スマートフォンに時間を渡さない

長年ガラケーを使い続けてきたが、2020年問題に引っ掛かった。通話ができなくなってしまったのだ。

携帯電話なのに電話できなくなってしまったら、さすがに携帯電話ではない。とうとう買い替えることにした。

買い替えるからには、何か一つ機能をアップデートさせようと思い、前からやろうと思っていたウーバーイーツを始めることにした。

ところが、ウーバーイーツのようなアプリは、ガラケーやガラホではダウンロードできないのだという。

ということで、やむを得なく、初めてスマートフォンを購入した。

さて、初めてスマートフォンを手にしてわかったのだが、

これはさほど便利なものではない。

というのも、30年近くスマートフォンを使わない生活を、より正確に言えば「スマ―トフォンがなくても困らない生活」を送っていたので、いまさらスマートフォンにしたところで、ウーバーイーツ以外に頼らざるを得ない機能がほとんどない。

ウーバーイーツのほかには、LINEでの待ち合わせができるようになったのと、外で地図が見れるようになったくらい。

そのLINEでさえ、待ち合わせのような連絡以外では外では使わない。基本的には家のパソコンで見ている。

SNSは家でやればいい。

動画は家で見ればいい。

テレビは家でのんびり見ればいい。

ニュースは家で見ればいい。

ゲームは家でゆっくりやればいい。

このあとの天気がどうなるかなんて、空模様見ればだいたい見当がつく。

地図なんて目的までに3回見れば十分だ。

ガラケーを使っているときは、みんな何をそんなに夢中になってスマートフォンを見ているのだろう、と不思議でしょうがなかったが、いざスマートフォンを手にしても、やっぱり何をそんなに夢中になっているのか、さっぱりわからない。

みな、スマートフォンに時間を奪われすぎだと思う。

そもそも、そんなに情報を取得して、一体どうするつもりなのだろうか。

ネットにある情報のうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

配信されるニュースのうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

そう考えると、四六時中情報を取得する必要などなく、適度な時間に適度な情報をとればそれでいいということになる。

政治とか、芸能とか、スポーツとか、おもしろいけど実は自分にはほとんど無関係、という情報はたくさんあって、そういうのに時間を費やすのは、時間の無駄である。

SNSでそれらの話題に時間を割くなど、愚の骨頂だ。

しかも、こういった話題に対するコメントは大抵が「こいつ嫌い」だの「こいつはバカだ」だの「こいつをクビにしろ」だのと、みんなだいたい同じ意見で、実はたいしたことは言っていない。

わざわざ1万分の1でしかない意見を書くのに時間を費やすのは、実にもったいないと思う。

そうやって、みんなスマートフォンに夢中になっている。腕を伸ばしてスマートフォンを持つのは疲れるので、みんな、顔のすぐ前にスマートフォンをかざす。

そうすると、視界の大半が覆われて周りが見えなくなる。そのまま歩くと、何かにぶつかったり、躓いて転んだりする。

それでケガをしたり、けがをさせたりしたら、その元凶たるスマートフォンで救急車を呼んだり、病院を調べたりしなければならない。

こういうのを「端末転倒」、じゃなかった、「本末転倒」というのだ。

別に長生きしたくない

とある宗教学者の本にこんなことが書いてあった。

その本の著者は無理に長生きするのではなく、五穀断ちなどをしてなだらかに、命を終わらせる準備をしていきたいと語っていた。著者はもともとお寺の生まれらしいので、仏教的な考えが根底にあるのかもしれない。

