人の苦しむさまを見て「苦しそうだなぁ」と思うことはあっても、他人の苦しみは他人にはわからない。

つまり、自分の苦しみを感じ取れるのは自分だけ。自分の苦しみを最もよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

境遇や経験についても同じことが言える。似た境遇や似た経験ならあるだろうが、「まったく同じ境遇」「まったく同じ経験」の人間は存在しない。

兄弟姉妹だったら同じ境遇や経験をしているかもしれないが、人は同じ境遇・経験でもそのとらえ方や考え方で解釈が大きく異なるので、「まったく同じ」ではない。

つまり、自分の境遇や経験を誰よりもよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

さて、話を「おまえに何がわかる!」というフレーズに戻そう。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「自分の苦しみがわからない人間、自分と同じ経験・境遇ではない人間には、自分の悩みが解決できるわけがない」という考えがあるのだった。

ということは、自分の苦しみをよくわかっている人や、自分と同じ経験・境遇の人なら、自分の悩みを解決できるかもしれないということだった。

だが、自分の苦しみを最もわかっているはずの自分が、自分の経験・境遇を最もわかっているはずの自分が、自分の悩みの解決策がわからないから、人は悩む。

ということは、「おまえに何がわかる!」というお決まりのフレーズは、見当違いだった、ということになる。

その人があなたの境遇が違ったり、同じ経験を持たないからと言って、あなたの悩みを解決できない、とは限らないのだ。

僕は、悩みを相談するときは基本的に「真剣に答えてくれる人」を選ぶ。たとえその人が、その悩みを経験していなかったとしても。

逆に、経験豊富でも真剣に答えてくれない人には相談できない。

例えば恋愛相談をするとして、とてつもなく恋愛経験が豊富な人がいたとしても、面白半分で答えたり、相談者の人生を真剣に考えない人間では意味がない。ならば、恋愛経験がなくても、ちゃんと真剣に答えてくれる人に相談したいのだ。

リア充だと確認しないと気が済まない

新型コロナウイルスの影響で、緊急事態宣言が出て、外出自粛要請が出て、半月近くがたった。

都心はすっかり人がいなくなった。正月だってそこそこの数の人がいたのに。

一方で、神奈川の湘南・江の島は、なぜか大勢の観光客でにぎわい、地元の人たちは戦々恐々としているらしい。どうも、神奈川県外からの観光客が多いという噂。

……それにしても、なぜ江の島? 九十九里浜や高尾山じゃダメなのか?

調べてみると、九十九里浜や高尾山に行く人もいるにはいるみたいだが、江の島ほど問題にはなっていない。

なぜ湘南? なぜ江の島?

そもそも、なぜそんなに外出したいんだろう? これほどネット技術が発達した現代、家で引きこもって遊ぶ方法なんていくらでもあるのに(それも、外出するよりはるかに安上がり)。オンライン飲み会なんておもしろいじゃないか。

家にずっといるのがストレスだというなら、歩いて行ける川や公園にでも行けばいい。散歩は自粛を求められていないし、いい運動になる。なのになぜ、わざわざ県外から車に乗って湘南・江の島に行くのか。

ここで一つの仮説を提示したい。

彼らは外出したいのではない。遠出がしたいのではない。旅行がしたいのではない。

「自分はリア充である」と確かめたいだけなのではないか。

なぜ、ずっと引きこもってられないのか。

なぜ、近所の川や公園では満足できないのか。

それでは自分が「リア充である」と確かめられないからだ。

だからわざわざ、家族や友達、恋人と連れ立って、湘南や江ノ島に行って、観光したりサーフィンしたりおいしいモノ食べたり写真撮ったりするのだ。湘南・江の島エリア。関東地方でこれほどリア充のにおいがするスポットがあるだろうか。

……と書くと、なんだか唐突な気もする。なんでいきなりリア充の話やねん、と。

だけど、「人は自分がリア充だと確かめないと生きていけない」というのは、僕にとっては唐突でも何でもなく、数年前から考えていたことだ。

なぜ、あちこちでいろんなイベントが開かれているのか。

なぜ、わざわざお金や時間を費やしてまで、イベントやパーティに参加するのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真を撮るのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真、食べたランチやディナーの写真をSNSにアップしたくなるのか。

なぜ、他人に「自分はリア充である」とアピールしたくなるのか。

その答えはただ一つ!

