手書きにまつわるあれやこれや

「民俗学は好きですか?」vol.6が完成し、秋の文学フリマも終わり、12月に入ってからは本格的にvol.7の制作を始めました。

vol.7はどんな企画でいこうかしら、とさっそくノートを広げ、あれこれ書き連ねてます。

そう、僕はこういったアイデアを書き留めるとき、必ず「手書きのノート」を使ってるんです。

「最近、全然文字を書かなくなった」なんて話をよく聞くけれど、僕は今でもバリバリ手書きをしてますね。

どうして、手書きのノートにこだわるのか。

理由は一つです。

手書きのノートは、乱雑に扱っても、中のデータがなくならない!

デジタルは、ちょっとした衝撃ですぐデータがとびます。

ぶつけてもダメだし、落っことしてもダメだし、踏んづけてもダメ。

わがままだなぁ、もう。デリケートなんだから。

その点、手書きのノートは頑丈です。ゾウが踏んでも壊れません、たぶん。

この手書きのノートは、基本、外には出しません。他人に送って読ませることもしません。だから、手書きでいいんです。

これが、外とやり取りするような文書の場合は、デジタルの方がいい。一瞬で送れますからね。

ところが、お役所になんかの書類を届けてください、みたいな場合、ほとんどが紙の書類。最近、ようやくe-taxが出てきた程度。数年前にお役所とやり取りした時は「では、紙の書類を郵送してください」でした。

あきれたのが、役所のサイトに「申込用紙フォーマット」みたいなのがあって、「こちらを印刷して郵送してください」。

……なぜ、一度印刷させる? そこの画面に直接書き込める仕様にすればいいでしょ? e-taxはサイトに直接入力してるぞ。

印刷するだけでもひと手間めんどくさいうえに、書き損じをしようものなら、もう一度初めからやり直し。デジタルならバックスペースキー一押しで解決なのに。

そして郵送。封筒に入れて、あて名を書いて、切手を貼って、ポストに入れて。近場なら一日あれば届くだろうけど、土日を挟んだらもっとかかります。

デジタル送信なら、秒です。地球の裏側だろうが、秒です。

そうやって郵送した書類に何か確認したいことがあったのか、お役所から電話がかかってくることがあります。

ところが、電話に気づけず、携帯電話を見たら着信履歴があって、あら大変とかけなおすんですね。

すると、担当者がいまいないので、と言われる。何時に戻りますかねと聞いても、こちらから後で折り返すので、と言われて仕方がないから電話を切る。

するとまた、電話に出れないようなときに限って電話が来る。

着信履歴を見てあら大変とかけなおすと、ただいま担当者がいませんと言われ……。

……メールでよこせや!

電話というのは、「こちらの電話に出れる時間」と、「相手の電話に出れる時間」が奇跡的に合致した時にだけ通じる、「奇跡の通信手段」だ! 奇跡を信じて何度もかけてくるんじゃない!

というわけで、手書きかデジタルか、要は使い分けが大事だよ、という話だったんですか?

ちなみに、年末になりましたが、私は年賀状に関しては、手書きだろうと宛名印刷だろうと一切やらない主義です。LINEとかSNSとかでもこの手の挨拶は一切やらない主義です。たかだか日付が変わったぐらいで、おめでたいことなんて何も起きてないからです。

政治に興味があるヤツがえらいのか?

選挙が終わりました。衆議院選挙の話です。

選挙期間中、あちらこちらで「選挙に行こう!」「投票しよう!」と、もううるさいったりゃありゃしない。

どうしてこうもしつこくしつこく言うんですかね。

だって、人ってしつこく言われるほど、反発したくなるものじゃないですか。

「勉強しなさい!」「うっせーな! 今やろうとしてたのに、やる気なくなったんだけど!」という、アレですよ。

人はしつこく言われれば言われるほど、反発したくなるものなんですよ。でないと、「うっせぇわ」なんて曲、流行ったりしません。

なかには「投票しろ!」などと言う、もはや脅迫じゃないかという物言いのポスターもありました。そういう高圧的な言い方をしたら、むしろ足が遠のくのではないかと、なんで考えない?

