アニメのタイトルは内容がわからないくらいがいい

7月に入って、また新しいアニメが始まった。

たぶん、この「新しいアニメのチェックの仕方」だけでもアニメオタクごとにいろんなやり方がある。

世の中には、1話目だけは片っ端から見る、という殊勝なオタクもいるそうだ。

僕はと言うと、前情報を一切入れない。全くの先入観なしで見たいからだ。

新しいクールが始まったら、テレビの番組表機能を使って、TOKYO-MXの「その日の新番組」を、タイトルだけチェックする。タイトルだけだから、どんな絵だとか、どんな設定のお話だとか、どんな声優さんが出てるとか、どんな前評判だとか、そういうのは一切見ない。

そして、タイトルで乗り気になれないアニメは、もう見ない。

ここが僕のこだわりである。「タイトルにその作品のすべてが凝縮されている」

だから、タイトルにセンスを感じないアニメは、見ない。

そんな僕が思うベスト・オブ・タイトルは、アニメではなく、太宰治の小説「人間失格」だ。

わずか漢字四文字。いたって簡潔。すっきりしている。

文字数が少ないだけでなく、語感もいい。

それでいてインパクト抜群。

そして、このたった四文字のタイトルは、小説の内容を的確に表している。

ところが、なぜ「人間失格」なのかは、最後まで読まないとわからない。

短く簡潔、語感がいい、インパクトがある、内容にあっている、でも最後まで読まないとわからない。この5つを抑えたベストタイトルである。

さて、アニメだとベストタイトルはどれだろう、とあれこれ考えてみた。

アニメだと一番好きなタイトルは、「プリンセス・プリンシパル」だ。もちろん、作品としても大好きだ。

「人間失格」に比べると、長いタイトルだ。11文字もある。

だけど、それを感じさせないほど語感がいい。プリンプリンと韻を踏んでいるので言いやすい。

そして、アニメの内容にちゃんと合っている。このアニメは「王女」、つまりプリンセスが主要キャラクターなのだ。

そして、アニメの雰囲気にもあっているのだ。19世紀ぐらいのロンドンが舞台で、「プリンシパル」という単語と妙に合う。

そう、この「雰囲気にあってる」というのが結構大事だ。

タイトルを見ただけじゃ、どんなアニメなのかわからない。でも、なんとなく雰囲気は伝わる。

アニメの雰囲気に合っていると、内容を知った後でも「やっぱりいいタイトルだな」と思える。

そういう意味では、「ドロヘドロ」もなかなか好きなタイトルだ。

漫画原作のアニメなんだけど、タイトルだけじゃ、どんなアニメなのか、タイトルがどんな意味なのかわからない。

そして、アニメを見たあとでも、やっぱりタイトルの意味が分からない(笑)。泥もヘドロも出てこないんよ。

ただ、アニメの雰囲気にはメチャクチャマッチしたタイトルなんよ。「ドロヘドロ」なんよ、あのアニメ。意味わかんないけど。

毎回のように開始直後にテロップで「残酷な描写があることをご了承下さい」と出るのだけれど、直後に主人公がタクシー代を踏み倒すために運転手を殺害するシーンがあって、「主人公が残酷なんかい!」とテレビの前でツッコミを入れた。残酷なシーンと言っても、普通、敵がやることでしょ。

開始0秒で主要キャラの腕が血しぶきと共に切り取られ、数秒してから「残酷な描写が」とテロップが出たこともある。テロップがあと3秒遅かった。

シュールだけど面白いアニメなのでぜひ見てほしい、と思うのだけれど、今の説明で見たいと思う人はいるのだろうか。タイトルだけでなく、説明にもセンスが必要である。

そんなドロヘドロを描いた林田先生の最新作のタイトルは「大ダーク」である。小学生がつけそうなウソみたいなタイトルが逆に面白い。

小説「あしたてんきになぁれ」 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第31話 「桜、ところにより全力疾走」


桜前線はあっという間に都心を駆け抜けていき、花が散り、若葉が芽吹く。気づけば四月ももう終わりだ。

世の中は入学式だの新学期だのであわただしい季節だが、たまきたちの生活にはこれと言って変化はない。

たまきは相変わらずうじうじとひきこもっている。たまに絵を描きに外に出かけるくらいだ。

亜美は相変わらずふらふらしている。ふらっとどこかに行っては、ふらっと帰ってくる。まあ、大方どこぞのオトコのところに遊びに行っているのだろう。

志保は相変わらず、施設だバイトだデートだと、せかせかと忙しそうだ。

たまきの生活に、これと言って大事件は起こらない。強盗のおじさんに出会ったり、暴力沙汰に巻き込まれたりもしたけど、結局そこまでの大事にはなっていない。ましてや、ラブロマンスのような嬉しいハプニングも起きやしない。

人は生まれてきただけで奇跡なのだというが、たまきみたいな子はきっと生まれてきただけで運の大半を使ってしまい、残ったなけなしの運も、亜美と志保に出会ったことで使い果たしてしまったに違いない。

春になってちょっとだけ変わったことと言えば、ミチが久々に歌を作り始めたことだ。

昨年末の事件以降も、「楽曲」はちょいちょい作っていたのだけれど、それに歌詞をつけることはなく、ずっとラララと口ずさむだけだった。

桜の花が散りだしたころから、ミチはそれに歌詞をつけ始めた。家でノートに書いてきた歌詞を、公園でギター片手にメロディに乗っけて歌ってみる。実際に歌ってみると、単語とメロディの相性が悪いことがあって、その都度歌うのをやめて歌詞を書き直す。ちょっと歌ってはやめて、何か書いて、また歌っては途中でやめて、を繰り返しているので、はたから見るとこの人は公園で何がしたいんだろう、と思われていたかもしれない。

たまにたまきが横にやってきて、腰を掛ける。ミチは作りかけの歌を少し口ずさんでから、ちらりとたまきの反応を見るのだが、十六歳にしてポーカーフェイスを極めた彼女の表情から、歌のよしあしを読み取るのはかなり至難の業だ。たまきと一緒に暮らしている亜美と志保なら、たまきの表情を読み取れるのだろうか。

思えば、彼女が笑っているところを、ミチはあまり見たことがない。

思いっきり怒られたことならある。思いっきり泣かれたこともある。笑った顔もちょっとは見たことある。だけど、たまきと出会って一年弱、思い出のフィルムを紐解いてみると、その8割が無表情のたまきなのであった。

その日も、たまきはミチの横で黙って絵を描いているだけだった。やってきたときに「こんにちは」と言ったっきり、一言もしゃべっていない。

ふいに、ミチは演奏を止め、たまきの方を向いた。

「……なんかないの?」

たまきもミチの方を見る。

「……なんかって、なんですか?」

「曲の感想だよ。今の良かったよとか、もっとこうした方がいいとか」

曲の感想、と言われても、そもそも曲になってないのだからどうしようもない。歌っては止めてのくり返しだ。同じ単語のメロディをちょっとだけ変えて何度も歌う。歌詞になってない。単語、良くて一文である。そんなのに、どう感想を言えというのだ。

たまきは何も言わず、スケッチブックに視線を戻した。それを見たミチは再び声を上げる。

「なんかないの、感想」

「なにもないです」

「たまきちゃん、もっと他人に関心を持った方がいいよ」

……たまきの鉛筆を握る左手が、ぴたと止まった。

「……思ったこと言っていいんですか?」

「お、なんかあるの? どうぞどうぞ。エンリョなく」

ミチはニコニコしていたが、たまきは表情を変えることなく言った。

「私、ミチ君から絵の感想言ってもらったこと、ほとんどありません」

「あれ?」

ミチの表情が少しこわばる。期待していた感想と違う、というか、そもそも球種が違う球がとんできた。

「隣で絵を描いてるのに、ミチ君に絵の感想を言ってもらったこと、ほとんどないです。私からミチ君に感想を求めたこともないです。なのに、ミチ君は当たり前みたいに歌の感想を求めてきて、感想がないと周りに関心を持てとか言うの、おかしいですよね。おかしくないですか」

ミチは答えに詰まった。暖かな南風が吹いてきたが、ミチにはなぜか寒く感じた。

「いや、俺、絵のことなんてわかんないし……」

「私だって、歌のことなんてわかりません」

いよいよもって、ミチは答えに窮する。

「ミチ君のそういう、自分のことしか見てないところ、私、嫌いです」

そういうとたまきは立ち上がり、

「私、帰ります」

と言って、階段を上っていってしまった。空は雲が分厚く重なり、今にも雨が降り出しそうだ。

 

画像はイメージです

公園から駅へと続く地下道の中ほどで、たまきはため息をついた。

どうして思ったことを言うと、人とぶつかってしまうんだろう。

ひと月ほど前に亜美に思ったことを言った時も、さっきミチに思ったことを言った時も、もう少し言い方とかあっただろうに。

「やっぱり、私なんて嫌いだ……いなくなればいいのに……」

たまきはそうつぶやいた。自分に対して思ったことを言ってみたわけだ。つまるところ、たまきは自分に対しても他人に対しても、とことんネガティブなんだろう。

とぼとぼと歩いて「太田ビル」へと帰る。階段を上って、「城」の中へと入る。

「ただいまです……」

入り口のドアを開ける。すると、亜美の声が降りかぶさってきた。

「たまき、こんな時にどこほっつき歩いてたんだ!」

たまきの背筋がびくっとなる。と同時に、理不尽を感じる。普段はもっと外に出ろというくせに、たまに出かけたらどうして怒られなければいけないのか。

だが、亜美の顔を見てみると、語気が強いわりに顔がにやけている。本気で怒っているわけではなく、冗談で言っているようだ。たまきもこれくらい表情が豊かだったら、人とぶつからずに済むのだろうか。

無言のまま立っているたまきを見て、亜美は

「あれ? スベった?」

と始末の悪そうな顔をする。今度は志保が、困ったように言った。

「ほら、亜美ちゃんが大声出すから、たまきちゃん、固まってるじゃん」

たまきは「城」の中を見渡した。

なんだかいつもと少し違う、と思ったが、どうもいつもに比べて片付いているような気がする。ソファにおいてあったぬいぐるみとか、テーブルの上のテレビとか、床のビデオデッキとかが、ない。

「あの、テレビとかは……」

「ああ、衣裳部屋の段ボールに放り込んどいた」

そういえば、衣裳部屋にいつも、からの段ボールがおいてあったような気がする。何に使うのかわからないが。

「こういう時のための段ボールだからな」

「こういう時というのは?」

「とりあえずたまき、そこ座れ」

言われるままにたまきは、椅子に座った。

「さっき、下のビデオ屋の店長がここに来たんだ」

「城」の下の階には、ビデオ屋が入っている。そこの店長は亜美たちが「城」に住み着いていることを黙認している大人の一人だ。

「延滞してるビデオでもあったんですか?」

「あ~もしそうなら背筋が凍る話だけど、そういうんじゃないんだ。たまき、前にこのビルのオーナーが関西に住んでるって話しただろ?」

「しましたっけ?」

「したんだよ。で、たま~に東京にやってきて、ビルの様子を見に来るんだ」

たまきは黙って聞いている。

「それでさっきビデオ屋の店長のところに電話が来てな、何と今夜、東京に来るっていうんだよ。今夜か明日に、このビルの様子を見に来るって」

「じゃあ、私たちもあいさつ……」

「できるかバカ!」

そういえば、たまきたちはこの「城」を、不法占拠してるんだった。

「それでな、ないとは思うけど、もしかしたら、万が一、ここの様子を覗くかもしれないんだ」

「え……まずいんじゃないですか?」

「そう、まずいんだよ」

亜美は少し身を乗り出す。

「だから、今日と明日、ウチらはここにいない、ここには誰もいない、ってことにするんだ」

「それでテレビとか片付いてるんですね」

そこでたまきは不安げに、亜美と志保を見た。

「それで……私たちはどうすれば……」

「だから、ここにはいない、んだよ」

「それって……」

「外泊だよ、ガイハク」

「え……」

たまきの表情がこわばった。

「……今からですか?」

「そういう事だ。早ければ今日の夜にはここに来るかもしれないからな」

「じゃあ、三人でどこかのホテルに……」

「それはちょっと難しいかな」

そう言ったのは志保だった。

「あたしたち三人がどこかのホテルに泊まるのは……怪しまれるよ。春休み中とかならまだしも、若者が泊まるようなシーズンでもないし」

「だけど……、頑張って大学生くらいのフリすれば、それなら別にヘンじゃ……」

「お前がいちばん大人に見えないんだよ!」

とがなる亜美。たしかに、亜美はもうすぐ二十歳だし、志保も頑張れば大学生ぐらいで通用しそうだけど、たまきは十六歳よりも下に見られることが多い。三人だけで泊まりに行った場合、「なんか幼すぎない?」と一番怪しまれそうなのが、たまきなのである。

「それに、ホテルの受付で身分証明書とか求められたら困るでしょ? ……知らないけど」

実は三人とも、「ホテルの正しい泊まり方」というのを、よく知らない。

「じゃあ、どこに泊まるんですか?」

「ウチはとりあえず、テキトーに泊めてくれるオトコ探すわ。志保は結局、どうすんだ?」

「施設のシェアハウスがあるから、さっき電話したら今晩泊めてくれるって」

「なんだよ。ヤサオのところに行くんじゃないのかよ」

「ユウタさんにも都合があるから、そんな今日いきなり電話しても無理だよ。亜美ちゃんの都合のいいメンズと一緒にしないでよ」

「で、たまきはどうする?」

たまきは、表情も体もすっかり硬直している。

「……どういう選択肢があるんですか?」

「そうだな。ウチと一緒に、オトコのとこ泊まるか?」

「絶対に嫌です」

たまきは亜美の提案を固辞した。

「じゃあ、あたしと一緒に来る? 部外者でも一人くらいなら大丈夫だと思うよ」

志保の申し出にたまきは思案した。

亜美と一緒に行くことに比べればだいぶましだが、それでも、「施設のシェアハウス」というからには、たまきにとって初対面の人がいっぱいいるはずだ。

たまきにとって、一番苦手なのが「初対面の人」である。亜美と暮らし始めた時だって、たまきが衣裳部屋にこもったり、亜美の方が出かけてていなかったりで、実はそれほど接触が多くなかったからこそうまくやれた、というのもある。それは相手が亜美一人だったからだ。

「シェアハウスって、何人くらい住んでるんですか……」

「確か、4人だったかな。あ、みんな女性だよ。男性用のハウスは別にあるから」

「4人……」

完全にたまきのキャパオーバーである。たまきにとって、初対面の人と一緒に暮らせる上限は、0.5人である。たぶん亜美は、しょっちゅう出かけたりしてたからたまきにとっては0.5人扱いできたのだろう。

そう考えると、4人はあまりにも多すぎる。

「あ、あの、舞先生のところに泊まるって言うのは……」

たまきにはそこしか泊まるところが思い浮かばない。

「それがさ、先生、今、仕事の取材で海外にいるんだってよ。しばらくは帰ってこないって」

「海外……」

頼りたいときに限って、頼れる人の都合がつかない。つくづく自分は運に見放されてるんだなと、たまきは恨めしく思った。そういえば、お正月のおみくじも凶だった気がするが、細かいところは忘れてしまった。

「たまきちゃん、ほかにどこか泊まれるところある? 友達のところとか……」

友達なんて他にいるわけじゃないじゃないか。

一瞬だけ、ミチの顔が浮かんだ。だが、ミチは友達ではなくて知り合いだし、さっきのことがあるからちょっと気まずいし、そもそも、男子の家に上がり込んで泊まるだなんて考えられない。

「やっぱり、あたしと一緒にシェアハウスに来る?」

たまきはゆっくりと首を横に振った。現状ではそれが一番まともな案なのかもしれないが、やっぱり無理なものは無理なのだ。

「あ、あの……私……」

たまきは立ち上がると、恥ずかしそうに少し下を向いてしゃべった。

「自分で……泊まるところ……探してみます……。その……あてならあるので……」

 

画像はイメージです

たまきは都立公園に向かって駅のそばをととぼとぼと歩いていた。春にしては少し冷たい風が吹いてきた。

「探してみる」「あてならある」といったものの、本当はあてなんてほとんどない。

つまるところ、たまきは意地を張ってしまったのだ。

一晩だけ我慢すれば、知らない人だらけのシェアハウスに泊まることもきっと、できなくはないのだろう。

だけどたまきは、このまま志保の厚意に素直にあやかることはできなかった。

たまきは亜美と志保よりもちょっと年下で、だから志保はいつもたまきの世話を焼いてくれるし、亜美はたまきを引っ張ってくれる。二人にとってたまきは、友達であると同時に、共に暮らす家族であり、妹に近い存在なのかもしれない。

一方で、やっぱり二人はたまきにとっては友達だし、友達ならば対等な関係のはずだ。いや、よしんば血のつながった姉妹だったとしても、十六歳にもなって何から何までお姉ちゃんに世話を焼いてもらうというのはどうなのか。情けないじゃないか。もう十六歳なのに。