そんな文章を読んで、「ああ、そういうのもいいなぁ」と思ったのである。

50歳か60歳くらいになったら無理に長生きしようとするのではなく、少しずつ自分の命を終わらせる準備に入るのも悪くない、と。

とはいえ、別に還暦になったら自殺したい、と言いうわけではない。もちろん、命の価値を軽んじているわけでもない。

還暦になるころまでには、自我を軽くし、生への執着のない、そんな人間になりたいということだ。

人はいつか必ず死ぬ。年をとればとるほど、死に近くなる。

ならば年をとればとるほど、生への執着も減らしていくべきだ。

だって、100歳にもなっていよいよ大往生というときに「やだ! やだ! 死にたくない!」と子供みたいに泣きわめくのは、みっともないじゃないか。100歳にもなったら自分の死すらも泰然と受け入れて、孫やひ孫や看護師さんを「見事な臨終だ」と感心させたいものだ。

どこまで長生きしても死から逃れられない以上、年と共にそれを受けいられる人間になっていかなければいけないのだ。

ところが、僕に言わせれば近頃のクソジジイクソババア、失礼、人生の諸先輩方は、年に反して自我が強いように思える。

昨今、高齢者ドライバーによる事故が問題となり、免許返納が話題となっている。

ところがテレビを見ていたら、「高齢者に頭ごなしに『免許を返納しろ』というと自尊心を傷つけてしまうので、高齢者の方の自尊心を傷つけずに免許を返納できるよう、言い方に工夫をしましょう」と言っていて、それを聞いて僕はひっくり返った。

60歳70歳にもなって、自分の老いを受け入れられないほど自尊心が高い、というのがそもそもの問題じゃないのか。なぜ、それまでの数十年間で自尊心を減らす努力をしてこなかったのか。

僕の世代は年配の方から「さとり世代」などと呼ばれているが、この言葉には「まだ若いのに何悟ったようなこと言ってるんだ」という揶揄が込められているように思う。

それは裏を返せば、人間、60歳70歳くらいにもなったら、いい加減悟ってくれないと困る、ということではないだろうか。

だのに近頃の高齢者は、もう年だから免許を返納したらどうかと諭しても、自分の老いや衰えを受け入れられず、逆ギレするという。

そのような状態で、自分の死を受け入れられるのだろうか。それこそ100歳の大往生で「いやだいやだ」とみっともなく泣きわめくのではないだろうか。

まったく、近頃の年取った奴らときたら。

僕が「別に長生きしたくない」というのは、今から「残りの人生はあと20~30年くらい」と、死ぬことを意識して生きていかないと、自我を減らすことができず、自尊心の高いクソジジイになってしまうのではないかという焦りと恐れからくるものなのだ。

10年後なんてわからない

面接の質問でよくあるものの一つに、「10年後の自分はどうなっていると思いますか」というのがある。

これの模範解答が未だによくわからない

調べてみると、いかにキャリアプランをしっかりと考えているかを聞くための質問らしい。ということは、10年のキャリアプランを具体的に語ると、高評価を得るのだろう。

この質問に対する僕の答えは決まっている。

「死んでるかもしれないのでわかりません」

10年もあったら、途中で重い病気になるかもしれない。事故に遭うかもしれない。事件に巻き込まれるかもしれない。災害に遭うかもしれない。何もかもいやになって自殺してしまうかもしれない。政治情勢が変わって戦争が起きるかもしれない。

死んでるかもしれない。だから、10年後のことはわかりません。

ネガティブな考え方だろうか。

だが、僕にとってこれはネガティブな発想ではない。

死に敬意を払っているのだ。

死は誰も避けることができないうえ、いつ死ぬかをコントロールできない。どれだけ健康に気を使って長生きを試みても、明日トラックが突っ込んでくるかもしれない。

人類は「死なない」も「死んでから生き返る」も達成できていない。死は絶対的なものであり、明らかに人間の手に余るものである。

だから、死ぬ可能性を無視して10年後をお気楽に語ることなど、人の傲慢さ以外の何物でもない。だから僕は、死という絶対者に敬意を払い、こう言うのだ。「10年後は死んでるかもしれません」と。