しつこく言いすぎると逆効果。じゃあ、どうしたら投票率が上がるのか。

……行きたくないものはムリしていかなくていいんじゃないかな。この国には「自由」があるんだから。

そもそもの話、他人を自分の思い通りに動かそう、という発想自体が、ちょっとズレてると思います。たとえそこに、選挙とか投票とか政治のような大義名分があったとしてもね。

選挙期間中、これまたよく聞いた言葉が「政治に関心を持とう」。

……政治に関心を持つ奴がそんなに偉いのか。

政治に関心あるやつがやってることって、右も左も口汚い罵りあいと貶めあいばっかりじゃないですか。「#国会中継」みたいなツイッターなんて、ほんとに子供に見せられるようなものじゃない。

はっきり言って、人として、「下品」なんですよ。どんなに立派なことを言っていても、その言い方や振る舞いは、「下品」なんです。

人は話の内容よりも、その話し方や立ち振る舞いに品があるかどうかを重視するんです。

たとえば、街頭演説している男がいて、とても立派な主張をしていたとしましょう。

でも、その男が全裸でパンツすら履かずに演説をしていたとしたら? 演説の内容がどんなに立派なものだったとしても、誰一人耳を傾ける者はいないはず。なぜなら、「下品」だからです。

若者に政治に関心を持ってもらいたかったら、政治に憧れを持ってもらえばいいんです。憧れの力は強いです。ヒーローに憧れて変身ポーズをまねし、サッカー選手に憧れてサッカー部に入り、ロックスターに憧れて歌い方やファッションをまねする。いくつになっても、人は憧れで動きます。

ところが、「政治に関心ある大人」に若者は憧れない。なぜなら、彼らは「下品」だからです。

「下品」なヤツには憧れないし、「下品」なヤツとは関わりたくない。人として、当然の発想です。

そして、「下品」なヤツが、「下品」なくせに「俺は政治に関心があるから偉いんだ」と言わんばかりに「投票しろ!」などと言う。

人間が見えていないんだなぁ。「人間とは何か」がわかっていない。

しつこく言い続けたら、人間はどう思うか。

高圧的な言い方をされたら、人間はどう動くか。

罵りあいを見せられたら、人間はどう動くか。

「下品」な人間が、周りからどう見えているか。

だから僕は、「政治に関心を持て」とは言いません。「人間に関心を持て」と言う。「人間とは何ぞや」と問い続けろ、と言う。

人間に関心を持つとはどういうことか。もちろん、生の人間と触れ合うのが一番いいけど、優れた文学や、歌の歌詞、芸術、歴史や文化に触れることでも人間は学べます。他人が苦手な人でも、自分の内面と向き合う、と言う学び方もあります。

政治に関心を持つ前に、まずは人間に関心を持とう。むしろ、人間に関心がないのに、何を勘違いしたのか偉そうに政治に関心を持つヤツ、これが一番めんどくさいんです。

夢の結実点はどこだ?

電車の中で映像の広告が見れるようになったのはいつからでしったっけ? 僕が学生の頃にはまだなかったように思うから、ここ数年のような気もしますけど、いつしかすっかり当たり前のものになってました。

電車に乗りながら、ぼんやりとCMを見てたんです。どうやら、大手の予備校のCMみたいです。

そのCMは、虫が好きな女の子が主人公で、「女の子なのに虫が好きなんて変なのー!」とからかわれがらも、家族の励ましもあって、好きなものを好きなまま、成長していきます。イイハナシダナー。

やがて女の子は大人になって虫の研究者となり、なんか顕微鏡を見てたら大発見したらしく、「なにかの生物学賞」を日本人で初めて受賞するのです(あ、この話はCMの話で、フィクションです)。いやぁ、「なにかを好きだ」ということの原動力は素晴らしい! イイハナシダ……。

……「好き」の結実点は、「成功」や「栄光」でいいの?

……なにかを「好き」って気持ちは、そういった形で報われないといけないの?

じゃあ、虫が好きだけど研究者にはならずにこれといった大発見もせずに、でも週末にはカブトムシを探して森に向かうような大人は、好きなもので成功したわけじゃないから、報われてないのか?

そもそも、「好き」が報われるって何だ?

「努力」なら、そりゃ、報われてなんぼですよ。「負けちゃったけど惜しかったね」でいいやと思って努力する人はいないわけです。報われてなんぼです。

でも、「好き」はまた違うでしょう?  報われたくて努力する人はいるけど、報われたくて好きになったわけじゃないじゃん。

じゃあ、「好き」の結実点ってどこだろうと思ったら、それって「好きであり続けること」なんじゃないか、と思うんです。

好きで好きで始めたことでも、ずっとやり続けてたら、どこかでちょっとキライになってしまうタイミングってものがあります。

好きでやってるんだけど、努力しても結果が伴わず、報われなかったとき……。

それでもやっぱり好きでいられるか?

