やっぱり『稼ぐ』って言葉が嫌い

前にも書いたんですけど、僕は「稼ぐ」という言葉が嫌いです。そこには、「すべておのれの才能と実力だけで稼いだ」っていう慢心があるからです。

「自分の実力だけで『稼ぐ』」なんてありえないのですね。その人が才能や実力を発揮できるための環境を整えた人間だけでも、数え始めるときりがないくらいいっぱいいるんですね。

『プロサッカー選手になって、日本代表で活躍したぜ!』⇒Jリーグがあってよかったね。30年前はなかったんやで。JFAに感謝しな。

『ユーチューバーになって、インフルエンサーになったぜ!』⇒YOU TUBEやSNSがある時代に生まれてよかったね。あと、撮影で使うカメラ、自分で作ったわけじゃないだろ? メーカーへの感謝を忘れるなよ。

『スマホひとつでどこでも仕事できるぜ!』⇒ジョブズの墓参りをしろ。

こんな調子で、誰もがあったこともない誰かのお世話になって生きているのです。全人類、誰かの苦労におんぶと抱っこされて生きているのですね。

僕自身もハッとさせられることがありまして。

ずっとZINEを自分一人で作っていると思ってたんですけど、いざ販売しようと文学フリマの会場に行くと、すでに僕が使うための長机が用意されていたんですね。

そのとき、ハッとするわけですよ。

「俺、自分で使う長机を、自分で用意してない!」

「そもそも俺、このイベントの手伝い、何もしてない!」

自分一人で活動してると思ってたけど、最後の「販売」というステップでは、どうしても他人の力、他人の看板を貸していただかないと、何もできないのですね。

そもそもこの「自分一人で活動してると思ってた」の時点で、思い上がりなのですね。パソコンとプリンタと、近所の東急ハンズがあって、初めて成り立つ活動なのです。

恩人に足を向けて寝られないけど、全方位に恩人がいるので、立って寝るしかないのです。

石を投げれば恩人にあたるのです。いや、恩人に石を投げてはいけません。

なんでこんな話をしてるのかと言うと、例のプロゲーマーが差別発言をして炎上した挙句、スポンサーから契約を切られて、チームもクビになった、という話です。

この人こそまさに、自分の置かれた環境への感謝を忘れていたんだろうなぁ、と。

だって、過去の発言とかも掘り返されているけど、要は「自分以外みんなカス」って言いたいわけでしょ。

でも、プロゲーマーがゲームの大会で実力を発揮してお金を得るためには、ゲームを作った人たちが必要なわけで。eスポーツやプロゲーマーにそれこそ「人権」が認められるように頑張った人たちが必要なわけで。そこに気前良くお金を出すスポンサーがいる必要なで。コントローラーだってゲーミングチェアだって、自分じゃ何一つ作らないわけで。要は「他人の苦労におんぶにだっこ」だったわけです。

そういった「環境を整えてくれた人たち」への感謝がないから、いざって時に「環境」の方から「あんた来なくていいよ」とはしごを外されてしまうのです。

これがホントのSDGs!!

今年の冬は、一段と乾燥してますね。

どのくらい乾燥してるのかと言うと、これまで乾燥なんてまったく気にしなかった僕が、気にするぐらい乾燥してます。

なんかね、かゆくてたまんないんですよ。で、かゆいところを触ると、もう明らかに肌が乾燥してるんですね。

なので、霧吹きを用意しました。

そんで、1時間に1回、部屋の中で霧吹きを散布しまくってます。湿度よ、あがれ~。

……いや、加湿器買えよ!

でもね、加湿器買うと、お金がかかるじゃないですか。

霧吹きはね、元から家にあったのですよ。タダなのですよ。

で、1時間に1回、部屋でシュッシュしてます。それ以外にも、乾燥が気になったら、部屋でシュッシュしてます。

……いや、加湿器買えよ!(2回目)

でもね、1時間に一度、部屋の中で霧吹きを散布する。たったそれだけの手間が惜しくて、マシンを買うなんて、バカバカしくないかいですか?

そしてふと気づくのです。そうか、今話題のSDGsってそういうことか。

電気を使わなくても、人力でできることは、人力でやろう。

そう、SDGsとは、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」の略なのです。

……最後の小文字の「s」は何なのかって?

……そう、SDGsとは、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」 s「しょ、少年!」の略なのです。少年よ、大志を自力で抱け!

人力でよくない?ってことはほかにもありまして。

最近は夏場になると、携帯型扇風機みたいなのを持っている人を街で見かけます。お店に行くと、売ってます。たぶん、電池式なんでしょうね。それを見るたびにいつも思うんです。

……うちわじゃあかんの?