亜美と志保に頼らず、自分の寝床は自分で探す。これはたまきにとっての「ひとりでできるもん」「はじめてのおつかい」なのだ。そう考えると、たまきは自分がちょっぴり大人になったような気がした。思い浮かんだ番組名は妙に子供っぽいけど。

駅のそばで線路をくぐり、繁華街の人込みの中を歩き、地下道を通って、都庁の脇を通って、公園に入る。同じ日に一度公園に行って帰って、また公園まで戻ってきた。トータルで一時間近く歩いていることになる。たぶん、もう5キロぐらい歩いているのだろう。疲れて足が痛くなってきた。おまけに、風が強い。

公園内を歩き、仙人たちが暮らす「庵」を目指す。先程、ミチと一緒にいた階段のそばも通ったが、ミチはすでにいなかった。

「庵」とは、仙人たちホームレスが暮らす、いわばベニヤ板の塊だ。たまきの頭の中にある住所録に掲載されている、数少ない「住居」の一つだ。

たまきは少し離れたところから、「庵」を見ていた。複数のベニヤ板が張り合わされ、ところどころでブルーシートをかけて補強されている。

入り口の向こうにはたき火が見える。金属製の缶の中に、枝やはっぱを詰め込んで、火をつけているのだ。オレンジの炎が暗闇をほのかに照らしている。ちなみに、公園内に勝手に家を作ることも、たき火をたくことも、違法である。

ベニヤづくりとはいえ、一晩泊まるには申し分ない。雨も風もしのげるし、たき火をたいているので、室温も実は悪くない。

ただ問題は、ここで暮らすホームレスはみな男性ということだ。しかも、仙人以外のホームレスとはほとんど話したことがない。「知らない女性4人」でも無理なのに、「知らない男性がいっぱい」はもっと無理だ。

そんなことを考えていると、たまきの足が、彼女の無意識のうちに、「庵」から遠ざかり始めた。

すると、「庵」から誰か出てきた。たまきは慌てて引き返した。風がまた、少し強くなってきた。

 

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二十分ほどかけてたまきは、来た道を引き返して繁華街に戻った。足の裏がだいぶ痛くなってきた。こんなことなら、初めに「こっち」に行けばよかった。

「こっち」というのは、舞の家のことである。もちろん、さっき舞は海外に行ったと聞かされてはいたのだが、もしかしたら万が一、家にいるかもしれない、ということもあるかもしれない。

舞が家にいるかいないかは、たまきがピンポンを鳴らして確かめてみるまで分からない。たまきがピンポンを鳴らすまでは、「家にいる舞」と「家にいない舞」が重なり合った状態で存在し、たまきがピンポンを鳴らすことによって、はじめてどちらかに確定するのだ。自分で考えておいて、だんだんたまきにも何が何だか分からなくなってきた。

舞の住むマンションの前に立つ。舞の家には何度か泊ったことがある。ここに泊めてもらえるなら一番ラクだ。

インターフォンで舞の部屋の番号を押し、ピンポンを鳴らす。呼び出し中のランプがついたが、無言のまま、しばらくして消えた。

念のため、もう一度ピンポンしてみたが、やっぱり何の反応もなかった。

舞はいない、そんなことは最初からわかっていたのに、けっきょく自分は何をしたかったのだろうか。

たまきは頭の中の住所録をめくってみたが、うすい住所録にはもう何も書かれていなかった。

風がより一層強く感じた。

 

歓楽街の入り口にあたる、大通りの信号の前で、たまきは一人佇んでいた。

歓楽街前の横断歩道をたくさんの人が行きかう。ここにいる人たちはみな、帰る場所や泊まる場所がちゃんとあるのだろう。

たまきだけ、どこにも行くところがない。周りを見渡せばこんなにも建物があるのに、たまきがいていい場所はどこにもないのだ。なんだか、前にもこんなことを考えたような気がする。

今からでも志保に電話して、シェアハウスというところに泊めてもらおうかとも思ったけれど、さっき断ったのに、いまさらやっぱり泊めてくれなんて迷惑ではないのか。そんなことを考えると、どうしても公衆電話へと足が向かわない。

やっぱり前にもこんなことがあった気がする。つい二、三か月前だ。あの時は確かお金がなくて、「城」に戻れなくて、舞もどこかに行ってていなくて、そのあとどうしたんだっけ……。

そこでたまきは、住所録の最後のページに「スナック『そのあと』」という名前があるのを見つけた。

いや、本当は、最後のページにもう一つ住所が書いてあることに、とっくに気づいていた。気づいていたんだけど、「でも、男の子の家だし」と見なかったことにしていたのだ。

だけど、よくよく思い返してみると、ミチはたしかあのスナックの二階のアパートに住んでいて、同じアパートにはミチのお姉ちゃんも住んでいるという。

ミチのお姉ちゃんの部屋に泊めてもらえばいいのではないか。ミチのお姉ちゃんなら、たまきも知らない人ではない。シェアハウスとやらで知らない人に囲まれて、助けを求めるように志保の顔をちらちら見ながら一晩過ごすよりは、はるかにましだ。ミチのお姉ちゃんがたまきのことをネコ扱いしてくることだけが引っかかるけど、この際いっそネコをかぶってネコのふりして、今夜だけネコってことで泊めてもらうことはできないだろうか。

それがだめなら、閉店後のスナックに泊めてもらう、という手もある。スナックみたいな店で寝泊まりすることに関して、全国の十六歳の中で、たまきより右に出る者はいないだろう。

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、駅のはるか南、スナック「そのあと」へと向かって歩き出した。

 

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一度公園に行き、「城」に戻り、再び公園に行き、そこからまた歓楽街に戻り、今またそこからミチの家まで、1キロ以上ある道を歩いている。踏切を渡ったところで、たまきの足がそろそろ限界を迎えてきた。

おまけに、風がやけに強くなってきた。春先なのに、だいぶ肌寒い。

自販機でなけなしのお金でジュースを買って、休憩する。坂道沿いに高架が伸びていて、ミチの家はその高架のそばにある。

実は駅から私鉄に乗れば、この高架沿の上を電車で2分も走ればミチの家のすぐそばにある駅まで行けたのだけれど、たまきはそんなこと知らないし思いつきもしなかった。よしんば、思いついて電車に乗ろうとしても、ミチの家が何駅のそばにあって、どの電車に乗ればいいのかたまきにはわからない。結局、歩いていくしかないのだ。

ジュースを飲み終えると、たまきは再び歩き出した。気が滅入ることに、風は向かい風だ。

 

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「……メシ、なんにしよ」

ミチは部屋の天井を見つめながら、そうつぶやいた。お気に入りのジャケットとジーンズはハンガーにかけられ、ジャージ姿で寝転がりながらマンガを読んでいる。

料理をするのもアリだ。ミチはラーメン屋の厨房で働いているので、料理はそこそこできる。ただ、バイトで料理ばっかりしているので、プライベートで料理するのは逆にめんどくさい。

カップ麺にでもするか。その前に一服するか、とマンガを置いてたばこのケースに手を伸ばした時、

ピン……ポン……

と少し遠慮がちに呼び鈴が部屋に響いた。

「……え、誰?」

立ち上がるまでの間、頭の中の名刺ホルダーを調べて、誰か訪ねてくるような人がいたかどうか探すも、思い当たる節がない。ネットショッピングみたいな宅配の予定も、ない。仕送りしてくれる親もいない。

そもそも、ミチがここに住んでいることを知っている人は、限られている。いつもつるんでいるような人たちには、ここのことは教えていない。何人か女の子を、姉がやっている店に連れて行ったことはある。その時、店の二階に住んでいると話していれば、ここを訪ねることもできるだろう。だが、そういった女の子たちとも皆、すでに縁が切れている。

たった一人だけ、ミチがここに住んでいることを知っていて、なおかつ今も付き合いがある、というか、さっき会ったばっかりの女の子がいるが、その子の顔が浮かんでも、ミチは即座に「ないない」と打ち消した。

その子がときどき、下の店のランチタイムに、焼きそばを食べに来ていることは知っている。だけど、その子が姉の店を訪ねることはあっても、その上にあるミチの部屋を訪ねてくることなど、絶対にない。その子は大の人見知りで、特に異性慣れしてないのか、男性に対する警戒心は強い。

おまけにミチはその子から「キライです」と言われ続けているのだ。わざわざ部屋を訪ねてくることなんて、ありえない。

ピン……ポン……

再び呼び鈴が、申し訳なさそうに鳴った。ミチは前髪だけささっと直すと、ドアを開けた。

ドアの外に、これまた申し訳なさそうにたまきが立っているのを見たミチは、

「ええっ!」

と声を上げた。

一方のたまきは

「あ、あの……」

と自信なさげに言うと、軽く深呼吸してから、しゃべり始めた。

「すいません、その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって今日と明日、お店にいられなくなっちゃって、だから、その、すいません、あの、今夜だけでいいんで、あの、すいません、その、泊めてもらうことってできませんか……すいません」

たぶん、ここに来る途中の道で何度も練習したんじゃないか、そう思えるほど、たまきにしては早口だった一方で、練習したとは到底思えないたどたどしさだった。

一気に言い終えてからたまきは、ミチの目を見ることなく、こう付け足した。

「……ごめんなさい。いきなり来て、迷惑ですよね……。帰ります……」

そのままたまきは、ミチの反応を確かめることなく、ドアの前から立ち去ろうとする。

「いや、迷惑じゃない! 迷惑じゃないよ!」

ミチはたまきの腕を引っ張った。たまきが立ち止まる。

「っていうか、え、ちょっと待って、どういうこと? どういう展開、これ?」

突然の出来事に困惑するミチ。たまきは再び口を開く。

「その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって……」

「いや、それ、さっき聞いたから。つーか、その『いろいろあって』の部分聞きたいんだけど。ま……とりあえず……中入ったら?」

ミチは部屋の中を指さして、たまきを促した。

「え……あの……その……」

たまきは不安そうに部屋の中を見て、次に廊下の右左を見て、最後にミチの顔を見た。ミチもたまきの不安を察したらしい。

「いや、大丈夫だから! 変なこととか嫌なこととか、しないから!」

 

たまきは、生まれて初めて男の子の部屋に入った。

最初の印象は、「なんかにおう」。くさい、とはまた少し違う「なんかにおう」。

たぶん、ミチの部屋の生活臭に慣れてないだけだろう。よその家の麦茶が口に合わないように。

たまきは物珍しげに、部屋の中をきょろきょろと見渡した。全体的には散らかっている印象だ。床は畳張りで、平積みになったマンガが置かれ、脱ぎっぱなしのシャツが放置されている。少し年季の入った布団が敷かれていて、きっと万年床というやつなのだろう。プラスチック製のテーブルの上には、お昼にでも食べたのか、コンビニ弁当の容器が空のまま置かれていた。水着のお姉さんが移った卓上カレンダーもある。広さはたまきの実家の子供部屋に、お風呂やトイレがついた、と言ったところか。

部屋の中で印象的なのは、壁に立てかけられた二本のギターだろう。いつもミチが公園に持ってくる木製のギターと、前にミチがライブで使っていたエレキギター。

ギターの横には本棚があった。ざっと見た感じ、マンガ雑誌となんかの雑誌、マンガ本が入っているが、本棚の半分以上を占めているの本ではなくCDケースである。

そこからキッチンをまわりこんで反対側の壁には、ロックバンドのポスター2枚が貼ってあった。もちろん、何のバンドかはたまきにはわからない。ただ、そこに写っている人がいかにもロックミュージシャンといった感じだし、マイクやギターを持ったり、ドラムセットに座っていたりするので、きっとバンドマンなのだろう。そもそも、たまきが3つ並んだ部屋から、表札もないのにここがミチの部屋だとわかったのも、ドアに似たようなポスターが貼ってあったからだ。

ふと、窓の脇に置いてあるバケツに目が留まった。バケツには、なぜかなみなみと水が溜まっていた。

「……雨漏りでもしたんですか?」

たまきはバケツを見ながら訪ねた。ミチも、たまきの言わんとすることはわかったらしい。

「ああ、これはね、加湿器の代わり」

「加湿器?」

加湿器ならたまきの家にもあった。もちろん、こんなのではなかった。

「乾燥はのどによくないっていうじゃん。ほら、俺、一応、ミュージシャンだし。やっぱ、のどが大事なわけよ」

「……加湿って、これであってるんですか?」

たまきの知っている加湿器は、たしか、霧のようなものを吹いていたはずだ。そもそも、水を置いとくだけでいいんだったら、加湿器なんてメカはいらないではないか。

「……さあ、わかんね」

ミチは少し恥ずかしそうに言った。

 

たまきは、ミチを訪ねることになった経緯を説明した。正確には「ミチのお姉ちゃんを訪ねることになった経緯」だ。下のお店に行ったらまだ「準備中」で、中に誰もいないみたいだったので、仕方なくたまきはビルの二階に上がったら、そこに明らかに「ここにミチが住んでます」といった感じのポスターが貼られたドアがあったので、ピンポンを押してみただけである。ミチではなく、ミチのお姉ちゃんに用があるのだ。

「それで……ミチ君のお姉さんは……どちらに……」

一通り説明を終えた後、たまきはおずおずと尋ねた。

「ああ、姉ちゃんね、今、いないんだ」

「……え?」

「カレシと海外旅行行っちゃって」

え、ここも?

春休みとゴールデンウィークに挟まれた今の時期は、海外旅行シーズンなどではない。なのにどうして、頼りたいときに限って、舞もミチのお姉ちゃんも海外に行ってしまっているのか。

やっぱり自分は不運な星の下に生まれてきたんだ、とたまきは自分を呪った。でも、いくら自分を呪っても死ぬどころかおなかも痛くならないので、たぶん呪いなんてものはないんだろう。

「あ、あの……」

たまきは少し慌てた風に尋ねた。このままでは、今日寝る場所が本当になくなってしまう。

「その、お姉さんの部屋を、一晩貸してもらうことってできませんか? それがだめなら下のお店でも……」

「だから、姉ちゃん、いないんだってば」

「でも、鍵とか……」

「姉ちゃんが俺に、そんな大事なもの預けていくわけないじゃん」

「あ、なるほど……」

「いや、そこ納得しないでよ」

ミチはポリポリと頭をかいた。

たまきは窓ガラスの向こうを見た。太陽はとっくに沈み、ガラスの向こうには暗闇が広がっている。下の方がほのかに明るいが、この辺りはスナックが集まっているので、そこの明かりが漏れているのだろう。

風は依然として強いままで、窓ガラスが大げさにガタガタと揺れている。

志保のところに行く、という案が頭をよぎったが、こんなに時間が遅くなってしまっては、いよいよもって迷惑だろう。そもそも、こんな遅い時間になってしまったのは、たまきが意地を張ったからだ。

たまきは自分の足を軽くさすった。ミチの部屋で腰を下ろして、少し休んだからまた歩けるかと思ったが、むしろ休憩を挟んだことにより、足が限界を超えていることがごまかせなくなってきた。

それでも、たまきは立ち上がった。そのとたんに、少しめまいがしてふらつく。

「ちょっ、大丈夫?」

ミチが軽くたまきの肩を支えた。たまきは急に恥ずかしくなって

「だ、大丈夫です……!」

とミチの手を振り払った。

「私……その……帰ります……」

「帰るって、どこへ?」

「……その辺の公園で寝ます……」

「いやいや、危ないって!」

「でも……」

「だったらさ、ウチに泊まればいいじゃん」

一瞬、時間が止まったような気がした。相変わらず、風は激しく窓をたたいているが、たまきの耳はその音を認識できなかった。

「え?」

たまきは、きょとんとした顔で聞き返す。

「いや、だからさ、ウチに泊まれば……」

ミチは急に、たまきから視線をそらした。

「え?」

たまきはもう一度聞き返した。

「いや、その、エンリョとかしなくていいから。ほら、たまきちゃんって、人に迷惑なんじゃないかとか、すごい気にする子じゃん。だけど、俺のことは全っ全気にしなくていいから」

「いや、エンリョというか、それもあるんですけど……その……」

たまきは、申し訳なさそうに下を向いた。

「危ないんじゃないかと……」

「まあ、普通はそう思うよね……」

ミチはまた、ポリポリと頭をかく。

たまきは頭の中で、「公園で寝る」と「ミチの部屋に泊まる」の危険度を比べた。どちらもそんなに変わらないような気がしてきた。

ただ、公園で寝ていたら、悪い人に襲われるだけでなく、もしかしたらおまわりさんに見つかってしまうかもしれない。そうなったらたまきの場合、「警察署でちょっと怒られる」では済みそうにない。

ミチの部屋に泊まれば、少なくともおまわりさんに見つかることはない。あとは、ミチを信用できるかどうか、だ。

ミチはと言うと、妙に視線を泳がせていた。

「ま……無理だよね……。そうだな、どこかたまきちゃんぐらいの年の子でも泊まれるホテルとか……」

「あ、あの……!」

ミチの言葉に覆いかぶさるように、たまきが言った。

「よろしく……お願いします……!」

たまきはぺこりと頭を下げた。彼女のつやのいい黒髪を見ながら、ミチは言葉を漏らした。

「……え?」

つづく


次回 第33話「柿の実、のち月」

……このままラブロマンスに行くとでも思ったかい?