だって、「好きだったものが、キライになる」ってこんな悲しいことはないでしょう? それを好きだった日々を自分で否定しなくちゃいけないなんて。

だからやっぱり、「好き」の結実点は「今も好き」「ずっと好き」「たとえ報われなくても、好き」なんです。

ドリカムも歌ってるでしょ。「報われなくても、結ばれなくても、あなたはたった一人の運命の人 あああ~♪」と。

だから、あのCMのオチは、「決して思い通りの人生じゃないけど、ふと道端で虫を見かけて、やっぱり虫が好きで、ついつい微笑んじゃう」とか、そんな感じがいいと思うのです。

……ただね、これ、残念なことに、残念なことに?予備校のCMなんですよ。「みんな、大学行こうぜ!」って言わなければいけないんです。

まかり間違っても、「虫が好きすぎて、大学を中退して、虫取り網片手にアフリカへと向かう」みたいなオチであっちゃならないんです。クライアントが許しません。クライアントが報われません。

……CMって、難しい!

図書館を作りたい

図書館を作りたいなぁ、と思ってから半年くらいたっただろうか。

進捗状況はどうだというと、残念ながらたいして進んでない。

図書館の「館」、つまり建物もないんだけれど、なによりも圧倒的に「図書」、つまり本が足りない。

いくら立派な建物を用意したところで、本がなければそこは図書館とは呼べないのだ。そこに「図書」がなければ、「館」は空虚な箱なのさ。

図書館の構成要素で何よりも重要なのは本なのである。

じゃあその本を集めればいいじゃないか、という話なのだけれど、「これぞ!」という本もそうそうない。

基本的に僕はケチなので、「なんでもいいから片っ端から買ってくる」ということはできない。どうしても財布のひもが緩まないのだ。

そんな僕でも、古本屋で「これは掘り出し物だ!」と思った本を見つけると、財布のひもも緩む。

この前も、「悪魔がつくった世界史」だなんて物騒な本を買ってしまった。本棚を見ると呪術の本とか錬金術の本とかオカルト本とかクトゥルフ神話とか、なんだか不吉そうな本が一角を占めている。

こういう本だとするりと財布のひもが緩むんだけどなぁ。

そして、ふと思う。

図書館を作るには、まんべんなくいろんなジャンルの本をそろえねばならない、と最初は思ってたんだけど、必ずしもそうじゃないかもしれない。

むしろ、ジャンルに偏りのある図書館があったっていいんじゃないか。

思えば、まんべんなくいろんな本が読みたいんだったら、公立の図書館に行けばいいのだ。

そうではない、マニアックな蔵書の方が、私設図書館としては面白いかもしれない。

この前、アートコレクターの人が書いた本を読んだのだけれど、どうやら「集める」というのもまた一つの創造的な行為らしい。

コレクターは、自分で何かを生み出すわけじゃない。他人がつくったものをせっせと集めてるだけだ。

集めてるだけなんだけど、その集め方にもその人のクセというものが現れて、それもまた一つのアート足りえるのだ。

たとえば、何かのテーマに沿って作られたプレイリストなんかがそうだろう。楽曲自体は人のものだし、自分で演奏してるわけじゃないんだけれど、その集め方にマニアックなこだわりがあったりすると、プレイリストもまた一つの作品となるのだ。

というわけで、まんべんなくいろんなジャンルの本を集めることはあきらめて、僕の個性がにじみ出たコレクションを作ろう、ということになった。

きっと、歴史・民俗関連と、おばけ・オカルト関連のジャンルに大きく偏った図書館ができるだろう。でも、「おばけの本の図書館」とか面白いじゃないかと、ちょっとワクワクしている。

大人に憧れない

どうにも、僕には大人に対する憧れというものがないようだ。

たとえば、子供には禁じられているけど、大人には許されるものがある。お酒とか、車とか、煙草とか。

大人になった今にして思うと、そういったものに全く憧れがない。子供のころからそうだし、大人になってからもそうだ。

車を欲しいと思ったこともなければ、免許を取りたい、運転してみたいと思ったことすらない。

「大人になったらお酒を飲んでみたい」とか、「一度は煙草を吸ってみたい」とか、そんなこと、子供のころから一度も思ったことがない。

だって、子供の頃って、そんなものなくても楽しかったじゃない。

車なんてなくても、自転車でどこへでも行けたし、お酒もたばこもなくても、コーラとポテチがあれば、それだけでテンション爆アガリ。

そこにどうして、「大人になったらあれをやってみたい」をプラスするのかが、僕にはよくわからない。

僕は「大人になったらあれをやってみたい」よりも、「子供の頃に楽しかったことを、大人になっても続けたい」という想いの方が強いみたいだ。「子供の頃にやってたこと」で十分満足だから、「大人になったらあれをやりたい」というのが、ない。