思えば、これまでほとんど「人生の目標」ってやつを立てたことがないし、計画を立てる人の感覚もよくわからない。

それでもたった一度だけ、「何歳までに」という目標を持ったことがある。

それは、24歳で会社を辞めたときに思った「30歳までは好きなことをする」という目標。

もちろん、「30歳までに死んでしまうかもしれない」は織り込み済みだ。

もし、「30歳までに店を持ちたい」「30歳までに結婚したい」というタイプの目標だと、それを果たすことなく30歳前に死んでしまうとすごい残念な感じだ。

だが、「30歳までは好きなことをする」だと、例えば28歳ぐらいで死んでしまっても、それまでの間は好きなことができていればそれで充分である。

さて、30歳を越えてしまったので、新たな目標を立てなければいけない。

僕にはあこがれている大人がいるので、40歳くらいになるときは、その人たちみたいな生き方をしてたらいいな、と思う。

もちろん、そういった生き方に向かって歩み続けているのであれば、35ぐらいで死んでしまっても、それはそれで構わない。

どこかの偉い人も言っている。明日死ぬように生き、永遠を生きるように学べ、と。

この「永遠を生きるように学べ」というのがミソだ。

要は、人の成長や学習に「完成はない」ということだ。「理想の自分」や「理想の生き方」に近づくためには、生涯かけて学習と成長を続けなければいけない。そこにゴールはない。

ゴールがないのならば、近道も存在しない。

こればっかりは、死をいったん棚に上げて、永遠に生きるつもりで、永遠にに完成しないものをそれでも完成させるつもりで成長し続けるしかない。

その途中で死んでしまったとしても、成長を止めなかったのであればそれはそれでいいと思う。そもそも、はじめから永遠に完成しないのだから、「成長途中で死ぬ」以外のエンディングはあり得ないのだ。

「暗黙の了解」なんてない

仕事中のトラブルの大体は、自分と相手の間に「暗黙の了解が成立する」と勘違いすることにある。

こんなこといちいち言わなくても伝わる。

ここは省略してもわかってくれる。

そう思い込んで、相手が思い通りに動かなかったり、指示を誤解したりすると「なんで言われた通りに動かないんだ!」とか、「もっと自分で考えろ!」と逆ギレを起こす。

だが、暗黙の了解というのは簡単には成立しない。

基本的に暗黙の了解が成立するのは、家族、恋人、親友くらい。仕事仲間だったら「相棒」とでも呼べる域にまで達しないと、暗黙の了解なんてありえない。

むしろ、そういう関係でもないに暗黙の了解なんてものが存在すると思い込むことはキモチワルイ。

どのくらいキモチワルイことかというと、「俺はお前が好きだ! だから、お前も俺を好きだろ? そうに決まってる!」と思い込むくらい、キモチワルイことだ。

「こんなこと言わなくてもわかるだろ!」とあなたが怒鳴った時、相手は「俺とお前の間に暗黙の了解なんてあるわけねぇだろ! 俺のカノジョ気取りか! キモチワルイな」くらいに思っているのかもしれない。

家族や恋人だって暗黙の了解があるかどうか怪しいものだ。感謝の気持ちを態度で示していたつもりでも、相手からすれば「全く感謝の気持ちが見えない!」とけんかになる。子どものために思った行動が子供からは「親がウザい、しつこい」と言われる。

家族や恋人ですらこういうことは多々ある。なのにどうしてただの仕事仲間で「暗黙の了解」が成立すると思い込めるのか。

それでも、業界にはその業界の常識があるし、毎日一緒に仕事をしてれば、自然と暗黙の了解が生まれるものだと思うだろ?

