別に長生きしたくない

とある宗教学者の本にこんなことが書いてあった。

その本の著者は無理に長生きするのではなく、五穀断ちなどをしてなだらかに、命を終わらせる準備をしていきたいと語っていた。著者はもともとお寺の生まれらしいので、仏教的な考えが根底にあるのかもしれない。

そんな文章を読んで、「ああ、そういうのもいいなぁ」と思ったのである。

50歳か60歳くらいになったら無理に長生きしようとするのではなく、少しずつ自分の命を終わらせる準備に入るのも悪くない、と。

とはいえ、別に還暦になったら自殺したい、と言いうわけではない。もちろん、命の価値を軽んじているわけでもない。

還暦になるころまでには、自我を軽くし、生への執着のない、そんな人間になりたいということだ。

人はいつか必ず死ぬ。年をとればとるほど、死に近くなる。

ならば年をとればとるほど、生への執着も減らしていくべきだ。

だって、100歳にもなっていよいよ大往生というときに「やだ! やだ! 死にたくない!」と子供みたいに泣きわめくのは、みっともないじゃないか。100歳にもなったら自分の死すらも泰然と受け入れて、孫やひ孫や看護師さんを「見事な臨終だ」と感心させたいものだ。

どこまで長生きしても死から逃れられない以上、年と共にそれを受けいられる人間になっていかなければいけないのだ。

ところが、僕に言わせれば近頃のクソジジイクソババア、失礼、人生の諸先輩方は、年に反して自我が強いように思える。

昨今、高齢者ドライバーによる事故が問題となり、免許返納が話題となっている。

ところがテレビを見ていたら、「高齢者に頭ごなしに『免許を返納しろ』というと自尊心を傷つけてしまうので、高齢者の方の自尊心を傷つけずに免許を返納できるよう、言い方に工夫をしましょう」と言っていて、それを聞いて僕はひっくり返った。

60歳70歳にもなって、自分の老いを受け入れられないほど自尊心が高い、というのがそもそもの問題じゃないのか。なぜ、それまでの数十年間で自尊心を減らす努力をしてこなかったのか。

僕の世代は年配の方から「さとり世代」などと呼ばれているが、この言葉には「まだ若いのに何悟ったようなこと言ってるんだ」という揶揄が込められているように思う。

それは裏を返せば、人間、60歳70歳くらいにもなったら、いい加減悟ってくれないと困る、ということではないだろうか。

だのに近頃の高齢者は、もう年だから免許を返納したらどうかと諭しても、自分の老いや衰えを受け入れられず、逆ギレするという。

そのような状態で、自分の死を受け入れられるのだろうか。それこそ100歳の大往生で「いやだいやだ」とみっともなく泣きわめくのではないだろうか。

まったく、近頃の年取った奴らときたら。

僕が「別に長生きしたくない」というのは、今から「残りの人生はあと20~30年くらい」と、死ぬことを意識して生きていかないと、自我を減らすことができず、自尊心の高いクソジジイになってしまうのではないかという焦りと恐れからくるものなのだ。

10年後なんてわからない

面接の質問でよくあるものの一つに、「10年後の自分はどうなっていると思いますか」というのがある。

これの模範解答が未だによくわからない

調べてみると、いかにキャリアプランをしっかりと考えているかを聞くための質問らしい。ということは、10年のキャリアプランを具体的に語ると、高評価を得るのだろう。

この質問に対する僕の答えは決まっている。

「死んでるかもしれないのでわかりません」

10年もあったら、途中で重い病気になるかもしれない。事故に遭うかもしれない。事件に巻き込まれるかもしれない。災害に遭うかもしれない。何もかもいやになって自殺してしまうかもしれない。政治情勢が変わって戦争が起きるかもしれない。

死んでるかもしれない。だから、10年後のことはわかりません。

ネガティブな考え方だろうか。

だが、僕にとってこれはネガティブな発想ではない。

死に敬意を払っているのだ。

死は誰も避けることができないうえ、いつ死ぬかをコントロールできない。どれだけ健康に気を使って長生きを試みても、明日トラックが突っ込んでくるかもしれない。

人類は「死なない」も「死んでから生き返る」も達成できていない。死は絶対的なものであり、明らかに人間の手に余るものである。

だから、死ぬ可能性を無視して10年後をお気楽に語ることなど、人の傲慢さ以外の何物でもない。だから僕は、死という絶対者に敬意を払い、こう言うのだ。「10年後は死んでるかもしれません」と。

思えば、これまでほとんど「人生の目標」ってやつを立てたことがないし、計画を立てる人の感覚もよくわからない。

それでもたった一度だけ、「何歳までに」という目標を持ったことがある。

それは、24歳で会社を辞めたときに思った「30歳までは好きなことをする」という目標。

もちろん、「30歳までに死んでしまうかもしれない」は織り込み済みだ。

もし、「30歳までに店を持ちたい」「30歳までに結婚したい」というタイプの目標だと、それを果たすことなく30歳前に死んでしまうとすごい残念な感じだ。

だが、「30歳までは好きなことをする」だと、例えば28歳ぐらいで死んでしまっても、それまでの間は好きなことができていればそれで充分である。

さて、30歳を越えてしまったので、新たな目標を立てなければいけない。

僕にはあこがれている大人がいるので、40歳くらいになるときは、その人たちみたいな生き方をしてたらいいな、と思う。

もちろん、そういった生き方に向かって歩み続けているのであれば、35ぐらいで死んでしまっても、それはそれで構わない。

どこかの偉い人も言っている。明日死ぬように生き、永遠を生きるように学べ、と。

この「永遠を生きるように学べ」というのがミソだ。

要は、人の成長や学習に「完成はない」ということだ。「理想の自分」や「理想の生き方」に近づくためには、生涯かけて学習と成長を続けなければいけない。そこにゴールはない。

ゴールがないのならば、近道も存在しない。

こればっかりは、死をいったん棚に上げて、永遠に生きるつもりで、永遠にに完成しないものをそれでも完成させるつもりで成長し続けるしかない。

その途中で死んでしまったとしても、成長を止めなかったのであればそれはそれでいいと思う。そもそも、はじめから永遠に完成しないのだから、「成長途中で死ぬ」以外のエンディングはあり得ないのだ。

「暗黙の了解」なんてない

仕事中のトラブルの大体は、自分と相手の間に「暗黙の了解が成立する」と勘違いすることにある。

こんなこといちいち言わなくても伝わる。

ここは省略してもわかってくれる。

そう思い込んで、相手が思い通りに動かなかったり、指示を誤解したりすると「なんで言われた通りに動かないんだ!」とか、「もっと自分で考えろ!」と逆ギレを起こす。

だが、暗黙の了解というのは簡単には成立しない。

基本的に暗黙の了解が成立するのは、家族、恋人、親友くらい。仕事仲間だったら「相棒」とでも呼べる域にまで達しないと、暗黙の了解なんてありえない。

むしろ、そういう関係でもないに暗黙の了解なんてものが存在すると思い込むことはキモチワルイ。

どのくらいキモチワルイことかというと、「俺はお前が好きだ! だから、お前も俺を好きだろ? そうに決まってる!」と思い込むくらい、キモチワルイことだ。

「こんなこと言わなくてもわかるだろ!」とあなたが怒鳴った時、相手は「俺とお前の間に暗黙の了解なんてあるわけねぇだろ! 俺のカノジョ気取りか! キモチワルイな」くらいに思っているのかもしれない。

家族や恋人だって暗黙の了解があるかどうか怪しいものだ。感謝の気持ちを態度で示していたつもりでも、相手からすれば「全く感謝の気持ちが見えない!」とけんかになる。子どものために思った行動が子供からは「親がウザい、しつこい」と言われる。

家族や恋人ですらこういうことは多々ある。なのにどうしてただの仕事仲間で「暗黙の了解」が成立すると思い込めるのか。

それでも、業界にはその業界の常識があるし、毎日一緒に仕事をしてれば、自然と暗黙の了解が生まれるものだと思うだろ?