たとえば、26歳の時に地球一周をしたけれど、「大人になったら地球一周をしたい」なんて思ったことは、一度もない。

むしろ、子供のころからワンピースが大好きで、地球一周の船旅は明らかにその延長である。

今は民俗学のZINEをせっせと作っているけれど、子供のころから妖怪マニアだったから、やっぱりその延長線上でしかない。

「大人になったらZINEを作りたいなぁ」なんて、思ったことない。そもそも、ZINEなんて単語、30歳になって初めて知った。

今まで夢中でやって来たことや、いま夢中でやってること、どれもこれも、子供のころからの遊びの延長線ばっかりだ。

たぶん僕は、「子供の頃の遊びを、大人になっても恥ずかしげもなくするには、どうすればいいか」にアタマを使っているのだろう。

さて、「大人になったらこれがしたいなぁ」というのは全くなかったんだけど、25歳くらいから「こんなおじさんになりたいなぁ」とは考えるようになった。

ちなみに、ここで言うおじさんとは40歳以上を想定している。

というのも、「こんなおじさんになりたいなぁ」とは具体的には「このおじさんみたいになりたいなぁ」という、要は「憧れの人」がいる形で、そのおじさんたちが軒並み40歳以上だからである。

そして、「こんなおじさんになりたい」とは、生き方の問題である。「あのおじさんみたいな生き方、いいなぁ」と憧れるわけだ。

でも、そうやって僕が憧れるおじさんたちは、やっぱり「おじさんなのに子供みたいに遊んでる人」ばっかりな気もする。

はたして人は、どこまで子供っぽく生きられるのだろうね。

オリンピックがつまらない

初めてここで、東京五輪の話を書く。

僕はこの手のイベントが苦手だ。大嫌いだ。

紅白歌合戦とか、24時間テレビとか、オリンピックとか、本当に苦手なのだ。

紅白や24時間テレビは、その時間だけテレビをつけない、そのチャンネルに合わせない、その日一日やり過ごす、これでなんとか事なきを得る。

ところがオリンピックは連日やっているうえ、期間も長い。ニュースにもなる。全然違う番組を見てても、話題に上る。

目をそらしたくても、視界に入ってくるのだ。これが一番厄介だ。

おまけに今回は、自分の家のわりと近くで行われているというのだ。何かの嫌がらせだろうか。心の底から思う「よそでやってくれ」と。

いっそ国外逃亡を、と考えても、オリンピックは世界規模の大会なのだ。地球の裏側まで行ったって逃げ場がない。

2021年はコロナ禍だというのに、オリンピックをやるという。逃げ場はない、と言うか、コロナ禍なので、外国どころか他県に逃げることもできない。万策尽きた。押し入れにひきこもろう。そのための押し入れをまず買ってこよう。

ところが、開催直前になり、組織委員会にまつわるスキャンダルが次々と明るみになり、ネットは大荒れである。

開会式前日に演出の担当者が辞任。それも、過去に倫理的に問題のある発言をしていたという理由で、だ。そしてネットは大荒れ。

これは面白いことになって来たぞ、とワクワクする僕。

いや、面白い、なんてものではない。

僕の見たかったオリンピックとは、まさにこれではないか!

いやいや、これはオリンピックそのものではなく、完全な場外乱闘なのであるが、それでも「僕が見たかったものはこれだ!」という想いを禁じ得ないのだ。

「倫理観にかける」というこの上なく醜い理由でトラブルを起こす組織委員会。

いかに相手に落ち度があるといえど、ここぞとばかりに攻撃性をむき出しにして責め立てる人々。

まさに、人間の醜さのモツ鍋煮込みである。

しかし、一番醜いのは、その様子を嬉々として見ているこの僕なのである。

あらゆる人間の醜さが露呈し、さらに、それを喜んで見ている自分が一番醜いことに気づかされる。素晴らしいではないか。まさに極上のアートであり、エンターティメントだ。これこそ僕の見たかったオリンピックである。