そう思う人はぜひJリーグの試合を見てほしい。できれば、残留争いをしているような、うまく機能していないチームの試合を。

パスをしてもミスをする。うまくつながらない。相手の強いのではなく、自滅という形で負けていく。

こういったチームはよく「イメージを共有できていない」と言われる。どんな形でボールをつないで、どんな形で点を取って、どんな形で勝つのかというイメージが。

つまりは、暗黙の了解がないのだ。

だが、彼らは幼いころからサッカーをし、人生の半分以上をサッカーに費やし、プロとして生活のほぼすべてをサッカーに費やし、チームメイトとして毎日同じ時間を共に過ごし、コミュニケーションをとっている。

それでも、暗黙の了解が生まれないのだ。「この業界の常識だ」とか「毎日一緒に仕事をしてる」とか「よく飲みに行く」は、「暗黙の了解があるはずだ」ということを証明してくれない。

相手との間に暗黙の了解が生まれたら奇跡、それくらいに思ってもいい。

だから、何か指示を出すときは、これ以上ないほど細かい指示を出すべきだ。別の解釈など絶対にありえないくらいに。

特に、メールなど、相手と直接やり取りができないときは特に。

別の解釈が成り立ってしまう指示は「悪い指示」である。それで何か問題が起きたら、それは「悪い指示」を出した方が悪い。

逆に、解釈間違いが起こりようがないほどの「良い指示」をして、それでも相手が指示通りにしなかったら、それは相手のせいだ。勘違いや聞き逃し、見逃しがあったということだ。

めんどくさいかい?

めんどくさいよね。

暗黙の了解があって、以心伝心でわかってもらった方が、仕事はスムーズにいくよね。

だが、何度も言うように、暗黙の了解なんてない。あったら奇跡だと思っていいし、あると思い込むことはキモチワルイことだ。

だったら、「暗黙の了解」に頼らず、ない前提で誤解の出ない指示を出す。その方がよっぽどスムーズに仕事が進むはずだ。

スマートフォンはいらない

僕は、スマートフォンを持っていない。

なぜなら、欲しいと思ったことがない、すなわち、いらないからだ。

人は欲しいものが欲しいのであって、いらないものはいらない。

たしかに、スマートフォンがあれば便利だと思う。

だが、「便利なもの」は「なければ困るもの」ではない。

携帯電話なら持っている。わざわざ、新たにスマートフォンを買う理由はない。

スマートフォンがあれば外でもインターネットができるが、外出時にインターネットを見ることなどない。地図はどこの駅前にも置いてあるし、乗り換え検索ならガラケーでもできる。

SNS、you tube、ネットニュース、ワンセグのテレビ。そんなのは家で見ればいい。どうしても外で見なければいけない理由など、ない。

つまりは、スマートフォンは「なければ困るもの」ではないのだ。その証拠に、どうしてもスマートフォンが必要だった場面は、今まで、一度としてない。

スマートフォンは「なくても困らないモノ」なのだ。

「なくても困らないモノ」は「必要ではないモノ」である。

「必要でないモノ」は「いらないモノ」である。

「いらないモノ」はいらない。

だから、スマートフォンはいらない。

僕の中でこの公式はわかりきったものである。

だから、世の中の人がなぜスマートフォンという「いらないモノ」を欲しがるのか、さっぱり理解できない。

スマートフォンはなくても困らないモノであり、必要ではないモノであり、いらないモノだから、いらない。この文章の何をどういじれば「スマートフォンが欲しい」なんて話になるのか、とんと理解できない。

もしかしたら、スマートフォンを持つことによって、手間が省けるのかもしれない。なるほど、いちいち駅前で地図を探して覚えるより、スマートフォンで地図を検索したほうが、手間が省ける。

1日でトータル5分の手間を省けば、そのぶん5分の余裕が生まれる。

1か月もあると150分も時間が生まれる。

1年間で30時間も余裕が生まれる。それだけあれば、何か作品の一つや二つ、できてしまうかもしれない。人より30時間多く勉強すれば、そのぶん賢くなれる。

では、そうやって省いた時間でみんな何をやっているのだろうか。

そう思って街の中を見渡してみると、なんのことはない。みんな、余った時間でスマートフォンを覗き込んでいたのである。

スマートフォンで手間を省き、そうして生まれた時間で、スマートフォンを覗き込む。

これは何かの呪いか? 彼らは片時もスマートフォンから目が離れないように、悪い魔女に呪いでもかけられたのか?