うちわなんて、だいたいただで配ってることが多いんだぜ。

まあうちわは持ち運びに不便ですけど、扇子だったら持ち運びも楽チン。むしろ、小型扇風機より軽いですよ、きっと。

おまけに、扇子があれば落語もできます。「時そば」とかやれちゃうよ。

もちろん、扇子もそこそこの値段がしますけど、

……電池って意外と、高いのよ。

仮に小型扇風機が充電式だったとしても、

……どうせすぐ壊れるって。

僕の部屋にあるうちわなんて、たぶん、10年ぐらい前のやつです。まだ全然使えます。なんというものもちの良さ。

おまけに、風の強弱も手首の加減一つで思いのまま!

これぞ、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」 s「少年!!」

科学の進歩は素晴らしいですが、中には「なくてもよかった進歩」もあるのです。

この前も、街を歩いていたら、電動スクーターがスイ~!

……自転車に乗れ! 太るぞ!

「反発」だらけの人生

思えば、僕の人生はたいてい何かに反発してばっかりなんです。

たとえば、「あしたてんきになぁれ」という小説。あれは学校や受験、就職といった枠組みへの反発が根底にあるんです。

「民俗学は好きですか?」ってZINEも、いろんなものへの反発が根底にありますね。

まずは、民俗学への反発。民俗学についてやってるのに、民俗学に反発するとはどういうことや。

民俗学の本って、わかりづらくて、面白くない本が多いんですよ。

「俗」ってついてるんだから、わかりやすくて、おもしろくないとダメだろ、っていう「反発」があって、なので「わかりやすく、おもしろく、奥深く」を掲げてZINEを作ってます。「勉強してる人やオタクにだけわかればええねん」はやめよう、と。

そもそも民俗学自体が、文献至上主義の歴史学への反発で生まれたものですし、偉人中心の歴史観への反発でもあるんですよ。さらに紐解くと、民俗学の父・柳田國男が官僚時代に抱いた、「地方の実情を無視した国策」への反発が、彼を民俗学の道へといざなったんです。民俗学ってそもそもが、反発の学問なんですよ。

また、ZINEというスタイルには、WEBライターやライター業界への反発が潜んでます。

自分でZINEを作ろうって思ったきっかけが、いまのWEBライター業界は、記事を量産してお金を稼ぐことしか考えてなくて、質のいい記事を作ろうという気概がない、という「反発」でした。

さらに、

「ライターってなんで自分でメディア作らずに、『お仕事待ってま~す』なの?」

「ライターってなんで自分の作品を自分で売らないの?」

「ライターってなんで自分でお客さんの前に立たないの?」

という業界そのものへの「反発」もあるんです。

反発に反発を上塗りする、反発オンザ反発スタイル。

さらに、「ノンバズル企画」という活動には、SNS社会の「バズることが正義」「ネット上の数字が正義」という風潮への反発もあります。

学校とか就職とか、民俗学とか、ZINEとか、自分が通ってきた道をもれなく反発で塗りつぶしていきます。反発の大怪獣です。後始末は誰がしてくれるんでしょうかね。

ピースボートだけは反発から免れているのかと思いきやどっこい、旅人界隈によくある「行った国の数をプロフィールに自慢する」とか「海外いっぱい旅したヤツがエラい」「旅するヤツがエラい」といった風潮にも中指たててます。

ここまで反発しっぱなしだと、きっと死ぬまで反発しっぱなしなのでしょう。世間が右を向けば左を向く。左を向けば上を向く。こういうやつを昔から「アマノジャク」と言うのです。

「稼ぐ」という言葉が嫌い

「稼ぐ」という言葉が嫌いです。

なんだか「自分一人の実力で、これだけ稼いだぜ、ざまぁ」みたいな臭いを感じて、イヤなのです。

だって仕事はお客さんから「いただくもの」だし、お金もお客さんの役に立って初めて「いただくもの」。

なのに「稼ぐ」という言葉には「全部自分の力」みたいな思いが見え隠れして、イヤなのですよ。

とはいえ、僕も気を抜くとつい「今日の稼ぎは……」なんて口にしてしまってるんですけどね。その都度「いけないいけない」と自分をいさめているわけです。

とはいえ、臆面もなく「俺の稼ぎは……」とか言うやつは好きになれません。周りへの感謝を忘れた、犬畜生だと思ってます。

ところがね、そんな犬畜生がいたのですよ。

タイムラインに流れてきたネット記事に「仕事は自分で作るもの」「給料はもらうものではなく稼ぐもの」とまあ偉そうに書いてあったのです。

……噛み殺すぞ、てめぇ。

(人に噛みつくのは犯罪です。絶対にやめましょう)

給料は「稼ぐもの」ではなく、会社がお客さんの役に立って、「いただいた」お金の中から分配されるもの。つまりは、いただくものです。それも、いただく相手は上司でも経理部でも社長でもなく、会社の外の人からいただくのです。