彼らは、他人に向かって「私はリア充です」とアピールしているのではない。

自分に向かって「私はリア充なんだ。私はリア充なんだ」と確かめて、言い聞かせているからだ。

どういうわけか人は、自分はリア充であると、自分自身に言い聞かせ、確認しないと気が済まないらしい。

へたしたら、「なぜ友達を作るのか」「なぜ恋人を作るのか」「なぜ結婚するのか」「なぜ家を買うのか」「なぜ車を買うのか」なんて言うことも実は、「自分でそう望んだから」ではなく、「自分はリア充だと確かめたいから」なのかもしれない。少なくとも、「友達を作る」「カレシ・カノジョを作る」というときの「作る」という表現に僕は違和感を感じる。人はプラモじゃねぇぞ。

人は、自分がリア充だと確かめないと気が済まない。自分がリア充ではないという現実に耐えられない。

だから、家でじっとしていることに耐えられない。誰とも会わず、どこにも行かず、週末を家でじっとして過ごす。こんなリア充からかけ離れた生活には耐えられないのだ。

というわけで、人は湘南や江ノ島に殺到するんじゃないか。その根底には「人は自分がリア充であると確かめないと気が済まない」という、どうしようもない性が隠れているのではないか。

あくまでも個人の見解、仮説です。

コロナの情報をあさらない

「コロナ疲れ」という言葉があるらしいけど、その実態はもしかしたら、ネット疲れ・SNS疲れの延長ではないのか。

そもそも、感染も発症もしてないウイルスに「疲れる」というのも変な話じゃないか。

みんな、実はコロナウイルスに疲れたのではない。コロナウイルスに関する「情報」と、それを調べるためのパソコン、SNS、スマートフォン、テレビのニュースに疲れているのだ。

そんなコロナ疲れしたそこのあなた、もしや丸一日、コロナに関する情報を漁ってやいませんか?

不安からいろいろ調べたくなる気持ちもわかるけど、むしろ逆効果じゃないかしら。

コロナが不安だからいろいろ調べる。でも、調べたところで不安を煽るような情報しか見つからない。結果、ただ不安が大きくなっているだけ。その不安を解消したくてまた調べる。悪循環だ。

だったらいっそ、勇気をもって情報を遮断したほうがいい。

コロナに関する情報を漁ってないと不安になるかもしれないけど、漁ったって不安が大きくなるだけだ。

そして、不安なんていくらため込んでも、なんの役にも立ちやしない。

大事なのは不安じゃない。警戒心だ。

コロナに全く不安を抱いていなくても、警戒心をMAXに働かせておけば、冷静に的確な対処ができる。

ならば、不安を煽るような情報は遮断しよう。

そして、最大の警戒心を持って、正確な情報を必要な量だけチェックする。必要以上の情報には触れない。

そうやって情報を制限することで、デマにも踊らされなくなる。

デマというのは巧妙に信じ込ませようとするから、一度出くわすと見抜くのはなかなか難しい。

でも、触れる情報の量を制限すれば、そもそもデマが回ってこない。触れる情報の絶対数が少ないのだから。

たとえば、「10の情報のうち1つがデマである」という状態と、「100の情報のうち10個がデマである」という状態を比べてみよう。

どちらも、デマが含まれている割合同じ。前者は注意すればたった1つのデマが見抜けるかもしれない。だけど、問題は後者。90の真実と10のデマを完璧に見分けることはまず無理だ。

触れる情報の量が増えれば、デマに行き当たる数も増える。デマの数が多くなれば、見抜くのは困難になる。

情報を漁る前に、まず落ち着いて考えてみよう。大量の情報を漁ったところで、自分にそれを処理する能力があるのか、と。

あなたが毎日、新聞を5紙取って読み比べてる、そんなレベルの「情報猛者」なら、大量の情報を漁っても適切に処理できるかもしれない。

でも、一般人は違う。大量の情報から真贋を見極めるスキルも、専門知識も、情報を処理して本質を見抜く眼も持っていない。

僕は、どれも持っていない。だから、自分の処理能力を超える量の情報には触れない。制限をかける。僕のように情報処理に疎い人間こそ、実は触れる情報量に制限をかけるべきである。