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

せつないアニメが好き

いろいろアニメを見て気づいたのだけれど、どうやら僕は「せつないアニメ」が大好きみたいだ。

刀使ノ巫女、サクラクエスト、プリンセス・プリンシパル、宇宙よりも遠い場所、ラブライブサンシャイン、VIVY……、何でこういうアニメが好きなんですか、と聞かれたら、全部「せつないアニメ」なのだ。

キャラクターの心情描写が細やかで、それでいてすべてを説明しすぎない。描写が雑だとダメだけども、言葉で説明しすぎてもいけない、そんなギリギリのラインを攻めてくるようなアニメ。

最終回もハッピーエンドなんだけど、なんだかさみしさが残る、やっぱりギリギリのラインを攻めてくる。

毎シーズンごとにいろんなアニメが生まれては消えていき、大ヒットしたものもあれば、大コケしたものもあるけれど、絶妙にせつないアニメというのはそうそうない。そこまで大ヒットはしてないんだけど、でもせつなくて、あまり話題にはなってないけど、大コケせずに評価も高い、そういうアニメが好きでたまらない。そういったアニメは大ヒットしなくても、何らかの形で続編が作られたりする。

でもまあ、そういったアニメはきれいな形で完結することも多くて、続編が作りづらかったりもするんだけどね。

僕としては、キャラの心情をしっかりと描いて、せつない物語であるのならば、世界観は全然気にしない。異世界モノでも、SFモノでも、学園モノでも、何でもいい。

というか、そもそも「アニメの世界観」というやつに、何の興味もない。

民俗学なんぞやっているから、そういう世界観のアニメが好きなのかと思いきや、全くそんなことはない。

たとえば、「このアニメは民俗学の知識が反映されていて……」とか、「このミステリーは民俗学的に考察すると深みが……」とか、「宮崎駿は民俗学にも精通してて……」とか言われても、「ふーん、そうですかぁ」としか思わない。それで見てみようとは全く思わない。

あえて世界観で選ぶなら、民俗学ホラーとか、民俗学ミステリーとかよりも、スチームパンクの方が好きだ。

でも基本は、世界観とか設定とか、そんなことはどうでもいいのだ。ストーリーがせつなくて、キャラの描写がリアルなら、「舞台は現代の東京」で全然かまわない。富山の田舎でも、静岡の沼津も、南極でも19世紀のロンドンでも2060年でもどこでもいい。

あと、「伏線がちりばめられていて……」とか「大どんでん返しが……」とか、そういうのも心底どうでもいい。単調でありきたりなストーリーでもいいので、そんなことよりもストーリーがせつなくて、キャラの描写がリアルであればいい。「富山の田舎で町おこし」「西東京のアニメ会社で仕事に忙殺」みたいな地味なお話で全然かまわない。

逆に、僕がアニメの世界観とか伏線とか展開とかを誉めだすのは、「せつなさ」の部分ではすでにクリアしている時である。「このアニメはせつなくてね、その上世界観が……」「キャラの描写がリアルで、その上グラフィックが……」と、やっぱり「せつなさ」がまずあってこその評価なのだ。

設定とかグラフィックとかにどれだけ凝っても、リアルな人間が描けていないのであれば、それはアニメではなくただの設定資料集だ、ぐらいに思っている。

どれほど世界観がぶっ飛んでようが、設定が複雑だろうが、そこに描かれている人間はどうしようもなくリアルじゃないとイヤなのだ。

心がぴょんぴょんする夜に

ワンピースが今年中に100冊になる。もちろん、洋服の方ではない、マンガの方だ。

ワンピが100冊になるということは、我が家の蔵書がワンピ1タイトルで100冊になってしまうということだ。「こち亀」を持ってなくて本当によかった。床が抜けかねない。

マンガではワンピースハンターハンター、この2タイトルは新刊が出たら必ず買っている。どちらも20年くらい前に連載が始まった。完結したマンガで全巻持っているのは、鋼の錬金術師スラムダンクだ。

最近だと、風都探偵も新刊が出たら買っている。平成ライダーで一番好きな「仮面ライダーW」の続編だ。

ブラックラグーンは新刊が出たら買ってるけど、新刊が出ないので、買ってない。

まあ、僕のマンガ事情は、そんなもんだ。実はあんまり、マンガを読んでない。

財布のひもが恐ろしく硬いうえ、飽きるのが早いのである。

あと、マンガに関してはマイナーなものを発掘しようという心意気は一切ない。それどころか、新しものを発掘しようという気持ちすらない。だから「マンガを無料で読めるサイト」というのを覗いたことはない。そこまでしてマンガを読みたいとは思わない。

アニメはよく見るけど、原作に手を伸ばすことはごくごくまれである。だってお金がかかるうえ、本格的に原作を買い集めようと思うと、本棚のスペースを奪われるのだ。進撃の巨人が30巻くらいで、鬼滅の刃が20巻ぐらいだったか。冗談じゃないぞ、というのが率直な感想。

そんな僕でも、寝る前に必ず読むマンガがある。

それが「ご注文はうさぎですか?」、通称「ごちうさ」

きらら系日常ゆるかわ4コマ漫画の金字塔で、3回にわたりアニメ化されている、人気作。あと、水瀬いのりが出ているアニメにハズレはない。

アニメの人気もすさまじいのだけど、僕は原作から入ったタイプのファンである。

このごちうさを必ず寝る前に読んでいる。

するとすっきり眠れるのだからあら不思議。

きっかけは、どうしても眠れない夜がたまにあり、何とかならないかと思ったことだ。

ネットで調べてみると、「無理に寝ようとしないで、思い切ってマンガでも読んでみたらいかがでしょう」なんてことが書いてある。

なので眠れない夜は無理に寝ようとせずに漫画を読むことにした。

家にあるマンガをいろいろ試してみたのだけど、そのうち、あることに気づいたのだ。

ごちうさを読んだ後は、かなりの高確率ですぐ眠れてるということに。

たぶん、ワンピースのような熱い少年漫画だと、興奮してかえって寝れなくなってしまうのだろう。

ギャグマンガもゲラゲラ笑ったらやっぱり興奮して眠りづらい。

だけど、ごちうさはギャグマンガなんだけど「大爆笑」というよりはくすくすと笑えるゆるいギャグが続く。それでいて、ちゃんと面白い。4コマなんだけどストーリーとしても練られているし、たまに泣ける話もある。何より絵がかわいい。

だからたぶんハーブティのようなリラックス効果が高いのだろう。眠れない夜でも、ごちうさを読むとすんなりと眠れる。心がぴょんぴょんすると、人はリラックスしてよく眠れるらしい。

だったら、最初から毎晩寝る前にごちうさを読んでおけば、不眠に悩まされることなくすんなり眠れるんじゃないか?

そう思って、寝る前にごちうさを1話ずつ読んでいる。おかげで毎日ぐっすり眠れる。

友達にこの話をするたびに、「睡眠導入剤かよ」と爆笑される。爆笑すると、夜にぐっすり眠れなくなるぞ。

「裏」が好きという話

僕は「裏」という言葉が大好きだ。

たとえば、表通りよりも路地裏の方が好きだ。ネコしか歩かなさそうな路地裏の通りを見つけると、ワクワクしてしまう。そこに隠れた名店があればなおさら。

身の回りをぐるりと見てみても、「裏」が似合うようなものばかりだ。

一番の趣味は何かと聞かれたら、ラジオだ。テレビの時代が終わり、時代はyou tubeだV チューバーだといわれている中、ラジオばっかり聞いている。

ラジオというのは「裏」の放送メディアなのだ。テレビやyou tubeが何万人もの視聴者がいるのに対し、ラジオを熱心に聞くリスナーは少ない。その時間、その周波数にダイヤルを合わせれば放送していると、知っている人たちだけが聞ける路地裏の名店のようなものだ。

というわけで、you tubeなんぞはたまにしか見ない。たまにそのyou tubeで何を見ているかと言うと、アニメの番組を見ている。アニメそのものじゃない。好きなアニメの声優さんたちが出演して、そのアニメの裏話とか新情報とかを話す生配信番組だ。

そのような僕が好きになるアニメはたいてい、そこまで派手にヒットしていないものが多い。

とはいえ、大コケしたわけでもない。大コケしたアニメに「新情報」なんてない。

大ヒットはしてないけど、でもクオリティが高く、ファンを中心に根強い人気があって、何とかして新作が作られている、そう、アニメ業界の裏街道を行くようなアニメが好きなのだ。

みんなが知ってる人気アニメにはあまり興味がない。いや、おもしろいと思っても、爆発的な人気が出てしまうと妙に冷めてしまう。

そうじゃなくて、知る人知る名作、そんなアニメが見たくて、アニメの裏通りをうろうろしているわけだ。

僕がやっている民俗学だって、「裏の歴史学」なのだ。

戦国武将とか、幕末の志士とか、フランス革命とか、有名人や大事件を取り上げるのが歴史の表通りなら、「ふつうの人のふつうの暮らし」の歴史を研究する民俗学はまさに「裏の歴史学」だ。そもそも、民俗学は書物に残らない歴史を探求することが目的で生まれたのだ。書物が表通りの歴史なら、暮らしの文化や言い伝えに残された「裏の歴史」があるのである。

そういった裏の歴史を求めて、農村などを調査するのだけれど、さらにそういった農村文化の外にも、漂泊の民だの化外の民だのと呼ばれる人の文化がある。裏の歴史のさらに裏があって、裏の裏は表ではなく、より深い裏の世界となっている。

「裏」とはつまり、人の集まらない場所、人の目が向かない場所のこと。表と裏というのは、単に前か後かという話じゃない。人の目が集まるか集まらないかなのだ。

人の目が集まる場所というのはどんなところかと言うと、つまりは「密」になるような場所だ。「裏」を好むということは、そういうところを避け、人目につかない場所、人目につかないものを好むということ。

だから、そろそろ「密」を避けて「裏」が流行ってもいいんじゃないか、と思うのだけれど、流行っちゃったらそれはもう「裏」ではないような気もするし、流行ったら冷めちゃうから、はやらなくていいか。

東大行く前に四の五の言え!

「ドラゴン桜」のドラマをまたやるらしい。あのドラマにはいい思い出がない。

と言っても、実は見たことないのだけれど。

何で見たことないのかというと、僕が通った大嫌いな高校がまさに、「四の五の言わずに東大に行け!」をリアルにやる学校だったからだ。

学校でさんざん先生から「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けて、どうして家でもテレビから同じことを言われなければいけないのか! 不条理だ! 納得できない!

というわけで、前回の「ドラゴン桜」は見てない。今回も見ない。高校時代のトラウマがえぐられるからだ。っていうか、番宣のCM見ただけで十分えぐられてる。これは理屈の問題ではない。

そもそも、僕は高校生の時、「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けたのに、四の五のどころか六七八九十くらいうだうだ言い続けていた。「学部にこだわらず、つべこべ言わずに、上位の学校に行け」というのがどうしても納得できなかったからだ。その結果、東大じゃほとんどやってない民俗学を学びに、民俗学を専門的に学べる激レア大学に進学することになる。

四の五の言いまくるのは大学卒業後も変わらず、「四の五の言わずに働け!」という社会で今度は八十八から百八ぐらいまでうだうだ言って、地球一周の旅に出る。

そして今、民俗学のZINEを作ってる。四の五の言い続けることに関しては、地球上の誰よりも自信がある。

だいたい、「四の五の言わずに東大へ行け!」と、大人が若者の選択肢を狭めるようなことを言うなんて、ひどいじゃないか。キングギドラだって「公開処刑」と言いつつ、3つも選択肢を用意してくれたっていうのに。

『おめぇに三つの選択肢を与えよう。死ぬか、戦うか、ビッチみてぇに訴えるか』

「公開処刑」とケンカ売った相手にすら三つも選択肢を与えるのに、前途ある若者に「東大に行け」とひとつしか選択肢を与えないのはあんまりだ。若者の可能性を殺しにかかってるとしか思えない。「公開処刑」ならぬ「東大処刑」だ。きっとBOY KENも同意見だと広辞苑に書いてあるはずだ。

ちなみに、ウチのリアルドラゴン桜高校に言わせると、東大に行った方が、そのあといろんな選択肢が生まれる、ということらしい。

だけどそれはあくまでも「学力が大事な世界」での話。「受験勉強して東大に行く」というルートの前にも、いろんな道がいっぱいある。

いや、むしろ、「学力が大事な世界」の方が意外と世の中では少数派かもしれない。

姜尚中の「悩む力」という本の中に、こんな一説がある。姜尚中が韓国の大学を訪問した時、わき目もふらずに勉強している学生を見て違和感を抱いたのだという。それは青春と言えるのか、と。

姜尚中にとっての青春とは、自分は何者なんだろうとか、人生とは何なのだろうとか、そういったあれこれに思いを馳せて、悩み、苦しみ、悶々とする時期のことを言う。そういった青春こそが真に人生を豊かにするのだ、と。つまり、「勉強ばっかりしてないで四の五の言いなさい」ということだ。

姜尚中は東大の名誉教授だ。東大の名誉教授が「若いうちは勉強よりも四の五の言う方が大事」と言っているのだ。

さあ、若者よ、四の五の言おう。勉強は後からいくらでもできるけど、若いときに四の五の言わないと、四の五の言えない大人になってしまうぞ。

ちなみに、「令和版ドラゴン桜」の放送に先駆けて、平成版ドラゴン桜の名言集みたいなのをたまたま見た。なるほど、ドラゴン桜はすばらしい名言がいっぱいあるらしい。人気があるわけだ。

だけど、それはマンガだからだ。「リアルドラゴン桜高校」は名言など残さず、「勉強しろ」しか言わなかった。現実は厳しいのだ。

あしたてんきになぁれ 第31話あとがき

第31話を読んでくれたあなた、ありがとう。いつにもまして長かったでしょ(笑)。

1話目からずっと読んでくれているあなた、本当にありがとう。ここまで長かったでしょ。

この31話目だけ読んだよと言うあなた、ありがとう。……話、ついていけてます?

31話目にして今回初めて「あとがき」なんてものを書いているのですが、なぜかというと、この31話目が「あしなれ」という小説にとって、特別なエピソードだからです。

亜美、志保、たまきの「家出」「不法占拠」という冒険は、まだまだ続きます。

まだまだ続くんだけど、終わりが見えない(笑)。実は最終回の内容と、そこへ向けた展開はもう頭の中にあるんですけど、まだまだ消化したいエピソードがいっぱいあって、いつそこにたどり着くのやら。

もしかしたら、最終回を書く前に、僕の人生の方が先に最終回を迎えてしまうかもしれません。もしそうなったらこの小説は「未完」として放置されることになります。

なので、「本当の最終回」はまだまだ先なのですが、「もし、ここでシリーズが終わるのだとしたら」という「とりあえずの最終回」としてこの第31話を書きました。

この「とりあえずの最終回」は、僕としては「セーブポイント」に近い意味です。ラスボスと戦う前に一応セーブしとこう、と同じノリです。「僕になんかあった時のために一応、現時点での最終回書いとこう」。

もしもこの先、僕がうっかり腐った饅頭でも食べて死んでしまった時は、この第31話が最終回だったんだと思ってください。

もちろん、「あしなれ」のお話はまだまだ続きます。その証拠に、第32話は実はもう書きあがってます。それどころか、「新章突入」です。

あと、「本当の最終回」は、こんなもんじゃないです。

これからも、亜美、志保、たまきの冒険はまだまだ続きます。「城」を飛び出し、街を飛び出し、南へ、西へ、北へ、東への大冒険です。

とりあえず、次回からたまきには少し冒険をさせようと思ってます。ちょっとだけ「南」に行ってもらおうかなぁ、と。

では、第32話「風吹けば、住所録」でお会いしましょう。

小説 あしたてんきになぁれ 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。あしなれ第31話、スタート!