さらに言えば、会社員の場合、その会社のブランド価値を高めてくれた先輩方がいるわけで、さらに言えば会社を設立した人がいるわけで。どれだけ有能な社員でも、彼らの存在抜きにして、今日の有能さはありえないわけです。

じゃあ、自分で起業した人は「全部俺の稼ぎだぜ!」でいいのか、って言ったらそういうわけでもなくて。

たとえば会社の業務を楽にするためのソフトとかアプリとか。

……おまえが作ったんか? ちがうよな。

たとえば会社の業務で使う車。

……おまえが作ったんか? ちがうだろ。

たとえば取引先との連絡に使っているスマートフォン。

……おまえが作ったんか? ちがうでしょ? スティーブ・ジョブズとグラハム・ベルに感謝しなさい。

そして、これらが壊れた時、じゃあ自分一人で直せるのか、って言ったら、専門家でない限り無理なんですよ。

さらに言えば、「起業して、収益を上げられるような時代・環境」を整えた人は誰だろう、と考えると、それはもう気の遠~くなるほどの年月をかけて、気の遠~くなるほどたくさんの人たちが、今の時代を気づいたわけで、己などその大河に一滴に過ぎないわけです。

自分一人じゃ、ほんとは何にもできない。だから、仕事で電話を掛けるときは、こう言うわけですね。

「お世話になっております」

なぜ、ZINEを販売するお店は(そんなに)ないのか

年末にイベントに参加してきたんですよ。出展する側ですね。

野外のイベントだったんでコロナのリスクは低いんですけど、むしろ凍死のリスクが高くて、死ぬかと思いました。

文学フリマや、ましてやコミケなんかと比べると決して大規模なイベントではなかったけど、それでもまずまずの部数を売り上げたんです。

そして、ふと思うのが、「毎日、このくらいの売り上げがあったら、結構な収入にならないか?」

1日1万円を売り上げるとして、ひと月営業したら、30万円。

……悪くないじゃない。

もちろん、これだけだと店舗の家賃やコストだけで飛んでく可能性があるけど、何人かでチームを組んでお店を作ったら、結構いけるんじゃないの?

となると問題は、「僕のZINEはイベントじゃなくても売れるのか?」という点ですね。「イベントだから」売れてるんじゃないのか。お祭り気分だからみんな買ってくれたんじゃないのか。

まさにハレとケの問題。イベントで売れたZINEは普通のお店でも売れるのか?

となると、疑問に思うのが「なぜ、コミケの同人サークルは、常設店舗を作らないのか?」ということ。

半年に一度のコミケには、50万人ほどが集まるといいます。

もし、秋葉原あたりにコミケと全く同じ品ぞろえのお店があって、365日営業しているとしたら、1日3000人近くのお客さんが集まる大繁盛店になるという計算。

もはや、デパートですよ。秋葉原同人誌デパート。コミケがあれほど繁盛してるのに、なぜ同人誌デパートが生まれない?

ただ、コミケの主力商品は二次創作品。悪い言い方をすれば「パクリ」。

二次創作の売買が許されているのはイベント、つまりお祭りだからであり、それをさすがにお店で堂々と売り始めたら、さすがに集〇社あたりから「ちょっ、待てよ!」と言われてしまうのではないか。

メ〇ンブックスなんかでひっそりと委託販売してるくらいならまだしも、堂々とお店を構えるのはさすがにマズい気がしますね。

その点でウチは大丈夫です。完全なオリジナル作品ですから。

(まあ、全ての民俗学は柳田國男の二次創作なんじゃないか、という疑念は置いといて)

まあつまり、同人誌の即売イベントがあれだけ盛り上がるということは、「商業誌じゃないから」「個人が作ったものだから」「手作りだから」は、売れない理由にはならない、ということです。

むしろ、出版不況と言われ続ける今こそ、ZINEに価値があるのかもしれない。

全国でZINEやリトルプレスを扱うお店も、確実に増えてきています。ZINEを売る場をハレからケへと移す方法も、どこかにあるはずなんです。

「悪」を煽る奴も同罪じゃないのか?

ネットとかを見ていると、腑に落ちないことが多々あって。

「悪いヤツ」や「悪いもの」をもてはやした連中は、「悪いことをしたやつと同罪」ではないのか、って想いがずっとあるんですよ。

たとえば、ちょっと前に話題になった「迷惑ユーチューバー」。逮捕だの裁判だのアカウント凍結だので話題になりましたけど、あれって、「動画作った本人」だけが悪いんでしょうか。

どうしてそんな動画作ったのかと言うと、「再生回数が伸びるから」ですよね。誰も見ない迷惑動画を黙々と作るような酔狂な人間はまずいないはず。「この動画、迷惑でおもしれー!」ともてはやした連中が、サル山の猿のようにうじゃうじゃいたから、迷惑ユーチューバーは迷惑動画を作り続けたはずなんですよ。