そう思う人はぜひJリーグの試合を見てほしい。できれば、残留争いをしているような、うまく機能していないチームの試合を。

パスをしてもミスをする。うまくつながらない。相手の強いのではなく、自滅という形で負けていく。

こういったチームはよく「イメージを共有できていない」と言われる。どんな形でボールをつないで、どんな形で点を取って、どんな形で勝つのかというイメージが。

つまりは、暗黙の了解がないのだ。

だが、彼らは幼いころからサッカーをし、人生の半分以上をサッカーに費やし、プロとして生活のほぼすべてをサッカーに費やし、チームメイトとして毎日同じ時間を共に過ごし、コミュニケーションをとっている。

それでも、暗黙の了解が生まれないのだ。「この業界の常識だ」とか「毎日一緒に仕事をしてる」とか「よく飲みに行く」は、「暗黙の了解があるはずだ」ということを証明してくれない。

相手との間に暗黙の了解が生まれたら奇跡、それくらいに思ってもいい。

だから、何か指示を出すときは、これ以上ないほど細かい指示を出すべきだ。別の解釈など絶対にありえないくらいに。

特に、メールなど、相手と直接やり取りができないときは特に。

別の解釈が成り立ってしまう指示は「悪い指示」である。それで何か問題が起きたら、それは「悪い指示」を出した方が悪い。

逆に、解釈間違いが起こりようがないほどの「良い指示」をして、それでも相手が指示通りにしなかったら、それは相手のせいだ。勘違いや聞き逃し、見逃しがあったということだ。

めんどくさいかい?

めんどくさいよね。

暗黙の了解があって、以心伝心でわかってもらった方が、仕事はスムーズにいくよね。

だが、何度も言うように、暗黙の了解なんてない。あったら奇跡だと思っていいし、あると思い込むことはキモチワルイことだ。

だったら、「暗黙の了解」に頼らず、ない前提で誤解の出ない指示を出す。その方がよっぽどスムーズに仕事が進むはずだ。

小説 あしたてんきになぁれ 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。「あしなれ」第24話、スタート!


第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


 

駅の南側に行ってみたのは、たまきにとって初めてだった。

駅の西側を南に向って歩いていくと、大きな通りにぶつかる。たまきもミチも知らないが、この道は遠く山の中へと続く街道だ。

その街道は今、大きな橋となっている。たまきは最初、橋の下には大きな川が流れているんだと思った。だが、ミチによると、橋の下にあるのは川ではなく、線路だという。

「こんな太い線路ってあるんですか?」

たまきは驚いてミチに聞き返した。この橋のサイズだったら、下には幅50mほどの大きな川が流れていると思っていたのだが、川ではなく線路だとすると、とてつもなく太い線路が走っていることになる。ということは、その線路の上をこれまた見たこともない巨大な列車が走っているということに……。

「ちがうよ」

たまきの少し前を歩いていたミチが、笑いながら振り向いた。

「何本もの線路がこの下に集まってるんだよ」

ちょっと考えればわかることだった。たまきは自分のバカみたいな妄想が恥ずかしくなってきた。

たまきは今、ミチの家に向って歩いている。生まれて初めて、男の子の家にお邪魔する。

 

夕飯を外ですまさなければいけないのに、財布を忘れてきてしまったたまき。たまきは最初、ミチにお金を借りようとした。

勇気を振り絞って生まれて初めて借金の申し込みをしたのだが、ミチの答えは非常にあっさりとしたものだった。

「あ、ごめん。俺もカネ、持ってない」

ミチは家を出るとき、「まあ、今日はそんなに長くいないし」と、百十円だけポケットに入れて出てきた。途中の自販機にその百十円を入れて、コーラと交換してしまったので、ミチも今、一円も持ってないのだという。

どうしようと途方に暮れるたまき。またしてもぐうとおなかが鳴る。この調子でおなかが鳴り続けたら、あと2時間ぐらいしたら空腹で倒れてしまうんじゃないか。そんな妙な不安が、空腹感と一緒に、たまきの胃の奥から喉元を締め付けてくる。

飢え死には、なんかヤだなぁ。

どうしようかとあたりをきょろきょろと見渡すたまき。だが、いくら見渡したところで都合よくお金や食べ物が落ちているわけでも、また、答えが書いてあるわけでもない。

そんなたまきにミチがかけた言葉は、これまたあっさりとしたものだった。

「あ、じゃあさ、ウチくる?」

「え?」

ミチの思いもかけない提案に、たまきの体は一瞬硬直した。

たまきにとって「初めて会う人」は最大の敵の一つなのだが、同じくらい「初めて行く家」も苦手である。男の子の家ともなればなおさらだ。

そもそも、ミチの家にはミチの家族がいるのではないか。知らない人に囲まれてご飯を食べるなんて。「気まずい」とはまさにこのことだ。

それに、ミチが一人暮らしならそれはそれで、女の子としてちょっと警戒しておかなきゃいけないような気もする。

「あ、あの、ダメです。そんな急に知らない人が行っても……、ミチ君の家族も迷惑だと思いますし……」

「あ、ウチっつっても、家じゃないんだ」

じゃあ、どこだ。

「俺の姉ちゃんが店やっててさ。スナック。まあ、俺が住んでるアパートの一階だから、ウチと言えばウチなんだけどさ。家にいるときはいつもそこで夕飯食ってるんよ。姉ちゃん、どうせ仕事でずっとキッチンにいるんだし、急にもう一人増えたからってそんな困んないよ」

「でも……私、お金持ってないし……」

「いいよいいよそんなの。この前、たまきちゃんに助けてもらったお返し、俺、まだ何にもしてないんだもん。そろそろなんかしねぇと、今度は姉ちゃんにボコボコにされるから」

「でも……」

「でも」といったはいいものの、そのあとに続くセリフがたまきには見つからなかった。セリフの代わりに、再びおなかがぐうと鳴った。

「じゃあ、決まり。ここから歩いてそんなかかんないから」

そういうとミチは歩きだしてしまった。たまきも仕方なしにその後ろをとぼとぼとついて行く。

こんな簡単に男の子に押し切られてしまうのは、女の子としてよくないんじゃないか、そんなことをちょっと思いながら。

 

画像はイメージです。

ミチとたまきは線路沿いのテラスを歩いている。地形からも、古い町並みからも自由なテラスの上は、完全な人口の空間だ。左側を見ると、削りたての鉛筆のようにとんがった建造物が見える。