第30話「間違いと憂欝の桜前線」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきが駅に来るのは久しぶりだった。

駅のそばで暮らしているのだから、駅の近くに来たことは何度もある。だけど、駅そのものを利用したのは、この街に来て以来、ほぼ一年ぶりだ。シブヤに行ったときも、あの時もバスを使ったので、駅には来ていない。

なんだか切符を買って改札をくぐってしまうと、ここではないどこ遠くに行ってしまいそうな気がする。

たまきにとって駅とは、いわば羅生門だ。きっと駅の二階には、恐ろしい顔をした鬼とか、死体から髪の毛を抜く婆とかがいるのだろう。

たまきが駅に来たのは、死体になって婆に毛を抜いてもらうためではない。

志保とともにギンザに行くためだ。

少し前にたまきは、ミチから薄群青のパーカーをもらった。それを見た志保は、パーカーの下に着る服もパーカーに合わせたものがいいといい、たまきと一緒に買いに行くという話になったのだ。

たまきとしては、今持っている服を着て、その上に羽織ればいいじゃないか、と思うのだが、そんなたまきに志保は言った。

「たまきちゃん、おしゃれに手を抜いちゃだめだよ! 自分磨きの第一歩は、おしゃれだよ!」

たまきとしてはちゃんとお風呂でごしごしと自分を磨いて洗っているつもりなのだが、志保から見ると全然足りないらしい。しぶしぶ、たまきは服を買いに行くことにした。

 

たまきは切符の販売機の前に立ち、路線図で「有楽町」という駅を探して、そこまでの運賃分の切符を買った。「楽しいことが有る町」と書いて「有楽町」。

ふと、何日か前に亜美に言った言葉を思い出す。

『私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!』

切符を買い終えて振り返ると、志保が改札の前で手招きをしていた。志保はたまきが来るのを確認すると、

「じゃ、いこっか」

と言うと、パスケースを改札機にかざして、中に入った。

当然、すぐ後ろをたまきがついてきていると思ったのだが、しばらく進んでからたまきがいないことに気づき、振り返ると、たまきはまだ改札の外にいた。ぽかんとした様子で志保を見ている。

「どうしたの?」

「い、今の、どうやったんですか?」

「今のって?」

「だって、切符入れてないのに、改札が開いて……」

たまきはまるで魔法使いにでも出会ったかのように目を丸くしている。

「え、だってこれ、かざすだけで入れるよ?」

「でも……お金は……」

「チャージしてるから……」

今度は志保が目を丸くする番だった。たまきはこういう、改札にすいっと入れるカードの存在を、知らないのだ。たまきがそういうものを持っていないのも、見たことがないのも知ってはいたけど、まさか、どうやって使うのかすら知らなかったとは。なんだか、ジャングルに住む未開の部族に出会った気分だ。

 

写真はイメージです

がたんごとんと緑の電車に揺られ、有楽町にやってきた。そこから歩いてギンザへと向かう。

ギンザを選んだのはもちろん志保だ。志保いわく「せっかくだから、少し背伸びしてみようか」。この「背伸び」というのはどうやらつま先立ちのことではないらしい。

地元の商店街に「銀座」の名がつくものがあるので、たまきはなんとなく商店街のような場所をイメージしていた。だけど、たまきが実際に目にしたギンザは、町全体におしゃれが漂っていた。それもただのおしゃれではない。清潔感・高級感ともに、たまきが今まで訪れたどの町よりも洗練されていた。

周りを見渡しても、入っただけで入場料を取られるんじゃないかと思うくらいおしゃれなお店ばかり。

こんな街を、たまきのような、もらったパーカーを羽織っただけの子が歩いたら、おしゃれ警察、いや、おしゃれポリスに連行されてしまうのではないか。

たまきは不安そうに志保を見た。こんな街に、本当にたまきでも着れるような服なんて売っているのか。

志保はたまきの不安を察したらしく、

「大丈夫。たまきちゃんに似合う服もきっとあるから。自信持って」

と言うと、たまきを前に向かせた。もしかしたら、たまきの服を探すというのを口実に、ただ単に志保がギンザに来てみたかっただけなのかもしれない。

 

高速道路をくぐったところに、車一台が通れる程度の、小さな道があった。横断歩道はあるが信号はない。

この道を渡ろうとして、たまきは横断歩道の右側を見た。そこには、横断歩道を横切るつもりなのであろう、数台の車が列を作って止まっていた。どうやら、横断歩道を渡る歩行者が途切れるのを待っているらしい。

たまきは、道を渡らずに立ち止まった。

「どうしたの? 渡らないの?」

と志保が問いかける。

「……ちょっと待てば、この車が全部行っちゃうと思うんで」

止まっている車は3台か4台ほど。車通りもそんなに多くない。

歩行者がみんな、ほんの十数秒待てば、止まっている車はすべて通り抜けるはずだ。それを待ってから渡ろう。たまきはそう考えたのだ。

 

十五分が過ぎた。

たまきと志保は、ずっと同じ場所に立っていた。

「たまきちゃん、そろそろ……」

と志保がたまきの方を、少し心配そうに見る。

「でも……」

たまきは、右側をちらりと見た。

横断歩道の右側には、5、6台の車が並んでいた。

ほんの十数秒、歩行者全員が道路を渡らずに待ってあげれば、車が全部通過して、渋滞もなくなる。たまきはそう考えていた。そう考えたから、ずっとそこに立っていた。

ところが、ほとんどの歩行者は、立ち止まることなく道路を渡っていった。

多くの車が、ずっと前に進むタイミングを待っているのに、みんな平気な顔して道を渡っていく。ほんの十数秒待てば車は全部通過して渋滞がなくなるはずなのに、我先にと道を渡っていく。

十五分の間、道路を渡る人の流れは、ほとんど途切れることはなかった。

たまに歩行者が途切れるときがあった。先頭の車はその隙を見つけて横断歩道を横切り、先へと進む。

だが、2台目の車がそれに続こうとすると、必ず歩行者が渡り始め、車の行く手を遮るのだ。車は前に進みたそうにゆっくりと動くのだが、歩行者たちはお構いなしにわたっていく。運転手さんが苦笑いしているのを、たまきは何度も目撃した。

先頭の車が抜けてから、2台目の車が抜けるのに、数分かかった。そうこうしている間に、後ろには新しい車が並ぶ。渋滞はいつまでたってもなくならない。

ほんの十数秒、立ち止まってあげるだけで渋滞はなくなるのに、どうしてみんな立ち止まらないんだろう。どうして車の行く手を遮ってまで、ほんの数mほどの道を急いで渡りたいんだろう。

ふとたまきは、中学の時に国語の授業で習ったお話を思い出していた。地獄にたらされた蜘蛛の糸に、罪人が我先にと押し寄せ、自分だけ助かろうとしたばっかりに、蜘蛛の糸がぷっつりと切れて、地獄に逆戻りする、そんなお話だ。

たまきにとって一番驚いたのは、たまきの目の前で我先にと、車の行く手を遮って道を渡る人たちが、地獄に落とされるようなみすぼらしい罪人ではなく、たまきよりもおしゃれな人たちだったという事だ。

亜美の周りにいるような、いかにも悪人という人たちではない。手をつないだカップルだったり、ベビーカーを押す若いママさんだったり、スーツを着たサラリーマンだったり、高級そうな服に身を包んだおばさんだったり、おしゃれに気を遣うおじいさんだったり。皆、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

きっとみんな、家出や不法占拠のような、間違ったことをしているたまきなんかよりも、ずっと立派に人生を生きている人たちなのだろう。

何より、みんなたまきよりもずっと、おしゃれだった。

「たまきちゃん……」

志保がたまきの袖を引っ張る。

「ひきこもりだ……」

たまきがぽつりとつぶやいた。

「……たまきちゃん?」

みんなみんな、ひきこもりだ。

おしゃれというのは、人により良く自分を見せるためにやるはずだ。

なのに、目の前の横断歩道を渡っていく人たちは、おしゃれな人たちばかりなのに、ちっとも周りが見えていない。周りが見えていれば、車がずっと歩行者が途切れるのを待っていることに気づくはずだし、立ち止まるはずじゃないか。

おしゃれをして、人には自分を見てほしいくせに、自分は人を、周りを全く見ていない。自分磨きだなんていうけれど、結局それって、自分のことしか見ていないだけなんじゃないか。

それじゃまるで、ひきこもりじゃないか。外を歩いていても、心の中はひきこもりじゃないか。

しましま模様の横断歩道を、途切れることのない人の流れを、困ったようにハンドルを握る運転手さんの顔を、眺めながら立ち尽くすたまき。そんなたまきを志保は困ったように見ていたが、少し考えると、たまきに声をかけた。

「じゃあさ、車の列の一番後ろに回ろっか。列の一番後ろに回って、そこから渡ろうよ。そうしたら、車の妨げにもならないでしょ?」

たまきは、渋滞の列の一番後ろへと視線を投げかけた。4台目にトラックが止まっていて、その後ろは見えない。

たまきは無言で、車列の一番後ろに向かって、道沿いに歩きだした。志保もそれに続く。

あのまま、意地で横断歩道の前に立ち尽くしていてもよかったのだけれど、さすがにもう疲れたのだ。

立ち尽くすことが疲れたのではない。

自分のことしか見ていない「おしゃれなひきこもり」の顔を見続けることに、疲れたのだ。

ほんの十数メートル歩いただけで、車列の最後尾にたどり着いた。そこから二人は道路を渡る。

十数秒待てば、渋滞はなくなる。

十数メートル歩けば、車を遮ることなく道を渡れる。

どちらも、ほんのちょっとだけ人に優しくなれれば、なんてことのないことのはずなのに、誰もそれをしようとしない。

 

そのあと、志保とたまきはいくつかのお店をまわった。デパートの中のお店だったり、若者向けのお店だったり。

お昼になって二人は、カフェでランチを食べていた。

「ちょっと背伸びしすぎたかなぁ」

と志保は、フォークにパスタを巻き付けながら笑った。

たまきは無言で、フォークにスパゲッティを巻き付ける。

「でも、確かにたまきちゃんは、原宿系って感じじゃないよね。もうちょっと落ち着いた感じの方が似合いそうだし。そのパーカーも落ち着いた感じだから、もうちょっと探してみたら似合うやつが……」

「……もういいです」

たまきは静かにそういった。

「え?」

「もう、おしゃれなんかしなくていいです……」

そういうたまきを、志保はまた困ったように見ていたが、すぐにやさしく笑った。

「そんなことないって。むしろ、たまきちゃんは自分に合ったファッションが見つかれば、すごくかわいくなると思うよ。そうだ、午後はアメ横とか行ってみようか。安くてたまきちゃんに似合いそうなのが……」

「だから……そういうのはもう……いやなんです」

たまきはコップの水に視線を落としたまま、つぶやく。

おしゃれだの、自分磨きだのというけれど、結局は自分のことばかり気にして、それでいて周りのことは全然見ていない。

そう考えたら、おしゃれに気を遣うのが、急にばかばかしくなったのだ。

志保も、立ち尽くしていた十五分の間にたまきに何かがあったことを察したらしい。少し言葉を選ぶように考えあぐねる。

「でもさ……、亜美ちゃんのお花見に、たまきちゃんも行くんでしょ? まあ、亜美ちゃんのファッションに合わせることはないけど、少しぐらいおしゃれしても……」

「……お花見には、行きません」

たまきは視線を上げることなく言った。

「……断ったんです」

「そうなんだ……」

志保にはたまきが、ジャングルの未開の部族ではなく、その部族ですらめったに見つけられないような、密林の奥地に住む色鮮やかな蝶々のように思えた。

「じゃあ、帰ろっか。あ、ごめん。帰る前に、あたしの買い物しちゃっていいかな?」

たまきは、無言で頷いた。

 

写真はイメージです

「ただいまぁ」

「お、お帰り」

志保とたまきが「城」へ戻ると、亜美が一人で、テレビを見ながらハンバーガーをほおばっていた。机の上にはポテトとチキンナゲット、さらにコーラが置かれている。

「服買いに行ったんだろ? どんなの買ってき……」

亜美の言葉が言い終わらないうちに、たまきは衣裳部屋へと飛び込み、スケッチブックの入ったリュックを引っ張り出すと、

「……出かけてきます」

と言ってすぐに外へ出て行ってしまった。たまきが「城」に入ってから外へ出ていくまでにかかった時間としては、最短記録だったかもしれない。

階段を下りながら、たまきはふうっとため息をつく。

亜美からのお花見の誘いを断ってから数日の間、どうにも亜美と顔を合わせるのが気まずいのだ。

別に、ケンカしたわけではない。亜美はたまきがお花見に来ないことを了承してくれた。

なのにあれ以来、たまきは亜美と顔を合わせるのが気まずくなってしまったし、亜美の態度にも何かよそよそしさを感じる。

別に、避けられているわけではない。意地悪をされているわけではない。

なのになぜか、よそよそしいのだ。

まるで、振出しに戻ってしまったかのような感覚だ。1年ほど前、初めて亜美と出会って、まだどんな人なのか全然わからなかった頃のよそよそしさに。

 

たまきが出ていったドアを亜美はなんだかさみしそうに見つめていた。

「結局たまきちゃん、何も買わなかったんだよねぇ。これはあたしの買い物」

そういって志保は洋服の入ったビニール袋を机の上に置いた。

亜美は志保の方を振り向かないし、返事もしない。

「……ねえ、たまきちゃんと何かあった?」

「んあ?」

不意を突かれたように、亜美が振り返る。

「あたしが気付かないと思った? ここしばらく、二人ともなんかヘンだよ。絶対なんかあったでしょ?」

そういうと、志保は亜美の隣に腰掛けた。

「まえにさ、たまきちゃんはあたしと亜美ちゃんの間を取り持つ緩衝材だ、って話したじゃん。なのにさ、そのたまきちゃんと亜美ちゃんがなんか変な感じになっちゃったら、あたしまでピリピリしてくるんですけど」

亜美にしては珍しく、何も言うことなく、自分の膝のあたりを見ていた。

「たまきちゃん、お花見の誘い、断ったんだって? それってなんか関係ある?」

志保は亜美の顔をのぞき込む。

「どうせ亜美ちゃんが、絶対来いよとか、無理強いしたんでしょ?」

「そ、そんなことしてないし……!」

「じゃあなんで、二人が気まずくなってんのよ」

「べ、別に……」

亜美は、隠し事をしている子供のように、志保から目をそらした。

「じゃあ、例えば、嫌がるたまきちゃんに、お花見に来ればなんだかんだで楽しくなるとか言って来させようとしたとか……」

亜美は驚いたように目を見開き、無言で志保の方に振り向いた。

「図星だ……」

志保があきれたようにため息をついた。

「それで、たまきちゃんはなんて言ったの?」

「ウチとあいつじゃ……、楽しいと思うことが違うんだって……」

亜美はポテトを口にくわえたまま、片膝を抱えた。

「それ聞いてからさ、なんか考えるようになっちゃってさ……。ひょっとしたら、ウチが今まであいつに良かれと思ってやってきたことって、もしかしてあいつにとっては楽しくなかったのかも知れないって……」

そこで亜美は、志保の顔を見た。

今度は、志保が驚いて目を見開いていた。

「え? いまさら?」

「な、なんだよ、いまさらって」

「たまきちゃん楽しんでないかもって、いまさら気づいたの?」

「……は?」

「は、じゃないよ。無理やりクラブに連れてったり、無理やりクリスマスパーティさせたり、ああいうの、たまきちゃんが楽しんでると思ったの?」

「え、あいつ、楽しんでなかったの?」

そこで志保は、また深くため息をついた。

「たとえばさ、去年の暮れにさ、三人でボウリング場に行ったじゃない」

「ああ、行った行った……」

そこで亜美は、大きく身を乗り出した。

「おい、まさかあれもたまき、楽しんでなかったっていうんじゃ……」

去年の暮れ、クリスマスの少し前に、三人は近くのボウリング場に行った。

亜美は持ち前の運動神経の良さを発揮して、好スコアをたたき出した。投げるたびに何か変な掛け声を発していたことを除けば、なかなか様になっていた。

志保もボウリングは何度か経験があり、それなりにできたが、体力が続かず、途中からは見ているだけになった。

たまきは、それまでボウリングを全くやったことがなかった。ボウリングの球も持ったことがないし、ボウリングシューズも履いたことがない。

当然、いきなりうまくいくわけがない。たまきの投げたボウリング玉は、まっすぐ進まずにすぐにガーターへと落ちた。

しばらくすると、亜美の懇切丁寧な指導が入った。

「いいか、この手のスポーツは、まずはフォームをしっかりと覚えることが大事なんだ」

「こういうのはな、全身運動なんだよ。腕の力だけで投げるんじゃなくて、体全体でボールを押し出すんだ」

「投げるときに掛け声を言うと、パワーが3倍になるんだぞ。プロボウラーだってみんなやってるんだからな」

亜美のアドバイスはどこまで信憑性があるのか、志保にはわからなかった。それでもたまきは素直に従っていた。亜美に教わったフォームをまねして、腕だけでなく全身でボールを押し出すようにして、投げるときは小さく「えい」と言っていた。

そんなことを繰り返すうちに、次第にたまきのボールの飛距離が伸びていった。

そして何度目かの投球で、たまきのボールはガーターに落ちるか落ちないかのぎりぎりのところを転がっていった。

「いけ! そこだ! 落ちるな! 行け! 行けー!」

これは、亜美の絶叫である。

そしてとうとう、ボールはガーターに落ちることなく、一番右端のピンを捉えた。ボールに当たって足元をすくわれたピンは跳ねとび、もう一本別のピンを倒した。

「やったぞ、たまき! 2本も倒れたじゃねぇか! 初めてですごいぞ! おい、ハイタッチだハイタッチ! やったやった!」

この時、志保は自分のボールを取りながら見ていた。

大はしゃぎでハイタッチを求めてくる亜美に対し、たまきもハイタッチで返すものの、顔が全くの無表情だったことに。

そのあと、たまきは最高で6本のピンを倒した。だが、たまきの無表情がほころぶところを、ボウリング場内で志保が見ることはなかった。

「マジかよ……」

志保の話を聞いて、亜美は半ば信じられないといった顔をしていた。ボウリングに行って、初心者とはいえそれなりにピンを倒して、楽しくない人間などこの地球上に存在するというのか。