迷惑動画をおもしろがって楽しんだ連中は、動画を作った本人と同罪じゃないのか? だって、こいつらがいなかったら、迷惑ユーチューバーは活動できなかったはずなんです。

そして、こいつらがタチ悪いのと思うのは、

「いや、僕らただ動画見てただけですよ」という言い逃れができてしまう、という点。

たしかに、積極的に悪いことをした人間と、それをただ見てた人間を同罪にする、と言うのは無理があるのかもしれません。

一方で、「いじめを黙認して傍観してるやつも、イジメた奴と同罪」っていうし。

犯罪にしろ虐待にしろ、「通報義務」ってあるし。

飲酒運転を黙認したやつは飲酒運転したやつと同罪だし。

悪を傍観することは、悪を黙認することであり、悪を推奨することなのではないか。

思えば、昔からこういう問題がたびたび出てくるわけです。

たとえば、10年ほど前の某ボクサー一家の問題。

それまでさんざん「ワルっぽいところがいい!」とか言ってたのに、いざ問題を起こしたら、みんなてのひら返し。

挙句の果てには「持ち上げてたマスコミが悪い」。

マスコミが持ち上げてたのは視聴率が取れるからであり、つまりは「ワルっぽくておもしれ‐!」って人たちがいっぱいいたから、マスコミが持ち上げたわけです。誰も食いつかないものにマスコミは注目しません。

最近だと、SNSの誹謗中傷で自殺者を出した某番組。この番組も、過剰な演出がイケなかった、ということにされています。

するとやはり、過剰な演出をした番組が悪い、と言われるのですね。

でも、テレビが過剰な演出をしたのは、その方が視聴率が取れるからであり、つまりは「リアリティショーっていうの? 過激でおもしれー!」という連中がいっぱいいたからです。

そして、ボクサー一家が問題を起こそうが、シェアハウス番組が問題を起こそうが、面白がった連中は知らんぷりです。「僕ら、ただ見てただけです」というわけですね。

……同罪だからな。

ちなみに、「ガキ使」をやらなかった今年の日テレの大みそかは、視聴率が悪かったらしいです。みんなやっぱりケツバットとタイキックが見たかったんですね。

……アウトー!

感想:「白い砂のアクアトープ」とは何のアニメだったのか

ふだん、僕はアニメを見るとき、事前情報を一切入れない。当日のテレビ欄で初めて「こんなアニメ始まるのか」と知るのである。

そんな僕が唯一、予告CMで「これは見たい!」とチェックを入れ、見逃さないように放送日をしっかり確認したアニメ、それが「白い砂のアクアトープ」。

予告を見て、「これは僕好みのアニメっぽいぞ。それも、P.A.WORKSだと!?」とチェックを入れていたのです。3か月も前から。

そして、「白い砂のアクアトープ」、期待通りのアニメでした。

「白い砂のアクアトープ」のあらすじ(軽いネタバレあり)

「終わっちゃった、私の夢……」

東京でアイドルとして活動しながら夢を追いかけていた少女、宮沢風花。だが、チャンスを手放してしまい、夢を諦めてアイドルをやめてしまう。

だけど、すぐに実家の岩手に帰る気にもなれなかった風花は、たまたま東京駅で沖縄の観光ポスターを目にして、沖縄への一人旅に出る。

当てもなく沖縄をさまよう風花はやがて、「がまがま水族館」という古い水族館にたどり着き、館長の孫娘、海咲野くくると出会う。どこにも行く当てのない風花は、がまがま水族館が人手不足・絶賛バイト募集中であることを知り、がまがまで働くことになった。

だが、がまがまは設備の老朽化で、あと1か月で閉館することがすでに決まっていた。

がまがまを我が家のように思って育ち、自他ともに認める水族館バカのくくるは、なんとかがまがまを存続できないかと一人奮闘していたのだ。

「風花、私の夢を手伝って!」

一か月の間、なんとかがまがまを存続できないかと奮闘するくくると、そんなくくるを手伝いながら、水族館の仕事に触れていく風花。

だけど、台風が直撃した夜、がまがまの老朽化した設備では生き物たちを守り切れないという現実を目の当たりにし、くくるは閉館を受け入れる。

こうして、がまがまはその歴史に幕を下ろし、風花も岩手へと帰っていったのであった。

ここまでが12話までのお話。これはこれで十分「いいアニメじゃった」って言えるんだけど、

これ、まだ、お話の半分です。12話であまりにもきれいに終わったので、ネットは「あと半分、どうなるの?」と騒然としていました。

さて、迎えた第13話。時は流れて、くくるは沖縄で、風花は岩手で、それぞれ高校を卒業し、二人はそろって沖縄に新たにオープンした大型水族館、「アクアリウム・ティンガーラ」に就職した。