スマートフォンで手間を省き、そうして生まれた時間でスマートフォンを覗き、どうでもいいようなネットニュースやSNSに時間を費やしてたら、結局、プラスマイナスゼロじゃないか。

スマートフォンを覗き込む時間を確保するために、スマートフォンを使って手間を省く。だったら最初からスマートフォンなんてなくてよかったのだ。やっぱり、何かの呪いにかけられているように映る。

そもそも、手間をかけるから人は賢くなれるのだと思う。電卓を使うより暗算したほうが、手間はかかるが賢くなれる。

「賢い電話」と書いてスマートフォンだ。なるほど、最新機能を使いこなすのには確かに賢さが必要だろう。人類は便利な道具でサルからヒトへと進歩してきた。

だが、一番賢いサルは、道具を使いこなすサルではない。

何もないところから道具を生み出したサルだ。

より正確に言えば、「道具がない状況でも、自分の工夫ひとつでなんとかできるサル」である。

知識をむさぼらない

「知的メタボリック」という言葉がある。評論家の外山滋比古の言葉だ。

知識をため込むことは一見、良いことのように思われる。というか、社会では「良いこと」とされ、疑われることがまずない。

ところが、知識をため込みすぎると、知識に頼るようになり、その分自分で考えたりする知性がおろそかになってしまうのだという。

僕はもっと辛らつに「知識デブ」と呼んでいる。

そもそも、検索すればすぐに知識が手に入るような世の中で、知識の量を自慢することなんてもはや意味がない。

それよりも、「どうやったらほしい情報が見つかるか」をしっかりと考えられる力の方が大切だ。

だが、こういう考えには反発する人も多い。気持ちはわかる。学校で知識を詰め込み、知識の量を採点され、知識の量をステータスとして生きてきた人からすれば、いきなり「もはや知識は不要の時代です」と言われても納得できないと思う。ある意味「神は死んだ」と言われるに等しいのかもしれない。

ところが、「知識は重要だ!」と主張する人間に限って、文章が賢くない。語彙力はあるから一見難しい文章に見えるんだけど、よくよく読んでみると全然賢くない。

ある人は僕の質問に対して、ただの知識自慢で終わっていた。あるだけの知識を並べていたが、どれも僕の質問の答えにはかすりもしない。いくら知識を並べ立てたところで、答えにかすりもしないのであれば、なんの意味もない。

ある人は僕の話に対して「知識を軽視するお前の意見は間違っている!」と言ってきた。正鵠を射た意見なら耳を傾ける価値もある、とその意見を読んでみると、まず、論点が違っていた。論点の違う「反論もどき」を読まされた側としては、「そもそもそんな話してない……」と青ざめるしかない。

知識の重要性を説く人間に限って、論点がそもそもずれていたり、答えが出せなかったり。そういう人間に出くわすたびに「ああ、知識デブ、ここに極まれり……」と頭を抱えざるを得ない。

「考える」ということをしないんだろうなぁ。知識を並べるだけ並べても、それがどんな答えにつながるのかを考えない。相手の話の論点が何で、結論が何かを考えない。

以前、ネット上で「辞書を引かない人」が話題になっていた。文章中で知らない単語に出くわしても辞書を引かない人がいて、ネット上で「知らない単語が出てきたらすぐに辞書を引かないと、いつまでたっても知識が増えないだろ、バカ!」と批判されていた。

それを見たとき、「ああ、また知識デブがいる……」と思った。

実は、僕も、辞書をあまりひかない。

高校の時、英語の先生からこう教わったからだ。

「どんなに勉強していても、『知らない単語』は一定量存在する。そういう単語に出くわしても、入試だと辞書を引くわけにはいかない。だから、前後の文脈から『知らない単語』の意味を類推する力が重要だ」。

つまり、『知らない単語に出くわしても、頭を働かせれば、辞書を見なくても意味は類推できる。それだけの知性を身につけなさい」ということだ。これは英語のみならず、日本語でも同じことが言える。