そして気づく。オリンピックや紅白、24時間テレビがどうして好きになれないのか。

決定的に、「背徳感」にかけているからだ。

「愛と希望を表現しています」みたいなよくわからない演出、感動を過剰に煽る物語、「さあ、笑ってください」と言わんばかりに差しはさまれる当たり障りのない寸劇、否定的な言葉が一切許されないような空気。愛とか希望とか夢とか感動とか平和とか、並べられた美辞麗句。

すべてが癇に障る。

そこには決定的に、背徳感が欠けているのだ。

すなわち、人間の醜さとか、愚かさとか、傲慢さとか、いやらしさとか、どす黒さとか。

美徳があって、背徳もある。それが人間だ。人は美徳を愛し、美徳を目指し、美徳を重んじる。それと同じくらい、人は背徳に惹かれるのだ。

その背徳をないもののように扱い、美徳だけを並べ立てれば、そこに映っているのは人間じゃない。そこに人間の魅力などない。

ロボットの表情を人間に近づけるほど不気味になるという現象を「不気味の谷」と言うが、背徳を排して美徳だけを並べたテレビやイベントは、この不気味の谷のどん底に落っこちてしまったように僕には見えるのだ。無理して笑っているようにしか見えない。

そういったものを見て感動するというのが、僕はまったく理解できない。

マルセル・デュシャンがただの便器に「泉」という名前を付けて展覧会に出品しようとした理由が、ちょっとわかる気がした。汚いものを排除してキレイなものだけを並べる、不気味の谷のどん底祭りは、まるでトイレのない美術館である。

トイレのない美術館なんておもしろくない。アーティストだって人間であり、オシッコをするのだ。だったら、展示室のど真ん中にトイレがあったっていいではないか。いやむしろ、トイレあっての美術ではないか。

日本の文学なんて、背徳を真正面から描いたものばっかりだ。罪を犯してでも生きる人間を描いた芥川の「羅生門」、親友を出し抜き自殺に追い詰めた男の苦悩を描く漱石の「こころ」、太宰の歪みがにじみ出た「人間失格」、そして三島由紀夫の「金閣寺」……。

このような文学は、ただ人の醜さを見せているわけではない。ひたすらに人間を醜く描き、貶めているのではない。

「このように、人間とは醜い存在なんだけど、それを知ったうえでおまえはどう生きる?」という問いかけをぶつけられているのだ。だからこそ、人は強く引き付けられる。

僕はプロレスが好きだ。大好きだ。

プロレスを見ていてたまらない瞬間がある。

メディアの取材の前ではさわやかで礼儀正しかったレスラーが、相手の攻撃をもろに受け、

「てめぇ、ぶっ殺したる!」

という目に変わるあの瞬間だ。

その時、倫理観は死ぬ。だけど、リングという場所の上で闘争本能をむき出しにする彼を、倫理観に欠けると罰することなどできない。そこに善も悪も超越した、剥き出しの人間の存在そのものがあるだけなのだ。

醜くもあり、美しい。

弱いからこそ、強い。

正しさの中に、悪が潜む。

人間とは本質的に矛盾をはらむ存在であり、その矛盾こそが人間の真の魅力である。金ピカかのメダルなんかより、よっぽど尊いものだ。

そういった矛盾から人間を切り離すような演出をすれば、それは人間、オリンピックの場合ではアスリートを魅力から切り離し、単なる不気味な偶像に落とし込むことでしかない。

肉体美に神秘を求める古代ギリシャならそれでもいいんだろうけど、僕は古代ギリシャ人ではないのだ。

栄光や感動とか希望とか、そんなものはいらない。その背後に潜む狂気とか攻撃性とか、そういうものを見たいのだ。いや、そういった人の醜さを正面から描き、乗り越えた時に始めて感動とか希望とかが生まれるのだ。

オリンピックの背徳感を。そんなに難しいことじゃない。たとえばそう、聖火台を思い切ってトイレの形にして、「泉」って名前を付けてみる、とか。

アニメのタイトルは内容がわからないくらいがいい

7月に入って、また新しいアニメが始まった。

たぶん、この「新しいアニメのチェックの仕方」だけでもアニメオタクごとにいろんなやり方がある。

世の中には、1話目だけは片っ端から見る、という殊勝なオタクもいるそうだ。

僕はと言うと、前情報を一切入れない。全くの先入観なしで見たいからだ。

新しいクールが始まったら、テレビの番組表機能を使って、TOKYO-MXの「その日の新番組」を、タイトルだけチェックする。タイトルだけだから、どんな絵だとか、どんな設定のお話だとか、どんな声優さんが出てるとか、どんな前評判だとか、そういうのは一切見ない。