風花はペンギンの飼育チームに配属。まずは、数十匹いるペンギンの顔と名前を一致させるところから始まる。

一方、飼育員志望、と言うか飼育員しか眼中にないくくるだったが、配属されたのはなぜか企画・営業の部署だった。圧迫上司には「プランクトン」とあだ名をつけられ、くくるの「水族館で働いているのに、生き物とまったく触れ合えない日々」が始まった……。

というのが、「白い砂のアクアトープ」のあらすじ。

さて、「白い砂のアクアトープ」とは、いったいどういうアニメだったのだろうか。

どういうアニメって、水族館のアニメですよ。

それはそうなんだけど、ここで言いたいのは、「このアニメの主題とは何か」。つまり、「このアニメで一番伝えたかったことはなにか」「24話もかけて描きたかったこととは何か」

「白い砂のアクアトープ」の主題、それは最終回に登場する。「水族館が好き」というセリフだ。

もっと細かく言うと、「たまたま水族館に行きついただけだった少女・風花」と、「水族館が好きだけど、水族館で働くことは必ずしも楽しいことだけではない、ということがわかっていなかった少女・くくる」が、本当の意味で「水族館が好き」と言えるようにまるまでを描いた物語、それが「白い砂のアクアトープ」である。

そして、「白い砂のアクアトープ」は「くくるの視点」と「風花の視点」で、意味合いが大きく異なる。物語そのものはたいして変わらないはずなのに(この百合ップルはスキあらばいつも一緒にいるのだ)、その意味が大きく変わる。

「水族館が好き」(くくるの物語)

「伝説の飼育員」をおじいに持ち、水族館を我が家のようにして育ったくくるは、自他ともに認める水族館バカ。学校の授業中でも海の生き物のことを考え、水族館で働けるなら休みなんかいらないというブラックなセリフも平気で言ってのける。

くくるにとって「水族館が好き」というのは、あまりにも当り前のこと。

ところが、そんなくくるがティンガーラで配属されたのは、特に興味のない営業・企画の部署だった。アットホームな雰囲気のがまがまと違い、ティンガーラは多くの人が働く「ガチ職場」。

はたから見ている分には、くくるが期待されているからこそ、飼育以外の仕事を経験させようという人事にしか見えないのだけれど、当の本人は「ぜったい意地悪されてる」。くくるという子は、基本的に未熟なのです。

好きじゃない企画・営業の仕事だったけど、くくるなりに一生懸命がんばる日々。だけど、何日もかけて用意したプレゼンで失敗して結果を出せずに落ち込んだくくるは、とうとう水族館の仕事をずる休みしてしまう。

これは、大事件である。水族館が大好きなくくるが、水族館から逃げ出したのだ。水族館で働けるなら休みなんていらないと豪語していたくくるが、ずる休みをしたのだ。

そうして心折れたくくるが、どう立ち直って、どう水族館に向き合っていくかが終盤の展開なのであるが、ここで注目したいのは、大好きな職場にも、「やりたくない仕事」や「めんどくさい人間関係」、「心折れる挫折」など、「好きだけじゃどうしようもないこと」があるという点だ。

好きな仕事や好きな場所で、つらいことや好きになれないことに直面した時、それでもあなたは「好き」って言えますか?

好きだけじゃどうしようもない。でも、やっぱり好きじゃないと乗り越えられない。

ただただ純粋に水族館が好きだったくくるが、水族館の「好きではない部分」を目の当たりにして、そこを乗り越えて本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでを描く物語、それがくくるのがわから見た「白い砂のアクアトープ」なのだ。

だから、くくるは最終回でおじいに「がまがまで働いてたとき、つらいことあった?」と尋ねる。このセリフをわざわざ最終回に持ってくるということは、それだけこのセリフがくくるにとって重要だということである。

「水族館が好き」(風花の物語)

風花はくくると違い、がまがまに来るまでは特に水族館に思い入れはなかった。たまたま水族館に流れ着いただけであり、行き場のない風花を受け入れてくれるのであれば、博物館でも図書館でも映画館でも写真館でも、蝋人形の館でもよかったのだ。

風花はまじめな子なので、たまたま行き着いただけの水族館の仕事にも真摯に取り組んでいく。ペンギンの名前を覚え、海の生き物の知識を深めていく。だが、くくるのような根っからの水族館バカや、大学で海洋生物を専攻していたような飼育員と比べると、やはり知識不足である。

それを印象づけるシーンがある。23話でのハワイ留学を賭けたプレゼンのシーン、風花だけがほかの人の発表も熱心にメモに取っていた。風花のまじめさが際立つ一方で、ほかの人に比べると風花はまだまだ勉強不足、ということを本人もわかっているからメモを取っているのだろう、という風にも見えるのだ。

ティンガーラの面接のときも、がまがまでの一か月で水族館の仕事に興味を持ったというだけで、はっきりと「水族館が好き」とは言っていない。

自分の意志や決断ではなく、たまたま流れ着いただけの場所。逃げてきて、たまたま行き着いただけの場所。それでもあなたはそこが「好き」って言えますか?