「でも、あいつ、反応薄いだけで内心では楽しんでたんじゃ……」

「いくらたまきちゃんでも、楽しかったらちゃんと笑うでしょ。誕生日の時は、やっぱり楽しそうだったよ」

そう言われると、誕生日の時は、相変わらず表情は硬かったけれど、たまきなりの笑顔をしていたような気がする。

「あたしが覚えてるのはね、投げるたびになんか、首傾げてたなってことかな」

「自分の投球に納得いってなかったんじゃないの? ほら、あいつ、生真面目じゃん」

「そうかな。あたしには、『これ、なにが楽しいんだろ?』って首傾げてるように見えたけど。むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ」

「なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!」

亜美は、ソファのクッションをバシンとたたいた。

「じゃあさ、ウチがあいつ連れてったゲーセンとか、ビリヤードとか、ダーツとか、ああいうのも……」

亜美の問いかけに、志保は少し考えて、

「帰り道の方が楽しそうだったね」

「だからなんで帰り道なんだよ!」

今度は亜美はクッションを手に取って放り投げた。

「他には……えっと……ここで野球の試合見せた時とか、ロックバンドのアルバム借りてきて聞かせたときとか……」

亜美の問いかけに、志保は静かに首を横に振った。

「今年の夏に、あいつをサーフィンに連れて行こうと思ってたんだけど……」

「やめといたほうがいいんじゃないかなぁ」

亜美は背もたれに思いっきり寄りかかる。

「えー……。じゃああいつ、なにしたら『楽しい』って思うんだよ……!」

なんだか、初めてたまきに出会った頃にも、こんなことを言っていたような気がする。

「でも、ほら、たまきちゃんって絵が好きじゃない。今もどこかで絵をかいてるんじゃない? だからさ、例えば美術館に行くとか……」

「そんなの、ウチが楽しくねーよー!」

「ほらね」

そういって志保は微笑む。

「亜美ちゃんとたまきちゃんじゃ、楽しいって思うことが違うんだよ」

そういうと志保は、体ごと亜美に向き直った。

「自分ばっかり楽しんでないで、もっとちゃんと、周りを見なさい」

「……はい」

亜美にしては珍しく、素直にこうべをもたげた。

「話は変わるんだけどさ……」

そういって志保は亜美に尋ねた。

「車が1台ぐらいしか通れない、小さな道があったとするじゃん?」

「……何の話だよ」

「その道をさ、歩行者がひっきりなしに渡っていくの。で、その歩行者が渡り切るのを、何台もの車が待ってる。亜美ちゃんが歩行者で、その道を渡りたいって思ってたら、どうする?」

「は?」

亜美は質問の意図がよくわからない。

「渡るに決まってんだろ。みんな渡ってんだろ?」

「たまきちゃんはね、そこでずっと待ってるの。みんなが道を渡るのをやめて、車が全部いなくなるのを。みんながちょっと立ち止まれば、車は全部進めるはずだから、って」

「はぁ? 暇なのかよ、あいつ」

そういって亜美は腕を組んだ。

「たとえば道の向こうにからあげがあるとするだろ。そうやってのんびり待ってる間にさ、からあげがなくなってるかもしれないだろ? ウチだったら赤信号でも渡るね」

「信号無視はダメでしょ」

そういって志保は笑う。

「ほらね。やっぱり、亜美ちゃんとたまきちゃんは、違うんだよ」

 

写真はイメージです

南風が桜前線を押し上げ、週末になると東京でも桜が花開き、散りゆく花びらが風を、土を、桜色に染め上げた。

金曜日に、たまきはいつもの公園を訪れた。たまきにも多少の風流な心があったらしく、桜色に染め上げられた公園を絵に描きたいと思ったのだが、平日にもかかわらず、多くの花見客でごった返し、なんだか風に舞う花びらよりも、人の数の方が多いような気がして、たまきは引き返してしまった。

それ以来、たまきはひきこもりっぱなしだ。お風呂に入りに行ったり、コインランドリーに行ったり、外出と言えばそれくらい。

志保は木曜日にバイト先の花見に出かけた。もちろん、同じバイトをしている田代も一緒だったはずだ。

亜美はというと、日曜日が近づくにつれ、誰かと電話したり、メールをしてる時間が長くなった。亜美にしては珍しく忙しくしてて、あまり「城」の中にはいない。正直、たまきとしてはその方がありがたかった。いまだに、亜美とどう接すればいいのかがわからない。

一方で、亜美がどこかへ行き、志保がバイトに行って、一人で「城」の中でお留守番をしているのは、どことなく寂しかった。一人ぼっちにはもう慣れっこのはずなのに。

相変わらず、心のどこかがもやもやしたまんま、たまきは日曜日を迎えた。「城」の中に積まれていた、花見用の段ボールたちは、前日の深夜にどこかへと運び出された。

薄暗い部屋の中でたまきが一人ぼんやりしていると、志保が帰ってきた。志保はこの日、午前中はいつもの施設へ、午後はバイトへと、忙しくしていた。

帰ってきた志保は、ソファに座り、足をソファの上に投げ出した。

たまきは、そんな志保の顔をちらりと見る。

「志保さんは……」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「お花見……行かないんですか……」

「この前行ってきたよ」

と志保。

「そうじゃなくて、亜美さんのお花見のことです……」

「行かないよ」

志保はきっぱりと言った。

「誘われたけどね。たまきちゃんが行かないのに、あたしだけ行っても、ねぇ」

たまきは、志保の方を向いた。

「そんな……別に私に気を使わなくても……」

「そうじゃないよ。あたしも、亜美ちゃんのお友達はあまり得意なタイプじゃないもん。いったってどうせ楽しめないし、たまきちゃんが行かないんだったら、なおさらだよ」

そういって志保は笑った。そういえば、クリスマスの時もそんなことを言っていたような気がする。

「そういえば、バイト先の人に聞いたんだけど、この辺の川のそばも、なかなかの桜スポットらしいよ」

「この辺の川、ですか?」

「この辺」に川などあっただろうか。

「そう、あっちの方にね」

と言って志保は、北西を指さした。

「有名な川だよ。昔の歌のタイトルにもなっててね」

と言って志保は軽くメロディを口ずさんだが、たまきはその歌を知らなかった。もっとも、志保の音程が正しかったとは限らないが。

「ここからだと歩いて三十分ぐらい。せっかくだからさ、二人でちょっとお花見してこない?」

「二人で……ですか」

「そう、二人で」

たまきはしばらく黙っていたが、静かに頷いた。

 

写真はイメージです

歓楽街を出て、高架に沿って二人は歩いていく。夕焼け空に照らされた漆黒の高架は、まるで強固な城壁のようにも見える。

いつもたまきが公園へ行くよりも、少し長い時間を歩いた。

コリアタウンを抜け、アジアタウンを抜け、昔ながらの商店街を抜け、やがて二人は、川辺に出た。

そこは川と言っても、コンクリートで模られた道に、水を流しているだけのようにも見える。無機質で直線的な河床とは対照的に、川辺に植えられた桜の木々は花開き、その命を以って春を鮮やかに奏でていた。空はすでに紺色に染まっている。

風に吹かれて舞う花びらが、わずかな街灯の明かりに照らされてきらめく。まるで、朝日を反射して輝く波しぶきのようだ。そのまま花びらは川面へと吸い込まれ、桜色に染め上げる。

川には橋が架かっていて、たもとにはコンビニがあった。二人はコンビニでおにぎりやお菓子、飲み物を買うと、橋の上に立った。桜の枝の向こう側にもう一本、橋があって、その上を電車が走り抜けていった。

川沿いの遊歩道には幾人かの花見客がいて、桜を携帯電話で写真に収めていた。それでも、都立公園の花見客に比べればほぼいないに等しい。この場所を狙ってやってきたのではなく、たまたま通りがかった人たちなのだろう。

二人は、遊歩道のベンチに座った。見上げた桜よりも少し高いところに街灯があり、その明かりは花びらを通り抜けて、志保とたまきの足元を照らしていた。

「きれいだねぇ」

「うん……」

たまきは、散りゆく花びらの一つ一つをぼんやりと見つめていた。何も考えずに、ただ花びらを見つめていた。

ふと、たまきが目線を落とすと、志保がたまきにお菓子を差し出していた。

「ふふ。やっと気づいた。食べる?」

「はい……」

たまきはおかしを受け取り、口にくわえた。

「花びらずっと見てて飽きないの?」

「まあ……」

「ヘンなの」

そう言って志保は微笑む。

たまきは志保を見やると、お菓子をほポリポリとほおばりながら、再び花びらへと視線を戻した。

今ごろ亜美は、公園で大勢の友達とともにどんちゃん騒ぎをしているのだろうか。

志保と二人でのお花見はどんちゃん騒ぎをすることもなく、たまきの心の中はだいぶ穏やかだ。

……穏やかなのだが、どこかさみしさをたまきは感じていた。

それも、不思議なことに、今までたまきが感じたことのないさみしさなのだ。

街の喧騒も、電車の音も、風の音も、何か不完全なものに聞こえるような、不思議なさみしさ。

それは、一人ぼっちの時に感じる、空き缶を押しつぶすようなさみしさとは明らかに違う。

まるで、音の鳴らないピアノを弾いているかのような、物足りなさ。

たまきは視線を落として、そのさみしさをゆっくりと噛みしめていた。

志保はお茶を飲みながら、そんなたまきをじっと見ていたが、やがて背もたれによりかかると、言葉を漏らした。

「やっぱり、亜美ちゃんがいないと、さみしいよねぇ」

その言葉に、たまきは思わず志保の方を見た。

志保は、たまきの考えていることがわかったのだろうか。

それとも、志保もたまきと同じことを考えていたのだろうか。

たまきの感じていたさみしさ。それは、亜美がいないことによるものだった。

志保と二人でのお花見も、決して悪くはない。

だけど、いつもいるはずのもう一人がいない。

いつもの三人じゃない。

たったそれだけで、片腕をどこかに置いてきてしまったかのように世界が物足りなく感じる。

一人ぼっちのさみしさだったら、誰でもいいからそばにいてくれれば、紛らわせるけれど、「亜美がいないさみしさ」は、亜美にしか埋められない。

ほかのだれかでは、代わりにはならないのだ。

志保がたまきに何かを差し出した。今度は、お菓子ではないようだ。

「電話してみよっか」

志保がたまきに差し出したのは、携帯電話だった。

「呼んじゃおっか、亜美ちゃん」

「でも……それは……私のわがままです……」

たまきはそういって下を向く。

「亜美さんも向こうで……友達と楽しく過ごしてるかもしれないのに……私のわがままでこっちに来てほしいだなんて……」

「たまきちゃんだけのわがままじゃないよ。あたしのわがままでもあるんだから」

そういって志保は、優しく微笑む。

「いいんじゃない、たまにはわがまま言っても。どんなわがままだって言葉にしなきゃ伝わんないよ。来るか来ないかを決めるのは亜美ちゃんなんだし。それに、もしかしたら、向こうも同じこと考えてるかもよ?」

「え?」

「そしたら、もう、わがままじゃないでしょ?」

 

写真はイメージです

 

日が暮れてすっかり夜になった。都立公園は漆黒の夜空を桜で覆い隠し、ライトが桜を明るく照らし、大勢の笑い声が彩を添えていた。

その中でひときわ、目を引く一角があった。

ブルーシートの上には、動物園に行けば「ヤンキー」や「パリピ」に分類されていそうな連中が集まっていた。髪を派手に染め上げていたり、そうかと思えば坊主頭だったり、刺青を彫ったり、金属ジャラジャラだったり、サングラスをしてたり。「不良の集まり50人セット」と称して、ドン・キホーテで売られていてもおかしくない。

男に比べれば数は少ないが、女もいる。これまた、セクシーを通り越して、破廉恥の領域に片足を突っ込んだような恰好をしている。

少なくとも、こんな場にたまきが来てしまったら、なじめないどころか、泣き出してしまったかもしれない。

さて、亜美はというと、その中でもひときわ、破廉恥の親分みたいな恰好をしていた。

胸の谷間を強調した、緑のタンクトップに、下はダメージジーンズ。それだけだと寒いので、黒い皮のジャンパーを羽織っている。

金髪はいつものポニーテールをほどいてバッサリと下ろし、キャップを被っていた。

亜美はブルーシートから少し離れたところで、なにをするでもなく、集まった群れを見ていた。

笑い声が飛び交い、紙コップには酒が注がれ、反対にゴミ袋の中には潰れたビールの缶が詰め込まれていく。ところどころに、無造作に開けられたスナック菓子や、チョコの包み紙が置かれていた。

「どうだよ。俺がちょっと声かければ、これだけ集まるんだぜ」

ヒロキが酒を片手に笑う。傍らで赤ん坊を抱いている少女は、ヒロキの嫁だ。確か、亜美よりも年下だったはず。

「亜美さん、お疲れっす」

声をかけられて、亜美は振り返った。シンジというひょろ長い男が、女を連れて立っている。

「んあ、来たの」

「そりゃ、亜美さんに来いって言われたら、来るに決まってるじゃないっすか、ねぇ」

確かこいつは最初、来れないとか言ってたはずだった気がするが、なんだか今の亜美にはどうでもよいことに思えた。

亜美がやっていることは援助交際とはいえ、知らないオジサン相手におバカな子ネコちゃんを演じて小遣いをもらうような小娘の遊びとは違う。身一つでこの街に流れ着いた亜美にとって、それは生きていくための稼業に他ならない。

ほぼ無一文だったころは、カネをくれるのであれば「誰とでも」だったが、ある程度金が手に入ると、客を選ぶようになった。

誰とつるめば、どんなグループに身を置けば、この街で自分の座る椅子を確保できるか。

不良がたむろするこの街で、自分と同じ匂いをまとった連中を見つけるのは、そう難しくはない。その中で、どのグループに近づけばいいか。この街の中でそれなりに力があって、亜美のような人間がすんなりと溶け込めそうなグループ。力と言ってもそれは必ずしも暴力を指すとは限らず、経済力だったり、人脈だったり、情報網だったりする。

そうして、自分の居場所となるグループを見つけたら、なるべく、ボス猿の近くへと行く。

そのころにはすでに、亜美が援助交際をしているという事は知られていたので、当然、ボス猿やその取り巻きからもそういう目で見られる。一緒に酒を飲んで話していれば、次第に向こうから誘ってくる。金を出して誘えばノッテくる、「どうせそういうオンナだ」と思われていたのだろうが、亜美としても、自分から誘惑する手間が省けるので好都合だ。どうせ恋愛をするつもりなど最初からないし、相手が自分のことを手頃な玩具程度にしか思わなかったとしても、別に構わない。こっちだって手頃な番犬程度にしか思っていないのだから。

問題は、そのあとである。いかに相手を満足させるか。一夜限りのおもちゃなどで終わらず、いかに深い関係となるか。「情婦」としても、「飲み友達」としても。

ボス猿集団と常日頃から仲良くし、ベッドを共にし、軽いオンナというイメージを持たれる一方で、ボス猿集団よりもランクの劣るサルたちの誘いには応じなかった。

後ろ盾ができたからだ。ランクの劣る男たちの誘いを無碍にしても、「あいつはボスのオンナだから」の一言で許される。

そうすることで、次第にグループの中での亜美の立ち位置も変わってきた。ボスのお気に入りで、ボスやボスに近い連中としか誘いには応じない。それより下の男たちにとっては、亜美は決して手を出すことが許されない、高級娼婦のような高嶺の花。

ブランドのバッグのなにがそんなにすごいのかわからないけど、とりあえずハリウッド女優が持ってたからほしい、でも高くて買えない。でもいつかは欲しい。それと同じ理屈だ。

そうして亜美は、この街に自分の椅子を作ってきた。

花見だの、クリスマスだの、クラブのパーティだのといったイベントごとは亜美にとって、自分のこの街での立ち位置を確認するという側面もあった。自分がどういう立ち位置にいて、どれほどの影響力を持っているのか。

亜美には、王様がピラミッドを作らせたり、マスゲームをさせたりする理由が、ちょっとだけわかった。きっと、お城の中で玉座に座って、王冠をかぶっているだけでは、自分が本当に王様なのか自信がなくなってしまうのだろう。たくさんの人間が、自分の一声で集まり動いているところを見ないと、自分が王様だと信じられないのだ。