そして、タイトルで乗り気になれないアニメは、もう見ない。

ここが僕のこだわりである。「タイトルにその作品のすべてが凝縮されている」

だから、タイトルにセンスを感じないアニメは、見ない。

そんな僕が思うベスト・オブ・タイトルは、アニメではなく、太宰治の小説「人間失格」だ。

わずか漢字四文字。いたって簡潔。すっきりしている。

文字数が少ないだけでなく、語感もいい。

それでいてインパクト抜群。

そして、このたった四文字のタイトルは、小説の内容を的確に表している。

ところが、なぜ「人間失格」なのかは、最後まで読まないとわからない。

短く簡潔、語感がいい、インパクトがある、内容にあっている、でも最後まで読まないとわからない。この5つを抑えたベストタイトルである。

さて、アニメだとベストタイトルはどれだろう、とあれこれ考えてみた。

アニメだと一番好きなタイトルは、「プリンセス・プリンシパル」だ。もちろん、作品としても大好きだ。

「人間失格」に比べると、長いタイトルだ。11文字もある。

だけど、それを感じさせないほど語感がいい。プリンプリンと韻を踏んでいるので言いやすい。

そして、アニメの内容にちゃんと合っている。このアニメは「王女」、つまりプリンセスが主要キャラクターなのだ。

そして、アニメの雰囲気にもあっているのだ。19世紀ぐらいのロンドンが舞台で、「プリンシパル」という単語と妙に合う。

そう、この「雰囲気にあってる」というのが結構大事だ。

タイトルを見ただけじゃ、どんなアニメなのかわからない。でも、なんとなく雰囲気は伝わる。

アニメの雰囲気に合っていると、内容を知った後でも「やっぱりいいタイトルだな」と思える。

そういう意味では、「ドロヘドロ」もなかなか好きなタイトルだ。

漫画原作のアニメなんだけど、タイトルだけじゃ、どんなアニメなのか、タイトルがどんな意味なのかわからない。

そして、アニメを見たあとでも、やっぱりタイトルの意味が分からない(笑)。泥もヘドロも出てこないんよ。

ただ、アニメの雰囲気にはメチャクチャマッチしたタイトルなんよ。「ドロヘドロ」なんよ、あのアニメ。意味わかんないけど。

毎回のように開始直後にテロップで「残酷な描写があることをご了承下さい」と出るのだけれど、直後に主人公がタクシー代を踏み倒すために運転手を殺害するシーンがあって、「主人公が残酷なんかい!」とテレビの前でツッコミを入れた。残酷なシーンと言っても、普通、敵がやることでしょ。

開始0秒で主要キャラの腕が血しぶきと共に切り取られ、数秒してから「残酷な描写が」とテロップが出たこともある。テロップがあと3秒遅かった。

シュールだけど面白いアニメなのでぜひ見てほしい、と思うのだけれど、今の説明で見たいと思う人はいるのだろうか。タイトルだけでなく、説明にもセンスが必要である。

そんなドロヘドロを描いた林田先生の最新作のタイトルは「大ダーク」である。小学生がつけそうなウソみたいなタイトルが逆に面白い。

せつないアニメが好き

いろいろアニメを見て気づいたのだけれど、どうやら僕は「せつないアニメ」が大好きみたいだ。

刀使ノ巫女、サクラクエスト、プリンセス・プリンシパル、宇宙よりも遠い場所、ラブライブサンシャイン、VIVY……、何でこういうアニメが好きなんですか、と聞かれたら、全部「せつないアニメ」なのだ。

キャラクターの心情描写が細やかで、それでいてすべてを説明しすぎない。描写が雑だとダメだけども、言葉で説明しすぎてもいけない、そんなギリギリのラインを攻めてくるようなアニメ。

最終回もハッピーエンドなんだけど、なんだかさみしさが残る、やっぱりギリギリのラインを攻めてくる。

毎シーズンごとにいろんなアニメが生まれては消えていき、大ヒットしたものもあれば、大コケしたものもあるけれど、絶妙にせつないアニメというのはそうそうない。そこまで大ヒットはしてないんだけど、でもせつなくて、あまり話題にはなってないけど、大コケせずに評価も高い、そういうアニメが好きでたまらない。そういったアニメは大ヒットしなくても、何らかの形で続編が作られたりする。