終盤でティンガーラの近くの入り江にバンドウイルカの子供が迷い込んでくる。近所の子供たちから「バンちゃん」と呼ばれ親しまれるが、一方で、ケガをしてるわけでも弱っているわけでもないのに、なぜ沖へ出ていかないんだろうとくくる達は不思議がる。

「バンちゃん」は風花の現状を象徴しているのではないだろうか。迷い込んでたまたまやってきた場所が居心地がよく、沖に出ることを忘れたバンドウイルカ。

だからこそ、第23話で風花がくくると離れハワイへ留学する決意を固めたシーンで、「バンちゃん」が飛び上がり月に照らされるカットが描かれる。入り江に迷い込んだバンちゃんは、風花の姿そのものだからだ。

そして最終回には「バンちゃん」は登場しない。きっと風花の決意を見届けて、沖に帰ったのであろう。

風花がくくると離れるという決断をしたことには、物語の中で大きな意味がある。

風花がアイドルをやめてしまったのも、後輩にセンターの座を譲ってしまったことで、「やる気がない」と思われたことが原因だった。

風花は、自分の夢よりも他人を優先させてしまうのだ。

それ自体は決して悪いことではない。風花が優しすぎるが故のことである。

だけど、毎回毎回、自分よりも他人を優先させていたら、損をするのは風花である。

そして、ティンガーラで働いていた風花はやがて海の環境問題に興味を抱く。そんな風花にハワイ留学のチャンスが巡ってくるのだが、最初、風花は「くくると離れたくないから」と断ってしまう。

くくるにとって風花は、親友であると同時に、お姉さん替わりでもあった。そんな風花がいなくなったら、いま仕事でいっぱいいっぱいのくくるはどうなってしまうのか。

ここで再び、風花は自分の夢よりも他人を優先させようとしてしまう。

たまたま水族館に迷い込んだだけの風花が、今度はそこを離れられなくなってしまったのだ。

これは、くくるにとってもよくない。自分が理由で風花が夢を諦めたとなったら、くくるは絶対に責任を感じてしまう。実際、風花にセンターを譲られた後輩は、自分が風花を引退に追い込んでしまったんだと、逆に責任を感じてしまっていた。

だが、くくるが風花の優しさを受け止めたうえで、風花を夢へと送り出す側に回ることで、風花はようやく自分の夢へと進む。

「たまたま流れ着いた場所」から「居心地の良い場所」へと変わり、それが「たとえそこを旅立っても、また帰ってくる場所」になることで、ようやく風花は沖に出られたのだ。これが、風花にとっての「白い砂のアクアトープ」だ。

「白い砂のアクアトープ」は何のアニメか

最終回、完成したばかりの新エリア、床には白い砂が敷き詰められ、天井まで水槽が覆うまさに「白い砂のアクアトープ」で、風花とくくるはそれぞれ、「水族館が好きと言葉にする。

風花にとっては、たまたま流れ着いた場所なんかではなく、どこに行ってもまた帰ってこれる大切な場所として、ティンガーラが、「水族館が好き」。

くくるにとっては、たんによいところやおもしろいところだけでなく、いやなところやつらいところも味わって、それでもやっぱり「水族館が好き」。

そして、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えた時、ティンガーラにキジムナーが現れる。

1クール目ではたびたび、がまがまにキジムナーが現れて不思議な幻想を人々に見せていたが、ティンガーラに舞台を移してからは、その描写は全くなかった。

がまがまはくくるのおじいが館長をしていた水族館。最終回でのくくるの「がまがまで働いていて、つらいことあった?」の質問に、おじいは「いっぱいあった」と答える。きっとおじいは、何度もつらい思いをしても、それでもやっぱり水族館が大好きな、本当の意味での「水族館が好き」と言える人なのだろう。だから、がまがまにはキジムナーが現れた。

そのがまがまはなくなって、がれきの山と化してしまうのだけれど、そこにいついていたキジムナーはもしかしたら、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えるようになるまで、二人がいるティンガーラに行くのを待っていたのかもしれない。

くくると風花が本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでの全24話、それがアニメ「白い砂のアクアトープ」である。

最後に、これだけは言いたい。

最終回、風花が2年のハワイ留学を終えてくくると再会した時、衝撃の事実が発覚する。

会えなかった2年間、お互いが相手の名前の意味を調べていた!

……どんだけ好きだ、おまえら!

「旅は移動しないといけない」って、誰が決めつけた?