そして、今見ている光景はまさに、彼女が楊貴妃であるという事を確かめるには十分なものだった。

なのになぜだろう。何かが足りないと感じてしまうのは。

ここは自分の国で、そして自分は王様なのに、見知らぬ国にいるような気がして仕方がない、そんな物足りなさ。

亜美はどうにも、集まったサル山の中に入って共に騒ぐ意欲が、不思議と涌かなかった。

ふと、視界の端に目を向けると、ミチの姿があった。彼もまた、ヒロキに「絶対に来いよ」と脅され、亜美に「お前、来るよな」と念を押された、哀れな下っぱ猿の一匹だった。

ミチは誰かと話していた。相手はどうも、亜美たちが呼びつけた仲間ではない。

年は六十以上だろうか。煤けた顔には濃いしわが刻まれている。白髪頭にキャップを被っている。どうやら、ホームレスらしい。

「すいませんね、なんか、騒がしくしちゃって」

「なぁに、公園はみんなのものだ、わしらのものじゃない。好きに使うがいいさ」

そういって老人は笑う。話しぶりからして、どうやら二人は知り合いのようだ。

ミチのやつ、ホームレスと一体どういう知り合いだろう、と少しだけ興味を持った亜美は、ミチに近づいてみた。

「よっ、なに、しりあい?」

亜美が声をかけるとミチが振り向く。一方のホームレスは、

「じゃあ、そろそろ出かけるとするか」

と傍らの自転車に手をかけた。

が、ふと動きを止め、亜美の方をじっと見た。

「な、なんだよ」

「あ、いや、亜美さん、この人、別に怪しい人じゃなくて……」

老人は亜美の顔をじっと見ると、

「お前さん、どこかで会ったか?」

と尋ねた。

「あ?」

「いや、会ってはないな。だが、どこかで見た気がする。さて、どこだったか……」

亜美は一時期、お金がないとき、ホームレス相手に「シゴト」をしていたこともあったが、このホームレスとは会っていない。あのとき相手していたのは、もっとだらしなさそうなおっさんばかりだ。

一方の老人は不意に「ああ、そうか」と一人合点したように笑った。そして亜美の方を見ると

「お嬢さん、今日はずいぶんとさみしそうだな」

とだけ言い残すと、自転車をこいで、公園の闇の深い方へと消えて行ってしまった。

「は……」

「あ、あの、ほんとに変な人とかじゃないんで……」

ミチが取り繕うように言葉を添えるが、亜美は無視して歩き出した。

呼びつけた仲間たちのそばへと戻っていく。

ああそうか、自分はさみしかったのか、と亜美は一人で納得した。

自分が一声かければ、これだけの人数が集まる。

なのに、志保とたまきは来なかった。

別に来なくてもよかった連中ばかりが集まって、本当に来てほしかった二人は来なかった。

たまきに「お花見には行きません」と言われて以来、どこかさみしさを抱えていたのは、たまきが「本当に来てほしかった友達」だったからだ。

たまきに「いいから来いよ」なんて言えなかったのは、亜美にとってたまきが、単なる頭数合わせなどではなく、「本当に来てほしかった友達」だからだ。つまらなそうにしててもとりあえず人数がそろえばいい、などと言うのではない。純粋に、一緒にお花見を楽しみたかったから、「嫌々来ている」では意味がないのだ。

たまきに断られた後、たまきとの接し方がわからなくなってしまったのもその「嫌々来ている」をずっとたまきに強いてしまっていたのではないかという、後悔からくるものだった。

ふと、携帯電話が鳴った。

画面を見てみると、志保からだった。

確か、たまきと一緒に「城」にいるはずである。今からでも来るのかと思ったけれど、たまきを置いて一人で来ることはないだろう。

「もしもし?」

「あ、亜美ちゃん? 今、お花見中?」

「そうだけど……」

電話口の志保の向こうに、電車の駆け抜ける音が聞こえた。

「ん? お前、外にいるのか?」

「うん。いま、たまきちゃんと二人でお花見中」

「お花見?」

「そう、二人で」

「そう……」

「それでね、たまきちゃんが亜美ちゃんに言いたいことがあるんだって」

「……たまきが」

「うん。……亜美ちゃん、覚悟して聞いた方がいいよ。それじゃ、代わるね」

しばし、沈黙が流れる。

「あ、あの……亜美さん、こんにちは……」

「……おう」

たまきはなんだか、初めて亜美と話すような口ぶりだ。亜美も、たまきの声を聴いたのは、久しぶりだったような気がする。

「あの、亜美さん……」

たまきはそこで、一呼吸置いた。

「亜美さんも……こっちに来ませんか……」

「え?」

再び、沈黙が流れた。

「こっちで一緒に……お花見しませんか……その……三人で……」

「……バーカ」

亜美は、どこか力なく言った。

「ウチ、これでも幹事だぞ。抜けられるわけねぇだろ」

「そうですよね……。ごめんなさい、わがまま言って……」

「……お前らさ、今、どこいんの?」

「え? えっと……ここ……どこなんでしょう?」

たまきは振り返って、志保に尋ねた。

「あの……、東中野駅の、川のそば、だそうです」

「だそうですって、なんでお前、自分がいる場所、わかってねぇんだよ」

そういって、亜美は笑った。

 

携帯電話をポケットにしまうと、亜美はブルーシートの上のサル山を見やった。

あちらこちらで笑い声が起きる。全員が同じ方を向いているのではなく、いくつかのグループに分かれ、そのグループもやはり、集団内の序列ごとにまとまっているように見える。まさに、サル山だ。

亜美はサル山を見つめていたが、ふと目線を落とすと、半歩後ずさった。

誰も亜美に声をかけるものはいない。

一歩、二歩、亜美はゆっくりと、路面に丁寧に足跡を刻むようにゆっくりと、集団から離れてみた。

誰も亜美に声をかけない。

三歩、四歩、五歩六歩七歩八歩。

亜美は少しずつ歩調を速めるも、誰も、亜美を引き留めない。そもそも、亜美が少しずつ離れていることに、気づいていない。

「……んだよ」

亜美が声をかけてこんなに集まったのに、亜美がその場を離れようとしても、誰も声をかけない。

九歩、十歩、十一歩十二歩十三歩。

夜の漆黒の周りを桜色が縁どる空に、亜美のスニーカーが砂利を踏みしめる音が響いた。

そのまま砂利を磨り潰すように回れ右をすると、亜美は集まった輩に背を向けて、勢いよく走り出した。

スニーカーが激しく地面をたたく。その度に桜の花びらがわずかながらも地面から舞い上がる。

公園から道路へと向かう坂道を、亜美は一気に駆け抜けた。

道路に出て、横断歩道に差し掛かる。信号は赤。車は、数十メートル先に、一台近づいているだけだった。

亜美は構わず、横断歩道に躍り出た。

横断歩道から少し離れていたところを走っていた車のライトが、亜美の姿をかすめるように捕らえる。亜美と車の間にはかなりの余裕があったが、車はクラクションを鳴らす。

クラクションをかき消すように、亜美は舌打ちをした。

うるせぇな。今すぐぶつかるようなキョリじゃねぇだろ。ちょっとぐらい待ってろ。

こっちはな、今行かなかったら、二度とあいつらとお花見なんかできねぇかもしれねぇんだよ。

横断歩道を渡り切ると、亜美は縁石を飛び越えて歩道へと着地する。背後を先ほどの車が駆け抜けていくが、亜美は目もくれずに、ビルの隙間の路地へと踏み出した。

どうして王様の景色を捨ててまであの二人とお花見がしたいのか、どうして自分は走っているのか、亜美にもその理由はわからなかった。

それでも、胸が高鳴る理由が、走っていることで酸素を欲している、だけでは決してないことはわかった。

たぶん、たまきに何かを誘われたのなんて、初めてかもしれない。

それがなんだか、嬉しかった。

 

写真はイメージです

桜の花開く川沿いは、さすがに川のせせらぎが聞こえるほどではないけれど、それでもすぐ近くの都心に比べれば、静寂に包まれていた。

志保はお菓子の袋を手に持ち、それをたまきの方にも向けていたが、たまきの様子を見て、思わず笑ってしまった。

たまきはしきりに、川下の方に視線を飛ばしていた。

「そんなに亜美ちゃんが来ないか気になる?」

その言葉にたまきは、驚きと気恥ずかしさを隠さなかった。

「べ、別に、そういうわけじゃ……それに、断られましたし……」

「どうかな、あんがい来ちゃうかもよ。でもね」

そういって志保は優しく微笑んだ。

「来るとしたら、そっちじゃないと思う」

「えっ」

たまきはもう一度、「そっちじゃない」と言われた方角を見やった。

「だって、私たち、こっちから来て……」

「でも、亜美ちゃん、公園にいたんでしょ。だったら、来るのはこっちじゃなくてあっち……」

そういって、志保が川上を指さした時、ちょうどその方角から、何者かが

「とうっ!」

と跳び上がった。道路から川沿いの遊歩道へと続く段差を飛び越えたのだ。

そのまま、すたっと着地を決める。

「え?」

「亜美ちゃん?」

志保とたまきが、同時に目を見開いた。

「はあ……はあ……、疲れた……走ったー!」

亜美は肩を落とし、胸で大きく息をしている。

「亜美ちゃん、走ってきたの?」

志保の問いかけに、亜美は無言で頷く。

「ズボンがボロボロですよ? 途中で転んで破けちゃったんですか?」

「バーカ、ダメージジーンズだよ!」

「……え?」

「最初からこういうデザインだっつーの!」

「はあ……」

どうしてわざとぼろぼろのジーンズを作るんだろう、とたまきは疑問に思ったが、それよりももっと気になる疑問があった。

「亜美さん、どうしてこっちに来たんですか?」

「お前が来いって言ったからだろ!」

「でも、幹事だから抜けられないって……」

「あー、思ったほどそうでもなかったわ。はっはっは」

それを聞いたたまきは、志保の方を振り向いて、少し得意げな顔をした。

「どうです、志保さん。私が一声かければ、亜美さんだってきちゃうんですよ?」

「ほんとだね。すごいよ、たまきちゃん」

珍しくどや顔のたまきだったが、不意に背後から亜美の手が伸び、たまきにチョークスリーパーホールドを仕掛ける。

「『亜美さんだって』ってウチ以外お前の一声で誰が来るんだよ!」

「ご、ごめんなさい! 一度言ってみたかったんです!」

「あ、あたし、たまきちゃんの一声で来ちゃうよ」

「二人だけじゃねぇか!」

「でも、舞先生もよく、たまきちゃんの一声で来るじゃない。『また切っちゃいました』で」

「リスカの手当てに来てるだけだろそれ!」

亜美は一通りたまきをいじめると解放した。今度はたまきがハアハアと息をつく。

「でも……二人だけでもうれしいし……二人だけで……十分です……」

そういってたまきは、恥ずかしそうに笑った。

「この三人が……いいです」

「じゃあ、亜美ちゃんも来たことだし、乾杯しよっか」

志保は、傍らのレジ袋の中から、コーラの缶を取り出した。

「なんだよ、酒はねぇのかよ」

「あるわけないでしょ」

亜美は不服そうにコーラを開ける。

「それじゃあ、我らの変わらぬ友情を祝して、乾杯!」

「カンパイ」

「……かんぱい」

缶同士が軽くぶつかり、こすれる音がする。

「変わらぬ友情」というけれど、あの頃よりは何かがちょっと変わってるんじゃないか、そんなことをたまきは考えていた。

 

亜美はコンビニでからあげを買うと、ベンチに腰掛け、もりもりと頬張っていた。そんな亜美を挟むように、右側に志保、左側にたまきが座る。

「ところでさ、たまき」

「はい?」

亜美は隣のたまきを、のぞき込むように顔を向ける。

「お前、年末に行ったボウリング、楽しくなかったってマジか?」

「え……まあ……」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、わずかに首を縦に動かした。

「なんでだよ! ボウリングだぞ! 何がそんなに不満なんだよ」

「え……だって……ボウリングってボール投げるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ボウリングだもんよ」

「転がるじゃないですか」

「あたりまえだろ」

「ピンに当たって、倒れるじゃないですか」

たまきはそこで言葉を切ると、亜美の方を見た。

「……それで、どうすれば……?」

「どうすればってお前、そこで喜ぶんだよ」

「……なんで喜ぶんですか?」

「なんでって、ボールが当たってピンが倒れたら喜ぶだろ!」

たまきは困ったように志保を見た。

亜美も困ったように志保を見る。

志保は困ったようにはにかんだ。

「つまりたまきちゃんが言いたいのは、投げたボールが転がって、当たったピンが倒れるのは当たり前だから、それで喜ぶのはヘンじゃないか、ってこと?」

たまきは無言で、こくりとうなづいた。

「当り前じゃねぇだろ。お前、最初ガーター連発だったじゃねぇか。ピンに当たるようになるまでけっこうかかっただろ」

これまたたまきは、無言でうなづく。

「ボールがまっすぐ転がってるとき、たまきちゃんはどう感じたの?」

「ああ、まっすぐ転がってるなぁって……」

「そのあと、ピンに当たって2本倒れたろ」

「ああ、ピンが倒れたなぁって……」

たまきは二人の目を見た。

「それで……どうすれば……」

「そこで喜ぶんだよ!」

「……なんでですか?」

「それがボウリングだろ!」

たまきは、わからない、といった感じで二人を見る。

「お前、なにしたら楽しいって思うんだよ」

「……昔もそれ、聞かれた気がします」

たまきは下を向いた。前髪がたまきの目を、眼鏡ごと覆い隠す。

「今、こうしてるのは……楽しいですよ」

満月の下でお酒を飲んだ夜、シブヤに行ったときの夕暮れ、誕生日を祝ってもらった夜、真夜中に散歩して、日の出を見た明け方、一年にも満たない日々だけれど、亜美と志保に出会う前よりも、思い出ははるかに増えた。

「私……ちゃんと楽しんでますよ……」

「そっか」

たまきの顔を見てどこかほっとしたように、志保は笑った。

「あたしも、楽しいよ。亜美ちゃんは?」

志保に聞かれた亜美は、恥ずかしそうに笑った。

「これで酒があったら最高だけどな。ま、からあげがあるから、よしとするか」

ふと、亜美は先日のやり取りを思い出していた。

『むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ』

『なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!』

特別なことなんて何もしなくていい。

この三人で、同じ時間を過ごすこと。

このなんでもない時間こそが、たまきにとって楽しかったんだ。

「ウチも、まあ、楽しいよ」

そういって亜美は空を見上げた。桜の花びらの向こう側に、いつかの夜のように、まあるい満月が見えた。

つづく


次回 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕! 続きはこちら!


第31話あとがき


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

ネットで何と言われようと構わない

ネットやSNSをしていると時々、汚い言葉で噛みついてくる輩がいる。もはや社会問題だ。

だけど、僕はネット上で何言われようが、まったく気にしない。

「言いたい奴には言わせておけ」の境地だ。往々にして向こうがイキってカラ回ってるだけなので、犬が吠えているのと大して変わらない。特にこちらから何かすることはないし、何を言われても気にしない。犬に吠えられたからと言って、いちいちその内容を吟味して落ち込むことなんてない。

もちろん、いくら何でも面と向かって言われればさすがにへこむ。相手が顔見知りであったらなおさらだ。それは真摯に受け止め、本気で反省します。

だが、ネット上で顔も名前もわからない様なやつだったら、別になに言われてもどうでもいいや、と思っている。

すなわち、「言いたい奴には言わせておけ」というわけだ。相手がそれで気が済むなら、好きなだけ言えばいいじゃないか。いちいち耳は貸さないけど。

そして、黙って通報&ブロックである。

こういうのは、「反論しないと負け」「反論できないと負け」ではない。

「ムキになった方が負け」だ。弱い小型犬ほどよく吠え、明らかに強そうな大型犬ほど以外におとなしいものだ。

こっちが相手にしてないのに、やたらとムキになって吠えたてるような奴は、基本的に小型の室内犬だと思うようにしている。

室内犬はよく吠える。でも、室内犬だから広い世界を知らない。野生の力関係もわからない。室内犬がやたらと元気なのは、彼らが室内で飼い主にかわいがられながら暮らしているからだ。

本当に強い大型犬は、やたらに吠えたりはしない。強いから、余裕があるのだ。

「人間にネットで罵詈雑言を吐かれた」と思うから腹が立つのであり、「ガラスの向こうで室内犬がやたらと吠えてる」という風に思えば、途端にかわいく思えてくる。そして3日もすれば、何を言われたかすら思い出せなくなる。

室内犬に吠えられたからと言って、ムキになって本気で蹴っ飛ばしたりしたら、さすがにかわいそうだ。だから特にやり返したりはしない。

だけど室内犬の皆さんはたいてい、「やり返さないと負け」「逃げると負け」「反論しないと負け」と思っている。だからこそ、蹴っ飛ばそうが踏んづけようが、吠えて噛みつくことをやめない。

そんな室内犬にかまってあげるのはめんどくさい上に、時間の無駄だ。蹴っ飛ばそうが踏んづけようが首の骨を折ろうが、彼らはけっして負けを認めない。だからと言って、息の根を止めてしまうのは大人げない。

めんどくさいので、室内犬はブロック&スルーして、勝ち星を譲ってあげよう。何を言われようが「はいはい、その通りですよ、悪かったね」と軽く受け流す。大丈夫。室内犬に勝ち星を譲ってあげたぐらいじゃ、大型犬のプライドは傷つかない。本気で戦えば大型犬の方が強いのは、誰の目にも明らかだからだ。

いくら吠えても怖くないから、気が済むまで好きなだけ吠えなさい。時間がもったいないから、かまってあげないけどね。

小説 あしたてんきになぁれ 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。「あしなれ」30話目、スタート!