そうやって情報に制限をかけることで今度は、「なら、少ない情報の中で必要な情報を補うには、どこを見ればいいか。何をチェックすればいいか」という方向に頭が働く。

では、少ない情報でも必要量を的確に補うには、どんなメディアが良いのか。

ネットはダメだ。ネットにはチェック機能がない。大半のデマはネットで出回る。

信頼置けるニュースサイトもあるが、今度は記事の後ろに「あわせて読みたいニュース」なんて余計なものが出てくる。こんなのいちいち目を通していたら、不安が増すだけだ。

テレビはネットと違って正確なな情報を提供してくれる。

だけどテレビは、話が長い。

「本日の感染者は何人です」とだけ言ってくれればいいのに、町の様子とか、海外の様子とか、深刻そうな出演者の顔とか、不安を煽るような追加情報を延々と流している。テレビを見るなとは言わないけど、見る時間はある程度制限しないと、不安が増すだけだ。

そしてラジオ。ラジオも公共放送であるため、信頼できる情報を教えてくれる。

そして、ラジオのニュースは時間が短い。

局によって違いはあるけど、基本は1時間ごとに2~3分だけ。その中で4,5個のニュースが伝えられるわけだから、1つのニュースは1分以下。正確な情報が簡潔にまとめられている。

しかも、テレビのニュースと違い、同じニュースを繰り返したりしない。2時のニュースでいった内容は、3時のニュースでは言わない。常に最新情報しか流さないのだ。

ネット、ラジオ、テレビ、便利なメディアは数々あれど……「正確」「簡潔」「最新」の条件を満たすのはラジオの特性…。

おまけに天気予報と交通情報までついてくる。

災害においてラジオこそが最強のメディアだ!

「フォロワー数=ファンの数」ではない

100日後にワニが死ぬ漫画が、最終回後に炎上してしまったらしい。

それも内容とは関係なく、終了後の商業展開が露骨すぎて、さらにブラック企業で有名な電〇通が絡んでいたともうわさされたのが原因らしい。作品の内容とは関係ないところで、というのが何とももどかしい。

たしかに、商業的な展開とは無関係と思っていた作品が、終了後にこれ見よがしに商業展開を始めたら、興ざめするのも気持ちはわかる。

とはいえ、人気が出たものに尾ひれはひれがつくのは当然のことだし、電〇通の噂はあくまで噂だし、何か確固たる理由があって炎上したというよりは、どうにも感情論でしかないような気もする。

気にする人は気にするけど、気にしない人は気にしない。気にしない人は気にしないけど、気に食わない人は気に食わない。そういう微妙な問題。

一説には100日で200万人ほど、作者のフォロワーが増えたのだというが、今回の騒動を見てみると、このフォロワー数を人気のバロメーターだと考えるには、いささか疑問が残る。もしも彼らがファンであるならば、はたしてこんなに批判されるだろうか。

今回の騒動で言えること。

ツイッターのフォロワー数や、you tubeのチャンネル登録者数、それは決して「あなたのファンの数」ではない。

ましてや、何をやっても誉めてくれる「あなたの信者の数」でもない。

「あなたを監視する人の数」である。

「登録者数10万人」は「10万人に人気がある」ではない。「10万人がお前を監視している」である。

「フォロワー100万人」は「100万人がお前の一挙手一投足を監視している」という意味だ。

監視だから、監視する側の意にそぐわない行動をとった時は、ただでは済まさない。

たとえるなら、株主が一番近いのかもしれない。

SNSをフォローしたり、動画を見たりするのは株を買うようなもので、株主に利益を出している限りは、応援してあげる、というものだ。

その代わり、不利益を出したらただじゃすまさない。引きずりおろしてやる。そういうものである。

スポーツのファンとか、そういうのが露骨かもしれない。勝っているときは声を涸らして応援するけど、負け続けると怒れる暴徒と化す。

ただ、スポーツの場合は、勝つか負けるか、結果がはっきりしているから、「何をしたらファンが怒るか」もわかりやすい。要は、負けなきゃいいねん。

だが、マンガとか、SNSとか、you tubeとかと言ったコンテンツは、「何をやってはいけないか」がわかりづらい。

わかりづらいけど、どこかに地雷があって、知らずにその地雷を踏んでしまうと「お前、何やっとんねん!」と炎上してしまう。

なぜなら、フォロワーは「良い作品を作ってくれるなら、多少のことは目をつぶろう」というファンではない。

「作品の良し悪しはもちろん、その周辺状況も含めて採点し、満足させてくれるなら称賛するけど、満足できなことをしたらただでは済まさない」と、監視をしている人たちなのだから。