一歩一歩と歩みを進めるごとに、緊張でたまきの鼓動が少しずつ高まっていく。知らない場所に行き、知らない人に会う。たまきが一番苦手なことだ。

「その……これから行くところって……ミチ君の実家なんですか?」

「ちがうよ。俺、出身、ヨコハマだし」

「……そうなんですか」

二人はテラスの階段を降りていく。すぐに踏切にぶつかるが、ちょうどいいことに、遮断機は上がっている。二人は線路を渡ると、右に曲がって線路沿いを歩いていく。

「姉ちゃんがさ、ちょっと歳はなれてるんだけど、ずっと水商売しててさ。それで、こっちでお店持たないかって話になって。雇われママさんっつーの? オーナーの人が店やってくれる人探してて、姉ちゃん、その人と知り合いだったみたいで、姉ちゃんに店やらないかって話になって」

ミチはたまきの前を歩きながら、ちらちらとたまきを振り返って話を続けた。

「それがちょうど俺の中学卒業の時期と重なっててさ。で、姉ちゃんと一緒にこっち来ないかって話になってさ」

「じゃあ、今、お姉さんと二人暮らしなんですか」

「二人暮らし……、なんつったらいいのかなぁ。そのスナックの二階がアパートになってて、スナックのオーナーがそのアパートの大家でもあるんよ。で、俺と姉ちゃんはそこに住んでんだけど、部屋は別々なんだよね。オーナーのご厚意、ってやつでちょっと安く貸してもらってるんだよ。だから、姉ちゃんには毎日会ってるんだけど、二人暮らし……ってわけじゃないかな」

ミチの話を聞きながら、たまきはひとつ気になっていることがあった。

さっきから、ミチの家族は「姉ちゃん」しか話の中に出てこない。

「じゃあ、お父さんとお母さんは、ヨコハマの実家にいるんですか?」

「お父さん? 誰の?」

「ミチ君のです」

「いや、俺、親いないし」

「え?」

たまきの足が止まった。

東京の家々の間を縫うかのような細い路地は下り坂になっている。空はすっかり暗くなり、いくつかの街灯が足元を照らしている。

ミチは少ししてから、たまきの足が止まっていることに気づいた。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「……初めて聞きました」

たまきは、息をのみ込んだように驚いた顔をしていた。

「……親は二人ともいないってことですか?」

「そうだよ? あれ、ほんとに言ってなかったっけ?」

たまきは無言でうなづく。

「そっか。言ったような気がしてたんだけどな。そういや言ってなかったかもなぁ」

ミチはぼりぼりと頭をかいた。

なんで親がいないんですか、とたまきは聞こうとした。だけど、そんな立ち入ったこと、聞いてもいいのだろうか。

そんなたまきの逡巡を察したのか、口を開いたのはミチの方だった。

「父親は最初からいないんよ。母親も俺がちっちゃいころに、俺と姉ちゃん置いてどっか行っちゃって。俺と姉ちゃんはずっと施設で育ったんだよね」

二人は、再び坂道を下り始めた。

「だから、『家族』ってよくわかんねぇんだよね。特に、『親』って何なのかさ。父親は知らないし、母親のこともほとんど覚えてねぇし。俺にとって家族とか親っていうのは、いねぇのが当たり前だからさ。姉ちゃんいるけど、まあ、姉ちゃんは家族っていうよりは姉ちゃんだし」

ミチは手を頭の後ろで組んだ。

「でもさ、テレビとか見てるとさ、家族の絆がどうとかさ、親の愛がどうとかさ、そういうドラマとか多いじゃん。だから、家族は仲が良くて、子どもは親が好きっていうのが、当たり前なのかなぁ、って思ってたんだけど、たまきちゃんの話聞いてると、そうじゃない人もいるんだね」

そう言ってからミチは最後に付け足した。

「まあ、よくわかんねぇんだけどさ」

ミチの話を聞いて、たまきは夕方に言った自分の言葉を思い出していた。

『ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……』

もしかして自分は、とてつもなく失礼なことを言ってしまったのではないだろうか。

たまきは家族が苦手だ。両親が嫌いだ。

それでも、たまきにとって、それは当たり前にいる存在だった。

でも、ミチにとってはそうではなかった。

「あ、あの……」

たまきは駆け出すと、ミチの横に並んだ。

「さっきはごめんなさい。私、すごい失礼なことを……」

「いいよいいよ。親いないって言ってなかったんだし。普通はみんな、親いるわけだから、言わなきゃ普通わかんねぇって話だよな」

ミチの「普通」という言葉が、たまきにはどこかの別の国の言葉のようにも聞こえた。

「でも、知らなかったとしても、ミチ君は親がいないのに私、すごい失礼な……」

「っていうよりさ、むしろ、『親のいないかわいそうな子』って扱われることの方が嫌なんだよね」

「……ごめんなさい」

「だってかわいそうもなにも俺にとって親は『いない』のが当たり前なんだから。まあ、俺は姉ちゃんがいたから、そう思えるだけなのかもな。施設には荒れてるやつもいたし」

そういうと、ミチはたまきの方を見た。

「俺こそなんかさっき、いやなこと言っちゃったかも。ごめんね。悪気はないんよ。たまきちゃんの言う『家族』の話がさ、俺の聞いてた話と違うなぁ、って思って」

そう言ってから、ミチは少し照れ臭そうに笑う。

「なんか最近、謝ってばっかだな、俺ら」

「……ですね」

たまきも少し寂しそうに下を向いた。

 

写真はイメージです。

坂を下り続け、線路はいつの間にか高架へと変わっていた。高架をくぐる道におろされた柱に、駅名が書かれた看板が取り付けられている。どうやらここは駅らしいが、見たところ、駅舎らしき建物は見当たらない。

あまり大きな駅ではないみたいだが、それでも駅前はちょっとした商店街になっていた。ふと、わきに目をやると、さっきのとんがった建物が目に入る。

その商店街からちょっと路地に入ったところに、スナックが立ち並ぶ一角があった。ミチはその中のビルの一つの前に立った。すすけたビルで、2階はアパートになっているのだろうか、窓がいくつかあって、物干し竿がかかっている。

1階はお店になっていて、路上に看板が置かれていた。

看板にはひらがなで「そのあと」と書かれていた。

なんだろう、と思ってたまきはその看板を見つめていたが、どうやら、お店の名前らしい。

スナック、「そのあと」。

ヘンな名前。たまきはそう思ったが、言葉には出さなかった。

「ヘンな名前だろ? 姉ちゃんが店もらう前から、この名前だったみたいだぜ?」

そういうと、ミチは店の扉を開けた。

「ただいまぁ。姉ちゃん、友達連れて……」

ドアがバタンと閉まった。

たまきは、中に入らずにお店を見つめていた。暗い色の扉はなんだかものものしく、なんだか異世界の門のように来るものを拒んでいる。

再び扉が開いて、ミチが顔を出した。

「たまきちゃん、何やってるの? はいんなよ」

たまきはふうっとため息をつく。同時におなかがぐうっと鳴った。

 