第29話「パーカー、ときどきようかん」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「ねえ、これ見て見て! どうしたと思う?」

「城」の中へと戻ったたまきと亜美に、志保はカバンを見せつけた。今まで志保が持っていなかったカバンだが、たまきの乏しいおしゃれ語彙力では「見知らぬカバン」以外の言葉が見つからない。

「えっと、どうしたんですか、このカバン」

たまきの問いかけに、隣にいた亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告したが、それを言い終わるより早く志保は、

「カレからもらったの! やだもう! 言わせないでよ!」

というとたまきの肩を強くたたいた。

亜美の大袈裟な舌打ちが聞こえる。

カバンなんかもらって、何がそんなにうれしいのか、たまきにはわからない。 そもそも、志保はほかにもカバンを持っていたはずだ。そっちのカバンはどうしたんだろう。穴でも開いてしまったのだろうか。

「ウチ、タバコ吸ってくるわ」

すでにたばこのヤニをはらんでいるかのような声で亜美は言うと、部屋を出て行ってしまった。

たまきは「城」の中を見渡す。いつもに比べるとやけに片付いていて、なんだか今まで自分が暮らしてきた場所とは違うところみたいだ。

どことなく、「踏み荒らされた」そんな気がした。片付いているのに「踏み荒らされた」だなんて変な感じがする。

なんとなく居心地が悪いままにたまきがソファに座っていると、志保が正面のソファに腰を掛けた。

「それで、たまきちゃんはそのパーカー、誰からもらったの?」

「ふえ?」

弾丸が心臓に正確に命中した、そんな気がした。

「どど、どうしてもらったって……思うんですか?」

危うく「どうしてもらったってわかったんですか」と言いそうになったたまきだったが、すんでのところで言葉を変えた。

「だってたまきちゃん、自分じゃお洋服買わないじゃん」

「そ、そうなんですけど……」

「それに、自分で買うとしても、たまきちゃんが選ぶ色って大体、ブラックとかグレーとかじゃん。ブルーは選ばないでしょ」

たまきは視線を落とす。自分がいま身に着けている、黒いスカートと灰色の靴下が目に入った。

「その……ミ、ミチ君のお姉さんにもらったんです」

嘘ではない。ミチは「姉ちゃんと一緒に選んだ」といったのだから。

「どうしてミチ君のお姉さんが、たまきちゃんにパーカーをくれるの?」

「さ……さあ……」

「ふーん」

志保の表情からは、志保がたまきの答えをどう判断したのかはうかがい知れない。

「そのパーカーだったらさ、インナーもそれに合わせたやつ着た方がいいよ」

「……はあ、そうなんですか」

「今度、一緒に買いにいこっか」

「は……はい」

よくわからないが、たまきは今度、志保と一緒にウインナーを買いに行くことになったらしい。ソーセージじゃダメなのだろうか。

 

その日の夜。

亜美はどこかに出かけたまんま帰ってこない。志保はソファの上でタオルを二枚かけて寝ている。

たまきも同じようにして寝ているのだが、この日はなかなか寝付けなかった。

昼間の田代との会話が頭から離れない。面と向かってそう言われたわけではないけれど、たまきたちがこの「城」にいることは間違っている、そんな気がした。

いや、こればかりは「そんな気がした」ではない。たまきたちが「城」で暮らしていることは、事実として「間違っている」のだ。

まず、三人とも家賃を払っていない。不法占拠であり、間違いなく違法行為だ。おしゃれ警察どころか、本物の警察に逮捕されてしまうかもしれない。

おまけに三人とも未成年だ。世間的にはやっぱり、未成年というのは保護者のもとで生活しなければいけないんじゃないか。

亜美はエッチなことをしてお金を稼ぎ、志保は薬物依存で、たまきは自殺未遂を繰り返す。間違っていることだらけである。

間違っていることは、してはいけないのだ。

ところが、間違っているからと言って、家に帰るわけにはいかない。家に帰ってしまったら、たまきはとても生きていける自信がない。

死にたがりでおなじみのたまきだけれども、家で死ぬことだけは嫌だ。家ではないどこか別の場所で死にたいのだ。

そもそも、たまきが死にたかったのは、あの家にいたからなんじゃないか。たまきが死にたい死にたい言いながらも今日まで何となく生きているのは、あの家を離れたからなんじゃないか。

となると、たまきという人間は、「家出して帰らない」という間違ったことをしていかないと、生きていけないということになる。

今までたまきにかかわった大人の多くが、こういってきた。「命を粗末にしてはいけない」と。なぜなら、生きているということはただそれだけで素晴らしいことなのだから。

ところがたまきは、「生きる」という素晴らしいことをするためには、どうしても間違ったことをしなければいけないのだ。

間違ったことをしないと生きていけない。それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

たまきは狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。

そういえば、前に仙人がこんなことを言っていた。「自分がしたことが間違ってると思うなら、したいようにすればいい」と。

たまきがやっていることは間違っている。

たまきは正しいことをしたい。

なのに、たまきは正しいことであるはずの「家に帰る」を絶対にしたくない。

間違っているとわかっているのに、間違っていることはしたくないのに、間違ったことをするしかない。

やっぱり、たまきみたいな子は死ぬしかないのだろうか。

その時、ドアが急に開いて、部屋の電気がぱちりとついた。

たまきはそっちの方を見る。メガネをかけていないから視界がぼやけているけど、どうやら亜美のようだ。

「なんだ、たまき、起きてたのか」

その声は紛れもなく亜美だった。たまきはメガネをかける。やっぱり亜美だ。

たまきの視界の傍らで、志保が起き上がった。

「何……どうしたの……?」

「わりぃ。起こしちゃったか。いや、今度の花見で使うやつ、ここに置くことになってさ。今運んでもらってるんだよ」

そういうと、「城」の中に段ボール箱を抱えた男たちが入ってきた。

「何入ってるの、これ?」

「レジャーグッズとかだよ。あと、酒類。ああ、シンジ、花火はそっちに置いといて」

シンジと呼ばれた痩せた男が、抱えた段ボールを床に置く。

「花火? その段ボールの中、全部花火なの?」

「そうだよ」

花見で使うにはずいぶんな量である。亜美は爆弾テロでもするつもりなのだろうか。

「お花見って、花火するんですか?」

お花見なんてやったことのないたまきが、志保に尋ねる。

「さあ……、もう、お花を見るつもり、ないよね」

深夜に、雑居ビルの無人のはずの部屋に、人知れず運び込まれた、爆薬入りの段ボール。ここだけ聞くと、やっぱりいつ警察が来てもおかしくない気がしてきた。

「お花見はいつやるの?」

と志保が尋ねる。

「再来週か……早くて来週だな。さっき予報見たら、なんか予定より早く咲くんじゃねぇかって言ってるんだよ」

そういってから亜美は志保に、

「お前は来るか?」

と尋ねた。

「うーん、バイト先のお花見と被るかもしれないし~」

「なんだよ。バイト先なんてそんなのバックレ……」

そういってから亜美は、ふとあることに気づく。

「そうか。バイト先の花見ってことは、ヤサオも来んのか」

「ヤダもう! 亜美ちゃん! 言わせないでよ!」

そういうと志保は亜美にぬいぐるみを投げつけた。

「いや、お前、なんも言ってねぇだろ」

亜美はぬいぐるみを片手でキャッチする。

「そっか。お前こねぇのか」

「まだわかんないけどね。スケジュール次第」

「たまきも来るのに残念だ」

「へ?」

たまきはあいまいな返事をしただけなのだが、亜美の中ではもう、お花見に来ることになっているらしい。

正直、亜美とその「悪そうな友達」がやるお花見なんて、行きたくない。全くなじめずに、お地蔵さまのように固まって、たたずんでいるだけの自分が容易に想像できる。

かといって、きっぱりと断ることもたまきにはできなかった。

たまきみたいな友達のいない子にとって、お花見のようなイベントに誘われるということは、とてもありがたいことなのだ。たとえ、絶対にその場になじめないとわかっていても。だから、どうしても断ることができないのだ。

こういう時、亜美や志保だったら、誘われても行きたくないと、きっぱり断ることができるのだろうか。

 

朝になった。

結局、たまきはあのあと横になったらすぐに眠ってしまった。

眠って、朝になったからと言って、寝る前の悩みは別に解決してはいない。

どうして人間には、眠っている間に悩み事を勝手に考えて、起きたら答えが出ている、そんな機能が搭載されていないんだろう。そうしたら、毎日ごろごろしているだけのたまきなんて、今頃お悩み解決の大先生になれたかもしれないのに。

目覚めたからといって、たまきは別にやることもないので、ごろごろしている。

やることがないので、どうしても悩みを考えてしまう。

とはいえ、夜に考えていたことは、朝になっても答えが出ない。そのままお昼になったけど、やっぱり答えが出なかった。

そうだ、仙人に聞いてみよう。仙人だったらきっと、答えを知っているはずだ。

たまきは立ち上がると、何やら携帯電話をいじっている志保を見た。

「あの……ちょっと出かけてきます……」

 

写真はイメージです

いつもの道をとぼとぼ歩き、たまきは公園へとたどり着いた。公園の中の仙人が暮らす「庵」へと向かう。

庵の前では、何人かのホームレスたちが行ったり来たりしていた。だけど、仙人の姿は見当たらない。いつもなら庵の前に椅子を出して、カップ酒でも飲んでいるのだが、今日は姿が見えない。

たまきはなけなしの勇気を振り絞って、そばにいたホームレスに話しかけてみた。何度も「庵」に来るうちに顔見知りにはなったが、話したことはほとんどない。

「あ、あの……その……仙人さんはいませんか……」

ホームレスが足を止めて、たまきの方を向く。

「ああ、仙さんね。仙さんなら、シゴトに行ったよ」

仙人の仕事というのは確か、街中を一日中駆けずり回って、空き缶を集めるというものだった。だったら、当分帰ってこないのだろう。

「そうですか……」

当てが外れたたまきは、下を向いた。

「お嬢ちゃんが来たこと、仙さんに伝えておこうか?」

「いえ……いいです……」

そういうとたまきは、軽く頭を下げて、「庵」を後にした。

とぼとぼと歩きながら、いつもの階段に一人腰を下ろす。

考えてみれば、仙人には仙人の生活があり、都合があるのだ。いつもいつもたまきの都合の良いときにいてくれるわけではないし、いつもいつもたまきの相談を聞いてくれるとも限らない。

そもそも、自分は仙人にいったい、何を尋ねるつもりだったんだろうか。

たまきがしていることは間違っている。たまきはどうしたらいいのか、そんなことを聞こうとしていたのだろうか。

でも、もし仙人が、たまきのやっていることは間違っているのだから、今すぐパパとママのところへ帰れと言っても、たまきはかたくなに首を横に振り続けただろう。

そう、「どうしたらいいか」の答えは最初から決まっているのだ。いや、違う。誰に何を言われても、誰に間違いを指摘されても、それでもたまきは家に帰りたくないのだ。そう、仙人に相談したところで、誰に相談したところで、たまきは答えを変えるつもりは全くないのだ。

もしかしたら、ただ単に「お嬢ちゃんは間違ってなんかいないよ」と言ってもらいたかっただけなんじゃないだろうか。志保が田代のことをいろんな人に相談して回ったように。

そんなことを考えてみると、階段の上の方から

「よっ」

と、声がした。見上げてみると、そこにはギターケースを担いだミチの姿があった。

「……こんにちわ」

「今日は絵、描いてないの?」

「……まあ」

「ふーん。あ、そのパーカー、着てくれたんだ」

ミチはたまきが来ている、薄群青のパーカーを指さす。

「……まあ」

ミチはたまきの隣に腰掛ける。たまきはすっと横にずれて、間隔をあけた。

ミチはギターを取り出して、チューニングを始めている。

「あ、あの……」

たまきは少しミチの方へと顔を向けていった。

「ん? どしたの?」

「ミチ君は……自分のやってることが間違ってるって思ったこと……ありますか?」

「また、ヘンなこと聞くね」

そういってミチは笑った。

「もちろん、あるさ」

「それってどんな時ですか……?」

「……まあ、去年のクリスマスに、たまきちゃんに怒られた時かな」

「ああ……、そうでしたね」

たまきは、ミチの方へとむけていた視線を、正面へと戻した。そういえば、そんなこともあった。ミチが人妻と不倫して、相手のダンナにボコボコに殴られて、そのあと……。

そこでたまきは、あることに気づいた。

「……ということは、不倫してた時も、殴られてた時も、間違ったことをしているとは思ってなかった、ってことですか?」

「たまきに怒られた時点で、間違ってると思った」という話から解釈すると、そうなってしまう。

「え? ああ、その、えっと……や、やだなぁ、そんなわけね……ははは」

ミチの乾いた笑いを聞いていたら、こんな男からもらったパーカーを着ていることが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。クシャクシャに丸めてこの場でたたきつけて返そうかとも思ったけど、このパーカーはミチからだけではなく、ミチのお姉ちゃんからのプレゼントでもあるのだ。ミチのお姉ちゃんは、たまきをネコ扱いしていることを除いては、たまきのような子にいつも焼きそばを作ってくれるステキな人なのだ。そのような人からもらったものを粗末にしてはいけない。

たまきは、パーカーのチャックをキュッと閉めた。

「そういえば、たまきちゃんもお花見来るんだって?」

「ほえ?」

どうもたまきは、核心を突かれたり、予期しない質問が飛んできたりすると、ヘンな声が出てしまうらしい。多分たまきは、国会議員には向いてはいないだろう。都合の悪い質問をされるたびに、「ほにゃ?」とか言ってしまうに違いない。そもそも、人前で演説すること自体が無理だ。自分の写真が選挙ポスターになって、町中に貼られてるなんて、考えられない。

「……まあ」

いつも通りのあいまいな返事を繰り返すたまき。

「場所って、この公園だよね。ここってお花見スポットで有名だし」

「そう……なんですか……」

たまきは頭上を見上げる。夏ごろからよく来ていたこの公園の木が、実は桜であるということを、たまきは今、初めて知った。

「たまきちゃんさ、亜美さんから、何人ぐらい来るか聞いてない?」

「さ、さあ……」

「そっか。俺、センパイからのまた聞きだから、よくわかってねぇんだよなぁ。日にちもまだ決まってないんだろ。バイトのシフトはもう決まっちゃってるから、かぶったら行けないかもなぁ」

そうか。たまきも何か別の用事があればよかったのだ。志保だって、バイト先の花見と被るかもしれない、なんて言っていたではないか。何か別の用事があれば、亜美の誘いを断ることができるし、先約があるならしょうがない、と亜美に嫌な気持ちをさせることもないはずだ。

問題は、「城」にしか居場所のないたまきにとって、別の用事なんかない、ということである。何か用事を無理やりでっち上げても亜美のことだ、「そんなの別の日にすればいいじゃん」とか言って、強引に花見に連れて行こうとするのではないか。

ミチはギターの弦をいじっていたが、やがて、たまきの方を向いた。

「あれ? もしかしてたまきちゃん、花見行きたくない?」

「ほへ?」

またヘンな声が出てしまった。

「ど、どうして行きたくないって……」

そういってからたまきは少し考え、

「……わかったんですか?」

と言い足した。

「いや……なんとなくだけど……なんかたまきちゃん、乗り気じゃないような気がしたから……」

ミチは、ギターの弦に視線を落としながら言った。

「そもそもたまきちゃんって、なんか大勢と一緒にいるときは、あんまり楽しそうじゃないかなって。っていうかそもそも、人が大勢いるとこには、たまきちゃんってほとんどいないよね」

たしかに、祭りだパーティだの時は、わざわざ人のいないようなところに移動するたまきである。

ミチは、ギターをいじる手を止めた。

「いいんじゃね? 行きたくないなら、行かないで」

たまきは無言のまま、ミチの方を向いた。

「だって、花見って楽しむためにやるんだもん。楽しめないなと思ったら、行かなくていいんじゃね?」

「で、でも、せっかく亜美さんに誘ってもらったのに……、悪いです……」

「ああ、わかるなぁ、それも」

ミチはそう言って、笑った。

「俺もさ、センパイに誘われて、クラブとかに行くのよ。未成年でも入れる、クラブ風のイベント。でもさ、俺、クラブミュージックとか、全然好きじゃねぇんだよ。ダンスとかもやったことねぇし、酒代もやたらかかるし」