でもまあ、そういったアニメはきれいな形で完結することも多くて、続編が作りづらかったりもするんだけどね。

僕としては、キャラの心情をしっかりと描いて、せつない物語であるのならば、世界観は全然気にしない。異世界モノでも、SFモノでも、学園モノでも、何でもいい。

というか、そもそも「アニメの世界観」というやつに、何の興味もない。

民俗学なんぞやっているから、そういう世界観のアニメが好きなのかと思いきや、全くそんなことはない。

たとえば、「このアニメは民俗学の知識が反映されていて……」とか、「このミステリーは民俗学的に考察すると深みが……」とか、「宮崎駿は民俗学にも精通してて……」とか言われても、「ふーん、そうですかぁ」としか思わない。それで見てみようとは全く思わない。

あえて世界観で選ぶなら、民俗学ホラーとか、民俗学ミステリーとかよりも、スチームパンクの方が好きだ。

でも基本は、世界観とか設定とか、そんなことはどうでもいいのだ。ストーリーがせつなくて、キャラの描写がリアルなら、「舞台は現代の東京」で全然かまわない。富山の田舎でも、静岡の沼津も、南極でも19世紀のロンドンでも2060年でもどこでもいい。

あと、「伏線がちりばめられていて……」とか「大どんでん返しが……」とか、そういうのも心底どうでもいい。単調でありきたりなストーリーでもいいので、そんなことよりもストーリーがせつなくて、キャラの描写がリアルであればいい。「富山の田舎で町おこし」「西東京のアニメ会社で仕事に忙殺」みたいな地味なお話で全然かまわない。

逆に、僕がアニメの世界観とか伏線とか展開とかを誉めだすのは、「せつなさ」の部分ではすでにクリアしている時である。「このアニメはせつなくてね、その上世界観が……」「キャラの描写がリアルで、その上グラフィックが……」と、やっぱり「せつなさ」がまずあってこその評価なのだ。

設定とかグラフィックとかにどれだけ凝っても、リアルな人間が描けていないのであれば、それはアニメではなくただの設定資料集だ、ぐらいに思っている。

どれほど世界観がぶっ飛んでようが、設定が複雑だろうが、そこに描かれている人間はどうしようもなくリアルじゃないとイヤなのだ。

心がぴょんぴょんする夜に

ワンピースが今年中に100冊になる。もちろん、洋服の方ではない、マンガの方だ。

ワンピが100冊になるということは、我が家の蔵書がワンピ1タイトルで100冊になってしまうということだ。「こち亀」を持ってなくて本当によかった。床が抜けかねない。

マンガではワンピースハンターハンター、この2タイトルは新刊が出たら必ず買っている。どちらも20年くらい前に連載が始まった。完結したマンガで全巻持っているのは、鋼の錬金術師スラムダンクだ。

最近だと、風都探偵も新刊が出たら買っている。平成ライダーで一番好きな「仮面ライダーW」の続編だ。

ブラックラグーンは新刊が出たら買ってるけど、新刊が出ないので、買ってない。

まあ、僕のマンガ事情は、そんなもんだ。実はあんまり、マンガを読んでない。

財布のひもが恐ろしく硬いうえ、飽きるのが早いのである。

あと、マンガに関してはマイナーなものを発掘しようという心意気は一切ない。それどころか、新しものを発掘しようという気持ちすらない。だから「マンガを無料で読めるサイト」というのを覗いたことはない。そこまでしてマンガを読みたいとは思わない。

アニメはよく見るけど、原作に手を伸ばすことはごくごくまれである。だってお金がかかるうえ、本格的に原作を買い集めようと思うと、本棚のスペースを奪われるのだ。進撃の巨人が30巻くらいで、鬼滅の刃が20巻ぐらいだったか。冗談じゃないぞ、というのが率直な感想。