お店の中は薄暗く、やっぱり違う世界に迷い込んでしまったかのようだ。

細長いお店の中にカウンターがあり、口紅のように真っ赤な椅子が並んでいる。カウンターの中のキッチンには、エプロン姿の女性が立っていた。

スナックのママ、という言葉の持つイメージに比べると、幾分か若い。亜美や志保よりも、たまきの姉よりも年上だと思うが、舞に比べるとずいぶんと若い気もする。

鮮やかな長い茶髪で、少しウェーブがかかっている。メイクは少し濃いめだが、厚化粧というわけでもなかった。

たぶんこの人がミチのお姉ちゃんなのだろうが、年が離れているせいか、目もと以外はあんまりミチに似てない気もした。

ミチのお姉ちゃんはたまきの方を見ると、にっこりと笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

「こ、こんにちは……」

たまきは、自分がそこにいることそのものが申し訳ないかのように、うつむいてあいさつをした。

「あなたがミチヒロのお友達?」

「ミチヒロ」って誰だろう? とたまきはあたりを見渡したが、どうやら今まで「ミチ君」と呼んできた彼が、「ミチヒロ」らしい。

「ま、とりあえず座って」

 

ミチのお姉ちゃんに促され、たまきとミチはカウンターの前にある椅子に腰かけた。

椅子の上のたまきは、石像のように固まっている。

自分から名乗ったほうがいいのだろうか。いや、自分から名乗るべきなのだろう。

わかっているんだけど、どうしても言葉が出てこない。代わりにおなかがぐうと鳴る。

自己紹介ができずに今にも泣きだしそうなたまきだったが、先に声をかけたのはミチのお姉ちゃんの方だった。

「もしかして、あなたがひきこもりのたまきちゃん?」

どうして初めて会うのに自分の名前を知っているのだろう、という疑問より、どうして引きこもりだってばれたんだろうという疑問の方が、たまきの頭をもたげた。とりあえずたまきは無言でうなずいた。なんだが引きこもりであることも認めたようで少々腑に落ちないが、事実なのだからしょうがない。

「へ~。聞いてたイメージ通りだ~」

ミチのお姉ちゃんはそう言って笑った。たまきは横にいるミチを見ると、「私のこと、どういう話したんですか?」と言いたげににらんだ。

ミチのお姉ちゃんはミチの方を向くと、

「なんか、今までミチヒロが連れてきた女の子たちと比べると、この子、全然雰囲気違うね」

「ちょっ! 姉ちゃん!」

ミチは困ったように姉を見て、そのあとでたまきの顔色を窺った。今度はたまきは「今までに何人の女の子連れてきてるんですか」と言いたげににらんでいた。

「ミチヒロも人妻なんかと不倫してないで、こういう真面目そうな子と付き合いなさいよ」

どうやら、一連の顛末をミチのお姉ちゃんは知っているらしい。

「私は……真面目じゃないです……その……学校行ってないし……」

たまきは渡された原稿をただ読んでいるだけのようなたどたどしさで答えた。

「へぇ~。聞いてた通り、すごい人見知りなんだぁ。ふふ、かわいい~」

そういうとミチのお姉ちゃんはカウンターから手を伸ばし、ニット帽の上からたまきの頭を撫でた。

撫でられる、なんてあまり慣れないことをされて、たまきは身をよじって今すぐ店の外に駆け出したい衝動にかられたが、そうしたい、と思っただけでそれを実行できないのもまたたまきらしさである。椅子に座ったまま、されるがままに撫でられる。

ニット帽越しに撫でられる感触を感じ取りながら、たまきは前にもこんなことされたな、と思い出していた。

「で、ミチヒロ、なんだっけ? お夕飯用意すればいいんだっけ?」

「そうそう、二人分」

「焼きそばでいい?」

「たまきちゃん、それでいい?」

ミチはたまきの方を向き、たまきは無言でこくりとうなづいた。

「じゃ、作るね~」

ミチのお姉ちゃんは冷蔵庫から焼きそばの麺を三袋取り出した。

「ミチヒロは大盛でいいよね?」

「うん、お願い」

ミチとお姉ちゃんのやり取りを見ながら、たまきは自分の姉のことを思い出していた。

 

たまきの姉は、当たり前のことが当たり前にできる人だった。

やさしくて、おしゃれで、友達も多くて、勉強も運動もそこそこできる。人一倍優秀というわけでもないが、何でもそつなくこなせる人だった。

たまきはそんなお姉ちゃんが大好きだった。生来の人見知りだったたまきは、外に出るときはいつもお姉ちゃんの手を握り、お姉ちゃんの後ろを引っ張られるようについて行った。

たまきが学校に行けなくなって以来、父と母は時に腫物のように、時に邪魔もののように、時にわるもののようにたまきを扱った。でも、たまきの姉がたまきに接する態度は変わらなかった。

父も母も出かけたある土曜日、姉がたまきのひきこもる部屋にやってきた。

「お昼に焼きそば作ったよ」

たまきの目の前に焼きそばが盛り付けられたお皿が置かれた。

焼きそばから立ち込める湯気の向こう側に、姉の笑顔があった。

それがたまきにとっては、たまらなくまぶしかった。

どっか行ってくれないかな。

そう思った。

たまきは結局、焼きそばに手を付けなかった。姉はたまきの部屋を去る時、初めて悲しそうな顔をした。

別に、お姉ちゃんのことが嫌いになったわけじゃない。お姉ちゃんがたまきに冷たくしたわけでもない。

ただ、その存在がまぶしかった。

たまきのことを気にかけてくれたお姉ちゃんを、たまきはみずから遠ざけた。

さっきだってそうだったではないか。お金と食べるものがなくて困ってるたまきを、ミチは家まで連れてきて、ご飯を用意してくれた。

そのミチを、たまきは自分から遠ざけようとした。ミチがまぶしかったという理由で。

どうして、自分のことを気にかけてくれる人を、自分に手を差し伸べてくれる人を、自分から遠ざけてしまうんだろう。

どっか行っちゃえばいいのに。

それはミチに向けた言葉でも、お姉ちゃんに向けた言葉でもなかった。

たまきがたまき自身に向けた言葉だった。

つまるところ、たまきはお姉ちゃんのことが嫌いになったわけでも、ミチのことが心底嫌いなわけでもない。

自分のことが嫌いなのだ。

 