それ以降、知らない単語が出てくると、辞書を見てしまいたい気持ちをぐっと抑えて、前後の文脈から類推している。頭を働かせれば、たいていの単語は類推できる。

そして、「すぐに辞書を引かなきゃ知識が増えないだろバカ!」と罵る意見を見たとき、「ああ、やっぱり知識デブの人って、『考える』ってことをしないんだな」と妙に納得したのだった。

たしかに、辞書を見なかったらずっと「知らないまま」なのかもしれない。

だが、辞書を見てしまったら「考えないまま」で終わってしまう。

ネットに頼らない

僕が主催する「ノンバズル企画」は、作品をネットに頼らず、イベントなどでの対面販売を基本としている。

「ネットに頼らない」がノンバズル企画の基本方針の一つだ。

と書くと、大半の人はこう思うはず。

「……じゃあ、このブログは何だ?」と。

「ネットに頼らない」なんて言いながら、ネットを使っているじゃないか。

さらにばらしてしまうと、僕はSNSもやっているし、何ならネット販売も行っている。

ネットに頼らないと言いつつ、ちゃっかりネットを活用しているのである。

だが、よく言葉を見てほしい。「ネットに頼らない」とは言ったが、「ネットを使わない」とは言っていない。

ノンバズル企画を立ち上げた時は、「バズらないモノづくり」を掲げるのだから、一切ネットは使わない、というのも一瞬頭をよぎった。

でも、たとえば、僕の住む埼玉から遠く離れたところに住む、民俗学に関心がある少年少女が、何かのきっかけで僕のことを知り、「ノックって人が作っている民俗学専門ZINEを読んでみたい!」と思ってくれるかもしれない。

なのに、販売方法が「首都圏での手売りのみ」だったらどうだろう。せっかく民俗学に興味を持ってくれた若者の未来を、一歩遠ざけてしまうかもしれない。

「悪いけど、このZINEは首都圏在住の人用なんだ」なんてスネ夫みたいなこと言えない。

そう思ったので、ネットショップを開設した。

じゃあ「ネットに頼らない」というのはどういうことなのか。

それは、「ネットに力を入れない」「ネットに振り回されない」ということ。

すなわち、「ネットに価値観を支配されない」ということだ。

ネットショップは作ったし、ブログもこうして書いている。

だけど、検索上位に来るためのSEO対策とか、PV数を上げるためのSNSを使った宣伝とかは、やらない。そういう「ネットで人気になること」に価値を置いていないのだ。

なんなら、SNSにブログの全文をアップしちゃう。

SNSでブログの全文が読めてしまうと、当然、ブログの方には来ないので、ブログのPV数にはつながらない(そもそも、SNSにブログへのリンクを貼っていない)。

だが、重要なのは書いた記事を読んでもらうこと。読んでもらえるのであれば、その場所がブログ本文だろうがSNSだろうが関係ない。

逆に、PV 数だのSEOだのと言った数字にこだわると、どんどん記事の中身がなくなる。

WELQ問題なんかがその一例だろう。バズることだけを追い求めた結果、低質な記事が大量に作られてしまったわけだ。

価値があるからバズるのであり、バズるものに価値があるわけではない。

だが、ネットに価値観を支配されると、「バズるものに価値がある」と考えるようになる。その結果、「まず、バズること」が念頭に置かれてしまう。

だけど、まず価値があるものを作るべきだ。バズるバズらないはその後の評価にすぎない。

だから、ノンバズル企画はネットに頼らない。ネットに振り回されない。

ネットはあくまでも「道具」にすぎない。ネットを使って販売したり宣伝したり発信したりしても、あくまでもネットは「道具」。PV数とかフォロワー数とかいいねの数とか、そんなのは追い求めないし気にしない。

まず求めるべきは、作品そのものの価値である。質である。そしてその価値ってやつは、たくさん評価を集めればいいというわけではない。たとえ1000人に批判されようが、たったひとりに「でも、私は救われました」「僕はこれで変わりました」そう言ってもらえれば、それがその作品の「価値」である。