ZINE作りをしていると、自分が旅をしているような感覚に陥ることがあります。

まったく何もないところから、計画を立て、準備を進め、「感性」という目的地にたどり着くように、一歩一歩製作を進める。なんだか旅に似ているような気がしますね。

計画通りに行かないこともしょっちゅう。計画変更もあります。その辺も旅に似てる。

一冊作るのにかかる日数は約100日。ちょうど、船で地球を一周するくらいの時間で、ZINEが一冊出来上がるんですね。

出来上がったZINEを見て、ノートにつらつらと構想を書いただけの状態から、よくぞ形になったと感慨にふける様は、まさに旅路を振り返る感動そのもの。

ZINE作りは、いや、モノ作りは、旅に似ているんです。

何より、旅もZINE作りも楽しいしね。

コロナ禍でさっぱり旅行に行ってないので、「旅行に行きたいよー」という欲はあるんだけど、ここしばらく、「どこかにあてのない旅に行きたいよー」という欲はさっぱりありません。それはきっと、モノ作りが旅と同じような刺激と興奮、そして感動を与えてくれてるからでしょう。

むしろ、「移動しなければ、旅とは呼べない」だなんて、誰が決めつけた?

物理的な移動を伴っていなくても、見ている景色が変わり続けるのなら、もうそれは「旅」と呼んでいいんじゃないか?

旅好きの人の多くは、「旅に出ると、価値観が変わるよ」なんて言います。確かに、僕は地球一周の船旅二日目ぐらいで、それまでの狭い価値観がぶっ壊れました。

旅が価値観が変えるというなら、「旅とは、物理的な移動を伴わなければいけない」という、凝り固まった価値観も、ぶっ壊れるべきです。

たとえ家から一歩も出なくても、目の前の景色が変わり続け、ワクワクし続けているのなら、それは「旅」と呼んでいい!

むしろ、「旅」を体験するのに、長距離移動を伴わなければならない、と考えていることの方が、非効率だろ。電車代だってバカにならないし、電車に座ってるだけでも、疲れるんだぞ。

ちなみに、僕のZINE作りという旅は、ちょっとは移動も伴うんですよ。

作ったZINEを売らなければいけないんで、ZINEを取り扱うお店やイベントは常に探してます。

また、イベントのブースを作るために、ホームセンターや文房具屋、時には都会の専門店や河童橋の道具街に足を運ぶことも。

ZINEを作ってなかったら、絶対行かなかったお店、絶対知らなかったイベント、絶対買わなかったもの、そういった未知の世界にZINE作りが結び付けてくれる。

そして、絶対出会わなかった人、絶対読まなかった本、絶対知らなかったこと、そういった結びつきもあります。

そういったものが、目の前の景色をどんどん変えてくれる。

ZINE作りは旅です。卓上でできる、極上の冒険なのです。

手書きにまつわるあれやこれや

「民俗学は好きですか?」vol.6が完成し、秋の文学フリマも終わり、12月に入ってからは本格的にvol.7の制作を始めました。

vol.7はどんな企画でいこうかしら、とさっそくノートを広げ、あれこれ書き連ねてます。

そう、僕はこういったアイデアを書き留めるとき、必ず「手書きのノート」を使ってるんです。

「最近、全然文字を書かなくなった」なんて話をよく聞くけれど、僕は今でもバリバリ手書きをしてますね。

どうして、手書きのノートにこだわるのか。

理由は一つです。

手書きのノートは、乱雑に扱っても、中のデータがなくならない!

デジタルは、ちょっとした衝撃ですぐデータがとびます。

ぶつけてもダメだし、落っことしてもダメだし、踏んづけてもダメ。

わがままだなぁ、もう。デリケートなんだから。

その点、手書きのノートは頑丈です。ゾウが踏んでも壊れません、たぶん。

この手書きのノートは、基本、外には出しません。他人に送って読ませることもしません。だから、手書きでいいんです。

これが、外とやり取りするような文書の場合は、デジタルの方がいい。一瞬で送れますからね。

ところが、お役所になんかの書類を届けてください、みたいな場合、ほとんどが紙の書類。最近、ようやくe-taxが出てきた程度。数年前にお役所とやり取りした時は「では、紙の書類を郵送してください」でした。

あきれたのが、役所のサイトに「申込用紙フォーマット」みたいなのがあって、「こちらを印刷して郵送してください」。

……なぜ、一度印刷させる? そこの画面に直接書き込める仕様にすればいいでしょ? e-taxはサイトに直接入力してるぞ。

印刷するだけでもひと手間めんどくさいうえに、書き損じをしようものなら、もう一度初めからやり直し。デジタルならバックスペースキー一押しで解決なのに。

そして郵送。封筒に入れて、あて名を書いて、切手を貼って、ポストに入れて。近場なら一日あれば届くだろうけど、土日を挟んだらもっとかかります。

デジタル送信なら、秒です。地球の裏側だろうが、秒です。

そうやって郵送した書類に何か確認したいことがあったのか、お役所から電話がかかってくることがあります。

ところが、電話に気づけず、携帯電話を見たら着信履歴があって、あら大変とかけなおすんですね。

すると、担当者がいまいないので、と言われる。何時に戻りますかねと聞いても、こちらから後で折り返すので、と言われて仕方がないから電話を切る。

するとまた、電話に出れないようなときに限って電話が来る。

着信履歴を見てあら大変とかけなおすと、ただいま担当者がいませんと言われ……。

……メールでよこせや!