ミチとたまきの目の前に、ソース焼きそばの盛り付けられたお皿が置かれた。湯気がたまきの眼鏡を曇らせる。

たまきは割り箸を手に取ると、両手を合わせた。

「い、いただきます」

両手に力を込めて割り箸を割る。しなった割りばしが割れる瞬間が、あまり好きではない。

隣を見ると、ミチがすでに焼きそばにむさぼりついていた。

たまきはふうふうと息を吹きかけると、湯気に絡みつくソースのにおいと一緒に、焼きそばを口の中へと入れた。

空腹の極みに達してからの焼きそばは、無条件においしかった。

ふと、ミチが

「俺ちょっと、トイレ行ってくるわ」

と言って立ち上がる。

「え……?」

店の奥にあるトイレへと立つミチを不安げに見送るたまき。ミチがいなくなったら、今日、初めて会った人と二人きりになってしまう。

「ちょっと、食事中にそういうこと言わないの。黙っていきなさい」

ミチのお姉ちゃんはぶぜんとしたようにミチの背中に向けて投げかけた。トイレのドアがバタンと閉まる。

「全く、我が弟ながらデリカシーのない奴よ」

そういうとミチのお姉ちゃんはたまきの方を見た。

「どう? おいしい?」

たまきは慌てて焼きそばを飲み込んだ。

「は、はい。おいしいです。ありがとうございます。あ、あの、お金は後で必ず……」

「いいって、そんなの」

「でも……」

たまきはカウンターの上に掲げられたメニュー表を見た。焼きそば480円と書いてある。

「いいっていいって。たまきちゃんでしょ、ミチヒロのこと助けてくれたの。そのお礼よ」

ミチのお姉ちゃんは白い歯を見せた。

「こんなにちっちゃいのに、ミチヒロのこと、盾になって守ってくれたんだぁ」

たまきはなんて返事していいのかわからず、下を向いて黙々と焼きそばを食べ続けた。

しばらくして顔をあげると、ミチのお姉ちゃんはまだたまきを見てニコニコしている。

こういう状況が、本当に苦手だ。

どっか行ってくれないかな。

そんな言葉がまたたまきの頭をもたげたが、もうそんな風に考えることはやめよう、そう思った。

いきなり来て、お金も持ってないのに、お夕飯を作ってくれなんてぶしつけなお願いをしたにもかかわらず、ミチのお姉ちゃんはたまきのことを歓迎してくれている。

もう、そういう人を自分から遠ざけるのはやめよう。

たまきは顔をあげると、ミチのお姉ちゃんの目を見て、もう一度、

「おいしいです」

と言って、たまきにしては精いっぱいの笑顔を見せた。

すると、ミチのお姉ちゃんはたまきにグイっと顔を近づけた。たまきは少しひるんだが、逃げることなくこらえた。

「たまきちゃんてさ、ここ来るの初めてだっけ?」

「は……初めてです」

「だよね。いや、なんか見たことあるっていうか、誰かに似てるっていうか……。誰か芸能人とかに似てる、って言われたことない?」

「な、ないです……」

たまきみたいに影の薄い芸能人、いるわけない。

「そっかぁ……誰かに似てるんだよねぇ……」

ミチのお姉ちゃんがそう言ったタイミングで、トイレのドアが開いてミチが戻ってきた。

「あ~、すっきりした」

「ほんとデリカシーのない奴よ」

ミチのお姉ちゃんが弟をぎろりとにらむ。

ミチが帰ってきたことでたまきは少しほっとして、焼きそばをほおばった。焼きそばは少し冷めて、たまきの舌にはちょうどいい温度だ。

ミチのお姉ちゃんはその様子を見ていたが、突然、

「わかった!」

と声をあげた。

「なんだよ、姉ちゃん」

「この子なにかに似てる、って思ってたんだけど、わかった! クロだ! クロに似てるんだ!」

くろって誰だろう? とたまきはミチを見る。ミチも何のことかわからないらしく、

「クロって?」

と姉に聞き返していた。

「ほら、あんたが小学生ぐらいの時だからもう十年前か。施設に黒猫が迷い込んできてさ、みんなで『クロ』って名前つけてエサやってかわいがってたじゃん。この子、そのクロに似てるんだ!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきは人間である。ちょっと小型だけど人間である。いくらなんでも、ネコに似てるわけがない。

たまきはぶぜんとしたまま、焼きそばを口に運んだ。

ミチも、

「うーん、似てはないんじゃない。確かに、たまきちゃん、黒い服着てるけど、さすがにネコに顔が似てるってことは……」

「いやね、顔が似てるっていうんじゃなくて、なんていうのかな、雰囲気が似てるのよ。動き方とか、たたずまいとかさ」

そう言って、ミチのお姉ちゃんはたまきを指さし、

「ほら、この焼きそば食べてる姿もさ、なんかクロに似てるんだよねぇ」

そんなわけない、とたまきは思った。そのクロというネコは左の前足で割り箸を持って、焼きそばを食べていたとでもいうのだろうか。

「クロって最後どうしたんだっけ」

ミチのお姉ちゃんは弟の方を見て尋ねた。

「たしか……急にいなくなっちゃったんだよ。それで、自分の死期を悟って姿を消したんじゃないか、みたいなこと言ってなかったっけ」

「そうだったっけ。じゃあ、もしかしたら、この子、クロの生まれ変わりかも!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきはいま十六歳。そのクロというネコがいなくなったのが十年前なら、たまきはその時すでに六歳だ。生まれ変わりなわけがない。

「いやぁ、見れば見るほど、よく似てるなぁ」

そう言ってミチのお姉ちゃんは再びたまきの頭に手を伸ばして撫でた。

「ほら、この撫でてる時の嫌そうな表情とか、ほんとそっくり」

嫌そうだとわかってるなら、やめてくれればいいのに。

 

焼きそばを食べ終えて少し休憩すると、たまきは立ち上がった。そろそろ帰らないと、たまきみたいな年の女の子がこういう店に夜遅くまでいてはいけない気がする。

「あの、私、帰ります。焼きそば、ごちそうさまでした。おいしかったです」

たまきはぺこりと頭を下げた。

「またご飯食べに来なよ。水曜と金曜は、ランチタイムやってるから」

ミチのお姉ちゃんは、フライパンを洗いながら答えた。

「ああ、あの、あまりお客さんが入らないランチタイム?」

「うるさいな」

ミチのお姉ちゃんは弟をにらみつけた。

「じゃあ、帰ります」

「うん、またね」

そう言ってミチが片手をあげたとき、ミチのお姉ちゃんがフライパンをミチの頭の上に振り下ろした。ガンという鈍い音が聞こえて、たまきも何事かと振り返る。

「いってぇ! 姉ちゃん、何すんだよ!」

「『うんまたね』じゃないでしょ! ちゃんと送ってあげなさい!」

「あ、あの、私、大丈夫です。一本道ですし……」

たまきは申し訳なさそうに言った。

「ダメダメ。もうすっかり暗くなってるし、人通り少ないからあぶないよ。ミチヒロ、送っていきなさい。その不法占拠してるビルまでとは言わないから、駅の近くの明るいところまで」

たまきは「不法占拠とか勝手に話さないでくれますか」と言いたげに、ミチをにらんだ。

 

写真はイメージです。

行きはひたすら下っていたが、その分、帰りは上り坂が続く。ミチのお姉ちゃんが言うとおり、あたりは深夜と見まがうほどに暗くなり、街灯が寂しく灰色のアスファルトを照らしている。行く手には鉛筆みたいなビルがそびえたつ。とんがった先端がやけに明るくライトアップされ、なんだか空に向かってビームでも放ちそうだ。

二人はほとんど会話することなく歩いていたが、たまきの歩く姿を横目に見ていたミチが口を開いた。

「でも、たしかにたまきちゃんって、ネコっぽいかも」

「え?」

「いや、今歩いてる感じも、なんかネコっぽいんだよねぇ」

たまきは自分の足元を確認した。

そんなわけない。たまきはちゃんと、二本足で歩いている。

「なんですか、二人そろって。人のことを動物みたいに」

「え、でも、ネコってかわいいからいいじゃん」

「動物じゃないですか」

たまきは口をとがらせながら言った。

「似てると言えば……」

そう言ってから、たまきはそこから先を言っていいものかどうか、ちょっと迷った。でも、さっき、ミチのお姉ちゃんもその話題を口にしていたので、別にいいかと、たまきは言葉をつづけた。