そのたったひとりに出会う場所として、たった一つの価値を見つける場所として、ネットという空間があるにすぎないのだ。

数字に振り回されない

現代人はあまりにも数字に振り回されすぎだと思う。

収入、貯金、偏差値、順位、フォロワー数、閲覧数、再生回数、食べログの点数……。

たしかに、そういったものはひとつの評価であることは間違いないと思う。

でも、評価と価値はイコールじゃない。

ゴッホの絵なんてそうだろう。ゴッホは生前、絵が全く評価されず、たったの1枚しか売れなかった。でも、今では彼の絵は数十億という値がついている。

時代とともにゴッホの絵の評価は大きく変わった。

でも、絵そのものが何か変わったわけではない。むしろ、経年劣化でちょっと色あせてるはずだ。

つまり、絵の価値自体は全く変わっていない。評価だけ変わったのだ。

そして、評価は数字で表される。

だけど、人は数字ばかり見て、肝心の価値を見ていない。数字ばかり見ていも、価値はわからない。

ニュースを見ていたら、「将棋の藤井七段、連勝記録更新!」という話をしていて、キャスターの人が「これだけ勝つなんてすごいですね~」と感心している。

その直後にそのキャスターは将棋の解説の人に向って「ところで藤井七段の将棋は何がそんなにすごいんですか?」と尋ねた。

僕はテレビの前で盛大にずっこけた。

「何がすごいかわからずに感心してたんか~い!」

肝心の価値や本質がわからないのに、数字だけ見て感心してたというわけだ。

テレビやラジオのゲスト紹介で「チャンネル登録者数百万人」とか、「再生回数何万回」とか、「何百万部を売り上げたベストセラー」とか言われると、ついつい「すご~い!」と言いそうになってしまう。

でも、よくよく考えてみると、フォロワー数とか再生回数とか売り上げた数とか言われても、何がそんなに面白いのか、その人の何がそんなに魅力なのか、さっぱり伝わってこない。

それでも、人はこういった数字だけ見て、さっきのキャスターのように「すご~い!」と感心してしまう。

現代人は、数字に振り回されているのだ。

だけど、数字とは、常に揺れ動くものだ。

昨日までうなぎ上りに上がっていたのに、ある日突然、バブルがはじけるかの如くゼロになった、なんてこともありうる。

数字は水物だ。そんなもので、人の価値を測り知ることなどできない。

だから、数字は聞き流す、見なかったことにするのが一番だ。

年収いくらとか、フォロワー数何人とか、すごそうな数字を言われても、「ああ、そう、はいはい」と聞き流すのが一番だ。

実際、すごそうな数字を自慢して、「すご~い」と思わせて、相手の興味を釣るというのは、詐欺の常套手段だ。「一か月で何百万売れる」とか「全国に会員が何十万人」といった数字を巧みに利用して、騙そうとする。痛い目を見たくなかったら、数字は聞き流すことだ。

本を買うと必ず書いてある作者のプロフィールにも、数字は多く書かれている。「23歳で4つのバーを経営し、年収4000万に」みたいな文章だ。

こういった数字の入った文章も、全部読み飛ばした方がいい。こういった文章に書かれているのは、「作者の輝かしい経歴」ではない。「作者の醜い自尊心」だ。

その人がどういう生き方をしているのか、本当の人の価値が現れるのは、数字がない文章の方だ。

(ただ、「西暦」はただの年号にすぎないので読み飛ばさなくても大丈夫)

実際、僕が好きな本の著者を見てみると、こういった数字が全然ない。

一方、あさましいタイプの著者のプロフィールは数字で埋め尽くされている。ひどい時には、数字の入った文章を全部飛ばしてみたら「東京都生まれ。文筆家」という部分しか残らなかったこともある。

数字では人の価値は推し量れない。だから、数字に振り回されてはいけない。