電話というのは、「こちらの電話に出れる時間」と、「相手の電話に出れる時間」が奇跡的に合致した時にだけ通じる、「奇跡の通信手段」だ! 奇跡を信じて何度もかけてくるんじゃない!

というわけで、手書きかデジタルか、要は使い分けが大事だよ、という話だったんですか?

ちなみに、年末になりましたが、私は年賀状に関しては、手書きだろうと宛名印刷だろうと一切やらない主義です。LINEとかSNSとかでもこの手の挨拶は一切やらない主義です。たかだか日付が変わったぐらいで、おめでたいことなんて何も起きてないからです。

3回目の文学フリマ

僕にとって3回目の文学フリマが終わりました。

目標としていた部数の8割以上を売り上げ、悪くはない結果です。

一方で、足を止めてもらうことの難しさ、立ち読みからの購入へのハードルの高さ、というものを改めて実感しましたね。

自分のブースの前をスルーする人たちに「なんでスルーするんだよー」と思いつつも、いざ自分が客として会場を回った時は、ほぼすべてのブースをスルーするという、まったく同じことをしていました。そりゃ、スルーするよね。何個ブースがあると思ってんだよ。

実は、今回の文フリの収穫はそこにあったんです。「いくつ売れたか」「どんな人が買ったか」だけじゃなくて、「どんな人が足を止めなかったか」「どんな人が立ち読みだけで買わなかったか」までもがよくわかったのです。

そして、「買ってくれた人」「立ち読みだけの人」「スルーした人」の性別・年齢層がはっきりちがうこともよくわかりました。

3時間ぐらいブースに座っていると、「この人は足止めないだろうな~」とか、「この人は立ち読みしてるけど、買ってくれる可能性は30%くらいかな」というのがわかってきます。

となると、「8割」を「完売」にするための道というのも見えてくるわけで「スルーしただけの人」よりも「立ち読みする人」にどうアピールするかを考えていけばいい。

こういうことは、ネットだけでやってたらわからないんだよなぁ。「いくつ売れた」とか「どの層に売れた」はネットでもわかるけど、「どんな人が買わなかった」「どんな風に選ばれなかったか」はネットではわからないんですね。

ネットの売り上げだけだと「画像見ただけでスルーした人」と「他の人のレビューとかも読んで買うのをやめた人」は全部「買わなかった人」と一緒くたにされるし、「PV数」や「再生回数」では「サイトや動画を見たけど、つまらなくて、途中でやめた人」までは反映されない。

たぶん、20年近く続く「出版不況」の原因の一つも、そこにあるんじゃないですかね。

だって、出版って「企画・編集する人」と「書く人」と「売る人」が別々じゃないですか。

編集者は原稿に口を出せるから、出版社と作者は連係がある程度とれるかもしれないけど、出版社が書店での売り方に口を出すわけでも、書店でのお客さんの動向をつぶさに見ているわけでも、ない。だから、書店でお客さんがどう動いているかなんて、把握してない。

マーケティングはやってるんだろうけど、そこには「もう少しで買ってくれそうだったけど、買わなかった人たち」みたいな微妙なポジションの人は反映されない。

でも、今回の文学フリマでお客さんを見ていてよく分かったのは、さらに売り上げを上げようとしたら、「すでに買ってくれる人たち」だけでなく、「もう少しで買いそうだったけど、買わなかった人たち」のような微妙なポジションにもっとアピールしなければいけないな、と実感したのです。

たぶん、世の中の「伸び悩んでる人たち」の多くは、「足を止めなかった人たち」のことを全く考えないから、伸び悩むのではないでしょうか。「足を止めないなんて、あいつらバカだなぁ」ぐらいに思ってるのかもしれない。

選挙演説とかそうじゃない。駅前に人だかりができて「これだけの人が関心を持っています!」ってアピールするけど、実は圧倒的大多数だった「足を止めなかった人たち」の方を全くカウントしてない。

で、次に何を言い出すかと言えば「もっと政治に関心を持とう!」。

それを言うなら「俺たちもっと関心を持たれる努力をしなきゃ」じゃないかしら。

とにかく、「足を止めなかった人たちにもっと注目する頃」が大事だと、痛感した文学フリマだったのでした。