「ミチ君のお姉さん、誰かに似てるって私も思ってたんですけど……」

「へぇ、だれだれ?」

「……海乃って人に似てる、って思いました」

ミチは何も答えなかった。

「……ミチ君のお姉さんの方が、やさしいかんじでしたけど」

たまきはミチの方を見た。ミチは口を真一文字に固めて、少しこわばったような表情をしていた。

それを見たたまきは珍しく笑みを、それこそ、ネズミを捕まえた子猫のような笑みを浮かべた。

「もしかして、海乃って人が好きだったのは、お姉さんに似てたからですか?」

ミチはしばらく何も言わなかった。やがて、恥ずかしそうに一言だけつぶやいた。

「おかしい……?」

「いいえ」

たまきは少し微笑んでいった。

「私も私のお姉ちゃんのこと、大好きですから」

「あれ? 家族きらいなんじゃなかったっけ?」

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんです」

街灯に照らされた二つの影は、つきそうでくっつかない、微妙な隙間を開けながら、坂道を登って行った。

つづく


次回 第25話「チョコレートの波浪警報」

次回はバレンタインのエピソードです。2020年2月14日、バレンタインに公開します! 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

スマートフォンはいらない

僕は、スマートフォンを持っていない。

なぜなら、欲しいと思ったことがない、すなわち、いらないからだ。

人は欲しいものが欲しいのであって、いらないものはいらない。

たしかに、スマートフォンがあれば便利だと思う。

だが、「便利なもの」は「なければ困るもの」ではない。

携帯電話なら持っている。わざわざ、新たにスマートフォンを買う理由はない。

スマートフォンがあれば外でもインターネットができるが、外出時にインターネットを見ることなどない。地図はどこの駅前にも置いてあるし、乗り換え検索ならガラケーでもできる。

SNS、you tube、ネットニュース、ワンセグのテレビ。そんなのは家で見ればいい。どうしても外で見なければいけない理由など、ない。

つまりは、スマートフォンは「なければ困るもの」ではないのだ。その証拠に、どうしてもスマートフォンが必要だった場面は、今まで、一度としてない。

スマートフォンは「なくても困らないモノ」なのだ。

「なくても困らないモノ」は「必要ではないモノ」である。

「必要でないモノ」は「いらないモノ」である。

「いらないモノ」はいらない。

だから、スマートフォンはいらない。

僕の中でこの公式はわかりきったものである。

だから、世の中の人がなぜスマートフォンという「いらないモノ」を欲しがるのか、さっぱり理解できない。

スマートフォンはなくても困らないモノであり、必要ではないモノであり、いらないモノだから、いらない。この文章の何をどういじれば「スマートフォンが欲しい」なんて話になるのか、とんと理解できない。

もしかしたら、スマートフォンを持つことによって、手間が省けるのかもしれない。なるほど、いちいち駅前で地図を探して覚えるより、スマートフォンで地図を検索したほうが、手間が省ける。

1日でトータル5分の手間を省けば、そのぶん5分の余裕が生まれる。

1か月もあると150分も時間が生まれる。

1年間で30時間も余裕が生まれる。それだけあれば、何か作品の一つや二つ、できてしまうかもしれない。人より30時間多く勉強すれば、そのぶん賢くなれる。

では、そうやって省いた時間でみんな何をやっているのだろうか。

そう思って街の中を見渡してみると、なんのことはない。みんな、余った時間でスマートフォンを覗き込んでいたのである。

スマートフォンで手間を省き、そうして生まれた時間で、スマートフォンを覗き込む。

これは何かの呪いか? 彼らは片時もスマートフォンから目が離れないように、悪い魔女に呪いでもかけられたのか?

スマートフォンで手間を省き、そうして生まれた時間でスマートフォンを覗き、どうでもいいようなネットニュースやSNSに時間を費やしてたら、結局、プラスマイナスゼロじゃないか。

スマートフォンを覗き込む時間を確保するために、スマートフォンを使って手間を省く。だったら最初からスマートフォンなんてなくてよかったのだ。やっぱり、何かの呪いにかけられているように映る。

そもそも、手間をかけるから人は賢くなれるのだと思う。電卓を使うより暗算したほうが、手間はかかるが賢くなれる。

「賢い電話」と書いてスマートフォンだ。なるほど、最新機能を使いこなすのには確かに賢さが必要だろう。人類は便利な道具でサルからヒトへと進歩してきた。

だが、一番賢いサルは、道具を使いこなすサルではない。

何もないところから道具を生み出したサルだ。

より正確に言えば、「道具がない状況でも、自分の工夫ひとつでなんとかできるサル」である。

知識をむさぼらない

「知的メタボリック」という言葉がある。評論家の外山滋比古の言葉だ。

知識をため込むことは一見、良いことのように思われる。というか、社会では「良いこと」とされ、疑われることがまずない。

ところが、知識をため込みすぎると、知識に頼るようになり、その分自分で考えたりする知性がおろそかになってしまうのだという。

僕はもっと辛らつに「知識デブ」と呼んでいる。

そもそも、検索すればすぐに知識が手に入るような世の中で、知識の量を自慢することなんてもはや意味がない。

それよりも、「どうやったらほしい情報が見つかるか」をしっかりと考えられる力の方が大切だ。

だが、こういう考えには反発する人も多い。気持ちはわかる。学校で知識を詰め込み、知識の量を採点され、知識の量をステータスとして生きてきた人からすれば、いきなり「もはや知識は不要の時代です」と言われても納得できないと思う。ある意味「神は死んだ」と言われるに等しいのかもしれない。

ところが、「知識は重要だ!」と主張する人間に限って、文章が賢くない。語彙力はあるから一見難しい文章に見えるんだけど、よくよく読んでみると全然賢くない。

ある人は僕の質問に対して、ただの知識自慢で終わっていた。あるだけの知識を並べていたが、どれも僕の質問の答えにはかすりもしない。いくら知識を並べ立てたところで、答えにかすりもしないのであれば、なんの意味もない。

ある人は僕の話に対して「知識を軽視するお前の意見は間違っている!」と言ってきた。正鵠を射た意見なら耳を傾ける価値もある、とその意見を読んでみると、まず、論点が違っていた。論点の違う「反論もどき」を読まされた側としては、「そもそもそんな話してない……」と青ざめるしかない。

知識の重要性を説く人間に限って、論点がそもそもずれていたり、答えが出せなかったり。そういう人間に出くわすたびに「ああ、知識デブ、ここに極まれり……」と頭を抱えざるを得ない。

「考える」ということをしないんだろうなぁ。知識を並べるだけ並べても、それがどんな答えにつながるのかを考えない。相手の話の論点が何で、結論が何かを考えない。

以前、ネット上で「辞書を引かない人」が話題になっていた。文章中で知らない単語に出くわしても辞書を引かない人がいて、ネット上で「知らない単語が出てきたらすぐに辞書を引かないと、いつまでたっても知識が増えないだろ、バカ!」と批判されていた。

それを見たとき、「ああ、また知識デブがいる……」と思った。

実は、僕も、辞書をあまりひかない。

高校の時、英語の先生からこう教わったからだ。

「どんなに勉強していても、『知らない単語』は一定量存在する。そういう単語に出くわしても、入試だと辞書を引くわけにはいかない。だから、前後の文脈から『知らない単語』の意味を類推する力が重要だ」。

つまり、『知らない単語に出くわしても、頭を働かせれば、辞書を見なくても意味は類推できる。それだけの知性を身につけなさい」ということだ。これは英語のみならず、日本語でも同じことが言える。