一か所、法的にちょっとおかしい部分があったが、たまきはスルーした。今のたまきは、人の間違いを指摘できるような気分ではないのだ。

「でも、センパイの誘いだから断れねぇんだよな。メールとかには『お前も来る?』って書いてあるんだけど、ほんとは『まさか来ないなんて言わねぇよな』って書いてあるような気がしてさ。おまけにさ、行ったら行ったで、もうこれ以上は飲めねぇよ、ってタイミングでセンパイが肩ガシッとやってさ、『おい、飲んでるか? ちょっと足りないんじゃねぇか? おごってやるから遠慮せずに言えよ』って言われると、『じゃ、じゃあ、もう一杯』って言わなきゃいけないんよ。今度は『後輩に気前よくおごるセンパイ』って演出に付き合わなきゃいけねぇんだよ」

チャラ男の世界で生きていくのも、なんだか大変である。

「でも、たまきちゃんと亜美さんの関係って、そういうんじゃないと思うんだよなぁ」

「そ、そうなんですか?」

「俺なんかはさ、ぶっちゃけ、頭数要員なわけよ」

「……あたまかず、ですか?」

「そ。誰でもいいから、人数が集まればいい、ってわけ。『俺が一声かければ、これだけ集まるんだぜ』みたいな。だから断るとさ、『俺の顔に泥塗りやがって』みたいなこと言われちゃうわけよ。『お前が来ないとつまらない』じゃねぇんだよ。『俺の顔に泥塗りやがって』なんだよ。ま、アクセサリーみたいなもんだね。ジャラジャラいっぱいつけてるヤツがえらい、みたいな」

たまきは無言のまま、ミチを見ていた。

「でも、たまきちゃんと亜美さんって、そういうんじゃない気がする」

「まあ、私は……地味ですから」

たまきなんてアクセサリーとしては、安物のヘアピンみたいなものだろう。目立たなさすぎて、そもそもつけてることに気づかれないようなやつだ。

「そうそう、たまきちゃんはアクセサリーってタイプじゃないよ」

ああ、やっぱり。

「たぶん亜美さんは、本当に来てほしくて誘ったんじゃないかな」

「ふぇえ?」

そういわれて驚いたたまきだったが、よくよく考えてみると、確かにそうかもしれない。

だって、たまきなんか誘って来てもらったところで、何の自慢にもならないのだ。

「ウチが一声かければ、たまきだって来るんだぜ」と亜美が言ったところで、何の自慢にもならない。

そう、たまきがイベントやパーティに来たところで、何の自慢にもならないのだ。学校にいた時、誰からも何の誘いもなかったのは、たまきなんか呼んでも、何の自慢にもならないからだ。

それでもたまきを誘うというのは、少なくとも頭数合わせではない、と考えてみてもいいのではないだろうか。大体、たまきは影が薄すぎて、たまきみたいな子をいくら集めても、頭数にはならない気がする。

「それにさ」

とミチが言葉をつづけた。

「亜美さんの方から誘ったんでしょ? だったら、亜美さんはたまきちゃんが楽しめるようなお花見を企画する、っていうのが筋なんじゃない? 誘われたけど楽しそうじゃないな、と思ったら、断っていいんだよ」

その言葉を聞いたたまきは、ゆっくりと立ち上がった。

「私、帰ります。その……ありがとうございました」

たまきはぺこりと頭を下げると、階段を上っていく。

「ところでさ、たまきちゃんって、俺といるときは楽しいの?」

「……さあ」

たまきは振り返ることなく、答えた。たまきの黒い髪が、風にふわっと揺れた。

 

写真はイメージです

たまきはとぼとぼと太田ビルに帰ってきた。

「断ってもいい」と言われて、少し勇んだものの、やっぱりいざ断るとなると、憂欝である。

おまけに、ゆうべからの悩みは、ちっとも解決なんかしていない。

階段を上って「城」の前に立つと、屋上から亜美の声が聞こえてきた。

「ああ、ウチウチ」

一瞬、亜美がどこかのおばあさんに詐欺の電話でもかけてるんじゃないか、とたまきの頭によぎったが、どうやらそういった電話ではないらしい。

「シンジ、花見に来れないって言ってんだって? なんで? あいつ、なんつってる?」

亜美は屋上の中でも階段のそばにいるらしく、階下のたまきにもその声がよく聞こえてくる。たまきは、屋上への階段を上り始めた。踊り場まで行くと、亜美の下半身が視界に入った。

「あ? ウチが来いっつってんのに、こねぇとかあいつ、ふざけんなよ? 先約? しるかよ。その先約のオンナと一緒に来ればいいだろ」

たまきはなんだか、見えない手で背中を引っ張られたような感覚だった。

「んじゃまた。うん。はーい」

亜美は電話を切って、携帯電話をたたんだ。

「あの……」

たまきはか細い声で話しかけた。

「ん? ああ、たまき。帰ってたのか。花見な、来週の日曜になりそうだわ。ちょうどその頃が見ごろ……」

「あの、私……!」

誰かの言葉をさえぎるように話しかけるのは、たまきにとってもしかしたら初めてのことだったかもしれない。

だが、続く言葉が出てこない。

「どした?」

「私……その……」

たまきは一度、大きく息を吸うと、亜美の目を見た。

「お花見には……行きません……!」

「え?」

空は青く、雲がふんわりと浮かぶ暖かな陽気だったが、たまきはそのことを忘れていたし、亜美は気づいていないようだった。

「私、お花見には、行きません」

「……なんか予定と被っちゃったか? じゃあ、土曜日にしようか? ああ、サイアク月曜でもいいぞ。どうせ暇人ばっかだし、その方がすいて……」

「ですから……『行かない』んです」

そう、ほかに用事があるわけじゃない。「行けない」わけではない。

「行きたく……ないんです……!」

たまきは亜美の目を見れず、目線を落とした。

「誘ってもらったことは、嬉しかったです……。でも、私、やっぱりお祭りとかパーティとか、苦手です……。だから、行きたくないんです……」

正直な話、たまきは殴られることを覚悟の上だった。もちろん、今まで亜美がたまきに暴力をふるったことなどないし、いくら亜美が短気だからと言って決して短絡的に暴力をふるう人間ではないこともわかっていたが、亜美からのせっかくの誘いを断るのだから、それくらいされても仕方ないんじゃないか、とびくびくしていた。

たまきは、恐る恐る亜美の目を見た。

亜美は、少し驚いたようにたまきを見ていた。さっき電話で「ふざけんな」と怒鳴っていた時とは様子が違う。とりあえず、殴るとかそういう感じではなさそうだ。

たまきと目が合うと、亜美は、はあぁとため息をついた。

「お前な、そんなこと言ってたら、いつまでたってもイベントを楽しめないぞ」

亜美の言い方はなんだか、好き嫌いをする幼稚園の娘をたしなめる、若いママのようだった。

「別に……楽しめなくて……いいです……」

「またそんなことを……。だからお前はダメなんだよ。そんなんじゃ、いつまでたってもウジウジしたままだぞ」

「ウジウジしてたら……ダメなんですか……?」

「大丈夫だって。花見に行けば、なんだかんだで楽しくなるって」

「だから……だから……!」

どうしてわかってくれないんだろう。ずっと一緒にいるのに。

「私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!」

空は相変わらずの青空だったが、太陽が雲の影に隠れ、急に少し薄暗くなった。

「亜美さんはいつも、なんだかんだで楽しくなるっていうけど、私はそれで楽しかったことなんて、なかったです……。亜美さんは私がウジウジしてるからだっていうけど、私だって、楽しいって思うことだってあります。だけどそれは、亜美さんの思う『楽しい』とはたぶん、違うんです……」

この時の亜美の様子をなんと表現すればいいのか、たまきにはわからなかった。少なくとも、今までたまきが見たことのないような表情をしていた。

「楽しめない場所に行きたくないっていうのは……ヘンですか……。亜美さんだって、学校辞めて家出してここに来たんですよね。それって、学校も家も、楽しくなかったからですよね。だったら、わかりますよね……。楽しくないところには……行きたくないんです……」

亜美は何も答えなかった。

「……さようなら」

そう言うとたまきは頭を下げて、階段を下りて行った。

 

「城」のドアノブに手をかけてから、たまきは「しまった」と思った。

「さようなら」だなんて、まるで金輪際あわないような言い方をしてしまった。

もちろんそんなわけなくて、ただ「失礼します」だとなんだか部活の先輩や学校の先生に言っているみたいで、なんか違うなと思ったのだが、「さようなら」は余計に違ったかもしれない。

ただでさえ、亜美の誘いを断ってしまったことに罪悪感を覚えていたのに、「さようなら」だなんて言ってしまって、余計にその気持ちを重苦しく感じてしまうたまきなのであった。

そもそも、罪悪感と言えば、「たまきは間違ったことをしている」というゆうべからの悩みが、ずっとたまきの心にのしかかっているのだった。そこに新たに罪を増やしてしまったから、余計に重く感じる。

昔、たまきがお姉ちゃんと遊んだパズルゲームが、なんかそんな感じだった。相手に攻撃されると、石がずどんと降ってきて、どうやっても消せずにそのまま残り続けるのだ。たて続けに石を落とされると、画面が石で埋まってゲームオーバーになってしまう。そんな気分なのだ。

人は、罪を犯すことでしか生きていけないのだろうか、などと十六歳にしてはちょっと哲学的なことを考えながら、たまきはドアを開けた。

「……ただいまです」

「おかえりー」

と志保の声。

「おー、帰ったか」

と別の声。顔を上げてみると、志保と一緒に舞がお茶を飲んでいた。舞が「城」にいるのはさほど珍しいことではなく、三人の様子を見に、特に用事がなくてもたまにやってきて、お茶を飲んで帰るのだ。

たまきは舞に軽くお辞儀をすると、靴を脱いであがった。

「どうしたの、元気ないね」

と志保が言うが、これはいつもたまきが帰ってくるたびに言われている。もはや英語の授業の「ハウアーユー?」に近い定型文だ。この構文はたまきが、

「まあ」

と返事をするところまでがセットである。たまきがウキウキ気分で帰ってくることなど、三月に一回、あるかないかだ。

ソファに腰掛けたたまきは、テーブルの上にお菓子がおいてあるのを見た。

「広島で買ってきた、変わり種もみじ饅頭だ。チョコとかカスタードとかあるぞ」

「先生ね、仕事で瀬戸内海の方に行ってたんだって」

「瀬戸内の離島をまわって、医療事情を取材して周ってきたんだ」

「そうですか……」

たまきはお菓子には手を付けない。

「……なんか本当に元気ないね?」

「どれどれ?」

と言って舞は、たまきの額に手を当てる。

「うん、熱はないな」

「はい……。熱はないです……」

「いや、だから冗談だってば」

舞はそういうと、志保の方を見て笑った。

「で、若き哲学者殿は、今度はなにで悩んでるんだ?」

舞が冗談めかして言った。

「舞先生は……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「……自分のやってることが間違ってる、って思ったことはありますか?」

「なるほど。つまりお前は、自分が間違ったことをやってるって思って、悩んでるんだな」

たまきは無言で頷いた。

「どうしたの? 誰かに何か言われたの?」

志保の問いかけにたまきは答えない。まさか「あなたのカレシに言われました」なんて言えない。

「なるほどなるほど」

と舞は腕組みをした。

「そりゃあたしにだってあるさ。自分は間違ったことしてるなぁ、って思うことは」

「それは……どんな時でしょうか」

たまきはやっと、舞の顔を見た。

「どんな時って、そりゃお前、潰れたキャバクラに勝手に居座ってる野良猫どもの相手してる時だよ。大人として、こいつらを黙認してていいのか、親元に帰してやるのが常識ある大人のやることなんじゃないか、ってな」

それを聞いて、たまきは言葉に詰まってしまった。

「それで……、舞先生は結局どうし……」

「どうもこうもあるかよ。見ての通りだよ。スルーだよ、スルー」

そう言うと、舞は志保とたまきの顔を見る。

「どいつもこいつも、初めて会った時より少し表情が柔らかくなって、そんなの間近で見てたら、『お前ら家に帰れ』なんて言えるかよ」

舞はお菓子の箱から一つ、もみじ饅頭を取り出して、頬張り始めた。

「お前らが家賃払いたくないからここにいたい、ってだけだったら、あたしがとっくに警察呼んでるよ。でも、お前らは『ここにいたい』っていうよりは、『帰りたくない』ってタイプだろ? とにかく家に帰りたくなくて、そんなお前らの居場所がここだけだった、そういう事だろ? そんな奴らに『家に帰れ』とは言えねえぇよ。たとえ、大人として間違ってるといわれてもな」

『帰りたくない』、ふと、その言葉がたまきには引っかかった。

昨日、亜美に「間違ってるなら解散するか」と問われた時、たまきはそれだけは嫌だと思った。それは舞の言うとおり、とにかく家に帰りたくないからだろう。今朝から何度考えても、やっぱり答えは「帰りたくない」だ。

でも、それだけだったのだろうか。確かに、はじめは「家に帰りたくない」という一心で、この「城」にしがみついていたはずなのだが。

「でも、やっぱり私たちって、間違ってますよね……」

そういったのは志保だった。

「先生はいろんなこと考えて黙認してくれてるんでしょうけど、実際に不法占拠してる私たちって、やっぱりただのわがままなんじゃ……」

「そりゃ、そうだ」

そういいながら、舞は二つ目のまんじゅうを手に取ると、志保とたまきにも食べるように促した。二人もまんじゅうに手を伸ばす。

「でも、家には帰りたくない、だろ。たまきなんか、家に帰ったらすぐ死んじゃいそうだもんなぁ」

舞は冗談めかして言ったが、たまきにはどうにも冗談に聞こえない。

「自分たちが間違ってる、悪いことをしてる、ってわかってるなら、結構だ。その気持ち、忘れるんじゃないぞ」

「でも……」

たまきが口を開いた。

「間違ってることをしてるのに、そのまま何もしないのは、もやもやします……」

「そりゃそうだろ」

舞は手の中で、まんじゅうを包んでいたビニール袋をクシャクシャと丸めた。

「悪いことをしてりゃもやもやするのはしょうがないだろ。悪いことしてるのに、心はすっきりしたいだなんて、都合のいいこと言うんじゃないよ」

そう言って舞は、紅茶の入ったカップに口を付けた。

「ま、『自分は間違ってるんじゃないか』『自分が悪いんじゃないか』ってもやもやは大事にしとけよ。自分が正しんだ、自分は間違ってなんかないんだ、って思いこむ大人に限って、ただ単にそういった感覚を忘れてるだけだったりするからな」

舞はカップをテーブルに置く。

「ほんとはみんな、そんなもやもやを抱えて生きてるはずなのに、気づいてないふりしてるだけさ。お前らは間違ったことをしている。だけど、正しいことをすることができない。だったら、そのもやもやをしっかりと感じながら、生きていくしかないだろ。そしていつか、自分たちの間違いの始末を、きっちり付けられる大人になることだな」

 

そこに、ドアが開いて亜美が入ってきた。

「あれ? 先生来てたんだ?」

亜美の声を聴いた途端、たまきはなんだか自分がそこにいてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。

「あ、あの、私、屋上にいます……!」

そういうとたまきは、亜美とは目を合わせることなく、亜美の脇をすり抜けて、「城」から出ていった。

「たま……」

と亜美が言いかけたが、扉が閉まると、その声も聞こえなくなった。

 

写真はイメージです

屋上からたまきは歓楽街を眺める。ここからは、歓楽街の街並みも、駅前のデパートも、線路の向こうの都庁も見える。ここに立つと、この街のすべてを掌握してるかのような錯覚と、世界中のだれからも見つからないように隠れ住んでいるという実感が、同時に襲ってくるのだから、不思議だ。

結局、たまきの中のもやもやとした罪悪感は、消えることがなかった。

それもそのはずだ。家出とか、不法占拠とかは、どうあがいても正当化できないのだ。そうである以上、「たまきがしていることは間違っている」というのは、動かしがたい事実なのだ。罪悪感を感じない方が、狂っているのだ。

きっとたまきみたいな不良品は、この先もこんなもやもやをいっぱい抱えて生きていくんだろう。それは罪悪感だけじゃない。劣等感、屈辱、嫉妬、焦燥、不安、憂欝、孤独……。他人と自分を比べ、現実に見下され、その度にみじめな思いをして、いろんなもやもやを抱えて生きていくのだろう。積み重なったみじめな思いを、神様がパン祭りのお皿と交換してくれるわけでもない。積み重なったみじめさなんて、何の役にも立たない。

「生きているという事は、ただそれだけで素晴らしい」というけれども、ただただみじめな思いを重ねるだけの人生でも、それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

もしかしたら、たまきが今まで言葉には出せずに、手首から血を出して訴えていたのは、このことだったのかもしれない。みじめな思いを積み重ねるだけの人生でも、生きていく意味なんてあるのか、と。

そして、そんなまさに血を吐くような問いかけに、答えてくれた大人はいなかった。

やっぱり学校は、本当に大切なことに限って、教えてくれないのだ。

つづく


次回 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」