「監視する者たち」を満足させるには、「自分が何をしたいか」「自分が何を作りたいか」ではなく、「どうしたら監視する者たちを満足させられるか」「どうしたら監視する者たちを黙らせられるか」を考え、そのための行動をし続けなければならない。さらに、どこかに隠れている地雷を探して、踏まないように注意しないといけない。地雷を踏んだとたんに、監視する者たちは、脱走兵を見つけたかのごとく牙をむく。

だから、「フォロワー数が増える」「登録者数が増える」というのは、「お前を監視する者が増える」という事であり、あまり手放しで喜べる話ではない。

情報をとりすぎない

現代は情報氾濫の時代で、情報の取捨選択が大事だと言われる

情報が氾濫しているのはわかる。

……「情報の取捨選択」って何だよ。

子供のころから何度も「情報の取捨選択が大事」と言わた気がするが、それが何かはあまり教えてもらっていない。

たまに、フェイクニュースの話に触れて「情報の取捨選択が大事で……」みたいなことは聞くが、それは「情報の取捨選択」というよりもむしろ、「嘘情報に騙されるな」ではないか。

「情報の取捨選択」とは何か。それは「情報をとりすぎない」ということなのではないか。

評論家の外山滋比古は、知識をとりすぎてかえって考えが凝り固まり、思考力が落ちてしまうことを「知的メタボリック」と批判した。情報をとりすぎるとかえって思考力が落ちてこの知的メタボリックになってしまう。それを避けるために必要なのが「情報の取捨選択」ではないだろうか。

「知的メタボリック」とはよく言ったもので、知識や情報はカロリーと同じで、行動につなげて消費しないと、どんどん太って、不健康・不健全になってしまう。

例えば、SNSなんぞを見てると、政治の話しかしない人がいる。そういう人の文章はほぼ例外なく、物事を0が100か、正義か悪か、敵か味方かの二項対立でしかとらえていない。

自分と同じ意見は正義。違う意見は悪。悪は徹底的に叩く。グレーゾーンとか、折衷案とかがない。

頭が固い知的メタボリックに陥っているのだ。

たしかに、政治の知識や情報を身につけることは良いことだし、おもしろい。知れば知るほど、自分が賢くなったような錯覚に陥る。

いわば、「政治の話」は高カロリーな情報だ。ラーメンやとんかつ、甘いお菓子のようなものだ。好き好んで摂取して、どんどん太っていく。情報の暴飲暴食だ。

だが、食べたぶんは動いて痩せなければならない。

情報は取りすぎるとどんどん太って、知的メタボリックになってしまう。その分、その情報をもとに行動につなげて、動いていかなければならない。これまた、カロリーと同じだ。

ところが、「政治の情報」を行動につなげられる機会というのは限られている。

大半の人はたまにあるかないかの投票に行くぐらいだ。

投票は寄り集まれば国を動かす大きな力、民主主義の根幹だ。だが、一人の行動に還元すると、投票所に行って名前を書いて表を入れるだけ。実はたいした行動をしていない。

そう、「政治の情報」は高カロリーなうえ、それを行動につなげて消費する機会が、とても少ないのだ。

結果、高カロリーな情報をどんどんため込んで、どんどん知的メタボリックになっていく。そうなると、SNSで政治ネタをつぶやいて、賢いふりでもして発散するしかない。

では、知的メタボリックにならないためにはどうすればいいのか。

一つは政治家になったり活動家になったりして、情報をどんどん行動につなげることだ。もちろん、誰でもできることではないし、むしろ、おすすめしない。

そして、もう一つは、高カロリーな情報をとりすぎないように注意することだ。

これこそが、情報の取捨選択である。

高カロリー・ハイリスクな情報はなるべく避け、自分の行動に繋がっていく、栄養価の高い情報を選んで取り込んでいくのだ。

政治・芸能・スポーツのニュース、SNSのトレンド……、これらは高カロリーな情報なので、おもしろかったり、賢いつもりになれたりするが、ちゃんと自分の行動につながるかどうか、しっかりと注意したほうがいい。

だから、僕がニュースを見ていて何よりも重要な情報だと一番注目しているのは、「明日の天気」である。明日の自分の行動に直結する情報なのだから。