それ以降、知らない単語が出てくると、辞書を見てしまいたい気持ちをぐっと抑えて、前後の文脈から類推している。頭を働かせれば、たいていの単語は類推できる。

そして、「すぐに辞書を引かなきゃ知識が増えないだろバカ!」と罵る意見を見たとき、「ああ、やっぱり知識デブの人って、『考える』ってことをしないんだな」と妙に納得したのだった。

たしかに、辞書を見なかったらずっと「知らないまま」なのかもしれない。

だが、辞書を見てしまったら「考えないまま」で終わってしまう。

ネットに頼らない

僕が主催する「ノンバズル企画」は、作品をネットに頼らず、イベントなどでの対面販売を基本としている。

「ネットに頼らない」がノンバズル企画の基本方針の一つだ。

と書くと、大半の人はこう思うはず。

「……じゃあ、このブログは何だ?」と。

「ネットに頼らない」なんて言いながら、ネットを使っているじゃないか。

さらにばらしてしまうと、僕はSNSもやっているし、何ならネット販売も行っている。

ネットに頼らないと言いつつ、ちゃっかりネットを活用しているのである。

だが、よく言葉を見てほしい。「ネットに頼らない」とは言ったが、「ネットを使わない」とは言っていない。

ノンバズル企画を立ち上げた時は、「バズらないモノづくり」を掲げるのだから、一切ネットは使わない、というのも一瞬頭をよぎった。

でも、たとえば、僕の住む埼玉から遠く離れたところに住む、民俗学に関心がある少年少女が、何かのきっかけで僕のことを知り、「ノックって人が作っている民俗学専門ZINEを読んでみたい!」と思ってくれるかもしれない。

なのに、販売方法が「首都圏での手売りのみ」だったらどうだろう。せっかく民俗学に興味を持ってくれた若者の未来を、一歩遠ざけてしまうかもしれない。

「悪いけど、このZINEは首都圏在住の人用なんだ」なんてスネ夫みたいなこと言えない。

そう思ったので、ネットショップを開設した。

じゃあ「ネットに頼らない」というのはどういうことなのか。

それは、「ネットに力を入れない」「ネットに振り回されない」ということ。

すなわち、「ネットに価値観を支配されない」ということだ。

ネットショップは作ったし、ブログもこうして書いている。

だけど、検索上位に来るためのSEO対策とか、PV数を上げるためのSNSを使った宣伝とかは、やらない。そういう「ネットで人気になること」に価値を置いていないのだ。

なんなら、SNSにブログの全文をアップしちゃう。

SNSでブログの全文が読めてしまうと、当然、ブログの方には来ないので、ブログのPV数にはつながらない(そもそも、SNSにブログへのリンクを貼っていない)。

だが、重要なのは書いた記事を読んでもらうこと。読んでもらえるのであれば、その場所がブログ本文だろうがSNSだろうが関係ない。

逆に、PV 数だのSEOだのと言った数字にこだわると、どんどん記事の中身がなくなる。

WELQ問題なんかがその一例だろう。バズることだけを追い求めた結果、低質な記事が大量に作られてしまったわけだ。

価値があるからバズるのであり、バズるものに価値があるわけではない。

だが、ネットに価値観を支配されると、「バズるものに価値がある」と考えるようになる。その結果、「まず、バズること」が念頭に置かれてしまう。

だけど、まず価値があるものを作るべきだ。バズるバズらないはその後の評価にすぎない。

だから、ノンバズル企画はネットに頼らない。ネットに振り回されない。

ネットはあくまでも「道具」にすぎない。ネットを使って販売したり宣伝したり発信したりしても、あくまでもネットは「道具」。PV数とかフォロワー数とかいいねの数とか、そんなのは追い求めないし気にしない。

まず求めるべきは、作品そのものの価値である。質である。そしてその価値ってやつは、たくさん評価を集めればいいというわけではない。たとえ1000人に批判されようが、たったひとりに「でも、私は救われました」「僕はこれで変わりました」そう言ってもらえれば、それがその作品の「価値」である。

そのたったひとりに出会う場所として、たった一つの価値を見つける場所として、ネットという空間があるにすぎないのだ。

数字に振り回されない

現代人はあまりにも数字に振り回されすぎだと思う。

収入、貯金、偏差値、順位、フォロワー数、閲覧数、再生回数、食べログの点数……。

たしかに、そういったものはひとつの評価であることは間違いないと思う。

でも、評価と価値はイコールじゃない。

ゴッホの絵なんてそうだろう。ゴッホは生前、絵が全く評価されず、たったの1枚しか売れなかった。でも、今では彼の絵は数十億という値がついている。

時代とともにゴッホの絵の評価は大きく変わった。

でも、絵そのものが何か変わったわけではない。むしろ、経年劣化でちょっと色あせてるはずだ。

つまり、絵の価値自体は全く変わっていない。評価だけ変わったのだ。

そして、評価は数字で表される。

だけど、人は数字ばかり見て、肝心の価値を見ていない。数字ばかり見ていも、価値はわからない。

ニュースを見ていたら、「将棋の藤井七段、連勝記録更新!」という話をしていて、キャスターの人が「これだけ勝つなんてすごいですね~」と感心している。

その直後にそのキャスターは将棋の解説の人に向って「ところで藤井七段の将棋は何がそんなにすごいんですか?」と尋ねた。

僕はテレビの前で盛大にずっこけた。

「何がすごいかわからずに感心してたんか~い!」

肝心の価値や本質がわからないのに、数字だけ見て感心してたというわけだ。

テレビやラジオのゲスト紹介で「チャンネル登録者数百万人」とか、「再生回数何万回」とか、「何百万部を売り上げたベストセラー」とか言われると、ついつい「すご~い!」と言いそうになってしまう。

でも、よくよく考えてみると、フォロワー数とか再生回数とか売り上げた数とか言われても、何がそんなに面白いのか、その人の何がそんなに魅力なのか、さっぱり伝わってこない。

それでも、人はこういった数字だけ見て、さっきのキャスターのように「すご~い!」と感心してしまう。

現代人は、数字に振り回されているのだ。

だけど、数字とは、常に揺れ動くものだ。

昨日までうなぎ上りに上がっていたのに、ある日突然、バブルがはじけるかの如くゼロになった、なんてこともありうる。

数字は水物だ。そんなもので、人の価値を測り知ることなどできない。

だから、数字は聞き流す、見なかったことにするのが一番だ。

年収いくらとか、フォロワー数何人とか、すごそうな数字を言われても、「ああ、そう、はいはい」と聞き流すのが一番だ。

実際、すごそうな数字を自慢して、「すご~い」と思わせて、相手の興味を釣るというのは、詐欺の常套手段だ。「一か月で何百万売れる」とか「全国に会員が何十万人」といった数字を巧みに利用して、騙そうとする。痛い目を見たくなかったら、数字は聞き流すことだ。

本を買うと必ず書いてある作者のプロフィールにも、数字は多く書かれている。「23歳で4つのバーを経営し、年収4000万に」みたいな文章だ。

こういった数字の入った文章も、全部読み飛ばした方がいい。こういった文章に書かれているのは、「作者の輝かしい経歴」ではない。「作者の醜い自尊心」だ。

その人がどういう生き方をしているのか、本当の人の価値が現れるのは、数字がない文章の方だ。

(ただ、「西暦」はただの年号にすぎないので読み飛ばさなくても大丈夫)

実際、僕が好きな本の著者を見てみると、こういった数字が全然ない。

一方、あさましいタイプの著者のプロフィールは数字で埋め尽くされている。ひどい時には、数字の入った文章を全部飛ばしてみたら「東京都生まれ。文筆家」という部分しか残らなかったこともある。

数字では人の価値は推し量れない。だから、数字に振り回されてはいけない。

民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」

民俗学専門ZINEは「日本民俗学」をテーマに、3か月に一度のペースで発刊しております。

なぜ、民俗学がテーマなのか?