そんな僕でも、寝る前に必ず読むマンガがある。

それが「ご注文はうさぎですか?」、通称「ごちうさ」

きらら系日常ゆるかわ4コマ漫画の金字塔で、3回にわたりアニメ化されている、人気作。あと、水瀬いのりが出ているアニメにハズレはない。

アニメの人気もすさまじいのだけど、僕は原作から入ったタイプのファンである。

このごちうさを必ず寝る前に読んでいる。

するとすっきり眠れるのだからあら不思議。

きっかけは、どうしても眠れない夜がたまにあり、何とかならないかと思ったことだ。

ネットで調べてみると、「無理に寝ようとしないで、思い切ってマンガでも読んでみたらいかがでしょう」なんてことが書いてある。

なので眠れない夜は無理に寝ようとせずに漫画を読むことにした。

家にあるマンガをいろいろ試してみたのだけど、そのうち、あることに気づいたのだ。

ごちうさを読んだ後は、かなりの高確率ですぐ眠れてるということに。

たぶん、ワンピースのような熱い少年漫画だと、興奮してかえって寝れなくなってしまうのだろう。

ギャグマンガもゲラゲラ笑ったらやっぱり興奮して眠りづらい。

だけど、ごちうさはギャグマンガなんだけど「大爆笑」というよりはくすくすと笑えるゆるいギャグが続く。それでいて、ちゃんと面白い。4コマなんだけどストーリーとしても練られているし、たまに泣ける話もある。何より絵がかわいい。

だからたぶんハーブティのようなリラックス効果が高いのだろう。眠れない夜でも、ごちうさを読むとすんなりと眠れる。心がぴょんぴょんすると、人はリラックスしてよく眠れるらしい。

だったら、最初から毎晩寝る前にごちうさを読んでおけば、不眠に悩まされることなくすんなり眠れるんじゃないか?

そう思って、寝る前にごちうさを1話ずつ読んでいる。おかげで毎日ぐっすり眠れる。

友達にこの話をするたびに、「睡眠導入剤かよ」と爆笑される。爆笑すると、夜にぐっすり眠れなくなるぞ。

「裏」が好きという話

僕は「裏」という言葉が大好きだ。

たとえば、表通りよりも路地裏の方が好きだ。ネコしか歩かなさそうな路地裏の通りを見つけると、ワクワクしてしまう。そこに隠れた名店があればなおさら。

身の回りをぐるりと見てみても、「裏」が似合うようなものばかりだ。

一番の趣味は何かと聞かれたら、ラジオだ。テレビの時代が終わり、時代はyou tubeだV チューバーだといわれている中、ラジオばっかり聞いている。

ラジオというのは「裏」の放送メディアなのだ。テレビやyou tubeが何万人もの視聴者がいるのに対し、ラジオを熱心に聞くリスナーは少ない。その時間、その周波数にダイヤルを合わせれば放送していると、知っている人たちだけが聞ける路地裏の名店のようなものだ。

というわけで、you tubeなんぞはたまにしか見ない。たまにそのyou tubeで何を見ているかと言うと、アニメの番組を見ている。アニメそのものじゃない。好きなアニメの声優さんたちが出演して、そのアニメの裏話とか新情報とかを話す生配信番組だ。

そのような僕が好きになるアニメはたいてい、そこまで派手にヒットしていないものが多い。

とはいえ、大コケしたわけでもない。大コケしたアニメに「新情報」なんてない。

大ヒットはしてないけど、でもクオリティが高く、ファンを中心に根強い人気があって、何とかして新作が作られている、そう、アニメ業界の裏街道を行くようなアニメが好きなのだ。

みんなが知ってる人気アニメにはあまり興味がない。いや、おもしろいと思っても、爆発的な人気が出てしまうと妙に冷めてしまう。

そうじゃなくて、知る人知る名作、そんなアニメが見たくて、アニメの裏通りをうろうろしているわけだ。

僕がやっている民俗学だって、「裏の歴史学」なのだ。

戦国武将とか、幕末の志士とか、フランス革命とか、有名人や大事件を取り上げるのが歴史の表通りなら、「ふつうの人のふつうの暮らし」の歴史を研究する民俗学はまさに「裏の歴史学」だ。そもそも、民俗学は書物に残らない歴史を探求することが目的で生まれたのだ。書物が表通りの歴史なら、暮らしの文化や言い伝えに残された「裏の歴史」があるのである。

そういった裏の歴史を求めて、農村などを調査するのだけれど、さらにそういった農村文化の外にも、漂泊の民だの化外の民だのと呼ばれる人の文化がある。裏の歴史のさらに裏があって、裏の裏は表ではなく、より深い裏の世界となっている。

「裏」とはつまり、人の集まらない場所、人の目が向かない場所のこと。表と裏というのは、単に前か後かという話じゃない。人の目が集まるか集まらないかなのだ。

人の目が集まる場所というのはどんなところかと言うと、つまりは「密」になるような場所だ。「裏」を好むということは、そういうところを避け、人目につかない場所、人目につかないものを好むということ。

だから、そろそろ「密」を避けて「裏」が流行ってもいいんじゃないか、と思うのだけれど、流行っちゃったらそれはもう「裏」ではないような気もするし、流行ったら冷めちゃうから、はやらなくていいか。