……好きだからです。

今、ネットなどで「民俗学」と言われているものを見ると、たまに、妖怪とか幽霊とか怪しげの風習、祭りとかに偏ってて、トンデモオカルト学かなにかと勘違いしてるんじゃないか、と思う人を見受けます。

たしかに、民俗学にはそういう側面もあるし、そういうところをとっかかりに民俗学に触れていくことはアリだと思います。僕だってもとをただせば、ただの妖怪オタクです。

でも、民俗学のことをいつまでも「トンデモオカルト学」だと思われるのもどうかと思うのです。

民俗学はもっといろんな側面があります。そういった民俗学が持つ「いろんな側面」を切り取る媒体を作りたい、民俗学が持ついろんな顔に触れてもらいたい。

そう思ってこのZINEを作っています。

「民俗学は好きですか?」は、以下の二つのルールに基づいて作っております。

ルール① 奇をてらわずに、基をねらう

「基をねらう」は僕の造語で、『基本をしっかりと抑える』という意味です。

なにか人目を引くような、奇をてらったことはやらずに、基本をしっかりと抑える。「そもそも、民俗学とは何だろう」「民俗学は何をするんだろう」「柳田國男とは誰だろう」そんな基本的なことをしっかりと抑えてから、その先の面白さを紹介する、そんなZINEづくりを心がけています。

ルール② よりわかりやすく、より面白く、より奥深く

「民俗学は好きですか?」は論文集ではありません。

本格的な論文なら、日本民俗学会が発行する、ちゃんとした冊子があります。

僕は学者ではなくZINE作家です。「これが俺の民俗学だ!」「これが俺の大発見だ!」「これが俺の斬新な説だ!」と学者のまねごとをしても、学会の中で持論を様々な異論と戦わせて切磋琢磨している学者にはかないません。

ですが、「よりわかりやすく、より面白く、より奥深く」、という観点なら、学者よりも僕のようなZINE作家の方が得意なのではないか、そう考えています。

「民俗学は好きですか?」は新たな研究成果を発表する場というよりも、いまある民俗学を、これから民俗学に触れていこうとする人たちに向けて、よりわかりやすく、より面白く、より奥深く伝えていくメディアを目指しています。

民俗学を様々な切り口からわかりやすく紐解き、その面白さ、そして奥深さを伝えるZINEを目指しています。

これから民俗学を学んでいこうと思っている人にとって、このZINEがその扉となれるのであれば、本望です。


さて、そんな「民俗学は好きですか?」は基本的に、僕が直接販売する、という形をとっています。どこに行けば僕に会えるかは、随時SNSをご確認ください。

SNSへのリンクはこちら。

ただ、出没場所はどうしても首都圏に限られてしまうので、「そんなところまで行けないよ」という方のためにネットショップを用意しております。

ノンバズル企画のネットショップ

「民俗学は好きですか?」のバックナンバー

各号の特集記事を無料公開しております。

創刊号 特集記事「ところで、民俗学って何?」(2019年夏発刊)

Vol.2 特集記事「柳田國男 ~民俗学を黎明(プロデュース)した男~」(2020年冬発刊)


来たれ、民俗学を究めんとする同志よ!

集え、フォークロアの御旗のもとに!

「民俗学は好きですか?」では、民俗学に熱い何かを持つキミの参加をいつでも待っている!

論文、エッセイ、小説、イラスト、マンガ、写真……。A5の紙で表現できることなら、どんな形式でも構わない! 条件はただ一つ、「民俗学であること」!

参加の意思を持つ同志は、コメント欄に書くなり、daikumilk@yahoo.co.jpにメールを送るなりして、その意思を表明してくれ!

キミの参加を待っている!

ZINEとは?

ノンバズル企画では、ZINEを作っています。

……お酒を造っているわけではありません(笑)。

ZINEとは「MAGAZINE」の「ZINE」。個人が発行しているお手製の小冊子、すなわち「同人誌」を指します。

ZINEは19世紀末に生まれ、20世紀、特に90年代のアメリカ西海岸でブームを迎えたと言われています。

日本でも、明治時代には文学の同人誌が多くつくられ、文壇になお残す文豪も、こういった同人誌に執筆していました。

ところが、今の日本で同人誌というと、アニメやマンガの二次創作が主流なので、「同人誌作ってます」って言うと、もれなく「何のアニメの?」という質問が帰ってきます。

アニメやマンガの二次創作、いわゆる「薄い本」と区別するために、日本ではあえて「ZINE」という、ちょっとおしゃれな言い方を使っています。

アニメやマンガでないとすれば、じゃあ、ZINEは何が書かれているのかというと、

……何でもいいんです。

自分の好きなこと、自分の過去の話、自分の夢の話、イラスト、写真、小説、何でもいいんです。

もちろん、アニメやマンガの話でも。それこそ、何でもありなのです。

ZINEの魅力

①個人が発行している

ZINEは大きな出版社ではなく、個人が発行しています。そのため、書き手の個性があふれた出版物です。

その人の趣味や経験、アート作品がZINEの中に詰まっています。

そして、出版物を一つ作るというのは大変な手間です。その手間をかけてでも作りたいものがあったという、情熱がZINEにはつまっているのです。

そのため、ZINEを読むという行為は、あたかもその人の個性をのぞき見しているかのような、不思議な感覚に陥るのです。

②低予算・低価格

ZINEは基本的に安価なものです。個人が発行しているものなので、予算は限られますし、フリーペーパーのように広告を乗っけて広告費をとるものでもありません。

個人が低予算で作るものなので、どうしても、本屋に流通するような雑誌のようなクオリティには届きません。

でも、それがいいんです。デザイン、写真、文体、それらがどこか素人っぽい。素人ながらも精いっぱい、情熱をもって作ったZINE。そ素人臭さが実はZINEの魅力の一つなのです。

③少部数発行

ZINEは普通の本屋には流通していません。

そもそも、「普通の本屋」に流通している本は、「取次」と呼ばれる業者を経由しています。取次では、なかなかZINEのような個人、それも素人が作ったものは扱ってくれません。

さらに、ZINEは個人が作っているものなので、作業的にも、予算的にも、そんなに大量には作れません。

ZINEは、基本的には少部数発行です。

だからこそ、作り手と読み手がダイレクトにつながれるのです。

「だれか読んでくれるかな?」と不安を抱えながらも、情熱をこめてZINEを作った人がいる。一方で、「だれが書いたんだろう?」とそのZINEを手に取り、その情熱を受け取る人がいる。

名前も顔も知らない人同士が、ZINEを通じて繋がる瞬間、それは、ネットを介して大量に拡散するコンテンツを通しての交流とは、また少し違うものなのです。